史上最凶と謳われた大魔道士エルグリムは、勇者スアレスによって倒された。
エルグリムは死の間際、自らに転生呪文をかけ、死したその瞬間から蘇りを予言する。
それから十二年。
巨悪をなし、誰からも忌み嫌われ、いつまでも憎み恨まれ、罵倒され続け、決して愛されることはない大魔王は、再びその強大な魔力を取り戻し、この世界を征服する。
森の中の一本道をゆっくりと下ってゆく。
転生し生まれ出た村を出発したのは二日前だ。
履き慣れていたはずの木靴は、既に重たくて仕方がない。
歩く細い街道の道の左手から、小川のせせらぎが聞こえていた。
土手上からそこへ下りた俺は、蒸れる靴を脱ぎ捨てる。
「ふぅ。生き返るな」
清流に足を浸した。
生まれてから数年は、どうしても動けなかった。
赤ん坊の短い手足に筋力は皆無。
受けた聖剣の致命傷で、俺自身としての意識も完全に失っていた。
自分の呪文に自信はあったが、本当に記憶を取り戻せるのかも怪しいものだった。
完全に復活するまで、三年はかかった。
「おや坊主、どこから来た」
山深い川下から河原を上って来た男に、顔を上げる。
荷馬車の商隊だ。
馬を休ませに来たらしい。
二人連れの男のうち、小さい方が二頭の馬に水を飲ませている。
男は近寄ってきた。
その姿を見上げる。
「父さんのお使いだ。頼まれごとをされてるんだ」
「そうか。それは偉いな」
十二年前、勇者の剣が俺の心臓を貫いた。
転生魔法は、それが動きを止めた瞬間、発動する呪文だ。
俺は全ての魔力をその体から引き上げ、その受け入れ先となる新しい命を求めた。
「どこに行くの?」
そう尋ねた俺の頭上からも、また別の声が聞こえる。
小さな街道の道沿いに、荷物番も含め三人か。
積み荷はなんだろう。
俺は振り返ると、目の前の男を無視し、素足のまま土手を駆け上がった。
馬の繋がれていない荷台に近づく。
「カズ村へ行くんだ。隣町のルーベンから来た行商だよ。服とか靴なんかの衣料品さ」
「へぇ~」
勇者に倒された俺は、女の腹にあったまだ命とも言えないものに取り憑いた。
死にかけていたそれをゆっくりと改造し、魔王の魂の入れ物として形を作り替える。
ホロのついた荷台には男が一人座っていて、中には大きな袋が五つ六つ積まれていた。
男は俺に袋の中身をチラリと見せると、愛想よく笑顔を見せる。
「お前、どこから来た? 何歳だ」
「十一だよ」
「これからカズの村まで行くんだ。なんなら乗せてってやろうか?」
「ホント? ありがとう!」
俺はそう言うと、荷台に乗り込んだ。
中にいるのは男一人だけ。
後の二人は馬と川岸にいる。
俺はこの世界の人間を支配すべく、生まれてきたのだ。
残念だが人は、目に見えるもの、そのものしか信じない。
形がなければ、何かを動かすことも出来ない。
再び魔王となり世界を取り戻すには、どうしても『大人』としての姿が必要だ。
「おい、こんなところに靴が脱ぎっぱなしだぞ」
「あぁ、そこに置いておいて!」
外からかけられた声に、俺は声を張り上げて応えた。
ホロ付きの荷台は、外からは中の様子が見えない。
そのまま荷台に残っていた男に、グイと顔を近づける。
「ん? どうした坊主」
「シッ。ちょっと黙ってて……」
ゆっくりと呪文を唱える。
なぁに、ごく簡単な魔法だ。
命までは奪わない。
「お、おま……魔法が使え……」
男は一瞬のうちにバタリと倒れた。
意識を失った男を見下ろす。
「フン。ガキだと思ってナメるなよ」
積み荷の袋を次々と開け、中を確認してゆく。
生まれたばかりの体だ。
ようやく十一年が経ち、動けるようになった。
だが俺の持つ本来の魔力に比べ体力がなかなか追いついてこない。
魔法を使い過ぎると体が動かなくなってしまうのだ。
どんなに魔力を持っていても、それを使用する実体としての体が必要だった。
この加減がなかなか難しい。
これが目下最大の悩みだ。
「お~い。靴はもういいのか? そっちまで運べってかぁ?」
「待って。すぐ取りに行くから!」
見つけた。
丈夫な革靴だ。
俺はそれを急いで自分の足に装着する。
倒れている男の腰にぶら下がっていた、金の詰まった袋もついでに頂いておく。
「おーい。もう出発するぞ」
こっちに戻ってくる。
俺は荷台から飛び出した。
「あ! おい、どうした?」
藪の中へ飛び込む。
すぐに異変に気づいた男が追いかけてきた。
「コラ! 待て、このクソガキ!」
目くらましで姿を消してもいいが、あまり頻繁に高等魔法を使うと、まだ幼い体がついてこられない。
カズを出てから、ほぼ飲まず食わずだ。
出来ると思ったことが出来ず、自ら窮地を招くこともあれば、逆に無理だと諦めたことが想像を越える成果を残すこともある。
とにかく安定しない。
「待て!」
走るのも遅い。
魔力で体力のなさを補ってはいるものの、そう長くは持たない。
仕方ない。
金は捨てるか。
これで追っ手もあきらめることだろう。
革靴が手に入っただけでも、よしとするか。
俺はその重たい皮袋を、路上に投げ捨てた。
「は? ざけんなよ。金を返せば済むと思ってんのか? 大人をナメんな!」
「くっそ。それで懲りろよ!」
あっさり諦めてくれるかと思ったのに、意外としつこい。
どれだけ懸命に走っても、どうしたって子供の足では勝てない。
藪の中から再び川岸に飛び出たものの、河原の砂利は山の中以上に走りにくかった。
「おいコラ、止まりやがれクソガキが!」
ダメだ。
このままでは捕まる。
あまり攻撃魔法は使いたくはないが、こうなっては仕方がない。
俺はその場で振り返った。
呪文を唱えようと印を結ぶ。
『我に歯向かう……』
「うわぁ!」
不意に、その男は目の前で転んだ。
呪文もまだ唱えきっていないのに、実に不自然な転び方だ。
手をつく暇もなく、額を砂利にぶつけている。
これでは相当に痛かろう。
「だ、大丈夫か?」
「止まりなさい!」
甲高い声が響く。
そこに居たのは、女の二人組だった。
真っ白な外套に身を包んだ上品そうな女と、その雇われ従者のようだ。
魔法を使ったのは、従者の方か?
「一体、何事です!」
倒れていた男は、よろよろと起き上がる。
「ビ、ビビさま……」
波打つ金の長い髪に青い目。
典型的な貴族の娘だ。
「どうしたのですか?」
「こ、このガキ……、いや、子供が、積み荷から靴を盗んだのです」
「本当ですか?」
「……。はい。そうです。ゴメンなさい」
素直に謝っておく。
もう面倒くさい。
このままここにいる全員眠らせて、その隙に逃げよう。
再び呪文を唱えようとした俺を、貴族の女がパッと抱き寄せた。
「……。この子は、私はいま連れている従者の弟です。大変失礼いたしました」
「はぁ?」
男は信じられないといった表情で、貴族の女を見下ろす。
「つ、積み荷を荒らされましてね。今履いているその靴も、さっき盗まれたばかりなのですが……」
「そうですか。それはうちの者が大変失礼いたしました。ほんの少しですが、これで許してはいただけないでしょうか」
腰の袋から金貨を取り出すと、女はそれを男に渡す。
革靴の代金にしては、ずいぶんと高額だ。
「よく言いつけておきますので、どうかこれで許してやってください」
「チッ。全く。ビビさまのお願いでなければ、見逃してはいませんよ」
「はい。申し訳ございません」
「ちゃんと躾けておいてくだせぇよ」
「承知いたしました。しっかりと、そうさせて頂きますわ」
ブツブツと文句を言いながらも、河原の向こうに男の姿は消えていった。
その途端、従者らしい女の手が、俺の頭をぐしゃりと掴んだ。
「おいコラ。あんた、魔法使えるんでしょ。その能力、イタズラなんかに使うんじゃないよ」
「まぁ、乱暴なことはおよしなさいよ、フィノーラ」
「ですが、ビビさま」
ビビと呼ばれた貴族の女は、膝を折りしゃがみ込むと、ご丁寧にも俺に視線を合わせた。
「あなた、魔法使いなのね」
じっと俺の目をのぞき込む。
その白い手を、そっとこめかみに伸ばした。
「まぁ、本当ね。鮮やかな緑の目をしているわ」
うっとうしい。
この手のタイプの女は苦手だ。
