エルグリムの悪夢~転生魔王は再び世界征服を目指す~

 目を覚ますと、俺は客間のベッドに寝かされていた。

枕元に座っていたビビが起き上がる。

「ナバロ? まぁ、気がついたのね」

 彼女はうれしそうに飛び上がった。

「急いで他の皆を呼んでくるわ!」

 酷い頭痛がする。

魔力酔いを起こしたのか。

クソ。

十一年使った体でも、まだどのくらいの能力を出していいのか、その限界が分からない。

というよりも、自分の力を抑えなければならないことに、何よりもいらだちと腹立たしさを覚える。

出来るはずのことが出来ないのが、何より辛い。

ベッドから起き上がろうとして、胸から異様なむかつきがせり上がってきた。

魔法によるヘタな治療を施した痕跡が見える。

チッ、どんな術をかけやがった。

ヤブ医者どもめ。

「あら、本当に気づいたんだ。まだまだ先かと思ってたのに。以外と早かったわね」

 フィノーラだ。

ベッドに身を起こした俺を腕組みで見下ろし、大きなため息をつく。

「あんたさ、あんまり大人をナメてると、痛い目みるよ」

「そんなつもりはない。ただ時々……。自分の立場を忘れるだけだ」

「はぁ? 何よそれ」

 扉が開く。

イバンとビビが連れ立って入ってきた。

イバンはフィノーラと全く同じ格好で腕を組み、俺を見下ろす。

「子供。お前の本当の名を……うわっ」

 ビビはイバンの巨体を押しのけると、俺の手を握った。

「ね、ナバロ。ナバロは『ナバロ』っていう名前なのよね?」

「あぁ、そうだけど……」

「じゃあ、あなたはナバロなのね、ナバロなのよね」

「何が言いたい」

 イバンはビビの上からにらみつけた。

「カズの村から、お前のご両親が心配して見に来たぞ。身元を確認した」

「もう大丈夫よ。あなたのお父さまも認めたの。あなたはナバロとして、ここで魔法の修行をしていいって!」

「魔法の修行?」

 冗談じゃない。

俺に魔法を教えられるのは、俺だけだ。

「そんなもの、必要な……」

 起き上がろうとして、自分が繋がれていることに気づいた。

目には見えない、魔法の鎖だ。

ここの魔道士がかけたのか? 

かなりしっかりしている。

「なるほど。やはりそれに気づけるくらいには、魔法が使えるようだ」

「まぁ、凄いわねナバロ。あなたを診察したお医者さまが、念のためにって繋いだの。だけど分からないようにしましょうねって。それを見せられる私も辛いからって、ある程度は自由に動けるようにお願いして、あなたの体力と魔力が回復したら、すぐに……」

 フン。

この程度のもので俺を縛り付けようなんて、片腹痛い。

呪文を唱える。

それは簡単に砕け散った。

「ふざけるな。俺にこんなことをしておいて、ただで済むと思うなよ」

「その減らず口がいつまで続くのか、見物だな」

 ベッドから下りる。

床についた足の衝撃だけで、頭に響いた。

思わず膝をつく。

「どこで覚えたか知らんが、お前の唱える呪文は、自分の能力を遙かに超えて強すぎるんだ。物事には何事も、順番というものがある。お前はそれをここで学べ」

 違う。

俺の体を、クソなヤブ医者に診せたせいだ。

薬の調合も術のかけかたも、よくはない。

あぁ、確かにこうやって、無理にねじ曲げられたような体では、この館に張り巡らされた結界を破るのは、難しいかもな。

来た時とは違う、また別の種類の結界が幾重にも張り直されている。

破ろうと思えば、出来ないこともないけど……。

「おい。ナバロ聞こえてるのか?」

「は?」

「お前はここで、魔術の訓練を受けるんだ」

「チッ。そんなものは、必要ない」

 ため息をつき、顔を背けた。

体はまだ休まらないが、こんなところでのんびりしているほど、俺は暇でもない。

そんな俺を見下ろし、イバンは声を出して笑った。

胸ぐらを掴むと、グイと引き寄せる。

「まだ体が戻ってないことを、幸せに思うんだな。そうじゃなきゃ、一発ぐらいぶん殴ってやるところだ。聞きしにまさる生意気さだな。これではカズの村にいられないわけだ」

 イバンは俺を突き放すと、くるりと背を向けた。

「まぁいい。お前を預かると決めたのは、俺だ。他にも何人かの先生をつけてくれるそうだ。ビビお嬢さまに、感謝するんだな」

 扉が閉まる。

イバンが消えた瞬間、ビビは俺の手をぎゅっと握りしめた。

「ね、ナバロ。私もご一緒していいかしら。いいわよね? ね、私も魔法の勉強がしたいの」

「いい加減な冗談は、もううんざりだ」

 それを振り払い、ベッドから抜け出す。

歩くだけで頭に響く。

俺はすぐ目の前のソファに横たわった。

「まだ辛いのね。もうすぐ先生が診に来てくださるわ。ナバロが気づいたら、すぐに呼ぶように言われていたの。お使いを頼んだから、きっともうすぐよ。ね、フィノーラ」

「えぇまぁ、そうでしょうね」

「お前の体を診ている、ヤブ医者か?」

「ちゃんとしたお医者さまよ」

 何の病か興味はないが、確かにこの女から感じる命の炎は弱い。

「なぜ魔法に興味を?」

「だって、魔法が使えたら、それは素敵だと思わない?」

 真っ青な目。

この女は、魔法使いではない。

魔法石を魔力に変え、体内に取り込める体質ではない。

「処方される魔法石の粉を飲んでいても、使えるようにならないのに?」

「だけど、勉強するのは自由でしょ」

「勉強ね……」

 聞いて呆れる。

腹の立つほど平和で呑気な女だ。

フィノーラはため息をつく。

「いずれにしても、あんたはしばらくここから動けない。体力的にも社会的にもね」

「社会的?」

「監視がついたってこと」

「ねぇ! ナバロはどこかで、秘密の魔道書を見つけたのでしょう? じゃないと、こんな小さな子供が、あんな難しい呪文構文を整えられるはずがないって……」

 ビビの唐突な発言に、フィノーラは慌てた。

「ビビさま、それは秘密にしとけって!」

「あら、いいじゃない。どうせ分かることだもの。隠してこそこそ探るなんて、私は嫌い」

 俺の横たわるソファに足元に、ビビは腰を下ろした。

「みんな、その魔道書を見たがってるわ。今までにない難しいやり方だって。先生たちは、ナバロに魔法を教えるフリして、それを聞き出すつもりよ。とっても楽しみにしているわ」

 俺はため息をつく。

それはエルグリムをやっていた時にも、散々言われたセリフだ。

「それをお嬢さまが、バラしちゃダメじゃん」

「私も教えてほしい。教えて欲しいのなら、素直に頭を下げるべきではなくて?」

「聞いてどうする?」

「私も、魔法が使えるようになりたい。魔法使いとしての体質を持って生まれてこなかった人間にも、魔法が使えるようになる方法はないのかしら。それを研究したいの」

「……。そんなこと、考えたこともなかったな」

 だけどそれは、非常に面倒くさいうえに、厄介な頼み事だ。

それを叶えたとして、マトモに使える魔道士になるとも思えない。

適当に誤魔化して、利用するだけ利用したら、さっさと引き上げよう。

「分かった。いいよ。俺の秘密を教えてやろう」

「本当に!」

「信じちゃダメですよ、ビビさま!」

「あぁ。だたし、これから処方される薬は、俺が自分で調合する。魔法石をそのままくれ」

「ナバロは、そのまま食べてしまえるのよね」

「そう。それが俺の秘密。生まれ持った能力、それだけ。誰かに習ったわけでも、努力したわけでもない」

「だって、魔法石は魔法体質じゃない人にとっては、ただの石ころだもの」

 ビビの顔色が曇る。

そうだ。そうやって悔しがれ。

「呪文構文だなんて難しいことは、考えたこともないね。自分の意志を、知っている呪文の型にのせるだけ。あとは魔力の摂取量」

「それじゃ、秘密にならないじゃない」

「そうだよ。特に秘密でもない」

「……。先に診察を受けてくるわ」

 がっくりと肩を落としたビビは、静かに部屋を出て行く。

ここに残ったのは、俺とフィノーラだけになった。

彼女はため息をつくと、ドカリと向かいのソファに腰を下ろす。

「本当に秘密って、それだけ?」

「……。他になにがある」

「よっぽど恵まれた体質なのね」

 彼女の持つ魔道士特有の、深い緑の目がじっと俺を見つめる。

「あの子、体が弱いのよ。だからこの館に閉じ込められて甘やかされて、世間しらすのまま、うっとうしい性格になっちゃってるのよね。魔法使いになったところで、自由になんてなれっこないのに」

「なれるさ。なろうと思えばね。そのために俺は、村を出た」

 転生したんだ。

いつまでも、こんな扱いに甘んじるつもりはない。

もう一度、本来の自分を取り戻す。

それの何が悪い。

「子供になにが出来るの?」

「そういうお前だって、まだ若いだろう」

「十八よ。あんたよりは大人ね」

 フィノーラの緑の目は、じっと俺を見つめる。

「カズを出て、一人でどうするつもりだったの?」

 どうするも何も、やるべきことは決まっている。

まずはこの頭痛の原因となっている、ふざけた魔術を解かないと……。

フィノーラがじっと見つめる中、俺は呪文を唱えた。

ヤブ医者にかけられたおかしな術を解き、正しい流れに戻す。

全身のだるさが一気に吹き飛んだ。

「ふぅ。やっと楽になった」

「……。あんた、そうやって魔法で誤魔化してきたのね。だけど本当の体は、まだ回復してないよ。どんな魔法も、真実の姿には勝てない」

「それがやっかいなんだ」

 体力と、使える魔法のバランス。

さっさと先へ進みたいが、この体が、とにかくやっかいで仕方がない。

これからどうしたものか……。

「……。ねぇ、さっきの……。その、あんたが使った魔法なんだけど……」

 フィノーラの目が、くまなく俺を観察していた。

「あんな呪文、初めて聞いたわ。どこで覚えたのよ」

「……。どの魔法のことだよ」

「ぶっ、ぶっ倒れる直前のやつ! ……。普通出来ないから。あんなこと。広域魔法? 天候を操ろうとした? なによあれ。何がしたかったの? 一体、誰に、何を伝えたかったわけ? 世界に向かって、何を宣言しようとしたのよ。それとも、ただのバカ?」

 あの程度の魔法も見たことがないとは、聞いて呆れる。

俺が死んでから、よほど退屈な魔道士しか、この世に存在しなかったらしい。

「子供特有の、全能感ってヤツ? 自意識過剰? だけどあんたには、それを使える可能性が確かにある。体が出来上がればね。もう少し成長すれば……」

 フィノーラの視線が、じっと俺に注がれたまま離れない。

彼女は俺に、何を求めているのだろう。

「これから、どこへいくつもり?」

 それには答えない。

教えたところで、コイツらにはどうしようもない。

それでも彼女が望むというのなら、まぁちょっとくらい、教えてやってもいいか。
「……。グレティウス……」

「! ねぇ、あんたってまさか……」

 扉が開いた。

イバンが入ってくる。

「診察の時間だ。フィノーラ、席を外してくれ」

 舌打ちと共に、彼女は出て行った。

ソファに座り直した俺を、イバンは見下ろす。

「随分、楽になったようだな」

 頭に手を置くと、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。

クソッ。

とにかく俺は、こういう遠慮のない男が苦手だ!

「やめろ! 俺にそんなことをするな!」

「はは、何だよ。照れるなよ」

 バカにしてるのか? 

冗談じゃない。

こんなことをされて黙っていられるか! 

その手を振り払う。

にらみ上げたイバンの後ろで、見慣れぬ男が笑った。

「はは。元気を取り戻したのなら、何よりです。私の術が、よく効いたようだな。よかった」

 緑の目。随分と深い緑だ。

その魔道士は、持参した小箱をテーブルに置いた。

箱のなかは小さくいくつにも区切られ、様々な種類の魔法石と薬草、それらを擦り合わせる乳鉢と乳棒なんかが入っている。

「魔道士同士が顔を合わせると、ロクなことにならないからな。俺も同席させてもらうぞ」

「こんなおっさん連れてきて、どうするつもりだ」

「ほら、体をみてやろう。そのうえで、呪文の種類と魔法石の調合を整えてやる」

 男は白髪交じりの長い髪を、後ろで一つに束ねていた。

「お前がビビも診てるのか?」

「そうだよ」

「ルーベンで一番の医術者だ」

 ヤブ医者は両手を俺の肩に乗せると、視線を合わせた。

実に稚拙な呪文を唱え始める。

「魔道士でありながら、医術くらいしか使えないのか」

 それを無視して呪文を唱え続ける男の顔に、次第に困惑の表情が浮かぶ。

診察中の医者の代わりに、イバンが答えた。

「世の中には、様々な魔道士がいる。こちらの先生は専門の道を選び、それを極めようとする方だ。そういった選択をするのは、悪いことではない。ナバロ、お前は将来、どんな魔道士になりたいんだ?」

「世界最強」

「はは。ようやく子供らしい、まともなことを言えたな」

 イバンはニコリと、呑気な表情を浮かべた。

「ではここで、俺と一緒にそれを学ぼう。お前もきっと、立派な魔道士になれる」

 肩に乗せられた、ヤブ医者の手は震え始めた。

気づけば、顔は真っ青だ。

俺はフンと鼻を鳴らす。

「おい、ヤブ医者。どうかしたのか?」

「こ……、これは……お前が……? どうやって……」

「ん? どうした。何をそんなにビビってる?」

 バカにしたような俺の言い方に、イバンはのぞき込む。

「先生? どうかしたのですか」

 俺は乗せられた医者の手を、払い落とした。

「なんでもないってよ」

 彼はまだ、硬直してその場から動けない。

俺の魔法が理解出来るなら、まぁそれなりに、確かな腕はあるようだ。

「ねぇ、お腹空いた。ご飯はまだ?」

 日はまだ、てっぺんまで昇りきっていない。

「もう食事して大丈夫なのか?」

「いいってよ! イバン、食堂まで案内して」

 俺は部屋を出て行く。

廊下に出ると、すぐ後からイバンはついてきた。

「食事がすんだら、どうする?」

 そう言った彼を、俺はニコリと微笑んで見上げる。

「剣の練習がしたいな」

「ほう。それはいい心がけだ。ふふ。俺に頼んだことを、後で後悔するなよ」

 そう言って、イバンは嬉しそうに笑った。

聖剣士から直々に剣術を教えて貰えるのは、ありがたい話しだ。

簡単な食事を終え、イバンの支度が調ったところで、俺たちは館の中央にある芝生の庭に出た。

ビビとフィノーラはすぐ脇にテーブルを出し、お茶を飲んでいる。

レンガの壁に立てかけられた、

剣の一本を手に取った。

「それが聖剣だ。本来なら、聖騎士団に入団しないと、触れられない剣だぞ」

 長くて重い。

少し振り回しただけで、ふらつく。

それを見たイバンは、別の剣を取りだした。

「やはり、もう少し短くて軽いのにしよう。お前用にと思って、用意しておいたんだ」

 イバンは俺に、剣を教えるのがうれしくて、仕方ないらしい。

「魔術もいいが、まずは体力だ」

 渡された剣を受け取る。

大人用の剣の、半分程度の大きさだ。

なるほどこれなら、長さも重さも丁度いい。

「聖騎士団、予備隊の剣だ。お前ぐらいの歳なら、入隊していてもおかしくない」

 イバンは自分の長剣を構えた。

俺はそれを、見よう見まねで構える。

「聖剣って、こんなに本数があるものなのか?」

「エルグリムを倒した英雄、スアレスの握っていた剣と、同じ製法で作られたものを、今ではそう呼んでいる。ちまたに出回っているものには偽物も多いが、ここにあるのは大賢者ユファさまの祝福を受けた、本物だぞ」

