内心では怯えつつも、子供たちと遊んだりゾアとお茶を飲んだりしつつグレンの結果を見守ることにした。
「エヴリンお嬢様」
試験の開始から十日も過ぎた頃、お茶を淹れながらメメが私に小声で話し掛けて来た。
「なあに?」
「通りましたよグレン様」
「まあ本当っ?」
ガタンッと席を立つ私に「はしたないですわよ」と言われ慌ててまた椅子に腰掛けた。淹れた紅茶をテーブルに置きながら、
「かなりギリギリですけれどもね」
と言うメメに安堵で泣きそうになった。
「良かった……良かったわあああ」
「下級魔族の方はマナー的なところが不勉強な方が多かったので落とされやすかったのですが、中級魔族の方は最低限のマナーは心得てますし」
「そうよねそうよね」
普通の人間種で言えば、下級魔族は平民と同様である。そりゃいきなり普段使いもしない細かい礼儀作法を言われたって困るだろう。
「グレン様はマナーや人心掌握については問題ございませんでしたが、貿易や取引などについてはダメダメでございました。こればかりは経験がないと知識もございませんし、陛下もそこはかなり基準を緩く設定していたようでございます」
ただ今回のテストで三六一人もいた候補者が一気に百人を切ったようだ。落とし方がかなりえげつないが、私はグレンさえ残ってくれていれば他はどうでも良い。
「『思った以上に今の若い奴らはバカばっかりだった』と陛下も頭を痛めているようですわね。グレン様についても、一応及第点ではあったので特に問題はなかったようです」
「とりあえずは一安心ね」
私はメメに笑顔を向けた。毎日神に祈ってはいたものの、こればかりは私の力でどうなるものでもないから、不安がずっと拭えず夜もよく眠れなかった。
「そうでございますね。……ただ、次でまたかなり落ちると思いますが」
メメの発言に私はんん? と首を捻る。
「もう次のテストって決まっているの?」
「はい」
「それならもったいぶらずに教えてちょうだい」
「……魔物討伐でございます」
「──は?」
私はぽかーんと口を開けた。魔物は意思疎通が出来ない害獣だ。毒を持っていたり、人を襲うかなり好戦的な生き物もいる。定期的に町や村から被害報告が出る厄介な存在でもある。
「ちょっと待ってメメ。何で私と結婚するのに魔物討伐なの? 腕試しなら普通に剣術とかの試合で良くない?」
「いえ、その予定だったのですが……」
話を聞くと、国境の境目にある山に魔物が大量発生したらしい。猟師が王宮に報告に来て、父が「それなら騎士団出すよりあいつらを出せば良いだろう。最低限腕にはそれなりに自信はあるだろうしな。今後自分が守らねばならないかも知れない国の民のためでもある」となったそうだ。
簡単に言っているけれど、いくら腕に自信があろうと、騎士団のように統率の取れてない集団に力を合わせて退治させろは無茶がないだろうか。
「今回は三日分の食料を持たせてキャンプしつつ各自で討伐させるそうです。シカのような角のある魔物とイノシシに似た牙のある魔物だそうで、退治して角の一部と牙の数を持ち帰り集計するそうですわ。その獲得数で上位者を決めるとか」
「……実の父ながら結構な鬼畜っぷりね。力を合わせることすら出来ないじゃないの」
「基本はライバルですしね。一体一体ならばさほど大きくもなく、剣を学んだ者であれば処理するのは問題ない魔物だそうです」
「でも、大量発生って言ったじゃないの」
「はい。ですから陛下は、一人の力で如何に単体でいるところを効率的に排除するか、多数でも対処出来る策を見つけられるか、と言う個人の戦略的な考え方も分かるのだと仰っていらっしゃいました。常に集団で行動出来るとは限らないからと」
「いえ、言ってることはもっともだけれど、父様のように戦争で実戦を経験した人と、現在の戦もなく平穏で平和ボケしている若者を一緒くたにするのかどうかと思うわ」
「それも分かっているようで、麓に救護団も待機させるようですわ。あと不安があるのならば、事前に辞退することも可能だそうです」
「そう。まあそれなら安心だけど……ちなみにいつ出発するの?」
「二日後でございます」
グレンの腕に関しては、騎士団でもかなり強いと聞いているし問題はないだろう。だが……。
「──もちろん、日中なのよね?」
「まあ夜も活動するでしょうが、昼間の方が活発ですわね一般的には」
「……」
大変まずい展開である。
彼の場合、吸血鬼族なので昼間は体力も落ちる。当然ながら睡魔に襲われて昼は討伐どころではないだろう。下手すれば寝ている最中に襲われかねないではないか。夜に彼が元気になったところで、魔物だって眠るのだ。討伐しようにも、大人しく眠っていたら見つけられないパターンだってあるかも知れない。
「……私ちょっとゾアのところへ行って来るわ」
少し悩んでメメにそう告げると、私は急いで身支度をするのであった。
「え? やあよ。何で私が」
「そんなこと言わずに、ね? 一生のお願いだから! 一人だけじゃちょっと不安なのよ」
私はゾアの屋敷で手を合わせて必死で頼み込んでいた。
「グレンを手助けしたいのは分かるけど……」
「昼間起きれない人間に、主に活動が昼間の魔物退治って無理があるでしょう? 倒した数勝負なのよ? それにもし彼が襲われたらどうするのよ」
私が頼んでいるのは、私が陰ながらサポートしたいので一緒に山に行ってくれないか、と言う話である。
「ほら、ゾアは弓が得意だし、何かあれば頼りになるじゃない」
「止めてよ。エヴリンがしょっちゅう山に遊びに連れて行くから自衛のために覚えただけだし、レディーになるためにはもう不要な技術だわ」
「でももう婚約者もいる訳だし、自衛のためだけとは思えないほど熱心に練習していたじゃないの。協力して獲物を仕留めた時には一緒にハイタッチもして喜んでいたのに、完全封印してしまうのは勿体ない腕じゃない? 才能あるんだもの」
ゾアは自分が小柄で筋力が弱く、重たい剣さばきには向いてないと判断したためか、早くから弓の鍛錬をしていた。彼女はかなり目が良いので遠くの獲物を見つけるのも早かった。私がとにかくアウトドアなタイプだったので、気がつけばゾアも流されてという感じではあったが、少なくとも弓の腕は一級なのである。
「あのねえ、キアルのためならまだしも、何故グレンのために私が動かないといけないのよ?」
「とりあえずね、私はゾアのところでお泊り会をしたいと父様に言うから、ゾアの家でも何とか口裏を合わせて欲しいのよ。二日ぐらいなら何とかなると思うの」
「だから人の話を聞きなさいよエヴリン」