その手を振り払う。
俺はもう一人の女を見上げた。腰までの真っ直ぐな黒髪の女も、魔道士特有の濃い緑の目をしていた。
「さっきあの男を転ばしたのは、あんたの仕業?」
「そうよ。私も魔道士。で、ビビさまの用心棒を二週間前からやってるの」
歳は十七、八といったところだろうか。
年齢の割には随分と瞳の緑が深い。
それなりの魔力を体内に貯め込んだ使い手だ。だけどまぁ、俺と比べると、間違いなくたいしたことはない。
「まぁ、なんて素敵なのかしら! 珍しい魔道士体質をお持ちのまだお小さい方と、お友達になれるなんて。とても素晴らしいわ!」
ビビは勝手にはしゃぎ始めている。
くだらない。
ふと川沿いの土手に、七色に輝く石を見つけた。
小さな魔法石の欠片だ。
俺はそれを拾い上げると、口の中に放り込む。
そのままガリガリとかみ砕いた。
「……。あんた。そんなチビなのに、魔法石をそのまま摂取できるんだ」
「珍しいか? まぁそうだろうな」
「さっき、向こうでそこそこ強い魔法の気配を感じた。もしかしてアンタの仕業だった?」
俺は黒髪のフィノーラに、ニコッと微笑んで見せる。
「たいしたことはないよ。だってまだ子供だからね」
「さっき魔法を使ったから、それで補給してんの? あんな魔法と使った後で、その程度の補給で足りるワケ?」
「まだあんまり、上手く制御出来ないんだけど……」
フィノーラはスッと腰の短剣を抜いた。
それを構え、俺との距離を保つ。
蓄えた魔力はたいしたことはないが、バカではないらしい。
「あんた、子供の体に貯められる魔力の割りには、随分と難しい呪文を使うのね」
「まぁ。およしなさいよ、フィノーラ。乱暴はよくないわ」
「ビビさま、魔道士を簡単に信用してはいけません」
そう。魔道士の能力は、見た目や年齢には関係ない。
問題は魔力の蓄積と順化であり、その術式だ。
以前の俺が使っていた、数百年は生きた大魔道士エルグリムの体ならともかく、今は生まれたばかりの、十一歳の少年の体だ。
いくらこれから長く使えるであろう、いい入れ物を作ったとしても、実際に働かせ慣れさせなければ、その能力をものにし、発揮することは出来ない。
「あんまり一度に沢山の魔法石を摂取すると、気持ち悪くなっちゃうんだ」
「そりゃそうでしょうよ。どんな魔道士だって少しずつ体に慣らして貯め込んで、やっと魔法が使えるようになるんだから……」
「お姉ちゃんは、平気なの?」
「私? ……まぁ、それなりにね」
取り込んだ魔力の蓄積と順化は、個人差が大きい。
魔法を使える人間とそうでないのを分けるのは、純粋にこの体質による差だ。
彼女はそう言うと、腰にぶら下げた小瓶を取りだした。
それをひとくち口に含む。
「ちゃんと加工されて、薬剤化されてるのなら、それなりに飲める」
なるほど。やはり並の魔道士か。
「じゃ、俺はもう行くね」
「まぁ! どこへ行くというの? もうすぐ日が暮れるわ。今夜はうちに泊まりなさいよ」
「ビビさま!」
女二人が揉めている。
じつにくだらない。
「悪いけど、あんたらに興味はないね。俺は俺の行きたいところへ行く」
「さっさと行っちまえ」
「まぁ、ちょっと待って。もう少しお話を……」
河原を歩き出したその耳に、川上から早馬の蹄が響いた。
嫌な臭いがする。
俺はじっと気配を殺した。
さっさと通り過ぎてくれればいいものを、すぐそこで立ち止まり、土手上の一本道から俺たちを見下ろす。
「まぁ、どなたかと思えば、イバンさまではないですか」
「ビビさま。その子供は?」
「フィノーラの弟なんですって!」
その銀色の、ピカピカと光る鎧に身を包んだ騎士は、兜の面を持ち上げると、じっと俺の様子をうかがっている。
赤地にシルバーの十六芒星の紋章。
聖騎士団の聖剣士だ。
「カズの村から子供が一人、行方知れずになったと聞きまして。今はその子供を探しているのです」
面倒なことに馬から下り、こちらへ近づいてくる。
「濃い赤茶色の髪に、緑の目だと知らされております。なんでも歳に似合わない魔法の使い手で、散々な悪戯ばかりするやんちゃ者らしい……」
聖剣士はじっくりと俺を観察している。
「さっきもそこで被害者をみかけたんだが……。フィノーラに弟がいたという報告は受けてなかったな。しかもカズから抜け出したという少年と、特徴がそっくりだ」
ブルーグレイの瞳に白金の髪を短く切りそろえた、真面目臭そうな男だ。
魔法の“臭い”はしないことはないが、ごくわずでしかない。
使えたとしても、ごく簡単なものだけだろうな。
「名前は?」
「……。ナバロ」
「ナバロ? そうか。私の聞いた名ではないな」
魔道士である黒髪の女に比べたら、たいしたことはない。
「他に、似たような少年を見かけませんでしたか?」
「いいえ、全然」
ビビはイバンにそう答えると、俺を抱き寄せた。
「ナバロは、フィノーラの弟です!」
ビビの強気な態度に、聖剣士はため息をつく。
「ビビさま。お話は今夜、館に戻ってからにしましょう。フィノーラ、この子供をしっかり見張っておけ」
「はぁ? なんで私がそんなことまで!」
「まぁ、イバンさま。それならお安いご用よ。ぜひお任せあれ。私が責任を持ってお引き受けいたします。今夜の夕食を、楽しみにしておりますわ」
その言葉を確認すると、聖剣士はようやく背を向けた。
繋いでいた馬の元へ、土手を上がってゆく。
「いや、俺はもう行くからさ……」
小声でささやく。
逃げだそうとした俺の肩に、グッとビビの手が重なった。
土手に上がった聖剣士は、なにやら鎧の具合を整えている。
「あら。私がここで叫び声をあげたら、聖騎士団の聖剣士さまたちによる、大規模な捜索が始まってしまいますけど、よろしくて?」
お堅そうな聖剣士は、ようやく馬にまたがった。
それに向かって、ビビは手を振る。
聖剣士も片手を上げ挨拶をすると、やって来たカズ村の方向へ向かって走り出した。
「さ、もうこれで、逃げられませんわよ。私のお家にいらっしゃい」
彼女はにっこりと微笑んだ。
くそっ。
とんでもない寄り道だ。
だけどまぁ、この幼い体は、もう完全に疲れ切っている。
転生した村を抜け出し、丸二日飲まず食わずなうえに、ほとんど寝ていない。
休息は必要だ。
魔力で何とか誤魔化していても、やがて動けなくなる。
「……。分かった」
黒髪の魔道士が突っかかる。
「はぁ? そういうところは案外さっさと引き下がるじゃない。あんたなんかが来ても、いいこと全然ないよ!」
「分かってるよ」
「さぁ、フィノーラ。急いで帰りましょう」
それでも、今夜の寝床と食事を確保できるのはありがたい。
俺は上機嫌のビビに手を引かれ、ゆっくりと土手を上がる。
街道へ戻り、待たせていた馬車に乗った。
昼下がりの森の中を、ゴトゴトと揺られてゆく。
やがてポツリポツリと家が見え始めた。
田畑の広がる小道を抜け、町に入る。連れて来られたのは、ルーベンの中央に位置する立派な館だった。
「ここは……。ビビは、領主の娘か」
「そうよ。大人しくしイイ子にしときな」
大きな建物の正面は、役所のような働きをしていた。
吹き抜けの玄関ホール脇には、事務所のような部屋が広がり、カウンター越しに複数の人数が働いている。
そこに立つ門番の視線が、執拗に俺を追いかけた。
なるほど。
ビビが引き入れてくれなかったら、俺はここに入れなかったかもな。
あの門番は、ただ立っているだけの魔道士ではない。
よく訓練された聖騎士団の魔道士だ。
子供の体に纏うだけの力では、誰も俺の正体には気づかないだろう。
この体積では、蓄えられる魔力にも限りがある。
それは単純に、受け取れる容積の問題だ。
「馬車でうたた寝をしていたから、疲れは取れているかしら。お腹は空いてない?」
「ビビさまは、少しお休みください」
「まぁ、そんなつまらないことを言わないで、フィノーラ」
「怒られるのは、私なんですけど」
館中央の大階段から四階までが吹き抜けの構造になっていて、その両脇に広がる部屋とその壁に至るまで、ありとあらゆるところに本が並べられていた。
これらはなにかの資料や契約書の類いなのか?
