「……なんで?」
その言葉を皮切りに、涙腺が決壊した。
胸の痛みも、のど元の痛みもこらえて、声を振り絞った。
「なんで私が怒られなきゃいけないの? 私、頑張ってるじゃん。勝見君のこと好きだから。勝見君の自慢の彼女でいたいから。必死にやってるじゃん。なのに、何で怒られなきゃいけないの? 何が足りないの? なんで勝見君は……」
__私に一目ぼれなんかしちゃったの?
「坂井さん、落ち着いて」
子どものように泣きじゃくる私の肩が、勝見君の手でぐっと強く掴まれる。
その力強さは、いつだって私を優しく抱き留めてくれていた。
の大きな手の温かさは、私をいつも包み込んでくれていた。
その手が大好きだった。
その手にずっと、触れられていたかった。
それなのに、私はその手を、ばっと振り払った。
そうした瞬間、勝見君の寂しげな表情が一瞬ちらりと見えた。
そんな顔をさせたことに胸が痛いほど締め付けられる。
「ごめん」って言わなきゃいけないのに、私の口からは、勝見君を責める言葉しか出てこなかった。
「だから言ったじゃん。一目ぼれの恋なんて、上手くいかないって。勘違いなんだよ。間違いなんだよ」
全速力で走った時みたいに、息が切れていた。
呼吸が苦しかった。
のどが痛い。
鼻が痛い。
全部、どこもかしこも痛い。
「じゃあ、坂井さんはどうなの?」
ぼそりと放たれた冷え切った声に、思わず視線を向けてしまった。
勝見君の、見たことのない寂しげな視線が、胸を刺してくる。
「坂井さんが俺に一目ぼれしたってのは? あれも、勘違いだったの? 間違いだったの? 俺に一目ぼれするんじゃなかったって、思ってる?」
私は何も答えられなかった。
答えは明確なはずなのに。
この思いは間違いであるはずがない。
勘違いになんて、したくない。
だけどその一方で、すべてに打ちのめされて立ち上がれないでいる私が、諦めの言葉を吐き捨てる。
こんなに大好きになるなら、一目ぼれなんて、しなきゃよかった、……って。
だけどそれを正直に言ってしまったら、私たちはもう元には戻れないってわかってた。
いやもうすでに、修復不可能なところまで来てるのかもしれない。
それは、勝見君も同じだったのかもしれない。
私の返事を待つ勝見君の強いまなざしが、すっと消えていく。
息を吐き出した瞬間に、微妙に肩が落ちたように見えた。
「ごめん」
勝見君の口から、ぽろりと言葉が漏れる。
「担当の時間だから、俺行くわ」
そう言って、勝見君は私のそばをすたすたと通りすぎていく。
冷たい空気をまといながら。
私の血の気も体温も、その冷たい空気にさっとさらわれていくようだった。
勝見君の足音が、どんどん遠くなる。
追いかければまだ手が届く。
その腕にしがみつける。
手を伸ばせば、その指先に触れられるはず。
声をかければ、名前を呼べば、素直な思いが届く距離。
それなのに、私はその場から一歩も動けなかった。
思い出されるすべての愛おしい思い出が、涙と一緒に零れ落ちていく。
絡み合う指の感触。
触れ合う唇。
優しく大きな手。
ふわりふわりと揺れる、力強い腕。
もう私には、何もない。
ほら、私の言った通りでしょ?
一目ぼれから始まる恋なんて、上手くいかない。
突然すみません、園田です。
どうして僕がこんなところに出てきたかって?
そんなの、僕が聞きたい。
たこ焼き焼くシーンだけで、自分の中ではもう十分、この地味な存在感を発揮し終えたと思うんだけど。
むしろ目立っちゃってごめんなさい。
僕だってほんとは、クラスメイトの男子Aとか、それぐらいのポジションでいいんだ。
劇的な展開とか、大どんでん返しとか、そんなの僕に求めても起こせないし、そもそも起こらないから。
だって僕、地味男子だし。
でも、あえて役名をつけてもらえるなら、「あいつの友達」……とか?
