きみに ひとめぼれなおし


今日は最終下校時刻も免除されて、準備が終わったクラスや委員会から帰ってもいいことになっている。
私のクラスはすでにグラウンドに屋台も組み立てて、看板も掲げ、準備はほぼ終わっていた。
教室には委員会の仕事で不在の人の鞄がぽつぽつと机の上に残っている。

勝見君が私の教室にやってきたのは、「迎えに行く」と別れてずいぶん経ってからだった。

「坂井さん」

名前を呼ばれると、胸がトクンと鳴るのと同時に、体がびくりと飛び上がった。
教室の扉の前に勝見君が立っているのを見つけると、私は思わず小走りで駆け寄った。
胸が躍るとは、こういうことなのか。

「ごめん、遅くなって。最後のセットが上手く組み立たなくて」
「ううん、大丈夫だよ。えっと、勝見君たちのクラスは、お化け屋敷だっけ?」
「そうそう。お化け屋敷迷路。坂井さんも時間あったらおいでよ」
「うーん、迷路は楽しそうだけど、お化け屋敷はなあ……」
「お化け屋敷、だめ?」
「好んで行かないかな。怖いの、苦手だし」
「ふふっ、かわいい」
「え? 今そういう要素あった?」
ずいぶん待ったことなんて忘れてしまうほど、頭の中は幸せに満ちていた。
他愛もない話すら楽しい。
各々のクラスの話をしながら下まで降りて、下駄箱で靴を履き替えて外に出ると、先ほどまで明るかった空が怪しげな雲に覆われていた。
遠くの方の空は明るくて、太陽の日差しも降り注いでいるのに、学校の上空だけ灰色の雲が何層にも膨れ上がっている。
空気もいつもよりぐっと湿度を増して、肌にまとわりつく湿り気が気持ち悪い。

「なんか、空、怪しいね」
「うん」

なんて言っている間に、ぼとりぼとりと、大きな雨粒が地面を濡らす。
「あ」と思っている間に、ぼとぼとぼとぼとと、さらに雨を落とし始める。
あれよあれよという間に、視界はすっかり雨の線に遮られる。
遠くの方でゴロゴロと不気味な音が聞こえてきて、明らかにこちらに近づいているのがわかる。
昇降口付近では、何人かの生徒が私たちと同じように空を見上げていた。
傘をゆったりとさして歩き出す人。
そのまま飛び出す人。
その場で待機する人。
いずれにせよ、激しく飛び散る雨粒に対抗できる術はなかった。
何をしていても濡れる。

私たちも、昇降口内にいたにもかかわらず、跳ねた水で足元が濡れ、顔や制服からはみ出た腕や足なんかはしっとりとしている。
直接雨にさらされたわけでもないのに、カッターシャツも湿り気を帯びている。

次第に風が出てきて、まっすぐ落ちるだけだった雨が、風の形に合わせて波打つ。
雷の音が大きく、唸るように鳴っている。
その光景と音に、心細さを感じる。

「こりゃ帰るの無理だね」

勝見君が空を見上げながらぽつりとつぶやく。

「あと一時間は続きそうだな」

スマホで天気予報を見ながら、勝見君は低く唸った。
だけどすぐに声音を変えて言った。

「学校探検しない?」
「え?」
「どうせ動けないし、他の教室見てみようよ。明日から文化祭だし」

そう言って、勝見君は下駄箱に戻っていく。
そして、おもむろに靴を履き替える。
その後を追って私も靴を履き替えた。

廊下にはまだちらほらと走り回る生徒がいた。
教室の中にも頭を突き合わせて話している生徒がまだ残っている。
いつもはどの教室も同じに見えるのに、派手に彩られて飾られた教室は、一部屋一部屋に個性があって、見て歩くのは楽しかった。
一足先に、二人で文化祭を楽しんでいる気分だった。
二人だけの、特別な時間に感じられた。

「手、つなごうか」

階段に差し掛かったところで、不意に勝見君がそう言った。
心臓が大きく跳ね上がりすぎたせいで、私は一瞬歩みを止めた。
手が震え始めていた。
勝見君と手をつなぐなんて、いつぶりだろう。

「……だめ?」

勝見君の声が、私に甘えてくる。
勝見君らしくないその声に戸惑って、「いいよ」とも「ダメ」とも返事を返せないうちに、勝見君は私の手を迎えに来て、指先を絡め始めた。
半ば強引ともいえるその行動に、指先が不安がる。
ぎゅっと握る勝見君の手を、私もぎゅっと握り返したいのに、上手く力が入らなかった。
誰かに見られたらどうしようなんて心配や警戒心も働いて、心臓がバクバクと走り始めていた。

