ガラス窓の向こうから、昇ったばかりの朝日が見える。

まだ多少の疲れはあるものの、随分と楽になった。

その回復の早さには、感心する。

 狭い部屋にベッドが二つ。

窓には小さなテーブルと、椅子が二脚ほど。

外にはすぐ目の前にまで迫る、山の緑が広がっている。

どうやら行きついた町外れで、宿をとったらしい。

フィノーラの姿は見えない。

俺は起き上がると、部屋を出た。

「もう起きて大丈夫なの?」

 廊下に出たとたん、そのフィノーラと鉢合わせる。

「ここを出る。世話になったな」

 彼女は両腕に、衣類やら食料を抱えていた。

その真横を通り抜ける。

「宿の女将さんに、挨拶くらいしていきなさいよ」

 階段を下りると、すぐに帳場に出た。

気の強そうな女将が立っている。

「おや、坊ちゃん。もう動けるようになったのかい?」

 その手は俺の頭を抑えこむと、ぐりぐりとなで回した。

「全く。いいお姉ちゃんだね。出発の準備を手伝ってきな。朝食はその後だよ」

 にっこりと、人当たりのよい笑顔を俺に向けた。

その手をパンと振り払う。

「なんだそれ。俺はもう先に行くんだ」

 冗談じゃない。

あんながさつな女など、連れて歩く方が面倒くさい。

宿の女将に背を向ける。

聖剣士たち追っ手が来る前に、さっさとここを抜けだしたい。

「まぁー! 本当にきかん坊だね」

 女将はその俺を、背中から高く抱き上げた。

「うわっ、おい、離せ!」

「ちょっとは、抱っこくらいさせておくれよ。うちの子は、もうすっかり大きくなっちゃってねぇ」

 頬にキスされた! やめろ!

「あ、捕まえてくれたのですね。ありがとうございます。お世話になります」

 すっかり旅支度を調え、フィノーラが出てきた。

「あら、もう行っちゃうの? 少し待てば、食事が出来あがるのに。食べていきなよ」

 抱き上げられた腕から逃れようともがくも、そう簡単には抜け出せそうにない。

「夜中に押しかけておいて、お世話になりました。この子も、じっとしていられない子なので。母の様態も気になりますし……」

「そっか。お母さんの具合が悪いんじゃ、しょうがないわね」

 ようやく床に下ろされた。

女将はため息をつくと、俺たちを見つめる。

「平和な時代になったものね。子供だけで旅が出来るなんて。憎きエルグリムの暗黒時代を乗り越えた、私たちですもの。きっとお母さまはよくなるわ」

「ありがとうございます」

「気をつけてね。帰ったら、また寄ってちょうだい」

 宿の外まで見送りに来た女将に、フィノーラは手を振った。

そのまま山を越える街道へと入ってゆく。

人通りは少ないとはいえ、ゼロではない。

踏みならされたむき出しの土を踏みしめ、歩いてゆく。

「こんな堂々と街道を通って、大丈夫なのか? お前はビビの館へ戻れよ」

「戻ったわよ」

「は?」

 フィノーラは大あくびをした。

「じゃなきゃこんな呑気に、街道通って移動できると思う? 全くこれだから子供は……」

 ガラガラと音を立てて走る荷馬車と、すれ違った。

「ぶっ倒れたアンタを宿に預けてから、すぐ館に戻ったわよ。それで、ビビさまからの手紙も預かってきた」

「は?」

 だからと言って、こんな紙切れを渡されても困る。

「定期的に、連絡寄こせって。街道を抜ける通行手形を出してもらったのよ。ルーベンの正式な許可証よ。これでどこへでも行ける」

「そんなもの不要だ」

 関所はすり抜ければいい。

金なら店先で盗むか、魔法で芸でも見せればいい。

占いでもしてやれば、すぐに金は手に入る。

「お前はこれから、どうするつもりだ」

「私もグレティウスへ行く」

「なんだ。お前も『悪夢』が欲しいのか」

「それは違う」

 日が昇るにつれ、気温は上がってきた。

人通りも次第に増えてくる。

ゆっくりとした坂道を、フィノーラと並んで上ってゆく。

「私は……。『悪夢』を破壊する」

「どうして?」

「ナバロは信じる? 中央議会の言ってること」

「まだ見つかってないんだろ?」

「それは信じてる」

 整備された街道は道幅もあって、所々に店も並んでいる。

次の街は、この峠を二つ越えた先にある。

「エルグリムの残した遺産よ。それがまだ見つからないなんて。だけどもし見つかってたら、もうとっくに世界は、変わっていたのかもね。新政府に不満はないけど、他の誰かに見つかって悪用されるくらいなら、私が先に見つけて、ぶっ壊してやる」

