「京香、千夏――」

 現れた二人を見て、僕は息を飲んだ。京香は、斗真を失った直後の時と同じように怒りを滲ませた表情をしていたし、千夏は今にも泣きそうな顔で僕を見ていた。

「秀一さん、話があるの」

 拒否することを許さないオーラに圧倒されて、僕は京香と向き合うしかなかった。

「ここから、グランドが見えるよね」

 京香はフェンスに歩み寄ると、フェンスに手をかけてグランドに目を向けた。

「私ね、ここで秀一さんに出会ったんだ。サッカーの試合があってて、秀一さん、目が眩むくらい輝いた笑顔をしていた。気がついたら、私はずっと秀一さんの姿を追いかけていた」

 京香は、誰に話すわけでもなく誰もいないグランドを見つめたまま、淡々と語り続けていた。

「実はね、私の初恋は秀一さんだったんだよ」

 振り向いた京香が発した意外な言葉に、僕は耳を疑うしかなかった。京香と出会ったのは、京香たちが家に来た時だった。ちょっと近づき難い凛々しさがあるけど、千夏や斗真の面倒をよく見る優しい一面を備えた女の子というのが、僕の第一印象だった。

 けど、それ以上はなにも感じることはなかった。特別視されるとか、気まずい雰囲気になるといったことはなく、ごく自然に妹になった感じしかなかったはずだった。

「私ね、秀一さんの妹になるってわかった時に、この気持ちにけじめをつけるつもりだった。でも、どうしてもできなかった。今もね、その想いに変わりはないの」

 京香の語る内容に驚きながらも、僕は京香の瞳から目をそらせずにいた。真っ直ぐに向けられた視線にブレはなく、はっきりとした意思のこもった輝きがそこにあった。

「秀一さん、私、この気持ちにけりをつけようと思っている。だから、秀一さんの本当の気持ちを聞かせて欲しい」

 息を飲むような沈黙の後、京香の力強い声が耳の中にこだましてきた。凛とした佇まいが常だった京香が、今にも泣きそうなほど顔を歪めていた。

 京香がやけに小さく見えた気がした。その小さな体で、京香は自分の気持ちと戦い続けていた。兄妹という関係になり、弟を死なせてしまった憎い相手だというのに、そんな僕を今も変わらず想い続けていてくれたことが、胸が震えるほど嬉しかった。

「僕の気持ちは変わらない。京香と千夏には、立ち直ってちゃんとした未来を歩いてもらいたいと思っている」

「そうじゃないでしょ!」

「え?」

 京香の気持ちに触れて、僕は想いを伝えようとした。けど、京香は真っ直ぐに僕を睨んだまま首を横に振っていた。

「聞きたいのは、秀一さんの本当の気持ちなの。秀一さんが本当はどうしたいのかを聞きたいの」

「どうしたいって――」

「私は、自分の気持ちを伝えたよ。だから、秀一さんも本当の気持ちを打ち明けて欲しい」

 気づくと、うっすらと涙を滲ませた京香の肩が小さく震えていた。自分の気持ちを打ち明けることに、相当な葛藤があったのだろう。だからこそ、京香の想いが胸を抉るように伝わってきた。

 ――僕の、本当の気持ち……

 ずっと目をそらしてきた本当の気持ち。それは、もう一度昔みたいにみんなと過ごすことだ。

 もう二度と戻ることはなくなった日々。斗真を失って以来、どんなに望んだとしても求めてはいけないものなのに、ずっと僕はかつての日々を追い求めていた。

 ――でも……

 おさえようとしてもあふれ出してくる想いに、一気に喉が締めつけられていく。木村がいて、京香がいて、千夏がいて、みんなとくだらない日常を昔みたいに楽しめたらという想いが、今にも胸の中で弾けそうだった。

「言って」

 耳を貫くような京香の声。その声に、最後の堰がもろく崩れていった。

「僕は――」

 一度顔を伏せ、息を飲んで見上げた先に京香の真剣な眼差しがあった。僕の気持ちを知る為に、あえてその胸の内を明かした京香。例え罵倒されたとしても、その気持ちには嘘をつくことなく応えてやりたかった。

「僕は、本当はみんなと、斗真がいた時と同じように楽しく過ごしたいと思っている。それが許されないことも、斗真を死なせた僕にそんなことを望む資格がないこともわかっている。でも、本当は、やっぱりみんなと楽しく生きていたい」

 最後の堰が外れたことで、止まることなく想いの全てを吐き出した。あの日、嫌がる斗真を無理矢理連れ出さなければと、後悔しない日はなかった。全てを捨て、自分の存在を消すことで、斗真の死から立ち直れない京香を救うことだけを考えていた。