「心配でいてもたってもいられないのよ。……それに、ちょっと格好良いじゃないの。隠れて人助けして、人知れず姿を消すとか正義のヒーローみたいで」
「…………」
「ゾア、今ちょっと気持ち揺らいだでしょ?」
「……そんなことないわよ」
「子供の頃、川原で小さい子が溺れそうになっていたのを見つけて二人で助けに行ったの、覚えてる?」
「……そうね」
「そしたら私たちもびしょ濡れになって、一緒に溺れそうになったのをグレンが助けてくれたわよね? ああ格好良かったわ本当に」
「そんなことも……あったかしらね」
「彼は『困っている友だちを助けるのは当然だから気にするな』ってお礼も言わせてくれなかったけど、今こそ困っている友だちを助ける時じゃない? まあ私は友だちではなく未来の旦那様希望なのだけど」
「……隠れて人助け、ねえ……」
「それに、ゾアだってレディーがどうとか言ってるけれど、実は野山を駆け回るの案外好きでしょう? 私と縁を切らなかったぐらいだもの」
ゾアはぴくりと眉を上げる。
「結婚したらそんなことも出来なくなるでしょうし、独身の間だけよ? 好き勝手に動けるのも。もちろんゾアが危険になるようなことはしないし、その時には私が命に代えても守るわ。私は後先考えないタイプでしょう? 絶対に彼の邪魔にならないようにしたいの。だから冷静に客観視出来る、司令塔としてのゾアが必要なの」
「司令塔……ふふ、いい響きじゃないの」
ようやくその気になってくれたのか、ゾアが笑みを浮かべた。
「──分かった。ひっそりとグレンの護衛と手助けをすること、協力するわ。私の愛弓スペシャルゾアの引退仕事ね」
「ありがとう! 愛してるわゾア!」
ゾアにがばっと抱きついた。だけどネーミングセンスはイマイチなのよねえこの子、と思いながらも味方が出来た安堵に胸を撫で下ろした。
幼馴染みのゾアのことをいたく気に入っている父は、お泊り会については快諾してくれた。
「ゾアもそろそろ結婚するし、そうそう気軽には出歩けないだろうからな」
「そうなのです。ですから親友のエヴリンと心ゆくまで語り合いたいのですわ陛下」
「公の場でなければ前みたいに気軽にローゼンおじ様で構わないよ。娘もゾアも、どんどん大人になってしまうようで私も悲しいからね」
「ありがとうございますローゼンおじ様!」
父にキラキラした眼差しでお礼を言うゾアに頷きながら、
「エヴリンもゾアを見習って素敵な淑女になるように頑張りなさい」
と私に説教をして来た。
彼女、さっきまで自室であぐらをかいた状態で弓の手入れしてましたけれども、そういった辺りを見習えば良いでしょうか? それとも矢じりに塗る毒と眠り薬に使う薬草を、満面の笑みでゴリゴリと器で砕いていた手際の良さ辺りも見習った方が良いでしょうか?
ともあれゾアの父への受けの良さは大変ありがたい。
私とゾアは、明日の待ち合わせ場所を決め、誰かに見られても参加者の一人と誤解されるよう動きやすい男性の格好をすること、食料と治療薬などの分担を決めて別れた。
……グレン、私たちが万全のサポートをするから、どうにか試練を乗り越えて突破してちょうだいね。
私は祈るような気持ちで早めにベッドに潜り込んだ。
翌朝、私とゾアが落ち合った場所は、婚約者候補たちが入る山の入り口とは少し離れた山道であった。
ゾアも私も乗馬用のパンツとクルーネックのボタンのないシャツとベスト、そして髪を結んでしまい込める少し大きめのハンチング帽である。
ボタンで止めるシャツを避けたのは、子供の頃に木の枝などに引っ掛けてよく破いたり、ボタンが取れてしまってメメに怒られたりしていた記憶があるからである。一緒に怒られていたゾアも、本能的にボタンはダメだと感じていたらしい。
靴も山歩き用の疲れにくいゴム敷きの布素材のものを用意した。二人のリュックの中も寝袋などの基本的な装備に加えて、非常時用の薬や包帯に細いロープ、ハサミや小さなナイフなど、正直かよわい乙女二人の持ち物とは思えないアグレッシブなラインナップである。
しかし、野生児として飛び回っていた過去の歴史が『山を舐めることの恐怖』を知っているのだ。
お互い中身を見てニヤリとしてしまった。さすが親友である。
「久しぶりよねえ、エヴリンと二人で山に入るのも」
ゾアが屈伸をしながら私に声を掛けた。
私も足首のストレッチをしながら頷く。
「本当ね。……ひとまず私たちは、彼らが入った後に時間を空けてから追いましょうか」
「そうね。──それにしても、辞退した人も結構いるって聞いたけど、それでも五十、いえ六十人はいそうよね」
「王族の仕事ってそんな楽でもないのだけどね。……あ、グレンがいるわ」
ゾアと木の陰からそっと覗き込む。
グレンは背が高くてガッシリした体格なので結構目立つ。
「ああ、でもものすごく眠そうだわ……」
彼があくびを何度も噛み殺しているのが見える。
朝の七時過ぎなので当然ながら日が出ている。本来ならば仕事を終えてそろそろ眠っているような時間だ。
「大丈夫かしらねえ。早々に道の途中で寝込まれても困るのだけれど」
びぃーん、びぃーん、と弓の弦をチェックしたゾアが軽く頷く。
「ま、そのために私たちが来たのよね。もう少ししたら私たちも行くわよ」
「了解」
私も愛用の細身の剣に軽く手を置くと、彼らの入山をじっと待つのだった。
「……さあて、どこにいるのかしらね?」
彼らの後を追うように山を登っていた私たちだが、数人の男たちが魔物を討伐している姿を見かけただけで、グレンの姿はなかった。
「それにしてもあのイノシシみたいな魔物、赤紫と黄色の体毛って生き物にあるまじき色合いよねえ。悪目立ちしかしないじゃない」
遠くを見渡すためゾアと木登りした私は、今回の討伐対象の一体である魔物を見てうわあ、と声を上げた。
「魔物って地底の瘴気が生み出すとか言われてるけど、結局発生原因は未だに分からないものね。まあ毒素とか悪い成分とか含まれてそうなのが見た目で分かるだけ親切なのかしらね。食べたいとは思えないし。……あ、ほらシカっぽい角の魔物ってあっちの奴じゃない? あっちなんか黄緑に黒の水玉模様だわ。うわあ、ますます食欲失せるわよね」
「昔からゾアは食べられるかどうかでやる気が左右されてたわよね。今回は食べられないけど頑張ってね」
「分かってるってば──あ、グレンめっけ」
「え? どこどこ」
「エルフ族の視力がないと厳しいわよ。さ、行くわよ」
「分かったわ」
するすると木を降りてリュックを背負い直すと、私はゾアの後を追った。
