くちびるからラブソング

 スマホのアプリ。
 皆で歌ったり踊ったり好きなものを語ったりしているアプリで、私はスマホのカメラで家に貼り付けてある綺麗な写真のカレンダーを映した。そして、震える声で音を取った。

「こんにちは、今日も歌います。聴いてください」

 そう言ってから、パソコンに落としていた音楽のイントロを流しはじめると、それに合わせて歌いはじめた。
 自分の部屋。好きなものしか詰まっていない部屋。そこでじゃなかったら、リラックスして話すこともできなければ、ましてや歌を歌うこともできなかった。
 私はアプリで歌い手の【カイリ】として活動している。
 活動している……と言ってもその反響は微々たるものだ。ときどき「歌上手いね」とコメントは来るけれど、ほとんどは無反応だ。再生数は三桁。多いのか少ないのか、他にアプリを使っている人も、歌い手として活動している人も知らない私では、判断できない。
 毎日毎日、宿題が終わった息抜きに歌っている。
 お母さんもお父さんも、基本的に仕事で忙しいから、私が部屋でなにをしているのかはよく知らない。私はそれでいいと思っている。
 今日も一曲終わって、ほっとひと息ついた。そのままベッドにポスンと転がる。

「……今日も上手く歌えた」

 普段自分が好きになれない私は、一曲歌い終えて、アプリを終えたあとしか、自分を褒めることができなかった。
 私は自分が嫌いだった。

****

 私の通っている学校は、大人の都合で合併に次ぐ合併のせいか、よくわからないことになっていた。
 とにかく教室が多くて、クラスメイトの数も多い。今まで四十人まではなんとか覚えられたものの、五十人もいたら、顔と名前が一致しない。部活に入っていない上に委員会にも入っていない私は、顔も名前も覚えられないクラスメイトに囲まれて、縮こまって生活していた。

「山中さん、お願い! 今日の掃除替わって!」

 放課後。
 そう言って手を合わせられる。私は固まって彼女を眺めていた。
 光で透かしてみないとわからないくらいに、綺麗なダークブラウンに染めた髪を伸ばしっぱなしにしているだけなのに、不思議とボサボサになっていない。長い髪はセットが大変なのにすごいなあと、癖毛をどうにかふたつ結びにしている私は思う。
 中学時代に一緒だった子たちはかろうじて覚えているけれど、高校から一緒になった子たちは、はっきり言ってあまりにも校区も雰囲気も違うせいで、よく覚えていない。この子だれだっけなあと私は思いながら、頷いた。

「う、うん……」
「ありがとうー!」

 その子はそのまんま友達と一緒に出て行ってしまった。どの子もどの子も、すごく可愛い子たちだ。きっとコーヒー点やコンビニカフェでたむろしているんだろう。
 私がそうぼんやりと見送りながら掃除道具入れに向かっていると「山中さん」と厳しい声をかけられた。
 ショートカットを内巻きにセットしているクラス委員だ。たしか名前は清水さんだったと思う。

「相沢さんたちを野放しにしてたら駄目だよ。あの子たちすぐに掃除さぼるし、こっちが注意したら大人しい子たちに押しつけちゃうし。掃除、今まで一度も交替した分替わってもらったことないでしょう?」
「う、うん……でも」
「なに?」
「……誰に交替したのか覚えてなくって、誰に替わってと言えばいいのかわからなくって……」
「まあ、クラスメイト多過ぎだし、しゃべらない子の顔と名前なんて覚えられないかもしれないけどさあ。でも、嫌なものや嫌って言わないと、あの子らずっと調子に乗るから」
「う、うん……ありがとう」

 清水さんは私にも注意したあと、さっさと出かけていってしまった。多分委員活動だろう。クラス委員は雑用が多いらしく、「教師の使いっ走り」だと怒っていたから、大変なんだろうな。
 そう思っていても。私はクラスに特に親しい友達はいなかった。
 中学時代に一緒だった子、小学時代に一緒だった子。これだけ膨れ上がった学校だと、クラスが見事にばらけてしまって、誰とも一緒にはならなかった。全く知らない子たちな上に、好きなものも全然合わず、仕方がないからひとりでプラプラしている。
 なかなか顔と名前の一致しないクラスメイトと掃除をしてから、最後に誰がゴミ捨てをするかで、じゃんけんをすることになった。

「最初はグー、ジャンケンポン」

 グー、グー、グー、グー、チョキ。
 チョキは私だけだった。

「じゃあ山中さん、ゴミ捨てよろしく」
「う、うん……」

 こうして教室のゴミ箱の袋を交換してから、ゴミ袋を縛って持って行く。
 まだ日直の子がいたと思うけど、その子は戸締まりのために掃除が終わっているのを待っている。待たせてしまっては駄目だろうと、私は小走りでゴミ捨て場へと向かっていった。
 放課後は校内が賑やかだ。
 そこかしこで運動部のかけ声が響き、合唱部や吹奏楽部の練習が聞こえる。晴れた日なんかは美術部が画材を持ってスケッチしているのが見られるけれど、今日はいないみたい。私は校舎の裏庭に設置してあるゴミ捨て場に、ゴミ袋をポイッと捨てる。ゴミ捨ては億劫だけれど、こんもりと山になったゴミ捨て場を見るのは面白いし、ここから見上げる狭い空が好きだった。
 今はゴミ捨て当番の子たちもおらず、掃除当番の子たちも見かけない。
 学校にいると、「この子は誰だっけ」と考えることばかりでくたびれてしまった私は、ついつい気が抜けてしまった。
 気が抜けて歌いはじめたのは、最近歌い手界隈で流れている、ある歌い手のオリジナル曲だった。
 私みたいにひとりで特に交流もなくアカウントに曲を上げ続けているのは稀で、ほとんどの人たちは自己アピールに余念がない。
 私もアカウントを検索していて、上手い人のアカウント名は覚えていることがある。
 特に最近有名になった歌い手の【カズスキー】さんは、びっくりするほど歌が上手い。最近だったらプロアマ問わずに歌が上手い人が多いけれど、【カズスキー】さんの歌は群を抜いている。
 最近流行りのアイドルソングのコピーから、ひと昔前のJ-POP、洋曲まで歌える曲の範囲は幅広く、そのせいかインディーズで活躍している作詞家や作曲家がこぞって「一緒に曲をつくらないか」と誘い、とうとういろんな人とコラボして、オリジナル曲を歌うようになってきたのだ。
 私たちの世代だと、彼の歌を知らない人はいない。
 一部では「既にプロデビューが内定している人がアマのふりをしているのでは」とか「これだけ歌上手いのにスカウトがないのがおかしい」とかいろいろ言われているけれど、私は勝手にそのアプリでただ歌を歌い続けている【カズスキー】さんに親近感を覚えていた。
 私は学校での生活にくたびれている。
 名前と顔が一致しない多過ぎるクラスメイト、授業の内容も気を抜けばすぐに成績は落ちてしまうし、宿題は多い。普通に登校して下校するまで、とにかく片意地張ってないとやってられない。
 だからと言って、現実ではなかなか好きな歌を歌うっていうのはできない。
 カラオケ屋で仮にクラスメイトと鉢合ったら、なにを歌うのかなにを飲むのかで気を遣わないといけないから、気分転換になんかならない。
 一方アプリだと、自分の箱庭を持つことができ、自分の好きなこと以外しなくて済む。それが心地いいのに、プロだのアマだの言われるのは鬱陶しい。
 ……なんて、あくまで私が勝手に親近感を抱いているだけで、【カズスキー】さんがそう思っているのかどうかなんて知らないんだけど。
 私がひとりで歌いながら歩いていると。

「あ」

 小さく声をかけられた。
 振り返ると、制服のブレザーがダフンとなっている男子と目が合った。ブレザーシャツの下からTシャツが見えて、ネクタイはしていない。そして顔は真っ黒なマスクで覆われている。
 うちの学校ではマスク着用時は白を推奨している。でもそんな先生の注意を無視して黒いマスクを付け続けている男子の心当たりは、私はひとりしか知らない。
 私と同じく、誰ともしゃべらずに教室にいる萩本くんだ。
 ……聞かれた。私の歌を。歌ってるのを……。
 自分の歌についてとやかく言われたくない一心で、芸術選択で、音楽、書道、美術の中から選ぶときに音楽を選択しなかったくらい、私は人に歌っているのを聞かれるのが嫌だった……だって、人前だと上手く歌えなくて、大好きな歌がどんどんしぼんでみっともなくなってしまうから。
 なのに、聞かれた。
 私の中では、この世の終わりのように、先程の萩本くんの「あ」の声がリピートされていたのだけれど。萩本くんは本当にマイペースにこちらに寄ってきた。

「……もしかして、山中さん」
「は、はい……?」

 今更ながら、そもそもどうして萩本くん、ここにいるんだろうと思う。
 彼は掃除当番ではなかったし、たしか部活も入ってなかったはずだ。授業中もやる気がなさそうだ。ダウナーという奴だろうと思っていたし、声をかけられたのだって、今初めてだ。
 私の名前、覚えていたのか。
 そう思っていたら、萩本くんがジィーッと私を見てから言った。

「もしかして、【カイリ】さん?」
「……はい?」

 心臓が跳ねると思った。
 誰にも私のアカウントのことも、そもそもアプリにアカウントをつくっていることも言っていない。ましてや私のアカウントの投稿再生数はそこまで高くない。
 なんで知っているの。私が言葉も出ずに口をパクパクとさせていたら、萩本くんはマイペースに続けた。

「【カイリ】さんのウィスパーボイス。ああいう歌い方をする人って滅多にいないから印象に残ってたんだけど。違った?」
「ち、がわ……ない、です。ごめんなさ……」
「どうして謝るの?」
「わ、たし……人とちゃんと、しゃべれなくって……人数が多いと、顔と名前も一致しないから……話しかけられても誰かわからなくって……会話が成立しないというか……」
「でも山中さん、俺のことはわかってるみたいだけど?」
「……黒いマスクを、先生に怒られても無視してずっと使ってるから、珍しくて……」
「ふーん」

 話を振っておきながら、萩本くんは興味なさげに声を伸ばした。ああ、そうだ。

「わ、たしが……アプリにアカウント持ってること……言わないで……」
「別に言わないよ? 俺も持ってるけど、それしゃべられたら鬱陶しいから言ってないし」
「そ、そうなんだ……アプリでなにしてるの?」
「俺も歌を歌ってるよ。こんなの」

 そう言いながら、萩本くんが鼻歌を歌いはじめたとき。
 私は生まれて初めて、人の歌を聴いて鳥肌が立つという体験をした。
 普段ダウナーだと思っていた萩本くんの喉から出たとは思えないくらいに、澄んだ甘い声。それにその曲は、今私が歌っていた曲だ。つまりは……。

