史上最凶と謳われた大魔道士エルグリムは、勇者スアレスによって倒された。
エルグリムは死の間際、自らに転生呪文をかけ、死したその瞬間から蘇りを予言する。
それから十二年。
巨悪をなし、誰からも忌み嫌われ、いつまでも憎み恨まれ、罵倒され続け、決して愛されることはない大魔王は、再びその強大な魔力を取り戻し、この世界を征服する。
森の中の一本道をゆっくりと下ってゆく。
転生し生まれ出た村を出発したのは二日前だ。
履き慣れていたはずの木靴は、既に重たくて仕方がない。
歩く細い街道の道の左手から、小川のせせらぎが聞こえていた。
土手上からそこへ下りた俺は、蒸れる靴を脱ぎ捨てる。
「ふぅ。生き返るな」
清流に足を浸した。
生まれてから数年は、どうしても動けなかった。
赤ん坊の短い手足に筋力は皆無。
受けた聖剣の致命傷で、俺自身としての意識も完全に失っていた。
自分の呪文に自信はあったが、本当に記憶を取り戻せるのかも怪しいものだった。
完全に復活するまで、三年はかかった。
「おや坊主、どこから来た」
山深い川下から河原を上って来た男に、顔を上げる。
荷馬車の商隊だ。
馬を休ませに来たらしい。
二人連れの男のうち、小さい方が二頭の馬に水を飲ませている。
男は近寄ってきた。
その姿を見上げる。
「父さんのお使いだ。頼まれごとをされてるんだ」
「そうか。それは偉いな」
十二年前、勇者の剣が俺の心臓を貫いた。
転生魔法は、それが動きを止めた瞬間、発動する呪文だ。
俺は全ての魔力をその体から引き上げ、その受け入れ先となる新しい命を求めた。
「どこに行くの?」
そう尋ねた俺の頭上からも、また別の声が聞こえる。
小さな街道の道沿いに、荷物番も含め三人か。
積み荷はなんだろう。
俺は振り返ると、目の前の男を無視し、素足のまま土手を駆け上がった。
馬の繋がれていない荷台に近づく。
「カズ村へ行くんだ。隣町のルーベンから来た行商だよ。服とか靴なんかの衣料品さ」
「へぇ~」
勇者に倒された俺は、女の腹にあったまだ命とも言えないものに取り憑いた。
死にかけていたそれをゆっくりと改造し、魔王の魂の入れ物として形を作り替える。
ホロのついた荷台には男が一人座っていて、中には大きな袋が五つ六つ積まれていた。
男は俺に袋の中身をチラリと見せると、愛想よく笑顔を見せる。
「お前、どこから来た? 何歳だ」
「十一だよ」
「これからカズの村まで行くんだ。なんなら乗せてってやろうか?」
「ホント? ありがとう!」
俺はそう言うと、荷台に乗り込んだ。
中にいるのは男一人だけ。
後の二人は馬と川岸にいる。
俺はこの世界の人間を支配すべく、生まれてきたのだ。
残念だが人は、目に見えるもの、そのものしか信じない。
形がなければ、何かを動かすことも出来ない。
再び魔王となり世界を取り戻すには、どうしても『大人』としての姿が必要だ。
「おい、こんなところに靴が脱ぎっぱなしだぞ」
「あぁ、そこに置いておいて!」
外からかけられた声に、俺は声を張り上げて応えた。
ホロ付きの荷台は、外からは中の様子が見えない。
そのまま荷台に残っていた男に、グイと顔を近づける。
「ん? どうした坊主」
「シッ。ちょっと黙ってて……」
ゆっくりと呪文を唱える。
なぁに、ごく簡単な魔法だ。
命までは奪わない。
「お、おま……魔法が使え……」
男は一瞬のうちにバタリと倒れた。
意識を失った男を見下ろす。
「フン。ガキだと思ってナメるなよ」
積み荷の袋を次々と開け、中を確認してゆく。
生まれたばかりの体だ。
ようやく十一年が経ち、動けるようになった。
だが俺の持つ本来の魔力に比べ体力がなかなか追いついてこない。
魔法を使い過ぎると体が動かなくなってしまうのだ。