十五分ぐらい歩くと、牙を片方失っているイノシシ的魔物が二頭倒れており、少し進むと角を折られたシカ的魔物が一頭横倒しになっていた。
「うーん、この辺だったけど……」
ゾアが見回し、あ、と声を上げると、私にしーっというように唇に手を当て、音を立てないように歩き出した。
岩と岩の隙間の空間に半身を入れたような状態でグレンが眠っていた。くこー、くこー、と寝息が聞こえて来るので倒れている訳ではないようだ。
身軽にゾアが岩に乗ると、紐をつけた小瓶をグレンの鼻の辺りで何度か揺らした。
「……よし。これでしばらくは深く眠ってるだろうから、普通に話す分には平気だと思うわ」
「嗅ぎ薬ね」
ゾアの話を聞きながら、彼の腿にわざと傷つけたような切り傷が見えて胸が痛んだ。きっと眠気を何とかごまかそうとしたのね。魔族は傷の治りこそ早いが、痛みは普通の人間と同じである。
「全く何のガードも作らず腰から下が丸出し状態じゃすぐ襲われるわよ。まったく行き倒れかっての。睡魔に耐え切れなかったのねえ……っと」
ゾアがスッと目を細めると、素早く弓を構えて矢を放った。ギュガァァ、という鳴き声がしてイノシシの魔物が倒れていた。
私も背後から迫る気配を感じていたので既に剣を抜き払っていたが、襲って来たのは同じくイノシシの魔物である。
鳴き声でグレンを起こさないよう首を一閃して切り落とした。
「ねえエヴリン、ちょっとグレンの剣取ってくれる?」
「え? 分かったわ」
ゾアにグレンの腰の剣をそっと抜いて渡すと、ゾアは小声で、
「えーい、やああ! っと」
などと言いながらイノシシの魔物に傷をつけていた。
「……何してるの?」
「バカね、グレンが睡魔で朦朧としつつも魔物を倒した、って演出じゃないのよ。ほらエヴリンもやってやって」
と剣を渡され、そうかと慌てて体に傷をつけた。クビちょんぱしてしまったが、後で牙を取りやすいよう近くに頭も置いておいた。
「ねえゾア、牙とかも取っておくべきかしら?」
「止めておいた方がいいわよ。そういうのって個人のクセとか手順みたいなものがあるかも知れないから。グレンは誰かの手柄を横取りするようなタイプじゃないし、殺し損になるかも知れないじゃないの」
「それもそうね」
「眠り薬のついた矢の方でグレンの近くに置くのも考えたけど、彼が起きる前に目覚めて襲われても困るものね。……毒矢の方を多めにしておいて良かったわあ。ふふふふふ」
「こわ。ゾアったらこわっ」
「魔物の首を一刀両断にした王女に言われたかないわよ。……とりあえず日が傾く頃までは、グレンの周囲を陰ながら守りましょう」
「そうね、陰ながら」
「でもこれ以上襲ってくる魔物を倒してたら、眠る前に倒す数としては多くなり過ぎて、彼が疑問に思わないかしら?」
「エヴリン、あなた睡魔が限界まで来てる時に、自分がどれだけ倒したかハッキリ覚えていられると思う?」
「……無理ね。まあ思わぬ力が出たということで」
「そうよね。必死な時って誰しも想定外の働きをするものよね」
私とゾアは二人で顔を見合わせて頷いた。
本人さえ分からなければ、陰ながらで合っているはずだ、多分。
岩の隙間で幸せそうな顔で眠るグレンを見ながら、私とゾアは近づく魔物がいないか辺りの気配を探るのだった。
日も傾いて来たところで、そろそろ私たちも隠れましょうと手近の木に登った。三十分ほどしたところでグレンが目覚め、周囲に転がっている魔物の群れを見て「え? え?」と声を出して驚いていたが、調べたら全部魔物に自分が付けたような傷もあるということで、首を捻りつつも無意識に自分がやったのだという判断になったらしい。せっせと角や牙を切って自分の革袋に入れると、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「……エヴリンを妻にするのは俺だ」
そう一人呟くと、意気揚々と魔物探しに動き始めた。
私は彼からエヴリンという言葉が聞けたのが嬉しくて頬を熱くしていたのだが、ゾアが私を見てたしなめた。
「呑気にニヨニヨするのは良いけれど、私たちも下りて食事にしないと。洞窟でも見つけて眠らないといけないしね」
「え? 夜は追わないの?」
「グレンは夜間は心配不要じゃない。昼夜問わず追い掛けるなんてどこの変態よ。私たちだって体力無限じゃないのよ?」
「だけど見失っちゃうわ」
ゾアはいたずらっ子のような顔でニヤリと笑って、大丈夫よとリュックの中から小瓶を出した。
「グレンの剣とベルトにこれ塗っておいたから」
「何それ?」
「追跡薬よ。──ほら、エルフ族って見た目そこそこ綺麗だし、手先も器用で長命じゃない? 金持ちの貴族とかがエルフ族の子供を攫って、使用人とかペットみたいに飼いたがるような人が昔は多かったらしいの。だから目と鼻が利くエルフ族がすぐに子供たちを発見出来るようにって、私たちにしか分からない独特の香りを精製して、子供たちにネックレスやブレスレットとして、液に浸した糸や布で作ったのを持たせていたのですって。今はもうそんなこと殆どないから、使っている人も少ないのだけど」
嗅いでみる? と小瓶の蓋を開けて嗅がせてくれたが、微かに金属みたいな臭いを感じるものの、ほぼ無香である。少し顔を離しただけでもう分からない。
「……これ、ゾアは離れていても分かるってこと?」
「一キロ、二キロ離れていても分かるわよ。だから安心して私たちも食事して休みを取らなきゃ。栄養不足と睡眠不足は肌荒れのもとなんだもの」
「それもそうね」
ちょっとグレンと離れるのは残念だったが、また会えるのであれば安心だ。私たちは木の実や果物を採り、ゾアが眠り薬が塗られた方の矢でウサギを仕留めてくれた。私はゾアほど夜目も利かないので、夜間の狩りは彼女が頼りだ。
たき火をして私が綺麗に皮を剥ぎ、持って来た塩を振って枝を削って串刺しにしたウサギを炙る。
「……どうでも良いけれど、私たちって結構逞しく生きていけるわよね山の中でも」
ゾアが炙ったウサギ肉を頬張りながら笑った。
「レディーだからって、男性に頼る以外何も出来ない訳じゃないわよ。大体子供が産まれたら子供だって守らないとならないのだし。母は強しって良く言うじゃないの」
「──まあエヴリンは王族だからあんまりサバイバルが役立つ機会はなさそうだけれど。確かに弱いよりは強い方が良いわよね」
「そうよそうよ」
二人してお腹が満足すると、近くを探索して小さな洞窟を見つけた。魔物の気配もなかったが、念のため入口には木の枝で覆って侵入されにくくしておいた。