見上げる俺の視界を、フィノーラは塞いだ。
「コラ。あんまりジロジロ見ないの」
人口は、一万ちょっとというところだろうか。
さほど大きな町ではないが、数年前に良質な魔法石の鉱脈が発見されてからは、随分と賑やかになった。
こぢんまりとしたところだが、それなりに発展している。
「こんな立派な町だったっけ?」
「あんたの知ってるカズ村と、一緒にするんじゃないわよ」
「ここ十年で急速にね。ナバロが生まれた頃の話しだから、分からないかもしれないけど」
廊下を奥へと進む。ここからは領主のプライベートゾーンだ。
門番も立つその城内の門をくぐる。
居住スペースと公的な部分は分けられてはいるが、簡単な結界をかけた扉一枚だけだ。
ビビやその許された者たちと一緒に、一度でも通過してしまえば、なんてことはない。
すぐに解除される。
奥へと進んだ途端、室内はそれまでの重々しく厳かな雰囲気から、質素ながらも上品なたたずまいへ内装が変化した。
廊下のガラス窓から見える、さほど広くはない敷地に、わずかながらも芝生の庭がある。
ごちゃごちゃとレンガ造りの建物が密集しているが、悪くない屋敷のつくりだ。
「ようこそ、我が家へ!」
ビビは嬉しそうに、その板張りの廊下でくるりと回った。
「さ、ナバロ。あなたのお部屋を用意させましょう。フィノーラの隣でもいいかしら?」
「なんでコイツの隣?」
「だって、姉弟ですもの」
あー。まだ続いてんだ、その設定。
てゆーか、長居するつもりはないんだけど……。
「こっちよ。階段が狭いから、気をつけてね」
勝手に案内された、滑らかな石造りのらせん階段を上がってゆく。
塔付きの納屋を改装したような建物だ。
客というより、使用人のための宿舎といったところだろうか。
塔の先端には大きな鐘が設置されてはいるが、もう鳴ることはないのだろう。
建て替えられたばかりの立派な役所側の方の先端に、これより三倍はある立派な鐘がついている。
「ふぅ。ここはいつも涼しくていいわね」
その階段を上り始めてから、わずかにビビの呼吸が荒い。
「ビビさま、ナバロの部屋は私が用意させます。ビビさまはもう母屋に戻って、少しお休みください」
「あら、どうして?」
「夕食を、イバンさまとご一緒するのではないのですか? 一度お休みにならないと、今日は長時間、遠出もされております」
「まだ大丈夫よ」
「そんなことを言って、後で後悔することになるのは、ビビさまですよ」
ビビは立ち止まった。
恨めしそうにフィノーラを見つめるも、もう一度大きく息を吐き出す。
「そうね。じゃあご忠告に従って、少し休もうかしら。フィノーラ、あとはお任せしてもよいかしら」
「どうぞ」
「夕食には、ナバロとフィノーラも一緒にね。お話が沢山聞きたいわ」
「はいはい」
「フィノーラの、これまでのお話の続きもね。ナバロも必ず来て」
「はいはい」
「えっと、それからナバロには……」
ビビは、何かとあれこれ思い出しては、そこから立ち去ることを渋っている。
いつまで経っても動こうとしないビビに、ついにフィノーラの声色が変わった。
「分かったから! どうぞ行ってください。いつもの時間に食堂へ参ります。それでよろしいですか。私たちも休みたいです!」
フィノーラの剣幕に、ようやくビビは大人しくなった。
「わ、分かりました。では後でね。ナバロもね。必ずよ」
「お嬢さまもね!」
ビビは小さく手を振って、ようやく階下を下りていった。
フィノーラは盛大にため息をつく。
その姿が完全に見えなくなってから、舌打ちをした。
「チッ。くだらない。あんたもそう思うでしょ」
フィノーラは塔の階段を上りきると、三階の廊下へ出た。
「お前、ここで雇われてるんじゃないのか」
「流しの魔道士よ。見りゃ分かるでしょ。私は日銭がほしいだけ」
狭い廊下に沿って、小さな部屋が二つ並んでいる。
「居心地は悪くないけどね。あんたはこっち」
フィノーラは奥の部屋を指した。
「鍵なんてついてないけど、気にしないでしょ。後は自分で何とかしな。時間になったら、呼びに行くから」
そう言って、すぐにフィノーラは手前の部屋へ消えた。
俺は与えられた部屋へと入る。
簡素な木製の扉は、魔法で鍵をかけろということらしい。
石造りの狭い部屋に、ベッドと机が一つだけ置かれている。
小さな両開きの窓からは、夕陽に沈むルーベンの町が見えた。
なるほど、ビビは領主の娘か。
扱いやすそうな娘だ。
それならばここを、新たな拠点とするのも悪くないかもしれないな。
近くから良質な魔法石も採れる。
どうなっているのか分からない、かつての居城を取り戻すより、新たにこの町ごと乗っ取った方がいいのかもしれない。
俺の造りあげたかつての居城は、新政府の率いる聖騎士団どもに占拠されている。
「とにかく、一度は俺の存在を知らしめておくか……。いや、まだ待った方がいいのかな?」
自分の胸に手を当てる。
この体が、それに耐えられればいいのだが……。
ここを、俺の出発の地にするのも悪くない。
「はは。退屈なお嬢さん。お礼に、楽しいことを始めようじゃないか。もう毎日に飽きることもないだろう。俺をここへ引き込んだことを、一生後悔するんだな」
町を見下ろす小さな部屋で、俺は印を結んだ。
呼吸を整える。
それだけで小さなガラス窓は、吹き飛ぶような勢いで開いた。
少し大がかりな魔法になるが、仕方がない。
まずは魔法を届かせる範囲を、どこまでに設定しようか。
呪文を唱える。
『この世界に広がる、全ての生を受けしものたちよ。我の声が聞こえたならそれに応えよ』
秘められた力が、空を越え頭上から芯を貫く。
それは真っ直ぐに大地へと繋がり、天と地と、この世の全てに広がってゆく。
『かつて……、すべ……すべ……』
俺の体を通して、入り込んでくる魔力と出て行く魔力が大きすぎる。
やはりこの体では、まだ早かったか?
大きすぎる力の流入に、体ごと流されてしまいそうだ。
視界は歪み、意識が遠のく。
やはりまだ体の方が……。
「何やってんの!」
バンッ!
突然、背後の扉が開いた。
フィノーラは俺の頭をわしづかみにすると、ドサリとベッドに押しつける。
「あんたね! どこでそんな呪文覚えたか知らないけど、何でも唱えりゃ出来るってもんじゃないのよ?」
「わ……、分かってるから……離せ!」
体に力が入らない。
抵抗しようにも、腕すら動かせない。
魔法ではね飛ばそうとしても、もはや呪文を唱える力すら残ってはいなかった。
「チビのくせに、魔法の使い方を教えてくれる人が、周りに誰もいなかったワケ? 魔法ってのはね、呪文の力だけじゃなくて、受け入れる体も必要なのよ。そんなことも知らないで……」
フィノーラのやかましい独り言は続いている。
町にいる他の魔道士にバレないよう、薄く浅く地表に呪文を這わせたつもりが、さすがにすぐ隣にいた魔道士には見つかってしまった。
このままでは、中途半端に自分の居場所を知らせるようなものだ。
一度引っ込めないと……。
息を吐き出す。
もう一度力を振り絞る。
それでも十分に、大魔道士エルグリムの復活を感じさせる、予兆にはなっただろう。
平和にあぐらをかく、かつての勇者どもめ。
再びその恐怖に怯え、震えて眠れぬ夜をすごすがいい。
安寧の日々は終わりを告げた。
俺は分散させた力を消滅させる。
フィノーラの声と重なった。
『大地より与えられし聖なる力よ。風となり空を巡り、やがて我の元へ帰る魔法石となれ』
体内から流れ出す魔力が、その動きを止めた。
パラパラと地表に落ち、拡散してゆく。
それは永い時間をかけいずれ魔法石の結晶となり、再び誰かの力となるだろう……。
「ほら見なさいよ。無駄に魔力を消費して! あんたのはただの無鉄砲。バカ。能力に見合わない呪文は、自分の体を壊すだけよ」
クソッ。
この体では、割ける魔力に限りがあるのは確かだ。
おかげでフィノーラのような並の魔道士にすら、こうやって押さえつけられたまま抵抗できない。
やりたいことが、何一つまともに出来ない。
体が大きくなるまで、まだ待てというのか?
転生を果たしてから、もう十年も待ったというのに!
「離せ!」
わずかに回復した魔力を使い、突風を巻き起こす。
フィノーラを吹き飛ばすには十分だった。
もうこれ以上、我慢は出来ない。
「邪魔するヤツは、皆殺しだ」
どの魔法を使おう。容赦はしない。
何の為に生まれ変わった?
俺は、俺の世界を取り戻す!
はね飛ばされ、部屋の隅で倒れていたフィノーラが、動き始めた。
まだ息があったか。
起き上がろうとしている。
呪文を唱え、唱え……。
激しいめまいに、バランスを失った。
意識が遠のく。
俺はそのまま、床にドサリと倒れてしまった。
「……ほら、ね。だっさ」
力の使いすぎだ。
そういえば、一昨日村を抜け出してから水しか飲んでいなかった。
魔法石だけで持ちこたえていたのに、その魔力も使い果たしてしまった。
たかだか十一歳の体では、これが限界なんだ。
「だからガキなんかに……」
視界が暗くぼやけてゆく。
そんな俺を、フィノーラはじっと見下ろしていた。
目を覚ますと、俺は客間のベッドに寝かされていた。
枕元に座っていたビビが起き上がる。
「ナバロ? まぁ、気がついたのね」
彼女はうれしそうに飛び上がった。
「急いで他の皆を呼んでくるわ!」
酷い頭痛がする。
魔力酔いを起こしたのか。
クソ。
十一年使った体でも、まだどのくらいの能力を出していいのか、その限界が分からない。
というよりも、自分の力を抑えなければならないことに、何よりもいらだちと腹立たしさを覚える。
出来るはずのことが出来ないのが、何より辛い。
ベッドから起き上がろうとして、胸から異様なむかつきがせり上がってきた。
魔法によるヘタな治療を施した痕跡が見える。
チッ、どんな術をかけやがった。
ヤブ医者どもめ。
「あら、本当に気づいたんだ。まだまだ先かと思ってたのに。以外と早かったわね」
フィノーラだ。
ベッドに身を起こした俺を腕組みで見下ろし、大きなため息をつく。
「あんたさ、あんまり大人をナメてると、痛い目みるよ」
「そんなつもりはない。ただ時々……。自分の立場を忘れるだけだ」
「はぁ? 何よそれ」
扉が開く。
イバンとビビが連れ立って入ってきた。
イバンはフィノーラと全く同じ格好で腕を組み、俺を見下ろす。
「子供。お前の本当の名を……うわっ」
ビビはイバンの巨体を押しのけると、俺の手を握った。
「ね、ナバロ。ナバロは『ナバロ』っていう名前なのよね?」
「あぁ、そうだけど……」
「じゃあ、あなたはナバロなのね、ナバロなのよね」
「何が言いたい」
イバンはビビの上からにらみつけた。
「カズの村から、お前のご両親が心配して見に来たぞ。身元を確認した」
「もう大丈夫よ。あなたのお父さまも認めたの。あなたはナバロとして、ここで魔法の修行をしていいって!」
「魔法の修行?」
冗談じゃない。
俺に魔法を教えられるのは、俺だけだ。
「そんなもの、必要な……」
起き上がろうとして、自分が繋がれていることに気づいた。
目には見えない、魔法の鎖だ。
ここの魔道士がかけたのか?