どんなに魔力を持っていても、それを使用する実体としての体が必要だった。
この加減がなかなか難しい。
これが目下最大の悩みだ。
「お~い。靴はもういいのか? そっちまで運べってかぁ?」
「待って。すぐ取りに行くから!」
見つけた。
丈夫な革靴だ。
俺はそれを急いで自分の足に装着する。
倒れている男の腰にぶら下がっていた、金の詰まった袋もついでに頂いておく。
「おーい。もう出発するぞ」
こっちに戻ってくる。
俺は荷台から飛び出した。
「あ! おい、どうした?」
藪の中へ飛び込む。
すぐに異変に気づいた男が追いかけてきた。
「コラ! 待て、このクソガキ!」
目くらましで姿を消してもいいが、あまり頻繁に高等魔法を使うと、まだ幼い体がついてこられない。
カズを出てから、ほぼ飲まず食わずだ。
出来ると思ったことが出来ず、自ら窮地を招くこともあれば、逆に無理だと諦めたことが想像を越える成果を残すこともある。
とにかく安定しない。
「待て!」
走るのも遅い。
魔力で体力のなさを補ってはいるものの、そう長くは持たない。
仕方ない。
金は捨てるか。
これで追っ手もあきらめることだろう。
革靴が手に入っただけでも、よしとするか。
俺はその重たい皮袋を、路上に投げ捨てた。
「は? ざけんなよ。金を返せば済むと思ってんのか? 大人をナメんな!」
「くっそ。それで懲りろよ!」
あっさり諦めてくれるかと思ったのに、意外としつこい。
どれだけ懸命に走っても、どうしたって子供の足では勝てない。
藪の中から再び川岸に飛び出たものの、河原の砂利は山の中以上に走りにくかった。
「おいコラ、止まりやがれクソガキが!」
ダメだ。
このままでは捕まる。
あまり攻撃魔法は使いたくはないが、こうなっては仕方がない。
俺はその場で振り返った。
呪文を唱えようと印を結ぶ。
『我に歯向かう……』
「うわぁ!」
不意に、その男は目の前で転んだ。
呪文もまだ唱えきっていないのに、実に不自然な転び方だ。
手をつく暇もなく、額を砂利にぶつけている。
これでは相当に痛かろう。
「だ、大丈夫か?」
「止まりなさい!」
甲高い声が響く。
そこに居たのは、女の二人組だった。
真っ白な外套に身を包んだ上品そうな女と、その雇われ従者のようだ。
魔法を使ったのは、従者の方か?
「一体、何事です!」
倒れていた男は、よろよろと起き上がる。
「ビ、ビビさま……」
波打つ金の長い髪に青い目。
典型的な貴族の娘だ。
「どうしたのですか?」
「こ、このガキ……、いや、子供が、積み荷から靴を盗んだのです」
「本当ですか?」
「……。はい。そうです。ゴメンなさい」
素直に謝っておく。
もう面倒くさい。
このままここにいる全員眠らせて、その隙に逃げよう。
再び呪文を唱えようとした俺を、貴族の女がパッと抱き寄せた。
「……。この子は、私はいま連れている従者の弟です。大変失礼いたしました」
「はぁ?」
男は信じられないといった表情で、貴族の女を見下ろす。
「つ、積み荷を荒らされましてね。今履いているその靴も、さっき盗まれたばかりなのですが……」
「そうですか。それはうちの者が大変失礼いたしました。ほんの少しですが、これで許してはいただけないでしょうか」
腰の袋から金貨を取り出すと、女はそれを男に渡す。
革靴の代金にしては、ずいぶんと高額だ。
「よく言いつけておきますので、どうかこれで許してやってください」
「チッ。全く。ビビさまのお願いでなければ、見逃してはいませんよ」
「はい。申し訳ございません」
「ちゃんと躾けておいてくだせぇよ」
「承知いたしました。しっかりと、そうさせて頂きますわ」
ブツブツと文句を言いながらも、河原の向こうに男の姿は消えていった。