寝袋を取り出して潜り込んだ後は少し話をしていた記憶があるが、気がつけばぐっすりと眠っていたようで、目が覚めた時には隠していた扉代わりの枝の間から日の光が差し込んでいた。
近くの小川で顔を洗って歯を磨いているとゾアも起きて来た。
「ふああ、良く寝たわ。やっぱり良く運動して良く食べて良く眠るっていうのは長生きと健康の秘訣よねえ」
「どこのお年寄りの台詞よ」
笑いながら果物で朝食を済ませると改めてグレン探しの旅である。
他の参加者の人たちもかなり討伐をしているのか、少し歩くたびに角や牙の取れた魔物の死骸が転がっている。
「これ、このままで良いのかしらね」
「毒素があるものね。他の食用動物が食べても困るし。多分後で騎士団の人たちが回収するんじゃない?」
「ああ、そう言えば以前何度か回収して焼いてるの見たことあるわね」
雑談を交わしながら歩いていると、ゾアが話をしようとする私を制してリュックを下ろすと、木に登り始めた。私も後を追う。
「ああ、いたいた。……あら、まずいわね」
「え? どこ? 何がまずいの」
「とにかく急がないと」
慌てて木から飛び降りるとリュックを背負って小走りになった。私も状況が分からないながらも一緒に走り出す。
少し息が上がって来た頃、ゾアが後ろ手で止まれという指示をする。今回は木に登らなくてもこちら側が高台になっており、下にいるグレンの姿が見えた。今回は岩の間どころか岩の上でうつ伏せになって眠っているようだ。あの人の危機意識はどこへ消えたのだろうか。睡魔って色んな危機感が疎かになるのね。
だが、今回は彼だけではなく、彼のリュックをゴソゴソと探っている一人の男がいた。
「……グレンの手柄を横取りしようとしてるのね。ああいうこすっからいタイプって、嫌よねえ」
ゾアがそう呟くと、矢を抜いて素早く相手の男のお尻を狙って矢を放った。
「っぐうっ!」
と声を上げた男はそのまま突っ伏すように倒れ込んだ。
「ちょっ、まさか殺めたんじゃないでしょうね?」
「冗談はよして。結婚式目前で人殺しにするつもり? 眠っただけよ」
岩を利用しながらグレンのところまで降りると、彼に嗅ぎ薬を嗅がせて強奪男のお尻の矢を抜くと、ズボンの上から消毒薬を振りまいた。
「起きる頃にはちょっと痛いな程度で、傷も明日には完治よ。便利ねえ魔族って丈夫で」
「……ねえ、これ、私たちの協力必要ないわよね?」
私はグレンのリュックの横にあった布袋を開いて見せた。昨日私たちが数頭分手助けしたのはあるが、それ以上に夜に仕留めたであろう戦利品でパンパンである。そりゃあ通りすがりの参加者も、邪な考えを持ってしまう人も出るだろう。
「──あら、本当ね。でもグレンて人を信用しやすいから、このなよなよしたお兄さんは近くに置いたままにしときましょうか? 泥棒されかかったのか貞操奪われかかったのか分からなくて、ビビッて少しは昼間も警戒するでしょうよ。こんなアホみたいに高めの岩に乗っかってれば大丈夫、みたいな子供みたいな無防備さも治ってくれると良いけれど」
あ、どうせならグレンのベルトの辺りにでも手を乗せときましょう、起きたらびっくりするわよお、などとゾアがいそいそと男を引きずりグレンの横に転がすので、悪ふざけはそこまでにして、とたしなめた。
(……間近で寝顔見たのは子供の頃以来だけど、相変わらず良い顔ねえ)
昨日は岩の間に上半身を隠した状態で眠っていたので引っ張り出す訳にも行かなかったが、今回は見放題である。
少し長めの黒髪も、今は見えないが宝石のような赤い瞳も、少し荒削りな感じの顔立ちにとても似合う。鍛錬で鍛え上げた体も引き締まっており、目の保養以外の何者でもない。ただ、このままえへらえへらと眺めていたら私は確実に野生の変態乙女である。
「……ゾア、この様子なら明日の討伐も問題なさそうだし、日が傾くまで近くで見守って、何もなければ帰りましょうか私たちも」
「そうね。泥まみれだし、お風呂にもゆっくり入りたいわよねー」
「あ、ついでだから魔物以外に帰りがけに夕食用の野鳥でも狩りましょうか。ゾアの家の料理長はシチューが得意だものね」
「良いわね!」
岩の上でくこーくこーと眠るグレンに背を向け、やって来た数匹の魔物を倒すと、彼の剣で傷だけつけておき日暮れ前にその場を後にした。
「……グレンの強さを見誤ってたわ。私が心配するほどのことはなかったわね」
「少なくとも野鳥を二羽担いで山を下りる乙女の方がよほど危険よね」
「言えてるわ」
私たちは顔を見合わせて笑うと、そのまままた救護団の人に見つからないようにこそこそとゾアの屋敷へ戻るのであった。
ゾアの屋敷から戻って数日。
メメから進捗状況を確認したところ、グレンは上位者に入っていたようで安心した。ただあれだけ討伐していたのに一位ではないようだ。……我が国の男性はなかなか強者が多いのかも知れない。
「ねえメメ、一体いつまでこのイベントとやらは続くのかしらね?」
私は自室のソファーでころりと横になりながらメメに愚痴をこぼした。
「グレンが合格点を取っているのなら、父様は私が彼を好きなことも分かっているのだから、もう婚約を認めてくれても良くないかしら?」
「エヴリンお嬢様、公の場ではないからといってだらしないですわよ」
本棚の埃を払いながらメメに叱られ、慌てて姿勢を正す。
「陛下は別にグレン様のことを嫌っているのではないと思いますわ」
「それなら何故……」
「ですが大切な一人娘を結婚させるなら自分が認められる一流の男を、と思うお気持ちも分かります」
「まあそれはそうでしょうけれど」
「グレン様が昼間起きていられない体質なのも分かっていて、それでもエヴリンを妻にするための努力や気概は見せて欲しい、とお考えなのかも知れませんね」
「私の苦労もあるのだけど……」
「──何のご苦労でございますか?」
「あ、いえ何でもないわ」
少しとは言え昼間の彼の護衛をしていたなどとは口が裂けても言えない。ただでさえゾアからは抑えていた狩人の血が目覚めたとかで、
「婚約が決まったら、お祝いに友だち何人か連れて野牛を狩りに行くのはどう? 婚約パーティーってことで、ぱーっとバーベキューするのも良いわね。余ったらお肉は皆で持って帰って分けましょ。……あ、川の近くでやれば魚も獲れるし、一石二鳥じゃない♪ 麻痺系の薬も試したいし」
などと言い出してるし、娘の様子を不審に思ったゾアの母親からも昨日、
「娘がマリッジブルーなのかも知れないわ。何か部屋にこもりきりになって、夜遅くまで灯りがついていたりするの。エヴリンは何か聞いていない? ちょっと心配だわ」
と手紙まで届いた。
