スマホのアプリ。
 皆で歌ったり踊ったり好きなものを語ったりしているアプリで、私はスマホのカメラで家に貼り付けてある綺麗な写真のカレンダーを映した。そして、震える声で音を取った。

「こんにちは、今日も歌います。聴いてください」

 そう言ってから、パソコンに落としていた音楽のイントロを流しはじめると、それに合わせて歌いはじめた。
 自分の部屋。好きなものしか詰まっていない部屋。そこでじゃなかったら、リラックスして話すこともできなければ、ましてや歌を歌うこともできなかった。
 私はアプリで歌い手の【カイリ】として活動している。
 活動している……と言ってもその反響は微々たるものだ。ときどき「歌上手いね」とコメントは来るけれど、ほとんどは無反応だ。再生数は三桁。多いのか少ないのか、他にアプリを使っている人も、歌い手として活動している人も知らない私では、判断できない。
 毎日毎日、宿題が終わった息抜きに歌っている。
 お母さんもお父さんも、基本的に仕事で忙しいから、私が部屋でなにをしているのかはよく知らない。私はそれでいいと思っている。
 今日も一曲終わって、ほっとひと息ついた。そのままベッドにポスンと転がる。

「……今日も上手く歌えた」

 普段自分が好きになれない私は、一曲歌い終えて、アプリを終えたあとしか、自分を褒めることができなかった。
 私は自分が嫌いだった。

****

 私の通っている学校は、大人の都合で合併に次ぐ合併のせいか、よくわからないことになっていた。
 とにかく教室が多くて、クラスメイトの数も多い。今まで四十人まではなんとか覚えられたものの、五十人もいたら、顔と名前が一致しない。部活に入っていない上に委員会にも入っていない私は、顔も名前も覚えられないクラスメイトに囲まれて、縮こまって生活していた。

「山中さん、お願い! 今日の掃除替わって!」

 放課後。
 そう言って手を合わせられる。私は固まって彼女を眺めていた。
 光で透かしてみないとわからないくらいに、綺麗なダークブラウンに染めた髪を伸ばしっぱなしにしているだけなのに、不思議とボサボサになっていない。長い髪はセットが大変なのにすごいなあと、癖毛をどうにかふたつ結びにしている私は思う。
 中学時代に一緒だった子たちはかろうじて覚えているけれど、高校から一緒になった子たちは、はっきり言ってあまりにも校区も雰囲気も違うせいで、よく覚えていない。この子だれだっけなあと私は思いながら、頷いた。

「う、うん……」
「ありがとうー!」

 その子はそのまんま友達と一緒に出て行ってしまった。どの子もどの子も、すごく可愛い子たちだ。きっとコーヒー点やコンビニカフェでたむろしているんだろう。
 私がそうぼんやりと見送りながら掃除道具入れに向かっていると「山中さん」と厳しい声をかけられた。
 ショートカットを内巻きにセットしているクラス委員だ。たしか名前は清水さんだったと思う。

「相沢さんたちを野放しにしてたら駄目だよ。あの子たちすぐに掃除さぼるし、こっちが注意したら大人しい子たちに押しつけちゃうし。掃除、今まで一度も交替した分替わってもらったことないでしょう?」
「う、うん……でも」
「なに?」
「……誰に交替したのか覚えてなくって、誰に替わってと言えばいいのかわからなくって……」
「まあ、クラスメイト多過ぎだし、しゃべらない子の顔と名前なんて覚えられないかもしれないけどさあ。でも、嫌なものや嫌って言わないと、あの子らずっと調子に乗るから」
「う、うん……ありがとう」