「カカカカカカカカ……」
「か? 笑い声?」
「【カズスキー】さん……ですか?」

 私は口元を手で抑え込んでいた。どうして人は皆、動揺したら口元に手を当ててしまうんだろう。それに萩本くんはごくごく普通に頷いて見せた。

「うん、そうだけど」
「ああわあわわわわわ……」
「さっきから、壊れた目覚まし時計みたいだよ、山中さん」
「ご、ごめんなさ……こんなとき、どう、言えばいいのか、わからなくて……」

 萩本くんの指摘通り、私は本当に壊れた目覚まし時計のように、意味のわからない言葉の羅列以外、しばらくの間口をついて出ることがなかった。
 結局私と萩本くんは、学校より少し離れたコンビニに入って、そこで話をすることにした。とりあえずそれぞれコーヒーを買って、カフェスペースに座る。
 私は甘くしたカフェオレ。萩本くんはブラックコーヒーと一緒に唐揚げを買って、それをもりもりと食べていた。
 そのとき、私は初めて萩本くんがマスクを取っている姿を見た。
 体育は男女別だからどんな格好で授業を受けているか知らないから、私はできる限りカフェオレの紙カップに視線を向けながら、上目遣いでちらちらと彼を見ていた。
 日焼けしていない肌。意外と通っている鼻筋。頬はシュッと肉が削げていて、それでいて痩けている印象がない。唇は薄く、そこから普段聴いている【カズスキー】さんの歌が紡がれているのかと思うと、意外な気分だった。

「そういえば【カイリ】さんは歌の練習ってどうやっているの?」

 唐揚げの入ったカップに手を伸ばしながら、萩本くんがなにげない口調で尋ねてくる。それに私はどう言ったものかと迷う。

「練習した……覚えがなくって……」
「ふうん。いろんな歌を歌っているのに? あのウィスパーボイスは貴重だと思うけど」
「ウィ、ウィスパーボイス……そんなこと、初めて言われた」
「もっとあっちこっちのSNSで宣伝したら、いろんな人が聴いてくれると思うけど、そういうのはする気ないの?」
「わ、私は……本当に……歌えれば、それでいいかな、なんて……」

 そもそもたまたま動画サイトで聴いた曲が素敵だった、動画SNSで聴いた歌が頭の中で繰り返し再生されている。そういうのをなにげなく口ずさんでみたら歌えたから、趣味の一環でアプリに上げてみたのが初めだ。
 歌手志望の人だったら、もっとガツガツと大手動画サイトにプロモーションビデオを撮ったりして宣伝するんだろうけれど、私はそういう欲に欠けていた。ただ歌いたかったから歌っていただけ。
 クラスメイトの名前も顔も覚えられない私は、代わりに歌詞と曲を覚えて歌っている。人からしてみると訳がわからないなと思われてもしょうがないんじゃないかな。
 それでも萩本くんは否定しなかった。

「ふーん。俺はねえ、風呂場で歌ってたりするよ」
「お風呂……うん。声が響くし、歌いやすいね」
「そ。そこでだったらいくらでも声が伸びるし湿度もあるから、歌歌い続けるのにちょうどいいんだよね。SNSに上げていったら、なんか受けちゃって」
「そ、うなんだ……でも萩本くんも……私と同じで宣伝とかしないんだね?」
「えっ? してるけど。SNSも文章中心、写真中心、動画中心だと、それぞれ客層が違うから、それぞれのところに歌った動画を投稿してみたら、結構違う反応が返ってくるから」
「そんなにたくさんアカウント管理して……上手く回せるの?」
「慣れたら割と楽」

 それが不思議でしょうがなかった。
 私自身には承認欲求がない。人が多いと、名前と顔を覚えなくちゃいけないというストレスがあるから、自然と人が少ないほう、人が少ないほうに移動してしまう。そこでは人にどうこう言われない代わりに、覚えなくても生きていけるから、息がしやすくなる。
 でも萩本くんは違うみたい。
 萩本くんは「うーんと」と言いながら、唐揚げの脂のついた指をチロリと舐める。

「俺は単純に、上手く歌えた曲を聴いてもらいたいだけ。最近はすごい曲をつくってくれてる人とか、格好いい歌詞を書いてくれる人とかもいるから、なおのこと、すごいいい曲だから聴いて欲しいって思うだけだけど」
「……すごいね」
「そう?」
「私はそういう……ガツガツしている? そういうのがないから。それに、萩本くんは当たり前なことを当たり前に繰り返しているだけだから、ガツガツしているとも違うし……」
「ふーむ……」

 萩本くんは指を舐め終えると、グビッとブラックコーヒーを呷った。

「苦くないの?」
「うーん、コンビニのコーヒーって割と薄いから平気。エスプレッソとか、超苦いよ」
「そうなんだ……」

 変な会話を挟んでから、ふいに「じゃあさ」と言ってきた。

「一緒にカラオケ行かない?」
「え……」
「行ったことないの?」

 私は素直に頷いた。
 中学時代の友達も、特にカラオケに興味がなかったし、ひとりで入ったこともない。ただあそこには主婦会や老人会がたくさん出かけているから、知り合いに見つかったら面倒だなあと思って、行ったことがなかった。
 だからひとりで歌ってた訳だし。それに萩本くんがひと言きっぱりと言った。

「もったいない」
「……ええ?」
「山中さんは、ちゃんとマイクで歌う快感を知ったほうがいいよ。ほら、行こう」
「え……うん」

 そのまま私は、萩本くんに連れさらわれるようにして、カラオケ屋へと向かうこととなった。

****

 カラオケ屋はカウンターで受付を済ませると、あとは全部セルフサービス。会計までセルフサービスなのかと、いちいち物珍しい顔で見てしまった。
 プラスチックのグラスをふたつ持った萩本くんは、もうすっかりと端正な顔つきをマスクで覆い隠してしまっていたことに、私は少なからずほっとしていた。
 あれだけ格好いい人とふたりで歩くのは、きっと緊張してしまうから、隠してくれていたほうがいい。

「なに飲む? ちなみにウーロン茶はお勧めしない」
「え……なんで?」
「ウーロン茶、喉の脂を持って行っちゃうから、声が枯れやすくなる。あと唐揚げがいいよ、喉に」
「……それは多分嘘だと思う」
「単純に俺が唐揚げ食べてたほうが、歌歌う調子がいいだけだけど。あと喉を温めたほうが歌いやすい」

 さっきのコンビニの飲食を思い返した。
 そういえば、私はなんとなく甘い物が好きでカフェオレ頼んでいた中、普通に温かいブラックコーヒーを頼んでいたから、歌を歌うときのジンクスに沿っていたのかもしれない。
 結局私はオレンジジュースを、萩本くんはコーラを頼んで、取れた部屋へと向かった。
 カラオケルームはもっと狭くて薄暗いものだと思っていたから、通された部屋は広い上に明るく、スクリーンにカラオケの機械が接続してあるのを見て、私はポカンと口を開けてしまった。

「カラオケって、こんな広い部屋で歌うものなの?」
「多分今空いている部屋がここしかなかったんだと思う。本当だったらもっと狭い部屋だし、ここ多分十人部屋だと思うよ」
「十人部屋……贅沢だね」
「あ、ちなみに曲はこれでリクエストするの」

 そう言いながら、マイクふたつと一緒に、タッチパネルを持ってきてくれた。
 それに私は困った顔で眺めていた。

「あのう……」
「ん? 歌いたい曲がないとか?」
「……そうじゃ、なくって。あのう……私、曲のタイトル全然知らなくって……」
「あれ。普段歌っているのはどうしているの?」
「動画をパッと見て、それで曲を覚えているから……タイトルまで覚えてない……」
「マジか」

 萩本くんにそう言われてしまった。……そうかもしれない。本当に動画SNSで人が歌っている曲をそのまんま覚えてしまっているから、タイトルとかを覚えていない。
 そこで萩本くんは「ちょっと貸して」とタッチパネルを取り上げると、何回かタップしてから返してくれた。

「歌い出しはわかる? それでも検索できるよ」
「えっと……うん。ありがとう」

 私はどうにか歌い出しの歌詞を思い返しながら、それをタップして入力してみると、曲が出てきた。なるほど、世の中のカラオケの利用者って、こういう風にやっているんだ。

「えっと、これを押せばいいの?」
「そこにカラオケの機械があるから、そっちに向けて送信してみて」
「わかった」

 しばらくすると、思いの外大きなボリュームで曲が流れてきたから、私は思わず「ひゃっ」と小さく背中を丸める。すると萩本くんがマイクの電源を入れてこっちに回してくれた。

「じゃあ歌って」
「えっと……はい」

 正直、緊張する。
 私が最後に人前で歌ったことがあるのは、中学時代の音楽の歌唱テストだったと思う。人前で歌わないといけないから、頭が真っ白になって歌詞も曲も飛んでしまい、ろくでもない歌を歌って、皆の前で先生に怒られた。
 人前で歌うのは苦手だし、ましてや【カズスキー】さんだと明かしてくれた萩原くんの前だ。ウィスパーボイスだって言われてもわからない中、私はどうにか歌いはじめる。
 カラオケマシンは初めて使ったけれど、マイクを通して声が何倍にも増幅されたような気がする。歌を歌っているときは、体が楽器なんだと思っていたけれど、マイクも楽器の一部になったような気分。
 それに伴奏が思っているより大きく聴こえて、一生懸命合わせないと、声が裏返ってしまうような危機感がある。
 一生懸命歌っていたら、三分ほどの曲はすぐに終わってしまった。私が「ほっ」とひと息ついてマイクの電源を落としたら、乾いた音が響いた。萩原くんが拍手をしてくれたのだ。

「すごいな、本当に山中さんは」
「えっと……どうして?」
「一曲目って、どうしても全開で歌えないんだよな。肩慣らしに一曲二曲持ち歌を歌って、本番は三曲目以降が俺のパターン。でも山中さんは一曲目から持ち歌でしょう? この曲、アプリで聴いたことがある」

 それに私はドキリとした。
 今の曲は、たしかに歌ったことがある。でもそれは私がアプリをスマホに落として、投稿をはじめた初期の頃の歌だ。それを聴いててくれたなんてと、なんとも言えないむずがゆさが生まれてくる。

「あ、あのう……」
「うん?」
「【カズスキー】さんは……歌わないんですか?」
「どうして敬語? あとハンドルネーム」
「だって……生歌聴きたいから」
「うーんと。じゃあリクエストはある?」

