きみに ひとめぼれなおし

「勝見君からは、何かないの? たまには一緒にどこか行こうとか」
「別に、何も」
「何も?」

そう、何もない。
そもそも私たちは、どこかに出かけるということがほとんどない。
勝見君は学校がある日の放課後は部活の後バイトに行くし、休みの日もたいてい部活かバイトをしている。
連絡だって頻繁に取り合ったりしない。
私がメッセージを送っても、勝見君から連絡が来るのは、夜中か早朝。
私がメッセージを送った何時間もあと。
たいてい1ターンで終わる。
3ターンできれば上出来。
さっきまでやり取りしていたのに、途中で終わってしまうことなんてしょっちゅうだ。
それは付き合い始めたときからそうだった。
でも「疲れてるんだなあ」「寝ちゃったのかな」「忙しいのかなあ」と私にしては大きな心で受け止めてきた。
「勝見君が好き」、「勝見君はすごい」、それだけで、懐は大きく広がった。

だけど、今は違う。
私の心はどんどん、どんどん狭くなる。
焦りや不安でいっぱいになる。
私はただ、勝見君に近づきたいだけなのに。
そばにいたいだけなのに。
勝見君みたいに、大人になりたいのに。
自信をもって隣を歩ける彼女になりたいのに。
私は今、自分でもよくわからないもので押しつぶされそうになっている。

__私にはあと、何が足りないのだろう。

「私も、バイトしようかな」
「え? 何言ってんの? 今自分で全然余裕ないって言ったばっかじゃん」
「だって、勝見君が……」

そこで言葉が途切れた。
その声が、妙に震えていた。

__勝見君が、私のそばからいなくなっちゃう。

そんな予感がした。
私に愛想つかして、もっと違う誰かのもとへ行ってしまうんじゃないかって。
勝見君みたいに直感に自信があるわけではないし、直感が当たったことなんてないんだけど、その予感だけは、当たるような気がした。

「あかり、ちょっと疲れてるんだよ。ずっと元気ないしさ。息抜き大事だよ」

休んでるわけにはいかない。
死ぬほど勉強しているのに、成績は思うように上がってくれないんだから。
むしろ、下がってる。
勝見君に追いつこうと頑張るほど、空回りしている気がする。
息抜きなんてしてられない。
息抜きしている間に、今も勝見君は前に進んで、遠くに行ってしまう。
もっと頑張らないと。
もっと、もっと……。

頭の中が「もっと」でいっぱいになったとき、おでこがテーブルにぶつかるゴトンという派手な音が頭に鈍く響いた。

夏休みが明けて、二学期が始まった。
始業式早々テストが行われ、そのテストもすぐに返却された。
勝負の夏休みに塾で戦ったにもかかわらず、戦績はいまいちでぱっとしなかった。

「夏休みの成果はこれから出るから落ち込むことはないが、次の模試の結果次第では、志望校を考え直した方がいいかもな」

先生に突きつけられた現実が、鋭いナイフとなって胸に突き刺さる。
ああ、痛い。

生徒たちが忙しく廊下を走り回る喧騒の中で、私は進路指導室前の廊下で一人ぽつんと立ちすくんでいた。
翌日から文化祭、体育祭とイベントが続くというのに、なんだか憂鬱になる。

私たちの学校では、二学期に一週間に及ぶ学校の一大イベント、通称「祭り」が開催される。
文化祭と体育祭を合わせたもので、一日目は文化祭をメインにした会場づくり、いわゆる「準備祭り」、二日目、三日目で文化祭、四日目は文化祭の片づけと体育祭の準備とリハーサルを兼ねた「入れ替え祭り」、五日目は体育祭、六日目は「片付け祭り」。
まさに「祭り」な一週間なのだ。
今日はその一日目である「準備祭り」だ。
明日から二日間にわたる文化祭が始まる。

準備はそれなりに楽しめた。
私たちのクラスはたこ焼き屋をやるんだけど、たこ焼きを焼くという初めての経験に、ちょっとわくわくしたりもした。
看板を作ったり、たこ焼きを焼く練習をしたり、買い出しに行ったり。いつもと違う学校生活に、受験のことを忘れられるひと時だった。
いつもの校舎や教室が違う世界に見えて、日程に追われる慌ただしい日々さえ新鮮で心地よい感じがした。