あいつに短期のバイトに誘われたのは、もうすぐ夏休みを迎える7月の中頃だった。
僕はいつものように学校帰りにあいつを自転車の後ろに乗せて、肩にあいつの手の重みを感じながら、あいつのバイト先に向かっていた。
あいつがバイトをしている語学カフェで、お盆明けに「日本の縁日」というイベントをすることになったらしい。
語学カフェの外国人講師たちが、カフェの体験入店をする日本人のお客さんを縁日でもてなすというイベントだそうだ。
要は、新規顧客の開拓だ。
ちゃんとバイト代も支給される。
とはいえ、僕は受験生だ。
受験生の身としては、この「勝負の夏休み」を一日たりとも無駄にはしたくない。
三年になってから塾にだって通い始めた。
忙しいこと極まりない。
ただ僕がそんな時期にこのバイトを了承したのは、あいつがタダで家庭教師をしてくれると言うからだ。
その言葉に魅かれる。
なぜなら、あいつはすごく頭がいいからだ。
塾の先生の永遠に続きそうな説明を何時間、何十回と聞いて理解できなくても、あいつの説明を一度聞けば解決する。
とにかくめちゃめちゃ分かりやすい。
本音を言えばずっと教えてほしいぐらい。
だけどあいつは、僕にそんなに優しくない。
マンツーマンで教えてもらえるのはいいけど、多少の厳しい罵倒には目をつぶらざるを得ない。
だけどその指導を耐えしのいだ先には、その後同じような問題にぶつかってもすんなり解ける力が身についている。
あいつがいなくても、自分の力で解決できるようになっている。
何度も解ける。
面白いように。
すらすらと繰り出される数式やあらゆる単語が、自分の手から紡ぎ出されているなんて嘘みたいに。
だから僕は貴重な夏休みの三日間だけ、この語学カフェのイベントの手伝いに身骨を砕くことにした。身骨を砕くなんて大袈裟だな、なんて、自分で言って笑ってしまうけど、その手伝いが、ほんとに身も骨も、ついでに心も砕くような地獄のバイトになるとは、その時の僕は思いもしなかった。
縁日では王道のヨーヨーすくいや射的、綿あめづくり体験などが行われる。
んな中僕が担当を受け持つことになったのは、たこ焼きだった。
たこ焼きなんて焼いたことない。
だけど、そんなことは気にしなくていいらしい。
その理由はすぐに分かった。
お盆明けから二日間にわたって、本場大阪でたこ焼き屋のバイトを5年していたというエクアドル人から、たこ焼きの熱血指導を受けた。
流暢な関西弁で、僕の焦げて崩れたたこ焼きを大いに非難した。
「なんでやねん」
「ほんまかいな」
「なにぬかしとんねん」
きつい。
しんどい。
こんなことなら塾でわけのわからない問題に当たって頭を抱えていたほうがましだった。
あいつがカフェの受付のバイトをしながら涼しい顔で外国人や日本人の相手をする一方で、僕は店のバックヤードで、汗を流して熱い鉄板と関西弁に向き合っていた。
店内から流れてくるおしゃれな音楽やクーラーの風を感じることはなかった。
気合いと雰囲気のために巻かされたねじり鉢巻きには、汗がぐっしょりとしみ込んでいた。
タンクトップに法被を羽織らせられると、いよいよ僕は何を目指しているのかわからなくなった。
なんでこんなに怒られなあかんねん、と心の声が関西弁化していることに違和感さえ覚えず、僕は完全に自分を見失いかけていた。
こうして二日間で、僕のたこ焼きスキルは格段に上がった。
もう初心者なんて言わせない。
縁日本番当日、たこ焼きを真剣に焼きながら、目の前から浴びせられる歓声に気分を良くし、習得したばかりのピックさばきでたこ焼きをくるりと回す。
みんなのきらめく視線が僕に集まっていた。
情けないけど、こんな風に人から注目されたことは今までなかった。
学校でさえも。
ただ、チラシに書かれた「祭」という言葉に興味を持ってやってきた外国人のお客さんや、外国人講師の家族もやってきていて、その人たちがものすごい勢いでたこ焼きを指さしながら話しかけてくるのには困った。
僕はたこ焼きを焼く手を止めて、口をぽかんと開けたまま、相手の指が上下するのを目で追うしかなかった。
僕がそんなお客さんに困惑していると、隣でヨーヨー掬いの風船を膨らませるあいつがフォローしてくれる。
英語、中国語、韓国語、ドイツ語……。
浴びせられるすべての言語に対して、淀みなく巧みに返していく。
一体、こいつは何人になってしまったのだろう。
だけどそんなあいつの姿はまぶしい。
目尻をふにゃりと下げた人懐っこい笑顔に、僕は思わず顔をしかめる。
__勝見のくせに。
修業期間も含めた三日間に及ぶ激動のバイトが終わって、僕はもうぐったりだった。
ピックでたこ焼きを細かくつつき続けた両手は、何もしていないのに震えている。
腕もパンパンだ。
はちまきを外した髪は逆立ってなかなか下りてこない。
僕は一生に食べる分のたこ焼きを焼いたと思う。
「お疲れ」
あいつは僕に缶コーヒーと綿あめをさしだした。
__この組み合わせって、どうなの?
そう思いながらも、僕はそれをありがたく受け取った。
あいつが自分の缶コーヒーに手をかけると、ぱかっと爽快な音が、祭りの名残をかすかに含んだ店内に響いた。
「園田、やせた?」
あいつはニヤニヤしながら僕の顔を覗き込む。
やせたんじゃない、やつれたんだ。
「お前は元気だな。あんなに日本語以外の言葉をかわるがわる話してるのに。頭破裂しないの?」
「するかよ、あれぐらいで」
おかしそうに笑うあいつをぎろりと睨みつけて、僕は缶コーヒーを飲む。
口に含んだとたん、感じたことのない苦みが口に広がる。
缶のパッケージを見ると、全体が真っ黒だ。
それもそのはず、差し出されたのはブラックのコーヒーだ。
ブラックコーヒーなんて、生まれてこの方飲んだことない。
僕の専門は甘いカフェオレだ。
僕はすかさず、もう片方の手に握らされた綿あめにかぶりつく。
口の中に甘さがふわっと広がって、あっという間になくなる。
あのコーヒーの苦みも連れて。
__おお、めちゃめちゃいい組み合わせ。
その味と感覚は癖になるほどで、僕は気が済むまで交互に食べたり飲んだりした。