おば様すみません。彼女はただ矢じりに塗る薬を調合しながら、ご機嫌でゴリゴリと薬草を潰しているだけだと思います。
先日の泥だらけの帰宅時も、昔から屋敷で働く人たちは私たちの子供の頃からの行動を熟知しているので、おば様にバレないように風呂場へ案内してくれたが、ゾアは常日頃から両親には淑女の外面を外さないようにしているので、少しの変化も気になるらしい。
「ほら、良い子で信用を得ておいた方が束縛されたり説教もされないし、色々と便利なのよ。まあ両親に心配かけないためでもあるけれど。……それにね、結構演技するのも実際の淑女教育にもなるじゃない? ずっと礼儀正しくしてたら堅苦しくて息が詰まるんだもの」
とゾアは弁解していた。
私のように赤ん坊の頃から母がいないせいか過保護なほど大事に育てられ、子供時代から野生児状態でも、メメたちや父が許容してくれる家は少ないのかも知れない。ゾアの両親は厳格な方々だし。
何だかんだ言っても私は恵まれた環境なのである。
「──私ももう少し真面目に淑女のマナーを学ぶべきかしらね」
ぽつりと漏らした独り言が聞こえたのか、メメが目を輝かせた。
「ようやく本気になって下さいましたか? 初級編中級編は済みましたし、とうとう上級編にステップアップでございますね!」
「え? ああそうね。ただ今は、グレンのことが気掛かりで気が乗らないからまたもう少し時間が経ってから──」
「……そんな悠長なことを仰っててよろしいのですか? 明後日には上位七名の婚約者候補の方とディナーパーティーもございますのに」
メメのため息まじりの言葉に私は目を見開いた。
「何それ聞いてないわよ?」
「申し上げたのは初めてでございます。──ですが、普通は王女がディナーパーティー一つでオロオロするとは誰も思いません」
「……メメ」
「はいなんでしょう?」
「私が悪かったわ。明日までに一時しのぎで良いから何とか鍛え上げてちょうだい」
「一日二日で何とかなるのなら私がここまでうるさく言う訳ありませんでしょう? エヴリンお嬢様がレッスンをすっぽかして外に冒険だの狩りだの行っていなければ、こんな慌てるようなことにはなってないのですよ?」
「分かってる、分かってるわ。本当に私が悪かったわ、ごめんなさい。これからは心を入れ替えるから今回だけは許して」
「浮気した男の常套句みたいに守れもしないセリフは結構です。──ですが、我が国の王女がドレスさばきもまともに出来ないなどと言われるのは、乳母兼専属メイドとして屈辱でございますし、何とか最低限の形だけは取り繕って頂きますわ」
「頑張る。私一生懸命頑張るから!」
「かしこまりました。それではその楽そうなキュロットパンツやゆるゆるのシャツを脱いで、今すぐドレスに着替えて頂けますか?」
「……え? 今から?」
「今からでも遅いのですが。もう一度申し上げましょうか?」
「わ、分かったわ、分かりましたってば」
私は慌てて立ち上がった。
……ああ、野山でグレンの護衛をしている方が気が楽だったわ。
でも、明後日には他の人たちも一緒だけどグレンに会える。まともに日常会話以外の話が出来るのは一年ぶりぐらいかしら。
そう思うと喜びが溢れて気づけば頬が緩んでいた。
「……エヴリン、今夜はいつになく大人しいじゃないか。上品なレディーに見える。出来ればいつもそうだと良いのだがな」
「ありがとうございます。父様に恥をかかせる訳には行きませんもの」
立食形式のディナーパーティーの会場。
私は父のからかうような口調にムッとしているゆとりはなかった。
何しろドレスは窮屈だし、普段履かないかかとの高い細身の靴は、見映えこそ良いが、慣れてないため長時間歩くには向いてない代物だ。既にふくらはぎがつりそうである。
それでもメメに指導を受け、ドレスやメイクアップをして辛うじて現在の淑女もどきになっているのだ。
立ちっぱなしは辛いので座りたいが、壁側に少し用意をしているだけだし、招待している側の人間が座って良いのかと言えばノーである。
(グレンはどこにいるのかしら……)
笑顔を引きつらせないよう注意しつつ、転ばないようにすりすりと気をつけて歩いている間も、他の候補者の男性からいちいち挨拶が入る。
勿論立派な方々だと思うし、あんな気味の悪い色合いの魔物を多数討伐しているのだからきっと腕自慢でもあるのだろう。顔立ちだって種族こそ違えど決して悪い顔立ちではない、と思う。
(ただ、私の理想形がグレンになっているせいか、誰を見ても皆同じようにしか見えないのよねえ)
申し訳ないとは思う。思うのだが、小さな頃からグレン一筋だった自分には彼とそれ以外、という見方しか出来ないのだ。
それにしてもグレンは一体どこにいるの? もう少ししたら私はグレンを含め候補者の皆とダンスを踊らねばならない。その苦行のモチベーションを前に癒やしの彼と一言二言でも話したいのに。
ふと、ベランダの方を見ると、揺れるカーテンの陰にグレンの背中が見えたような気がしたのでそちらに急ぐ。
「グレン……」
近づいて見ると、やはりグレンだった。何故かワイングラスを持っている。彼はお酒が殆ど飲めないはずなのだけど。
私に気づいたグレンはハッとした様子で頭を下げる。
「お久しぶりです、エヴリン姫」
「本当にお久しぶりね」
十五歳になると、父からは幼馴染みでも男女で遊ぶのは禁止されたし、彼はそのまま騎士団に入ったので、それからはほぼ挨拶程度の会話しかしていない。あの頃はエヴリンと呼んでくれていたのに。
「……候補者の中にグレンがいると知って、驚いたわ」
「──自分でもこんな勇気があったとは思いませんでした。ただ、このまま何もしないでいる訳には行かなかったのです。エヴリン姫を、他の男に取られる訳には……」
「ちょ、グレン?」
ぐらりと体勢を崩したグレンが足元に座り込んだ。
「す、すみません。陛下に討伐のお褒めの言葉と共にワインを頂いたのですが、ちょっと強すぎたようで足元がふらついてしまいまして」
……父様、嫌がらせかしら。だとしたらグーで殴るわ。
「グレンはお酒が弱いのだから、ちゃんと伝えれば良かったのに」
「……いえ、そんな子供のような男だと知れば、ただでさえ低い可能性がさらに低くなります。私は吸血鬼族ですし」
「だけど、これからダンスなのよ?」
「はい。顔でも洗って頑張ります。──あの、エヴリン姫」
「え?」
「今はまだ言う権利はありませんが、もしも婚約者候補として選ばれたら、お伝えしたい言葉がございます」
真剣な眼差しにこちらも心臓がドキドキして苦しくなる。
だからグレン、今! 今なのよ聞きたいのは!