 そう尋ねられても、私は曲を歌で覚えてしまっていて、タイトルで覚えていない。私は鼻歌で「ふんふん」とイントロを歌って「これ」と言うと、萩本くんはタッチパネルをぽちぽち動かしはじめた。
 そしてカラオケマシンに入力すると、聴き覚えのある曲が流れてきた。
 萩本くんは骨張った指でマスクを外すと、それを無造作に制服に突っ込んで歌いはじめた。
 聴いたら誰もが一度は恋をしてしまいそうな声。ときおり混ざる吐息。そして曲調はアップテンポで強弱激しいにもかかわらず抜群の安定感で難なく歌い上げてしまう力量。どれを取っても満点で、その曲を十人部屋の大きなスクリーンの特等席で聴かせてもらった私は、贅沢者以外のなにものでもない。
 曲が終わった途端、私は大きく拍手をしてしまった。

「すごい……!」
「ありがとう……そこまで喜ばなくっても」
「私じゃなくっても喜んでると思う。この曲、ものすごく難しいでしょう? たとえば……」

 サビの部分の音が三回跳ね上がる部分を歌うと、萩本くんは「うん」と頷く。

「この部分無茶苦茶難しいよね。でも山中さん歌えてない?」
「マイクを通してだと、多分声がひっくり返って歌えないと思うよ」
「でも歌えてる。あのさ、じゃあ俺もリクエストしていい?」
「なに?」

 萩本くんも鼻歌で曲をリクエストしてくれた。タイトルは覚えてないけど、たしかに前にこの曲もアプリで歌ったと思う。

「うん。いいよ」
「じゃあ曲入れるよ。【カイリ】さんへのリクエスト」
「それくすぐったいよ」

 こうして私たちは、互いにリクエストを重ねながら、歌を歌いはじめた。
 最初は緊張して、声帯が縮こまっていたはずなのに、今まで自室以外でこんなに緩んだことがない。私も萩本くんも、フリータイムをたっぷりと楽しんだのだった。
 私は初めてのカラオケを心ゆくまで楽しんだ。
 これだけ長いこと歌ったのは初めてだったのに、不思議と喉の調子はいいままだったのは、萩本くんが定期的にフリードリンクを追加注文してくれたおかげだろう。あとポテトチップスやらフライドポテトやらを頼んでくれた。てっきりお腹が空いたのかなと思っていたけれど、萩本くんは私にも真面目な顔で勧めてきた。

「あんまり歌い過ぎると本当に喉が駄目になるから、水分補給と喉に脂足したほうがいいよ」
「……多分それ、都市伝説だと思うけど」
「とりあえずマイク入ってはしゃいでいるのはわかるけど、適当に喉休めてお菓子食べてて」

 そう言われたら、私も渋々休憩して、ポテトチップスを食べながら温かいお茶を飲んでいた。てっきりお菓子休憩を取ったら、開いた喉の奥が閉まってしまうかなと思ったけれど、適度な休憩は喉を労ってくれて、また歌うことができた。
 でもフリータイム終了のベルが鳴り、私たちは渋々退散することになった。

「……楽しかった」

 ふたりで割り勘で会計を済ませてから、私はそう言うと、萩本くんも「うん」と頷いた。

「すごく楽しかった。やっぱり山中さんのウィスパーボイスは、こういろいろ惜しい。今度コラボする?」
「コラボって……私、そんな大した歌い手じゃないよ?」
「謙遜しなくってもいいよ。本当に上手いんだから……でも、山中さんが嫌なら、やめておく。こういうのって、自分が納得しないと駄目だから」
「ええっと……考えておく」

 最後に私たちは、スマホの通信アプリのIDを交換して、お別れした。
 思えば、学校の子とこうして遊んだのは初めてだったし。そもそも男子と一対一で遊んだのも初めてだった。

「思っているより、いい子だったなあ……」

 そうしみじみと思うのは、どうも同年代の男子は、しゃべりまくる男子はデリカシーがなく、しゃべらない男子は常に不機嫌という印象しかなかったから、どちらともお近付きになりたくないという感想しかなかったから。
 高校に入って、人数が多過ぎて顔と名前が一致しない男子にプリントを配るためにどこに誰がいるのかと途方に暮れていたら、それを嫌でもわからされたような気がして、余計に苦手意識が募っていた。
 萩本くんは常にマスクを付けているし、先生にマスクの色で怒られているのを目撃するけれど、それ以外は苦手意識はそこまでない。多分彼はデリカシーに欠ける押しつけがましい言動もしないし、常に自分で自分の機嫌を取っているから、怖いって感じがしないんだろう。
「多分、いいことなんだよね」

 いつも教室にいると居心地が悪かった。未だに名前と顔が一致している人がわずかな中、誰かわからない人に声をかけられても困るし、それを訴えると「人に興味がなさ過ぎ」と一蹴されてしまう。本当に困っているのに。
 でも、これで顔と名前がわかる人が増えた。それだけで、少しだけ心が落ち着いた。

****

 家に帰ってから、私は今日のアプリではなにを歌おうかなと考えていた。最近の流行曲はどんなもんだろうと、適当に見ていたとき、自分のアカウントにアップしている動画が、どれもこれも閲覧数がおかしいことになっているのに気付いた。
 それどころか……フォロー数が異様に増えているような。

「あ、あれ……?」

 どんなに調子がよくても二桁止まりで、最高で三桁だった私の動画の閲覧数が、それぞれ五桁以上になっている。こんなことは初めてだ。
 誰かが見つけてくれたんだ、嬉しい。より先に。

「……え、怖い……」

 誰にも見つかっていないのが普通だった私からしてみたら、不気味にしか思えなかった。なんでだろう。誰かが私の動画の宣伝でもしているの?
 アカウントはフォロー数が一定数増えると、余計なことを言ってくる人と鉢合うとは誰かが言っていた。フォロー数イコール自分に向けられた銃口の数だと言っていた人は、アプリやSNSも、世間一般と同じく必ずしもイエスマンばかりが寄ってくるんじゃないと知っているんだろうな。
 困ってコメントをそれぞれ眺めていたら、見つけた。

【カズスキーさんの動画から来ました】
【優しい歌声ですね、素敵です】
【いい歌ですね。これからも応援しています】

「……萩本くん、宣伝してくれたんだ……」

 おそるおそる【カズスキー】さんのアカウントを覗きに行ったら、たしかに最新動画が出ていた。

「すごく歌の上手い人を見つけました。【カイリ】さんです。そのウィスパーボイスは滅多に出せるものじゃないですし、よく伸びてとても綺麗な歌声です。自分と一緒に応援してくださいね」

 あまりにもの温かい言葉に、私は思わず首を振ってしまった。
 そこまで大したことないし、そこまで持ち上げなくっても。でも。これだけいろんな人に聞いてもらったのに、それを卑下したらそれこそ失礼になりそうな気がするし。
 結局私はなに歌おうと考えた結果、今日のカラオケで歌った曲をアップすることにした。
【カズスキー】さんに対して、なにか言ったほうがいいんだろうか。でもこれは萩本くんが善意でしてくれたことだから、ここで調子に乗っていると思われても困るし。
 閲覧数がいきなり増えたことについては、なにを言ってもおかしなことになりかねないからと言い訳して、結局私は録画した動画の中でもなにも言うことはなく、そのまま流すことにした。
 私ごときなんて自虐している訳ではないけれど、特にフォロー数が多くないのに、急に持ち上げられても困ってしまう。
 だから、私は普通でいよう。そうしよう。
 ──そう、思っていたんだ。

****

 次の日の学校も、特に変わり映えがない。
 相変わらず私は、クラスでは特に仲のいい子もおらず、顔と名前が一致しない中でのグループ実習を困りながらもやっていた。
 幸い、かろうじて覚えている清水さんが一緒だったから、いつもよりきちんとできたようには思える。観察を皆で手に取って終える。

「あー、そういえば山中さん。昨日イケメンと一緒にいなかった?」

 ふいにクラスの女子に声をかけられたものの、相変わらずあんまりしゃべらない子の顔と名前が一致せず、一瞬私に話しかけられているとは思っていなかった。

「え……別に……」
「うっそー、カラオケ屋にいたでしょ?」

 そう言われても、と私は困る。
 会計のときには、既に萩本くんマスクをしていたから、見られたらすぐ私と萩本くんだってわかると思う。あれから、フリードリンクを取りに行ってくれてたときに、すぐ歌えるようにマスクを外していたから、そこで見られたのかも。
 私は奥の席で、男子グループと実験をしている萩本くんを盗み見た。相変わらず鼻から下をすっぽりと真っ黒なマスクで覆ってしまった彼は、ローテンションで周りと作業をしている。やる気があるのかないのかわからない、ダウナーな空気が漂っている。
 私は自分がアプリで歌い手として活動していることを、特に周りには言っていない。萩本くんが【カズスキー】さんとして活動していることについては、結構大がかりなことになっているんだから、私が独断で口にしちゃ駄目だろう。
 まさか歌い手同士のオフ会になったなんて、どうして言えるの。
 私は勝手にひとりで悩んでいたら、清水さんが割り込んできた。

「なんでもかんでも偏見で話を勧めるのは駄目でしょ? 山中さんも困ってるじゃない」
「えー……でもうちの学校、男女交際禁止みたいな古臭い校則もないじゃん」
「寄り道自体は、普通に禁止でしょうが。ほら片付けに戻って戻って」

 そう言って、同じグループの子たちを散らしてしまった。私は清水さんに頭を下げる。

「ご、ごめんなさい……私が答えられなくって……」
「別に。でも彼氏じゃないんだったら、ちゃんと言わないと駄目だよ。ああいうのって、放っておくと勝手に話をでっち上げられるから。最近は通話アプリとかあるし、放っておくと知らない人にまで交友関係言いふらされちゃうから」
「あ、りがとう……。でも、ちょっと一緒にいた人のことは、言えなくって」
「彼氏かそうじゃないかだけは、言っておいたほうがいいよ」
「そう、だね……本当に、付き合ってないんだ。ただのファンだから」