 イバンは剣を振り下ろす。

俺はそれに平行した状態で、同じように剣を振った。

「スアレスがエルグリムを倒した時には、聖剣は強力な魔法を帯びていた。祝福を受けているというわりには、何も感じないけどね」

 こんな、雑な剣などではなかった。

アレの剣は、こんなものじゃない。

「はは。よく知ってるな。スアレスの聖剣は、今は失われて、本当のところ、今どうなっているのかは、分かっていない。最期に勇者の使った魔法も、語り継がれているだけのものだ」

「仲間が生き残っていただろう」

「今はもう、全員が隠居されている」

 ビビとフィノーラは、ポットから新しいお茶をカップに注いだ。

「スアレスは、剣術にも魔術にも長けた勇者だった。俺は魔術も多少使えるが、魔力を蓄積出来る体質ではない。英雄にはなれない」

 イバンが剣を振る。

俺は見よう見まねで、その剣を振るう。

「魔術は努力ではどうにもならないが、剣術なら習うことが出来る。努力さえすれば、ある程度は見られるようになる。お前なら、スアレスの再来と言われるくらいにまで、なれるかもしれないな」

 イバンは得意げに、ニッと笑って俺を見下ろす。

そうでも言っておけば、やる気になると思っているのだろうか。

俺は剣を振るいながらも、内心で深くため息をつく。

エルグリムは体が弱かったわけではないが、痩せ細り体力はなかった。

誰かにこうやって、何かを教えられたこともない。

こんな立派な剣になど、触れることすら許されなかった。

「俺が剣術を習うのは、習ったことがないからだ。それに、魔力を蓄えられるのは生まれ持った体質でも、使いこなすには努力が必要だよ」

「もちろんだ」

 イバンが振りの型を変える。

俺もそれに合わせて、腕を動かす。

「だからこそ勇者には、仲間が必要だった。勇者スアレスだけが今はたたえられているが、一緒に旅をした仲間たちの協力があってこそ、魔王を倒せた」

 剣の振りが複雑になった。

腕の振りに合わせて、足を動かすのが、意外と難しい。

流れるような剣さばきに、もう体はついていけない。

「エルグリムの悪夢のことは、もちろん知っているだろう?」

 イバンの振りが、さらにスピードを上げる。

俺は諦めて、剣を下ろした。

イバンはそれに構うことなく、聖剣を振り続ける。

「私に言わせれば、あんなものはただの伝説だ。一種の昔話に過ぎない。一度倒されたエルグリムの亡霊になぞ、もう我々が怯える必要はない。だが本当に恐ろしいのは、そのエルグリムが残した『悪夢』だ」

 スアレスは死んだ。

イバンの明るく澄んだライトブルーの瞳が、じっと俺をのぞき込む。

俺はその目を、しっかりと見返した。

「ナバロ。お前の目は、とても変わった色をしているな」

「魔法使いの目でしょ。よく言われるんだ」

 碧を含む深い緑の目が、色鮮やかに光り輝く。

この目を称える詩がいくつも作られ、人々を恐怖におとしめてきた。

「お前は、本当にエルグリムの生まれ変わりでは、ないのだな」

「……。当たり前だろ」

 そんなこと、誰にも知られるわけにはいかない。

まだ早い。

全てを呼び覚ます魔法をかけ損ねたいまでは、なおさらだ。

俺はわざとらしく、盛大にため息をついた。

「あのさぁ、それでもし本当に俺が、その生まれ変わりだとして、ここで『うん』って言うと思う?」

「お前がいくら嘘をついても、その目だけは誤魔化すことは出来ない」

 今の俺が持つこの目は、魔力を蓄えたくとも蓄えきれない深い海に、ようやく落ちたひとしずくの雨粒からなる海の色だ。

「俺は強い魔道士になるよ。当然だ。せっかく魔力を扱える体に生まれたんだ。どうしてそうなることを望まない?」

「お前も欲しいか、『エルグリムの悪夢』を」

 イバンは再び、剣を振るい始める。

力強いその動きに、汗が飛び散る。

「ルーベンには昔から、蘇ったエルグリムが現れるのは、ここではないのかという、噂がある。倒されたヤツの魂が、飛んで行った方角とされるのが、このルーベンだ」

 俺も同じように、剣を振るってみる。

だがまだ十一歳の少年の体では、それについていけない。

筋肉のつききっていない細腕では、すでに剣の重みが増している。

あの時、俺がスアレスにやられたのは、最期に振り絞った肉体の動き。

それだけだ。

だから俺は、若く強い体を手に入れた。

「そこからさらに五年前、いや六年前だ。エルグリム亡き後に建てられた中央議会、大賢者ユファさまによる予言が、再びここに、エルグリムが現れたとしている」

「知ってるよ。それで騎士団が、こんな田舎町に派遣されたんだろ? 俺も去年検査を受けた」

「受けたのか!」

 イバンは急にその動きを止めると、心底驚いたような顔を俺に向けた。

「当たり前でしょ」

「それで問題ないと?」

 その予言を元に、魔道士体質の子供は、聖騎士団による身体検査を受けさせられている。

「そうだよ」

 当然だ。

そんなものを誤魔化すくらい、なんの問題もない。

イバンは剣を鞘に収めると、いきなり俺を高く抱き上げた。

「ならばもう、なんの問題もないじゃないか! お前を私が、立派な聖剣士に育ててやる!」

「やめろ! 俺は魔道士なんだ。冗談じゃない、離せ!」

「ははは。お前、これからちゃんと覚悟しておけよ」

「下ろせ! 下ろせよ」

「まぁ、イバンさま。私にも剣を教えてください!」

 しっかりと抱き上げられた腕は、どれだけ俺がもがいても、振りほどくことは出来ない。

「ビビさまは、フィノーラにでも習ってください。私はこれから、ナバロを教えるので忙しくなりますので」

「は? ビビさまに剣? 冗談じゃないわ。そんなのは、契約に入ってませんから!」

 自分の顔が、ひどく火照っているのが分かる。

ようやく地面に下ろされた後でも、まだ心臓は脈を打っている。

「フィノーラ! 私も、ナバロに負けてはいられません」

「だから、嫌ですって言いましたよね。絶対に教えませんから」

 イバンの手が、再び俺の頭に乗った。

「体調はどうだ? まだ続けられるか?」

「……。う、うん」

「なら、基本の訓練から始めよう。それと、やっぱり基礎体力作りからだ」

 イバンを見上げる。

彼は、何の疑いもない笑顔をむけた。

俺はそれに舌打ちをしてから、再び剣を握る。

イバンの特訓は、その言葉通り容赦なく、厳しかった。

病み上がりの初日だというのに、この男は加減を知らない。

ひとしきり汗を流し、ようやく夕食のテーブルについた。

体はもうクタクタだ。

疲れ切った状態で、食堂に入る。

豪華絢爛とはいかないが、丈夫な長テーブルに、清潔な白のクロスがかけられ、燭台や天上の明かりも、質素だが悪くない品だ。

 全員が席についたところで、パンと温かいスープが運ばれてくる。

よく分からない茹で野菜に、スライスして焼いたハムも添えられているのなら、まぁよしとするか。

テーブルの中央には、大きな魔法石の結晶が飾られていた。

「あぁ。これは上質な魔法石だな」

 乳白色に濁った淡い琥珀色の結晶は、光りを受け虹色に輝く。

「これをフィノーラと一緒に、カズへ買いに行ってたのよ。これなら私にも、摂取できるんじゃないかと思って。」

 ビビはうれしそうにはしゃいでいる。

イバンはそれを見て、ため息をついた。

「またビビさまは、そのようなことを……。必要以上に魔法石を摂取しても、魔道士の体質を持って生まれた者でなければ、なんの意味もないと……」

「上質な魔法石が、カズ村から見つかると聞いて、いてもたってもいられなくて……」

「これほどいい魔法石を飲んでも、その病は治らないのか?」

 やっぱりあの医術士はダメだな。

俺は人差し指をまっすぐに伸ばし、呪文を唱える。

魔法石の結晶が、パキリと折れた。

その破片は宙を漂い、手の中に転がり混む。

そのそら豆ほどの欠片を口に放り込むと、ガリッとかみ砕いた。

「お前、そんなことも出来るのか」

「まぁすごい。こんな細やかで器用な魔術は、初めて見ましたわ」

 ほんのりと甘い魔法石の欠片が、口の中に広がる。

「ね、お願い。私にも魔法を教えて、ナバロ」

「教わってどうする? 医者にでもなるのか」

 ビビは少し考えてから、首を横に振った。

「うーん、それもいいけど……。そうね、それよりは、もっと自由に動きたいの。上級の魔道士になれば、空を飛んだりも出来るでしょう? 色んな所へ旅に出てみたいわ。沢山もものを見て、知って、触れてみたい。読んだ本の中にある気色が本当かどうか、この目で確かめたいの」

 ビビの目はいつも、ここではないどこかを夢想していた。

「海が見てみたい。大きな川も湖も。高い山から見下ろす、広大に広がる景色も、沢山の森の木も。もう誰かからお話しを聞くだけじゃ、満足できないの。自分の足で歩いて、そこへ行って、何もない草原の上で、ずっと寝転がっていたい」

 夢ばかり見ているビビに、フィノーラとイバンは、深いため息をつた。

「それ、今日もやったのがバレて、さっき叱られたばかりじゃないですか。ナバロを診察した医師に」

「そうですよ。ビビさまはもう少し、自分の体調と体力をお考えください」

「ね、ナバロ! ナバロだって、自分の能力と体力の加減が分からないのでしょう? それで動けなくなってしまうのなら、同じではないですか」

「……。違う」

 三人の声が重なった。

「どうして!」

「ナバロはただの、やんちゃ坊主よ。体はまだ子供だから、魔法に耐えられるほどは出来上がってないけど、健康的に丈夫には出来ている」

「魔力を貯め込む能力は、常人とは桁違いですよ。自分でコントロール出来ていないだけだ」

「私とどう違うのよ!」

「全然違います!」

 フィノーラとイバンの愚痴は続く。

「大体さぁ、お嬢さま付きの侍女っていうから、何をやらされるのかと思ったら、ただのお守り役だなんて! 私はそもそも、治癒魔法は得意じゃないのよ。それなのに、しょっちゅう簡単に、どこででも倒れちゃってさ」

「私だって、簡単な魔法しか使えない。倒れたビビさまを館まで運ぶだけの、運搬係みたいな役は、もうゴメンこうむりたい」

「いいじゃないの、それくらい!」

「よくないです!」

 俺はそんな話しに気をかけることなく、一人で黙々と食事を続けている。

久しぶりにしっかり体を動かしたせいか、もうすでに眠気に襲われていた。

このまま延々とつまらない愚痴を聞かされていては、本当にここで眠ってしまいそうだ。

「私もナバロと一緒に、体力をつけます! 走るし、腹筋とか柔軟もやります」

「無理ですよ。とにかく私は、仕事とナバロで手一杯ですし。ビビさま用のメニューじゃないし」

「フィノーラ! 何とかならないの?」

「え~。そういうの苦手ー。契約にも入ってないしー」

「私も、冒険がしたいのです!」

 ガチャン! と、ビビはテーブルに拳を突いた。

静まりかえった食堂に、イバンの声が静かに響く。

「……。ビビさまの場合は、お父さまに許可をいただかないと……」

 そう言った彼を、彼女はにらみつけた。

「だから私は、誰からも……」

 不意に、廊下から騒がしい物音が聞こえてくる。

四人? いや、五人だ。

食堂の扉が開いた。

黒髪に顎髭を生やした大柄な大きな男だ。

後ろには聖剣士二人と、魔道士も二人いる。

魔道士のうちの一人は、昼間の医術士だ。
「ビビ。お前が連れてきたというのは、その少年か」

「お父さま。どうされたのですか?」

 ビビとは似ても似つかない、巨体に筋肉質な男だ。

彫りの深い目で、俺をにらみつける。

「名は何という。ナバロだったか? いや、そんなことはどうでもいい。今すぐ聖騎士団の本部へ行ってもらおう。連行しろ」

 魔道士二人が呪文を唱える。

拘束呪文だ。

俺はその術先をビビにすり替える。

「きゃあ!」

 彼女の体が、テーブルに座ったままの状態で固定された。

「か、体が動かなくなりましたわ!」

「ナバロ以外の者は、外に出ていろ!」

 俺はテーブルに飾られた、魔法石の結晶を手に取った。

それを懐に入れると、ぴょんと飛び上がる。

「待て!」

 簡単な魔法だ。

領主率いる聖騎士団の前に、軽めの静電気を流す。

「うわぁ! イバン、ビビを連れて避難を!」

 父親である領主が叫んだ。

魔道士からの攻撃魔法が飛んでくる。

どうやら標的は俺らしいが、なんだコレ? 

空気玉か何かか? 

威力も弱ければ、意志のはっきりしないヘタな魔法だ。

これで聖騎士団の魔道士とは、情けない。

ビビの盾になるよう回りつつ、それを跳ね返す。

イバンは、魔法で固まったままの彼女を抱き上げた。

「私はここに残ります!」

「お父さまの命令です。一旦避難します」

「嫌です!」

 次は何の呪文のつもりだ? 