「そう……楽しみにしていますね」
しかし私から出たのはそんな言葉だけだった。
彼がルールを守ろうとしているのに、自分だけの身勝手な理由で本心を聞き出すのはフェアではない。
だが、何としてでもグレンには勝ち抜いて貰いたい。
まずはこんなに長く言葉を交わせただけでも良しとしよう。
だが、ふと気づいた。えーと……グレンってダンスも苦手じゃなかった?
父から私が候補者の七人とダンスを踊る話は事前に聞いていた。
一人三分ほどの短いダンスタイムだ。
他の男女も踊るけれど、一応これでも私は王女なので注目はされる。ダンスだけは小さな頃から真面目にレッスンを受けていたし、前から体を動かすのは好きだったから、かなり上手い方だと思っている。
そして子供の頃の記憶では、多くの美点を持つグレンはリズム感だけは驚くほどなかった。というか自分のテンポで歌ったりダンスをしてはいたのだが、何故か人とズレるので苦手だと言っていた。
彼は基本的に剣の鍛錬と筋力をつけるトレーニング、あとは学校での勉強が将来の騎士団で生活する上で重要だと思っていたようで、それ以外のことは余り熱心ではなかったように思う。
野山を一緒に駆け回って遊んでくれていたのも、面倒見が良くて優しいのもあったが、半分は体が鍛えられると思っていたからだと今考えれば想像出来る。何故そこまで騎士団に熱意を持っていたのかは分からないけれど、それだけ騎士団で働くのは彼の目標だったのだ。
念願かなって騎士団に入れたのも、ひとえに彼のたゆまぬ努力の賜物である。
(あれから上手くなったのかしら……? まあ数年前のことだしね)
私は若干の不安を覚えつつも、一人目の候補者がダンスを誘いに現れたので手を取った。幸いにもグレンは最後だったはずなので、酔いも少しは覚めていると思いたい。
二人目、三人目とそつなくこなせる男性ばかりで、何故か父の眉間にシワが寄っている。ケチを付けられないからなのだろうか。父の考えは良く分からないわ。
まあ他の人はどうでも良いのよ。グレンさえ合格点を貰えれば。
ただ私も長時間履き慣れない靴で爪先もかかとも痛い。六人と踊り終えた頃には体力の消耗がかなりのものであった。でも次はようやくグレンだわ。抑えきれない喜びで笑みが浮かぶ。
彼が近くに来て膝をついた。差し出された手に自分の手を乗せると、彼は立ち上がった。
……ちょっと。全然酔いが覚めてないじゃないのよ。
目はとろんとしており、少し頬も赤い。顔は洗ったのか前髪も乾いてない状態なのが分かる。
「大丈夫? グレン」
「ええ……はい、大丈夫です」
そう返すが油断すると足元がふらつきそうになる。全然大丈夫じゃない。体重を掛けられて私もよろめきそうになるが、ここは踏ん張りどころだ。彼のせいでしくじろうものなら、『娘に恥をかかせた』とか因縁つけそうだものね父は。
「──私の言うテンポで動いてね。はいワンツースリーワンツースリー」
私はグレンに囁きながらリードする。彼も必死に私の伝えるテンポで動いており、何とか不自然でないような動きが出来ている。
よし、これならいけるわ、と思った途端安心したのか私自身がドレスの裾に足を引っ掛けた。
「っっ!」
危うく後ろに尻もちをつきそうになった時に、どこにそんな敏捷性が残っていたのかと思うほどの速度で回り込んだグレンが、私を演出の一部のように支え、すっと抱き上げてくれた。
周りから歓声と拍手が湧いた。
(……ありがとう)
(いえ、私こそ無様なところをお見せして申し訳ありませんでした)
小声で返事をしてくれるグレンの声がまたバリトンボイスの好ましい音色だ。抱き上げてくれた腕の逞しさも胸板の厚さも、何もかもが私の動悸を激しくしてしまう。
そっと優しく下ろしてくれたグレンは一礼すると、少しだけ体をふらつかせながらもホールを出て行った。多分また顔を洗うか水をがぶ飲みするのだろう。
「……思った以上にまともに踊れていたな」
気がつけば父が背後に立っていた。
「父様がワインを勧めたんですって? 彼はお酒弱いのよ。ひどいじゃないの」
「国王ともなれば、外交などで飲まざるを得ないこともある。酒の勧め一つまともに受けられなければ、他国の重臣にも舐められる。周囲は自分の味方ばかりではないのだ」
「……少しはグレンのこと認めてくれたの?」
「まあ、最低限のラインはクリアしているな」
父はまた無駄に整った顔立ちに少しだけ笑みを浮かべると、そのまま大臣の方へ歩いて行った。
王の風格と言うか、常にオーラが放たれているような圧倒的存在感のある父は、周囲の人間からしてみれば越えられない壁のような存在だろう。
そんな父にしてみれば、娘を任せられる婿は、親目線よりもまず治政者目線を優先せざるを得ない。
昼間起きれないとか酒が弱いとか、頼りない部分があるグレンは、不甲斐なさを感じてしまうのかも知れない。
でも愛する人と結婚して子供を産み育てるのが私の夢なのよ。
最悪、昼間の外交は私がサポートしても良いのだし。
……あら、考えてみればそうよね。そしたら昼は私、夜はグレンとどちらのタイミングでも外交がこなせて、かえって今より楽にならないかしらね? やだ私ったら頭良くない?