 そう言うと、清水さんが変な顔をしてこちらを見ていた。まるでこちらを怪訝なものを見る感じで見つめてくる。

「な、なに……?」
「……ファンになっている人と、わざわざ一対一で会うの?」

 そう言われると、こちらとしても困る。

「本当に、な、にもないから」
「そう?」
「うん」

 清水さんは怪訝な顔のままだったけれど、結局は持論を引っ込めて片付けに戻ってくれた。私もほっとして片付けをしていると、奥の席に座っていた萩本くんと目があった。
 マスクですっぽりと顔を隠されてしまうと、どんな表情なのかがわからない。ただ目を細めているのに、私はひとりでギクギクとしてしまう。
 余計なことは言っていないから。
 あなたが歌い手だってことも、私がそのファンだってことも。わざわざ言う必要はないと思ったから、言ってない。
 そう口で言えたらいいけれど、あまりにも言い訳がましくて、結局私は、会釈をして片付けに戻るだけに留まった。
 私には意気地がない。違うことを違うと言い切ることも、言えないことを内緒と誤魔化すことも、なかなかできないでいる。
 歌っているときはあれだけ万能感があるのに、当の私にはなにもかもが足りない。
 私が【カイリ】で、萩本くんは【カズスキー】さん。
 互いの歌い手名を知ったところで、私たちの人生は大きく変わらない。私はそう高を括っていた。
 昔から、私は自分の好きなものを人に言うのがとことん苦手だった。
 好きだったアニメの主人公の子の絵を描いていたら、友達から「変」と言われてしまい、それが原因で絵を描くのをやめてしまった。
 私が好きな猫の動画よりも、動画主が次々と上げているようなセンセーショナルな動画のほうが人気だったし、付き合いで嫌々見ても、なにがそんなに面白いのかがさっぱりわからず、話を合わせるだけ合わせて、こっそりと見るのをやめた。私は猫があくびをしたり、飼い主さんと仲良く遊んでいる動画のほうが、よっぽど見る価値があった。
 人が好きなアーティストよりも歌い手のほうが詳しかったし、人が面白いと言っていた映画よりも私がひとりでひっそりと見に行ったプラネタリウムの展示のほうが面白かった。
 別に自分は万能だと思っていないし、逆張りもしていない。
 私の絵を「変」と言った友達だって、私に「変」と言ったことを忘れているだろうけれど、私は人に好きなものを教えるのが極端に怖くなってしまったから、忘れたくても忘れられないことだった。
 ただ人に合わせるのが苦手で、人が好きなものを好きになれない私は、閲覧数が少ない自分のアプリのアカウントに、自分の好きな歌を歌ってその動画を上げる。それがどれだけ私の気持ちを救ってくれたかなんて、わかる人にしかわからないと思う。
 だから、【カズスキー】さん……萩本くんが私の世界を広げてくれるなんて、本当にこれっぽっちも思っていなかったんだ。

****

 私と萩本くんは互いに席も遠ければ、出席番号も被らないため、同じクラスだからと言って取り立ててよくしゃべることはなかった。
 ただ、私が休み時間にご飯を食べようと思って、家から持ってきたお弁当を食べようと教室を出たとき、同じタイミングで萩本くんも教室の反対側の扉から出てきた。

「あ……」
「なに?」

 相変わらず学校ではマスクで顔を覆っているから、目だけだと表情が全くわからないから、どういうリアクションが正解かが判断に困る。
 私がお弁当を持っているのを見て、萩本くんは首を傾げた。

「教室で食べないの?」
「……教室で、ひとりで食べてたら、あれこれ言われるから」
「あー。じゃあ普段、どこで食べてるの?」

 それを言ってもなあと思う。と、そこで気が付いた。萩本くんはなにも持ってないことに。私は逆に尋ねてみる。

「わ、たしのことより……萩本くんは? お昼どうするの?」
「コンビニでなんか買ってくる」

 それに私は内心「不良だあ……」と思ってしまった。休み時間でも、学校の外に出るのは基本的に禁止だから、堂々と校則違反をするのかと思っていたけれど、萩本くんはあっさりと言ってのける。

「朝に人が多かったし、遅刻しかけたから買えなかった。ちょっとくらいだったら見逃してもらえると思うから行ってくる」
「あ……」

 私はどこで食べているか言うべきかどうか迷った末に、口にしてみた。

「西棟の三階」
「うん?」
「西棟の三階の階段で、いつも食べてるの」
「ふーん。わかった」

 そのまませかせかと萩本くんは出かけていってしまった。いつもひとりでテクテク歩いている彼は、背中が意外と大きかった。
 私はそれを見届けてから、自分も西棟を目指して歩いて行った。
 入学式から今日まで。クラスメイトとしゃべっても共通の話題がせいぜい今日の授業の内容くらいで、見ていた動画も、ハマッているアプリも、中学時代の交流関係や思い出も共通点がないせいで、話題が本当に続かなくって互いに気まずい思いをし、気付けばひとりでいるほうが楽になっていた。
 でもひとりでいるのが楽だからひとりでいても、勝手に先生たちが心配してきて、呼び出しを受けたり、やたらと長い自分語りをされたりする。
 それが困るから、昼休みはなるべくクラスメイトと会うことなく、学校の先生たちに呼び出しを受けることなく、昼休みの部活に鉢会うことのない場所を探して、一学期の間は校舎をうろうろして探し回ったのだ。
 そこで気付いたのは、あちこちの学校の合併作業のせいで、校舎が新築されたり取り壊されたりしていること。私たちが普段授業で使っているのは通称東棟であり、昔の旧校舎は通称西棟と呼ばれ、二階につくられた渡り廊下で繋げられていること。
 どうも旧校舎新校舎と呼ばないのは、西棟は現状一番人数の少ない三年生たちが普通に二階を使っているかららしい。ただでさえ度重なる吸収合併で、今まで関わることのなかった校区の人が流れ込んできていてストレスが溜まっているところで、旧校舎を使っていると揶揄されたら、それはどんな爆発の仕方をするかわからないというのが学校側の見解らしい。
 よって西棟は一・二年はほぼやって来なくて、三年生は二階から下しか使わない。三階以降は、移動授業がない限り使わないけれど、五時間目に移動授業がないのは既に把握済みだ。だから私は、三階の階段でご飯を食べ、のんびりとスマホでネットを閲覧して過ごすことができるようになっていた。
 私が教えたけど、そこに本当に萩本くんが来るのかな。そういえば私は教室でご飯を食べないから、萩本くんが今までご飯を食べていたのか知らない。
 お弁当箱を膝の上に広げ、卵焼きを咀嚼しつつ考える。

「……もし、萩本くんがマスクを外していたら、誰も彼のことを放っておかないような」

 萩本くんが自覚あるのかどうかは知らないけれど、顔の造形は芸能人やモデルだと説明しても納得してしまいそうな細やかなつくりなのだ。でも、今のところクラスの誰も、彼のことについて騒ぎ立てている人はいない。
 そもそも【カズスキー】さんとして行動しているときも、歌だけ流して、顔は一切出していない。でも歌唱力でファンを増やしている。特に【カズスキー】さんの歌う恋愛曲は人気が高くて、コアな女性ファンがついているみたいだ。
 顔を出したら、きっと誰も放っておかない。
 そうなったら、私は初めてできた歌い手仲間をなくしてしまいそうで、それは少しだけ悲しいなと思った。
 私は自分が好きなものを堂々と好きだと言い切れない。誰かに否定されるのが怖いから。「すごいね」と言って、一緒に楽しんでくれる人は貴重なんだ。だから、互いに歌い手名義を知っても、知らんぷりしている今の関係が、居心地がいい。
 そう思いながら、豚肉の生姜焼きを口に放り込んで、白ご飯で流し込んでいるとき。階段に足音が響いた。先生だったらどうしよう。私が少しだけ腰を浮かしかけたところで。

「やあ、お待たせ」

 そう言って萩本くんが機嫌よさそうな顔で階段を登ってきた。
 特に一緒に食べようと約束した訳じゃないのに、こうして本当に一緒に食べることになるのは、なんとなく驚く。

「お帰りなさい……なにを買ってきたの?」
「唐揚げ弁当買いたかったのに、売ってなかった」

 少しだけしょんぼりと肩を落としながら、それでもコンビニで温めてもらったらしい中華弁当のいい匂いが漂ってきて、そのふてぶてしさに思わず「ぷっ……」と噴き出してしまった。

「……今、面白いところあったっけ?」
「ご、めんなさい……でも堂々とコンビニに出かけていって、『温めますか?』に答えてきたのかと思ったら……おかしくって……」
「そうかもね。中華弁当は売ってたよ。麻婆豆腐。どこかの中華シェフ考案だってさ」
「それお箸で食べられるの?」
「箸箱は自分の持ってる。スプーンも」

 そう言って、制服のポケットから、丁寧に箸箱を出してきたものだから、またもおかしくなってプルプルと頬を突っ張らせていた。
 それを気にすることなく、萩本くんはマスクを外して麻婆豆腐を食べはじめる。ツンと漂う香辛料の匂い。本当に麻婆豆腐の匂いだけで、ご飯が進みそうだ。

「旨い、からい。これはコンビニで売っていい味じゃない」
「アハハハハハハハ……! でも唐辛子は大丈夫なの? 普段は喉に気を遣ってるのに」
「唐揚げ弁当売ってなかったから仕方がない。コンビニは神。なぜならポイントが使えるから」

 萩本くんがキリッとした顔でそう言うものだから、ますますおかしくて、私はずっと笑いながら食事を食べていた。
 本人はどうしてそこまで笑われているのかわかっているのか、わかっていないのか。中華弁当を綺麗さっぱりと片付けて、のんびり買ってきたらしい麦茶を飲んでいる。

「でも、私は普段からずっとここで食べてたけど……萩本くんはどこで食べてたの?」
「うーん。そのときによってまちまち。あんまり人がいなくって、先生に見つからなくって、とやかく言われない場所。まさかこんな穴場スポットがあるとは思わなかった」
「本当にね。でもここでは会わなかったね?」
「うん。天気がよかったら、中庭とかで食べてたから」
「そっか……」

 萩本くんは私のように、クラスに溶け込むのを諦めてひとりでいるのを選んだのとは違い、ずっとひとりのように思えた。
 黒いマスクを学校の注意を無視してずっと使い続けているから? ぼんやりとして、関わりにくいから?
 もし萩本くんが【カズスキー】さんだと気付かなかったら、私もそんな偏見の目で見続けていたのかもしれない。でも萩本くんはどうしてひとりでいるんだろう。
 聞いていいのかどうか考えたけれど、私はその疑問をペットボトルのお茶を飲んで誤魔化した。親しき仲にも礼儀あり。私たちは共通の趣味があるだけで、親しくもないんだから余計にだ。
 私が押し黙ってしまった中、萩本くんが「そういえば」とマスクを付け直しながら口火を切った。

「俺が自分のアカウントで【カイリ】さん紹介したけど、あれ山中さんどうかな?」
「どうって? アカウントに上げた動画を、いろんな人が見に来るようになったなあとは思ったけど。目立つと怖い人が来るって言うから緊張してたけど、今のところは変な人は来てないよ」