その途端、従者らしい女の手が、俺の頭をぐしゃりと掴んだ。
「おいコラ。あんた、魔法使えるんでしょ。その能力、イタズラなんかに使うんじゃないよ」
「まぁ、乱暴なことはおよしなさいよ、フィノーラ」
「ですが、ビビさま」
ビビと呼ばれた貴族の女は、膝を折りしゃがみ込むと、ご丁寧にも俺に視線を合わせた。
「あなた、魔法使いなのね」
じっと俺の目をのぞき込む。
その白い手を、そっとこめかみに伸ばした。
「まぁ、本当ね。鮮やかな緑の目をしているわ」
うっとうしい。
この手のタイプの女は苦手だ。
その手を振り払う。
俺はもう一人の女を見上げた。腰までの真っ直ぐな黒髪の女も、魔道士特有の濃い緑の目をしていた。
「さっきあの男を転ばしたのは、あんたの仕業?」
「そうよ。私も魔道士。で、ビビさまの用心棒を二週間前からやってるの」
歳は十七、八といったところだろうか。
年齢の割には随分と瞳の緑が深い。
それなりの魔力を体内に貯め込んだ使い手だ。だけどまぁ、俺と比べると、間違いなくたいしたことはない。
「まぁ、なんて素敵なのかしら! 珍しい魔道士体質をお持ちのまだお小さい方と、お友達になれるなんて。とても素晴らしいわ!」
ビビは勝手にはしゃぎ始めている。
くだらない。
ふと川沿いの土手に、七色に輝く石を見つけた。
小さな魔法石の欠片だ。
俺はそれを拾い上げると、口の中に放り込む。
そのままガリガリとかみ砕いた。
「……。あんた。そんなチビなのに、魔法石をそのまま摂取できるんだ」
「珍しいか? まぁそうだろうな」
「さっき、向こうでそこそこ強い魔法の気配を感じた。もしかしてアンタの仕業だった?」
俺は黒髪のフィノーラに、ニコッと微笑んで見せる。
「たいしたことはないよ。だってまだ子供だからね」
「さっき魔法を使ったから、それで補給してんの? あんな魔法と使った後で、その程度の補給で足りるワケ?」
「まだあんまり、上手く制御出来ないんだけど……」
フィノーラはスッと腰の短剣を抜いた。
それを構え、俺との距離を保つ。
蓄えた魔力はたいしたことはないが、バカではないらしい。
「あんた、子供の体に貯められる魔力の割りには、随分と難しい呪文を使うのね」
「まぁ。およしなさいよ、フィノーラ。乱暴はよくないわ」
「ビビさま、魔道士を簡単に信用してはいけません」
そう。魔道士の能力は、見た目や年齢には関係ない。
問題は魔力の蓄積と順化であり、その術式だ。
以前の俺が使っていた、数百年は生きた大魔道士エルグリムの体ならともかく、今は生まれたばかりの、十一歳の少年の体だ。
いくらこれから長く使えるであろう、いい入れ物を作ったとしても、実際に働かせ慣れさせなければ、その能力をものにし、発揮することは出来ない。
「あんまり一度に沢山の魔法石を摂取すると、気持ち悪くなっちゃうんだ」
「そりゃそうでしょうよ。どんな魔道士だって少しずつ体に慣らして貯め込んで、やっと魔法が使えるようになるんだから……」
「お姉ちゃんは、平気なの?」
「私? ……まぁ、それなりにね」
取り込んだ魔力の蓄積と順化は、個人差が大きい。
魔法を使える人間とそうでないのを分けるのは、純粋にこの体質による差だ。
彼女はそう言うと、腰にぶら下げた小瓶を取りだした。
それをひとくち口に含む。
「ちゃんと加工されて、薬剤化されてるのなら、それなりに飲める」
なるほど。やはり並の魔道士か。
「じゃ、俺はもう行くね」
「まぁ! どこへ行くというの? もうすぐ日が暮れるわ。今夜はうちに泊まりなさいよ」
「ビビさま!」
女二人が揉めている。
じつにくだらない。
「悪いけど、あんたらに興味はないね。俺は俺の行きたいところへ行く」
「さっさと行っちまえ」
