きみに ひとめぼれなおし

「よし、これでいいかな。ごめん、行こっか」

ぼうっとしていた私の手からすっとスマホを抜いて、勝見君は再び歩き出した。
私もそれに合わせて歩き出す。
だけど、私の視界でちらちらと動く勝見君の腕が気になって仕方なかった。

__触れたい。

その気持ちを煽ってくる。
腕を伸ばせばすぐに届く場所にその愛おしいものはあるのに、私はなぜかそれをためらってしまう。

勝見君を好きになってもう一年が経った。
付き合って、もうすぐ一年を迎えようとしている。
それなのに、恋人っぽくすることの気恥ずかしさがなかなか抜けなかった。
月日を重ねるほどに、それを難しく感じてしまう。
普通逆だと思っていた。
時間を重ねれば、自然とやってのけられるものだと思っていた。
それなのに、いちいちドキドキしてしまって、結局私にはできない。
行動を起こしてくれるのは、いつも勝見君からだ。
手をつなぐのも、抱きしめるのも、キスをするのも。

こんな時、素直に甘えられない自分が全然かわいくなくて、嫌になる。
さっきみたいに、衝動に任せてやってしまえばいいのに。
それでも、女子から向かっていくなんて、ちょっと引くかな、なんて、余計なことを考えたり心配して遠慮してしまう。

目の前で揺れる愛おしい腕を目で追うことしかできないくせに、勝手に胸が締め付けられる。
何のタネも仕掛けにも出会うことのないまま、私たちはずんずん進んだ。
時々、ここではきっと何かが起きるであろう少し広めの空間が現れるけど、もちろん今日は何も起こらない。
いくつかのスペースを素通りして、そろそろこの狭い教室を一周した頃、勝見君はぴたりと止まった。

目の前には、誰もが一度は目にしたことがある形の、大きな棺が現れた。
人一人分入れそうなその棺には、トレードマークである十字架が張り付けられている。
勝見君のスマホのライトに照らされて、銀紙で作られた十字架は鈍く光っていた。

「俺、ドラキュラやるんだ」
「へえ。勝見君、お化け役するんだ」

意外だ。
めんどくさいとか言って、テキトーに他の簡単そうな役回りをしそうなのに。

「グループで一人一回、お化け役が回ってくるから」
「じゃあ私、勝見君がドラキュラやってるときに行こうかな。勝見君が気合入れて文化祭に参加する姿なんて貴重だし。しかもそれがお化け役って。見る価値ありだね。由美が喜びそう」
「俺、見せ物じゃないんだけど」
「でも、ずっとこの中入ってるのって、大変じゃない?中、真っ暗でしょ? 暑そうだし」
「ずっと入ってるわけじゃないよ。無線持ってて、お客さんが近くまで来たら中に入る。それで通りがかったら……」

勝見君はそう言いながら私に背を向けて、棺に近づいていく。
勝見君の次の言葉を待って様子をうかがっていると、

「……うわっ」
「きゃあああああ」

その声がほぼ同時に重なった。
その叫びは教室の壁を飛び越えてと廊下にまで響き渡ったのが、かすかな残響でわかった。
私の頭の中は一瞬パニックになった。
冷静になったところで、硬くつぶられた目を少しずつ開けると、私はその場にしゃがみ込んで、後ろから口をふさがれていた。
頭の先から体を丸ごと優しい力で包み込まれて、背中にはぴったりと生暖かな感触が張り付いている。
ふっと視線を上げると、勝見君のあごのラインが見えた。
目が合うと、勝見君は私を抱く片方の手で、「しっ」と小さく人差し指を上げた。

「今のなんだった?」
「すっげえ悲鳴だったな。ってここ、お化け屋敷じゃん」
「リハーサルかなんか?」

すぐ近くで人の声がする。
足音もする。
そして私の心臓の音も、ドクンドクンとうるさく響く。
心臓に胸を思い切りたたかれているのが、骨の震えでわかる。

ここが教室の扉付近だということが、廊下から聞こえる足音や人の声の大きさで何となくわかった。

「本格的だな」なんていう声と共に、足音はどんどん遠ざかっていく。
「行ったな」

すぐ真上から落ちてくる勝見君の声が、背中によく響いた。
背中が急に恋しさを感じ始めたと思ったら、ゆっくりと、少しずつ、体が解放されていた。
それに合わせて改めて視線を上にやると、勝見君のいたずらっぽい目と出会った。