 実際、どのアプリでもそうだけれど。目立った人をやっかんで攻撃的な言動を繰り返す人が粘着するケースはたびたび見かける。それが原因でよく見に行っていた歌い手さんが引退してしまうケースも多々見受けられた。
 幸いというべきか、私は閲覧数を特に気にせず歌っていたせいか、悪目立ちが過ぎて余計な人まで呼び寄せてしまう事故は起こらなかった。
 私の言葉に、萩本くんは「よかった」とひと言添えてから、私に話を振ってきた。

「俺に曲をつくってくれた人が、山中さんの歌を気に入って、ふたりで曲をつくればって話をしてきたんだけど、どう?」
「え……? 話が見えないんだけど」
「同じ曲で違う歌詞の曲をつくるから、女性パートを山中さん、男性パートを俺が歌って、それぞれ動画を上げたらどうかって提案が来たんだよ。どうする?」
「え……? それって……オリジナルの曲?」

 ひとりで好きな歌を歌い、特に曲をつくることもなく、人の歌を歌っていた私からしてみれば、あまりにも話が大きくって、素直に飲み込むことができなかった。
 私がどう返答したものか。正直断りたいというほうに天秤が傾いている中。萩本くんはスマホを動かして、曲を流しはじめた。

「この曲。作詞はマキビシさんで、作曲はかなたんさん」
「ふぁっ……!」

 変な声が出た。
 作曲のかなたんさんは、作曲の幅が広くて、アップテンポなテクノからゆったりとしたバラードまで、最近のヒットソングの中で全く聴かない日がないくらいに有名な人。
 作詞のマキビシさんは元々シンガーソングライターだけれど、思春期の痛みや悩みをそれぞれ巧みに書き分ける歌詞が評判になり、有名なアイドルグループや映画のタイアップなどにも歌詞を提供しているような人だ。
 そのふたりに曲をつくってもらった【カズスキー】さん……萩本くん、すご過ぎないかな。そして私にまでその曲を分け与えようとするのに。
 歌っているのは、マキビシさんらしい。独特のハスキーな声が歌っているのは、もうすぐ母校が無くなってしまうという十代の叫びのような曲だった。相変わらずなんでも作曲するかなたんさんは、バラードも淡々としているだけでなく、途中でいきなり高音が飛び出たり低音が飛び出たりと油断ならない曲調を、マキビシさんが丁寧に丁寧に歌い上げていた。
 私はそれをしばらく聴いていて、口ずさんでいた。
 いつも曲を覚えるのは、一度聴いては歌ってみて、二度聴いては歌ってみる反復練習だ。この曲はサビの部分の高低の激しささえなんとか反復練習で乗り越えたら、歌えないことはない。

「……すごくいい曲だね」
「じゃあ」
「でも……この曲本当に私が歌っていいの? 【カズスキー】さんは有名だからわかるけど、私は全然無名の歌い手で……怒られないかなと思う」
「むしろこれ、俺がマキビシさんに相談されたんだよ。女性の歌い手で、悲しい歌詞を癒やしの歌に変えられるような人がいないかって。歌い手って、結構主張が強いから、力強く歌ったら悲しさが強調されてしまって聴いてられなくなるからって。だから俺が【カイリ】さんを紹介したんだから」
「……そこまで?」
「上手い歌い手って、今の界隈だったらいくらでも見つかると思う。皆すぐ歌を聴いて、練習してそれっぽく歌えるようになるから。でもこの曲は【カイリ】さんじゃないと歌えないと思うけど」

 そう言われてしまうと、私もついつい押し黙ってしまう。
 今まで、「あなたでいい」と投げやりに言われたことはいくらでもある。グループ分けをする際、ひとりでふらふらしていた私を人数調整のために入れられたりとかはあるけれど、こういう人が欲しいと探している人に紹介されるなんてこと、ちっともなかった。
 そこまで褒めてくれる人のことを、無下になんてできるだろうか。
 私の中の天秤がグラグラと左右に揺れているのを感じていたら、予鈴が鳴った。本鈴までに戻らないと、授業がはじまってしまう。
 私はどうにか言葉を絞り出した。

「……一度歌を歌って録音するから、それを曲をつくってくれたふたりに聴いてもらってから、判断してもいい? さすがに……無名の私が泥を塗る訳にもいかないから」
「本当? じゃあふたりに連絡しておくよ」
「うん……」

 私は萩本くんから「外に出さないでね」と念押しされてから、録音をもらった。これを聴きながら練習しよう。そう思いながら、教室へと戻る。
 話が大きくなってしまった。
 普段だったら「そんな恐れ多い」と逃げてしまいそうだけれど、素敵な曲だった。選んでくれた人を無下にはできないから、この曲をできる限り素敵に歌おう。そう心に誓った。

****

 それから私は萩本くんと一緒に、練習を兼ねてカラオケ屋によく行くようになった。

「萩本くんくらいにオリジナル曲もばんばん出している人だったら、スタジオとか借りれないの?」
「ブッ……」

 私の思いつきは、思いっきり萩本くんに笑い飛ばされてしまった。萩本くんは「よく舐めてる奴。山中さんもどうぞ」とポリフェノール入りの喉飴を回してくれながら、手を振った。

「それはない。それはない。この辺りだったら、もうちょっと大きな街まで出ないとスタジオなんかないし。車もバイクも持ってないのに、そんなところまでいちいち通えないから」
「それもそっか……」
「そこまで稼いでいる歌い手なんて、自分で作詞作曲全部できるような人だけだから。俺は曲をつくってもらわないと歌えないから」

 そう言いつつマスクを外すと、飴を口の中で転がしはじめた。
 私たちが提供してもらった曲は、当然ながらカラオケで配信されているものじゃない。だから喉の奥を開くために一曲歌ってから、問題の曲を伴奏なしで歌うのだ。
 私は後で喉飴をいただこうと思いながら、先に一曲カラオケマシンに入れてみる。歌う曲は、最近アプリでよく耳にするK-POPだった。
 キーは高いし、曲も高低差が激しくて難しい。でも、課題曲も相当難しい曲だから、喉を開くのにはちょうどいいと思う。
 私が一曲歌いきると、萩本くんは拍手を送ってくれた。

「すごいね、相変わらず」
「あ、ありがとう……飴、いただくね」
「どうぞー」

 萩本くんは口の中で転がしていた飴をガリッと噛んでから飲み込むと、温かい紅茶で流し込んでから、自分も歌いはじめた。これはダンス曲としてよくアプリで聴くレゲェだった。本当に……【カズスキー】さんは曲幅が広い。
 歌い終わったあと、私も思わず拍手をしてから、それぞれ曲を歌いはじめる。

「歌詞はこれ。山中さんは、曲は全部耳で覚えるタイプ?」
「うん。そのほうが覚えやすいから。萩本くんは?」
「俺は歌詞を読みながら曲を覚えるから」

 真面目だ。多分そのほうが覚えやすいんじゃないかと思う。私は歌詞を見せてもらいながら、耳で覚えた曲に歌詞を乗せていく。
 幸か不幸か、私は母校がなくなった経験はない。でもうちの学校みたいに無理な吸収合併をしまくったせいで、母校がなくなって悲しい思いをしている人たちはきっといるんだろうな。
 私だって、そこらへんがあって友達とは学校が離れてしまった。遠過ぎて地元の公立を諦めて、近場で通える私立に入学を決めた子だって、隣の県に引っ越して通える学校に行くことにした子だっていたもの。
 多分なくなって寂しいっていうのは、集まる理由がなくなって寂しいに近いような気がする。いくら同じ学校を卒業したからって、それぞれ今の交友関係や趣味バイトがあるんだから、いつでも連絡するってできなくなる。私みたいにひとりでうろうろしているのだっているけれど、全員にそれを求めても仕方がないから。
 私はその辺りの、自分で決めた訳じゃないけれど決まってしまったもやもやを、歌詞に乗せて歌い終えた。
 しばらくすると、萩本くんも「じゃあ俺も歌うから」と言って歌いはじめた。
 そういえば。私と同じ歌を、萩本くんはどう歌うんだろう。私はそれをじっと聴き、思わず目を見開いてしまった。
 同じ曲。同じ歌詞。同じ歌い口なはずなのに、不思議と全く違う歌に聴こえる。アレンジなんてしてないのに。
 私はどうしようもないもやもやを歌にしたけれど、萩本くんはすっきりとした過去の恋の歌に聴こえる。たしかに、どちらも母校が消えてなくなってしまって、集まる理由がなくなってしまった歌だ。その中で、同じ学校を卒業して、タイムカプセルを取りに行こうとした相手が、友達じゃなくって片思いの相手でもいい訳だから、たしかにこの歌い方もありなんだ。
 同じ曲、同じ歌詞、同じ歌い口なのに、こんなに変わるものなんだ。
 歌い終えた萩本くんに、私は思わず手を叩いていた。

「……すごいね、同じ曲のはずなのに、私と萩本くんだと全然違う歌に聴こえた」
「ありがとう。でも正直、俺は山中さんの歌のほうがいいなーと思った。山中さんは曲をどんな解釈で歌ったの?」
「解釈?」
「歌詞を読んでどんな話に取ったのかなと」

 世の中の歌い手って、歌詞を読んで書かれたフレーズの流れを意識しながら歌うものなんだろうか。それとも私たちが思いの外真面目に歌詞を考えながら歌っているだけなんだろうか。
 私はさっき思いついたことを、たどたどしく言ってみた。

「……もう会えないって思いながら歌ってた」
「もう会えない?」
「集まる理由がなくなっちゃったから。学校がなくなったから。そりゃ、卒業してからも付き合いのあるグループはいくらでもあるとは思うけど、誰だって昔の付き合いよりも、今の付き合いを優先するから。自分たちが悪くて離ればなれになった訳じゃないのに、なんか嫌だなあと思いながら、歌ってた」
「なるほど。やっぱり山中さんすごいな」
「え……?」
「俺、普通にこの歌詞を恋愛の歌だと思ったから」
「多分、普通はそう取るんじゃないかと思ったから、別に間違ってないと思ったけど」

 私は別に、誰かとお付き合いしたことはないし、学校の人を好きになったことがないけど。タイムカプセルを開くとか、同窓会とか、そういう理由を付けて会いに行ったときに告白したいって人がいても、おかしくはないと思ったから。むしろ今はそういうわかりやすい物語のほうが、受けるんじゃないかと思ったんだけれど。
 それに萩本くんは「そうだけどさあ」と髪を引っ掻いた。普段は滅多にしない、眉根を深めて吐き出した。

「なんでもかんでも、わかりやすかったら嫌じゃん」
「そう……なの?」
「たとえばさ、直情的って言葉あるけど、直情的ってイコール考えなしの馬鹿って思われてたら嫌じゃん」
「……直情的は直情的であって、馬鹿ってことではないよね?」
「そうだけど、わかりやすくしようわかりやすくしようとしたら、勝手にそうなっていることがあるから、そういうのは、歌詞を書いてくれた人に失礼だから……」