「まぁ、ちょっと待って。もう少しお話を……」
河原を歩き出したその耳に、川上から早馬の蹄が響いた。
嫌な臭いがする。
俺はじっと気配を殺した。
さっさと通り過ぎてくれればいいものを、すぐそこで立ち止まり、土手上の一本道から俺たちを見下ろす。
「まぁ、どなたかと思えば、イバンさまではないですか」
「ビビさま。その子供は?」
「フィノーラの弟なんですって!」
その銀色の、ピカピカと光る鎧に身を包んだ騎士は、兜の面を持ち上げると、じっと俺の様子をうかがっている。
赤地にシルバーの十六芒星の紋章。
聖騎士団の聖剣士だ。
「カズの村から子供が一人、行方知れずになったと聞きまして。今はその子供を探しているのです」
面倒なことに馬から下り、こちらへ近づいてくる。
「濃い赤茶色の髪に、緑の目だと知らされております。なんでも歳に似合わない魔法の使い手で、散々な悪戯ばかりするやんちゃ者らしい……」
聖剣士はじっくりと俺を観察している。
「さっきもそこで被害者をみかけたんだが……。フィノーラに弟がいたという報告は受けてなかったな。しかもカズから抜け出したという少年と、特徴がそっくりだ」
ブルーグレイの瞳に白金の髪を短く切りそろえた、真面目臭そうな男だ。
魔法の“臭い”はしないことはないが、ごくわずでしかない。
使えたとしても、ごく簡単なものだけだろうな。
「名前は?」
「……。ナバロ」
「ナバロ? そうか。私の聞いた名ではないな」
魔道士である黒髪の女に比べたら、たいしたことはない。
「他に、似たような少年を見かけませんでしたか?」
「いいえ、全然」
ビビはイバンにそう答えると、俺を抱き寄せた。
「ナバロは、フィノーラの弟です!」
ビビの強気な態度に、聖剣士はため息をつく。
「ビビさま。お話は今夜、館に戻ってからにしましょう。フィノーラ、この子供をしっかり見張っておけ」
「はぁ? なんで私がそんなことまで!」
「まぁ、イバンさま。それならお安いご用よ。ぜひお任せあれ。私が責任を持ってお引き受けいたします。今夜の夕食を、楽しみにしておりますわ」
その言葉を確認すると、聖剣士はようやく背を向けた。
繋いでいた馬の元へ、土手を上がってゆく。
「いや、俺はもう行くからさ……」
小声でささやく。
逃げだそうとした俺の肩に、グッとビビの手が重なった。
土手に上がった聖剣士は、なにやら鎧の具合を整えている。
「あら。私がここで叫び声をあげたら、聖騎士団の聖剣士さまたちによる、大規模な捜索が始まってしまいますけど、よろしくて?」
お堅そうな聖剣士は、ようやく馬にまたがった。
それに向かって、ビビは手を振る。
聖剣士も片手を上げ挨拶をすると、やって来たカズ村の方向へ向かって走り出した。
「さ、もうこれで、逃げられませんわよ。私のお家にいらっしゃい」
彼女はにっこりと微笑んだ。
くそっ。
とんでもない寄り道だ。
だけどまぁ、この幼い体は、もう完全に疲れ切っている。
転生した村を抜け出し、丸二日飲まず食わずなうえに、ほとんど寝ていない。
休息は必要だ。
魔力で何とか誤魔化していても、やがて動けなくなる。
「……。分かった」
黒髪の魔道士が突っかかる。
「はぁ? そういうところは案外さっさと引き下がるじゃない。あんたなんかが来ても、いいこと全然ないよ!」
「分かってるよ」
「さぁ、フィノーラ。急いで帰りましょう」
それでも、今夜の寝床と食事を確保できるのはありがたい。
俺は上機嫌のビビに手を引かれ、ゆっくりと土手を上がる。
街道へ戻り、待たせていた馬車に乗った。
昼下がりの森の中を、ゴトゴトと揺られてゆく。
やがてポツリポツリと家が見え始めた。
田畑の広がる小道を抜け、町に入る。連れて来られたのは、ルーベンの中央に位置する立派な館だった。
