「……はい、橘コーポレーションの篤姫嬢がお越しです」

運転手がインターホンのような物にそう話しかけると、少し威圧感を感じる門がギギギ…と音をたてて動いた。
まるで誘うように、それでいて上品に開いた門を潜り抜ける。
すると…

「……!」

門を越えた先には、とても煌びやかな世界が広がっていた。
桜が舞い散り、どこからか笛の音が聞こえてくる。ここから見る景色、聞く音、全てが特別だった。
しばし魅入ってしまっていると、私の様子に気が付いたのか、運転手がクスッと笑う。

「お嬢様は初めてのお越しですから、さぞ驚きでしょう」
「え、ええ……一度見たら、二度と忘れられないような美しさだわ」

たった一度この景色を見ただけでも、この世の全ての人間は遊里の虜になってしまうのだろう。
__勿論、私も例外ではない。

「…あら、あれは何かしら?」

夢中になって窓を見ていると、遠くに行列のような物が見えた。
その辺りを歩いていた人々も、次々と道を空けていく。

「ああ、あれは花魁道中ですよ。かなり近いので、顔が見られるのではないでしょうか」

花魁道中……

興味が湧いてしまい、窓を開けて行列の方を見遣った。
行列は確実に此方に近づいてきていて、だんだんと花魁の輪郭、表情が定まっていく。

…あ、あとちょっと……

よく見ようと少し身を乗り出した瞬間、花魁が此方を振り向いた。
杏色の長髪が、甘い残り香を纏って柔らかく翻る。
その一瞬の動作に魅せられて、ついじっと見つめていると、赭色の大きな瞳が私を捉えた。

ドクン

無理やり心臓を掴まれたように、激しく鼓動が高鳴る。
目が合った瞬間の薄く笑った表情が、少し開いた唇の形が、何度も何度も頭の中で再生される。
身体が紐で縛られているように、固まって動けない。
少しでも動いてしまったら、あの瞬間を忘れてしまいそうで、ただ呆然と背中を目で追いかけていた。

「とても綺麗な方でしたね。……お嬢様?」
「……あっ、そう、ね…」

ついぽーっと見つめてしまっていて、反応が遅れてしまった。

それにしても……

あの、無理やり心臓を鳴らされるような感覚。
少し強引な鳴らされ方ではあったけれど、全く不快に感じることはなかった。
寧ろもっと鳴らして欲しいとさえ、心の何処かで願ってしまっている。


たった一瞬目が合っただけなのに、こんなにも心を掻き乱されてしまった。
あの一瞬、あの一秒に取り残されて、いつまでも動けない私を置いていくかのように、車にゆっくりとエンジンがかかった。




「…お嬢様、到着しましたよ。ここが春告鳥屋(はるつげちょうや)です」

運転手に促され、外へと一歩足を踏み出す。
目の前には、堂々とした佇まいでその場を陣取っている、豪華な建物があった。
屋根に吊らされている提灯は、なんとも優美な明かりを灯し、風でゆらゆらと楽しそうに揺れている。
窓から見るのと、実際に立って見るのとでは、完全に訳が違っていた。
ここでずっと立ち止まっているのでは、他の通行人に迷惑をかけてしまうため、おずおずと店内に入る。
そして、近くにいた少女に声をかけた。

「お仕事中よろしいかしら、わたくしは橘 篤姫というのですけれど。こちらに、橘の当主はいらっしゃって?『春告鳥屋で待っている』との言伝があったのですが」

私が声をかけると、少女は顔を真っ青にして慌て始めた。

「え、えっと……申し訳ありんせん!今すぐ確認してくるでありんす。少々お待ちなんし!」
「ええ、頼むわね」

そう言うなり、パタパタと急いで駆け出す彼女。

…でも、普通あんなに慌てるかな?

「ねえ…言伝は、春告鳥屋で間違いないのよね?」
「はい、そう伺っておりますが…」

二人して首を捻っていると、さっきの少女が息を切らせて帰ってきた。

「…っ、はっ、はっ……失礼いたしんした。橘のご当主様は、月虹(げっこう)の間でこなた様をお待ちでありんす。わっちが案内いたしんすえ」
「急がせて悪いわね。是非、お願いするわ」

走って来させたことを詫び、彼女について行く。
まだ廊下を歩いているだけだが、その廊下でさえも綺麗で、視界の端に映る襖もとても豪華だ。
はしたないとわかっていても、つい顔をキョロキョロさせてしまう。
目を輝かせながら歩いていると、前にいた少女が立ち止まった。
どうやら、目的地に着いたらしい。

「こちらのお部屋が、月虹の間でありんす」

襖を一目見ただけでも、この部屋が店の最上級ランクであるということがわかった。
金糸で縁取られた菊の花や曼珠沙華が、襖の上で咲き誇っている。

「ありがとう、もう下がっていいわよ」
「あい」

少女を下がらせ、運転手へと合図を送った。
すると、運転手は襖へと手をかけた後、私に確認をとる。

「もう開けても宜しゅうございますか?」
「……ええ、いいわ。開けて頂戴」

私の言葉と共に、ゆっくりと襖が開かれた。
私はすぐさま笑顔を形作り、深く礼をする。

「お父様、篤姫が参りました。入室をお許し願えますでしょうか」
「ああ、篤姫か。勿論だ、早く此方に来なさい」
「ありがとう存じます」

返事が聞けたことに安堵し、音をたてずに隣へと移動した。
そして、笑みを続けたまま定型文を口にする。

「お久しゅうございますわ、お父様。お元気そうで安心いたしました。篤姫は、ずっと心配していたのですよ」
「そうか、すまない」
「いえ、お父様がお謝りになることではございませんわ。元気でいらっしゃっただけで、わたくしは充分です」

…と、ここまでが定型文だ。
久しぶりに会った場合は、必ず行う。
内心うんざりしながらも会話を終えると、自分とお父様の目の前に、誰かが座っていることに気が付いた。

「…ああ、紹介し忘れていた。さあ、寒緋(かんひ)。娘に挨拶をしてくれ」

『寒緋』と呼ばれた人に視線を向けると、そこには先程目が合った花魁がいた。
その花魁は、私の驚きなんて知りもせず、溶けてしまいそうなほど甘い笑みを浮かべる。

「お初にお目にかかりんす、わちきの名前は寒緋。こなた様に会うことができて、誠に嬉しゅうございんす」

言葉を紡ぐ唇が、まるで歌うように旋律を奏でる声色が、全て妖艶に思えて頬が紅く染まった。
私が『綺麗だ』と思ったその全てが彼の計算で、只の作り物なのかも知れない。
そうかも知れないけれど、その作り物さえ、もっと知りたいと思わせるほどの魅力があった。