ちらりと勝見君の方を見ると、その表情は硬かった。
伏し目がちで、口元はきゅっと強く結ばれている。
絡められた指先にも、今まで感じたことのない力強さを感じた。
穏やかに笑って、いつもふわふわとしている勝見君の空気感が見当たらなかった。
いつもと違う勝見君に、私はおろおろし始める。
会わない間に、勝見君が変わってしまったような、私のあの直感が当たってしまったような、そんな不安が一瞬よぎった。
うつむいて歩いていると、「坂井さん」と不意に声をかけられた。
そうかと思ったら、つながれた手にぐっと力がこめられた。
次の瞬間には、私は壁と勝見君の胸の間に収まっていた。

カッターシャツの薄い生地越しに伝わる心臓の音。
胸の厚さ。
漂う匂いや体温。
肩に置かれた大きな手の感触。

バクバクと大きく早鳴る心音の中に、「すんません」と軽い声が混ざった。
壁と勝見君の間にできたわずかな隙間から、段ボールを抱えた男子生徒が危なげに階段を降りていくのが見えた。

その生徒が廊下の方に消えても、心臓は鳴りやまなかった。
これは、私の心臓の音だろうか。
それとも、勝見君のものだろうか。

男子生徒の姿が見えなくなっても、私たちの距離はしばらくそのままだった。
視線を上げれば、すぐそこに勝見君の顔があるのがわかるから、顔を上げられなかった。
だけど、勝見君の息遣いが、私を呼ぶように前髪を柔らかくなでてくる。
そこに、さりげなく勝見君の唇が押し当てられる。
額に感じる柔らかな感触に、胸がきゅっと引き締まるのを感じると、思わず眉間にも力がこもった。

ごくりとのどが鳴ったその時、

「坂井さん」

私の名前を呼ぶのと同時に、私の肩に置かれた勝見君の手に、力がこもったのがわかった。
視線を上げると、勝見君はちょっと悲しそうな目を私に向けていた。

「夏休み、連絡できなくてごめん。ずっと連絡してなくて。連絡するって、約束したのに」
「あ、ああ、ううん、大丈夫だよ。勝見君、バイトもして勉強もして大変だし。忙しいから仕方ないよ」

私は壁と勝見君に挟まれて身を小さくしたままそう答えた。
笑って言ったつもりだけど、声に力が入らなかった。
夏休みの寂しさなんて、勝見君と会えた瞬間に忘れていたのに。
ほんの些細なことで揺れる動く不安定な気持ちも、勝見君を疎ましく、妬ましく思っていた自分も、全部忘れていたのに。
勝見君のその言葉が、忘れていたはずのすべての気持ちを、一気に私のもとに連れて帰ってきた。
「あのさ」

私の体をそっと自分から離して、勝見君は真剣な表情で話し始めた。
ぼんやりと見つめる私から目をそらすように、勝見君は視線を泳がせる。
こんな落ち着きのない勝見君を、今まで見たことがあっただろうか。

「あのさ、言わなきゃいけないことが、あるんだけど」
「……なに?」

いつも見ない勝見君の挙動に、その言葉の先に不安がよぎる。

「あの……、坂井さんは、文化祭は、どうしてる?」
「……え?」
「誰かと、回る予定ある?」
「えっと、特に約束はしてないけど」
「じゃあさ、一緒に、回らない?」
「え?」
「一緒に回りたいんだけど、だめかな?」

勝見君はちらりと視線だけをこちらに向けて、私の反応をうかがおうとしていた。
そこでようやく、目が合った。
勝見君の瞳が、揺れて見えた。
その表情に、はっとなった。「勝見君、もしかして、照れてる?」
「え?」
「私を文化祭に誘うの、緊張してる?」

そんなこと聞くの、自惚れかもしれないけど、勝見君のこんな表情なかなか見れないから、胸がくすぐられていた。
いつも余裕で、落ち着いている勝見君には珍しいから。

私の質問に、勝見君はたじろぎながら答えた。
「あ、ああ……うん。そりゃあ緊張するでしょ。女子を誘って文化祭とか、初めてだし」

そう言われてみれば私も男の子から文化祭に誘われるなんて、初めてだ。
ずっと憧れていたシチュエーションではあったのに、それが今実現していることに、遅ればせながら感動を覚える。