エルグリムは死の間際、自らに転生呪文をかけ、死したその瞬間から蘇りを予言する。
それから十二年。
巨悪をなし、誰からも忌み嫌われ、いつまでも憎み恨まれ、罵倒され続け、決して愛されることはない大魔王は、再びその強大な魔力を取り戻し、この世界を征服する。
森の中の一本道をゆっくりと下ってゆく。
転生し生まれ出た村を出発したのは二日前だ。
履き慣れていたはずの木靴は、既に重たくて仕方がない。
歩く細い街道の道の左手から、小川のせせらぎが聞こえていた。
土手上からそこへ下りた俺は、蒸れる靴を脱ぎ捨てる。
「ふぅ。生き返るな」
清流に足を浸した。
生まれてから数年は、どうしても動けなかった。
赤ん坊の短い手足に筋力は皆無。
受けた聖剣の致命傷で、俺自身としての意識も完全に失っていた。
自分の呪文に自信はあったが、本当に記憶を取り戻せるのかも怪しいものだった。
完全に復活するまで、三年はかかった。
「おや坊主、どこから来た」
山深い川下から河原を上って来た男に、顔を上げる。
荷馬車の商隊だ。
馬を休ませに来たらしい。
二人連れの男のうち、小さい方が二頭の馬に水を飲ませている。
男は近寄ってきた。
その姿を見上げる。
「父さんのお使いだ。頼まれごとをされてるんだ」
「そうか。それは偉いな」
十二年前、勇者の剣が俺の心臓を貫いた。
転生魔法は、それが動きを止めた瞬間、発動する呪文だ。
俺は全ての魔力をその体から引き上げ、その受け入れ先となる新しい命を求めた。
「どこに行くの?」
そう尋ねた俺の頭上からも、また別の声が聞こえる。
小さな街道の道沿いに、荷物番も含め三人か。
積み荷はなんだろう。
俺は振り返ると、目の前の男を無視し、素足のまま土手を駆け上がった。
馬の繋がれていない荷台に近づく。
「カズ村へ行くんだ。隣町のルーベンから来た行商だよ。服とか靴なんかの衣料品さ」
「へぇ~」
勇者に倒された俺は、女の腹にあったまだ命とも言えないものに取り憑いた。
死にかけていたそれをゆっくりと改造し、魔王の魂の入れ物として形を作り替える。
ホロのついた荷台には男が一人座っていて、中には大きな袋が五つ六つ積まれていた。
男は俺に袋の中身をチラリと見せると、愛想よく笑顔を見せる。
「お前、どこから来た? 何歳だ」
「十一だよ」
「これからカズの村まで行くんだ。なんなら乗せてってやろうか?」
「ホント? ありがとう!」
俺はそう言うと、荷台に乗り込んだ。
中にいるのは男一人だけ。
後の二人は馬と川岸にいる。
俺はこの世界の人間を支配すべく、生まれてきたのだ。
残念だが人は、目に見えるもの、そのものしか信じない。
形がなければ、何かを動かすことも出来ない。
再び魔王となり世界を取り戻すには、どうしても『大人』としての姿が必要だ。
「おい、こんなところに靴が脱ぎっぱなしだぞ」
「あぁ、そこに置いておいて!」
外からかけられた声に、俺は声を張り上げて応えた。
ホロ付きの荷台は、外からは中の様子が見えない。
そのまま荷台に残っていた男に、グイと顔を近づける。
「ん? どうした坊主」
「シッ。ちょっと黙ってて……」
ゆっくりと呪文を唱える。
なぁに、ごく簡単な魔法だ。
命までは奪わない。
「お、おま……魔法が使え……」
男は一瞬のうちにバタリと倒れた。
意識を失った男を見下ろす。
「フン。ガキだと思ってナメるなよ」
積み荷の袋を次々と開け、中を確認してゆく。
生まれたばかりの体だ。
ようやく十一年が経ち、動けるようになった。
だが俺の持つ本来の魔力に比べ体力がなかなか追いついてこない。
魔法を使い過ぎると体が動かなくなってしまうのだ。
