私は自分が調子に乗っているということに、全く気付いていなかった。
クラスでも目立たず、ひっそりと息をしている。アプリでちょっと目立つようになったからといって、現実ではそんなことはない。有名人と知り合いになったからって、自分が偉くなる訳でもない。
私はいわゆる「弁えてます女子」だと、そう思っていた。だから特に説明もしなかったし、言い訳もしなかった。ただ、いつものようにアプリに好きな歌を歌って、それでおしまい。
特にアプリで【カズスキー】さんとコラボをしたことだって、どうこう言っていなかったのだけれど。
私は知らず知らずの内に、調子に乗っていたと思い知らされた出来事があった。
その日も、いつものように教室で急いで荷物をまとめていた。その日も萩本くんと一緒にカラオケで歌の練習をしようと約束をしていた。
気付けばもうすぐ夏休みで、アプリに懐メロから最新曲までの夏うたが揃ったら素敵だねと、ふたりで懐メロの練習をしようとしていたのだ。動画で何度も何度も確認したから、これで歌えるかなと頭の中でずっと曲をリフレインしているとき。
「ねえねえ、山中さん。今日も掃除替わってくれないの?」
私がずっと断り続けているのに、未だに顔も名前も覚えていない子たちから声をかけられる。風紀の先生に見つかるか見つからないかわからない程度に薄く施された化粧。汗拭き用ウェットティッシュの匂いだと言い張れば誤魔化しが利くフレグランスの香り。柑橘系。
何度も断っているんだから、いい加減諦めて欲しいのに。そう思いながら、私はいつものように謝らなくていいのに謝る。
「ごめんね、私。用事があるから……」
そう言い切って荷物をまとめて教室を出ようとしたときだった。
「萩本と付き合ってるから?」
思わず止まった。私と萩本くんは、昼休みに人気のない場所で一緒に昼ご飯を食べ、放課後にカラオケに行く。でもそれ以外で、付き合っているというようなことは一切していない。
そもそも同じクラスなのに、私たちはそれぞれ出席番号から席順までなにもかもが違い過ぎて、特に接点がなかった。
……どこで見つかったんだろう。
ひとりでそう思案している中、クラスの子たちが「なにそれ?」とザワッとし出す。人の恋バナというものは、教室をざわつかせるものだったらしい。初めて知ったし、特に知りたくなかった。
「前に見たよ、皆で抱き合ってるところ」
「え、なにそれ。大人しそうな顔して……」
私はタクシーから出てきて、久し振りに会った弟分に抱き着いているかなたんさんとマキビシさんのことを思い出した。あれはクリエイター同士のリスペクトであり、全然やましいことなんてないのに。
思わず俯いている中、その子は次々と暴露していく。
「私も彼氏とデート中だったから、それ以上見なかったけど。そのまんまカラオケ屋に集団で入っていったじゃん。だから掃除してくれないんだ?」
「……あの、本当に」
「なにもやましいことないんだったら、掃除替わってくれてもいいじゃん」
私は押し黙ってしまった。頭がぐわんぐわんとしてくる。
やましいことなんて、なにひとつない。
でも、人の悪意は簡単に、楽しかった思い出に悪気なく押し入って、土足でベタベタと踏んづけていく。いい人たちの仲のよさも、リスペクトも、上っ面だけ拾ってしまえば、途端に卑猥なものにされてしまう。
そんなんじゃないのに。そんなこと、なにもないのに。
なにか言わないといけないのに、なにも出てこない。なによりも、クラスの女子と距離を置きたい萩本くんについて、なにをどう言ったら庇えるのかがわからず、私がぐわんぐわんと回る頭をどうにか正常に戻して思考しようとしている中。
バァーンという音が響いた。クラス委員の帳簿を、思いっきり机に叩き付けたのだ。
「……いい加減、わがままばっかり言うのやめてもらってもいい? 不愉快だから」
清水さんが、クラスの女子に一喝した。途端に女子が「えぇー……?」という顔をする。
「委員長、それなんか言えるの? だって山中さん、不純異性交遊してるかもなんだよ? それも集団で」
「あなた、論点がずれているから。あなたが彼氏とデートしたいのと、山中さんが誰かと付き合っているののどこの因果関係が、山中さんに当番を押しつけていいって発想になるの? 自分がやられたら嫌なことを、どうして人にするのか訳がわからないから」
ふたりが言い合いになっている中も、クラスの普通の子たちがさっさとモップを持ってきて床を拭き、ちりとりと箒で埃を集めていた。
もう本当に不毛な中、舌打ちして彼女はようやく掃除道具入れに手をかけた。
「いい子ちゃんなんだから」
「なんとでも」
そう言って清水さんは教室を出ようとするので、私は慌て手荷物を持って、彼女についていった。彼女はスタスタと歩いて行く中、私は「あ、あの……!」と彼女に声をかける。彼女は凜とした眼差しでこちらを見てきた。
「なに?」
「あ、ありがとう……なんか、勝手に勘違いされて……私、はどっちでも、いいけど……他の頑張っている人たちのこと、邪魔されたくなかったから……」
「……それ、あの子たちにちゃんと言ったほうがよかったと思うけど?」
清水さんは呆れたように言った。私もそう思う。考え込み過ぎずに、怖いと思わずに、ちゃんと言えればよかったのに。でも私は、その勇気がなかった。
私がまた黙り込んでしまったのに、清水さんは「あのね」と続ける。
「うちね、警察家系なの」
「えっと……?」
一瞬意味がわからず戸惑っていたら、清水さんは続けた。
「だから、やましいことがありそうな人とは、付き合えないの。親族に問題があったら、公務員って出世できないから。だから私はなるべく品行方正でいたいの。今のクラス、割と問題児が多いから、もう仕方ないから友達はつくらない方向で行こうと思っていたけれど、あなたは私が付き合っても大丈夫な人?」
そう尋ねられて、私は困ってしまった。
私にさんざん因縁を付けてきた子たちは、彼女視点からは付き合ったらまずい人なんだなと思ったから。自分はどうなんだろうと考えたけれど、やっぱりやましいことはない。
強いて言うならば。私は困りながら、清水さんに尋ねた。
「やましいことってどういうこと? 特に変なことはしてないし、強いて言うなら、歌を歌うのが好き……くらいしか」
「歌? 山中さんと萩本くんが一緒にいるのって……」
「……なんにもやましいことは、してないよ。ただ、一緒に歌ったら楽しいってだけで」
「そう……」
清水さんはなんだか柔らかい表情を浮かべていた。普段は冬の桜の木みたいに、なんでもかんでも削ぎ落とした雰囲気を保っているのに、途端に蕾が綻びかけている桜を思わせる様子に変わる。
「なんだかいいね、それは」
「……ありがとう」
私は清水さんに何度もお礼を言ってから、教室を飛び出した。
カラオケに行けばいい。それでなにもかもが明るくなる。そう思いながら出かけていったけれど。
今日はどうにもよくない日が続くみたいだ。
****
いつも待ち合わせしているカラオケ屋に来たけれど、その日は萩本くんが来てないようだった。既に教室は出ていたはずだし、普段遅刻はしてこない。
変だなと思ってスマホを漁ると、メッセージが来ていることに気付いた。
【ごめん、今日急に用事が入ったから、行けなくなった】
【明日また一緒に歌おう】
【これ、歌おうと思っていたリスト】
【その中で歌いたい曲ある?】
萩本くんは謝罪メッセージと一緒に、びっしりと懐メロを上げてくれた。どれもこれも、一度は耳にしたことがあっても、全部歌うとなったら途端にうろ覚えになってしまう曲ばかりだ。
いつもの萩本くんだ。本当に急な予定だったんだろうな。
私はほっとしながら【お大事に】とメッセージを送り、歌おうと思っている曲を送信してから、カラオケ屋に入った。もうカラオケのシステムは大分わかったから、ひとりでだってフリータイムを頼むことができる。
私は借りれた部屋で、曲を何曲が選んでから、イントロの待ち時間になにげなくスマホでアプリを覗いた。ランキングにどんな曲が入っているかなという、ほんのささやかな興味本位だったけれど。
「……ええ?」
思わずそう呻き声を上げてしまった。
【カイリって歌い手、いきなりぽっと出で出てきたと思ったらカズスキー様と仲良くして、コビ売ってない?】
【カズスキー様、コラボはしてても、基本的に作詞作曲頼むだけだったのに、一緒に同じ歌を歌うとかってなかったよね?】
【なにそれ。匂わし?】
【それかカズスキー様の知名度使ってのし上がろうとか?】
【そんな俳優いたよね? 既婚有名俳優夫妻の知名度使って名前売ろうとした奴】
【まじありえんし】
【コビ売ってるような歌い方とか、本当にクソだわ】
私のアップした動画のコメント欄が、誹謗中傷で埋め尽くされていた。
それは実際にあったことに脚色した話から、飛躍し過ぎていったいどこから来たのかわからないことまで、バラエティーに富んでいた。
……バラエティーに富むとか、まるで他人事のように言っているけれど。見た途端に心臓がぎゅーっと押し潰されそうになる感覚は、他人事にしてしまわなかったら、カラオケ屋で卒倒して身動き取れないところだった。
火のないところに煙は立たないと言うけれど、あれって嘘だったんだ。なんにも悪いことしてないのに、勝手に悪いことに仕立て上げられて、火を付けられて、燃えている。
萩本くんは、今いない。この曲にかかわってきた人たちは今いない。でも、こんなに炎上している中、なにをどう言っても火に油を注ぐだけのような気がして、なにも書くことができない。
どうしよう、どうしよう。
私は思わず萩本くんにメッセージを送ろうとして、思わずその手を止めてしまう。
萩本くんは、【カズスキー】さんは、なんにも悪くないのに。コメント欄の過半数は【カズスキー】さんのファンみたいなのに、その中で萩本くんに誹謗中傷されたと訴えたら、彼が傷付いてしまうかもしれない。彼にそんな目に遭って欲しくはなかった。
私は一旦外に出た。本当はまだ予約時間は残っているけれど、歌う気にはこれっぽっちもなれなかったから、今は家に帰って自室に避難したかったんだ。