これはメメにも相談してみるべき案件ね。
爪先の痛みがジンジンと耐え難くなって来たので、父に断りを入れて会場を後にすると、ぎこちない足取りで王宮の奥の自室へ戻るのだった。
元々のグレンの資質の高さと……ついでに私のサポートの甲斐もあったのかは分からないが、ディナーパーティーから数日後の夕食時に、何と父が彼を婚約者として認めてやっても良いと言ってきた。
「本当? 本当なの父様……じゃなかった、パパ?」
「ああ。──ただし仮だ。三カ月の猶予期間の後に正式に認めるかどうかを決めることにした」
「……え? どういうこと?」
「エヴリン、彼は悪い男ではない。それは分かる。だが、彼は吸血鬼族だ。言いたいことは分かるな?」
「えーと……」
「昼間、頑張って執務がこなせるのかと言えば正直厳しい。だが人間の国では基本的なやり取りは昼間がメインだ」
「それなのですが、メメとも相談をしたのだけれど、私が昼間に外交や折衝などを代行するのはどうかしら?」
「最初から妻におんぶする形にするのか? 一緒に行動するならまだしも、主な決定事項を全部王妃が決めるというのは彼のプライドだって傷がつくし、種族の問題に疎い人間に『国王は昼間の活動が出来ない』という弱点をさらけ出すのは政治的に大問題だ。今は平和だが、今後いざこざが起きた時に、昼間攻めて来られたらどうするつもりだ? エヴリンがかなり剣を使えるのも私は知っているが、多くの人間は知らない。上に立つ人間が頼りになるかどうかの不安を持ったままで全力を出せる人間は多くないし、例えお前が強いことが分かったとしても、やはり王妃だけ働かせて国王はお飾りかとバカにされるだろう」
「それは……」
彼の弱みをフォローするつもりで、そこまでは考えていなかった。私も浅慮だ。グレンがバカにされるのは耐えられない。
「だから、この三カ月で彼が昼間も何とか起きて執務に耐えられるように、徐々に鍛えてみようかと思う」
「どうやって?」
「最初のうちは夕方から夜にかけて仕事を学ばせ、毎週一時間ずつ眠る時間を遅らせて体を慣らさせる。いつも眠るのが午前九時前後、起きるのが午後四時頃と聞いているから、このサイクルを三カ月で十二時間ずらせないかと考えている」
「夜の九時に眠る人にするってこと? ただ元々の種族の体質なのだし、そんなに簡単に行くとは思えないのだけれど」
父は少し口角を上げた。それにしても我が父ながら、無駄に美丈夫のせいなのか、所作の一つ一つに気品と華がある。何故私のような大雑把な娘が産まれたのか不思議で仕方がない。
「これは私が出来る最大限の譲歩だ。大体夜の九時に眠るのだって幼子レベルだぞ? 最終的にはせめて深夜零時から朝七時ぐらいまでを睡眠時間にして欲しいぐらいだ。……まあ可愛い娘を妻にして国を治められるのだから、種族の縛りぐらいは自らぶち破るぐらいの気概でいて貰わないとな。──そうそう、グレンはこの話を受けたぞ? まあ可能性は低くても、受けなければ婚約者にはなれないのだから当然だがな」
「厳し過ぎるじゃないの! そんなに急には生活スタイルを変えるのは難しいじゃない。せめて数年かけてならまだしも……」
「呑気なことを言うな。数年もかけていたら、エヴリンの子供を産める期間がより狭まるだろう? 子を授かるのだって種族が違えば数年掛かるかも知れないのだし、お前も他人事ではないのだぞ?」
「あ……」
そうか。種族が違えば子供は出来にくいという話は以前から聞いていた。両親も種族が違うせいで、結婚してから私を授かるまで四年掛かったと教えてもらったのを失念していた。
せっかくグレンが婚約者(仮)となって喜んでいたけれど、崖っぷちなのは変わらない。彼が夜型生活を変えられなければ結婚は水に流れてしまうのだ。
「パパ、もしグレンが夜型生活から昼型生活に出来なかった際は……」
「んー? その際は二番目の候補が繰り上がる。ほら、虎族のロジャー」
「……ああ、あのお喋りな人」
口から産まれたのかと思うほどペラペラと私を褒め称えていた人だ。富裕な領主の次男坊だったか。軽薄な感じの男だったが、魔物討伐もそれなりにこなしていたのだろう。
「まあそういうことだ。ここは私に感謝してくれないか。エヴリンの願いも考慮しつつ、妥協点を出している懐の広さに」
さあ、と腕を広げて笑みを浮かべる父を放置して、私は考え込んだ。
確かに妥協点を出してくれたのは助かる。けれど、この試みが三カ月で成功する可能性がどれだけあるのだろうか。
「そうね、ありがとうパパ。私、ちょっとゾアのところに行って来るわ」
「あ、ああ分かった」
広げた手を下ろした父は、思ったほど私が喜んでないことに少しショックだったようだが、婚約者(確)ではなく婚約者(仮)である。まだ喜べる状態でも何でもないのだ。
(私の浅知恵だけでは手詰まりだわ。善後策をゾアと練らなくては)
グレンが何とか仮とは言え婚約者になったが、この地位を固めなければあの軽薄男と結婚しなくてはならない。それだけは絶対に嫌だ。
「……やだわあ……私ったら休む暇がないじゃないの」
ブツブツと文句を言いながら、私は早足で自室へ戻りつつ、ああでもないこうでもない、と頭を痛めていた。
「──いや、普通に厳しくないかしらそれ?」
私がゾアの屋敷に向かって彼女に経緯を説明すると、そう返された。
「だって子供の頃は平気でも、成人になると血が覚醒して昼間起きていられなくなるって、種族の特性みたいなものじゃないの。そりゃあ個人差はあるとは思うわよ? 同じ吸血鬼族でもグレンのお父様みたいに、仕事の関係で昼ぐらいまで起きていられる方もいるし。けれど彼のお母様は生粋の吸血鬼族だし、早朝には寝てしまうでしょう? 子供の頃の記憶では夕食でしかお会いしたことないもの。グレンもお母様の血が濃いんじゃないかしら」
「三カ月で体質改善というか、生活スタイルの矯正みたいなものって、やっぱり無理よねえ」