それなのに、そんなひと時を一気にさらっていく進路指導。
どうしてこのタイミングなのだろう。
受験のことを忘れた罰だろうか。
私たち受験生はいつだって「受験」「進路」という言葉に脅かされて生きている。
ちょっとでも楽しんでしまったら、息抜きをしてしまったら、バチが当たるということなのだろうか。
とぼとぼと教室に戻る廊下を歩いていると、ふと掲示板に目が留まった。
そこには、二学期はじめの学力テストの成績優秀者が貼りだされていた。
そこには当たり前のように、勝見君の名前があった。
どの教科にも、勝見君の名前が上位にある。

今までも勝見君はこうして掲示板に名前を連ねる常連だった。
だけどいつもは一桁の中盤、5位とか6位とか、そのあたりをのたりのたりとしていた。
だけど今回は、すべての科目で3位以内、総合では1位だ。

鼻から大きなため息が漏れる。
なぜなら、その成績優秀者の中に、私の名前は相変わらずひとつもないからだ。
二十位まで名前が書かれるのに、そのどこにも私の名前はない。

数学の一番上に書かれた勝見君の名前をそっとなぞる。
勝見君は数学が得意だ。
これは当然の結果。

そのまま指を横にすーっとスライドしていくと、英語の1位にたどり着く。

__勝見君、英語、頑張ったんだあ。

そりゃそうだよね、あんなところでバイトしてるんだもん。
英語、得意になるよね。

一科目ずつ勝見君の名前をなぞるたびに、愛しさと切なさが入り混じって溢れてくる。

__会いたい。

ふと浮かんだその感情は、きっと私の本音。
勝見君に苛立ちや疎ましさを感じる一方で、まだそんな気持ちが心の奥底にある。
私はまだ、勝見君のことが、好きなんだ。
そう思うと、なぜだかほっとした。

「勝見君」

思わず声が漏れたその時、

「坂井さん」

その懐かしい声に、体が素早く反応して振り返る。
そこには、段ボールを抱えた勝見君が立っていた。
私は驚きで、声をなくした。

「何見てんの?」

勝見君の声で、我に返った。

「あ、これ。勝見君、また名前載ってるよ」

私が指さす方を、勝見君もじっと見る。
顔がじりじりと近づいてくると、それに呼応するように心臓が騒ぎ始める。
そして勝見君の優しい声が、吐息と一緒に私の耳を甘く撫でていく。
「ああ、この前の結果。こんなの貼りだす必要ないのにね」
「すごいね。総合1位じゃん」
「別に、すごくないよ」

そう言いながらもちょっと嬉しそうに笑う勝見君。
顔がにやけてくるのを我慢しているように見えたのがちょっと癪だったから、「目立ってるね」なんて意地悪を言ってみると、苦笑い交じりの呆れた声で反論してきた。

「誰も見てないよ、こんなの」
「ここにいるじゃん、見てる人」
「坂井さんはこんなの見て嬉しい?」
「そりゃあ嬉しいよ。勝見君の名前載ってるもん。自慢の彼氏だよ」

本当のことなのに、なぜか胸の辺りがチクチクする。

「坂井さんの名前がなくても、坂井さんは俺の自慢の彼女だよ」

柔らかな表情で淀みなく放たれたその言葉に、顔中に血液が集まってくる。
勝見君の優しさに、情け深い言葉に、涙が出そうになる。
勝見君に対するもやもやした気持ちが晴れると同時に、すさんだ目で彼を見ていた自分が惨めになる。

鋭い目で掲示板をにらみつける勝見君を見つめながら、先ほど勝見君が言ってくれた言葉を頭の中で何度も反芻させる。

__「坂井さんは俺の自慢の彼女だよ」

ただ何回目かで、思わず顔をしかめて首をかしげる。

「あの……『名前がなくても』は、余計だからね」

私の言葉に「あはは」と勝見君はおかしそうに笑った。
そんな勝見君に、ぶすっとした顔を向けて反撃を開始する。
「勝見君、目立ちたくないとか言って、ちょいちょい目立ってるよね」
「え? そう?」
「だって今年も体育祭の対抗リレー出るんでしょ?」
「あれ? 坂井さんに言ったっけ?」
「言ってないけど、毎年のことだし。それに、体力テストの50メートル走、速かったし」
「あ、見ててくれたんだ」
「そ、そんなんじゃないよ。たまたま見かけただけで」