 最後の言葉は、ぽつんとつぶやきのように聴こえた。

「それって要は、勝手に恋愛ソングに押し込めて、郷愁や戻れない昨日の歌っていう範囲を狭めたくないってこと?」
「そう! だから、歌詞からイメージを拾って、どんどん広げた山中さんはすごいんだよ」

 なるほど……解釈が違うって、勝手にイメージがすり替わってしまうから、それをなくしたいって嘆いてたんだな。
 これは私がお金がかかっている曲を歌ったことがないから勝手に思っているだけだけれど。萩本くんは真面目なんだなあ。好きなように歌えばいいって思っている私よりも、ずっといろんなことを気にしながら歌っている。
 有名人って大変なんだなあ。勝手にそう同情するのは、失礼なことだろうか。
 それから、私たちは収録する日を摺り合わせてから、それまではカラオケで一緒に歌の練習をするようになった。
 歌えば歌うほど、自分の中で馴染んできて、出ないと思っていた高音も、無理だと思っていた低音も滑らかに出てくるようになる。
 一曲歌いきるたびにお茶を飲み、飴を舐めながら、互いの歌の感想を述べ合うようになっていた。

「やっぱり山中さんの歌は、聴けば聴くほど、癒やされていくね」

 そうしみじみとした口調で萩本くんに言われる。自分では好き勝手に自分本位で歌っているつもりだったから、最初から言われているこの感想が、いまいちよくわかっていない。

「前から思っていたけど、ウィスパーボイスとか、癒やされるってなに? 自分だと意識してそう歌ったことないんだけど」
「前にも言わなかったっけ? 歌い手ってさ、どういう形であれ受け狙いを念頭に入れて歌っているけど、山中さんにはそれがない」
「……自分本位だから?」
「違う。皆が皆、『俺が俺が』って主張だけ聞いてたら疲れるじゃない。山中さんの歌にはそれがないから、聴いていてすごく落ち着く。自分に言い聞かせているというか、そういうところが」

 自分本位な歌い方で、聴いている人について考えながら歌っている萩本くんは偉いねと思っていたけれど。こういう考え方もあったんだ。
 私の中での、小さな驚きだった。

「だから、山中さんの歌い方には肩の力が入ってないし、練習すればするほど、いい具合に力が抜けていって聴きやすくなっているんだよね。それがすごくいい。だから俺はそのままでいいと思うんだけど」

 そうしみじみとした口調で言われてしまうと、私もどう答えたらいいのかわからない。ただ、思ったことを口にしてみた。

「……でも、私【カズスキー】さんの歌が好き」
「そう?」
「なんだろう。私、萩本くんほどたくさんの歌が歌えない。声のキーが全然合わないし、いろんな人が好きな歌を歌えるのって、サービス精神が旺盛じゃないとできないと思うから」
「それって、自分に芯がないって思わないの?」
「ううん」

 売れっ子歌い手って、ナイーブなのかな。ふとそんな考えが頭を掠めた。
 よく自分で作詞作曲している人は、歌い手の人のことを「すぐに人の歌をパクって、人気の上澄みを取って!」と怒るけれど、曲をつくるのと歌うの、どちらも負荷って同じだと思うんだ。
 人に喜んで欲しい。私には完全に欠落している感覚だけれど、サービス精神旺盛な人気者がいつも持っているもの。それって、芯がないってこととは全然違うような気がする。

「人に楽しんで欲しいって考えられるのは、人のことが好きってことと同義語だと思うから。私は、本当に自分のために歌っていて、そういうのが全然ないから。だから萩本くんはすごいね」

 私の言葉に、萩本くんは少しだけ虚を突かれたように目を見開いたあと、すぐに外していたマスクを付けてしまった。私はその光景をキョトンとして見つめていた。

「ええっと……次は萩本くんの練習の番だけれど。歌わなくっていいの?」
「……今、俺。すごい情けない顔していると思うから、先に山中さんが歌って」
「ええ? そりゃ私は嬉しいけれど……でもいいの?」
「いいから! どうぞ! ああ、ちょっと飲み物取ってくるけれど、リクエストある!?」

 まるで今にも逃げ出したいような態度を取るので、私はますます混乱した。
 人気歌い手って、いろんな人に褒めてもらえるものだと思ったのに、私の言葉でそこまで取り乱して、どうしたんだろう。おべんちゃらが嫌だった? 言われ慣れてるからがっかりした?
 私は混乱している萩本くんに「じゃあ、ぶどうジュース……」と言ったら、「オッケー、言ってくる!」とそのまま飛び出してってしまった。ドアの閉まる風で、私の結った癖毛が揺れる。

「……人気歌い手って、大変なのかな」

 私には全然縁のない世界だと思っていたけれど、私と萩本くんは同級生で、学校でもカラオケ屋でも、こっそりと会っては歌の話ばかりしている。
 世界って思っているよりも近いのかもしれない。
 そうしみじみと思いながら、私は歌を練習しはじめた。
 何度も何度も萩本くんが言ってくれたウィスパーボイス。自分では実感がなかったけれど、それで一曲歌いきるとたしかに気持ちがいい。
 萩本くんは私が一曲歌い終わった頃に、やっと戻ってきた。

「ただいま……」
「お帰りなさい。もう歌える?」
「ん……歌う」

 ようやく鼻から下を覆っていたマスクを取って、マイクの電源を入れた萩本くんが歌いはじめる。さっきの慌てようはなんだったのか、すっかりといつものぼんやりとした表情ながらも、端正な顔立ちで歌いはじめる萩本くんは格好いい。
 私は持ってきてくれたぶどうジュースを飲みながら、彼の歌と一緒に彼の横顔をこっそりと眺めていた。
 多分私と萩本くんは、同じクラスにいながらも、互いにひとりでうろうろしている者同士。どちらもアプリで歌い手として活動しているって秘密がなかったら、こうして昼休みに一緒に食事をすることも、カラオケ屋で歌を歌うこともなかったんだろうなと思う。
 彼のマスクの下を知ったからそう思うのか、彼の歌い手名義を知っているからそう考えるのか、よくわからない。
 ただ秘密の共有は、ぶどうジュースの味がする。
 甘くてずるくて後を引く。

****

 いよいよアプリにそれぞれの歌を流す日が来た。
 私は緊張しながら、アプリを起動させる。
 普段歌を歌うとき、私はちっとも緊張していない。だって誰かに聴かせようなんて思っていないからだ。それがどうだ。今日は萩本くんや曲をつくってくれた方々、少なくとも三人は聴いてくれることが確約されているから、私は中学時代の音楽のテスト以来の突っ張る喉をどうにか飼い慣らして歌わないといけない。
 どうしたら力が抜けるだろう。どうしたらいつも通り歌えるだろう。そもそも、いつもはどうやって歌っていたっけ。
 まるで呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに、私はいつも通りに歌う術をどこかに置いてきてしまっていた。
 私は困り果てて、通信アプリを起動させて、そこで萩本くんに連絡をしてみた。

【緊張し過ぎて怖い。歌えない】

 それで泣いている女の子のスタンプをポンポンと押して送信する。意外なことに、もう歌っていると思ったのに、すぐに返事が来た。

【カナタさんの歌は素敵だよ】
【誰かのためじゃなくって、自分のために歌ってみてよ】
【君が君のために歌う曲を、ちょっとだけお裾分けしてくれないか】

 私はその返事の文面を指でなぞっていた。
 とっても詩的だ。なんでもかんでも、すぐに「ポエム」と嘲笑する文化は嫌いだ。私はそれが原因で絵が描けなくなってしまったから。
 それをなんの躊躇いも照れもなく返してしまえる萩本くんは、きっとすごい人だ。
 私はこの詩的な文面に添えるような返事が思いつかず、とりあえずガッツポーズを取っている女の子のスタンプを押して送信してから、やっとアプリに戻った。
 何度も何度も練習した歌を、歌いはじめる。
 行きたくってひとりで見知らぬ人ばかりの学校に入学した訳じゃない。他の選択肢がなかったから、ここに来た。
 なりたくってひとりでいる訳じゃない。でも全然覚えられない名前の人に囲まれているのは苦痛だ。
 歌だけは、私が選んだことだ。
 萩本くんにうっかりと見つかったのも、萩本くんの歌い手名を知ったのも、本当に偶然で、歌い続けていたら、気付けば結果がついてきた。
 好きなものをずっと続けられるのは奇跡だ。私にとって大切なものは、誰かにとっては退屈なもので、それをいともたやすく踏み潰し、それで傷付いていることを理解できない人が多過ぎる。
 私は今まで積み重ねた理不尽を、一気に歌詞に乗せて歌い上げた。
 何度も褒められたウィスパーボイスは誰かを慰めるものじゃない。自分を励ますためのものだ。私はそれを一気に歌い上げたあと、送信した。
 私はなにも見ずに、アプリを一旦消して、そのままベッドに突っ伏した。
 萩本くんは歌い終わっただろうか。どうだろう。
 私はベッドでごろんと寝転がりながら、もう一度アプリを確認しはじめた。
 アプリでは【カズスキー】さんの新曲の話題で溢れかえっていた。まあ私の曲に対する感想がないのは相変わらずだし、一度【カズスキー】さんが紹介してくれたくらいじゃ、なにもないだろうと思っていたけれど。

「……あれ?」

 閲覧数が多くなれば多くなるほど、閲覧ランキングに入ることがある。私はそういうのに興味がないからあんまり確認したことはないけれど。でもそこにピコンと私の新曲がランキングの一番下に引っかかったのだ。

「……普段こんなところに入ったことないのに」

 いくらなんでも早過ぎないかな。そう思いながら怖々と自分のアカウントを覗いてみたら。

【かなたんさんの紹介から来ました。いい曲ですね!】
【マキビシさんのSNSから来ました。こんな上手い人が隠れてたの?】
【カズスキーさんのアカウントから来ました。うっま!】
【──……】
【──】