私のアカウントの動画のコメント欄は、悪質な書き込みで埋め尽くされていく。
これを消していいのかどうかがわからず、私はただそれを眺めることしかできなかった。
私にとって、歌うことは息をすることと一緒だった。しゃべることが苦手で、自己主張することができなくて、自分が好きなものを好きだと言い切ることができなかった。
昔、私の描いた絵を「なんかへん」と言われたことを思い出した。言った子はきっと悪意がなく、素直な感想だったんだろう。でも私は傷付いたし、それ以降なるべく自分の好きなもののことは、誰かに馬鹿にされたくない一心で言葉にすることができなくなってしまった。
私が好きだと言ったから。私の歌が、悪意で染まっていく。
なにやらアカウントにメッセージが来ているけれど、それを怖くて見ることができなかった。
どうしよう。どうしよう。
このことを萩本くんに相談しようかと思ったけれど、私は思わず止まってしまった。
【カズスキー様に対してなれなれしいのよ】
ファンの子の言葉を、暴言と切って捨てることはできなかった。
だって、萩本くんは格好いいから。でもそれを口にすることは、私にはできなかった。
萩本くんは、自分のせいで周りが勝手に喧嘩するのに疲れ果てて、マスクで顔を覆って、歌を歌うことで自分の居場所をつくったのに、私が助けを求めたら、きっとまた自分のせいで人が喧嘩をしていると、傷付いてしまう。
だったら……私が我慢するしかないじゃない。
「うう……」
結局私は見てられなくなって、スマホの電源を切り、ベッドで膝を抱えてしまった。
私の居場所がひとつ、失われてしまったような気がした。
****
どれだけ泣いても嘆いても、学校はある。
私がさんざん泣いたせいで、目が赤くなってしまい、起きてきたときにお母さんに「なんかあった?」と心配されたけれど、私は「なんにもないよ」としか言いようがなかった。
だから学校に通うけれど、教室に入った途端に、萩本くんがクラスの派手な女の子たちに取り囲まれているのが目に入ってしまった。
「ねえねえ、萩本って歌上手いの?」
「この間カラオケ行ってたの見たよ。なに歌ってんの?」
萩本くんは、黒いマスクで顔を覆っているせいか、クラスの半分くらいは怖がって近付かない。学校の先生たちにあれこれ言われているのを右から左に受け流しているのを見たら、不良のレッテルを貼られてしまうからかもしれない。
だから今まで放置されていたというのに、普段私に掃除を頼んでくる子たちは、そういうのを無視する……あの子たちは校則をギリギリのところで誤魔化し続けているから、萩本くんみたいに思いっきり真っ正面から破っている子に興味があるんだろう。
女子に取り囲まれた萩本くんは、眉根をひそめてしまい、ただ椅子に足を投げ出して、なにも見てない聞こえてないという姿勢を維持する構えのようだった。
私が見ているのに気付いたのか、派手な女の子のひとりがこっちを見てニヤリと笑った……なに? そう思っていたのも束の間。
「昨日一緒にいた子誰? 私立の女子校の子だよね?」
それに私は言葉を詰まらせる。
……中学時代はモテていたと本人が言っていたんだ。中学時代から萩本くんのことを好きで、学校を離れても諦めてない子だって、そりゃいるだろう。
女の子の質問に、クラスが少しだけざわつく。今はなにかあったらすぐにアプリで拡散されてしまうご時世だから、皆、知っているようで案外人間関係を知らない。一度口にしたことは、すぐに拡散されてしまう以上、大事なことは全部電話や直接会って会話をし、アプリで記録されないようにするからだ。
「ええ、萩本。まさかの他校に彼女?」
「マジかあ……格好いいもんな、黒マスク」
「やっぱり世の中、品行方正よりチョイ悪かあ……」
僻み、妬み、好奇心。
それがアプリの悪意あるコメントのように、一気に教室内に拡散していく。
やめて。やめてやめて。違うよ。
萩本くんは、たしかに校則を破るよ。でも、不良じゃないよ。いい人だよ。他校の女の子のことは知らないけど、周りが面白可笑しく突き回していいもんじゃないよ。
私はなんとか声に出そうとするけれど。教室の人口は五十人と少し。それを前にすると、足が竦んだ。喉に声がへばりついて、なにも言葉にならない。私が必死に言葉を紡ごうとしている中。
とうとう萩本くんが立ち上がった。そのまま女子を無視して、廊下に出てしまう。あと少しで予鈴が鳴るけれど、そのままスタスタと歩いて行ってしまう。
「あ……」
私はなにか言わないとと思って萩本くんの背中を見ていても、普段一緒にいても見たことのない横顔をしている彼の背中を見ていたら、なにも言えなかった。
目の近くにいっぱい皺をつくって、いろんな感情に必死に耐えている顔だった。私はそのまま立ち尽くしている中。
「行かなくていいの?」
気付けば清水さんが私の席の近くまで来て、立って廊下を見送っていた。
「で、でも……もうすぐ予鈴……」
「生理前だったら保健室に行って寝ててもおかしくないでしょ。先生には保健室って言っておくけど」
そうボソリと提案する清水さんに私は目をパチンとした。
彼女は悪い付き合いはなるべくしないって言っていた。だからこそ、校則の抜け道をわかっている人なんだ……あの校則の穴を突いて誤魔化している子たちと同じ。
私は小さく「ありがとう」とお礼を言って、そのまま廊下に出て行った。
いつもの場所まで歩いて行く。もう廊下はすっかりと人がはけてしまっているから、走ると廊下に足音が響く。これじゃあ先生に見つかってしまう。
いつもの校舎。いつもの階段。そこまで足早に行ったところで、私よりもだいぶ大きな靴を見た。
「萩本くん」
私の声に、萩本くんは返事をしてくれなかった。仕方がなく、私は階段を上がる。
階段の最上階で、萩本くんは体を投げ出して寝転んでいた。目はうつろで、天井を向いているはずなのに、どこも見てないように見えた。私はその隣に腰を落とすと、ようやく萩本くんはこちらを見た。
「大丈夫?」
「……ごめん」
「謝るのはどうして? 私のほうこそ……ごめん。教室でなにか言えばよかったのに、なにも言えなくって」
「でも言えることってなにもないでしょう? だって俺と山中さん、なんにもないよ? ただ放課後に一緒にカラオケに行って、一緒に歌って、たまにコラボしたり紹介しているだけの仲。友達ってほど近い距離じゃないし、付き合ってもいないでしょう?」
その言葉に、私は本当になにも言えなくなってしまった。萩本くんがさも当たり前のように、淡々とした言葉で続けてくれたら、私もなにか言えたかもしれないけれど。
まるで萩本くんは、そうなんだと言い聞かせているようだったから。
「そんなに嫌なんだ? 誰かと付き合ってるって思われるの」
「うん。やだ。そのせいで、友達みぃーんな、いなくなった。付き合ってもいないのに、勝手に噂を流されて、それを違うって言ったら、今度は卑怯者呼ばわり。加害者に親切な国は、被害者にはちっとも親切じゃない」
「言葉、大き過ぎるよ。でも気持ちはわかる」
私は頬杖をついて萩本くんを見た。相変わらず萩本くんは、こちらをぼんやりとした表情で見るばかりで、なにも言わない。
私は口を開いた。
「してないことを、さもしているように言われるのってやだもんね。でも無神経なことを言ったほうが、自分の言葉をすぐ忘れるんだ。燃費がよ過ぎる」
「あるある」
「アプリとかだと、そんな無神経な言葉でも、忘れたくっても忘れられないのにね」
「なんか言われた? 昨日は慌ただしくって、【カイリ】さんのアカウント、確認できなかったんだけど」
そう言われてしまい、私は困る。
クラスの子たちが言っていた、女子校の女の子の話だってまだ聞けてないのに。これ以上萩本くんに負荷をかけて大丈夫なんだろうか。私だったらきっと圧迫してしまうのに。
でも萩本くんは、ようやく起き上がると、ジャケットの背中についた埃をベシベシと叩いてはたき落としたので、聞く気にはなってくれたみたいだ。
「……なんかね、私【カズスキー】さんに対してなれなれし過ぎるって。ファンの子たちに思いっきり罵倒されたの。気持ちはわかるよ。だって、【カイリ】は別に有名歌い手じゃないもの。いきなりオリジナル曲でコラボして、何様って思われても仕方がないよ。コメントを消していいのかどうかもわからなくって、昨日は全然歌をアップできなかった」
私がポツンポツンと漏らした言葉に、萩本くんは困ったように眉根を寄せてしまった。……こんな顔をさせたくなかったから、言いたくなかったのに。私は全部吐き出したあとになって、後悔してしまう。
「……ごめん」
「どうして謝るの。私が弱小アカウントだから、仕方ないよ」
「だって、俺が【カイリ】さんの歌を素敵だって思ったから、いろんな人に聴いて欲しかっただけなのに。それで山中さんを傷付ける気なんてなかったのに」
「……嬉しかったよ。たくさん素敵な歌い手さんがいる中で、私を見つけてくれて」
「ごめん……本当に、ごめん」
そう謝られてしまったら、あれだけ怖くて泣いていたのが、嘘のように気持ちが凪いだ。
「……ううん、私が今まで、炎上に慣れてなかったから」
「でも……これで山中さんがしんどいんだったら大変だから……俺の炎上はあんまり参考にならないし」
「……【カズスキー】さんも炎上してたの?」
あんまり炎上しているようなコメント欄は、怖くてなるべく見ないようにしていたから、少し驚いた。それに萩本くんは「うん」と答える。
「なんかうるさいなあと思って、アプリのコメント欄を見えなくするツール使って、無視して歌い続けてた。歌い続けてたら勝手にそういう人がいなくなっちゃったから。他のSNSでも、なんかやだなあと思ったら、迷わず見えなくする癖付いてたから」
「……それ、強過ぎないかな」
「そう?」
そりゃかなたんさんもマキビシさんも、ふたり揃って【カズスキー】さんは図太過ぎると言い張るはずだと、少しだけおかしくなって笑ってしまった。
でも……私がやるとなったら無理だ。コメントを消すことすら、怖くてできないのに。
「うーん……でもこのまんまだったら【カイリ】さんのアカウント見られないよね。この辺りは、かなたんさんやマキビシさんに相談しようか」