「フン。誰もが血眼になって探しているのに、まだ見つからないものを、お前が見つけられるとでも?」

 フィノーラは立ち止まると、じっと俺を見下ろした。

「あんたと一緒なら、見つけられる気がする」

「じゃあもし、俺が見つけたとして、どうする? 俺はそれを、独り占めするかもしれないぞ」

「そうはならないでしょ。多分私だけでも、あんただけでも、見つけるのは無理」

 上り坂がきつくなり始めた。

道幅も狭まり、街道沿いの商店も寂しくなり始める。

ここから先は、本当に山の一本道だ。

「誰かに支配される世界なんて、ゴメンだわ。そんなモノになりたがる奴がいたら、そうなる前に私がぶっ殺す」

「だったら、なぜ聖騎士団に入らない。お前のその魔力なら、十分入れるだろ」

「あいつらのことは、反吐が出るほど嫌いなのよ。分かるでしょ」

「……。お前の好きにしたらいい」

 山道に入ったとたん、人の気配も一気に減少した。

俺は魔法を使い、高く飛び上がった。

フィノーラもついてくる。

「さっきまで、聖騎士団の連中と一緒だったじゃないか。聖剣士は、嫌いなんじゃなかったのか?」

「だから利用するのよ。悪い?」

「まぁ、今はどこへ行くにも、聖騎士団の許可がないと動けないからな」

「あいつら絶対、エルグリムの悪夢を見つけたって、破壊なんかしないわ。利用するつもりよ」

「その方が賢いもんなぁ」

「あんたが、グレティウスに行く目的はなに?」

「そりゃ憧れの街だからさ。魔道士なら、一度は行ってみたいと思う。そうだろ?」

 魔法で体を浮かせ、地面を蹴る。

背に羽が生えたかのように、一歩一歩を飛び跳ねながら進む。

てくてく歩けば数日はかかる行程も、呪文を唱えれば何てことはない。

フィノーラの腕は、悪くない。

流しの魔道士としては、いい方ではないだろうか。

よく訓練されている。

だけど俺の配下におくには、まだ十分とは言えない。

「なぜ聖剣士を嫌う。誰からも、信頼される存在じゃなかったのか」

「言ったでしょ、嫌いだって。そういうアンタはどうなのよ」

「はは、嫌いだな」

「でしょ。だから組もうって、言ってるのよ。聖騎士団を、本気で嫌いだって言える人間じゃないと、私は信じない」

 山頂までたどり着いた。

木々の間から、遠くナルマナの街が広がる。

「ここから先は、首都ライノルトまで続く道よ」

 ライノルトか。

かつては誰も知ることもない、それはそれは小さな町だった。

勇者スアレスが生まれた村から、一番近い町だったというだけの場所。

「俺はライノルトに興味はない。ここでお別れだ」

「ちょ、待ちなさいって!」

 姿を消す。 瞬間移動だ。

この体ではあまり遠くまで行けないが、この女をまくくらいのことは出来る。

山道を離れ、密林の間をすり抜けてゆく。

 そういえば、かつてライノルトには、巨大な魔球を落として完全に破壊したことがあったが、そこから復興させたのだろうか。

ご苦労なこった。

「いや、破壊したからこそ、新しく復興出来たのか」

 深い森の中で、一つ息をつく。

普通の人間なら、三日はかかる山越えだ。

関所? 通行手形? そ

んなもの、俺には必要ない。

整備された道しか進めないようなやつに、用はない。

 短い距離での瞬間移動を繰り返し、密林の中を進む。

魔力の臭いに気づいた動物たちは、驚き慌てふためいて、逃げ去ってゆく。

そう、これこそが、俺に対する正しい反応だ。

微笑みかけるなんて、ありえない。

汗が流れる。

尋常ではない量だ。

全身がだるく重みが増してくる。

クソ。

こんな移動など、何でもないことだったのに……。

館から盗み出した魔法石を、いくら摂取してもダメだ。

まだ幼い体が、この力に耐えられるだけの体力を持てていない。

息が苦しい。

全身の重みに、ついに足が止まった。

 心臓がズキリと痛む。

荒れ果てた、むき出しの地面に倒れた。

脈打つリズムは不規則で、強烈な痛みを伴う。

手足まで震えている。

俺はそこにうずくまると、繭のように体にシールドを張った。

意識レベルを下げ、回復に全てを注ぐ。

見た目は岩に偽装してあるから、そう簡単には見つからないだろう。

魔力の使い過ぎだ。

無理なんてしているつもりは微塵もないが、どうしても体がついてこない。

やろうと思えば出来るはずのことが、何にも出来ない。

その苛立ちに、腹立たしさに震えている。

 しばらく回復に集中し、意識を取り戻した頃には、すっかり日は落ちていた。

密林の森は真の暗闇で、覆い茂った木々に、空もほとんど見えない。

月も細いこんな夜には、一人で殻にこもっているに限る。

梟が闇夜を滑空する。

俺が擬態している岩の前に現れたネズミを捕らえた。

その鋭いくちばしで、皮を食いちぎり飲み込む。

こんな光景を目にするのも、何年ぶりだろう。

遙か昔の、エルグリムがまだ幼かった頃を思い出す。

今よりもずっと体は傷だらけで、常にどこからか血を流し、腹を空かせていた。

皮膚は黒く固くこわばり、骨と皮ばかりだった。

 俺は新しく手に入れた十一歳の、その柔らかい肌に触れる。

ここは暖かくはないが、俺を傷つけるものは、もういない。

それだけで十分だと満足出来るほど、俺はバカではない。

残った魔法石を取りだし、その全てをかみ砕く。

朝になったら、ナルマナの街へ下りよう。

どこかでちゃんとした食事を取らないことには、実体である体が持たない。

街へ下りたら、まずは簡単な芸でもして、金を稼いで……。