かなりしっかりしている。
「なるほど。やはりそれに気づけるくらいには、魔法が使えるようだ」
「まぁ、凄いわねナバロ。あなたを診察したお医者さまが、念のためにって繋いだの。だけど分からないようにしましょうねって。それを見せられる私も辛いからって、ある程度は自由に動けるようにお願いして、あなたの体力と魔力が回復したら、すぐに……」
フン。
この程度のもので俺を縛り付けようなんて、片腹痛い。
呪文を唱える。
それは簡単に砕け散った。
「ふざけるな。俺にこんなことをしておいて、ただで済むと思うなよ」
「その減らず口がいつまで続くのか、見物だな」
ベッドから下りる。
床についた足の衝撃だけで、頭に響いた。
思わず膝をつく。
「どこで覚えたか知らんが、お前の唱える呪文は、自分の能力を遙かに超えて強すぎるんだ。物事には何事も、順番というものがある。お前はそれをここで学べ」
違う。
俺の体を、クソなヤブ医者に診せたせいだ。
薬の調合も術のかけかたも、よくはない。
あぁ、確かにこうやって、無理にねじ曲げられたような体では、この館に張り巡らされた結界を破るのは、難しいかもな。
来た時とは違う、また別の種類の結界が幾重にも張り直されている。
破ろうと思えば、出来ないこともないけど……。
「おい。ナバロ聞こえてるのか?」
「は?」
「お前はここで、魔術の訓練を受けるんだ」
「チッ。そんなものは、必要ない」
ため息をつき、顔を背けた。
体はまだ休まらないが、こんなところでのんびりしているほど、俺は暇でもない。
そんな俺を見下ろし、イバンは声を出して笑った。
胸ぐらを掴むと、グイと引き寄せる。
「まだ体が戻ってないことを、幸せに思うんだな。そうじゃなきゃ、一発ぐらいぶん殴ってやるところだ。聞きしにまさる生意気さだな。これではカズの村にいられないわけだ」
イバンは俺を突き放すと、くるりと背を向けた。
「まぁいい。お前を預かると決めたのは、俺だ。他にも何人かの先生をつけてくれるそうだ。ビビお嬢さまに、感謝するんだな」
扉が閉まる。
イバンが消えた瞬間、ビビは俺の手をぎゅっと握りしめた。
「ね、ナバロ。私もご一緒していいかしら。いいわよね? ね、私も魔法の勉強がしたいの」
「いい加減な冗談は、もううんざりだ」
それを振り払い、ベッドから抜け出す。
歩くだけで頭に響く。
俺はすぐ目の前のソファに横たわった。
「まだ辛いのね。もうすぐ先生が診に来てくださるわ。ナバロが気づいたら、すぐに呼ぶように言われていたの。お使いを頼んだから、きっともうすぐよ。ね、フィノーラ」
「えぇまぁ、そうでしょうね」
「お前の体を診ている、ヤブ医者か?」
「ちゃんとしたお医者さまよ」
何の病か興味はないが、確かにこの女から感じる命の炎は弱い。
「なぜ魔法に興味を?」
「だって、魔法が使えたら、それは素敵だと思わない?」
真っ青な目。
この女は、魔法使いではない。
魔法石を魔力に変え、体内に取り込める体質ではない。
「処方される魔法石の粉を飲んでいても、使えるようにならないのに?」
「だけど、勉強するのは自由でしょ」
「勉強ね……」
聞いて呆れる。
腹の立つほど平和で呑気な女だ。
フィノーラはため息をつく。
「いずれにしても、あんたはしばらくここから動けない。体力的にも社会的にもね」
「社会的?」
「監視がついたってこと」
「ねぇ! ナバロはどこかで、秘密の魔道書を見つけたのでしょう? じゃないと、こんな小さな子供が、あんな難しい呪文構文を整えられるはずがないって……」
ビビの唐突な発言に、フィノーラは慌てた。
「ビビさま、それは秘密にしとけって!」
「あら、いいじゃない。どうせ分かることだもの。隠してこそこそ探るなんて、私は嫌い」
俺の横たわるソファに足元に、ビビは腰を下ろした。
「みんな、その魔道書を見たがってるわ。今までにない難しいやり方だって。先生たちは、ナバロに魔法を教えるフリして、それを聞き出すつもりよ。とっても楽しみにしているわ」
俺はため息をつく。
それはエルグリムをやっていた時にも、散々言われたセリフだ。
「それをお嬢さまが、バラしちゃダメじゃん」
「私も教えてほしい。教えて欲しいのなら、素直に頭を下げるべきではなくて?」
「聞いてどうする?」
「私も、魔法が使えるようになりたい。魔法使いとしての体質を持って生まれてこなかった人間にも、魔法が使えるようになる方法はないのかしら。それを研究したいの」
「……。そんなこと、考えたこともなかったな」
だけどそれは、非常に面倒くさいうえに、厄介な頼み事だ。
それを叶えたとして、マトモに使える魔道士になるとも思えない。
適当に誤魔化して、利用するだけ利用したら、さっさと引き上げよう。
「分かった。いいよ。俺の秘密を教えてやろう」
「本当に!」
「信じちゃダメですよ、ビビさま!」
「あぁ。だたし、これから処方される薬は、俺が自分で調合する。魔法石をそのままくれ」
「ナバロは、そのまま食べてしまえるのよね」
「そう。それが俺の秘密。生まれ持った能力、それだけ。誰かに習ったわけでも、努力したわけでもない」
「だって、魔法石は魔法体質じゃない人にとっては、ただの石ころだもの」
ビビの顔色が曇る。
そうだ。そうやって悔しがれ。
「呪文構文だなんて難しいことは、考えたこともないね。自分の意志を、知っている呪文の型にのせるだけ。あとは魔力の摂取量」
「それじゃ、秘密にならないじゃない」
「そうだよ。特に秘密でもない」
「……。先に診察を受けてくるわ」
がっくりと肩を落としたビビは、静かに部屋を出て行く。
ここに残ったのは、俺とフィノーラだけになった。
彼女はため息をつくと、ドカリと向かいのソファに腰を下ろす。
「本当に秘密って、それだけ?」
「……。他になにがある」
「よっぽど恵まれた体質なのね」
彼女の持つ魔道士特有の、深い緑の目がじっと俺を見つめる。
「あの子、体が弱いのよ。だからこの館に閉じ込められて甘やかされて、世間しらすのまま、うっとうしい性格になっちゃってるのよね。魔法使いになったところで、自由になんてなれっこないのに」
「なれるさ。なろうと思えばね。そのために俺は、村を出た」
転生したんだ。
いつまでも、こんな扱いに甘んじるつもりはない。
もう一度、本来の自分を取り戻す。
それの何が悪い。
「子供になにが出来るの?」
「そういうお前だって、まだ若いだろう」
「十八よ。あんたよりは大人ね」
フィノーラの緑の目は、じっと俺を見つめる。
「カズを出て、一人でどうするつもりだったの?」
どうするも何も、やるべきことは決まっている。
まずはこの頭痛の原因となっている、ふざけた魔術を解かないと……。
フィノーラがじっと見つめる中、俺は呪文を唱えた。
ヤブ医者にかけられたおかしな術を解き、正しい流れに戻す。
全身のだるさが一気に吹き飛んだ。
「ふぅ。やっと楽になった」
「……。あんた、そうやって魔法で誤魔化してきたのね。だけど本当の体は、まだ回復してないよ。どんな魔法も、真実の姿には勝てない」
「それがやっかいなんだ」
体力と、使える魔法のバランス。
さっさと先へ進みたいが、この体が、とにかくやっかいで仕方がない。
これからどうしたものか……。
「……。ねぇ、さっきの……。その、あんたが使った魔法なんだけど……」
フィノーラの目が、くまなく俺を観察していた。
「あんな呪文、初めて聞いたわ。どこで覚えたのよ」
「……。どの魔法のことだよ」
「ぶっ、ぶっ倒れる直前のやつ! ……。普通出来ないから。あんなこと。広域魔法? 天候を操ろうとした? なによあれ。何がしたかったの? 一体、誰に、何を伝えたかったわけ? 世界に向かって、何を宣言しようとしたのよ。それとも、ただのバカ?」
あの程度の魔法も見たことがないとは、聞いて呆れる。
俺が死んでから、よほど退屈な魔道士しか、この世に存在しなかったらしい。
「子供特有の、全能感ってヤツ? 自意識過剰? だけどあんたには、それを使える可能性が確かにある。体が出来上がればね。もう少し成長すれば……」
フィノーラの視線が、じっと俺に注がれたまま離れない。
彼女は俺に、何を求めているのだろう。
「これから、どこへいくつもり?」
それには答えない。
教えたところで、コイツらにはどうしようもない。
それでも彼女が望むというのなら、まぁちょっとくらい、教えてやってもいいか。
「……。グレティウス……」
「! ねぇ、あんたってまさか……」
扉が開いた。
イバンが入ってくる。
「診察の時間だ。フィノーラ、席を外してくれ」
舌打ちと共に、彼女は出て行った。
ソファに座り直した俺を、イバンは見下ろす。
「随分、楽になったようだな」
頭に手を置くと、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
クソッ。
とにかく俺は、こういう遠慮のない男が苦手だ!
「やめろ! 俺にそんなことをするな!」
「はは、何だよ。照れるなよ」
バカにしてるのか?
冗談じゃない。
こんなことをされて黙っていられるか!