「グレンがいくら頑張ってくれたとしても、種族に染み付いたものだし、なかなか難しいのじゃない? 気合とか努力で何とか出来る問題ばかりじゃないわ。まあ夜勤の仕事には便利だろうし、エヴリンと結婚出来る可能性が生まれなければ、変える必要性もなかったんだと思うもの」
「サポートしたくても、こればかりはどうにも出来ないものね……」
私はガックリと肩を落とす。
「エヴリン、落ち込んでても仕方ないわよ。グレンには頑張って貰うしかないのだから。祈るしかないわ。ダメなら諦め──」
「諦められる訳がないじゃないの! かすかでも希望の火が灯ったのに」
私はキッとゾアを睨み言い返す。
「ずっと好きだったのよ? と言うか今でも好きだけど、婚約者(仮)まで来たのだから、何とか正式な婚約者に昇格して欲しいのようううう」
「泣かないでよエヴリン。私だって心配しつつも応援してるのだから……あら、ネイサンよ」
ゾアの声に私が顔を上げると、ゾアの部屋のベランダの手すりのところにネイサンが止まっていた。
ちなみにネイサンと言うのはグレンの眷属、と言うかグレンから言えば親友のような存在のコウモリである。
ネイサンは、数十年前からグレンの実家であるカーフェイ家の当主を庇護しているようで、恐ろしく長生きなためなのか、私たちに念話で語り掛けることが出来る。ある程度の気心知れた付き合いがないと難しいそうで、私もゾアも最初の頃は全く通じなかったらしい。グレンと幼馴染みでなければ多分今も話は出来ないままだっただろう。
眷属として犬や猫などと一緒に暮らしている吸血鬼族の友人知人はいるが、念話が出来るという話はネイサン以外は聞いたことがない。
もちろんその念話が出来ない彼らも会話は理解しているようだが、あくまでも一方通行な感じのようだ。
カーフェイ家でもネイサンが念話出来るのは謎だそうだが、グレンの家族は皆のんびりしているので、「まあ便利ね」「本当だなあ」で終わっているらしい。まあそういう家風も、あのほんわかでおっとりしたグレンを育てたのだと思うけど。
『おー、久しぶりじゃのーエヴリンとゾアよー』
ゾアがベランダの窓を開けるとパタパタと室内に飛んで来た。
「お久しぶりねネイサン」
「あら、元気にしてた?」
『ワシはいつでも元気一杯じゃー……ああ、でも腹が減ったから何か馳走してくれんかのう?』
「あ、ちょっと待っててね」
ゾアは呼び鈴を鳴らすと、メイドに私たちの飲み物を頼むついでに果物を頼む。お茶とブドウを運んで来たメイドに、
『いや、こりゃすまないねえお嬢さん』
などと申し訳なさそうに言っているが、当然メイドには全く伝わっていないのでスルーされている。嬉しそうにブドウを食べているネイサンを眺めながら、私は不思議に思って問い掛けた。
「それにしても、普段なら仕事中でも大体グレンの傍にいるのに、今日は一体どうしたの?」
「まあ王宮の天井とかでぶら下がってるのしか見た覚えはないけれど」
『……あのな、年を取ると無駄な動きはしなくなるんじゃよ。これでもちゃんとグレンの危機の時にはシャシャシャっとな』
「グレンが危険になることはそうそうないと思うけれど」
「騎士団でもかなり腕は立つし期待されてるみたいだものね」
『──ゾア、馳走になった。まワシのことはいい。今回はエヴリンとグレンが婚約したって聞いたもんで、王宮に会いに行ったんじゃがゾアのところにいると聞いての。昔馴染みとして祝いがてら話を聞こうかと』
「……まだ仮なのだけどね」
『仮とは何じゃ?』
私はネイサンに事情を説明した。
ネイサンはお腹をさすりながら首を捻る。
『エヴリンよ、お主はグレンが夜型の生活を改められると思っとるのか?』
「ゾアとも話していたのだけど、種族の問題だから難しいんじゃないかって……ただ、私はグレンを婚約者としてきちんと父に認めてもらいたいのよ」
『ふうむ……まあグレンは昔から家でエヴリンエヴリンうるさかったし、結婚して幸せになって欲しいのはやまやまじゃが、難しいのう』
「ちょっとネイサン今の話をもっと詳しく」
『──おっと失敬。口が滑ったわい。今のはなしで頼む。自身の気持ちを他人に語られるなど興ざめじゃからの』
「……」
いや私だって本人に語って欲しい気持ちはものすごくある。だが、グレンからも「まだ仮の状態なので三カ月後に改めて話を聞いて頂きたい」などと先手を打たれてしまったのだ。
このままでは私はモヤモヤで死ぬのではなかろうか。
『んー、だが、何じゃったかのう……エヴリンに伝えたかったことが、何かここまで出ているんじゃが……』
ネイサンが頭をツンツンと爪でつつきながらくりっとした目を閉じた。
しばらくうんうん言っていたが、諦めたように目を開いた。
『思い出せん。まあとりあえず、暫くは様子を見るしかないじゃろな。まずは一カ月後の状況で改めて話し合おう。──余談だがエヴリン、お前はグレンと結婚になっても……ほれ、そのう、問題はないんじゃな?』
「問題ないと言うより、喜んで結婚したいわ」
『……奇特じゃの。まあええ。それならワシも協力せねばなるまい。ゾアよ、お前も友だちなんじゃから協力するんじゃろ?』
「当たり前じゃないの」
ベランダの手すりにパタパタと飛び乗ったネイサンは頷いた。
『じゃあ、ここを作戦場所にするか。王宮より気楽じゃし。ほいじゃあまた来るからの。次は出来たらオレンジを用意しておいてくれ。甘ーいのな』
そう告げると、パタパタと勢い良く飛んで行った。
「人んちを勝手に作戦場所にした上、たかられたわねジー様に」
「フルーツぐらいで協力してくれるなら安いものだわ。家からも山盛りでフルーツ送るから、私からも是非お願いするわ」
「冗談よ。……どちらにせよグレンが乗り切ってくれたら、作戦だの練らなくても終わるのだけどね」
「──そうね」
グレンからの告白も聞いてないのだし、正式な婚約者になってもらわなければ私が困るのよ。
……いえ、私の邪な願いは置いといて、グレンのためになるなら何でもやるわ。私は心の中で誓った。