「嘘……」

 今まではコピーソングだったからよかった。【カズスキー】さんが紹介してくれたところで、所詮はコピー歌い手だから、なにを言われても「知らない人が来たなあ」くらいで済ませないといけなかった。
 でも今回はかなたんさん作詞、マキビシさん作曲の完全新曲な上、【カズスキー】さんと男性パート女性パート歌い分けるという、どちらも聞き比べられるという形で歌っていた。
【カズスキー】さんは、ランキングとかに興味がない私ですら知っているような歌い手なのだ。その相方に選ばれたのが、無名の【カイリ】だったら、なに言われるかわかったものじゃないと思っていた。
 もっと有名人と無名が絡んで生意気とか、いい気になっているとか、そんな悪口が書かれるのかと思っていたのに、コメントはどれもこれも温かだ。
 ここまで温かい言葉をかけられたの、萩本くん以外だったらいつだろう。自分ひとりで歌っている身勝手な私の歌を褒めてくれる、優しい人たち。
 気付けば私は、泣いていた。胸がいっぱいになり、久し振りに寂しくなくなっていた。
 誰かに声が届くって、こんなに心地のいいことだったんだと、生まれて初めて知った。そんな気がした。
 アプリのランキングに載った。
 未だかつてないくらいにコメントをもらった。ときどきメッセージも来たけれど、なにが書かれているのか怖くて全部は読めていない。
 今までは、ひとりでこっそりと歌って、ひとりでこっそりとアップして、ジリジリと増える、亀よりも遅いなめくじのような速さの閲覧数を眺めているものだったのに、たった一日で世界が変わったように思えた。
 ……もっとも、私の学校での生活は、そこまで変わってはいないけれど。

「お願い、山中さん。掃除当番替わって」

 相変わらず顔も名前も覚えられないクラスメイトから、いいように声をかけられる。それを清水さんが咎める顔で、私とクラスメイトどちらも睨み付けていたけれど。
 私はそれに「ごめんなさい」と頭を大きく下げて謝った。

「今日は用事があるから……早く学校を出たくて……」
「ええーっ、ぼっちなのに?」

 余計なことを言われてしまった。それでも私は肩掛け鞄を肩に「ごめんなさい」と謝ってから、いそいそと教室を出ようとすると、委員会議に出るらしい清水さんに声をかけられた。

「山中さん、今のって本当?」
「用事? うん……」
「……そう、よかった」

 清水さんは妙にしみじみした口調で言った。

「山中さん、クラスでも友達いないみたいだし、ああいうサボリ魔の子たちにいいように利用されてるみたいだったから心配してたけど。同じように心配してる子はもうひとりいるけど、どちらも別に成績がガタッと下がったり学校休んだりもしてないから、どうなのかなと思ってたの」

 クラス委員は大変だ。担任の使いっ走りに加えて、私みたいなクラスに全く溶け込めてない子の様子まで気に掛けないといけないなんて。
 私はどうにか大丈夫だと清水さんに伝えようと、手であわあわとする。

「だ、いじょうぶだから。本当に。心配してくれて、ありがとう」
「そう? なにかあったら話は聞くから。担任にも特に告げ口しないし」
「ひ、人をそういう都合よく使うのは、多分、よくないことだと思うから……」

 担任やカウンセラーとかは、話を聞くのも仕事の内だけれど、クラス委員は違うと思う。だから私はぶんぶんと必死に首を振って断ると、清水さんは神経質ような目を見開いてから、口元を綻ばせた。

「意外ね、山中さん。思っているより気遣いね。足止めしてごめんなさい。用事頑張ってね」
「あ、りがとう」

 私はぺこんと清水さんに挨拶をしてから、そのまま校門まで走っていった。
 相変わらず、萩本くんとは教室では特に話をすることもなく、ふたりでカラオケ屋で待ち合わせをして、あれこれと話をしていたのだ。
 その日は、曲をつくってくれた人たちと会うということで、おっかなびっくりしながら私はカラオケ屋に行くこととなった。
 かなたんさんもマキビシさんも、たしか顔出ししていたよなあと思う。前に動画サイトの動画で歌っているのを見たことがある。どちらも二十代くらいの人たちだったと思う。そんな人と知り合いだなんて、本当に萩本くんはすごいなあと思いながら、すっかりと行きつけになったカラオケ屋で待ち合わせをしていたら。
 既に教室を出ていた萩本くんが、スマホを眺めながら入口で待っていた。

「萩本くん」
「あ、さっきぶり」
「早いね。学校終わったの同じなのに、どうして……」

 同じクラスなんだから、ほぼ同時に教室につくはずなのに、既にカラオケ屋の前にもたれかかっているんだから、驚きだ。まあ教室のほぼ中央に座っている私と違って、萩本くんの席は廊下に近かったから、そこから出たら私よりももっと早く着くのかも。
 萩本くんはそれに「んー……」と小首を傾げた。

「ここ、学校の裏から出たら、もうちょっと近いよ」
「……もしかして、前にゴミ捨て場にいたのって」
「普段からあそこ、先生少ないし。俺、マスクのせいで先生に目を付けられやすいから、先生に見つからないようにこっそり出て行こうとしたら、どうしても裏門から出るしかないんだよ」
「なるほど……そういえば、黒いマスクの理由って?」

 日頃から目立つ黒マスクについては、未だに謎のままだった。それに萩本くんは「うーん」と長い首を逸らした。

「白いマスクだと、目の下がチカチカするから?」
「……格好いいとか、そういうこだわりじゃなかったんだね」
「うーん……喉が守れたら別に。でも先生に呼び止められて説教されてたら、逆に燃えてくるというか、頑なになるというか」

 この人不良だ。前に思ったことが頭に閃くけれど、歌っているとき以外はぼんやりとした人を軽く不良呼ばわりしていいものか。
 私はそう思いながらも「そういえば」と尋ねた。

「おふたりはいつ来られるって?」
「さっきアプリでやり取りしてたけど、ふたりともちょっと迷子になってるみたい。迎えに行こうかって言ったら『高校生に大人の財力見せてやる』って言われた」
「なあに、それ」

 思わず笑ったところで、タクシーがカラオケ屋の手前で停まった。
 そこから出てきたのは、ピンク色のマスクにロングスカート。花柄レースが可愛いカーディガンを羽織ったいかにもガーリーな格好の女性に、真っ白なシンプルマスクにTシャツ、デニム。一見ラフ過ぎる格好だけれど、前にあのTシャツと同じ柄のものを着ていたアイドルが、ネット番組で六桁はくだらないと言っていた奴だと、喉の奥がヒュンとなる。
 ふたりはぱっと萩本くんを見ると、それぞれ抱き着いてきた。

「久し振りー、【カズ】くんちょっと前に会ったときより身長伸びてない?」
「お久し振りです。親戚のおばさんみたいですよ、かなたんさん」
「おひさー、夏のフェス以来?」
「お久し振りです、マッキーさん。あっ、彼女が」

 ふたりともフレンドリーなのは、【カズスキー】さんとして、歌い手のイベントに出席しているかららしかった。まあ、歌い手は歌さえ歌えれば、顔はお面なり布なり被ってもオッケーだったから、顔出ししなくってもいいし、身内間にさえ顔が割れればいいんだろうなあ。
 萩本くんが紹介してくれようとするので、私はあわあわとする。

「わ、私。歌い手のことは、誰にも、言ってなくって……!」
「ああ、そっか。私はかなたんで活動してます」
「自分はマキビシです。とりあえずカラオケ行きましょっか」
「は、はい……!」

 私は何度も何度も頭を下げていた。頭のどこかがジリジリする感覚がしているのは、普段だったら緊張し過ぎてなにをしゃべったのかも、どんな会話をしたのかもすぐに忘れてしまうのに、忘れたくない一心で緊張回路を自ら焼き切ってしまったらしい。
 皆で飲み物を頼んで、サイドメニューにフライドポテトと唐揚げを山盛り注文してから、部屋へと移動した。
 今日移動した部屋は、初めて萩本くんと一緒に入った集団用の部屋だった。

「【カイリ】さん。今回歌ってくれて本当にありがとう。閲覧数も順調に稼いでくれててよかったあ」

 そう言って挨拶してくれたマキビシさんはマスクを外すと、前に動画で見たことのある、大型犬みたいな愛嬌のある大きな口が出てきた。にこにこと笑っていて、昔近所に住んでいたゴールデンレトリバーを思い出させた。
 その言葉に頷きながら、かなたんさんもマスクを外す。目元だけのときから思っていたけれど、おっとりとした雰囲気を保っている可愛らしい人だ。

「ええ、【カズ】くんがウィスパーボイスだからぜひ聴いて欲しいって言うからね。この子誰のことでも褒めるから」
「そう……なんですか?」

 それは意外だなと思って私は萩本くんを見た。私が知っている限り、わざわざ【カイリ】のアカウントをSNSで紹介していたのくらいしか、人を紹介しているのを知らない。あとは曲をつくる関係で知り合ったような人たちばっかりだったように思える。
 それに萩本くんは、相変わらず好きらしい唐揚げをもりもり食べながら訴える。

「ええ……だって褒められるのって気持ちいいじゃないですか。その気持ちのよさを歌に出してくれたらもっといいんですけど」
「そりゃねえ。大人になったらなかなか誰も褒めてくれなくなるから」

 かなたんさんの言葉に、私は思いっきり頷いてしまった。従姉妹のお姉ちゃんは就職決まった途端に「結婚は?」を連呼されるようになって辟易してから、親戚の集まりで一切見なくなったし、従兄弟のお兄ちゃんも「昇進は?」を連呼されている。
 私も萩本くんに会うまで、ここまで褒めてもらえたことってない。
 それにマキビシさんは「でもなあ、【カズ】」と苦言を呈す。

「お前、褒めまくって相手を逆上せ上がらせた結果、相手を自爆させてること多いから。ほんっとうに、【カイリ】さんはよくやってるからな?」
「えっと……自爆って?」
「うーんと。有名人に褒めてもらったっていうのは、自慢にならない?」

 そうマキビシさんに言われて、私は首を捻った。
 たしかに私は萩本くんに褒めてもらえたのは嬉しかったけれど、それをわざわざ触れ回る相手がいない。中学時代の同級生にわざわざアプリメッセージ入れてまで自慢するかというと、微妙なところだ。

「私、自慢するような相手いませんし……褒めてもらえたからって、イコール自分の評価が上がる訳でもないですし……」
「あー、なるほど。だから【カズ】が悪気なく自爆させて回っているのに巻き込まれなかったのかも。【カズ】に褒められたことにうつつを抜かして、歌を歌わずに宣伝ばっかりした結果、歌がどんどん歌えなくなって、結果的にアカウントを削除しちゃう子が多いんだよね。もったいない」

 マキビシさんはそう言いながら、フライドポテトを食べた。なるほど……。私は日頃から宣伝活動にそこまで力を入れないし、本当に歌っているだけだったから、そういう自爆行動に走らなくって済んだって感じか。
 それに萩本くんは本気でわからないというように眉をひそませていた。

「……俺、普通にその歌がいいから、これからも頑張ってと言っただけで、どうしてそんな行動取るのかわからないんですよ」
「有名人に歌を褒められたっていうのを、一種の名刺代わりにするのは誰だってあるから。本当に褒められたって事象があっただけで、自分の実力が跳ね上がった訳じゃないんだけど」