その手を振り払う。
にらみ上げたイバンの後ろで、見慣れぬ男が笑った。
「はは。元気を取り戻したのなら、何よりです。私の術が、よく効いたようだな。よかった」
緑の目。随分と深い緑だ。
その魔道士は、持参した小箱をテーブルに置いた。
箱のなかは小さくいくつにも区切られ、様々な種類の魔法石と薬草、それらを擦り合わせる乳鉢と乳棒なんかが入っている。
「魔道士同士が顔を合わせると、ロクなことにならないからな。俺も同席させてもらうぞ」
「こんなおっさん連れてきて、どうするつもりだ」
「ほら、体をみてやろう。そのうえで、呪文の種類と魔法石の調合を整えてやる」
男は白髪交じりの長い髪を、後ろで一つに束ねていた。
「お前がビビも診てるのか?」
「そうだよ」
「ルーベンで一番の医術者だ」
ヤブ医者は両手を俺の肩に乗せると、視線を合わせた。
実に稚拙な呪文を唱え始める。
「魔道士でありながら、医術くらいしか使えないのか」
それを無視して呪文を唱え続ける男の顔に、次第に困惑の表情が浮かぶ。
診察中の医者の代わりに、イバンが答えた。
「世の中には、様々な魔道士がいる。こちらの先生は専門の道を選び、それを極めようとする方だ。そういった選択をするのは、悪いことではない。ナバロ、お前は将来、どんな魔道士になりたいんだ?」
「世界最強」
「はは。ようやく子供らしい、まともなことを言えたな」
イバンはニコリと、呑気な表情を浮かべた。
「ではここで、俺と一緒にそれを学ぼう。お前もきっと、立派な魔道士になれる」
肩に乗せられた、ヤブ医者の手は震え始めた。
気づけば、顔は真っ青だ。
俺はフンと鼻を鳴らす。
「おい、ヤブ医者。どうかしたのか?」
「こ……、これは……お前が……? どうやって……」
「ん? どうした。何をそんなにビビってる?」
バカにしたような俺の言い方に、イバンはのぞき込む。
「先生? どうかしたのですか」
俺は乗せられた医者の手を、払い落とした。
「なんでもないってよ」
彼はまだ、硬直してその場から動けない。
俺の魔法が理解出来るなら、まぁそれなりに、確かな腕はあるようだ。
「ねぇ、お腹空いた。ご飯はまだ?」
日はまだ、てっぺんまで昇りきっていない。
「もう食事して大丈夫なのか?」
「いいってよ! イバン、食堂まで案内して」
俺は部屋を出て行く。
廊下に出ると、すぐ後からイバンはついてきた。
「食事がすんだら、どうする?」
そう言った彼を、俺はニコリと微笑んで見上げる。
「剣の練習がしたいな」
「ほう。それはいい心がけだ。ふふ。俺に頼んだことを、後で後悔するなよ」
そう言って、イバンは嬉しそうに笑った。
聖剣士から直々に剣術を教えて貰えるのは、ありがたい話しだ。
簡単な食事を終え、イバンの支度が調ったところで、俺たちは館の中央にある芝生の庭に出た。
ビビとフィノーラはすぐ脇にテーブルを出し、お茶を飲んでいる。
レンガの壁に立てかけられた、
剣の一本を手に取った。
「それが聖剣だ。本来なら、聖騎士団に入団しないと、触れられない剣だぞ」
長くて重い。
少し振り回しただけで、ふらつく。
それを見たイバンは、別の剣を取りだした。
「やはり、もう少し短くて軽いのにしよう。お前用にと思って、用意しておいたんだ」
イバンは俺に、剣を教えるのがうれしくて、仕方ないらしい。
「魔術もいいが、まずは体力だ」
渡された剣を受け取る。
大人用の剣の、半分程度の大きさだ。
なるほどこれなら、長さも重さも丁度いい。
「聖騎士団、予備隊の剣だ。お前ぐらいの歳なら、入隊していてもおかしくない」
イバンは自分の長剣を構えた。
俺はそれを、見よう見まねで構える。
「聖剣って、こんなに本数があるものなのか?」
「エルグリムを倒した英雄、スアレスの握っていた剣と、同じ製法で作られたものを、今ではそう呼んでいる。ちまたに出回っているものには偽物も多いが、ここにあるのは大賢者ユファさまの祝福を受けた、本物だぞ」
イバンは剣を振り下ろす。
俺はそれに平行した状態で、同じように剣を振った。
「スアレスがエルグリムを倒した時には、聖剣は強力な魔法を帯びていた。祝福を受けているというわりには、何も感じないけどね」
こんな、雑な剣などではなかった。
アレの剣は、こんなものじゃない。
「はは。よく知ってるな。スアレスの聖剣は、今は失われて、本当のところ、今どうなっているのかは、分かっていない。最期に勇者の使った魔法も、語り継がれているだけのものだ」
「仲間が生き残っていただろう」
「今はもう、全員が隠居されている」
ビビとフィノーラは、ポットから新しいお茶をカップに注いだ。
「スアレスは、剣術にも魔術にも長けた勇者だった。俺は魔術も多少使えるが、魔力を蓄積出来る体質ではない。英雄にはなれない」
イバンが剣を振る。
俺は見よう見まねで、その剣を振るう。
「魔術は努力ではどうにもならないが、剣術なら習うことが出来る。努力さえすれば、ある程度は見られるようになる。お前なら、スアレスの再来と言われるくらいにまで、なれるかもしれないな」
イバンは得意げに、ニッと笑って俺を見下ろす。
そうでも言っておけば、やる気になると思っているのだろうか。
俺は剣を振るいながらも、内心で深くため息をつく。
エルグリムは体が弱かったわけではないが、痩せ細り体力はなかった。
誰かにこうやって、何かを教えられたこともない。
こんな立派な剣になど、触れることすら許されなかった。
「俺が剣術を習うのは、習ったことがないからだ。それに、魔力を蓄えられるのは生まれ持った体質でも、使いこなすには努力が必要だよ」
「もちろんだ」
イバンが振りの型を変える。
俺もそれに合わせて、腕を動かす。
「だからこそ勇者には、仲間が必要だった。勇者スアレスだけが今はたたえられているが、一緒に旅をした仲間たちの協力があってこそ、魔王を倒せた」
剣の振りが複雑になった。
腕の振りに合わせて、足を動かすのが、意外と難しい。
流れるような剣さばきに、もう体はついていけない。
「エルグリムの悪夢のことは、もちろん知っているだろう?」
イバンの振りが、さらにスピードを上げる。
俺は諦めて、剣を下ろした。
イバンはそれに構うことなく、聖剣を振り続ける。
「私に言わせれば、あんなものはただの伝説だ。一種の昔話に過ぎない。一度倒されたエルグリムの亡霊になぞ、もう我々が怯える必要はない。だが本当に恐ろしいのは、そのエルグリムが残した『悪夢』だ」
スアレスは死んだ。
イバンの明るく澄んだライトブルーの瞳が、じっと俺をのぞき込む。
俺はその目を、しっかりと見返した。
「ナバロ。お前の目は、とても変わった色をしているな」
「魔法使いの目でしょ。よく言われるんだ」
碧を含む深い緑の目が、色鮮やかに光り輝く。
この目を称える詩がいくつも作られ、人々を恐怖におとしめてきた。
「お前は、本当にエルグリムの生まれ変わりでは、ないのだな」
「……。当たり前だろ」
そんなこと、誰にも知られるわけにはいかない。
まだ早い。
全てを呼び覚ます魔法をかけ損ねたいまでは、なおさらだ。
俺はわざとらしく、盛大にため息をついた。
「あのさぁ、それでもし本当に俺が、その生まれ変わりだとして、ここで『うん』って言うと思う?」
「お前がいくら嘘をついても、その目だけは誤魔化すことは出来ない」
今の俺が持つこの目は、魔力を蓄えたくとも蓄えきれない深い海に、ようやく落ちたひとしずくの雨粒からなる海の色だ。
「俺は強い魔道士になるよ。当然だ。せっかく魔力を扱える体に生まれたんだ。どうしてそうなることを望まない?」
「お前も欲しいか、『エルグリムの悪夢』を」
イバンは再び、剣を振るい始める。
力強いその動きに、汗が飛び散る。
「ルーベンには昔から、蘇ったエルグリムが現れるのは、ここではないのかという、噂がある。倒されたヤツの魂が、飛んで行った方角とされるのが、このルーベンだ」
俺も同じように、剣を振るってみる。
だがまだ十一歳の少年の体では、それについていけない。
筋肉のつききっていない細腕では、すでに剣の重みが増している。
あの時、俺がスアレスにやられたのは、最期に振り絞った肉体の動き。
それだけだ。
だから俺は、若く強い体を手に入れた。
「そこからさらに五年前、いや六年前だ。エルグリム亡き後に建てられた中央議会、大賢者ユファさまによる予言が、再びここに、エルグリムが現れたとしている」
「知ってるよ。それで騎士団が、こんな田舎町に派遣されたんだろ? 俺も去年検査を受けた」
「受けたのか!」
イバンは急にその動きを止めると、心底驚いたような顔を俺に向けた。
「当たり前でしょ」
「それで問題ないと?」
その予言を元に、魔道士体質の子供は、聖騎士団による身体検査を受けさせられている。
「そうだよ」
当然だ。
そんなものを誤魔化すくらい、なんの問題もない。
イバンは剣を鞘に収めると、いきなり俺を高く抱き上げた。
「ならばもう、なんの問題もないじゃないか! お前を私が、立派な聖剣士に育ててやる!」
「やめろ! 俺は魔道士なんだ。冗談じゃない、離せ!」
「ははは。お前、これからちゃんと覚悟しておけよ」
「下ろせ! 下ろせよ」
「まぁ、イバンさま。私にも剣を教えてください!」
しっかりと抱き上げられた腕は、どれだけ俺がもがいても、振りほどくことは出来ない。
「ビビさまは、フィノーラにでも習ってください。私はこれから、ナバロを教えるので忙しくなりますので」
「は? ビビさまに剣? 冗談じゃないわ。そんなのは、契約に入ってませんから!」
自分の顔が、ひどく火照っているのが分かる。
ようやく地面に下ろされた後でも、まだ心臓は脈を打っている。
「フィノーラ! 私も、ナバロに負けてはいられません」
「だから、嫌ですって言いましたよね。絶対に教えませんから」
イバンの手が、再び俺の頭に乗った。
「体調はどうだ? まだ続けられるか?」
「……。う、うん」