だけど、これまた遅れて恥ずかしさがこみあげてきて、からかうつもりで言ったのに、私の方が逆に照れて勝見君から目をそらした。

「えっと……私ごときに緊張する必要ないのに」

照れ隠しに頬をかきながら小さな声でぶつぶつ言っていると、

「なんで?」

と勝見君は、ぽかんとした表情で私に聞いた。

「なんでって……」
「好きな人誘うのって、普通に緊張するもんじゃないの?」

勝見君は純粋な目を私に向けてくる。
その瞳に戸惑う。

「俺、こういうの初めてだから。普通に緊張してるんだけど。ごめん、なんか、ダサくて」
「ううん、全然、ダサいことなんて……」
「気づいてるかわかんないけど、俺、坂井さんといるときは、いつも緊張してるよ」
「え?」
「緊張っていうか、なんか、そわそわ? なんかそんな感じ。一緒にいない時だって、気づいたら坂井さんのこと考えてるし、いつも一緒にいたいって思ってるし、坂井さん見つけると顔にやけてくるし。会えばいろいろ抑えられなくなるし。だからこうやって誘うのも、緊張するんだよ。坂井さんは、俺の好きな人だから。付き合っても、彼氏になっても、坂井さんのことは、好きな人として、意識、してるから」
少し照れながら、だけど堂々と言ってのける勝見君は、かっこいい。

「それに、気づかないうちに傷つけてたら嫌だし、傷つけるの、怖いし」

目を伏せて小さな声でそう言った時だけ、勝見君の表情がわずかに曇った。

「俺、ちゃんと彼氏できてるかな?」

勝見君はちょっと困ったような笑顔で、私を見た。
その言葉に、その表情に、胸がぐっと締め付けられて、気づいたら、勝見君のその細い腰に、腕をぐるりと回していた。
ここが学校だってことも、誰かの目も、もう関係なかった。
こんなに大切にされている。
こんなに好きでいてくれる。
そんな勝見君は……

「勝見君は、私の自慢の彼氏だよ」

それしか、言う言葉が見つからない。
私の突発的な行動に体を固くした勝見君の体から、ふうっと力が抜けていくのが胸の動きでわかった。
勝見君は私の頭を抱えるように抱きしめて、髪の毛をさらさらと、上手に梳いていく。

「文化祭、一緒に行ってくれる?」

勝見君は甘えるような声で、もう一度私を誘う。
その声が耳に心地いい。
甘えてくれる勝見君も、なかなかいい。
勝見君に甘えられるのも、悪くない。

「うん、行く」

私からも甘えた声が出た。
私の頭を抱える勝見君の腕に、さらに力がこもった。
その瞬間、耳のすぐそばで、甘い吐息に襲われる。

「好き」

耳の骨格を、勝見君の唇がかすめていく。
恥ずかしいくらいに体がびくりと反応した。
くすぐったくて、ぞくぞくとして、しびれる。
全身の血液が顔に一気に集まってきて、きつく腰に巻き付けた腕の力も、地についた足の感覚も奪われていく。

__もっと、言って。

勝見君の胸に顔を埋めてそう願った。

だけどそんな私の願いはひらりとかわされて、無情にも唇は耳から離れていく。
「坂井さんは、いつが空いてる?」
「えっと、一日目はずっと販売とか調理の担当に入ってるから、抜けるの難しいんだけど、二日目はずっと自由だから、二日目でもいいかな?」
「うん、俺も担当あるけど、テキトーに抜けるし。俺がいなくても、何とかなるだろうし」
「出た。いないのにいるふり」
「何それ」
「勝見君の得意技」
「そんな技あったかな?」

くすくすと笑い合う声が、階段の壁にぶつかって跳ね返ってくる。
勝見君は私の手をもう一度握り直して、階段を上り始める。
私もその後を追う。
ドキドキと胸を鳴らしながら。

__「好き」

先ほど言われたばかりのそのたった二文字が、頭から、耳から、全身から、離れない。
ふと視線を上げると、華奢だけど、頼もしい背中が見える。
その背中に甘えたくなる。
震える指先が、残りの力をすべて振り絞って、勝見君の手を握り返す。

__この手から、離れたくない。

歩いているうちに校舎内がどんどん静かになっていく。
人気のない校舎は、しんとしていて、何となく不気味だった。
音楽室、美術室、家庭科室などの部屋は、各部活動の出し物の小道具や大道具でひしめき合っている。
視聴覚室や木工室などの普段滅多に入らない、存在すら忘れてしまいそうな教室も、更衣室になっていたり、五日目の体育祭用の用具や機材だったりが押し込められている。

一通り校内を一周しても、雨の勢いは収まることはなかった。
風が窓ガラスに雨を打ち付け、ごうごうと唸りを上げている。
雨の動きが、うねる様な風の姿をあらわにする。
ガラスにぶつかる雨の音は、まるでムチたたかれているようだった。
窓から見える木々も、ゆさゆさとその濃い緑を大いに乱し、枝を離れた葉っぱが、あちらこちらに飛び回る。

「ちょうどいい不気味さだなあ」

勝見君のつぶやきは、なんだか楽しそうだった。
そして私の手を引いて、ぐんぐん歩いていく。

勝見君がやってきたのは、私たち三年生の教室が並ぶ廊下だった。
ほとんどの教室の電気はもう消されている。
薄暗い廊下は本当に不気味で、今にも何か出そうだった。
その廊下を、勝見君はずんずん進んでいく。