烏天狗様との離婚条件

 ◆

 浬烏は困惑していた。欲しいものを与えたいと思う。なのに、出したら違うと言われる。どうしたら彼女の不満を拭いされるのか、全く分からない。
 彼女を人の世に戻すのはやぶさかではない。眷属の仕事は一人でできるし、自分はまだまだ現役で眷属として活躍できる。子が欲しいとも思わない。彼女が望むなら、人の世に戻してやりたいと思う。
 だが、そのためには子を成さねばならない。神は絶対なのだ。しかし、彼女を組み敷くのは間違いなのだと、昨夜の彼女が物語っている。
「あの――」
 華衣が不意に口を開いた。浬烏は彼女を見下ろした。華衣は丸窓の外を眺めていた。
「桜。どうして植えたんですか?」
 浬烏はぎょっとした。まさかそんなことを訊かれるとは思わなかった。華衣が向こうを向いていて、良かった。こんな顔を見られるのは恥ずかしい。そもそも、なぜ自分がこんなにぎょっとしたのか分からない。
「お前が好きだと言ったから」
 答えなくては不義理だと思い、浬烏は口を開いた。しかし、発言してみたら胸のあたりがむずむずとして、なんとも言えない思いがこみ上げてくる。
 何なんだ、この気持ちは。虫けらが胸中を這いまわっているような、それでいて不快ではない。むしろ喜びすら感じる、意味の分からない感情だった。
「私、そんなこと――」
「言った。お前の魂を、何度かかくりよに通わせたことがある」
 浬烏は胸の内を悟られるのがなぜだか恥ずかしくなり、平静を装った。けれど、浬烏の言葉に反応したのか、こちらを振り向いた華衣の目が見開かれる。その小さな表情の変化にも、浬烏の胸は騒いだ。居心地が悪い。けれど、離れたくない。矛盾する胸をごまかすように、浬烏は足元に視線をやった。ふと、折られた紙が目に入る。
「これはなんだ?」
 手に取ってみる。
「あ、それは!」
 華衣はそれを浬烏の手から奪った。
「すまない、大切なものだったのか」
「いえ、そういうわけでは……」
 なぜかもじもじと恥じらう華衣から、目が離せない。
「紙飛行機っていうんです。折り紙遊びの一つで」
「折り紙、か。それなら知っている」
 浬烏はパチンと指を鳴らした。村の子供が紙を折り、鳥を模したものを作っているのは見たことがある。
「あ、折り鶴!」
 机の上に出したそれを、華衣は手に取った。幾分和らいだ華衣の顔を、もっと見ていたいと思う。
「華衣はこれが好きなのか」
 浬烏はパチンと指を鳴らし、たくさんの折り鶴を机の上に出した。しかし華衣の顔は急に曇る。何を間違えたというのか。
「これは見るのが楽しいんじゃなくて、折るのが楽しいんですよ」
「折る、のか?」
「そうですよ! どうせ出すなら、折り紙出してくださいよ。真四角の、色のついた千代紙です」
 華衣が初めて自分から何かを望んでくれた。浬烏はそのことに嬉しくなり、パチンと指を鳴らす。目の前の折り鶴を消し、大量の千代紙を出した。すると華衣はさっそく桃色のそれを一枚手に取り、三角形になるように折りたたんだ。
「私もやってみて良いか?」
 浬烏は思わず千代紙に手を伸ばした。なぜだか、華衣がとても楽しいことをしている気がしたのだ。
「どうぞ」
 華衣の真似をして、浬烏は濡れ羽色の紙を三角形に折り曲げた。
 ◇

「こうか?」
「違います、こうです」
「こうするのか?」
「だから、こっちは開いて――」
 浬烏は驚くほど不器用だった。綺麗に折られた折り鶴を指パチンで出したのだから、さぞ上手に折れるだろうと思っていたのに。
 華衣は始め、浬烏が自分の真似をしていることに気づいて、ゆっくりと折り鶴を折っていた。しかし、あまりにも浬烏が頓珍漢(とんちんかん)な方向に折るので、ついには手を止めて浬烏に教えることにしたのだ。
「あーだからそうじゃないって!」
 裏面と同じことをするだけなのに、どうしてまた一から説明しなければならないのだろう。華衣は半ば呆れながらも、浬烏と共に折り鶴を折った。