「なら、基本の訓練から始めよう。それと、やっぱり基礎体力作りからだ」
イバンを見上げる。
彼は、何の疑いもない笑顔をむけた。
俺はそれに舌打ちをしてから、再び剣を握る。
イバンの特訓は、その言葉通り容赦なく、厳しかった。
病み上がりの初日だというのに、この男は加減を知らない。
ひとしきり汗を流し、ようやく夕食のテーブルについた。
体はもうクタクタだ。
疲れ切った状態で、食堂に入る。
豪華絢爛とはいかないが、丈夫な長テーブルに、清潔な白のクロスがかけられ、燭台や天上の明かりも、質素だが悪くない品だ。
全員が席についたところで、パンと温かいスープが運ばれてくる。
よく分からない茹で野菜に、スライスして焼いたハムも添えられているのなら、まぁよしとするか。
テーブルの中央には、大きな魔法石の結晶が飾られていた。
「あぁ。これは上質な魔法石だな」
乳白色に濁った淡い琥珀色の結晶は、光りを受け虹色に輝く。
「これをフィノーラと一緒に、カズへ買いに行ってたのよ。これなら私にも、摂取できるんじゃないかと思って。」
ビビはうれしそうにはしゃいでいる。
イバンはそれを見て、ため息をついた。
「またビビさまは、そのようなことを……。必要以上に魔法石を摂取しても、魔道士の体質を持って生まれた者でなければ、なんの意味もないと……」
「上質な魔法石が、カズ村から見つかると聞いて、いてもたってもいられなくて……」
「これほどいい魔法石を飲んでも、その病は治らないのか?」
やっぱりあの医術士はダメだな。
俺は人差し指をまっすぐに伸ばし、呪文を唱える。
魔法石の結晶が、パキリと折れた。
その破片は宙を漂い、手の中に転がり混む。
そのそら豆ほどの欠片を口に放り込むと、ガリッとかみ砕いた。
「お前、そんなことも出来るのか」
「まぁすごい。こんな細やかで器用な魔術は、初めて見ましたわ」
ほんのりと甘い魔法石の欠片が、口の中に広がる。
「ね、お願い。私にも魔法を教えて、ナバロ」
「教わってどうする? 医者にでもなるのか」
ビビは少し考えてから、首を横に振った。
「うーん、それもいいけど……。そうね、それよりは、もっと自由に動きたいの。上級の魔道士になれば、空を飛んだりも出来るでしょう? 色んな所へ旅に出てみたいわ。沢山もものを見て、知って、触れてみたい。読んだ本の中にある気色が本当かどうか、この目で確かめたいの」
ビビの目はいつも、ここではないどこかを夢想していた。
「海が見てみたい。大きな川も湖も。高い山から見下ろす、広大に広がる景色も、沢山の森の木も。もう誰かからお話しを聞くだけじゃ、満足できないの。自分の足で歩いて、そこへ行って、何もない草原の上で、ずっと寝転がっていたい」
夢ばかり見ているビビに、フィノーラとイバンは、深いため息をつた。
「それ、今日もやったのがバレて、さっき叱られたばかりじゃないですか。ナバロを診察した医師に」
「そうですよ。ビビさまはもう少し、自分の体調と体力をお考えください」
「ね、ナバロ! ナバロだって、自分の能力と体力の加減が分からないのでしょう? それで動けなくなってしまうのなら、同じではないですか」
「……。違う」
三人の声が重なった。
「どうして!」
「ナバロはただの、やんちゃ坊主よ。体はまだ子供だから、魔法に耐えられるほどは出来上がってないけど、健康的に丈夫には出来ている」
「魔力を貯め込む能力は、常人とは桁違いですよ。自分でコントロール出来ていないだけだ」
「私とどう違うのよ!」
「全然違います!」
フィノーラとイバンの愚痴は続く。
「大体さぁ、お嬢さま付きの侍女っていうから、何をやらされるのかと思ったら、ただのお守り役だなんて! 私はそもそも、治癒魔法は得意じゃないのよ。それなのに、しょっちゅう簡単に、どこででも倒れちゃってさ」
「私だって、簡単な魔法しか使えない。倒れたビビさまを館まで運ぶだけの、運搬係みたいな役は、もうゴメンこうむりたい」
「いいじゃないの、それくらい!」
「よくないです!」
俺はそんな話しに気をかけることなく、一人で黙々と食事を続けている。
久しぶりにしっかり体を動かしたせいか、もうすでに眠気に襲われていた。
このまま延々とつまらない愚痴を聞かされていては、本当にここで眠ってしまいそうだ。
「私もナバロと一緒に、体力をつけます! 走るし、腹筋とか柔軟もやります」
「無理ですよ。とにかく私は、仕事とナバロで手一杯ですし。ビビさま用のメニューじゃないし」
「フィノーラ! 何とかならないの?」
「え~。そういうの苦手ー。契約にも入ってないしー」
「私も、冒険がしたいのです!」
ガチャン! と、ビビはテーブルに拳を突いた。
静まりかえった食堂に、イバンの声が静かに響く。
「……。ビビさまの場合は、お父さまに許可をいただかないと……」
そう言った彼を、彼女はにらみつけた。
「だから私は、誰からも……」
不意に、廊下から騒がしい物音が聞こえてくる。
四人? いや、五人だ。
食堂の扉が開いた。
黒髪に顎髭を生やした大柄な大きな男だ。
後ろには聖剣士二人と、魔道士も二人いる。
魔道士のうちの一人は、昼間の医術士だ。
「ビビ。お前が連れてきたというのは、その少年か」
「お父さま。どうされたのですか?」
ビビとは似ても似つかない、巨体に筋肉質な男だ。
彫りの深い目で、俺をにらみつける。
「名は何という。ナバロだったか? いや、そんなことはどうでもいい。今すぐ聖騎士団の本部へ行ってもらおう。連行しろ」
魔道士二人が呪文を唱える。
拘束呪文だ。
俺はその術先をビビにすり替える。
「きゃあ!」
彼女の体が、テーブルに座ったままの状態で固定された。
「か、体が動かなくなりましたわ!」
「ナバロ以外の者は、外に出ていろ!」
俺はテーブルに飾られた、魔法石の結晶を手に取った。
それを懐に入れると、ぴょんと飛び上がる。
「待て!」
簡単な魔法だ。
領主率いる聖騎士団の前に、軽めの静電気を流す。
「うわぁ! イバン、ビビを連れて避難を!」
父親である領主が叫んだ。
魔道士からの攻撃魔法が飛んでくる。
どうやら標的は俺らしいが、なんだコレ?
空気玉か何かか?
威力も弱ければ、意志のはっきりしないヘタな魔法だ。
これで聖騎士団の魔道士とは、情けない。
ビビの盾になるよう回りつつ、それを跳ね返す。
イバンは、魔法で固まったままの彼女を抱き上げた。
「私はここに残ります!」
「お父さまの命令です。一旦避難します」
「嫌です!」
次は何の呪文のつもりだ?
いつまでたっても、もごもごと考えている魔道士の口を封じる。
「やはりお前は、ただの魔法使いではないな」
領主は剣を抜いた。
その刃先が空を切る。
だけどまぁ、十分届かない位置にいるから、全然怖くはないよね。
ビビを抱き上げたイバンが、走りだした。
食堂を抜け、廊下へ出る。
俺はその後ろに続いた。
「待て!」
領主と聖剣士たちが、追いかけてくる。
呪文を唱えた。
彼らの足元を固める呪文だ。
勢いよく床に転がる。
「クソ! 早く魔法を解け!」
ダメだ。 楽勝すぎる。
俺たちは廊下を駆け抜ける。
「おい、ナバロ。お前がついて来んなよ」
「ビビの周辺以上に、ここで安全なところがあるか?」
「まぁ素敵! いいわよ、ナバロ。ずっと私の側にいて!」
「なにを言ってるんですか、お嬢さん。冗談じゃないですよ」
「ならば、拘束魔法を解いてやろう」
「いや、逆に面倒だから解くな」
蝋人形のように固まっていたビビの腕が、ふっと動いた。
「もう解いた」
「すぐにかけ直せ」
「イバン、下ろして!」
暴れ出したビビを抱いたまま、イバンは玄関ホールへ出る。
背後から矢が放たれた。
振り返った瞬間、それは空中でピタリと止まる。
フィノーラだ。
「ひどいじゃない。私を置いて行かないでよ」
「お前までついて来たら、意味がないじゃないか」
「いちおう? ビビさまの護衛だし?」
イバンは愚痴をこぼしながらも、そのまま走り抜け玄関ホールへ出た。
騒ぎを聞きつけた聖剣士たちが、外からも駆けつけ始めている。
「イバン、何事だ!」
「……。あぁ、ビビさまを連れて、避難中だ」
「そ、そうなのか?」
「見て分からないか」
イバンは、抱きかかえているビビを見せる。
その後ろには、フィノーラと俺がいた。
「そ、そうか。ならば、こちらへ……」
居並ぶ聖剣士たちの前を、素通りする。
俺たちはそのまま、中央ホールの階段を駆け上がった。
「待って。そうだわ、イバン。こっちではなくて、地下牢へ逃げましょう。もう随分使われていないし、そこなら私たち四人で隠れていても。十分籠城出来るわ」
「なるほど名案です。では、ここからぐるっと回って、三階のビビさまのお部屋へ」
「どうしてよ!」
ホールには続々と、聖騎士団の連中が集まってきていた。
イバンはビビを抱えたまま、階段を駆け上がる。
「だからナバロ、お前がついて来んなって」
「館の外へ出たい。案内してくれ」
「それは無理だ。私はビビさまの部屋へ向かう」
術の解けた領主がホールへ駆けつけ、俺たちを見上げた。
「あの少年だ! ヤツを追え!」
衝撃魔法が飛んでくる。
風を小さく丸めたものだ。
だが狙いが悪い。
標的の設定の仕方がヘタなのだ。
これでは俺だけでなく、ビビやイバンにも当たってしまう。
その空気弾を消滅させようと、俺が呪文を唱えるよりも早く、フィノーラが呪文を唱えた。
弾き返された弾は、ホールの壁に弾け飛び、立派な装飾を傷つける。
「えぇ? お前の魔法は、雑過ぎるな」
「うるさいわね。このままじゃ、ビビにも当たるでしょ」
「私は先に行くぞ」
再び走り出したイバンの後ろに、俺とフィノーラはついて行く。
「だから、あんたが大人しく捕まりなって!」
「やだよ、面倒くさい」
「カズといい、今回といい、一体なにしたのよ」
「心当たりが、ありすぎて……」
イバンに抱えられたまま、ビビは後ろをのぞき込んだ。
「追いかけて来たわよ!」
魔道士は、炎の呪文を唱えている。
こんな狭い廊下で、正気か?