どんなに魔力を持っていても、それを使用する実体としての体が必要だった。
この加減がなかなか難しい。
これが目下最大の悩みだ。
「お~い。靴はもういいのか? そっちまで運べってかぁ?」
「待って。すぐ取りに行くから!」
見つけた。
丈夫な革靴だ。
俺はそれを急いで自分の足に装着する。
倒れている男の腰にぶら下がっていた、金の詰まった袋もついでに頂いておく。
「おーい。もう出発するぞ」
こっちに戻ってくる。
俺は荷台から飛び出した。
「あ! おい、どうした?」
藪の中へ飛び込む。
すぐに異変に気づいた男が追いかけてきた。
「コラ! 待て、このクソガキ!」
目くらましで姿を消してもいいが、あまり頻繁に高等魔法を使うと、まだ幼い体がついてこられない。
カズを出てから、ほぼ飲まず食わずだ。
出来ると思ったことが出来ず、自ら窮地を招くこともあれば、逆に無理だと諦めたことが想像を越える成果を残すこともある。
とにかく安定しない。
「待て!」
走るのも遅い。
魔力で体力のなさを補ってはいるものの、そう長くは持たない。
仕方ない。
金は捨てるか。
これで追っ手もあきらめることだろう。
革靴が手に入っただけでも、よしとするか。
俺はその重たい皮袋を、路上に投げ捨てた。
「は? ざけんなよ。金を返せば済むと思ってんのか? 大人をナメんな!」
「くっそ。それで懲りろよ!」
あっさり諦めてくれるかと思ったのに、意外としつこい。
どれだけ懸命に走っても、どうしたって子供の足では勝てない。
藪の中から再び川岸に飛び出たものの、河原の砂利は山の中以上に走りにくかった。
「おいコラ、止まりやがれクソガキが!」
ダメだ。
このままでは捕まる。
あまり攻撃魔法は使いたくはないが、こうなっては仕方がない。
俺はその場で振り返った。
呪文を唱えようと印を結ぶ。
『我に歯向かう……』
「うわぁ!」
不意に、その男は目の前で転んだ。
呪文もまだ唱えきっていないのに、実に不自然な転び方だ。
手をつく暇もなく、額を砂利にぶつけている。
これでは相当に痛かろう。
「だ、大丈夫か?」
「止まりなさい!」
甲高い声が響く。
そこに居たのは、女の二人組だった。
真っ白な外套に身を包んだ上品そうな女と、その雇われ従者のようだ。
魔法を使ったのは、従者の方か?
「一体、何事です!」
倒れていた男は、よろよろと起き上がる。
「ビ、ビビさま……」
波打つ金の長い髪に青い目。
典型的な貴族の娘だ。
「どうしたのですか?」
「こ、このガキ……、いや、子供が、積み荷から靴を盗んだのです」
「本当ですか?」
「……。はい。そうです。ゴメンなさい」
素直に謝っておく。
もう面倒くさい。
このままここにいる全員眠らせて、その隙に逃げよう。
再び呪文を唱えようとした俺を、貴族の女がパッと抱き寄せた。
「……。この子は、私はいま連れている従者の弟です。大変失礼いたしました」
「はぁ?」
男は信じられないといった表情で、貴族の女を見下ろす。
「つ、積み荷を荒らされましてね。今履いているその靴も、さっき盗まれたばかりなのですが……」
「そうですか。それはうちの者が大変失礼いたしました。ほんの少しですが、これで許してはいただけないでしょうか」
腰の袋から金貨を取り出すと、女はそれを男に渡す。
革靴の代金にしては、ずいぶんと高額だ。
「よく言いつけておきますので、どうかこれで許してやってください」
「チッ。全く。ビビさまのお願いでなければ、見逃してはいませんよ」
「はい。申し訳ございません」
「ちゃんと躾けておいてくだせぇよ」
「承知いたしました。しっかりと、そうさせて頂きますわ」
ブツブツと文句を言いながらも、河原の向こうに男の姿は消えていった。