 やがて完成したのは、桃色の綺麗な折り鶴と、濡れ羽色の首を下げた皺々(しわしわ)な鳥だった。
「なぜだ。……解せぬ」
 華衣は浬烏のつぶやきに、思わずぷっと噴き出した。
「これは鶴っていうよりもカラスですね」
「何? 烏はこんなに皺は寄ってない」
「そこ!?」
 なぜか浬烏はムっとする。華衣は浬烏のその顔が面白くて、肩を揺らして笑った。
「そもそも、烏というのはなぁ、」
 浬烏は指をパチンと鳴らす。すると、そこに紙と筆が現れた。筆はひとりでに動き、紙に烏を描いてゆく。まるで図鑑にあるような、美しい一羽の烏が現れた。
「こういう鳥だ」
 華衣は浬烏の折った濡れ羽色の《塊》と絵を見比べる。確かに、烏はもっと首が短く、嘴も太い。だが、皺に関しては分からなかった。それでも自信たっぷりに「これだ」という浬烏が、華衣はおかしくて仕方ない。
「ふふ、くふふ」
 お腹を抱え、肩をひたすらに揺らす。
「なにがそんなにおかしい」
「だって、カラス……ふふっ」
 すると浬烏はまた指をパチンと鳴らす。華衣の前に、まっさらな紙と墨のついた筆が現れた。
「ならば、華衣も烏を描いてみろ」
 華衣はぎょっとした。絵は勘弁してほしい。
「まさか、こんなに笑っておいて描けぬというのか?」
 子どものようにムッとする浬烏に、華衣は仕方なく筆を手に取った。紙に筆を滑らせる。が、しかし――。
「できました、カラスです」
「これが、烏だと?」
 華衣の描いた絵を見て、浬烏は目をぱちくりさせた。華衣ですら分かる。これはカラスではなく、黒くて丸い何か別のものだ。
「すみません、私、絵は壊滅的に下手なんです!」
 羞恥でいっぱいになり、けれど披露してしまっては仕方ない。華衣はなぜかカラスにこだわる浬烏に、怒られると思い身をすくめた。ぎゅっと目を閉じ、怒号に備える。しかし。
「ぷっ、あははっ!」
 降ってきた笑い声に、華衣は目を開け顔を上げた。浬烏が破顔していた。それどころか、目元に涙すら浮かべている。彼は目元を自身の長い指で拭っていた。
「そんなに笑わなくても!」
 ムッとなり、思わず言い返す。
「すまない、だが……これが、華衣の烏……くくっ」
 浬烏は相変わらず背を丸め、肩を揺らして笑っている。
「もう、ひどいっ!」
 ぷいっと顔を背ける。すると、華衣の目に先ほど浬烏が折った《黒い塊》が目に入った。二つの《黒い塊》。見ていたら、華衣も笑いがこみ上げた。
 しばらく二人で笑い合い、その笑いが収まった頃、不意に浬烏が口を開いた。
「何かを作るというのは、楽しいことだな」
 華衣はふと浬烏を見る。ふわりと柔らかく微笑んだその表情に、華衣の胸はなぜかつぶされそうなくらいきゅうっと縮んだ。すると今度は、急に顔が火照る。
 ――何で!?
 胸の痛みも火照りも制御できないまま浬烏の方を向くと、なぜか彼は目を真ん丸に見開き息を呑んでいた。そんな彼の表情に、また胸がぎゅっとなる。けれど、それは一瞬のことだった。
「すまない、長居をしすぎたようだ」
 そう言う間に、浬烏の顔は何の感情もない、いつものものになっていた。
「え?」
 華衣の聞き返した言葉は届かなかったのか、浬烏はさっと立ち上がる。それから指をパチンと鳴らし、千代紙をテーブルの端に寄せた。もう一度パチンと指を鳴らすと、そこに湯気の立つ豪華な食事が現れた。
「これを食べて、寝るといい。困ったことがあれば、この鈴を鳴らしてくれ」
 浬烏は言うと、さっさと部屋を出て行ってしまう。ぴしゃりと襖戸が閉まると、途端に華衣は寂しくなった。胸にぎゅううと、切なさが押し寄せる。
 ――あれ、私……。
 華衣は胸元に手を当てた。来ていたTシャツをぎゅっと握る。ドクドクと胸が鳴っている。
 まさか、そんなはずは。
 華衣は芽生えかけた気持ちは違うと自身に言い聞かせ、作業のように用意された夕飯を淡々と口に運んだ。
 浬烏は翌日も、華衣の部屋にやってきた。朝食を用意するとそこに座り、食べている華衣をそっと見守る。華衣は見られていることに居心地の悪さと嬉しさを同時に感じ、何とも言えない気持ちになった。
「今日もお仕事ですか?」
 食べ終えたところで、華衣は指を鳴らして食器を片す浬烏に訊ねた。
「いや、今日は眷属の仕事はない」
 浬烏は言うと、テーブルの端に寄せたままだった千代紙を手に取った。
「また、教えてくれないか?」
 浬烏に訊ねられ、華衣の胸は大きくドキリと鳴った。
「まあ、いいですけど」
 あえて、つっけんどんに答える。
「鶴は難しいから、もっと簡単なやつにしましょうか」
 華衣も千代紙を手に取った。