いつまでたっても、もごもごと考えている魔道士の口を封じる。

「やはりお前は、ただの魔法使いではないな」

 領主は剣を抜いた。

その刃先が空を切る。

だけどまぁ、十分届かない位置にいるから、全然怖くはないよね。

ビビを抱き上げたイバンが、走りだした。

食堂を抜け、廊下へ出る。

俺はその後ろに続いた。

「待て!」

 領主と聖剣士たちが、追いかけてくる。

呪文を唱えた。

彼らの足元を固める呪文だ。

勢いよく床に転がる。

「クソ! 早く魔法を解け!」

 ダメだ。 楽勝すぎる。

俺たちは廊下を駆け抜ける。

「おい、ナバロ。お前がついて来んなよ」

「ビビの周辺以上に、ここで安全なところがあるか?」

「まぁ素敵! いいわよ、ナバロ。ずっと私の側にいて!」

「なにを言ってるんですか、お嬢さん。冗談じゃないですよ」

「ならば、拘束魔法を解いてやろう」

「いや、逆に面倒だから解くな」

 蝋人形のように固まっていたビビの腕が、ふっと動いた。

「もう解いた」

「すぐにかけ直せ」

「イバン、下ろして!」

 暴れ出したビビを抱いたまま、イバンは玄関ホールへ出る。

背後から矢が放たれた。

振り返った瞬間、それは空中でピタリと止まる。

フィノーラだ。

「ひどいじゃない。私を置いて行かないでよ」

「お前までついて来たら、意味がないじゃないか」

「いちおう? ビビさまの護衛だし?」

 イバンは愚痴をこぼしながらも、そのまま走り抜け玄関ホールへ出た。

騒ぎを聞きつけた聖剣士たちが、外からも駆けつけ始めている。

「イバン、何事だ!」

「……。あぁ、ビビさまを連れて、避難中だ」

「そ、そうなのか?」

「見て分からないか」

 イバンは、抱きかかえているビビを見せる。

その後ろには、フィノーラと俺がいた。

「そ、そうか。ならば、こちらへ……」

 居並ぶ聖剣士たちの前を、素通りする。

俺たちはそのまま、中央ホールの階段を駆け上がった。

「待って。そうだわ、イバン。こっちではなくて、地下牢へ逃げましょう。もう随分使われていないし、そこなら私たち四人で隠れていても。十分籠城出来るわ」

「なるほど名案です。では、ここからぐるっと回って、三階のビビさまのお部屋へ」

「どうしてよ!」

 ホールには続々と、聖騎士団の連中が集まってきていた。

イバンはビビを抱えたまま、階段を駆け上がる。

「だからナバロ、お前がついて来んなって」

「館の外へ出たい。案内してくれ」

「それは無理だ。私はビビさまの部屋へ向かう」

 術の解けた領主がホールへ駆けつけ、俺たちを見上げた。

「あの少年だ! ヤツを追え!」

 衝撃魔法が飛んでくる。

風を小さく丸めたものだ。

だが狙いが悪い。

標的の設定の仕方がヘタなのだ。

これでは俺だけでなく、ビビやイバンにも当たってしまう。

その空気弾を消滅させようと、俺が呪文を唱えるよりも早く、フィノーラが呪文を唱えた。

弾き返された弾は、ホールの壁に弾け飛び、立派な装飾を傷つける。

「えぇ? お前の魔法は、雑過ぎるな」

「うるさいわね。このままじゃ、ビビにも当たるでしょ」

「私は先に行くぞ」

 再び走り出したイバンの後ろに、俺とフィノーラはついて行く。

「だから、あんたが大人しく捕まりなって!」

「やだよ、面倒くさい」

「カズといい、今回といい、一体なにしたのよ」

「心当たりが、ありすぎて……」

 イバンに抱えられたまま、ビビは後ろをのぞき込んだ。

「追いかけて来たわよ!」

 魔道士は、炎の呪文を唱えている。

こんな狭い廊下で、正気か? 

次の瞬間、敷き詰められた絨毯に、二本の火が走る。

黒くくすぶるその線に、フィノーラは何か唱えようとしている。

「待て。単純に返すな。廊下が燃える。気体を操れるのなら、空気の流れを止めればいい。そうすれば火は消える」

 フィノーラの呪文。

炎は増幅され、後方に向かって火を噴いた。

「なんでこっちがそんなことまで、気にかけなきゃなんないのよ」

「きゃー! カッコいい! 私もそれやりたい!」

「絨毯が燃えた!」

「あら、ナバロはそんなことを気にかけてくれるの?」

 イバンに抱きかかえられたまま、ビビはにっこりと俺を見下ろした。

「そう。いい子なのね」

 その仕草に、なぜかうつむいてしまう。

いや、違う。

そうじゃない。

俺だって、自分の城が荒らされるのは、嫌だったから……。

「止まれ!」

 行く手を塞いだのは、ビビの父親だった。

「少年、大人しくこっちへ来るんだ」

「お父さま、おやめください。ナバロに、なんの罪があるというのですか!」

「お前は黙ってろ!」

「嫌です!」

「イバン、ビビはもういい。その少年を捕らえろ」

「……。ですがビビさまが……」

「ダメ!」

 ビビは、イバンの首にしがみついた。

領主である父親の後ろには、聖剣士と魔道士がいる。

背後も塞がれた。

「イバン、何をしている。早くしろ!」

 その声に、彼は抱き上げていたビビを、ゆっくりと下ろす。

「ビビ、こっちへ来なさい」

「嫌です!」

 彼女は両手を広げ、父親たちの前に立ち塞がった。

「この子が、何をしたというのですか!」

「それをこれから審議するんだ」

 前後に迫る聖剣士たちが、一斉に剣を抜いた。

魔道士たちも控えている。

イバンはささやく。

「ナバロ。ここは一旦、大人しく捕まらないか? 私たちが、悪いようにはさせない。必ず助け出す」

 ビビも目を合わせた。

俺に向かって、小さくうなずく。

「悪いがそれを素直に信じられるほど、まっすぐに育ってないんでね」

「ならば、戦うしか道はない」

 さて、どうしようか。

イバンが腰の剣を抜いた。

と、不意にビビの手が、俺の腕を掴む。

「ナバロ、こっちです!」

 そのとたん、すぐ脇にあったドアが開かれ、そこに引きずり込まれた。

「ビビさま!」

 部屋に入るなり、彼女は鍵をかける。

「ビビさま! 開けてください!」

「いやよ!」

「イバン、ちょっとどいて」

 フィノーラだ。

ドアを塞ぐビビの体が、ガクガクと震えて始める。

呪文で扉を開放しようとしているんだ。

「ナ、ナバロ、何とか……、おねが……」

 ビビの願いに、俺は呪文を唱える。

「コラー! ナバロ、魔法を解きなさーい!」

「これで、しばらくは大丈夫だ」

 ほっとしたのか、ビビは俺に近寄ると、視線を合わせた。

「あなたは本当に、魔法使いなのね」

 無邪気にキラキラと輝く目が、俺には妙にうっとうしく眩しく感じる。

「頼みがあります。私を一緒に、連れて行ってください。ここから出たいの」

「嫌だ。面倒くさいし、邪魔だし」

 荷物にしかならないお供など、ゴメンだ。

この体をしっかり休ませ、ようやく取り戻した体力を、残しておきたかったが、こうなっては仕方ない。

「私は! いつもここでは、邪魔者扱いなのです。厄介な、困った置物なのです」

「だろうな」

 だけど、その境遇は昔の俺と、正反対だ。

雑用品を並べた物置部屋には、タオルやシーツ、掃除道具や工具類が並べられている。

狭い裏路地に面した窓際には、長い梯子が立てかけられていた。

扉は激しく叩かれ続けている。

「私は……。だから、一人前になりたくて、誰の荷物にもなりたくなくて……。魔法石を取り寄せ、体に馴染ませようとしていたのです。だけど、元々の体が弱く、そのせいで取り込んだ魔力は、全て吸い取られてしまって……。おかげでこうして、元気に動けてはいるのですが、ただそれだけにしかならず、私は……」

 強烈な眠気が襲ってくる。

やはり子供の体は不便だ。

体力がいくらも持たない。

俺は小さな窓から、外へ身を乗り出す。

乗り移れそうな屋根が目の前にある。

「……。一緒には、連れて行ってもらえないのね」

「断る」

「分かったわ。準備するから、ちょっと待ってて!」

「いや、だから断るって……」

「ナバロが置いて行っても、私は勝手に付いていくだけよ。だから何も気にしないで」

 いや、待たんけど。

もう一度、窓から外をのぞき込む。

ビビは、タオルやらシーツやらの積まれた棚の奥から、ボロ布の鞄を取りだした。

それを肩にかける。

「コラー! あんた、本気でビビさまと閉じこもる気なの?」

「ナバロ、ここを開けろ! このままでは、お前が不利なだけだ」

 ドアを蹴破ろうとしている。

魔道士たちも呪文を解こうと、躍起になっている。

まもなく扉は開かれるだろう。

「ビビ。これは、魔法石をいただいていく礼だ」

 俺は食堂から持って来た魔法石を取り出すと、その一部をバキリと折ってかみ砕く。

彼女の胸に手を当て、呪文を唱えた。

「腕のいい魔道士に、治療をさせているな。それは確かだが、気の巡りが悪いから、それ以上よくならないんだ」

 ビビは、かざした俺の手を握ると、苦しそうに表情を歪める。

あのヤブ医者は、もしかしたら俺の正体を見抜いたのかもしれない。

たいしたものだ。

「お前の病はお前のものだから、それ自体を治すことは出来ない。だがちょっと『仕掛け』を変えてやればいいんだ。これで、普通に動けるようにはなる。魔法石の摂取が条件なのは、変わらないが」

 視界が歪む。

寝落ちしそうだ。

これ以上、意識を保つのは難しい。

扉の向こうから、フィノーラとイバンの声が聞こえる。

「ちょ、ナバロ! あんた、どんな魔法使ってんのよ!」

「魔法の使えない、私にも分かる。とんでもない気配だ!」

 扉の呪文が破られそうだ。

これだから、子供の体は厄介なんだ。

もう体力が持たない。

フィノーラの魔法が、俺の術を解除しようとしている。

イバンはその巨体を、激しく扉にぶつけている。

「ビビさま!」

 体がだるい。

急がないとマズい。

俺は梯子を窓から外に出すと、それを階下へ落下させた。

「ナバロ!」

「お別れだ。ビビ」

 扉が破られる。

「待て!」

 イバンの剣先が、空を切った。

俺は窓から外へ飛び出す。

ふわりと体を浮かせ、隣の屋根に飛び乗った。

窓枠に飛びついたイバンが、そこから身を乗り出す。

「ナバロ! そこから動くなよ。この私がちゃんと、お前を……」

「どいて!」

 ビビはイバンを押しのけた。

「どうしても、連れて行ってはもらえないのね!」

「邪魔なだけの供はいらない」

「魔法が使えたら、私だってどこへでも行けた! 何にでもなれた! 私の自由を、あなたの自由をなくさないで! またいつか、ここへ戻ってきて。私にそれを見せて!」

 フィノーラが呪文を唱える。

「ちょっとそこを、どいてもらえますかね、ビビお嬢さま!」

 イバンはとっさに、ビビを奥へ引き込んだ。

そのとたん、窓側の壁が吹き飛ぶ。

「フィノーラ。お前の魔法は、がさつすぎ」

「待ちなさい!」

 また衝撃魔法だ。

ありがたい。

それが打ち込まれる前に、シールドを貼る。

フィノーラの放った魔法の風を受け、夜空に舞い上がった。

「……。ナバロ、逃がさないわよ!」

 後はそのまま、調整した風に乗って、飛ばされておけばいい。

ゆっくりと漂う夜空に、ルーベンの町が広がる。

「待て!」

 フィノーラは、屋根へ跳び移った。

足で走って、追いつけるとでも思っているのかな。

と思っていたら、彼女は魔法で高く飛び上がる。

フィノーラが何度、シールドに衝撃魔法を打ち込んでも、それは俺が逃げるための、追い風にしかならないんだけどなぁ。

「あぁ、そうか。ついでに自分も、あの館を出るつもりだ……」

 ルーベンの田舎町を、月明かりが照らしている。

俺はフィノーラの起こす風に乗って、ふわふわ空を飛んでいて、彼女はその後を、飛び跳ねながら追いかけて来る。

「……。あんた、本気でグレティウスに行くつもり?」

「そうだけど」

 寝落ちしそうだ。

この体、もうちょっと使えるようにならないかな。

困ったもんだ。

だけど今は、そんなこともなんだっていいや。

もう町外れまできたし。

その辺の茂みにでも、身を隠して眠ろう。

いつものように魔法で目隠しすれば、獣やモンスターにも見つからない。

「お前は、あの館に戻らなくていいのか?」

「あんた、私と組まない?」

「それで俺に、どんな利点が?」

「子供一人で、何が出来るの。私といれば宿も取れるし、家出少年には、ならないわよ」

 意識が薄れる。

もうダメだ。

フィノーラの腕が、ゆっくりと落ちてゆく俺の体を受け止めた。

そのまま屋根から地上へ下りる。

「あんたの体、もう動けないってバレバレよ。容積の小さい子供の体で、でかい魔法使いすぎ」

 触れた肌から伝わる体温が、やけに生々しい。

完全に意識が落ちる。

次に俺が目を覚ました時には、温かいベッドの上だった。
 ガラス窓の向こうから、昇ったばかりの朝日が見える。

まだ多少の疲れはあるものの、随分と楽になった。

その回復の早さには、感心する。

 狭い部屋にベッドが二つ。

窓には小さなテーブルと、椅子が二脚ほど。

外にはすぐ目の前にまで迫る、山の緑が広がっている。

どうやら行きついた町外れで、宿をとったらしい。

フィノーラの姿は見えない。

俺は起き上がると、部屋を出た。

「もう起きて大丈夫なの?」

 廊下に出たとたん、そのフィノーラと鉢合わせる。

「ここを出る。世話になったな」

 彼女は両腕に、衣類やら食料を抱えていた。

その真横を通り抜ける。

「宿の女将さんに、挨拶くらいしていきなさいよ」

 階段を下りると、すぐに帳場に出た。

気の強そうな女将が立っている。

「おや、坊ちゃん。もう動けるようになったのかい?」

 その手は俺の頭を抑えこむと、ぐりぐりとなで回した。

「全く。いいお姉ちゃんだね。出発の準備を手伝ってきな。朝食はその後だよ」

 にっこりと、人当たりのよい笑顔を俺に向けた。

その手をパンと振り払う。

「なんだそれ。俺はもう先に行くんだ」

 冗談じゃない。

あんながさつな女など、連れて歩く方が面倒くさい。

宿の女将に背を向ける。

聖剣士たち追っ手が来る前に、さっさとここを抜けだしたい。

「まぁー! 本当にきかん坊だね」

 女将はその俺を、背中から高く抱き上げた。

「うわっ、おい、離せ!」

「ちょっとは、抱っこくらいさせておくれよ。うちの子は、もうすっかり大きくなっちゃってねぇ」

 頬にキスされた! やめろ!