 清水さんは私にも注意したあと、さっさと出かけていってしまった。多分委員活動だろう。クラス委員は雑用が多いらしく、「教師の使いっ走り」だと怒っていたから、大変なんだろうな。
 そう思っていても。私はクラスに特に親しい友達はいなかった。
 中学時代に一緒だった子、小学時代に一緒だった子。これだけ膨れ上がった学校だと、クラスが見事にばらけてしまって、誰とも一緒にはならなかった。全く知らない子たちな上に、好きなものも全然合わず、仕方がないからひとりでプラプラしている。
 なかなか顔と名前の一致しないクラスメイトと掃除をしてから、最後に誰がゴミ捨てをするかで、じゃんけんをすることになった。

「最初はグー、ジャンケンポン」

 グー、グー、グー、グー、チョキ。
 チョキは私だけだった。

「じゃあ山中さん、ゴミ捨てよろしく」
「う、うん……」

 こうして教室のゴミ箱の袋を交換してから、ゴミ袋を縛って持って行く。
 まだ日直の子がいたと思うけど、その子は戸締まりのために掃除が終わっているのを待っている。待たせてしまっては駄目だろうと、私は小走りでゴミ捨て場へと向かっていった。
 放課後は校内が賑やかだ。
 そこかしこで運動部のかけ声が響き、合唱部や吹奏楽部の練習が聞こえる。晴れた日なんかは美術部が画材を持ってスケッチしているのが見られるけれど、今日はいないみたい。私は校舎の裏庭に設置してあるゴミ捨て場に、ゴミ袋をポイッと捨てる。ゴミ捨ては億劫だけれど、こんもりと山になったゴミ捨て場を見るのは面白いし、ここから見上げる狭い空が好きだった。
 今はゴミ捨て当番の子たちもおらず、掃除当番の子たちも見かけない。
 学校にいると、「この子は誰だっけ」と考えることばかりでくたびれてしまった私は、ついつい気が抜けてしまった。
 気が抜けて歌いはじめたのは、最近歌い手界隈で流れている、ある歌い手のオリジナル曲だった。
 私みたいにひとりで特に交流もなくアカウントに曲を上げ続けているのは稀で、ほとんどの人たちは自己アピールに余念がない。
 私もアカウントを検索していて、上手い人のアカウント名は覚えていることがある。
 特に最近有名になった歌い手の【カズスキー】さんは、びっくりするほど歌が上手い。最近だったらプロアマ問わずに歌が上手い人が多いけれど、【カズスキー】さんの歌は群を抜いている。
 最近流行りのアイドルソングのコピーから、ひと昔前のJ-POP、洋曲まで歌える曲の範囲は幅広く、そのせいかインディーズで活躍している作詞家や作曲家がこぞって「一緒に曲をつくらないか」と誘い、とうとういろんな人とコラボして、オリジナル曲を歌うようになってきたのだ。
 私たちの世代だと、彼の歌を知らない人はいない。
 一部では「既にプロデビューが内定している人がアマのふりをしているのでは」とか「これだけ歌上手いのにスカウトがないのがおかしい」とかいろいろ言われているけれど、私は勝手にそのアプリでただ歌を歌い続けている【カズスキー】さんに親近感を覚えていた。
 私は学校での生活にくたびれている。
 名前と顔が一致しない多過ぎるクラスメイト、授業の内容も気を抜けばすぐに成績は落ちてしまうし、宿題は多い。普通に登校して下校するまで、とにかく片意地張ってないとやってられない。
 だからと言って、現実ではなかなか好きな歌を歌うっていうのはできない。
 カラオケ屋で仮にクラスメイトと鉢合ったら、なにを歌うのかなにを飲むのかで気を遣わないといけないから、気分転換になんかならない。
 一方アプリだと、自分の箱庭を持つことができ、自分の好きなこと以外しなくて済む。それが心地いいのに、プロだのアマだの言われるのは鬱陶しい。
 ……なんて、あくまで私が勝手に親近感を抱いているだけで、【カズスキー】さんがそう思っているのかどうかなんて知らないんだけど。
 私がひとりで歌いながら歩いていると。