 かなたんさんにそう言われて、私はますますもって困った顔で皆の顔を交互に眺めていた。

「褒められたら、歌わなくってもいいんでしょうか……?」
「えっ?」
「……私、歌いたいから歌ってただけで、褒められるのはそのついでなんですけど……」

 そう私がボソボソと言った途端に、どっと笑い声が上がった。私は目を白黒とさせる。

「あ、あのう……私、おかしなこと」
「いいえ、それが普通だと思うから」

 かなたんさんは笑顔で言った。

「だから【カズ】くんと【カイリ】さんは仲がいいんだわ」
 私は今度も【カズスキー】さんと【カイリ】のコラボ動画をアプリに上げないかと誘われたものの、「考えさせて欲しい」と保留にしてもらった。

「私の実力とか、全然自惚れてないんですけど……これ以上目立ったら、多分反感が来るかなと思いますので……」

 私はどこかの事務所に所属している訳でもないし、どこかと契約している訳でもない。ただ本当に歌を歌うのが好きでアプリに上げていただけの人間だ。
 人は目立つと、大概おかしな人が引き寄せられてくる。好きな歌い手さんが、おかしな人に絡まれ続けた結果、その対処に追われて歌をアップすることができなくなってしまった例を何件も見ていたら、そろそろ自分も他人事ではないのかもしれないという、怖さのほうが勝ってしまう。
 今まで閲覧数がこれだけ増えたことも、コメント欄にこれだけ感想をもらえたこともなかった私は、なおのこと慎重にことを運ばないと大変なことになると危機感を覚えていた。
 意外なことに、そこで押して「もったいないよ」ということは、ふたりとも言わなかった。

「たしかに、【カズ】くんみたいな怖いもの知らずな子は、今時珍しいもんねえ。【カイリ】さんみたいに用心深い子のほうが多いね」

 かなたんさんは納得するように頷いたら、萩本くんは口を尖らせて最後の一個になった唐揚げを摘まみ上げながら抗議する。

「えー、それだと自分が全然考えなしみたいじゃないですか」
「向こう見ずのほうがなんでもできると思うし、今はブレーキ掛けっぱなしの子が多いから、余計にアクセル駆けっぱなしの子のほうが早く成功できるとは思うけど。でも今ってどういうタイミングで事故が発生できるのか、もう誰も予測できないから、ブレーキ掛けっぱなしの子をあまり責められないんだよね」
「あるあるあるある……」

 かなたんさんのしみじみとした口調に、マキビシさんは大きく頷いた。
 どうもプロとして活動しているふたりは、炎上に対して私以上になにかしら思うところがあるようだった。

「半端な知識の子が、なんでもかんでも盗作だと叫んで炎上したりとかね」
「アイディアやコンセプトが被ったら全部盗作だって思い込んでる子が多くって迷惑してる。なんでもかんでも、思い込みの正義感で走る子多いから。【カズ】くんはその辺りの危機管理、できてるのかできてないのかわかんないしねえ……」
「失礼な。その辺は抜かりなしですし、同業者以外にはなるべく正体明かしたりしてないです」
「まあ、必要最低限の自衛は必要な時代だしねえ」

 こちらが思っているよりもなお、生々しい話が飛び出てしまい、思わず目を白黒とさせてしまっていた。
 私は最初から人の曲を歌っているだけだけれど。作詞や作曲を手がけているかなたんさんもマキビシさんも、あれだけクリエイティブに活動していてもなお、勝手に盗作呼ばわりされてひどい目に遭ったりしているんだと、びっくりしてしまう。
 私は呆気に取られながらお茶を飲んでいたら、隣で萩本くんは「ごめん」と小さく謝ってきた。

「アプリも別に、悪いことばかりじゃないんだよ。ただときどき、羽目を外して悪いことする奴がいるだけでさ」
「……うん。知ってるよ。だから私、ひとりでアプリで遊んでたんだから。でも私、【カズスキー】さんがそこまで用心してたとは知らなかったけど」
「そう? 俺、勝手に周りから難癖付けられて、周りが勝手に喧嘩するから、顔隠してるんだけど」

 そう言っていつも付けてる黒いマスクを見せてくれた。

「……喉を守るためだけじゃなかったんだ?」
「そりゃもう。歌いまくるから喉は大事。あと女子があまりにもやかましいから、距離を置きたかった」

 それは少しだけ納得した。
 萩本くんは、多分マスクを外したらクラスの過半数の女子が放っておかない。幸い体育で男女が被ることはまずないし、体育祭なんかは保健室でサボってしまったら、顔を見られなくって済む。
 女子の嫉妬は正直怖い。それを知っているからこそ顔を隠しているとなったら、納得しかできなかった。

「大変なんだね……」
「……そういえば、【カイリ】さんは全然態度変わらないね」

 そう萩本くんに指摘され、そういえばと私は気付く。

「……一緒に歌っている人に、歌以外を褒めるのって、なんか失礼じゃない? 歌歌っているのに身長が高いねとか、細くていいねとか、全然関係なくないかな?」
「……【カイリ】さんのそういうとこが、なんかほっとする」

 そうしみじみと言われてしまった。
 それは違うよ、萩本くん。私のほうこそ、萩本くんのおかげでちょっとだけ学校生活も楽しくなってきたんだ。
 既にグループが固まってしまっている中に割り込むのって怖いし、そもそも全然しゃべらない人の顔と名前を覚えるには人数が多過ぎるし、クラスメイトの顔と名前が一致しないでずっと一緒にいるのって、本当に苦痛なんだ。
 ひとりでいると勝手に担任に心配されるし、なんだかクラスの子たちにいいように使われてるなあと思うし、クラス委員の清水さんには心配かけ続けているし。
 そんな中で歌を通して萩本くんと知り合って、互いに好きなことを好きなように話せるようになったのは、本当に楽しいんだよ。
 それを、女の子たちに勝手にはしゃがれて、勝手にいがみ合われているのに疲れてしまっている彼には言えなかった。
 私たちが押し黙ってお茶を飲んでいる中、かなたんさんが言った。

「でもとりあえず、もし気が変わったら連絡してね。また【カズ】くんと歌える曲を考えるし、それ以外でも相談があったら乗るからね。それこそ、最近は付け火で炎上ってものすごくあるから、なにかあったら話は聞くよ?」

 そう言われて、かなたんさんとマキビシさんから名刺をもらった。名刺には通信アプリやSNSのアドレスをすぐに確認できるバーコードが付いていた。
 それに何度も何度も「ありがとうございます」と言ってから、その日はお開きになったんだ。

****

 ふたりがタクシーで帰っていくのを見届けてから、私と萩本くんは帰る。最近は日が落ちるのが少し早くなったせいか、家の近くまで萩本くんが送ってくれることが増えた。
 黒マスクを付けていると、周りはびっくりするけれど。それでも萩本くんが制服を着ているおかげで、それは一瞬だけで収まる。

「あのう……萩本くんって中学時代どうだったの?」
「んー? なんか周りの人間関係に疲れて、単位全部取ったあとは、受験勉強って言い訳して、学校に行ってなかった」
「ああ……それって女の子に人気っていう奴?」
「あれって人気っていうよりも、流行りのアクセサリーやネイルの奪い合いみたいな感じで、マンガとかで言う人気者って扱いじゃなかった気がする」

 たしかに戦利品みたいに奪い合われたら、好かれた嬉しいって感覚より先に、怖いのほうが勝ってしまうと思う。

「大変だったんだね……」
「そうかも。しかたないから、アプリで歌歌って、適当に吹き込んでた。歌だけだったら、顔は関係ないし。それで人気が出ても、教室で勝手に奪い合いになるよりも楽だった。そこからプロの音楽家の人たちに声をかけられても、歌以外はとやかく言われなかったから、ああ、顔が必要ない世界ってこんなに楽なんだなあと思いながら続けてた」
「なるほど……」
「そういえば山中さんは? アプリ自体は今年に入ってからみたいだけど」
「うん。歌うのはずっと好きだったよ。ただ、ひとりでカラオケに行く度胸もなくって、中学時代はずっと友達と一緒に行って、一緒に歌ってた。学区が離れちゃったから、今はほとんど疎遠になっちゃったけど」
「ふーん……まあそうだよね。中学と高校だと、なにかと勝手が違うし、学校が変わるとコミュニティーも変わっちゃうしね」
「うん」

 空はすっかりと暗くなり、外灯がポツリポツリとついている。星は見えない夜空を見上げて、萩本くんは続けた。

「学校にないんだったら、他でつくるしかないもんな」
「うん……あのね、萩本くん」
「うん?」
「……ありがとう。私の歌を聴いてくれて」
「俺、なんかしたっけ?」
「したよ。毎日学校行くのがダルいなあと思っていたけれど、学校についたら萩本くんと話ができるし、カラオケで一緒に歌を歌えるし」
「……もうひとりでカラオケに行けない?」
「行き方は教えてもらったけど……誰かに聴いてもらうのって楽しいんだなって、萩本くんがいたから気付けたし。ありがとう」
「ふーん」

 萩本くんの横顔を眺めても、すっぽりと覆われたマスクでは顔はわからない。ただ目を細めていて、それは笑っているのか怒っているのか、悲しんでいるのか悩んでいるのか、横で見ていても判別が難しかった。
 やがて、私の家が見えてきた。ここまで来たら、もう帰れる。

「ありがとう。私はこの辺で」
「じゃあな。また明日」
「うん、また明日」

 そう言いながら、萩本くんは帰って行く。中学時代、私と校区が全く被らなかったから、家はうちから大分離れているはずなのに、「俺が山中さんを誘ったから」と送ってくれるのが嬉しい。
 私は萩本くんが遠くなっていく背中を見送ってから、家に帰っていった。

 今思っても、あのときの私は抜けていた。
 有名人に会えたから。萩本くんと少しだけ胸の内を語り合ったから。話を聞いてもらえたし、聞かせてもらった。
 冴えない私の人生が、少しだけ輝いたように思っていた。
 でも。私は萩本くんと違って、物語の主人公にはなれない。目立ちたいって性分が全然ないから、ただ好きなことをして、たまに好きなことを分かち合えれば、本当にそれでよかったんだ。
 だから、このときにもう少し考えて行動すればよかったのにと、今になって後悔している。
 人の足の引っ張り合いも、人の嫉妬の怖さも、アプリでさんざん見たから弁えていると、そう思い込んでいた。でも、このときの私はなんにもわかってはいなかった。
 ただ見ていて、それを知った気になっていただけで、思い知ってはいなかったんだから。

くちびるからラブソング

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