「あ、捕まえてくれたのですね。ありがとうございます。お世話になります」

 すっかり旅支度を調え、フィノーラが出てきた。

「あら、もう行っちゃうの? 少し待てば、食事が出来あがるのに。食べていきなよ」

 抱き上げられた腕から逃れようともがくも、そう簡単には抜け出せそうにない。

「夜中に押しかけておいて、お世話になりました。この子も、じっとしていられない子なので。母の様態も気になりますし……」

「そっか。お母さんの具合が悪いんじゃ、しょうがないわね」

 ようやく床に下ろされた。

女将はため息をつくと、俺たちを見つめる。

「平和な時代になったものね。子供だけで旅が出来るなんて。憎きエルグリムの暗黒時代を乗り越えた、私たちですもの。きっとお母さまはよくなるわ」

「ありがとうございます」

「気をつけてね。帰ったら、また寄ってちょうだい」

 宿の外まで見送りに来た女将に、フィノーラは手を振った。

そのまま山を越える街道へと入ってゆく。

人通りは少ないとはいえ、ゼロではない。

踏みならされたむき出しの土を踏みしめ、歩いてゆく。

「こんな堂々と街道を通って、大丈夫なのか? お前はビビの館へ戻れよ」

「戻ったわよ」

「は?」

 フィノーラは大あくびをした。

「じゃなきゃこんな呑気に、街道通って移動できると思う? 全くこれだから子供は……」

 ガラガラと音を立てて走る荷馬車と、すれ違った。

「ぶっ倒れたアンタを宿に預けてから、すぐ館に戻ったわよ。それで、ビビさまからの手紙も預かってきた」

「は?」

 だからと言って、こんな紙切れを渡されても困る。

「定期的に、連絡寄こせって。街道を抜ける通行手形を出してもらったのよ。ルーベンの正式な許可証よ。これでどこへでも行ける」

「そんなもの不要だ」

 関所はすり抜ければいい。

金なら店先で盗むか、魔法で芸でも見せればいい。

占いでもしてやれば、すぐに金は手に入る。

「お前はこれから、どうするつもりだ」

「私もグレティウスへ行く」

「なんだ。お前も『悪夢』が欲しいのか」

「それは違う」

 日が昇るにつれ、気温は上がってきた。

人通りも次第に増えてくる。

ゆっくりとした坂道を、フィノーラと並んで上ってゆく。

「私は……。『悪夢』を破壊する」

「どうして?」

「ナバロは信じる? 中央議会の言ってること」

「まだ見つかってないんだろ?」

「それは信じてる」

 整備された街道は道幅もあって、所々に店も並んでいる。

次の街は、この峠を二つ越えた先にある。

「エルグリムの残した遺産よ。それがまだ見つからないなんて。だけどもし見つかってたら、もうとっくに世界は、変わっていたのかもね。新政府に不満はないけど、他の誰かに見つかって悪用されるくらいなら、私が先に見つけて、ぶっ壊してやる」