「すっごい宣伝効果になったね」
「え?」
「坂井さんのおかげだよ。ありがとう」

笑いをこらえているのがわかって、そんな姿に、私は小さな声で精いっぱい勝見君をたしなめる。

「もう勝見君、ふざけないでよ。ほんとにびっくりしたんだから」
「ごめんごめん。そんなにびっくりするとは思わなくて」

こらえきれずに苦しそうに笑う勝見君を、私はもう一度にらみつける。

「でも、俺も襲い方のいい練習になったよ。ほんと、ありがとう」

まだ笑ってる。
もうなんでもいい。
この時間が続けば、何でもいい。
勝見君と一緒にいられたら、それでいい。
膝小僧に視線を落として、ずっとこのまま不機嫌なふりでもしていようかな、なんて考えていた時だった。
背中にずしりとした重みを感じて、息が止まった。
体に巻き付くたくましい腕は、先ほどよりもぐっと力がこもっている。
頬のあたりに、柔らかで薄い皮膚が重なる感触。
肩に預けられた、頭の重み。

「怖いなら、もっとくっついてもいいよ」
「……へ?」

何も言い返せないうちに、体が後ろに引っ張られて、しゃがんだ態勢が崩れる。
あっという間に、私は勝見君の長く伸びた足の間に収まり、勝見君の胸の中に体を預けていた。
勝見君の胸のあたりに収まった耳が、勝見君の心臓の音をとらえる。
どくどくと大きな音が聞こえてくる。
勝見君が息をのむたびに、ごくりと大きな音とともに胸が大きく動く。

「ほんとに、襲っちゃおうかな」

その声に、体が震え始める。
体の震えも、乱れる呼吸も、どうにも抑えられなくて、私は胸の前で硬く組まれた勝見君の腕に、思わずしがみついた。
それを合図に、勝見君が私に顔を寄せ始める。
それに引き寄せられるように、私も顔を勝見君の方に向けていく。
勝見君の手が私の頬に触れて、その動作を促してくれる。
唇が近づくと、無意識に首を伸ばしてしまった。
キスのトリセツなんて、読んだことないよ。
だけど、キスの時って、本当に目をつぶる。
意識してつぶるんじゃない。
正確には、瞼が落ちる。

久しぶりに重ねた唇は、離しがたかった。
それは勝見君も同じなのか、離れても、何度も何度も押し付けられる。
初めてのキスではないのに、今までだって何度もキスはしてきたはずなのに、今日のキスは、今までしてきたキスのどれとも違う。
私の知っている勝見君のキスじゃない。
だって、キスってこんなに気持ちよかったっけ?

初めてじゃないのに、初めてするキス。
少しずつ激しく、乱れてくるキスに、勝見君も私の抱き方を変えていく。
キスの場所も、移動していく。
初めての感覚に、体中がフルフルと震えだす。

唇が離れた部分がしっとりと濡れていく。
そこに吐き出される勝見君の息がかかると、私の口元からも甘い吐息がもれる。
その中に、私の知らない私の声が混じる。

勝見君のキスがやまない。
いやらしく響くキスの音や、勝見君の荒い呼吸を聞きながら、私はぼんやりと天井を仰いだ。
先ほどまで真っ暗だったのに、やけに明るいなと思った。

天井全体が、柔らかな白い光で照らされている。

__なんでこんなに明るいんだろう。

その時、カッターシャツのボタンが一つ、ぷつんと外されたのがわかった。
胸元が急に解放されたはずなのに、どきんとはずんだ胸で逆に苦しさを覚える。
私の首元で揺れる勝見君に合わせて顔を動かすと、勝見君の鞄の中が妙に光って見えた。
そこで私はようやく、天井に照らされた光の正体を知った。
勝見君のスマホのライトだ。
鞄にそのまま投げ込まれたのだろう。
そのライトのおかげで、勝見君の開け広げられた鞄の中身がよく見えた。