その途端、従者らしい女の手が、俺の頭をぐしゃりと掴んだ。
「おいコラ。あんた、魔法使えるんでしょ。その能力、イタズラなんかに使うんじゃないよ」
「まぁ、乱暴なことはおよしなさいよ、フィノーラ」
「ですが、ビビさま」
ビビと呼ばれた貴族の女は、膝を折りしゃがみ込むと、ご丁寧にも俺に視線を合わせた。
「あなた、魔法使いなのね」
じっと俺の目をのぞき込む。
その白い手を、そっとこめかみに伸ばした。
「まぁ、本当ね。鮮やかな緑の目をしているわ」
うっとうしい。
この手のタイプの女は苦手だ。
その手を振り払う。
俺はもう一人の女を見上げた。腰までの真っ直ぐな黒髪の女も、魔道士特有の濃い緑の目をしていた。
「さっきあの男を転ばしたのは、あんたの仕業?」
「そうよ。私も魔道士。で、ビビさまの用心棒を二週間前からやってるの」
歳は十七、八といったところだろうか。
年齢の割には随分と瞳の緑が深い。
それなりの魔力を体内に貯め込んだ使い手だ。だけどまぁ、俺と比べると、間違いなくたいしたことはない。
「まぁ、なんて素敵なのかしら! 珍しい魔道士体質をお持ちのまだお小さい方と、お友達になれるなんて。とても素晴らしいわ!」
ビビは勝手にはしゃぎ始めている。
くだらない。
ふと川沿いの土手に、七色に輝く石を見つけた。
小さな魔法石の欠片だ。
俺はそれを拾い上げると、口の中に放り込む。
そのままガリガリとかみ砕いた。
「……。あんた。そんなチビなのに、魔法石をそのまま摂取できるんだ」
「珍しいか? まぁそうだろうな」
「さっき、向こうでそこそこ強い魔法の気配を感じた。もしかしてアンタの仕業だった?」
俺は黒髪のフィノーラに、ニコッと微笑んで見せる。
「たいしたことはないよ。だってまだ子供だからね」
「さっき魔法を使ったから、それで補給してんの? あんな魔法と使った後で、その程度の補給で足りるワケ?」
「まだあんまり、上手く制御出来ないんだけど……」
フィノーラはスッと腰の短剣を抜いた。
それを構え、俺との距離を保つ。
蓄えた魔力はたいしたことはないが、バカではないらしい。
「あんた、子供の体に貯められる魔力の割りには、随分と難しい呪文を使うのね」
「まぁ。およしなさいよ、フィノーラ。乱暴はよくないわ」
「ビビさま、魔道士を簡単に信用してはいけません」
そう。魔道士の能力は、見た目や年齢には関係ない。
問題は魔力の蓄積と順化であり、その術式だ。
以前の俺が使っていた、数百年は生きた大魔道士エルグリムの体ならともかく、今は生まれたばかりの、十一歳の少年の体だ。
いくらこれから長く使えるであろう、いい入れ物を作ったとしても、実際に働かせ慣れさせなければ、その能力をものにし、発揮することは出来ない。
「あんまり一度に沢山の魔法石を摂取すると、気持ち悪くなっちゃうんだ」
「そりゃそうでしょうよ。どんな魔道士だって少しずつ体に慣らして貯め込んで、やっと魔法が使えるようになるんだから……」
「お姉ちゃんは、平気なの?」
「私? ……まぁ、それなりにね」
取り込んだ魔力の蓄積と順化は、個人差が大きい。
魔法を使える人間とそうでないのを分けるのは、純粋にこの体質による差だ。
彼女はそう言うと、腰にぶら下げた小瓶を取りだした。
それをひとくち口に含む。
「ちゃんと加工されて、薬剤化されてるのなら、それなりに飲める」
なるほど。やはり並の魔道士か。
「じゃ、俺はもう行くね」
「まぁ! どこへ行くというの? もうすぐ日が暮れるわ。今夜はうちに泊まりなさいよ」
「ビビさま!」
女二人が揉めている。
じつにくだらない。
「悪いけど、あんたらに興味はないね。俺は俺の行きたいところへ行く」
「さっさと行っちまえ」
「まぁ、ちょっと待って。もう少しお話を……」