「あ」

 小さく声をかけられた。
 振り返ると、制服のブレザーがダフンとなっている男子と目が合った。ブレザーシャツの下からTシャツが見えて、ネクタイはしていない。そして顔は真っ黒なマスクで覆われている。
 うちの学校ではマスク着用時は白を推奨している。でもそんな先生の注意を無視して黒いマスクを付け続けている男子の心当たりは、私はひとりしか知らない。
 私と同じく、誰ともしゃべらずに教室にいる萩本くんだ。
 ……聞かれた。私の歌を。歌ってるのを……。
 自分の歌についてとやかく言われたくない一心で、芸術選択で、音楽、書道、美術の中から選ぶときに音楽を選択しなかったくらい、私は人に歌っているのを聞かれるのが嫌だった……だって、人前だと上手く歌えなくて、大好きな歌がどんどんしぼんでみっともなくなってしまうから。
 なのに、聞かれた。
 私の中では、この世の終わりのように、先程の萩本くんの「あ」の声がリピートされていたのだけれど。萩本くんは本当にマイペースにこちらに寄ってきた。

「……もしかして、山中さん」
「は、はい……?」

 今更ながら、そもそもどうして萩本くん、ここにいるんだろうと思う。
 彼は掃除当番ではなかったし、たしか部活も入ってなかったはずだ。授業中もやる気がなさそうだ。ダウナーという奴だろうと思っていたし、声をかけられたのだって、今初めてだ。
 私の名前、覚えていたのか。
 そう思っていたら、萩本くんがジィーッと私を見てから言った。

「もしかして、【カイリ】さん?」
「……はい?」

 心臓が跳ねると思った。
 誰にも私のアカウントのことも、そもそもアプリにアカウントをつくっていることも言っていない。ましてや私のアカウントの投稿再生数はそこまで高くない。
 なんで知っているの。私が言葉も出ずに口をパクパクとさせていたら、萩本くんはマイペースに続けた。

「【カイリ】さんのウィスパーボイス。ああいう歌い方をする人って滅多にいないから印象に残ってたんだけど。違った?」
「ち、がわ……ない、です。ごめんなさ……」
「どうして謝るの?」
「わ、たし……人とちゃんと、しゃべれなくって……人数が多いと、顔と名前も一致しないから……話しかけられても誰かわからなくって……会話が成立しないというか……」
「でも山中さん、俺のことはわかってるみたいだけど?」
「……黒いマスクを、先生に怒られても無視してずっと使ってるから、珍しくて……」
「ふーん」

 話を振っておきながら、萩本くんは興味なさげに声を伸ばした。ああ、そうだ。

「わ、たしが……アプリにアカウント持ってること……言わないで……」
「別に言わないよ? 俺も持ってるけど、それしゃべられたら鬱陶しいから言ってないし」
「そ、そうなんだ……アプリでなにしてるの?」
「俺も歌を歌ってるよ。こんなの」

 そう言いながら、萩本くんが鼻歌を歌いはじめたとき。
 私は生まれて初めて、人の歌を聴いて鳥肌が立つという体験をした。
 普段ダウナーだと思っていた萩本くんの喉から出たとは思えないくらいに、澄んだ甘い声。それにその曲は、今私が歌っていた曲だ。つまりは……。

「カカカカカカカカ……」
「か? 笑い声?」
「【カズスキー】さん……ですか?」

 私は口元を手で抑え込んでいた。どうして人は皆、動揺したら口元に手を当ててしまうんだろう。それに萩本くんはごくごく普通に頷いて見せた。

「うん、そうだけど」
「ああわあわわわわわ……」
「さっきから、壊れた目覚まし時計みたいだよ、山中さん」
「ご、ごめんなさ……こんなとき、どう、言えばいいのか、わからなくて……」

 萩本くんの指摘通り、私は本当に壊れた目覚まし時計のように、意味のわからない言葉の羅列以外、しばらくの間口をついて出ることがなかった。