「め、いわく、かからないかな。ふたりとも、プロのアーティストでしょう?」
「でもふたりとも、商売道具のアプリやSNSの炎上については詳しいよ。それが炎上しちゃったら、仕事にならないから。メッセージくらいだったら迷惑にならないと思う」
そう言って、さっさとふたりに【カイリ】のアカウントが炎上していることを連絡した。
こういうとき、萩本くんって頼もしいんだなと思いながら、私は胸を押さえる。でも……。女子校の子については、まだひと言も聞けていなかった。
【カイリ】のアカウントの炎上について、かなたんさんとマキビシさんにそれぞれメッセージを送ったら、「皆で相談しよう」とパソコンでチャットツールを使って会議をすることとなった。
一応学校の授業で行うものの、日常だとあんまり使わないチャットツールにアワアワとしていたら、それらの使い方をスマホのメッセージアプリでかなたんさんが逐一解説してくれたおかげで、どうにかセット完了した。
【カイリさんのアカウントを確認したけれど、あれはカズくんのファンのやっかみだねえ】
かなたんさんが心底同情したように言う。実際にスマホのアプリでも、私が連絡した途端に心配そうに【大丈夫?】【自分のアカウントが炎上するのはしんどいよね】と気遣いの文章と一緒に何個も心配しているスタンプを送られてきたから、文章だけでも充分こちらに寄り添ってくれているのが伝わってくる。
一方マキビシさんは冷静だ。
【でもこのままだとカイリさん、次の動画上げられないでしょ。一応コメント欄を見えなくするツールもあるから、それを使ってコメント欄を遮断して動画をアップするという方法もあるけど】
【それはカズスキーさんから聞きました。ただ、それでカズスキーさんのファンは納得するのかなと思います】
【嫉妬はねえ……被害者って基本的に自分が一番可哀想だから、加害者側に立った人に対してはなにをしてもいいって思っているから厄介なんだよ】
この辺りは前にオフ会で会った際にも、かなたんさんと一緒にさんざん愚痴っていた話だったから、ものすごく思うところあるみたい。
私は思わず尋ねてみた。
【マキビシさんのときは、どうやって対処したんですか?】
【自分? 訴訟した。弁護士通して相手アカウント選んで、アカウント情報請求してから、これのせいで逃げたクライアント分の被害の賠償請求の訴え起こした】
話が大き過ぎて、私は文章を打ち込むこともできずに固まっていたら、萩本くんのほうからツッコミが入った。
【俺たち現役高校生に、裁判起こせっていうのは、いくらなんでも無理ですよ。できないこともないでしょうけど、俺たちが高校生の内に決着付けられるかわかりませんし】
【そうだねえ、だいたいは荒らした犯人のひとりを吊し上げで訴えたら、それ以上はごめんなさいしてコメントやアカウントを削除するから、それでだいたい仕事しやすい環境は取り戻せるけど】
【高校生に大人の本気を見せつけないでくださいよ。そういうのを、大人げないって言うんですよ】
かなたんさんからもツッコミが入って、私は少しばかり上がった動悸が治まるのを感じた。こういうことができないと、これからも歌を歌うことはできないのかと怖くなったから。
マキビシさんは【それじゃあ】と別の提案をしてきた。
【原因がカナタさんとカズスキーくんの同時にアップした動画なんだから、カズスキーくんが声明を出すのが一番かなと思うけど。カズスキーくんは大丈夫?】
【大丈夫ですよ】
萩本くんが割とあっさりとそう言ってくれたのに、私は拍子抜けした。
……萩本くん、自分のことを好きな女の子たちが勝手に争って勝手に周りの空気を悪くしていくの苦手なのに、自分からそれを言うんだと、申し訳なくなる。
それにマキビシさんが指摘した。
【君、すごーく図太くって、ネットやっていくのには向いているけど、ファンにすぐ喧嘩売るから。言葉にはちゃんと気を付けなさい】
【あれって、ファンなんですか? 俺のファンって言っておきながら、俺が好きって言ったカナタさんのアカウントを滅茶苦茶にして。意味がわかんないんですよ】
【ほーらー! すぐそういうこと言うから! 駄目だからね。普通に誹謗中傷はやめるようにくらいに留めないと!】
私はふたりのやり取りをぼんやりと眺めている中。スマホのほうにかなたんさんからメッセージが入った。
【ごめんね。私たちが依頼したばかりに、おかしなことに巻き込んでしまって】
【いえ。かなたんさんもマキビシさんもちっとも悪くないです。私の要領が悪かったんで】
【私の高校生の頃、そんな大人な対応取れなかったかも。もっとうろたえてアカウント消して終わりだったと思うよ】
それは多分。私も萩本くんがいなかったら、かなたんさんが言ったことをそのまんまやってたんじゃないかな。
結局話し合いの末、【カズスキー】さんのアプリのアカウントで声明を出してから様子見ということになった。
訴訟は困るっていうのは、私も家族にアプリのアカウントで歌い手をやっていることを言っていないから、それがばれたらものすごく面倒臭くなるというのがある。炎上したのが原因で、私にとっての箱庭であるアプリのアカウントを奪われたくなかった。
自分のアプリのアカウントに、未だに戻れない。沈静化ってどれだけかかるんだろう。私は歌いたくって歌いたくってしょうがないのに。
パソコンの電源を落としてから、私はベッドで大の字に寝そべる。今日はお風呂で長風呂して、思いっきり歌おう。それだけを心に決めた。
****
私がアプリのアカウントのことでひとり悶々としている中でも、現実はやってくる。
教室に入ろうとすると「おはよう」と声をかけられたのだ。清水さんだ。
「おはよう……この前はありがとう」
「別に。萩本くんとは、その後大丈夫?」
「あ……」
そもそも私と萩本くんの関係って、清水さんにはどう見えているんだろう。まさかふたり揃って歌い手をやっているなんて言えないし。そもそも清水さんのご家族が警察関係者なんだったら、歌い手ってどういう風に見えているのかよくわからないや。
私はどう答えるべきかと視線をうろうろと彷徨わせていると、清水さんが溜息をついた。
「別に言いたくないんだったら言わなくてもいいけど」
「ご、ごめん……」
「ただ、ああいう子たちって、他人の人間関係を引っかき回すだけ引っかき回して知らんぷりするから、それだけは注意なさい。せめてあの子たちを黙らせるだけの言い訳くらいは、考えておいたら?」
あの子たちというのは、私に普段掃除を押しつけたり、萩本くんの人間関係をつつき回している子たちのことだろう。
私は「うん……」と溜息をついた。
「……他人のことって、そんなに面白いの? 自分の好きなことだけしてればいいのに」
「さあね。どうかしら。無趣味の人の趣味って、人間関係だから」
「それどういうこと?」
「誰かと誰かが付き合いはじめたとか、誰かと誰かが別れたとか。そういうのを面白がる趣味っていうのがあるらしいのよ」
「……不毛だね? なにか完成する訳でもないのに」
「そうね……なにかつくるのが趣味だったりするの?」
そう清水さんに尋ねられ、私は返答に迷う。
今の質問って、誘導尋問だったんだろうか。それとも。考え込んだ末に、ぼそぼそと口にしてみる。
「歌うのが……好きだから」
「ふうん。歌手になりたい、とか?」
「あ、そういうのは特になくって……ただ、歌を歌うのが好きで、なにかになりたいとかじゃなくって、ただ歌ってたいというか……」
「まあ、そりゃそうね。絵を描くのが好きだからって誰だって画家になりたい訳じゃないし、料理が得意だからって皆が皆料理人になりたい訳じゃないでしょうし。そう……私も歌は好きよ」
「え……」
清水さんはもっと固い人なのかと思っていた。思っていることが顔に出てしまったのか、清水さんは唇を尖らせる。
「なあに、私が普段そういうのに興味がなさそうと?」
「……ご、ごめんなさ、もっと家で、クラシックとか聴いているのかなとばかり……」
「私、クラシック聴いてると、だんだん眠くなっちゃうのよね」
その言い方がなんだかおかしくって、私は思わず「ぷっ」と噴き出してしまった。それに清水さんは釈然としない顔をした。
「それなら、今度一緒にカラオケに行きましょう。私、懐メロしか歌えないけど」
「わ、私も、有名な曲はそんなに歌えないけど、それでいいなら」
普段だったら。私にカラオケを教えてくれた萩本くんと一緒に歌の練習をしていたのに。今日は清水さんとカラオケだ。
久々に友達とカラオケに行くのが嬉しいというのと同時に、萩本くんに対しての申し訳なさが募る。私は教室でちらちらと萩本くんの席を見た。でも。
今日は来ていなかった。普段だったら、どちらかが席に着いたときに互いにちらっと目を合わせるくらいはするのに、それもできない。
昨日、私のアカウントの炎上問題を一緒にチャットツールで話をしたんだから、いたと思うのに……でも。
チャットツールだとカメラもマイクもないから、あのときの萩本くんの様子がわからない。体調が悪かったとか、なにかあったとか。
……それこそ、近所の女子校の女の子の話は、未だに聞けてないのだから。
授業が終わってから、私と清水さんでカラオケ屋に行くことにした。意外だと思ったのは、清水さんはカラオケ屋のアプリ会員になってきっちりポイントを溜めていたことだった。日頃からそういう習慣がなかった私にとっては、意外過ぎるものだった。
「……すごいね」
「そう? よく行くから。うちの親戚一同に絡まれないようにするためには、マイクを離さないようにするのが一番だから」
警察一家だと言っていた闇を感じるなと思いながら、私は聞かなかったふりをしていると。私たちと同じ自動ドアを可愛い制服の女の子が通っていった。地元で一番有名な女子校の制服は、どことなくイギリスの寄宿学校を思わせて華やかだ。
なにげなく見とれている中。
「あ、和也くん」
そう言って可愛らしい声で手を振った。制服だけでなく、ゆるふわに仕上げたセミロングのハーフアップといい、はにかんだ笑みといい、まるで少女マンガからそのまま抜け出たような子だなと感心していた視線の先を見て、私は思わず固まった。