いつも使っている問題集やノートや教科書。
筆記用具。
そのどれにも、勝見君は優しく触れる。
その手が、私は大好きだ。

飲みかけのペットボトル。
緩く巻かれたイヤホン。
無色透明の、無機質なクリアファイル。

そのファイルだけ、なぜか問題集やノートの間からはみ出ている。
まるで乱暴にツッコまれたように。
そこにはたった一枚だけ、紙がはさまれている。
挟まっているというより、ほぼ飛び出ている。
その紙は、私も見覚えがある。
高校三年生になってから、何度も何度も、嫌というほど書かされた、その紙。

あれは紛れもなく、進路希望調査票。

勝見君の志望校なら知っている。
私も同じだから。
それでも私はその紙に書かれた勝見君の文字を読み取ろうとした。
勝見君が書いた文字が好きだから。
だけど、その文字は私の知っている勝見君の字じゃない気がした。
いつもより筆圧はさらに低く、ぼんやりとあやふやな文字が並ぶ。
しかも、たった二文字。

私はその文字に目を凝らした。
そしてそこに書かれた文字がはっきり読み取れた時、私は覆いかぶさっていた勝見君の体をグイっと離していた。
そしてものすごい速さで、勝見君の鞄の中からその紙だけを抜き取った。
ちゃんと自分の目で確かめたかった。
見間違えであってほしかった。
夢であってほしかった。
夢なら覚めないと。
その思いで、自分の手をぐっと伸ばした。
だけど手にしたそれは、見間違えなんかじゃなかった。


「勝見君……これ、何?」


私から体をすっかり離した勝見君は、私のその問いかけに答えなかった。
だから、もう一度、震える声で聞いた。


「どういう、こと?」


紙から視線をゆっくりと勝見君に移すと、勝見君は困ったような顔で私を見ている。
だけど、ふっと表情を緩めた。
それは、私の困惑した表情を慰めるような柔らかい微笑みだった。


「俺、留学しようと思うんだ」


雨はまだ降っている。
弱まるどころか激しさを増して止む気配はない。
そんなざあざあと激しく降る雨に負けないくらい、勝見君は力強く言い切った。

「実は……」から始まる勝見君の話を、私はその場にぺたんと座り込んだまま聞いていた。
瞬きもせず、ただ一点を見つめて。
何を見ていたのか、どこを見ていたのか、自分でもわからない。
ただ自分の呼吸で体が上下するのを感じながら、聞こえてくる勝見君の声を、ただ耳に流しいれていた。

勝見君が話す「実は……」には、私の知らないことがたくさんあった。
そこには私の知らない勝見君がいて、その勝見君は、私の何歩も先を歩いていた。
私が受験のプレッシャーや、「超難関」の大きな壁にぶち当たっている間に、私の
ずっと先を進んでいた。 

「へえ……」

勝見君の話が終わって私が一番に発したのは、そんな相槌だった。
それ以上は何もない。
何も言うことがない。
正直、勝見君が話してくれたことはほとんど頭の中に残っていない。


__留学って、なに?


私の思考は、そこで止まっていた。
勝見君が淡々と、丁寧にゆっくりと、細かく説明してくれたそれがすべてなのに、私の頭はいつまでもその質問を繰り返す。
口から出して聞く気力も湧かない。
口からは何度も「へえ……」という、薄っぺらな返事だけが出てくる。

「へえ、留学、か」

最終的に、そこにとどまった。

「ごめん。ずっと言おうと思ってたんだけど、言いそびれて」
「ああ、うん。そっか。しょうがないよ、勝見君、忙しいし。部活もあったし、勉強もしないとだし、バイトも……」

淡々と流れる声で、私はちゃんと理解を示した。
だって勝見君は頑張ってるもん。
勝見君はすごい人だもん。
私と違って。

だからせめて、私は聞き分けの良い彼女でないといけない。
こんなすごい勝見君のそばにいるには、これくらいできないないとダメ。
勝見君の、良い彼女でいたいから。
だって勝見君は、私の、自慢の彼氏だから。