「フン。誰もが血眼になって探しているのに、まだ見つからないものを、お前が見つけられるとでも?」

 フィノーラは立ち止まると、じっと俺を見下ろした。

「あんたと一緒なら、見つけられる気がする」

「じゃあもし、俺が見つけたとして、どうする? 俺はそれを、独り占めするかもしれないぞ」

「そうはならないでしょ。多分私だけでも、あんただけでも、見つけるのは無理」

 上り坂がきつくなり始めた。

道幅も狭まり、街道沿いの商店も寂しくなり始める。

ここから先は、本当に山の一本道だ。

「誰かに支配される世界なんて、ゴメンだわ。そんなモノになりたがる奴がいたら、そうなる前に私がぶっ殺す」

「だったら、なぜ聖騎士団に入らない。お前のその魔力なら、十分入れるだろ」

「あいつらのことは、反吐が出るほど嫌いなのよ。分かるでしょ」

「……。お前の好きにしたらいい」

 山道に入ったとたん、人の気配も一気に減少した。

俺は魔法を使い、高く飛び上がった。

フィノーラもついてくる。

「さっきまで、聖騎士団の連中と一緒だったじゃないか。聖剣士は、嫌いなんじゃなかったのか?」

「だから利用するのよ。悪い?」

「まぁ、今はどこへ行くにも、聖騎士団の許可がないと動けないからな」

「あいつら絶対、エルグリムの悪夢を見つけたって、破壊なんかしないわ。利用するつもりよ」

「その方が賢いもんなぁ」

「あんたが、グレティウスに行く目的はなに?」

「そりゃ憧れの街だからさ。魔道士なら、一度は行ってみたいと思う。そうだろ?」

 魔法で体を浮かせ、地面を蹴る。

背に羽が生えたかのように、一歩一歩を飛び跳ねながら進む。

てくてく歩けば数日はかかる行程も、呪文を唱えれば何てことはない。

フィノーラの腕は、悪くない。

流しの魔道士としては、いい方ではないだろうか。

よく訓練されている。

だけど俺の配下におくには、まだ十分とは言えない。

「なぜ聖剣士を嫌う。誰からも、信頼される存在じゃなかったのか」

「言ったでしょ、嫌いだって。そういうアンタはどうなのよ」

「はは、嫌いだな」

「でしょ。だから組もうって、言ってるのよ。聖騎士団を、本気で嫌いだって言える人間じゃないと、私は信じない」

 山頂までたどり着いた。

木々の間から、遠くナルマナの街が広がる。

「ここから先は、首都ライノルトまで続く道よ」

 ライノルトか。

かつては誰も知ることもない、それはそれは小さな町だった。

勇者スアレスが生まれた村から、一番近い町だったというだけの場所。

「俺はライノルトに興味はない。ここでお別れだ」

「ちょ、待ちなさいって!」

 姿を消す。 瞬間移動だ。

この体ではあまり遠くまで行けないが、この女をまくくらいのことは出来る。

山道を離れ、密林の間をすり抜けてゆく。

 そういえば、かつてライノルトには、巨大な魔球を落として完全に破壊したことがあったが、そこから復興させたのだろうか。

ご苦労なこった。

「いや、破壊したからこそ、新しく復興出来たのか」

 深い森の中で、一つ息をつく。

普通の人間なら、三日はかかる山越えだ。

関所? 通行手形? そ

んなもの、俺には必要ない。

整備された道しか進めないようなやつに、用はない。

 短い距離での瞬間移動を繰り返し、密林の中を進む。

魔力の臭いに気づいた動物たちは、驚き慌てふためいて、逃げ去ってゆく。

そう、これこそが、俺に対する正しい反応だ。

微笑みかけるなんて、ありえない。

汗が流れる。

尋常ではない量だ。

全身がだるく重みが増してくる。

クソ。

こんな移動など、何でもないことだったのに……。

館から盗み出した魔法石を、いくら摂取してもダメだ。

まだ幼い体が、この力に耐えられるだけの体力を持てていない。

息が苦しい。

全身の重みに、ついに足が止まった。

 心臓がズキリと痛む。

荒れ果てた、むき出しの地面に倒れた。

脈打つリズムは不規則で、強烈な痛みを伴う。

手足まで震えている。

俺はそこにうずくまると、繭のように体にシールドを張った。

意識レベルを下げ、回復に全てを注ぐ。

見た目は岩に偽装してあるから、そう簡単には見つからないだろう。

魔力の使い過ぎだ。

無理なんてしているつもりは微塵もないが、どうしても体がついてこない。

やろうと思えば出来るはずのことが、何にも出来ない。

その苛立ちに、腹立たしさに震えている。

 しばらく回復に集中し、意識を取り戻した頃には、すっかり日は落ちていた。

密林の森は真の暗闇で、覆い茂った木々に、空もほとんど見えない。

月も細いこんな夜には、一人で殻にこもっているに限る。

梟が闇夜を滑空する。

俺が擬態している岩の前に現れたネズミを捕らえた。

その鋭いくちばしで、皮を食いちぎり飲み込む。

こんな光景を目にするのも、何年ぶりだろう。

遙か昔の、エルグリムがまだ幼かった頃を思い出す。

今よりもずっと体は傷だらけで、常にどこからか血を流し、腹を空かせていた。

皮膚は黒く固くこわばり、骨と皮ばかりだった。

 俺は新しく手に入れた十一歳の、その柔らかい肌に触れる。

ここは暖かくはないが、俺を傷つけるものは、もういない。

それだけで十分だと満足出来るほど、俺はバカではない。

残った魔法石を取りだし、その全てをかみ砕く。

朝になったら、ナルマナの街へ下りよう。

どこかでちゃんとした食事を取らないことには、実体である体が持たない。

街へ下りたら、まずは簡単な芸でもして、金を稼いで……。
 いつの間にか、また眠りに落ちていた。

目を覚ますと、日は完全に昇りきった後だった。

俺は街に向かって山を下りる。

日暮れ前には、ナルマナの街へたどり着いた。

ここからは首都ライノルトまで、遠く人の街が広がる。

かつては、ルーベンのような辺境の田舎町だと思っていたが、随分と発展していた。

レンガを敷き詰めた道には外灯が立ち、ガラスを張ったショウウインドウの前を、飾り立てた馬車が走る。

住民もそれなりの身なりをしていた。

少なくともカズやルーベンのように、畑仕事をしているような連中ではない。

 夕陽に沈み始めた街を歩く。

子供が一人で歩いていても、誰も気にとめることはないくらいの都会だ。

宵口の街角に立ち、歌を歌う。

もちろんただの歌ではない。

聞いた相手に金を出させるための、魔法の歌だ。

「ありがとう」

 緑の目が、道行く大人たちに、俺は魔法使いだと知らしめている。

子供の魔道士見習いが歌うのは、今も昔もいつだって物乞いの歌だ。

わずかな金を手に入れ、閉店間際のパン屋に入る。

小汚い物乞いの子供でも、長く伸びた前髪の隙間から、その目を見せれば許される。

「インチキ魔法で稼いだ金でも、金は金だよなぁ!」

 店から出てきた俺に、道行く男たちがそんな罵声を浴びせてきた。

案の定、仲間と共にゆっくりと追いかけてくる。

路地裏に回り込んだところで、肩をつかまれた。

「おい。お前、いくらでも稼げるんだろう? だったら持ってる金、ちょっと分けてくれよぉ」

 辺りはすっかり、暗くなっていた。

他に人の気配もない。

呪文を唱える。

せっかくのパンが、不味くなるのはゴメンだ。

「俺の機嫌がそれほど悪くないことに、感謝するんだな」

「なんだよ、また魔法か? 残念だが俺たちは、そんなち……、ま、待て!」

 俺を取り囲んだ、三人の男を拘束する。

動きたくても動けず、声も出せなくなった男たちの懐から、しょぼい財布を探り出す。

呪文によって、フワフワと浮き上がって出てきたそれは、中身だけを手の平に残して落下した。

「まぁ確かに、物乞いの子供から、巻き上げなきゃならないくらいの安さだな。お前らと一緒だ」

 汚いおっさんどもの、悔しがる顔を見ながら、食べる食事も悪くない。

俺は買ってきた包みを開くと、その場に腰を下ろしてかぶりつく。

ハムと卵を挟んだ大きな丸パンだ。

男の腰にぶら下がった小瓶から、気付け用のウイスキーを見つけて、あおる。

焼けるような喉の痛みに、思わずむせた。

「おかしな気配がすると思って、のぞいてみれば……」

 通りの角から、男がひょっこりと顔をだした。

占い師だ。

同じ魔道士でありながら、未来予知を専門とする、魔法使いの中でも一番胡散臭い種類の連中だ。

「大の大人が、やたら子供っぽい歌を歌うもんだと思っていたが、まさか本当に、こんな子供だったとは……」

 浅黒い肌に、黒く短い巻き毛。

ボロボロのテンガロンハットの下は、目の覚めるような緑の目がある。

波打つ髪を、くしゃりとかき上げた。

腰に拳銃を差し、ニヤリと口角を上げる。

「坊主。腹減ってんのか。何かもっと美味いもんでも、食わせてやろうか?」

「誰が占い師の言うことなんか、信じるかよ」

「ほう! よく俺が占い師だって分かったな。大概の連中は、この格好で俺をガンハンターだと勘違いすんのに」

 酒臭い息に、わずかな火薬の臭いがつきまとう。

元々占い師という類いは気に入らないが、こんな奴はなおさらだ。

「帰れ」

「おいおい、コイツらはそのままかよ」

 その男は、身動きも取れず、声も上げられない連中を振り返った。

「朝になったら、親切で優しい魔道士にでも、術を解いてもらうといいよ。きっと俺みたいなインチキ魔道士でも、お手の物だからね」

「おいおい。解いてやれよ、意地悪だなぁ~。意地悪はしちゃダメだって、学校で習わなかったのか?」

 男はポンと片手を自分の頭に乗せると、呪文を唱え始めた。

「んん?」

 彼はその眉を寄せる。

唱える呪文構文を、一段階格上げした。

と、男たちの呪縛が解かれる。

「クソガキが! 覚えてろよ」

 占い師の男は、逃げ去る背中にやれやれとため息をついた。

「だってさ、ぼく!」

 俺はそれを無視して、歩き始める。

あんな連中のことに、興味はない。

「しかし、アレは普通の魔道士にはちょっと難しいぞ。解けないことはないだろうが」

 まとまった金は手に入った。

体を休める場所が欲しい。

宿を取りたいところだが、十一歳の子供に、果たしてそれが可能なのか……。

 ナルマナの街は、ルーベンとは比べものにならないほど、発展していた。

かつてこの辺りは、一面の草が広がる、ただの草原だったのにな。

遠く両脇に見える、山脈の地形は変わらない。

俺が倒されたこの十年程度の間に、これだけ変わったのか。

新しく出来た街には、身なりを整えた人間も多いが、流れ者も多い。

占い師の男は、ずっと後をついて来る。

「あぁ、分かった! 宿を探してるんだ。子供一人じゃ、さすがに泊めてくれるところは、ないからなぁ」

 俺は、そう言った男を見上げる。

なんだコイツ。

なんでずっと俺の後をつけてくる。

「よかったら、うちに来るか? 予想通り汚いところだけど、道ばたで寝るよりマシだろ」

「なぜ俺に構う」

「んん? そりゃこんな子供が、一人で夜道を歩いてるんだ。マトモな大人なら、放っておけないだろ?」

 そう言って、俺にウインクを投げた。

やっぱりコイツは、信用ならない。だけどまぁ、恐れるほどのものでもないか。

「……。では、頼む」

 男は浅黒い顔に、ニヤリと笑みを浮かべた。

煙草で黄ばんだ歯を見せる。

「はは。いいぜ、来いよ」

 男に連れられて、さらに薄汚い路地へと入り込んだ。

大通りは整備され、何一つゴミも落ちていないのに、一歩路地裏へ入ると、その全てのゴミクズを掃き寄せたような光景が広がる。

そこかしこに酔い潰れた人間が寝転がり、蹴破られたような看板と、ヒビの入ったガラス窓もそのままだ。

「突貫工事で出来た街だからな、ここは。工事にかり出された連中が、帰るところをなくして、こんなところで寝てるんだ」

 建築資材や雨水の溜まった木箱が、むき出しのまま置かれている裏路地を、地下へと下りる。

少し階段を下りたところに、小さなバーの看板がぶら下がっていた。

その横にあったドアを足で蹴りあげる。

「ほら、仕事の時間だぞ。さっさと行ってこい」

 足の踏み場もないほど散らかった部屋で、女が寝ていた。

「あらディータ。また拾いものしたの?」

 小さなベッドから起き上がると、二人は口づけを交わす。

「ふふ。こんなかわいい男の子だったら、今回は許してあげる」

「ほら、遅れたらまたドヤされるぞ」

 薄い肌着一枚を被ったまま、女は外へ出て行く。

ディータと呼ばれた男は、そのままベッドへ寝転がった。

「あぁ。腹減ってたんだっけ?」

「それはもういい」

 ついてきたのはいいけど、俺はどこで寝ればいいんだろう。

散らかりまくった部屋を見渡す。

どこか横になれる場所を……。

「来いよ」

「うわっ!」

 ディータは俺の腕を掴むと、ベッドに引き寄せた。

そのまま、ぬいぐるみのように抱きかかえられる。

「離せ!」

「まぁそう言うなって。たまにはいいだろ」

 ディータは片手で俺の顎を掴むと、こめかみに唇を寄せキスをする。

じっとその目をのぞき込んだ。

「随分深い緑だな。生まれつきか? 俺の目も緑だろ? 必死で馴染ませたんだ。体に魔法石を」

「いいから、さっさと離せ」

 一人用にしても、小さめのベッドだ。

暴れる俺に、ディータは手を離すと、ぐるりと背を向けた。

「まぁ寝ろよ。起きたら、朝飯くらい食わせてやる」

 男は目を閉じ、静かに呼吸していた。

魔法で、ランプの灯りを消す。

まさか本当に眠ってしまったとは信じていないが、今日はここで寝るしかないようだ。

俺のすぐ脇で、動かなくなってしまった男を見下ろす。

魔道士と占い師は、同じ魔法石からの魔力を使うとしても、使い方が違う。

その気配と臭いは、同じ魔法使いなら区別がつく。

こいつは占い師だ。

多少の魔法は使えるようだが、占い師の臭いの方が強い。

占い師は嫌いだ。

予言者と名乗り始めたら、それはさらに最悪。

やがて賢者となり大賢者とか言い出したら、そいつはもう敵だ。

 男とシーツとの間にうずくまる。

人肌を感じながら寝るのも、カズを出て以来久しぶりだ。

念のため防御用のシールドを張っておこうか? 

ふとそんなことが頭をよぎるが、結局そのまま、眠ってしまった。
 頭上に降りかかる光りに、目を覚ます。

とっくに正午は過ぎているようだった。

何かをフライパンで焼く臭いがする。

「おー。チビ、目が覚めたか」

 ディータだ。

ハムと卵を焼いている。

ゴミというか衣類というかガラクタというか、そういうもので埋め尽くされたベッドの脇に、そういうもので半分埋もれたテーブルがあった。

ディータは、そのテーブルに乗っていたものを、腕のひとかきで下に落とすと、フライパンを置く。

「まぁ食え」

 そう言って、やはりモノに半分埋まったソファに、腰を下ろす。

すぐ横にあった紙袋から、パンを取り出した。

それをちぎると、半分を俺に寄こす。

「名前は?」

「ナバロ」

「そっか。俺はディータだ。よろしくな」

 マズくはないが、特に美味くもないものを、腹に押し込んだ。

目の前の食い物がなくなった時には、すっかり午後の日差しに変わっていた。

「で、お前はこれから、どうするつもりだ?」

「……。適当に過ごす」

「はは。なんだそれ」

 ディータは立ち上がる。

「ガキのくせに、生意気な口利いてんじゃねーよ。別に行く当ても、ないんだろ? ちょっと俺の仕事を手伝わないか」

「いやだ」

 彼はニヤリと口角を上げる。

「おいおい。一宿一飯の恩義を忘れるなって、言葉を知らねぇのか」

「関係ないね。お前が勝手にやったことだ」

 俺もソファから立ち上がる。

とにかく散らかりまくった、汚い部屋だ。

出口までの床に、足の踏み場がない。

ディータの腕が、ドカリと俺の肩に回った。

「そんな、つれないこと言うなって。いいからついて来いよ」

「離せ!」

「はは。まぁそう言うな」

 子猫のように持ち上げられ、運ばれる。

俺は顔を真っ赤にしているが、恥ずかしくて逆に動けない。

ディータはドアを蹴破ると、外に出た。

「占いの仕事だ。お前もちょっとは、出来るだろ。出て行くにしても、小銭くらい稼いでからにしたらどうだ」

 やっと下ろして貰える。

ディータはこちらを振り返ることもなく、歩き始めた。

なんだよ。クソ、仕方ないな。

ちょっとだけなら、どんなもんだか、様子くらい見てやってやってもいいか。

楽に金が稼げるなら、当分のものは必要だ。

ディータは俺に背を向けたまま、しゃべっている。

「アレだ。どうせグレティウスに行きたいとか、思ってんだろ?」

「行きたいんじゃない、行くんだ」

 昼下がりの雑踏を、のんびり歩いてゆく。

表通りの店は、どこも大勢の客が出入りしていた。

「やっぱガキの考えることは、たいてい一緒だよな。お前、どうやってグレティウスに行くのか、知ってんのか?」

 場所なら知っている。だが……。

「フン。さすがに分かってるか。大魔道士になりたいって?」

「なる」

「フフ」

 ディータは小さく笑った。

石畳の道を、噴水のある広場に出る。

そこを通り過ぎても、なお歩いてゆく。

「グレティウスは、大魔王エルグリムの、かつての居城跡だ。今は封鎖されて、簡単に入れるところじゃない。しかもそのどこかに、『悪夢』が眠ってるって話しだ。そりゃライノルトだって、放ってはおかない」

 ライノルト、かつての田舎町。

今は新政府の中央議会が置かれる、事実上の首都だ。

「そのライノルトも、今や大予言師ユファさまの言いなりだ」

 ディータはくるりと振り返る。

「だから、今からなるとしたら、何でも屋の魔道士より、予言師。つまり、占い師が狙い目ってことだ。魔道士なんてやめて、俺と一緒に占い師やろうぜ」

「やだね」

 ユファか。あの忌々しい、クソガキめが。

アレは、勇者スアレスに祝福を与えたことで、突然有名になっただけの、ただの詐欺師だ。

当時五歳だったガキの予言なんぞに、なにがある。

周りに乗せられて祀り上げられた、ただの飾りものだ。

それが今や、大賢者さまとして政府の中央にいるとは、片腹痛い。

「『悪夢』を探すにしたって、どれだけライノルトの連中が血眼になってても、見つけられないんだ。それを探り当てるためにも、予言師は必要なんだよ」

「ならばなぜ、ユファ自身が見つけない。『悪夢』を見つけられない時点で、アイツはクソだ」

 そう。俺の足元にも及ばない。ディータは笑った。

「あはは! やっぱお前、面白いな。じゃあお前は、見つけられるってのか?」

「見つけるさ。簡単だよ」

 俺が隠したんだ。ディータはそんな俺を、ニヤリと見下ろす。

「そうか。ならグレティウスを守ってる連中も、きっとお前を受け入れるだろうな。大歓迎だよ。待ってましただ」

 通りを曲がる。

目の前に開けたのは、立派な市場だった。

「だがそこまでの、道のりは長いぞ。ほら、ここが俺の仕事場だ。お前はここで、歌でも歌うか?」

 数十メートルの通り両脇にテントが張られ、様々な屋台が並んでいる。

野菜に肉、アクセサリーや帽子、スープやパンの店もあれば、様々な効能の魔法石を売っている店もある。

「ここと、もう一本隣に市が立つんだ。どこか人目につきそうな場所で、空いているところを探すんだよ」

 賑やかな通りを、一通り見て回る。

ディータは休業日の工場裏にある、小さな階段前で立ち止まった。

「この辺りがいいかな」

 ポケットから煙草を取り出すと、火をつけた。

魔法石と薬草の混じった、独特な紫煙が立ちこめる。

「これは……」

「まぁ黙って、見てろって」

 ディータは、カードを取り出した。

魔法石と薬草を混ぜた絵の具でイラストを書き付けた、一種のマジックアイテムだ。

魔法を帯びたそれを、宙にばらまく。

カードは美しい弧を描いて、キラキラと輝いた。

「さぁさぁ。何でも占う占い師だよ。魔法のカードが、あなたの未来をピタリと当てる。捜し物も結婚相手も、何でもお任せあれ!」

 ふわりと風を巻き起こす。

煙草の煙はわずかな魔力を含み、通りかかった人々に、幻覚を見せる。

虹色に輝く無数の蝶が、ひらひらと羽ばたいた。

「まぁ、素敵な魔法ね。私もひとつお願いしようかしら」

「さぁどうぞ、こちらへお座りなさい」

 くだらない。

これだから、魔道士がバカにされるんだ。

「俺はもう行くぞ」

「おいおい、ちょっと待てよ。お前も占いを手伝え。そういう約束だろ?」

「そんな契約を交わした覚えはない」

 立ち上がる。

俺は一刻も早く、グレティウスへ行かねばならない。

「待てって!」

 ディータの手が肩に触れた。

俺はそれを魔法で弾き返す。

ついでに幻覚を見せる煙草の煙も、かき消した。

「痛って! チッ、クソガキが。下手に出れば、つけあがりやがって」

「お前のような場末のエセ魔道士に、世話になるつもりはない」

 ディータが呪文を唱える。

途端に周囲は暗くなった。

幻覚魔法だ。

俺も煙草の煙を吸っている。

閉ざされた暗闇の中で、ディータは銃口を向けた。

「さぁ、大人しくするんだ。悪いようにはしないさ。お前がグレティウスに行きたいってんなら、連れてってやる。だがそれは今じゃない。分かるな」

「今じゃない?」

「あぁ、そうだ。今じゃない」

 ふん。笑わせる。

「悪いが、お前に頼るつもりは一切ない」

 呪文を唱える。

この煙草の煙が幻覚を見せるなら、俺の体内に入り込んだ、その成分ごと全て消し去ってしまえばいい。

『囚われし魔法石の粉よ。さぁ、空高く飛び上がれ、お前達は自由だ!』

 視界が歪む。

真っ暗な異空間に、現実の市場の風景が、割けたように入り込む。

この呪文では無理ってことか? 

ならばもう一度、強く命じればいい。

『飛び上がれ!』

 そのとたん、視界の闇は溶けだし、一気に空へ駆け上がった。

正しい世界を取り戻す。

「なっ、そんな呪文、聞いたことねぇぞ。何でそんなんで有効なんだ!」

 いつの間にか、周囲に野次馬の人垣が出来ていた。

同じ幻覚を見ていたのか、魔法が解けた瞬間、歓声と拍手が巻き起こる。

「ちっ、見世物じゃねぇぞ」

 ディータは、次の呪文を仕掛けている。

魔法石の粉を塗りつけたカードが宙を舞う。

コイツが占い師? 

ただ未来を嘆いているだけの、クズな魔道士には見えない。

随分手慣れているようだ。腕もいい。

「はは。コイツは面白くなってきたな。ガキだと思ってナメてちゃ、やられるかもな」

 ニヤリと笑みを浮かべた。

「そうこなくっちゃ。この俺を、ガッカリさせないでくれ」

 カードが魔方陣を描く。

見たことのない陣形だ。なんだこれ? 

舞い上がる砂埃が、足元の自由を奪う。

あぁ、違う。

ケンカ慣れしてんだ、コイツ。

ディータは胸の前で印を結んだ。

黒味がかった緑の目が、鮮やかに燃え上がる。

「本気で『悪夢』を狙うなら、これくらいはやってもらわねぇとなぁ!」

 魔力解放。

ディータの体は、一瞬にして深緑の炎をまとう。

その全てを吸収したと思った瞬間、増殖したカードが襲う。

俺は飛び交うその一つ一つを、丁寧に避けた。

飛んでくる軌道を、魔法でわずかに変えてやるだけでいい。

呪文を唱える。

『風よ、この身に纏う守りとなれ』

 らせん状の風を、足元から自分の体に巻き付けた。

ディータはすぐに、次の呪文を唱えている。

そのカードの一つが、姿を変えた。

これは煙草による幻覚なんかじゃない。

「はは。なるほどね」

 このカードたちは、ディータの使い魔だ。

主の唱える呪文によって、自在にその姿を変化させる。

「ならば、遠慮なく行こう」

 相手が本気でかかってくるなら、こちらも本気で返さないと失礼だろう? 

こういう本物の魔道士を相手にするのは、この体に生まれ変わってからは、初めてだ。

ディータの呪文で、カードは三つの頭を持つ大蛇に変化した。

俺は右手をかざす。

破壊魔法? 

それとも、全部のカードを一気に吹き飛ばす? 