今まで見たことない、有名スポーツメーカーのシャツにデニムという出で立ちで立っていた萩本くんだった。顔にはしっかりと黒いマスクで覆っているけれど、これだけ揃うと顔が見えなくても格好いいとわかってしまう。
私が固まっているのに、清水さんは怪訝な顔で、可愛い女子校の子と萩本くんが並んでいるのを見ていた。
「萩本くんと彼女さん……? あと山中さん大丈夫?」
心臓が痛い。ずっとギシギシと嫌な音を立てている。それに。
私の隣を擦り抜けていく萩本くんは、ちらりとも私のことを見なかった事実が苦しかった。
当たり前なことに気付いた。
私が清水さんとカラオケに行けるように、萩本くんだって誰かとカラオケに行けるんだっていうことに。
私にとって幸せだと感じていた、私と萩本くんがカラオケルームに入って一緒に歌うというのは、萩本くんにとっては誰とでもできることだったんだって。
目尻から涙が出そうになるけれど、係員の人に呼ばれるまで、私は必死に耐えていた。こんなところで泣いて、萩本くんを困らせたくはなかったから。
私たちが取った部屋は、少人数用の少々手狭な部屋だった。
それでもふたりで使うには充分の広さだった。そこに辿り着いた途端に、私はとうとう声を上げて泣き出してしまった。
それを清水さんは困ったように眉尻を下げてこちらを見つめてくる。
「……山中さん、泣くほど萩本くんが誰かとカラオケに行くの嫌だったんだ?」
そう尋ねられ、私は小さく頷いた。
「……入学したら、知らない人ばっかりで。上手くしゃべれないから、友達も全然できなくって」
「うん」
「歌を歌うことだけだったんだよ……自分のこと好きになれたのは」
「それを、萩本くんと?」
さすがにアプリのことや歌い手のことは、清水さんには言えなかったけれど。私は大きく頷いた。
萩本くんは歌い手として、いろんな人と歌ったり舞台に立ったりコラボをしたりしているけれど、私はそうじゃないんだよ。
私はひとりで勝手に歌っていて、その勝手に歌っていた私を褒めて、コラボに誘ってくれたのは萩本くんだけなんだよ。
萩本くんにとっては大したことなかったかもしれないけれど、私にとっては本当にかけがえのない時間だったんだよ。
「ひとりで歌ってたら、その歌をずっと褒めてくれて……嬉しくって……一緒にカラオケで歌うようになったの……楽しくって……大切な時間だったんだけど……でも……」
萩本くんにとっては、そうでなかったのかもしれない。
私が清水さんとカラオケに行くように、萩本くんだって誰かとカラオケに行ける。そう突きつけられたことが、そんなにショックだったなんて私も気付かなかった。
清水さんは「なんというか」と口を開く。
「恋愛ってもっとギラギラしているものだと思っていたから、山中さんと萩本くんを見ててそれだけじゃないんだって、今知って驚いている」
「……ギラギラ?」
「ふたりとも、そういうのじゃ全然ないじゃない。女子も男子も、タイプの子がいたら肉食獣が草食動物追いかけるみたいにグイグイいくのに、ふたりとも互いのことを周りに全く離さずにこっそりと一緒の時間を築いていって、そういうのっていいなと思ったの。私、家の都合で多分そういう恋愛なかなかできないだろうから、余計に羨ましく思えた」
そう清水さんは頬杖をついて言った。
私は思わず自分の目尻を拭う。
「……私、萩本くんのこと、好きだったのかな」
「違ったの? 他の人と歌うのが泣くほど嫌がるのは、もう好きなのかとばかり思ってたけど」
言われてしまったら、ストンと腑に落ちてしまった。
私にとって大切でかけがえのない時間に、できるだけ名前を付けたくなくて、見て見ぬふりをしていた。でも……。
「……萩元くん、中学時代大変だったんだって」
「大変って……?」
「人間関係壊れまくって、各方面から恨まれてたって。その……もて過ぎてて」
「なるほどね……好かれた女子を狙ってた男子にも、振られた女子にも恨まれて、嫌な噂を撒き散らされたっていう奴ね」
「……うん。だから私……抱えているのがつらいからって理由だけで、言えないよ。萩本くんがつらいのは、嫌だから」
「なるほどねえ……山中さんと萩本くんの関係は、山中さんの犠牲で成り立っている訳だ」
「へっ?」
意外過ぎる感想に、私は思わず声が裏返る。清水さんはドリンクバーで汲んできたアイスティーを流し飲みしてから告げる。
「だって、高校生活って三年間しかないのよ? 恋愛するのがしんどいから、好きと絶対言わない相手をキープとして置いておくって、そんなひどいことある? もしかすると山中さんが他の人好きになるかもしれないのに」
「えっと……大袈裟じゃないかな。多分萩本くんも、私のことなんとも思ってないから、教えてくれたんだし……」
「尚のこと駄目よ。気は変わるものなんだから。人の好意や善意に甘え過ぎてる」
本当に思ってもいなかったことを言われてしまい、私は途端に挙動不審になる。自分ではそんなこと考えてもみなかったから。好きだからと言って、これでどうこうするつもりはなかった。
だから、あの女子校の女の子のことを、本当だったら私はとやかく言える立場ではないんだ。だって、付き合ってもいないのに、人が誰かと一緒にいたことについて、なにも言える訳ないじゃない。
私が押し黙っている中、清水さんは続けた。
「だからさ、一度きちんと萩本くんと話し合ったほうがいいんじゃない?」
「……なにを言えばいいんだろう。私、付き合いたいとか、そんなんはちっともないのに」
「一緒に歌いたいって素直に言ってみたら? あ、私も山中さんの歌を聴きたい。曲どんなもの歌うの?」
そう言いながら、清水さんはようやくタッチタブレットを持ってきて私に見せてくれた。迷った末に、私は萩本くんと初めて会ったときに歌った曲を入れた。清水さんが入れたのは本当に懐メロで、90年代の曲だった。
ふたりでカラオケを歌って帰って行く。
萩本くんとだったら、どんな歌い方とか、どんな練習をしているとか話ができるけれど、清水さんとは歌の方向ではちっとも話が弾まなかった。
それでも清水さんは会計を済ませたあとに「また行こう」と誘ってくれた。
「あんまり歌えないから、懐メロを歌うと古臭いを連呼されて」
「そんなことは……」
「だって私たち生まれてくる前の曲じゃない」
そう言われるとグーの音も出ず、私たちは家に帰っていった。
****
家に帰ってからというもの、私はゴロゴロとベッドを転がっていた。
アプリを確認するべきか、しないべきか。一応萩本くんがメッセージ出す手はずになっていたけれど、本当になんとかなったんだろうか。
私は見るべきか見ないべきかで、スマホに手を伸ばすのを躊躇っていたら、いきなり通信アプリの着信音がついた。
確認してみると、かなたんさんからだった。
【カイリさんのアカウント、だいぶ綺麗になったと思いますよ】
【あまり気負いせずに歌ってくださいね】
そのひと言に、じんわりと胸が熱くなる。
別に閲覧数が増えなくっても気にしなかった。別に閲覧数が増えたからと言って、どうこうする気なんてこれっぽっちもなかった。それでも、誹謗中傷のコメントが怖かった。
私は恐る恐るアプリを起動させると、自分のアカウントの感想欄を眺めてみる。
「あ、あれ……?」
あれだけ誹謗中傷で賑わっていた私のアカウントは、コメントが綺麗さっぱりなくなっていた。萩本くんやマキビシさんが言っていたコメント欄を見えなくするアプリも使っていないのに、思いっきり。
私はびっくりしてかなたんさんにメッセージを送信する。
【あれだけたくさんあった誹謗中傷コメントが全部消えたんですけど】
【これってどういうことでしょうか?】
すぐにかなたんさんから返事が来た。どこかのアドレスも送付してある。
【あれねえ、カズくんがメッセージを流したら、慌てて削除したみたいで】
【一応アドレスは載せておくけれど、ちょっとびっくりするかもね】
びっくりするようなことって、萩本くんはいったいなにをやらかしたんだろう。私は怪訝な思いで、かなたんさんが上げたアドレスを押してみた。
押して出てきたのは、【カズスキー】さんのひと言SNSのホームだった。SNSがよくわからなくって未だにアカウントを持っていないけれど、そこの一番上に固定されてあるメッセージを見て、私は思わず目が点になってしまった。
【カイリさんの誹謗中傷について
先日コラボ動画をアプリにアップした際、コラボ相手のカイリさんに突撃する方々がおられて困惑しておりました。
彼女はとても歌の上手い僕のパートナーです。彼女への誹謗中傷はお止めください。
もしそれでも続ける場合は、弁護士に相談します。】
弁護士に相談するなんて、マキビシさんの提案に真っ向から萩本くん本人が否定する話だったはずなのに。どうして。
【カズスキーさん、私のこと思いっきり庇ってくれたんですねえ……】
【いやいやいや、カイリさん。もうちょっと調子に乗ろうね? だって朴念仁のカズくんが、コラボ相手の歌い手のことをパートナーって呼ぶのは、よっぽどのことだから】
そうかなたんさんに指摘され、私はもう一度【カズスキー】さんのコメントに目を通す。
歌ってないことにはとことん無頓着な私は、こんなことを考えていたのかという軽い衝撃を覚えていた。
【カズスキーさん、コメントしたこと、後悔してないでしょうか……】
【あれ? カイリさんはどうしてそう思うのかな?】
【カズスキーさん、最近仲のいい女の子がいますんで。その子のことを最優先にしてますから、彼女さんに勘違いされたら、困るんじゃないかと】
【ええ? 朴念仁のカズくんが?】
それにはかなたんさんも意外みたいだった。かなたんさんはポンポンとスタンプと一緒に言葉を送ってくる。
【この辺りは直接通話で聞きたいけど、通話は大丈夫?】
そう尋ねられて、私は【はい】と送信したら、その直後に私のスマホはブワンブワンと震えた。
『もしもし、通話でごめんね。大丈夫?』
「ええっと……大丈夫です。はい」
『ごめんね。この手の相談って、本当だったら直接会ってしたほうがいいと思うけど、私もなかなかそっちには行けないから。メールやアプリだと、咀嚼違いで大変なことになっちゃつお思うから、そこでは相談しないほうがいいと思うから』