次の瞬間、敷き詰められた絨毯に、二本の火が走る。
黒くくすぶるその線に、フィノーラは何か唱えようとしている。
「待て。単純に返すな。廊下が燃える。気体を操れるのなら、空気の流れを止めればいい。そうすれば火は消える」
フィノーラの呪文。
炎は増幅され、後方に向かって火を噴いた。
「なんでこっちがそんなことまで、気にかけなきゃなんないのよ」
「きゃー! カッコいい! 私もそれやりたい!」
「絨毯が燃えた!」
「あら、ナバロはそんなことを気にかけてくれるの?」
イバンに抱きかかえられたまま、ビビはにっこりと俺を見下ろした。
「そう。いい子なのね」
その仕草に、なぜかうつむいてしまう。
いや、違う。
そうじゃない。
俺だって、自分の城が荒らされるのは、嫌だったから……。
「止まれ!」
行く手を塞いだのは、ビビの父親だった。
「少年、大人しくこっちへ来るんだ」
「お父さま、おやめください。ナバロに、なんの罪があるというのですか!」
「お前は黙ってろ!」
「嫌です!」
「イバン、ビビはもういい。その少年を捕らえろ」
「……。ですがビビさまが……」
「ダメ!」
ビビは、イバンの首にしがみついた。
領主である父親の後ろには、聖剣士と魔道士がいる。
背後も塞がれた。
「イバン、何をしている。早くしろ!」
その声に、彼は抱き上げていたビビを、ゆっくりと下ろす。
「ビビ、こっちへ来なさい」
「嫌です!」
彼女は両手を広げ、父親たちの前に立ち塞がった。
「この子が、何をしたというのですか!」
「それをこれから審議するんだ」
前後に迫る聖剣士たちが、一斉に剣を抜いた。
魔道士たちも控えている。
イバンはささやく。
「ナバロ。ここは一旦、大人しく捕まらないか? 私たちが、悪いようにはさせない。必ず助け出す」
ビビも目を合わせた。
俺に向かって、小さくうなずく。
「悪いがそれを素直に信じられるほど、まっすぐに育ってないんでね」
「ならば、戦うしか道はない」
さて、どうしようか。
イバンが腰の剣を抜いた。
と、不意にビビの手が、俺の腕を掴む。
「ナバロ、こっちです!」
そのとたん、すぐ脇にあったドアが開かれ、そこに引きずり込まれた。
「ビビさま!」
部屋に入るなり、彼女は鍵をかける。
「ビビさま! 開けてください!」
「いやよ!」
「イバン、ちょっとどいて」
フィノーラだ。
ドアを塞ぐビビの体が、ガクガクと震えて始める。
呪文で扉を開放しようとしているんだ。
「ナ、ナバロ、何とか……、おねが……」
ビビの願いに、俺は呪文を唱える。
「コラー! ナバロ、魔法を解きなさーい!」
「これで、しばらくは大丈夫だ」
ほっとしたのか、ビビは俺に近寄ると、視線を合わせた。
「あなたは本当に、魔法使いなのね」
無邪気にキラキラと輝く目が、俺には妙にうっとうしく眩しく感じる。
「頼みがあります。私を一緒に、連れて行ってください。ここから出たいの」
「嫌だ。面倒くさいし、邪魔だし」
荷物にしかならないお供など、ゴメンだ。
この体をしっかり休ませ、ようやく取り戻した体力を、残しておきたかったが、こうなっては仕方ない。
「私は! いつもここでは、邪魔者扱いなのです。厄介な、困った置物なのです」
「だろうな」
だけど、その境遇は昔の俺と、正反対だ。
雑用品を並べた物置部屋には、タオルやシーツ、掃除道具や工具類が並べられている。
狭い裏路地に面した窓際には、長い梯子が立てかけられていた。
扉は激しく叩かれ続けている。
「私は……。だから、一人前になりたくて、誰の荷物にもなりたくなくて……。魔法石を取り寄せ、体に馴染ませようとしていたのです。だけど、元々の体が弱く、そのせいで取り込んだ魔力は、全て吸い取られてしまって……。おかげでこうして、元気に動けてはいるのですが、ただそれだけにしかならず、私は……」
強烈な眠気が襲ってくる。
やはり子供の体は不便だ。
体力がいくらも持たない。
俺は小さな窓から、外へ身を乗り出す。
乗り移れそうな屋根が目の前にある。
「……。一緒には、連れて行ってもらえないのね」
「断る」
「分かったわ。準備するから、ちょっと待ってて!」
「いや、だから断るって……」
「ナバロが置いて行っても、私は勝手に付いていくだけよ。だから何も気にしないで」
いや、待たんけど。
もう一度、窓から外をのぞき込む。
ビビは、タオルやらシーツやらの積まれた棚の奥から、ボロ布の鞄を取りだした。
それを肩にかける。
「コラー! あんた、本気でビビさまと閉じこもる気なの?」
「ナバロ、ここを開けろ! このままでは、お前が不利なだけだ」
ドアを蹴破ろうとしている。
魔道士たちも呪文を解こうと、躍起になっている。
まもなく扉は開かれるだろう。
「ビビ。これは、魔法石をいただいていく礼だ」
俺は食堂から持って来た魔法石を取り出すと、その一部をバキリと折ってかみ砕く。
彼女の胸に手を当て、呪文を唱えた。
「腕のいい魔道士に、治療をさせているな。それは確かだが、気の巡りが悪いから、それ以上よくならないんだ」
ビビは、かざした俺の手を握ると、苦しそうに表情を歪める。
あのヤブ医者は、もしかしたら俺の正体を見抜いたのかもしれない。
たいしたものだ。
「お前の病はお前のものだから、それ自体を治すことは出来ない。だがちょっと『仕掛け』を変えてやればいいんだ。これで、普通に動けるようにはなる。魔法石の摂取が条件なのは、変わらないが」
視界が歪む。
寝落ちしそうだ。
これ以上、意識を保つのは難しい。
扉の向こうから、フィノーラとイバンの声が聞こえる。
「ちょ、ナバロ! あんた、どんな魔法使ってんのよ!」
「魔法の使えない、私にも分かる。とんでもない気配だ!」
扉の呪文が破られそうだ。
これだから、子供の体は厄介なんだ。
もう体力が持たない。
フィノーラの魔法が、俺の術を解除しようとしている。
イバンはその巨体を、激しく扉にぶつけている。
「ビビさま!」
体がだるい。
急がないとマズい。
俺は梯子を窓から外に出すと、それを階下へ落下させた。
「ナバロ!」
「お別れだ。ビビ」
扉が破られる。
「待て!」
イバンの剣先が、空を切った。
俺は窓から外へ飛び出す。
ふわりと体を浮かせ、隣の屋根に飛び乗った。
窓枠に飛びついたイバンが、そこから身を乗り出す。
「ナバロ! そこから動くなよ。この私がちゃんと、お前を……」
「どいて!」
ビビはイバンを押しのけた。
「どうしても、連れて行ってはもらえないのね!」
「邪魔なだけの供はいらない」
「魔法が使えたら、私だってどこへでも行けた! 何にでもなれた! 私の自由を、あなたの自由をなくさないで! またいつか、ここへ戻ってきて。私にそれを見せて!」
フィノーラが呪文を唱える。
「ちょっとそこを、どいてもらえますかね、ビビお嬢さま!」
イバンはとっさに、ビビを奥へ引き込んだ。
そのとたん、窓側の壁が吹き飛ぶ。
「フィノーラ。お前の魔法は、がさつすぎ」
「待ちなさい!」
また衝撃魔法だ。
ありがたい。
それが打ち込まれる前に、シールドを貼る。
フィノーラの放った魔法の風を受け、夜空に舞い上がった。
「……。ナバロ、逃がさないわよ!」
後はそのまま、調整した風に乗って、飛ばされておけばいい。
ゆっくりと漂う夜空に、ルーベンの町が広がる。
「待て!」
フィノーラは、屋根へ跳び移った。
足で走って、追いつけるとでも思っているのかな。
と思っていたら、彼女は魔法で高く飛び上がる。
フィノーラが何度、シールドに衝撃魔法を打ち込んでも、それは俺が逃げるための、追い風にしかならないんだけどなぁ。
「あぁ、そうか。ついでに自分も、あの館を出るつもりだ……」
ルーベンの田舎町を、月明かりが照らしている。
俺はフィノーラの起こす風に乗って、ふわふわ空を飛んでいて、彼女はその後を、飛び跳ねながら追いかけて来る。
「……。あんた、本気でグレティウスに行くつもり?」
「そうだけど」
寝落ちしそうだ。
この体、もうちょっと使えるようにならないかな。
困ったもんだ。
だけど今は、そんなこともなんだっていいや。
もう町外れまできたし。
その辺の茂みにでも、身を隠して眠ろう。
いつものように魔法で目隠しすれば、獣やモンスターにも見つからない。
「お前は、あの館に戻らなくていいのか?」
「あんた、私と組まない?」
「それで俺に、どんな利点が?」
「子供一人で、何が出来るの。私といれば宿も取れるし、家出少年には、ならないわよ」
意識が薄れる。
もうダメだ。
フィノーラの腕が、ゆっくりと落ちてゆく俺の体を受け止めた。
そのまま屋根から地上へ下りる。
「あんたの体、もう動けないってバレバレよ。容積の小さい子供の体で、でかい魔法使いすぎ」
触れた肌から伝わる体温が、やけに生々しい。
完全に意識が落ちる。
次に俺が目を覚ました時には、温かいベッドの上だった。
ガラス窓の向こうから、昇ったばかりの朝日が見える。
まだ多少の疲れはあるものの、随分と楽になった。
その回復の早さには、感心する。
狭い部屋にベッドが二つ。
窓には小さなテーブルと、椅子が二脚ほど。
外にはすぐ目の前にまで迫る、山の緑が広がっている。
どうやら行きついた町外れで、宿をとったらしい。
フィノーラの姿は見えない。
俺は起き上がると、部屋を出た。
「もう起きて大丈夫なの?」
廊下に出たとたん、そのフィノーラと鉢合わせる。
「ここを出る。世話になったな」
彼女は両腕に、衣類やら食料を抱えていた。
その真横を通り抜ける。
「宿の女将さんに、挨拶くらいしていきなさいよ」
階段を下りると、すぐに帳場に出た。
気の強そうな女将が立っている。
「おや、坊ちゃん。もう動けるようになったのかい?」
その手は俺の頭を抑えこむと、ぐりぐりとなで回した。
「全く。いいお姉ちゃんだね。出発の準備を手伝ってきな。朝食はその後だよ」
にっこりと、人当たりのよい笑顔を俺に向けた。
その手をパンと振り払う。
「なんだそれ。俺はもう先に行くんだ」
冗談じゃない。
あんながさつな女など、連れて歩く方が面倒くさい。
宿の女将に背を向ける。
聖剣士たち追っ手が来る前に、さっさとここを抜けだしたい。
「まぁー! 本当にきかん坊だね」
女将はその俺を、背中から高く抱き上げた。
「うわっ、おい、離せ!」
「ちょっとは、抱っこくらいさせておくれよ。うちの子は、もうすっかり大きくなっちゃってねぇ」
頬にキスされた! やめろ!