いやいや、それじゃ面白くないだろう。

『石は石の元へ。木は木の元へ帰れ』

 その呪文に、膨張し、そのまま弾け飛ぶかに見えた蛇は、再び形を取り戻した。

ディータの魔力をそのまま形にした蛇は、赤黒く光り輝く。

「ふん。そんな単純高等魔法で言うこと聞かそうなんて、エルグリムでも無理だろうよ」

 ディータの呪文。

『踊れ。お前の望むままに!』

 大蛇の体は三つに裂け、俺に飛びかかった。

「見た目通りのガキじゃないことを、ここで証明してくれ」

 鋭い牙が肌を切り裂く。

まとうつむじ風で振り落としたものの、これでは動けない。

「案外退屈だったな。子供は家に帰りな」

 ディータは腰の拳銃を抜いた。

その銃口を、真っ直ぐに俺に向ける。

引き金を引いた。

「その判断はまだ早い」

 飛び上がる。

背面に飛び、弾丸と蛇を避けた。

着地したついでに尾を掴み、奴に向かってぶん投げる。

ディータはそれを肘で受け止めると、そのまま体に吸収した。

自分の魔力を外に取りだし、操る術だ。

そういえばそんなことが出来る連中も、腐るほどいたな。

「目の色を分散させているのか。それなら魔力の深さは、簡単には測れない」

「器用だろ? こんなもんじゃないぜ」

 ディータが呪文を唱える。

二匹の蛇は、狼へと姿を変えた。

赤黒く魔法で光るその二頭は、同時に大地を蹴った。

とりあえず先に、その一匹を弾き飛ばす。

群衆の中に向かったそれは、すぐにディータが回収した。

残るは一匹。

「反撃してこいよ。どうして何もしない。まさかそこで立ってるだけが、精一杯ってわけでもないんだろ?」

 どうしよう。

何の呪文で対抗しようか。

昔の使い魔を出す? 

魔力を擬態化した、コイツの使っているようなものではない、本物のモンスターだ。

どこにいったっけ。

召喚したところで、今さら言うこと聞いてくれるかな。

「そういえば、俺にもちゃんとした使い魔がいたなーって」

 俺は静かに目を閉じ、印を結ぶ。

「お前に使い魔? マジかよ。モンスターと契約を結ぶには、それなりの宣誓か能力が……」

「そうだよ。お前のその、なんちゃって使い魔じゃない、本物の魔物たちだ」

 呪文を唱える。

『この声に覚えのある者どもよ、我の元へ集え。いにしえの約束を果たすときが来た』

 魔力を帯びた呪文は言霊となり、世界へ広がってゆく。

大地が揺れ始めた。

「なっ、お前。そんなセリフ吐いたところで、どんなヤツが来るってんだよ」

 街全体が揺れている。

それを覆う、空気までもがふるえた。

予兆だ。

これはエルグリム復活の予兆として、再び世界に轟き、恐怖として響き渡るだろう。

静かな風が、目の前を横切る。

「……。ダメか」

 だがそれは、一瞬にして平常を取り戻してしまった。

返事はない。

あぁ、俺が死んだ時に、一緒に全部、狩り尽くされてしまったんだな……。

「お、驚かすなよ。テメー!」

 周囲を取り囲む野次馬までもが、怯えから解放された、安堵のため息をもらす。

魔力によって形作られただけの使い魔は姿を消し、それを呼び出すカードだけが地面に落ちていた。

「おいおいどうした? 俺のまでビビって、消えちまってんじゃねぇか」

 ディータはそれを拾うと、もう一度印を結ぶ。

「お前まさか、本気で魔物たちを呼び出せるとか、思ってたワケじゃないよな」

「呼び出せる……。と、思った」

「ふん。その魔力の強さは認めるが、本当の使い魔ってのは、呼び出す前に契約が必要なんだ」

「知ってるよ。一度は従えないといけない」

「懐かせないとな」

「うん」

 ディータは印を結ぶために組んだ手の奥から、視線をチラリとのぞかせた。

「は? マジで呼び出せるとか、思ったのか?」

 魔法使いの目が、じっと俺を見つめる。

「あぁ、そうだよ」

 実に残念だ。

「本気で?」

「本気で」

「マジか」

「マジだ」

 俺たちをぎっしりと取り囲む群衆の奥から、不意に騒ぎ声が聞こえてきた。

それらを蹴散らし、銀の甲冑が飛び込んでくる。

聖剣士たちだ。

「なんだこの騒ぎは! って、またお前かディータ。いい加減にしろ」

「あぁ? 今回のは、見世物じゃねえよ。どっか行ってろ」

「あれだけの魔力を放出しておいて、知らんぷりが出来るか」

「やかましい。手出しすると、タダじゃ済まねぇぞ」

 その言葉にたじろぐ聖剣士たちの中で、ただ一人が剣を抜いた。

はめ込まれた石に、呪いがかかっている。

魔剣だ。

「いつでもどこでも、この街じゃお前が騒ぎの原因だ。いい加減、大人しくしろ」

 その男はチラリと俺を見たあとで、すぐに視線をディータに戻す。

「あの地震はなんだ。お前がやったのか」

「あぁ? ……。あぁ、まぁちょっと新しい呪文を試してみたけど、あんま上手くいかなかったなぁって話しだ」

「なぜ街中で騒ぐ。あれほど迷惑はかけるなと……」

「所詮しがない占い師だ。日銭を稼いでなにが悪い」

 この聖剣士の目は、黒っぽい茶色をしている。

魔道士ではない。

「今度騒ぎを起こせば、次はないと警告してあったはずだ。覚悟は出来ているだろうな」

 聖剣士は呪文を唱えた。

魔力を吸収するよう石に指示を出している。

剣にはめ込まれた魔石が黒く光った。

こんな剣を扱えるのは、ただの聖剣士ではない。

そしてその剣も、ただの剣ではない! 

構えた剣が宙を斬る。

ただそれだけで、ディータの張った結界が崩れてゆく。

「もう魔道士の時代は終わったんだ。大魔王エルグリムを倒せると予言した、ユファさまから祝福を受けた、吸魔の剣だ。お前らごとき占い師風情が、俺に勝てると思うな」

「そういえばお前とは、一度ちゃんと勝負しないといけなかったな」

 ディータが呪文を唱える。

攻撃魔法だ。

小さな火の玉が、聖剣士に襲いかかる。

その剣が火に触れた瞬間、炎は刃を伝い魔石に吸い込まれてゆく。

「さぁ、今度こそ牢に繋がれ、正当な処罰を受けるがいい」

 剣士の呪文。

魔石の色が黒から赤に変わった。

とたんに剣は、炎に包まれる。

相手の魔力を奪い、それを自らの力に変える……魔剣だ。

「この剣の前では、どんな魔法も意味を成さない。お前もいつまでも、手品に夢見る大魔王ではいられないぞ」

「魔法は手品じゃねぇ」

「もちろん手品じゃないさ。だがその使い方を、間違えるなと言っている」

 ディータは呪文を口ずさむ。

相手の動きを封じる魔法か? 

俺は足元に落ちていた小石を拾った。

「所詮、実体である肉体の動きには、勝てないと言ってるんだ」

 聖剣士は、炎の剣を構える。

『蜘蛛の巣よ、魔剣士の動きを止めろ』

 ディータの手から、緑の網が放たれる。

剣士は魔剣を振るった。

その炎は、蜘蛛の巣を焼き落とす。

刃の切っ先が、ディータの首元を捕らえた瞬間、俺の投げた石はその刀身を弾いた。

「ふん。確かにその剣は、大魔道士エルグリムを倒した剣のようだ」

「……。魔法使いの子供か……」

 その剣士は、俺を見下ろす。

「子供でも、コイツに加勢するなら容赦はない」

 なにが聖剣士だ。魔剣だ。

お前のその剣こそ、呪われていることを教えてやろう。

「おい。ガキはさっさと、どっか逃げてろ」

「詐欺師ユファの加護だと? そんな物を振り回しありがたがる連中に、何を恐れることがある」

 呪文を唱える。

俺の目の前でそんな剣を振るったことを、後悔させてやる。

「おい! やめろ!」

 魔力解放。

激しい力が俺の体を貫通し、天から大地を貫く。

燃え上がる碧い緑の炎柱に体が包まれた。

「無茶しすぎだ! それじゃあ、お前の体がもたない!」

 聖剣士は呪文を唱えている。

魔石の色が赤から黒に変わった。

その程度の石で、俺の力を奪うつもりか? 

銀の鎧に身を包んだ聖剣士が、魔剣を振るった。

「やめろ!」

 ディータが飛び出す。

俺は標準をその聖剣士に定めた。

『滅びの声を聞け』

 ディータが結界を張る。

それに弾かれた俺の波動弾は、そのまま俺に戻ってきた。

「バカ! ちょっとは考えろ!」

 視界がぼやける。

あぁ、またやってしまった。

本当にこの体には、未だに慣れない。

聖剣士が慌てた顔で駆け寄ってくる。

その剣を鞘に収めたから、まぁいっか。

俺は誰かの腕に抱き留められると、そのまま意識を失った。
 ふと気がつくと、どうやら俺は、ディータの腕に抱かれているようだった。

荷馬車に乗せられているのか、ガタゴトと揺れている。

頭上では罵声が飛び交っていた。

「あんな魔剣で、子供に向かっていくヤツがあるか!」

「だったら、どうすればよかったんだ。お前こそ、ヘタな反射魔境かけやがって」

「死んだらどうするつもりだった!」

「そんな失敗をこの俺がするように見えるか。お前こそ、なんでちゃんと魔法の使い方を教えていない。その方が問題だ」

「これから教えるつもりだったんだよ」

「またそれか。お前はいつだってそうだ」

 全身がダルくて重い。

魔力酔いだ。

わずかに体を動かす。

「うっ……」

「気づいたか? おい、ナバロ。俺が分かるか?」

 目を開ける。

やっぱりディータだ。

俺は小さくうなずく。

「あぁ! よかった。お前はやりすぎだ。心配させるなよ」

 男の腕に、ぎゅっと抱きしめられる。

それはそれで悪いとは思わないが、ちょっとうっとうしい。

聞き慣れない、大きなため息が漏れた。

「あぁ、助かった」

 ディータの向かいには、あの魔剣を持つ聖剣士がいる。

その男の手が、俺の額に触れた。

「全く。生きた心地がしなかったぞ。熱はないのか? 水は?」

「ほしい」

 起き上がる。

渡された皮袋に口をつけた。

いつの間にか辺りは、すっかり夜になっている。

「気分はどうだ」

「最悪」

 俺はその水袋を聖剣士に戻した。

ディータの膝上に抱かれたまま、ぐったりとしている。

荷馬車は大きく傾いた。

どこかの敷地に入ったようだ。

懐かしいような臭いに混じって、吐き気がするほどの腹立たしい結界が張られている。

この聖騎士団の荷馬車で運ばれなければ、決して侵入出来なかっただろうし、しなかった場所……。

「着いたぞ。歩けるか」

「分からない」

「いいよ。俺が抱いていく」

 荷台のホロが巻き上げられる。

踏み台が用意され、俺はディータに抱きかかえられたまま、そこに降りた。

ぐるりと高い城壁に囲まれた馬車寄せに、かがり火が焚かれている。

聖騎士団の剣士、魔道士たちが、ぎっしりと辺りを埋め尽くしていた。

「なんだここは」

 その異様な光景に、思わず声が出る。

ディータは皮肉たっぷりの笑みを浮かべた。

「ナルマナの、聖騎士団本拠地だ。ナバロ。ここじゃ大人しくしとけよ」

 俺たちは魔剣の騎士に誘導され、馬車寄せから城内へと向かっていた。

この城は知っている。

昔、俺の建てた城だ。

扉が開く。

「ディータ!」

 女が飛び出してきた。

「今度は何をした!」

 長い赤毛の波打つ髪に、同じ赤茶けた目をしている。

軍服と、胸に並んだ勲章の数は、ここの団長か? 