かなたんさんの優しい気遣いに、こちらもじんわりと胸が熱くなる。思えばかなたんさんは炎上騒動のときもずっと気遣ってスタンプを送ってくれてた人だった。
「……最近【カズスキー】さんと全然お話しできてないんです」
『うん? 確か【カズ】くんと【カイリ】さん同じ学校だったよね?』
「はい……最近全然会わないんで、話もできてません。それに最近、地元だと一番有名な女子校の子と一緒にいてばかりで……」
『はあ? 【カズ】くん女子と本当におしゃべりできない子なのに?』
かなたんさんの声は裏返っている。旧知の仲らしいかなたんさんから見ても、この数日の萩本くんの行動は不可解に思えるらしい。
それにかなたんさんは『んーんーんーんー……』と考え込むように唸り声を上げてきた
。
『あの子顔を見られるの嫌がるでしょう? でも未だにマスクを取らないと失礼、みたいなマナーが普及されてる。意味わかる?』
「ええっと……ごめんなさい、よくわかりません」
『学校以外でだったら、慣れた相手にしかマスク姿でずっといたくないってこと。学校でマスクをしてるのだって、喉だけじゃなくって人避けの意味も込められてるんでしょうしね』
それは思い当たる節があった。
クラスでも特定の人と一緒にいたがらないし、派手な子たちとは完全に距離を置いていた。私は既に萩本くんの素顔を知っているけれど、あれをずっと隠し通したいほどには、萩本くんは追い詰められているようだった。
かなたんさんは続ける。
『歌い手のライブのときも、スタッフさんからさんざんマスクを外すよう懇願されたけど、最後まで外さなかったの。自分の素顔が原因でトラブル発生して、ライブを台無しにしたくなかったんでしょうしね』
「でも……マスクを続けてますね?」
『仲のいい相手はマスクをしていても許しちゃうから。多分【カイリ】さんだったら許してくれるという甘えがあったんでしょうね。でもクラスの子たちはそうじゃないから、距離を置いてたんじゃない?』
「多分……あの、つまりは」
『これ以上はこちらの当てずっぽうになっちゃうから、直接【カズ】くんに聞いたほうがいいと思うな。大丈夫、悪いようにはならないから』
趣味も見た目も背景も違うのに、かなたんさんの温かい励ましは、清水さんのものとよく似ていた。
次の日。私はいつもよりも早く起きて、テキパキと学校に行く準備を整えた。
「なに? 今日はなにかの当番?」
「う、うん。そう! お弁当も自分でつくったから大丈夫だよ!」
とりあえず昨日の残り物のおかずを弁当に詰め、ご飯も入れておいた。私は急いで荷物をまとめて、学校へと向かう。
萩本くんとちゃんと話をしないと。そう思っていたとき。
私は通りを見て、目を見開いた。
道路を挟んだ向こうに、女子校の制服を着た可愛い子と萩本くんが歩いている。萩本くんは私のほうに気付いたみたいだ。彼は周りをきょろきょろとしたあと、マスクを外した。
「ごめん、先に学校に行ってて」
「え……」
隣の女の子は、萩本くんの端正な顔つきを見ても、なんの反応も示さなかった。ということは、彼女も萩本くんの素顔を知っているんだ。そう考えたら、またももやもやしたものが走ったけれど。
萩本くんはその子と一緒に連れ添って出かけていった。
そこで私は気付いた。
「……萩本くん、どこに行くんだろう」
学校は反対側で、あちらの道は有名女子校の方角のはずだ。女子校の校則は知らないけれど、大概の学校は部外者と一緒に学校に行ったら困るんじゃ……。
私はなにも言えずに、ただ黙って見送ってから、学校に向かった。
もしかして私、勘違いしている? なにかに。
上手く頭に入らず、ただもやもやしたものを抱えながら、私は学校へと急いで行った。
****
学校に着くと、まだ教室に他の子たちがいないのを確認してから、私はいつもの階段へと向かう。学校の先生たちもまだまばらだから、階段に座り込んでいても誰もなにも言うことはない。
私はひとりで膝を抱えてぼんやりとする。萩本くんとあの子。どういう関係なんだろう。
ただの道案内とか……ただの道案内の子と一緒にカラオケになんか行かない。
元同級生とか……萩本くんの中学時代の話を聞いている限り、ただの女友達がいたんだったら、マスクで顔を隠す現状はなかったと思う。
元カノ……いくらなんでも、それは飛躍し過ぎかも。
どうにか自分の中で都合のいい話をつくろうとすればするほど、「そんな上手い話なんてある訳ないよ」と却下されていき、心の中がどん詰まりになってしまう。
萩本くん、まだかなあ……。そう思いながら膝に頭を乗っけて座っていたら。
ゼイゼイという苦しそうな息が聴こえて、思わず顔を上げる。萩本くんが、息を切らしてゼイゼイと息をしていたのだ。苦しかったのか、普段はしっかりとしているマスクまで指を突っ込んで空けてしまっている。
「萩本くん……」
「……ごめん。全然、勘違いさせるつもりは、なくって……」
「えっと……勘違いってなに?」
「ごめん……羽仁花に言われるまで気付かなかった。勘違いさせているって」
「はにか……羽仁花さん?」
さっきの可愛い女の子が頭に浮かび、途端にもやもやとしたものが胸にひしめくけれど、それは萩本くんの言葉で霧散した。
「羽仁花。俺の従姉妹」
「え……従姉妹……さん?」
下の名前で呼んでいる。かなり親しげ。マスクを外した顔にも無反応。
……親戚だったら、たしかに当たり前の反応だった。でも……。従姉妹とは、普通に結婚ができるから……。
私はなにか言おうか思案していた中、萩本くんが言った。
「あいつ、最近痴漢に遭ってたから」
「……はあっ?」
「……ごめん。そういう話って、いきなり言われたら驚くし、怖がるかもしれないから、黙ってた。そしたら羽仁花にものすごく怒られた。こういうところが、俺の誤解されやすい部分だから、きちんと説明したほうがいいって」
そこから萩本くんは、淡々と説明してくれた。
唐突に帰らないといけなくなったのは、羽仁花さんが部活帰りに痴漢されたから交番に逃げ込んだのに、迎えに行ける人がいなかったから迎えに行っていたこと。それからしばらくの間は、羽仁花さんが怖がって外に出られなくなっていたから、送り迎えをしていたこと。
「それは……」
「……山中さん、ただでさえ、アプリのコメント欄が炎上していたのに加えて、身内の痴漢騒ぎの話をしたら、余計に怖がって歌えなくなるんじゃと思ったら、それは駄目だろうと思って言えなかった。ごめん」
「……あのね、そこで謝らないで」
むしろ謝られるほうがキツイ。
「私、萩本くんが思っているほど、心配性じゃないし、むしろ自己中だよ? 萩本くんほど、当たり前に気遣いできないよ?」
そんなつもりはなかったのに、あまりにも自分が恋愛脳だったのかと思い知らされて、恥ずかしさでいっぱいなんだから、私は謝られる義理はない。
清水さんは「萩本くんは山中さんに甘え過ぎ」なんて言っていたけれど、きっとそんなことはない。
女性に対する不信感を募らせている萩本くんに甘えてしまっていたのは、むしろ私のほうだ。勝手に安心していたんだから。彼は誰かのことを好きになることはないだろうって。萩本くんの気持ちは萩本くんのもので、私のものじゃないのに、勝手に決めつけてしまっていたんだから。
萩本くんはそんな私の言葉に、本当にキョトンとした顔をしていた。
「山中さん?」
「私、萩本くんのことが……好きです」
萩本くんは黙って私をマジマジと見ていた。
世の中の人は、どれだけ人に好意の言葉を口にしているんだろう。私はいっぱいいっぱいになって、先の言葉はまるで言い訳じみていてみっともない。
「【カズスキー】さんの歌が素敵で、ずっとアプリで聴きながら、一緒に歌っていたの。ゴミ捨てのときにたまたま私の歌を聴いて声をかけてくれたのが、その……よかったなあって思ってる」
みっともない言葉。
「私、褒められるところなんてちっともないって思ってたのに、萩本くんがどんどん褒めてくれて……嬉しくなっちゃってね。歌を歌うのが、前よりも楽しくなったの……だから、コメント欄が炎上したのも、調子に乗ったからだって、思い詰めていた。多分萩本くんがいなかったら、私また歌えなかったと思う」
みっともない気持ち。
「……大変そうなのを見て、勝手に安心して、不安になったから口にして、ごめんなさい。本当に……ごめんなさい」
みっともない告白。
告白した直後に謝るのは、あまりにも無神経だ。
口にした途端に、綺麗な告白と一緒に、汚泥のような言い訳が纏わり付いた。みっともなさ過ぎて、一分前に戻れるんだったら、今すぐにでも取り消してしまいたい。でも、取り消すことなんて当然できなくて、私は思っていたことを一気に吐き出していた。
それを途中で中断させることなく、黙って萩本くんは聞いていた。
……ほら、私の自己満足に、萩本くんが困っている。本当に私さえ我慢していたら上手くいくはずだったのに。そう思っても、清水さんの鼻で笑う声が頭に残る。
『山中さんと萩本くんの関係は、山中さんの犠牲で成り立っている訳だ』
私も萩本くんも、どちらが我慢しても、どちらが犠牲になっても、どうしようもないんだと思うよ。
しばらく黙って聞いていた萩本くんは、「山中さん」とようやく口を開いた。マスクを完全に外して、ポケットにねじ込んでいる。
浮かんでいる表情は、困惑のひと言。視線は戸惑うように揺れ動いているのに、それでも私のほうに向けている。
……そうか、私。フラれるんだな。萩本くんは、周りが勝手に人間関係を悪化させていたと言っていた。あのときも、萩本くんの気持ちは置いてけぼりで、勝手に周りが盛り上がってしまい、勝手に周りが炎上し、彼ひとりを残して焼け野原になってしまったらしい。
今は私ひとりしかいない。今だったら、初めて萩本くんもフることができるだろう。
彼からしてみれば嫌かもしれないけれど、私は初めて彼にフラれた人間となればいいのにとぼんやりと思う。
汚泥のような言い訳でズブズブになっている私は、覚悟して彼を凝視した。
やがて萩本くんは、唐突に私の手を取ってきた。
……へ?