河原を歩き出したその耳に、川上から早馬の蹄が響いた。
嫌な臭いがする。
俺はじっと気配を殺した。
さっさと通り過ぎてくれればいいものを、すぐそこで立ち止まり、土手上の一本道から俺たちを見下ろす。
「まぁ、どなたかと思えば、イバンさまではないですか」
「ビビさま。その子供は?」
「フィノーラの弟なんですって!」
その銀色の、ピカピカと光る鎧に身を包んだ騎士は、兜の面を持ち上げると、じっと俺の様子をうかがっている。
赤地にシルバーの十六芒星の紋章。
聖騎士団の聖剣士だ。
「カズの村から子供が一人、行方知れずになったと聞きまして。今はその子供を探しているのです」
面倒なことに馬から下り、こちらへ近づいてくる。
「濃い赤茶色の髪に、緑の目だと知らされております。なんでも歳に似合わない魔法の使い手で、散々な悪戯ばかりするやんちゃ者らしい……」
聖剣士はじっくりと俺を観察している。
「さっきもそこで被害者をみかけたんだが……。フィノーラに弟がいたという報告は受けてなかったな。しかもカズから抜け出したという少年と、特徴がそっくりだ」
ブルーグレイの瞳に白金の髪を短く切りそろえた、真面目臭そうな男だ。
魔法の“臭い”はしないことはないが、ごくわずでしかない。
使えたとしても、ごく簡単なものだけだろうな。
「名前は?」
「……。ナバロ」
「ナバロ? そうか。私の聞いた名ではないな」
魔道士である黒髪の女に比べたら、たいしたことはない。
「他に、似たような少年を見かけませんでしたか?」
「いいえ、全然」
ビビはイバンにそう答えると、俺を抱き寄せた。
「ナバロは、フィノーラの弟です!」
ビビの強気な態度に、聖剣士はため息をつく。
「ビビさま。お話は今夜、館に戻ってからにしましょう。フィノーラ、この子供をしっかり見張っておけ」
「はぁ? なんで私がそんなことまで!」
「まぁ、イバンさま。それならお安いご用よ。ぜひお任せあれ。私が責任を持ってお引き受けいたします。今夜の夕食を、楽しみにしておりますわ」
その言葉を確認すると、聖剣士はようやく背を向けた。
繋いでいた馬の元へ、土手を上がってゆく。
「いや、俺はもう行くからさ……」
小声でささやく。
逃げだそうとした俺の肩に、グッとビビの手が重なった。
土手に上がった聖剣士は、なにやら鎧の具合を整えている。
「あら。私がここで叫び声をあげたら、聖騎士団の聖剣士さまたちによる、大規模な捜索が始まってしまいますけど、よろしくて?」
お堅そうな聖剣士は、ようやく馬にまたがった。
それに向かって、ビビは手を振る。
聖剣士も片手を上げ挨拶をすると、やって来たカズ村の方向へ向かって走り出した。
「さ、もうこれで、逃げられませんわよ。私のお家にいらっしゃい」
彼女はにっこりと微笑んだ。
くそっ。
とんでもない寄り道だ。
だけどまぁ、この幼い体は、もう完全に疲れ切っている。
転生した村を抜け出し、丸二日飲まず食わずなうえに、ほとんど寝ていない。
休息は必要だ。
魔力で何とか誤魔化していても、やがて動けなくなる。
「……。分かった」
黒髪の魔道士が突っかかる。
「はぁ? そういうところは案外さっさと引き下がるじゃない。あんたなんかが来ても、いいこと全然ないよ!」
「分かってるよ」
「さぁ、フィノーラ。急いで帰りましょう」
それでも、今夜の寝床と食事を確保できるのはありがたい。
俺は上機嫌のビビに手を引かれ、ゆっくりと土手を上がる。
街道へ戻り、待たせていた馬車に乗った。
昼下がりの森の中を、ゴトゴトと揺られてゆく。
やがてポツリポツリと家が見え始めた。
田畑の広がる小道を抜け、町に入る。連れて来られたのは、ルーベンの中央に位置する立派な館だった。