靴音高らかに歩み寄ると、階段の上から俺たちを見下ろした。

「本当に子供と……。どうして連れてきた。知り合いなのか?」

「俺の子だ。イェニー」

「……。は?」

 赤毛の女の赤い目と、俺の視線がぶつかる。

「こいつはいま、魔力酔いを起こして動けないんだ。ベッドを用意してくれ」

「お、お前……に……。こ、子供? 一体、いつ……」

 魔剣の男は女の隣に並ぶと、彼女を見下ろした。

「イェニー団長。落ち着いてください。彼らの年齢を考えると、どうしてもおかしいでしょう」

 ディータは女を無視して、そのまま城内に入った。

構わず歩き続ける俺たちを、女は追いかけてくる。

「待て、ディータ。なぜお前が、そんな子供を連れている?」

「いいから、ベッド用意しろよ。それとも医務室の方がいいか?」

「そ、そうだな。い。医務室なら……」

「団長。コイツには累積警告が溜まっています。子供はともかく、せめてディータは地下牢に」

「そ、そうだな。キーガン。ディータ、子供はこっちで預かる。お前は地下牢に……」

 ディータは俺を抱きかかえたまま、団長と魔剣士を振り返った。

「こんな子供を、一人で置いておけるか!」

「し……、しかし……。そ、それは本当に、お前の子なのか?」

「それになんの問題があるんだ?」

 女はよほど、俺のことが気になるらしい。

ディータは支離滅裂、意味不明ながらも、女に対して強気な姿勢を崩そうとはしない。

「い……、いつの間にそんな子供を……」

「イェニー団長。判断が難しいのなら、せめて結界を張った地下の個室に収監しては?」

「そ、そうだな。そっちに案内しよう」

 ようやく女が、先になって歩き出した。

キーガンと呼ばれた魔剣士は、俺たちを見下ろし、ため息をつく。

「ついてこい。イェニー団長の温情により、お前たちは地下牢に繋がれることを免れたぞ」

「フン。当たり前だ! なんで俺が、そんなところに入れられなきゃならん」

 ようやく移動先が決まった。

いくつもの廊下を渡り階段を下り、地下へ潜る。

内装はすっかり変えられているが、城の構造なら覚えていた。

やはりこの城はかつて、俺の建てた城だ。

この辺りに巣くう魔物たちに与えたら、よほど気に入ったのか、周囲を襲い奪いつくしたあとでも、長らく根城にしていた。

彼らは勝手に地下も掘り進め、そこはすっかりダンジョン化していたはずだ。

 むき出しの地層をそのまま残した階段を下りていく。

灯りが灯されているのは、ここの魔道士たちの力か。

地下深くにまで及ぶ結界は、ずいぶんと根深い。

「ここだ」

 団長のイェニーが、鉄格子の扉を開ける。

牢獄にしてはずいぶんといい造りだ。

ベッドにサイドテーブル、床にはラグマットが敷かれ、小さなもの書き物用の机と本棚まである。

俺を抱き抱えたままディータはそこに入ると、俺をベッドへ寝かせた。

この城に入った時から、ずっと気になっていた。

聖騎士団には魔道士も所属している。

その魔道士たちが何人も協力し、それぞれのやり方でこの城に強固な結界を張っていた。

地下ではそれが、より強固になっている。

この檻の鉄格子も、普通の金属などではない。

魔法の“臭い”を察知し、無効化する呪いをかけてある。

ここは、魔道士専用の牢獄だ。

「おい。コイツをここに寝かせるのはいいが、俺のベッドがねぇじゃねぇか」

「わ、分かった。あとでもう一つ持って来させよう」

「イェニー団長。コイツは床で寝たので十分です」

 ディータは椅子をベッド脇まで引き寄せると、そこに腰掛けた。

なぜかイェニーとキーガンまで、牢の中に入ってきている。

むき出しの土壁に鉄格子と見張り番さえいなければ、普通に宿の一室だ。

「で……。この子供はなんだ」

「しつこいなイェニー。俺の子だって言ってんだろ」

 女はビクビクしながら、俺の顔をのぞき込む。

「と、歳はいくつだ」

「……。十一」

「十一? だとすると……、ディータが十五の時の子か」

「ありえなくはないだろ」

 突然、イェニーはもの凄い剣幕でディータの胸ぐらをつかむと、グイと引き寄せた。

「貴様、いつの間に! あれだけしておきながら、よくもそんなことが!」

「俺がどこで何をしようと、お前には関係ないだろ!」

「関係はないが、ないわけではないと言ってるだろう!」

「なにがどう関係あって、なにがどう関係ないんだ!」

 そのディータの言葉に、急にイェニーは頬を染めうつむき、その手を緩める。

「そんな……ひど……。ち、違う。ほ、本当にお前の子供なら、まずはお祝いしないと……」

「は? なんでお前に祝われないといけないんだ」

「だ、だって、仮にもお前の血を分けた子供なら、私もそれを受け入れ、我が子として育てなければ。たとえそれが、他の女との間に出来た子でも、やはり……」

「団長。しっかりしてください。まずは騒動の取り調べを」

 モジモジとはにかむイェニーに対し、キーガンは慣れっこなのか、表情一つ変えることなく、ごく冷静に対応している。

「え、えっと……。ディータは、いつになったら私にプロポーズと愛の言葉を……」

 不意に、牢獄の入り口から強い魔法の臭いがした。

ディータもその気配に気づき、顔を上げる。

開け放しにされたままの牢の前に、その女は現れた。

「ほら。ソファを持って来てあげたわよ。どうせいるだろうと思って」

 魔道士だ。

グレーの真っ直ぐな髪に、同じ色の法衣を纏っている。

やや灰色がかってはいるが、鮮やかに光る緑の目をしていた。

「モリー。あまり団長を甘やかすな」

「まぁ、キーガン。そんなことを言って、どうせイェニーに泣きつかれて、夜中に一人でこっそり運ぶはめになるのは、あなたよ」

 魔力でソファ二台とそのセットになったローテーブルを浮かべている。

それを器用に傾け、牢獄の入り口をくぐり抜けると、ラグマットの上に並べた。

「はい。毛布も持ってきてあげたわ」

「やぁ、モリー。久しぶりだね」

「本当ね、ディータ」

 灰色の魔道士から、ディータは毛布を受け取った。

この女からあふれ出る“臭い”は相当なものだ。

自ら魔法石を摂取するだけではない、他人から魔力を奪い取って力を増してきた魔道士だ。

ソファを並べる手際といい、ディータ以上に、よく出来る魔道士なのは間違いない。

「あなたのことは、いつも気にかけているわ」

「そうかい。ありがとう。おかげで苦労しているよ」

 ディータとモリーは、にっこりと微笑みあう。

そのモリーは俺を見下ろした。

「この子は?」

「拾ったんだ」

「どこで」

「街中で歩いてるのを見つけた」

 モリーはじっと俺の目をのぞき込む。

「まぁ、素敵な緑の目ね」

 横で聞いていたイェニーが、悲鳴をあげた。

「さ、さっきは俺の子だって言ったじゃないか!」

「うるせぇ、お前は黙ってろ」

「イェニー団長。落ち着いてください。明らかに顔が違います。この男とは全く似ているところはありません。それに……」

 キーガンはその目をディータに向けた。

「コイツの子が、あんな魔力を持っているはずがない」

 キラキラと輝きを増した赤い目が、俺を見下ろす。

「え……? ほ、本当にディータの子供じゃないんだな?」

 俺は仕方なくうなずく。

「そうかぁ! ようこそ我が団城へ! 歓迎するぞ」

 思いっきり抱きつかれた。

こういうのは本当に、苦しいからやめてほしい。

イェニーは、まだ俺の頭をなで回している。

モリーが言った。

「あの地鳴りはこの子が?」

「そうだよ」

 ディータはため息をつく。

「まさか本当に、現れるとは思わなかった」

 イェニーはようやく俺を放すと、枕元に腰をかがめ、横になっている俺と視線を合わせた。

「もう体は大丈夫なの? 具合の悪いところはない? お腹は空いてないの? 困ったことがあれば、何でも言ってくれれば……」

「だめよ、イェニー。ちゃんと仕事して」

「小僧。どこから来た。家は?」

 甲冑を身につけたままのキーガンは、一人離れた位置で腕を組む。

「両親が心配しているだろう。連絡くらい入れておいてやる」

「はっ、だから言っただろう。この子の親は、今日から俺だ」

「そ、そうなのか? ディータ。分かった。だったらこんなところではなくて……」

「ふざけるな。そんな言い訳が通じるのは、うちの団長くらいだ」

「そうよ、イェニー。ちょっと落ち着いて」

 モリーが呪文を唱える。

緑灰色の目が、妖しい光を放つ。

それはとても複雑で強力な呪文だ。

「そうね、ディータが見張っていてくれるというのなら、ここで任せておいてもいいわ。じゃなきゃ、本当に一番奥の地下牢に、鎖で繋いでおいたかも」

「おいモリー。やめろ」

 ディータの言葉を、その魔道士の女は無視する。

「大地を揺るがすほどの魔力を、この体に貯め込んでたですって? ありえないわね。だけど信じるわ。だって私にも聞こえたんですもの、この子の声が」

 封魔の呪文。

体がズシリと重くなる。

これは彼女の力だけではない。

長年にわたってこの城にかけられ続けている呪いのせいだ。

その魔法が、この結界の中にいる限り、魔道士たち個人の能力を、強く強く増長させている。
「辛いわよね。分かるわ。さっきあれだけの魔力を解放したんですもの、立ってもいられないのでしょう? タイミング良すぎて助かるわー。おかげで私の手間が省けたし、あなたに酷いことをしなくてすむ。悪いけどここにいる間は、ずっとその状態でいてね」

 魔力を補給するには、原則として魔法石を摂取しなければいけない。

その力を魔力に変えて体に馴染ませ、蓄積する能力のある者だけが魔法使いになれる。

それでもなお、より多くの力を望むのなら、自らの体以上にその力を保有する『入れ物』を作るか、他から奪えばいい。

「一度貯め込んだ魔力はその人自身のもの。それを使って解放しない限りは、そこにとどまり続ける。その流れを止めたわ。枯渇寸前だもの、コップの上に蓋をするようなものね。喉が渇いても水は飲めない。つまり、あなたの魔力は今のまま、回復しないってことね」

 魔道士モリーはにっこりと微笑む。

「大丈夫よ。止められはしても、なくなりはしないわ。魔力ってね、なくても案外、人って生きていけるものらしいわよ。私はやったことないから、知らないけど」

「これだから魔道士は嫌われるんだ」

 キーガンはベッドに近寄ると、俺の腕を持ち上げた。

その手を放した瞬間、バタリと棒切れのようにマットへ落ちる。

「気力も体力もつかない子供に、本当にあんな力があるものなのか?」

「魔道士を甘く見ちゃダメよ、キーガン。あれはとても恐ろしい予兆なの。あなたたち剣士には、分からないでしょうけど」

 そう言うとモリーは、くるりと背を向けた。

「さぁ、もう戻りましょ。時間外労働なんて、無能な人間のすることだわ」

 俺はベッドの上で、何とか寝返りをうつ。

モリーのかけた呪文は、声まで塞いでいた。

「そ……、そうだ……。ふざけるのも……大概にしろ」

「まだしゃべれるの?」

 かすれた声で呪文を唱える。

モリーのかけた呪いは解けた。

ふわりと体が軽くなる。

とどまっていた魔法石の力が、体を巡り始める。

「封魔の術が聞いて呆れる。これだから聖騎士団所属の魔道士なんて……」

 ドンッと、体に重みが増す。

俺は再び、マットに叩きつけられた。

「か……、な……」

「やれやれ」

 ディータがため息をつく。

「ここの魔法はな、魔力をそのまま返すタイプの封魔術なんだよ。強い魔法を使おうと思えば使うほど、圧力も強くなるってわけ」

「ゴメンね、坊や。ディータは置いてってあげるから、大人しくしていなさいね。それなら寂しくないでしょ」

 久しぶりだ。

この感覚。

この鼻をつくムカムカとした臭いは、あのユファとスアレスに、その腐臭が近いせいだ。

『力よ、動け!』

 衝撃魔法。

ドンと空気が震える。

この地下に流れる魔力の向きを変え、それを操る。

『ここに留まる全ての力よ、元の主の元へ帰れ!』

 とたんに空気は、重く熱く熱を持ち始める。

抗いあう魔力と魔力が、せめぎ合う熱だ。

「俺自身の魔力じゃないのなら、それも可能なはずだ!」

「他人の魔法を、魔力で動かすですって?」

 再び呪文を唱える。

ここに仕掛けられた魔法が、ゆっくりと、だが確実に動き始めている。

キーガンが吸魔の剣を抜いた。

古い魔法の残りだ。

どこからか飛んで来た、見えない刃が空を斬る。

キーガンの剣はそれを弾いた。

「ちょっと! ここは狭いんだから、暴れないでよ」

 モリーの呪文。

再び抑えつけられるその強い重みに、俺はガクリと両手をついた。

これ以上は無理だ。

完全に動けなくなった俺の赤い髪を、モリーが掴む。

その親指の腹で、優しく目元を撫でた。

「今が勤務時間外でよかったわね。そうじゃなきゃ、キミは死んでたかも」

「お前が強がっていられるのは、この城の中だけだ。外に出れば、その能力の、半分も出せないだろう?」

「うふふ。確かにそうかもね。なら城外に出て試してみる? ……な~んて、言うと思ったのかしら」

 モリーの呪文。

その言葉に、俺の全身の体液は逆流した。

「うっ……」

 意識が飛ぶ。

一瞬、目の前が真っ黒になり、戻った時には鼻血が吹き出した。

棒きれのように、ベッドにバタリと倒れる。

「モリー、やり過ぎだ」

 キーガンが動いた。

その拳は、ディータの腹をドンと殴りつける。

抵抗出来ない彼にさらに肘打ちを加え、地面に叩き落とした。

「お前はこの城の特殊性をよく分かっているだろ。この子にもそれを、ちゃんと教えといてやれ」

 ディータの動きも鈍い。

ここでは結界の魔法が、見えない手かせ足かせとなって囚人の動きを封じている。

「今日はもう遅い。しっかり休んでおけ。そうじゃないと、明日から地獄を見るぞ」

 三人はようやく牢を出て行く。

ふいにイェニーが振り返った。

赤らんだ頬で、はにかみながらディータを見つめている。

彼女はもじもじと、小さな声でつぶやいた。

「ほ、他になにか、用事はないか?」

「は?」

「な、何かあったら、いつでも私を……、その、頼ってもらってもかまわない」

「俺には、お前の顔を見られただけで十分だよ」

「そ、そうか」

 イェニーは顔を真っ赤にして、そのままモジモジとしている。

「もう行くわよ、イェニー。しつこい女は、ディータは嫌いだってよ」

「イェニー団長。しっかりしてください」

 モリーとキーガンは、それでも動こうとしない彼女を連れ、ようやく出て行った。

ブツブツと抗議を続ける彼女の声が、地下牢に響いている。

ディータはやれやれと首を横に振った。

彼らの気配が完全に消えるのを待って、俺はゆっくりと体を動かす。

起き上がろうにも、体がいうことを聞かない。

重厚な鎧を全身にかぶせられているようで、何をするにも体が重い。

「魔法を使おうとするな。自分の体が持つ、本来の筋力だけで動くんだ。そうすれば、普通に動ける」

 ディータに言われ、俺は少し頭で考える。

誰にもその正体がばれないよう、ずっと姿を隠す魔法を自分自身にかけていた。

魔道士ならだれでも、自分の体に何らかの魔法はかけている。

これを解いていいものなのか? 

ゆっくりと腕を曲げ、膝を動かし、腰を落とす。ようやく起き上がれた。

「魔力に似合わず、その体だけは本物なんだな」

 その問いにだけは、答えない。

「その体が本物じゃなきゃ、誰も疑いやしないさ」

「ずいぶんと彼らと、仲が良さげじゃないか」

「腐れ縁だよ。しかも聖騎士団だぜ? 反吐が出る」

「仲間になれば、もっとラクに生きれるだろ」

 ディータからの返事はない。

じっと自分の手を見る。

何の魔法もかかっていない、自分自身の手だ。

見慣れているはずのその手が、いま初めて見るもののような気がした。

「しかし、この結界のかけ方は異常だな」

「まぁな。聖騎士団の団城なんだ。こんなもんだろ」

 ようやくディータと二人きりになった。

まぁ、見えない所に見張りはいるんだけど。

ディータはソファにドカリと腰を下ろす。

俺はベッドから立ち上がった。

「ふぅ。大丈夫か?」

「なんとか」

 俺は、自分で自分の体を確かめている。

大きく息を吐き出し、そのまま目を閉じた。

「まぁ今日はゆっくり休め。ある意味ここは、世界で一番安全な場所だ。腹が減ってるなら、何か運んでもらうか?」

「いや、それは大丈夫」

 改めて、ゆっくりと辺りを見渡す。

いつも何らかの魔法を自分にかけていたから、体一つで動くなんて、滅多にないことだった。

足の感触を確かめながら、一歩一歩を慎重に踏み出す。

魔力による灯りが消され、すっかり薄暗くなってしまった、地面に穴を掘っただけの天上を見上げる。

ふと自分の足元をじっと見つめた。

二本の足が、真っ直ぐに伸びている。

「どうした。そんなに自分の体が不思議か?」

「慣れないんだ。自分のものなのに、そうじゃない気がして」

「お前は魔力と体のバランスがおかしいからな。間違っているとも言っていい」

 ディータはソファに寝転がると、ゆっくりと俺の全身を観察している。

「どこでそんな呪文を覚えた」

「……。覚えたんじゃない、自分で考えたんだ」

 そんなこと言っても、この十一歳の見た目では誰も信じない。

エルグリムの時から、もう何百回何千回も繰り返し、聞き飽きた言葉だ。

「秘密の魔道書を拾ったわけでも、大魔道士の魂に触れたわけでもない。俺自身が、元からこういう奴だったってだけだ」

 いつだって俺は、俺でありたかっただけなのに……。

「もしかしたら、もっと違うやり方があったのかもしれないな」

 この薄暗い地下室は、押し込められていたあの牛小屋を思い出す。

今の方がずっと広く快適で居心地のいいのが、どうしようもなく不思議なくらいだ。

「ディータはなんで魔道士に?」

「俺? 俺は……。そうだな。俺がまだお前ぐらいだった頃は、大魔王エルグリムが幅を利かせてたんだ」

 ディータはごろりと仰向けになると、目を閉じた。

「そりゃあ強かったぜ。誰も逆らえやしなかった。恐ろしかったし怖かった。今じゃ信じられないだろうけど、普通に魔物が空を飛び、路上で人を襲っていたんだ。それでもな、俺は……。俺は、嫌いじゃなかったんだよ。魔物もモンスターもね。賢くやる人間ってのは、どんな時代でもいるもんさ。それなりにたくましく生きてたんだ。ナルマナに来る前は……。まぁいいや。そんなこと」