今まで、どれだけ近くに寄ったとしても、せいぜい一緒にスマホで音楽を聴いたり、肩を寄せ合って一緒にカラオケをしたくらいだ。それでも。手を取られたことなんてなかった。
「……俺、多分重いと思う」
「重いって?」
「……周りが勝手に盛り上がって、周りが勝手に喧嘩して、結果として誰も残らなかったから。前に【カイリ】さんのコメント欄が炎上したのだって、勝手に盛り上がって、勝手に妄想の中で【カズスキー】を祭り上げてしまっただけで、俺の気持ちなんて丸無視されたし。そんな勝手に人間関係が悪化して、勝手に浮くしかない状態で、俺だけを見て欲しいなんて虫のいい話、無理だと思うから」
「……私、萩本くんに、気持ちを押しつけたりしないよ?」
「でも、山中さん言い逃げしようとしている」
そう釘を刺されて、私は喉の奥で呻き声を上げた。図星だ。私は自己満足で告白して、それでおしまいにするつもりだった。
でも……これはどういう意味で萩本くんは言っているんだろう。
私はフラれるの? それとも……諦めないでいいの?
やがて萩本くんは、私の手を掴む力を強める。
「逃げないでよ。一緒にいてよ。もう俺、また勝手に盛り上がってひとりで放置されるのヤだよ」
その吐き出すような言葉。
彼はかなたんさんにも、マキビシさんにもさんざん「図太い」って言われていたけれど、もしかして図太いというよりも、人に対して期待するのを諦めてしまったから開き直っていただけなのでは……とふと気付いた。
顔のせいで、勝手に周りから遠巻きにされていた。歌声のせいで、勝手に周りが祭り上げてしまった。……どちらも、萩本くんが寂しがっていることに気付きもせずに。
「……あのね、萩本くん」
「なに?」
「私、好き以外に全然上手い言葉が思いつかなくって」
「うん」
私は漠然と思ってしまった。
「でもね……歌うことはできるよ」
彼をひとりぼっちにしたくないなあと。
私は萩本くんにできることはあまりにも少ない。私はようやくランキングに乗るようになった歌い手で、力は全然及ばないし。
教室でも可もなく不可もない成績だし、人の顔と名前が一致しないくらいには、物覚えも悪いし。
そんな私が唯一できることは、歌うことだけだ。
私と萩本くんが揃って教室に戻ったら、派手なグループがあからさまにこちらを楽しげな顔で見ていた。
「あれ? 結局萩本くんと山中さんって付き合ってたの?」
周りから口笛がピューと飛ぶ。
いい加減、誰かと誰かが付き合っていたらと過程して喜ぶ真似、小学生と変わらないと誰か教えてあげて欲しい。
清水さんは心配そうに「大丈夫?」と寄ってきたのに、私は小さく会釈をする。萩本くんは私と清水さんを一瞥してから、無視して自分の席に着いた。
私たちがなにも答えないのが面白くなかったのか、「ねえ、どうなの?」と聞いてくる。いい加減にしつこい。だからと言って、なにをどう答えても勝手に話をつくられるような気がして、迂闊なことも言えない。
どうしようと思って黙りこくっていたら、先に口を開いたのは萩本くんだった。
「だったらなに?」
「えっ?」
今までの無愛想具合を考えれば、返事をしてくるなんて微塵にも思わなかったんだろう。萩本くんはただじっと彼女と目を合わせた。
「俺と山中さんが付き合ってたら、悪い?」
普段から彼の物言いを聞いている私からしてみれば、別に普段通りだけれど、マスクを付けて淡々と話し出すと、不機嫌にも聴こえる。そのせいで、ダラダラと彼女は冷や汗を出しはじめた。
「え、ええっと……駄目じゃ、ない。です。はい……」
そのまま彼女はパッと自分のグループに逃げてしまった。周りも一瞬萩本くんが淡々としゃべった声で、勝手に不機嫌な話をつくり上げようとしたものの、表立って関わろうとする気はなくなったらしく、これ以上は視線を集めることもなかった。
ある程度事情を聞いていた清水さんだけは、冷静に私のほうに振り返っていた。
「そうなの?」
「うーん……どうなんだろうね?」
私たちは、互いに告白をしただけ。
自分から重いって言ってきた萩本くんと、本当に情けない告白をした私。まだ手を繋いだくらいで、それ以上のことは本当になにもしていない。
付き合うって言ってもなにをすればいいんだろう。カラオケに行ったり、遊びに行ったり。なにをすれば付き合うってことになるのか、いまいちピンと来なかった。
それでも清水さんは、少しだけ胸を撫で下ろしていた。
「でもよかったじゃない。嬉しそうよ、山中さん」
「……そうなのかな」
「そうよ」
萩本くんの問題って、とっても厄介だ。顔を出した途端に人間関係が壊れてしまうと怖れて、マスクを外したがらないんだから。実際にそれでさんざんな中学生活を送っていたのなら仕方ないだろう。
私は私で、上手くしゃべれないし、もっと気の利いたことを言ったほうがいい場面でも言葉が出てこない。
そんなでこぼこの私たちだけれど、ゆっくりと変わっていくしかないんだろう。
****
私と萩本くんが付き合いはじめたことは、一応かなたんさんとマキビシさんにはチャットアプリを通じて報告しておいたら、ふたりからやけに喜ばれてしまった。
【そうなんだ。でもいくら付き合いはじめて浮かれてるからって、動画でぽろっと情報出したらまずいからね】
マキビシさんにそうきっぱりと釘を刺された。それはなんとなくわかる。だって人気アイドルや有名俳優がお付き合いや結婚報道が流れた途端に、びっくりするくらいに炎上するもの。萩本くんは歌い手だけれど、そんじょそこらの歌い手でもないから、私と付き合っているとなったら、間違いなく私のアカウントがまた炎上する。
ひとりでさんざん泣いたのだから、あんな怖い想いはたくさんだ。
【わかってますよ。その辺りは特に言いません。カイリさんが歌えなくなったら、世界の損失ですし】
【カズスキーさんのファンの人に、また怒られたくないです】
私と萩本くんがそれぞれ言わない宣言をしていたら、かなたんさんはほのぼのとした文面を打ち込んでくる。
【そりゃそうだよね。今は事務所に入っている歌い手だって、プライベートの情報はなるべく出さないように気を付けてるから。そういうバックアップが期待できない個人はもっと気を付けないといけないから】
【わかってますよ】
ふたりのやり取りを見ていたら、マキビシさんが言葉を挟んできた。
【ところでカイリさん。前に言った次の曲をカズスキーくんと一緒に歌って欲しいって打診、考えてくれたかな?】
そう言われて、私は頭に浮かべる。
前のときは、弱小アカウントが調子に乗っていると思われたら怖くて、引き受けられなかった。実際にそのことで【カズスキー】さんのファンをさんざん怒らせてしまって炎上したし。でも。
私の中でゆっくりと意見は変わっていた。
【カズスキーさんがよかったら、引き受けますよ】
私の言葉に、スマホが鳴った。萩本くんからの通信アプリのメッセージだ。
【本当に大丈夫?】
炎上で怖がって泣いていたことを、萩本くんは知っているから。それがなんだか嬉しくって、手早くメッセージを返した。
【もう大丈夫。ひとりで炎上だったら怖くて仕方がなかったけれど、今はもうひとりじゃないから。だから歌っても平気】
【そっか。念のためコメント欄が見えなくなるアプリ教えるから、なにかあったら使って】
そう言って萩本くんは、動画アプリのコメント欄を閉鎖して見えなくするツールのアドレスを教えてくれた。
マキビシさんとかなたんさんは【まだ全部できてないけど】と言いながら、つくり途中の
曲のファイルを送ってくれた。
歌っているマキビシさんの声は相変わらず不思議と落ち着く音色で、それを聴きながら目を閉じた。
ひまわりの花が枯れて、種ができるまでの歌みたいだ。
ひまわりの大輪が枯れるというのは一見物悲しく感じるけれど、季節が変わる、来年もまたひまわりが見られる、蕾だった気持ちが実を結んだとも取れて、不思議と前向きになる曲調だ。
相変わらずおふたりは素敵な曲をつくる。
【それじゃあ、今度うちのスタジオにおいで。そこで曲を収録しよう】
マキビシさんにそう言われ、私はパソコンで返事を書く前に、あわあわと萩本くんにスマホでメッセージを送る。
【あの、マキビシさんのスタジオって、今まで萩本くんは言ったことあるの?】
【あるよ。前にオリジナルデビュー曲つくる際に、呼んでもらってそこで歌ったことがある。すっごく気持ちよかった】
【わあ】
【どうする? 緊張するんだったら、断ってもいいと思うけど】
【行ってみたい。そんな機会、もうないかもしれないから】
私がそう言うと、萩本くんはポンポンスタンプを送ってきた。これ、もしかして受けられているんだろうか。
そう思っている間に、萩本くんはさっさとチャットのほうに返事を書き込んでいた。
【裏で話をしてましたけど、カイリさんも行けるそうです。俺も久し振りに行ってみたいです】
【よしよし、おいで。楽しみにしてるから】
そう言われて、私はベッドに転がった。
予定日時は休日で、どう考えても私服で行かないといけない。思えば付き合いはじめて初めて私服で会うのだから、普段着じゃ駄目だろうと、なんとか服を考えないといけない。
どんな服を着よう。私は頑張ってベッドを起き上がって、のろのろとクローゼットを開いた。