せわしなく手をひらひらさせて、頬に熱が集まってくるのを言葉と一緒に誤魔化した。
そんな私とは対照に、勝見君は穏やかな表情で私を見守る。

「とにかく、目立ちたくないなら手抜けばいいでしょ。50メートル走だって、本気で走らなければ選ばれることもなかったんだし」

完全に背中を向けてぶつぶつと言っていると、勝見君がぼそりと言った。

「できるわけ、ないじゃん」
「え?」

そっと振り返ると、勝見君の真剣な顔に迎えられる。

「坂井さんが見てるんだから、手抜くようなこと、できるわけないじゃん」

言葉が途切れると、勝見君は両手で持った段ボールを上手に胸と壁に挟んで、開いた片手で私の頭をそっと撫でた。
包まれた頭のてっぺんから、全身に熱が巡っていく。
そっと視線を上げると、勝見君はものすごく大人びた表情で私を見ていた。

「俺のこと、見て」

大人っぽい表情なのに、どこか甘えたようなその熱っぽい声に、心臓が急に落ち着きをなくす。
こんな勝見君は、初めてだった。
勝見君はいつも恥ずかしげもなく愛情表現はしてくれるけど、こうして甘えるようなことを言ったり、甘えるような仕草を見せることはない。
いつも冷静で、落ち着いていて、余裕で。
だからいつもと違う勝見君に、ほんの少し違和感を覚えた。

勝見君は私の頭を、それはそれは大事そうに優しく撫でた。
頭を撫でてもらう理由なんて、どこにも見当たらないのに。
だって私、20位以内に名前も載ってないんだよ。
リレーの選手でもないんだよ。
何もすごいことなんて、ないのに。
それなのに、その手のひらは、私に愛情や優しさを惜しみなく与えてくる。
それを感じるだけで、私はバカみたいに安心できた。
特別に思ってくれてるなんて、自惚れられた。

「今日さ、一緒に帰らない?」
「え?」

顔を上げると、勝見君の手が頭から離れていった。

「一緒に帰りたいんだけど、だめかな? 坂井さんのクラスの準備が終わるまで待ってるし」
「うちのクラスはもうほとんど終わってるからすぐ帰れるけど、……勝見君、バイトは?」
「この一週間は入れてないよ。絶対体力持たないし。俺もあとこれ片付けるだけだし、迎えに行くから教室で待ってて」

嬉しさで、体がはじけそうだった。

「うん……うん」

幼い子どものような甘えた声で小さく返事をしながら、首を何度も大きく縦に振った。

__やっぱり、大好き。

私は、こんなに単純な人間だっただろうか。
勝見君の一言で、勝見君の優しさで、勝見君の笑顔で、不安も不満も焦りも、全部、なかったことになってしまうんだから。
ちょっとのことで気持ちが落ちて、何でもないことで気持ちが戻る。
それは全部、勝見君のせい。
勝見君が、好きだから。
この心臓の高鳴りも、にやけてしょうがない顔も、走り出したくなるほどの嬉しさも、全部、全部、勝見君次第。

今日は最終下校時刻も免除されて、準備が終わったクラスや委員会から帰ってもいいことになっている。
私のクラスはすでにグラウンドに屋台も組み立てて、看板も掲げ、準備はほぼ終わっていた。
教室には委員会の仕事で不在の人の鞄がぽつぽつと机の上に残っている。

勝見君が私の教室にやってきたのは、「迎えに行く」と別れてずいぶん経ってからだった。

「坂井さん」

名前を呼ばれると、胸がトクンと鳴るのと同時に、体がびくりと飛び上がった。
教室の扉の前に勝見君が立っているのを見つけると、私は思わず小走りで駆け寄った。
胸が躍るとは、こういうことなのか。

「ごめん、遅くなって。最後のセットが上手く組み立たなくて」
「ううん、大丈夫だよ。えっと、勝見君たちのクラスは、お化け屋敷だっけ?」
「そうそう。お化け屋敷迷路。坂井さんも時間あったらおいでよ」
「うーん、迷路は楽しそうだけど、お化け屋敷はなあ……」
「お化け屋敷、だめ?」
「好んで行かないかな。怖いの、苦手だし」
「ふふっ、かわいい」
「え? 今そういう要素あった?」