 一日中、二人は千代紙を折り続けた。相変わらず不器用な浬烏に教えるのは骨の折れる作業だったが、それでもこの時間が心地よいと思ってしまう。
「もうこんな時間か」
 浬烏は言うと、いつものように指を鳴らす。テーブルの上に並べらえた千代紙の作品たちを端に寄せ、夕飯を出してくれた。けれど、今日の彼は立ち上がらずに、朝と同様華衣が食べ終わるのを座ってじっと待っていた。
「明日も来てよいだろうか?」
 指を鳴らして食器を片した後、浬烏は遠慮がちに華衣に訊ねた。
 明日、かぁ。
 華衣は寂しい気持ちになる。本当は、もっと一緒にいたい。けれど、「今夜は一緒にいて欲しい」など、言えるわけもない。
「はい」
 華衣が答えると、浬烏は優しくふわりと微笑み、部屋を出て行った。
 どうしよう。私、好きになってんじゃん……。
 離婚するはずだったのに。いや、離婚するんだから。華衣は布団に横になりながら、芽生えてしまった気持ちと戦っていた。
 翌日も翌々日も、浬烏は華衣の元を訪れた。千代紙で作った作品は大量になり、テーブルに乗り切らなくなった。浬烏は指を鳴らして桐の箱を出し、その中に作品をしまうようになった。
 まるで付き合いたての恋人のように、互いに笑い合う。それだけなのに、華衣はとても満たされていた。不器用な浬烏の優しい顔を見るたびに、華衣の胸は疼いた。

 しかし、その翌日。朝食を用意した浬烏は、申し訳なさそうに華衣に告げた。
「今日は眷属の仕事で人の世に下りねばならない」
「そうですか」
 華衣は落胆して、落胆したことにぞっとした。こんなにも、自分が浬烏に焦がれているのだと気づいたのだ。
「戻ってきたら、また折り紙を教えてくれるか?」
「もちろんです」
 浬烏に優しい笑みに向けられ、華衣は即答した。
「では、また来る。何かあれば、その鈴を鳴らすんだぞ」
「はい」
 ぴしゃりと襖戸が閉まる。華衣の顔から、苦笑いが零れた。浬烏の言葉に、こんなにも一喜一憂している。
 ――こんなはずじゃ、なかったんだけどなぁ。
 華衣はテーブルの上の、銀色の鈴を手に取った。持っているだけで、浬烏と繋がっている気がする。なんとなく身に着けていたくて、華衣はそれをジーンズのポケットにそっと忍ばせた。
 ◆

「厄介な依頼だ」
 浬烏が神の御社を訪れると、すぐにそう言われた。
 神は神社に届けられた人の願いを吟味し、人の世に下りた眷属に様子を探らせ、叶えられる望みを叶えるのが仕事だ。浬烏は神の眷属として、願い乞うた人を探り、その人となりを調べ、神に報告する。どんな願いだろうと、例外があってはならない。それが、五十年に一度眷属の花嫁をもらう代わりに人間が神と交わした約束のひとつだった。
「お前に任せるべきでないのは分かっている。だが、お前しか私の眷属がいないのも事実。心して臨むように」
「は」
 浬烏はこれほど人の世に下りるのをためらったことはない。願いの主が、華衣の母だったのだ。