今まで、デートなんてしたことがなかった。そもそも人と付き合うことだってはじめてだ。こういうのは清水さんに相談していいのかどうかさえわからず、自分で考えるしかない。
あわあわと服を探し出し、見つけてきたのは買ってもらったのはいいものの、どこで着ればいいのかわからず着るタイミングを逃していた真っ白なワンピースだった。下手したら井戸から出てきた幽霊みたいな装いになってしまうからと、どうにかサンダルと黒い小さめのリュックを用意して、幽霊っぽさを誤魔化した。
家の外では、ジリジリと虫の鳴き声が聴こえてくる。あれだけいろいろ詰め込まれていた長い春もすっかりと終わりを迎え、今は大気が存在感を誇っている夏へと切り替わりつつある。
夏も萩本くんと一緒にいられるのかと思ったら、少しだけ誇らしかった。
****
まだ少しだけ早い蝉の鳴き声が聴こえてくる。
あれかな、アスファルトが熱過ぎて、これ以上地面に埋まっていたら蒸し焼きにされてしまうと危機感を募らせて出てきちゃったのかな。
その蝉の鳴き声をぼんやりと聴きながら、空を仰いだ。
今年は空梅雨で、雨がちっとも降らなかった。そのせいなのか、大気がずいぶんと重くて湿気が体に纏わり付くような不快感を覚える。
私はワンピースにリュック、皮のサンダルの出で立ちで、待ち合わせ場所に立っていた。
「暑い……」
汗が背中にペタンと貼り付いてしまって落ち着かない。
デオドラントも流されてしまいそうだなあと、ぼんやりと考えていた先で。
「おはよう、今日は早いね」
聴き馴染みのある声に、私は振り返って少しだけ固まった。
萩本くんがシャツにデニムで立っていたのだけれど、前よりもスタイルが洗練されているように見える。スポーツメーカーの大きめのシャツに、少し穿き古した感じが洒落ているデニム。鞄はスポーツメーカーの腰バッグを斜めにぶら下げていた。そして相変わらず黒いマスクをしている。
「山中さん?」
「あ、うん……格好いいねと思って……でも暑そう。黒いマスクは夏にはきつくない?」
「黒だったら、あんまり照り返しがないから日焼けしないらしいんだけど」
「そうなの、知らなかったなあ」
他愛ない会話をしている中、萩本くんが私を上から下までじぃーっと見ているように感じ、思わず縮こまった。
変な組み合わせではないと思って着たけれど、一歩間違えたら幽霊扱いされそう。
そう思っていたら、萩本くんが「ふーん」と言った。
「ひまわり畑にいそう」
「はい?」
思ってもみなかった感想で、思わず声が裏返る。一方萩本くんはどこか楽しげだった。
「マキビシさんがつくった歌、ひまわりの花の歌だったから、そこからインスピレーション浮かんだの?」
「た、たまたまです……なに着ようと思って探してたら、出てきたので……」
「うん、山中さんに似合ってる」
あまりにもさらりと普通に言うものだから、こちらも照れていたたまれなくなる。その上、萩本くんは手を差し出してきたのだ。
「手、繋ぐ?」
「あああああ……暑くない? 手汗とか……」
「手汗? ああ、ごめん。拭いとく」
そう言いながら萩本くんは腰バッグからタオルハンカチを取り出して手を拭きはじめたので、ますますもっていたたまれない。
「私の手汗だから! 萩本くんのじゃないから!」
「そう? 俺は気にしないけど。俺が気にしないなら、手を繋いでいい?」
あまりにも普通に言うものだから、照れているのは私だけなのかと反省する。でもよくよく考えたら、前にも手を掴まれているから同じかもしれない。
「どうぞ」
私が手を差し出すと、それを萩本くんはきゅっと掴んだ。ふたり揃って手はぐっしょりと濡れていて、思わず互いに顔を見合わせて笑ってしまった。
私は萩本くんに案内されながら、マキビシさんのスタジオへと向かう。
てっきりスタジオというのは、どこかのビルでレンタルしているものだと思っていたけれど、近付いてきた大きな住宅街の中の大きな家を見て、私は唖然としてしまった。
庭には家庭菜園が広がり、季節の野菜が少しずつ成長している。大きな家は、私には三階建てに見える。
「あの……マキビシさん、家がすごい……」
「そりゃまあ。あの人。自分で曲を歌うだけでなく、あちこちのCMソングとかテーマソングとかでお金稼いでるから。あとあっちこっちで後進を育てるためのスクールもやっているから」
「そ……んな人が、私たちに曲をつくっていたの……?」
「でも家の大きさで、俺たちの歌の上手い下手って決まらないよね?」
私がひとりで震えている中、萩本くんは相変わらずの強靱な心臓を見せてくれた。私が震えている中でも、「大丈夫大丈夫」と繋いだ手を上からきゅーっと握ってくれ、そのおかげで少しだけ落ち着いた。
やがてチャイムを鳴らしたら、すぐにマキビシさんが出迎えてくれた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
「……お、邪魔、します……」
「あらぁ、【カイリ】さん怖がっちゃった?」
「えっと……すみませ、ん……」
私と萩本くんが手を繋いでいることもスルーして、さっさとマキビシさんは家に上げてくれた。もうしばらくしたら、かなたんさんもやってくる。こちらは手土産に小さな箱に有名洋菓子店のドーナッツをふんだんに持ってきてくれた。
「こんにちはー。全員揃いましたか?」
「うん。先に収録する? それとも、お菓子をお腹に入れたほうが歌いやすいかな? ちなみに空腹じゃないと歌えない子も、空腹のほうが歌える子もどちらもいるから、歌いやすいほうを選んでね」
そう言いながら、スタジオに入る前にリビングに通される。
どうも今日はご家族は買い出しに行っているらしく、庭にあからさまに駐車スペースがあるにもかかわらず車が停まってない上に、あちこちに家族写真が立てられていた。
マキビシさんは喉に関しては神経質になる萩本くんに気を遣ってか、出してくれたのは麦茶だった。
私が返答に困っていたら、かなたんさんはクスクスと笑う。
「【カズ】くんは間違いなく、食べてからじゃないと歌えない子ですけどねえ。普段から唐揚げ無茶苦茶食べてますし」
「いや、ドーナッツとかも好きです。喉に脂が入れば別になんでも」
「ほらぁー。ちなみに【カイリ】さんはどっち?」
「ええっと……私、あんまりお腹空く空かないで調子は考えたことがなくって……」
素直に薄情したら、萩本くんは指摘する。
「でも山中さん。緊張してるときに空腹だったら、余計に余計なこと考えるから、食べたほうがいいよ」
「うっ……」
相変わらず神経の太い言動で、私は妙に納得して、「それじゃあ、先にいただきます……」と皆でドーナッツを食べはじめた。
有名洋菓子店のドーナッツは、見た目はオーソドックスな形ながら、たしかに揚げてあるはずなのにしつこくない、卵の味が際立ったおいしさだ。そして意外なほどに麦茶と合う。
食べてから、手を洗わせてもらってから、スタジオへと向かう。
驚いたのは、スタジオは地下に存在したことだ。そもそも民家に地下室があるっていうのが珍しくて、私はひたすら挙動不審に辺りを見回してしまう。
私があたふたしている中、かなたんさんが助け船を出してくれた。
「【カイリ】さん、珍しい? 地下にスタジオって」
「えっと……スタジオっていうと、ビルの中にあるものだとばかり思ってたんで、そもそも住宅街にスタジオがあるなんて、知らなくって……」
「わかるー。私も初めてマキビシさんと一緒に他の歌い手さんに曲提供する際に、収録どうしようって誘われたとき、びっくりしたから」
「防音加工はどこでだってできるけど、家族団らんの場所にスタジオつくりたくなかったんですよ。子供が悪戯しない場所って言ったら、駐車場潰してスタジオつくるか、地下に増設するかの二択になりまして。奥さんに駐車場潰したら実家に帰ると言われたので地下になりました」
「なるほど……」
車を停めるスペースなくなったら、そりゃ怒るだろうしなあ。
私はそう納得しながら、スタジオに入った。ここは動画なんかでもよく見るような、ウッドテイストの部屋で、不思議と音が広がるような気がする。
音の調整機械。マイクの収録室。本当に本格的だなあ。
「それじゃあ、先にどっちから収録する?」
マキビシさんに促されてたら、萩本くんが「【カイリ】さん」と声をかけてきた。
「じゃんけん。最初はグー」
「えっと……じゃんけん」
私はパー。萩本くんはチョキ。
萩本くんは気怠げにチョキを出したまま「俺が行きます」とマスクを外した。
ガラス一枚隔てた収録室にスタスタと向かって、マイクの電源を入れる。
「それじゃ、音楽お願いします」
「はい」
途端に、先程までのドーナッツと麦茶を皆で囲んでいたまったりとした空気は、すぐに引き締まった。
萩本くんは双眸を細め、存外に長い睫毛を見せつけるようにしてマイクを睨むと、歌を歌いはじめた。
私は再生の歌だと思った歌は【カズスキー】さんにかかると、真夏の気怠げな空気と一緒に寂しさを纏わせるお別れの歌に聴こえる。あれだけヒマワリが咲き誇っていたのが一転、晩夏に入った途端に悲しくなってくる。
すごいなあ。同じ曲でも、こんなに変わるんだ。
表現力もアプローチも、これだけ変わるんだ。その引き出しに、私はついつい羨ましくなる。やがて、曲は余韻を残して終わりを迎える。曲を聴きながら抉られた部分はそのままに。
「どうでしたか?」
