少し開けられた窓から、桜の花びらとともに、春の甘ったるい香りが舞った。
ふと視線を外に向けると、もう高校のすぐそばまで来ていることに気付く。

「ねえ、ここら辺で停めて下さらない?高校までもう近いのよ」
「左様でございますか。さすれば、こちらにお停めいたしましょう」
「ありがとう、行ってくるわ」

息苦しい車内から一歩外に出て、新鮮な空気を吸う。
そこでやっと、私は生きていると感じた。

私は、かの有名な“橘コーポレーション”の一人娘、つまりは正真正銘の令嬢だ。
しかし令嬢といっても、実際は狭い水槽の中で必死に生きている只の魚。毎日喘ぐように呼吸をしている私は、両親にはさぞ滑稽に映っていることだろう。
そういう自分が嫌いで、今まで“橘”であることを周りに隠してきた。
学生の間だけでいい、それだけでいいから、自分が橘の人間であるという事実を抹消したかった。忘れていたかった。
そんな思いで入学した高校も、今日で2年目。クラス替えが行われる。


「おっはよ〜、篤姫(あつき)!」

後ろから、聞き慣れた元気な挨拶が聴こえてきた。
私はつい嬉しくなって、少し大袈裟に振り向く。

「おはよう、千夏(ちなつ)!同じクラスになれると良いね!」
「そうだねえ……あーあ、篤姫とクラスが離れたら、この髪を触るのもお預けかあ……」

そう言って、恭しく私の髪に触れる千夏。

「もう、大袈裟!それに、どうせクラスが変わっても触るんでしょ?」
「ふふ、せいかーい!」

無邪気に私の髪を褒めてくれる彼女。
けれど、彼女は知らないのだ。
この白髪が、橘の人間であると示していることを。
私は他の人の目から自分を守るように、さっさと髪を高く結い上げてフードを被った。

「あ〜、今日もフード被っちゃったあ……せっかくの綺麗な白髪なのにい……」

頬を膨らませながら、ぷりぷり怒っている千夏に苦笑が漏れる。

「ごめんって、千夏。でもね、私はこの髪があんまり好きじゃないから」

鏡を見るたび、髪を解くたび、自分がどんな人間なのかわかってしまう。
両親がどんなに無関心でも、自分も同じだと知ってしまう。
そんなこの髪が嫌いで、いつしか高く結い上げてフードを被るようになっていた。

「私が、こんなにも毎日愛を囁いてるのに?」

ちょっと戯けたような言い方に、口から笑いが溢れでる。

「ふふ、なーに言ってんの。ほら、あそこにクラス表あるよ!」
「まじ!?行こ行こ!!」

そう言いながら、駆け出していく千夏の背中を追いかける。

…ああ、ずっとこのままでいたいなあ。

友達とふざけあって、毎日一緒に登校して。
そんな日々が大好きで堪らない、愛しくて堪らないのだ。


しかし、そんな淡くて脆い願いは_____




_____いとも簡単に壊れゆくものだ。




クラス表に書かれた通り2-Cの教室に入ると、直ぐに異様な雰囲気に気が付いた。
誰もが、ひそひそと言葉を囁き合っている。

「えっ、あの子って橘のお嬢様なのっ!?」
「そうらしいよ、今噂になってるの。でも、なんかお嬢様って……ねぇ?なんか、お高くとまってそうじゃない?」
「あ、わかる〜!あんまり近付きたくないよねー」

その言葉が耳に届いた瞬間、一気に背筋が凍った。

……え?なんで…?どうして知ってるの…?

一瞬動揺するも、すぐに今の状況を冷静に分析する。
こうなったらもう、周りの反応は二通りだ。
猫撫で声で擦り寄ってくるか、遠巻きに言葉を交わし合うか。

もし、千夏が同じクラスだったら……

『良かったのに』と続けようとするが、その言葉がつっかえて出てこない。

…そもそも、千夏が変わらずに接してくれる保証なんてどこにあるの?信じたって信じたって、裏切られてきたのに。

頭の中には、私が“橘”で あることを知って態度が変わってしまった、かつての友の姿が幾つも幾つも浮かび上がる。
今更誰かを信じることなんて、私に出来るはずないのだ。

…もういいや、疲れちゃった。

思考することを放棄し、真っ直ぐに自分の席へと向かう。
すると、自分以外にもたった一人、同じように席に座って読書をしている人を見つけた。
杏色の長髪を低めの位置で束ねている、色素が薄めの男の子だ。

名前は……遊馬(あすま)さんか。……少し仲良くなりたいかも。

誰とも言葉を交わさず、本と向き合っている彼なら、私を“私個人”として見てくれる気がした。
でも、本当はそんなの言い訳で、風で揺れる柔らかい髪や、本のページを捲る綺麗な手に惹かれただけなのかもしれない。




今日は新学期初日であったため、午前中で授業が終わった。
そのため、手早く荷物を纏めると、颯爽と校門を潜り抜ける。
そして、校門近くに停められていた車に乗り込んだ。

ガチャ

「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ええ、今戻ったわ。それより、この後は何か用事があるのかしら?」

今日は色々あって、精神的にも体力的にも、もう限界だ。叶うことなら、全力で休むことを提案したいのだが。
しかし、その思いは届かず、運転手は少し躊躇うように口を開く。

「……今日は、遊里に来るようにとお父上様から申しつかっております」
「…!……そう」

遊里……

一般人は、遊里など江戸時代には途絶えているものだと考えているが、実際は違う。
遊里は、現在も存在しているのだ。それは富豪層だけが知っていて、毎夜毎夜、国の頂点ともいえる人々がその場へと足繁く通っている。
昔の遊里と違うところといえば、男性も遊女として働いているところだろうか。

……『行きたくない』なんて、言ってもしょうがないのでしょうね。

「…わかったわ。昼食はとらなくて良いから、今すぐ向かって頂戴」
「かしこまりました」

遊里は、此処からさほど遠くないと聞いている。
あと数十分ほどで到着するだろう。

「はあ……」

運転手に聞こえない程の声量で、溜息を吐いた。

いつかは連れていかれるだろうと思っていたけど……まさか今日なんて……

私は、今まで遊里を訪れている人々は、なんて醜いのだろうと思っていた。
そこで働いている遊女達を、日頃の鬱憤の捌け口としか見ていない欲望に塗れた人達。
しかし、そんなことが許されていて、遊女達は花魁となるため、寧ろそれを望んでいる。

そんな場所、どう考えても狂ってるでしょ…!

ギリっと歯をくいしばる。

でも……

私も、今日遊里に行ったら変わってしまうのだろうか?
『醜い』と蔑んでいた人達と同じように、自分も遊女達を求めてしまうのだろうか?
被っていたフードを脱ぎ、結わいていた髪ゴムに手をかける。

パサ……

指先から、髪の束が零れ落ちる感触がした。
それらを手に取り、色を確かめる。
瞳に映るのは、紛れもなく白髪だった。陽の光を浴びて輝く髪に、憎しみすらも覚える。

…嗚呼、すぐに行くわお父様。どうせ、私にも貴女と同じ血が流れているのだから。