 それでも、仕事は仕事だ。浬烏は仕方なく人の世に下り、華衣の祖母の家を訪れた。
 人の世を探る時は、羽のある天狗の姿ではいられない。かといって、人の姿でも彼らに顔は割れている。浬烏は烏の姿になり、その家の庭の木に止まって中の様子を伺った。
「何てことしたのよ!」
 突如、華衣の伯母の声が浬烏の鼓膜をつんざいた。家の中に集まっているのは、おそらく華衣の祖母の親戚や村の人々だろう。全員の纏う装束が黒色で、亡くなった祖母の葬儀の最中なのだと、浬烏はピンときた。
 しかし、それにしてもおかしい。葬式だというのに、悲しみの顔を浮かべているのは華衣の両親だけなのだ。周りの人は皆怒りに満ちた顔で、華衣の両親を囲んでいる。
「ごめんなさい、でも、華衣がなかなか帰って来ないから……」
 華衣の母が泣きながら言う。父はその隣で、伯母に向かって土下座をしていた。
「申し訳ございません。このようなこと、本来あってはならないこと。烏天狗様に嫁いだ娘を、誇りに思うべきところです」
「口ではそんなこと言うくせに、本当はあんたも心の内はその女と同じでしょう!」
「そんなこと――」
 父が言いかけ、母がもっと泣き出す。父が母の肩に触れると、二人に向けられる視線さ一層険しさを増した。
 神の元に届けられた願いの内容は、『華衣をこちらに返して欲しい』。きっと、華衣の母親が親戚の目を盗んで、神社に願いに来たのだろう。それがバレてしまって、今このような事態になっているに違いない。
 浬烏の胸は痛んだ。
 人が眷属と結婚することは、もう何百年も昔に人間と神が決めたことだ。とはいえ、人間は力を持たない。だから、人間なら誰しも、烏天狗との婚姻を喜び、不自由なく暮らせるかくりよでの生活を望んでいると思っていた。
 しかし、違った。華衣はかくりよでの生活は不満だらけだと言った。離婚したいと神に勢いよく申し出た。華衣の両親も、彼女の帰還を心から望んでいる。
「神様が自ら華衣を返してくれるなら、村の災いも起きないって思ったんです」
 華衣の母が力なく言う。しかし、周りの目はあまりにも険しく、その光景を見ているだけで、胸が苦しい。

 華衣も、人の世に帰ることを望んでいる。ならば、私のすべきことは――。

 浬烏はある決意を胸に、そっとその場を後にした。
 ◇

 華衣は千代紙を折りながら、浬烏の帰りを待っていた。テーブルの上には、朝から折った鶴たちがたくさん並んでいる。
 もう、こんなに折ったんだ。
 華衣は、何気なしに手前にあった、薄桃色の折り鶴を手に取った。窓の外は相変わらず桜の花びらがはらはらと舞っている。手のひらに折り鶴を乗せ、桜吹雪にかざした。
 同じ色だな。
 そう思うだけで、なぜか手の上の桃色の折り鶴がかけがえのないもののように思える。浬烏が自分のために植えた桜と、同じ色というだけなのに、華衣の頬はにんまりと垂れた。
「華衣」
 浬烏の声がして、華衣は慌てて手に乗せていた折り鶴をテーブルに戻した。別の千代紙を手に取り、折っていた風を装う。
「たくさん折ったな」
 浬烏の声に、華衣は顔を上げた。
「はい。おかえりなさい。隣、どうぞ」
「ああ」
 浬烏が隣に座る。それだけで、胸が飛び跳ねそうなくらい嬉しくなる。
「なあ、華衣」
 浬烏は侘しげな顔をしながら、千代紙を手に取った。
 余りにも自分と違う態度に、華衣は彼の顔を見られなくなった。自分だけ浮かれているのが、恥ずかしい。
 だから、何でも無い風を装って返事をした。
「はい、何でしょう?」
「人の世に、戻りたいか?」