萩本くんが振り返ると、腕を組んでマキビシさんは考え込むそぶりを見せる。隣に座っていたかなたんさんは「すごかったよ」と声をかけてくれた。
「歌詞のイメージから、ヒマワリをここまで曇らせるなんて!」
「それ、褒めてますか?」
「どうしてもヒマワリって夏真っ盛りってイメージが拭いきれないから。でも本物のヒマワリだって、お盆シーズンに入ったらもう枯れかけてるのにねえ。夏の半分も乗り切れない」
「まあ……そうですね」
かなたんさんの言葉に萩本くんが相槌を打っている間に、「【カイリ】さん」とマキビシさんに声をかけられる。
「は、はい……」
「次入って。【カズスキー】くんのアプローチはあくまで彼のものだから。【カイリ】さんは【カイリ】さんのアプローチで歌って」
「は、はい……!」
後攻で入ると、ついつい萩本くんの歌と比べちゃうなあ。でも。
私が前に萩本くんに伝えたアプローチを思い返す。
晩夏を悲しいだけのものにはしたくないなあ。そう思ったら、自然と声が出た。
普段はさんざんウィスパーボイスだって言われているけれど、気のせいか今日はずいぶんと明るい歌声になったような気がする。自分でも人に聴かれたときの反応までは操れないから、どう取られるのかは不安だ。
やがて。曲が終わる。もっと歌っていたかったなという気分だけを残して。
ガラス越しに皆を見ると、相変わらずかなたんさんは「すごい!」と言いながら拍手を送ってくれる。一方で萩本くんは既にマスクを付けているものの、少しばかり目を丸くしているように見える。腕を組んでいたマキビシさんは、背中を少し伸ばした。
「君たち面白いねえ……前の曲もだけれど、今回も曲のアプローチが真逆で。ヒマワリが枯れて種だけ残ったという歌詞だと、だいたいお盆の空気が漂って、死臭漂うイメージになっちゃうのに」
「もう! 私さすがにそこまでは考えてませんってば!」
作詞担当のかなたんさんが抗議すると、マキビシさんは「ごめんごめん」と笑う。
「でも……君たち本当に面白いねえ」
そうしみじみと言われてしまった。
****
その日、私たちが普段聴いている曲や好きな歌手の話をたくさんした。
私なんてほとんど耳で覚えていて、曲でろくに覚えていないのに、萩本くんも含めて皆詳しい。そりゃマキビシさんもかなたんさんもプロだから当然だけれど、ふたりについていける萩本くんも相当だ。
「しかしあれだねえ……本当だったら【カズスキー】くんにはすぐにでもプロになれって言いたいところだけれど。君の顔が出せないっていう奴。あれ絶対に事務所所属になったらあれこれ口出される奴だからねえ」
「はい……それが原因で、ときどきスカウトの連絡もらっても、断ってました」
「うん。芸能界に直接入るとなったら、どうしても心身のどれかを削ることになるからねえ」
マキビシさんはそうしみじみと言う。かなたんさんは「ちなみに【カイリ】さんは?」と尋ねられ、私は思わず首を振った。
「わ、たしは……【カズスキー】さんほど歌上手くないですし、知名度もそこまでありませんから……」
「そう? 【カイリ】さんのウィスパーボイスだったら、たしかにメジャー路線はいけないかもしれないけれど、CMソングとかに一定需要があると思うよ? そこだったら、たくさん歌わないといけないけど、顔出しもそこまで必要じゃないし」
「なるほど……」
歌を歌うっていうのは、人気歌い手さんみたいにコンサートをする、ライブをするっていうのばかり考えていたけれど、そういう抜け道もあったんだ。
そろそろ夕方だしと、マキビシさん宅を後にするとき、「デビューしたいってときは相談に乗るよ」とふたりが言ってくれたのにお礼を言いながら、手を繋いで帰って行った。
空は金色で、目を細めないと目を開けてられない。暑いのに手を繋いでくれる萩本くんの手の温度を感じながら、私は言った。
「すごかったね。マキビシさん家。びっくりしちゃった」
「うん。ご家族いるから、家で仕事できるようにって改装したんだと。仕事のトラブルで奥さんの出産に立ち会えなかったのが嫌だったから、それに懲りてスタジオを自前にしたんだと」
「ふーん」
「ねえ、山中さんは歌で食べていきたいって思う?」
そう尋ねられて、私は目をパシパシとさせる。
私たちはまだ高校生だ。大人の都合で、いきなり高校三年生から大人ですって言われてしまったけれど、まだ二年も猶予があるし。
そもそも高校を出たあとは、大学に行って就職するっていう当たり前なことを考えていた私は、自分が歌って稼ぐという選択肢があったということを、今日言われるまで気付かなかった。
「考えたこともなかったから、少しびっくりしている」
「……そう」
「萩本くんは? もうあちこちで歌っているじゃない。お金はもらっていたの?」
「一応は。でも本当に微々たるものだし、確定申告も自力でできるくらいしか稼いでない」
「かくていしんこく……」
「税金のことってちゃんとしてないと、親に迷惑かけるから」
私は一学期の時点で、拗ねてしまっていた。
既に地元グループができてしまって、どこのグループにも溶け込めそうもなかった上に、クラスメイトの人数が多過ぎて、顔と名前が一致せず、どうすればいいのかなんてわからなかった。
ただ私と同じようにぼーっとしていると思っていた萩本くんは。既に私と同い年で将来について見据えていたなんて、考えだにしていなかった。
「私、もっとちゃんとしたいなあ」
「山中さんは充分してるでしょ」
「そうかもしれないけれど、どれだけじゃなくって……」
「そういえば、海に行かない?」
話の流れ。全然合ってない。
唐突過ぎる提案に、私は黙り込んでいたら、金色の夕日を浴びながら、萩本くんは私に言った。
「一緒に海を見たいんだ」
いつもの通学路を抜けて、南へ南へ。
しばらく歩いたら、海が見えた。
この辺りは遊泳は禁止で、ヨットやマリンスポーツだけ推奨されている。理由はよく知らない。
浜辺の奥はコンクリート舗装されて、潮風を受けながらジョギングするスペースがあり、海を見ればマリンスポーツをしている人たちが見受けられる。
砂浜だとサンダルで入ったら砂が入ってジャリジャリしてしまうため、私たちはコンクリート舗装された道を歩いてテトラポットへと渡り、そこで座って海を眺めていた。夏の日差しで、むせかえるような潮の匂いがする。
「どうして一緒に海を見たかったの?」
「ひとりになりたいときは、いつも海に来ていたから」
そうぽつんと萩本くんが言った。
彼はマスクを外すと、遠くを見る。私も一緒に彼の視線の先を追うけれど、なにを見ているかはよくわからなかった。
「海だったら、マリンスポーツやジョギングに夢中で、俺がマスクを外しても誰もなにも言わないから」
「そう……」
マスクを外していたら、好き勝手にいろいろ言われて、好き勝手にいろいろされてしまう彼のことだ。息苦しくて、呼吸のできる場所を探していたら、海に辿り着いたのだろう。
そう思うと、彼のお気に入りの場所に連れてきてもらえた私は、特別なんだと今更思い至った。付き合いはじめたと言っても、まだ私たちはなにもしていない。ただ手を繋いで、一緒に歌を歌っている人たちのスタジオにお邪魔しただけ。
人生って息苦しい。私は友達いないし、人に合わせるのが本当に苦手。人に好きなことをとやかく言われてしまったらやめてしまうくらいに一本気がない。だからこそ、本当に好きなことは限られた人にしか言えなかった。
ふと私は、唇に歌を乗せてみた。
「山中さん?」
尋ねられても、そのまま歌った。
好きなことを好きと堂々と言える人は、多分強いんだろう。私は弱い。弱いから、好きなことはこっそりとしか人と共有できない。
やがて、萩本くんは私の歌に重ねるようにして、一緒に歌いはじめた。
私ひとりだとかすか過ぎる声だったけれど、ふたりで歌うと声が大きくなる。そのためにジョギングをしていた人たちが少し驚いたように足を止めたり、海から上がってきたマリンスポーツ帰りの人たちが振り返ったりしたけれど、私たちは無視して歌った。
「今さ、ものすっごく歌上手い子たちがいたけど」
「青春だねえ……」
幸いにも、ここには歌い手のことを知る人たちも、【カズスキー】さんが売れっ子歌い手だって知っている人もいなくて、ここだとただの歌が上手い高校生くらいのカップルにしか見えなかった。
歌い終えたあと、ふいに萩本くんがじぃーっと私を見てきた。
意味がわからなくって彼に視線を合わせたら、小さく「目を閉じて」と言われた。私は言われるがまま目を瞑った途端、唇に生暖かいものが一瞬掠めたあと、離れていったことに気付いた。
キスをされたということに、今気付いた。
萩本くんは今の顔を見られたくないのか、急いでマスクをして顔を隠してしまったけれど、隠れていない髪から覗いた耳が真っ赤になっているので、多分照れているんだと思う。
私も伝染したように、じわじわと体中に熱が回ってきた。決して熱中症ではないはずだ。多分。
「……帰ろうか」
「うん」
私たちはまた手を繋いで、家へと帰ることにした。
歌で世界は変わらない。清水さんは実家の都合で人間関係に苦労しているし、萩本くんは相変わらずマスクを外せない。私も自分が歌い手をしていることを、家族にだって言っていない。
でも。私が唇から溢れた恋の歌は、たしかに萩本くんに届いた。
その小さな奇跡に、今は感謝している。
<了>