 彼は肩肘をつくと、そこに頭を乗せた。

「魔道士の王様がこの世を治めているのなら、魔道士になりたいと思うだろ? いつか沢山のモンスターたちを従えた、カッコいい魔道士になるんだって、そう思ってただけだ。なにをバカなことをって、いつも賢い大人には怒られていたけどな」

「エルグリムは嫌われ者だったから」

「それで、聖剣士に殺されちまったしな」

 俺はベッドに寝転がった。

闇に慣れた目に、ぼんやりとディータの靴裏だけが見える。

「なんで俺について来た?」

 その柔らかな闇の中で、彼はフッと鼻で笑う。

「聞きたいか? おっさんの戯れ言を」

 俺はゴソゴソとベッドに潜り込む。

「今聞かないと、もう聞くことはないと思う」

 彼の深いため息が、闇夜に響いた。

「そっか。まぁそれもそうだよな。……。俺は……、もう死のうかと思ってたんだ。こんな意味のない人生を送るなら。占い師が自分の未来を占うって、どういうことだか分かるだろ?」

「……。自分の死期をみること」

「そう。そうなんだ。俺は突然、自分の死ぬところが見たくなったんだ。お前と出会ったあの近くの橋の上でさ。ちょうどあの時、俺はそこで自分の最期を占ったんだ」

 ディータは、自分のカードで自分を占った。

このまま川に飛び込んで死ぬと出たら、本当にそのままそこで、死ぬつもりだった。

「そしたらさ、裏路地へ行けって出たんだ。すぐに分かったよ。その瞬間、強い魔法の気配を感じたからな。俺はそこに、運命の女神でも待ち構えているのかと思って、行ってみることにしたんだ」

 あのごちゃごちゃとした汚い路地裏で、俺たちは出会った。

「すんげー期待して行ったのにさ、居たのはお前みたいなクソガキで、がっかりだよ」

 そう言って、ディータはクスクスと笑う。

彼はもう一度寝返りをうつと、今度は背を向けた。

「それだけのことだ。何度も言ってんだろ。ただの暇潰しだって」

「死ぬつもりだったのか」

「あぁ、もういいだろ。寝言みたいなもんだ。さっさと寝ろ。明日はここを抜け出すぞ」

「……。どうやって?」

「それを考えながら寝るんだよ。難しいこと考えてたら、すぐに寝られるだろ」

 ディータの上着の内ポケットには、自分の魔力を封じ込めたカードが入っていることを、俺は知っている。

ディータの魔力はそれに分離して保管しているから、発動させなければここでも影響はないんだ。

「何もしないというのも、作戦の一つってこと?」

「当然だ」

 だけど、あの連中との仲の良さなら、彼らも知ってはいるのだろう。

それでもカードは没収しないのか、していないのか……。

「おい、寒くねぇか?」

「うん。大丈夫。ディータのとこのベッドより、ずっといい」

 ここは温かい。

誰かの魔法に包まれて眠るのも、悪いことではないのかもしれない。

見張られているんじゃなくて、見守られているんだ。

そんなことを、俺は生まれて初めて思っている。

それに何だかここは、懐かしい臭いがする。

昔訪れたことのある、よく知った城だからなのかもしれない……。
 朝になって、食事が運ばれてきた。

囚人用とはとても思えない、随分と豪華な朝食だ。

大きな銀のプレートに乗せて運ばれてきたそれには、肉に魚、フルーツに野菜類、小さなクッキーにプリンやゼリーまである。

取っ手のついた壺には、水の他にも五種類の飲み物が用意され、飲み放題だ。

俺はスライスされた三種類のパンの一つに、ハムとチーズを挟んだ。

焼いた肉の塊もきれいに切り分けられ並べられている。

テリーヌを遠慮なくむさぼるディータを、番兵たちは妬ましげに見ている。

「何だよ。お前ら飯は食ったのか?」

「仕事中だ」

「何なら一緒に食うか? 入って来いよ」

「それは無理だ」

「だったらせめて、こっちに来い。そっからじゃ手は届かねぇだろ」

 戸惑う番兵たちに、ディータは何でもないことのように言った。

「イェニーには、俺から言っておいてやるから」

 これらは全て、イェニー団長からの差し入れだそうだ。

なかなかに愛されている。

「ナバロ。食い終わったら作戦会議だぞ」

「なんの?」

「脱獄計画だよ」

 俺たちは牢獄の中にいて、檻の向こうにいる番兵二人と、一緒に飯を食っている。

「そうだよなぁ、番兵さん。入れられた牢からは、自力で脱出しないとなぁ」

「また団長が泣くぞ。いい加減諦めて、一緒になってくれ。俺たちのためにも」

「お前さえ犠牲になれば、他は全て上手くいく」

「俺は関係ねぇよ」

 ふわりと魔法の臭いが漂ってきた。

それに気づいたディータも顔を上げる。

モリーだ。

「まぁ! 私はこの団城における服務規範の徹底について、いま一度審議会にかけなくちゃいけないわ」

 そう言うと彼女はしゃがみ込み、檻の隙間からカボチャのパイを手に取った。

香ばしい焼き色のついたそれを、もしゃもしゃと食べ始める。

「あら、おいしいわね」

「主席魔道士さま自ら、何の用だ」

「ディータも食べた?」

「質問に答えろ」

「ふぅ。食べ終わるまでちょっと待ってよ。相変わらずせっかちね」

 モリーは最後の一口を食べ終わると、指についたパイクズを舐めている。

「今朝一番に、女の子がお城に乗り込んで来たの。黒髪のとってもかわいい魔道士よ。ディータ、あなたの知り合い?」

「残念だが、かわいい女の子の知り合いは多くてね。もちろん君もその一人だよモリー」

「ナバロの姉だと名乗ったわ」

「お前、姉さんがいたのか!」

「……。あぁ、まぁ、うん……」

 フィノーラか。

どうして追いかけて来た?

「もっと早く言えよ!」

「その様子だと、ディータも知らなかったみたいね」

 俺は骨付き肉を手に取った。

丁寧に一口大にカットされたそれには、何かのソースがかかっている。

随分クセのある味だが、悪くはない。

「ルーベンの正式な通行許可証を持っていたわ」

「なんだよ。だったら何の問題もないじゃないか。さっさとここから出せ」

「いま、イェニーが丁寧に取り調べているわ。あなたと彼女の関係について」

 ディータの手から、持っていたフォークがこぼれ落ちた。

盛大にため息をつく。

「またアイツか!」

 俺はもう一本の、違う骨付き肉に手を伸ばす。

うん。

これは香辛料がしっかりきいているうえに、肉自体にもクセがなく美味い。

「いま上は、すっごいピリピリしてるわよ。あんたは早くそっちに行って、何とかしてきなさいよ。いつものことじゃない」

 そう言いながらも、モリーは別のクッキーに手を伸ばす。

それを口の中に放り込むと、プレートに添えられていたナプキンで指先を拭った。

ディータは俺を振り返る。

「お前の姉ちゃんなんだろ? 一緒に行くか」

「あら、この子はダメよ、ディータ。あなたたち、中央議会から緊急通告が出てるって、知らなかったのね。とっても優秀な我がナルマナの聖騎士団は、手配書に描かかれた少年と、よく似た男の子を昨晩確保したわ」

 モリーはにっこりと微笑んだ。

「だから私が、今から取り調べをするの。お迎えに来たのよ。さ、行きましょ」

 差し出されたモリーの手を、ディータはパッと遮った。

「待て。どういうことだ」

「これはどれだけあんたが暴れても、イェニーに泣きついたってダメな話よ。ユファさまからのお達しだもの」

「ユファさまの?」

 大魔道士エルグリムだった俺を、倒した勇者スアレス。

それに予言と加護を与え、最大攻撃魔法を与えたのが、ユファだ。

当時は五歳程度だったと聞いている。

今頃は十七になるかならないかの占い師だ。

ディータは呆れたように首を振る。

「ライノルトの大賢者さまは、なんて言ってんだ?」

「ユファさまは、エルグリムの悪夢を見たそうよ」

 その言葉に、ディータはチラリと俺を見た。

一瞬目が合う。

「は? そりゃもう、とっくの昔に終わった話だろ」

「私たちにとってはね。だけど、エライ人たちはまだ、その存在を信じている。大魔王最期の地、グレティウスから遙か南西の方角に飛んだ魂は、そこで復活の時を待っているってね。どうもそれが、最近になって本当に蘇ったと考えてるみたい」

「面倒くせぇ年寄りどもだな。それで子供狩りとはね。頭大丈夫か」

「守りたいのよ。今の平和な時代をね。その気持ちは私も同じだから」

 モリーの緑灰色の目が、深く強く輝く。

「だからゴメンね。私にはあなたが、今後エルグリムのようになりうる脅威かどうか、確かめて報告しなければならない義務があるの。来てくれる?」

 俺はフウと一つため息をついてから、食べていたポテトパイのクズを払った。

どうせ拒否したくとも、出来ない話しだ。

だったら、さっさと済ませてしまった方がいい。

今後の手間が省ける。

「いいよ。いくらでも調べればいい。自分では手を下さず、他人に任せてその後ろに隠れているような連中に、何が出来る」

 俺は立ち上がると、彼女に手を差し出した。

「行こう」

「あら、カッコいい。こういう人間は、大人も子供も大好きよ」

 手を繋ぐ。

モリーはしっかりとそれを握り返した。

「さぁ、行きましょう。椅子に座っているだけの、簡単なお仕事だから」

 モリーと檻をくぐる。

この地下牢に張られた結界の強さは、ただ捕らえられた囚人を拘束するためのものではないようだ。

「俺も行く」

 ディータも立ち上がった。

「ナバロが本当にエルグリムの生まれ変わりとなる存在なのか、確かめたい」

「あら」

 モリーが振り返った。

「あなたはそんなこと言ってる余裕、ないと思うわよ」

 地下牢へと下る階段を、一人の聖剣士が駆け下りてきた。

「ディータ! 上で団長と、お前の知り合いだという女性が揉めている。何とかしろ!」

「知るか! お前らでカタをつけろ。俺はナバロの方に……」

 その男はディータの胸ぐらを掴むと、思い切り引き寄せた。

「もうキーガンでは抑えられなくなってるんだよ。オマエが来い」

「だからなんで俺が、いつもアレの相手をしないといけないんだ」

 もみ合う二人に、モリーはヒラヒラと手を振った。

「じゃ、そういうことで。よろしくね」

 ディータはまだ何かを叫んでいたが、この城の結界とモリーの魔法のせいで、抵抗が出来ない。

階段を上がる俺たちの後ろを、聖剣士の男にそのまま引きずられていく。

「私たちはこっちよ」

 廊下に出たところで、俺たちは二つに分かれた。

彼女の白く細い手に引かれ、赤い絨毯の上をゆっくりと歩いてゆく。

彼女の灰色の真っ直ぐな髪がサラリと流れた。

繋いだ手に導かれるまま、城の外へ出る。

小さな庭の緑の芝は、朝日にキラキラと輝いていた。

狭い庭をぐるりと囲む高い城壁からは、空しか見えない。

ここは、ナルマナ聖騎士団の団城だ。

あちこちに武器や、呪いのかけられた道具が並べられている。

不意に、城門付近で爆発音が起こった。

振り返ると、団員たちは続々とそちらに集まっている。

「向こうは、あなたを助けにきたお姉さんの相手で精一杯よ。イェニーが疑ってるの。お姉さんとディータが付き合ってんじゃないかって。本当にバカよねぇ。ここにこんないい女がいるってのに。私には見向きもしないのよ、イェニーったら」

 一旦庭に出たモリーは、再び南に位置した門から城内に入る。

「だから、邪魔が入らないうちに、さっさと済まそうと思って。そうすればあなたもお姉さんも、早く帰れるか一緒に捕まるか、はっきりするもの」

 ここは魔法の臭いも剣士の臭いも、強すぎるそれぞれら全てが混ざりあって、息が苦しい。

「怖がることはないわ。ライノルトにある中央議会の、大賢者ユファさまの予言よ。間違えっこないですもの。あなたがそうじゃないってことを、ただ証明するだけ」

 二人きりで通された部屋は、実に簡素な部屋だった。

テーブルに椅子、それと向かい合うように、一脚の椅子が置かれている。

シンプルな白木に青に濃く染められた皮が張られた、どこにでもあるような椅子だ。

「そこに座って」

 モリーの手が離れた。

強い結界が張られたこの部屋では、体が動かせない。

呪文を唱えようにも、声すら出せない。

俺は白い椅子をにらみつけた。

「そうよ。それは呪いの椅子。分かってて座るのは、怖いわよね。だけど、それに座る前からそうと気がつくなんて、そんな子は初めてよ。やっぱりあなたは、ちょっと違うみたい」

 モリーは向かいのテーブルに座った。

そこに置かれてあった書類を手に取る。

「魔法は使えないわよ。地下で散々味わったでしょ。自分の足で歩くのよ」

 深い濃く緑灰色の目は、それなりの訓練を受け、しっかりと魔力を貯め込んだ者の目だ。

ここの主席魔道士というのも、うなずける。

その自信も、ハッタリなどではないのだろう。

俺はゆっくりと片足を動かす。

生身のこの体に宿る十一歳の筋肉だけを使っても、動けないわけではないのだ。

「そうよ。上手上手」

 モリーの視線は、手元の書類に向いたままだ。

床にはべったりと魔方陣が書かれている。

見えないように小細工しているつもりだろうが、俺には分かる。

そこから椅子を引き寄せようとしても、この位置から動かせないのは、コイツのせいだ。