「あ、捕まえてくれたのですね。ありがとうございます。お世話になります」
すっかり旅支度を調え、フィノーラが出てきた。
「あら、もう行っちゃうの? 少し待てば、食事が出来あがるのに。食べていきなよ」
抱き上げられた腕から逃れようともがくも、そう簡単には抜け出せそうにない。
「夜中に押しかけておいて、お世話になりました。この子も、じっとしていられない子なので。母の様態も気になりますし……」
「そっか。お母さんの具合が悪いんじゃ、しょうがないわね」
ようやく床に下ろされた。
女将はため息をつくと、俺たちを見つめる。
「平和な時代になったものね。子供だけで旅が出来るなんて。憎きエルグリムの暗黒時代を乗り越えた、私たちですもの。きっとお母さまはよくなるわ」
「ありがとうございます」
「気をつけてね。帰ったら、また寄ってちょうだい」
宿の外まで見送りに来た女将に、フィノーラは手を振った。
そのまま山を越える街道へと入ってゆく。
人通りは少ないとはいえ、ゼロではない。
踏みならされたむき出しの土を踏みしめ、歩いてゆく。
「こんな堂々と街道を通って、大丈夫なのか? お前はビビの館へ戻れよ」
「戻ったわよ」
「は?」
フィノーラは大あくびをした。
「じゃなきゃこんな呑気に、街道通って移動できると思う? 全くこれだから子供は……」
ガラガラと音を立てて走る荷馬車と、すれ違った。
「ぶっ倒れたアンタを宿に預けてから、すぐ館に戻ったわよ。それで、ビビさまからの手紙も預かってきた」
「は?」
だからと言って、こんな紙切れを渡されても困る。
「定期的に、連絡寄こせって。街道を抜ける通行手形を出してもらったのよ。ルーベンの正式な許可証よ。これでどこへでも行ける」
「そんなもの不要だ」
関所はすり抜ければいい。
金なら店先で盗むか、魔法で芸でも見せればいい。
占いでもしてやれば、すぐに金は手に入る。
「お前はこれから、どうするつもりだ」
「私もグレティウスへ行く」
「なんだ。お前も『悪夢』が欲しいのか」
「それは違う」
日が昇るにつれ、気温は上がってきた。
人通りも次第に増えてくる。
ゆっくりとした坂道を、フィノーラと並んで上ってゆく。
「私は……。『悪夢』を破壊する」
「どうして?」
「ナバロは信じる? 中央議会の言ってること」
「まだ見つかってないんだろ?」
「それは信じてる」
整備された街道は道幅もあって、所々に店も並んでいる。
次の街は、この峠を二つ越えた先にある。
「エルグリムの残した遺産よ。それがまだ見つからないなんて。だけどもし見つかってたら、もうとっくに世界は、変わっていたのかもね。新政府に不満はないけど、他の誰かに見つかって悪用されるくらいなら、私が先に見つけて、ぶっ壊してやる」
「フン。誰もが血眼になって探しているのに、まだ見つからないものを、お前が見つけられるとでも?」
フィノーラは立ち止まると、じっと俺を見下ろした。
「あんたと一緒なら、見つけられる気がする」
「じゃあもし、俺が見つけたとして、どうする? 俺はそれを、独り占めするかもしれないぞ」
「そうはならないでしょ。多分私だけでも、あんただけでも、見つけるのは無理」
上り坂がきつくなり始めた。
道幅も狭まり、街道沿いの商店も寂しくなり始める。
ここから先は、本当に山の一本道だ。
「誰かに支配される世界なんて、ゴメンだわ。そんなモノになりたがる奴がいたら、そうなる前に私がぶっ殺す」
「だったら、なぜ聖騎士団に入らない。お前のその魔力なら、十分入れるだろ」
「あいつらのことは、反吐が出るほど嫌いなのよ。分かるでしょ」
「……。お前の好きにしたらいい」
山道に入ったとたん、人の気配も一気に減少した。
俺は魔法を使い、高く飛び上がった。
フィノーラもついてくる。
「さっきまで、聖騎士団の連中と一緒だったじゃないか。聖剣士は、嫌いなんじゃなかったのか?」
「だから利用するのよ。悪い?」
「まぁ、今はどこへ行くにも、聖騎士団の許可がないと動けないからな」
「あいつら絶対、エルグリムの悪夢を見つけたって、破壊なんかしないわ。利用するつもりよ」
「その方が賢いもんなぁ」
「あんたが、グレティウスに行く目的はなに?」
「そりゃ憧れの街だからさ。魔道士なら、一度は行ってみたいと思う。そうだろ?」
魔法で体を浮かせ、地面を蹴る。
背に羽が生えたかのように、一歩一歩を飛び跳ねながら進む。
てくてく歩けば数日はかかる行程も、呪文を唱えれば何てことはない。
フィノーラの腕は、悪くない。
流しの魔道士としては、いい方ではないだろうか。
よく訓練されている。
だけど俺の配下におくには、まだ十分とは言えない。
「なぜ聖剣士を嫌う。誰からも、信頼される存在じゃなかったのか」
「言ったでしょ、嫌いだって。そういうアンタはどうなのよ」
「はは、嫌いだな」
「でしょ。だから組もうって、言ってるのよ。聖騎士団を、本気で嫌いだって言える人間じゃないと、私は信じない」
山頂までたどり着いた。
木々の間から、遠くナルマナの街が広がる。
「ここから先は、首都ライノルトまで続く道よ」
ライノルトか。
かつては誰も知ることもない、それはそれは小さな町だった。
勇者スアレスが生まれた村から、一番近い町だったというだけの場所。
「俺はライノルトに興味はない。ここでお別れだ」
「ちょ、待ちなさいって!」
姿を消す。 瞬間移動だ。
この体ではあまり遠くまで行けないが、この女をまくくらいのことは出来る。
山道を離れ、密林の間をすり抜けてゆく。
そういえば、かつてライノルトには、巨大な魔球を落として完全に破壊したことがあったが、そこから復興させたのだろうか。
ご苦労なこった。
「いや、破壊したからこそ、新しく復興出来たのか」
深い森の中で、一つ息をつく。
普通の人間なら、三日はかかる山越えだ。
関所? 通行手形? そ
んなもの、俺には必要ない。
整備された道しか進めないようなやつに、用はない。
短い距離での瞬間移動を繰り返し、密林の中を進む。
魔力の臭いに気づいた動物たちは、驚き慌てふためいて、逃げ去ってゆく。
そう、これこそが、俺に対する正しい反応だ。
微笑みかけるなんて、ありえない。
汗が流れる。
尋常ではない量だ。
全身がだるく重みが増してくる。
クソ。
こんな移動など、何でもないことだったのに……。
館から盗み出した魔法石を、いくら摂取してもダメだ。
まだ幼い体が、この力に耐えられるだけの体力を持てていない。
息が苦しい。
全身の重みに、ついに足が止まった。
心臓がズキリと痛む。
荒れ果てた、むき出しの地面に倒れた。
脈打つリズムは不規則で、強烈な痛みを伴う。
手足まで震えている。
俺はそこにうずくまると、繭のように体にシールドを張った。
意識レベルを下げ、回復に全てを注ぐ。
見た目は岩に偽装してあるから、そう簡単には見つからないだろう。
魔力の使い過ぎだ。
無理なんてしているつもりは微塵もないが、どうしても体がついてこない。
やろうと思えば出来るはずのことが、何にも出来ない。
その苛立ちに、腹立たしさに震えている。
しばらく回復に集中し、意識を取り戻した頃には、すっかり日は落ちていた。
密林の森は真の暗闇で、覆い茂った木々に、空もほとんど見えない。
月も細いこんな夜には、一人で殻にこもっているに限る。
梟が闇夜を滑空する。
俺が擬態している岩の前に現れたネズミを捕らえた。
その鋭いくちばしで、皮を食いちぎり飲み込む。
こんな光景を目にするのも、何年ぶりだろう。
遙か昔の、エルグリムがまだ幼かった頃を思い出す。
今よりもずっと体は傷だらけで、常にどこからか血を流し、腹を空かせていた。
皮膚は黒く固くこわばり、骨と皮ばかりだった。
俺は新しく手に入れた十一歳の、その柔らかい肌に触れる。
ここは暖かくはないが、俺を傷つけるものは、もういない。
それだけで十分だと満足出来るほど、俺はバカではない。
残った魔法石を取りだし、その全てをかみ砕く。
朝になったら、ナルマナの街へ下りよう。
どこかでちゃんとした食事を取らないことには、実体である体が持たない。
街へ下りたら、まずは簡単な芸でもして、金を稼いで……。