「いくぞ」
「え、行くって、えっ……?」

 抱え上げられて、青年との距離が近くなる。すると、先ほどまでは気付かなかったが、彼の頭の上にぴょこんと飛び出る一対の獣耳が視界に入った。それは、彼の髪と同じ銀色の毛で覆われていて、ピンと真上を向いて立っている。
(え……っ? い、犬? ……の、耳……? あれ、これ……どこかで……?)
 見覚えがあるような、無いような。
 混乱した紗良がぱちぱちと目を瞬かせてそれに見入っている間に、青年は勢いを付けるとそのまま上へと飛び上がった。人にはあり得ない跳躍力で、紫とオレンジの入り交じる空へとぐんぐん近づいていく。
 あまり高い場所が得意ではない紗良は、あわてて彼にしっかりとしがみついた。得体の知れない相手ではあるものの、ここから落とされでもしたら大変だ。
 だが、そんな紗良の様子に彼は一切頓着した様子はない。しっかりと彼女を抱えたまま、ちらりと下方を確認して——それから小さく舌打ちした。

「ち、来やがったか……」
「き、来たって何が……!?」

 紗良が叫ぶと同時に、青年が肩を抱く腕に力を入れた。

「落ちたくなかったら、しっかり掴まっていろよ……!」
「え、は? ひゃ、やだ、離すな……!」

 あろうことか、青年は片方の手を離すとてのひらを下に向けた。片方の支えを失って宙ぶらりんになった足を、紗良が大きくばたつかせる。スカートが翻り、それが気になって思わず下をのぞき込んだ紗良は、目を見開き「ヒッ」と小さな悲鳴を上げた。
 地上から、無数の「紐」が、こちらを目がけて迫ってくるのが見えたからだ。現実にはあり得ない光景に身が竦む。と同時に、なんだか目の奥が熱くなってきた。

「くそ、紗良……目を閉じていろ」

 耳元で聞こえた声に、紗良は何も考えずに従った。続けて彼が何事かぶつぶつと呪文のようなものを唱えているのが聞こえる。
(なんだろう、これ……なんか、覚えが……?)
 一瞬考え事に気を取られた瞬間、しゅるりと足に何かが巻き付いた。いや、何かなど見なくてもわかる。先ほどの紐だ。
 ぞっと怖気が走って、紗良は思わず悲鳴を上げた。

「い、いやあ……っ!」
「落ち着け、大丈夫だ」

 再び青年が耳元で囁くのと同時に、風を切るような音がいくつも耳に飛び込んでくる。それと同時に、紗良の靴が紐に絡め取られ、脱げてしまった。あ、と思った紗良が思わず目を開いて下を見ると、バラバラにちぎれた紐に混じって自分の靴が落ちていくのが見える。
 それを目で追って、紗良は息を呑んだ。
 紐の先には、なにか黒い靄のようなものがある。それに紗良の靴が触れたかと思うと、あっという間にそれに飲み込まれ、消えてしまったのだ。

「な、なに、あれ……」
「落ち神だ」
「は? お、おち……?」

 事もなげにそう答えた青年は、困惑に目を瞬かせる紗良を抱え直すと上を見上げた。その視線に釣られて、紗良も同じように上を見る。すると、なんだか薄い膜のようなものが存在するのが見て取れた。

「なに……?」

 先ほどから疑問ばかりが口をつく。だが、なにもわからないへんてこりんな状況に身を置いていると、どうしてもそうなってしまう。
 だが、先ほどとは違い、青年は紗良の言葉に少し驚いたようだった。

「……あれが視認できるのか」
「あの、薄い膜……みたいなやつよね?」

 紗良が確認すると、青年は頷いた。そうして、ふんと小さく鼻を鳴らすと再び視線を上に向ける。
 途端に、移動速度がぐんとあがる。風圧に「わぷ」と声をあげた瞬間、その薄い膜をぺりっと突き破るような感覚があった。
 視線を向けると、自分たちが突き破った場所から、その薄い膜がひび割れ、ぼろぼろになって崩れていく。青年はそれを一顧だにせず、トンと軽く着地をきめた。
 周囲を見回せば、そこは先ほどまで紗良が歩いていた道の上だ。そこにゆっくりと降ろされると、足の裏になじみ深いアスファルトの感触がする。そのことに、ほっと息が漏れた。