 そんな自分の中に芽生えていた感情。ずっと気づかないふりをしていた。

 けど、その気持ちに向き合わせたのは、村井蒼空だった。斗真と瓜二つの姿で現れ、僕を兄と呼び、止まっていた僕と京香の時間の針を動かしてくれた。

 そのおかげで、僕は斗真がいた日々を思い出し、かけがえのない日常の日々を、本当は望んでいることに気づいた。

「ありがとう、秀一さん」

 黙って僕の言葉を受け入れていた京香が、目を閉じて何度も頷いた。本当なら、僕の身勝手な想いなどすぐに罵倒してもいいのに、京香は黙ったまま僕の気持ちを受け入れようとしているように見えた。

「これ、覚えている?」

 最後に大きく頷いた京香が、肩にかけていたバックからなにかを取り出して差し出してきた。その手には、かつて斗真が大事にしていた宝箱があった。

「斗真の、宝箱だよね?」

「そう。ねえ秀一さん、斗真が亡くなる直前のことを覚えてる?」

 不意に問われ、僕は鼓動が一気に乱れるのを感じながら頷いた。

 斗真の最期。今でも夢に出てくるほど、斗真は苦しげな声を上げて亡くなっていった。

「秀一さんは目を閉じてたからわからなかったと思うけど、斗真は最後に笑ってたんだよ」

「え?」

 突然出てきた予想外の言葉に、動揺しながらも京香の様子に目を向ける。相変わらずの無表情だったけど、嘘をついているようには見えなかった。

「斗真は、何度も死の淵をさ迷ってた。きっと秀一さんが来るのを待っていたんだと思う。そして、秀一さんに手を握られた時、嬉しそうに笑いながら、お兄ちゃんって呟いてた。それが、斗真の最後の言葉だったんだよ」

 京香が語る内容に、僕の意識は激しく揺さぶられていった。あの時、手を握った時に握り返された感触はあった。その時斗真は、僕のことをお兄ちゃんと笑いながら呼んでいたということだった。

「けど、斗真は僕のことを嫌っていたはずじゃ――」

「それは秀一さんの勘違いだよ。斗真の気持ちがここにあるから、確かめてみて」

 京香は僕の言葉をあっさりと否定すると、宝箱の中から短冊を取り出した。緑色の折り紙を使って作られた大きめの短冊は、斗真が決して見せようとしなかったものだった。

 無言で渡してきた短冊を手にし、息ができないほど暴れる胸を抑えながら、短冊に書かれた文字に目を落とした。

『僕はドジでバカな弟だけど、大好きな秀お兄ちゃんと早く仲よくなって、みんな仲のいいきょうだいになれますように』

 読み終えた瞬間、頭の中が真っ白な世界に落ちていった。震える手で短冊の文字をなぞりながら、僕は堪えきれずに目を閉じた。

 ――斗真

 一年越しに届いた斗真からのメッセージ。そこにあったのは、僕を想ってくれる斗真の純粋な気持ちだった。

 瞼の裏に、斗真の姿が浮かんだ。京香の陰に隠れながら僕を見ていた斗真に、胸が締めつけられて息ができなくなっていった。

「私ね、秀一さんを恨んでいた。けど、それは間違いだって蒼空君が教えてくれたの。だって、斗真は大好きな秀兄と出会って幸せだったはずだから」

 崩れ落ちそうになる僕の手に、京香がそっと手を重ねてきた。

「私、斗真のこの願いを叶えてあげたいの。だから――」

 ふっと、空気が穏やかになるのを感じた。顔を上げて京香の顔を見た瞬間、僕はなにもかもが吹き飛ぶような衝撃を受けた。

「私たち、ちゃんと家族になろうよ。いいでしょ? お兄ちゃん」

 満天の夜空に流れる天の川を背にして、京香は涙で赤く腫れた目を細めながら、斗真が亡くなってからは二度と僕に見せることのなかった最高の笑顔を見せてくれた。

 返す言葉がなかった。一年ぶりに向けられた京香の笑顔に、自然と涙が溢れ出てきた。そして、溢れる涙を抑えることなく、僕は色んな感情を吐き出すように泣き続けた。

「よかったな、秀一」

 そんな僕を支えるように、木村が僕の肩を抱いてくれた。

「秀兄ちゃん、もう大丈夫なの?」

 恐る恐るといった感じで、千夏が僕を覗き込んでくる。その目は不安の色で満ちていたから、大丈夫だと示すように千夏の頭を優しく撫でてあげた。

「みんな、ごめん。でも、本当にありがとう」

 そう口にするだけで精一杯だった。でも、それだけで木村は僕の肩を何度も叩き、千夏は僕の手を握ってくれた。

「あ、見て」

 京香の嬉しそうな声に顔を上げると、京香は天の川を指さしていた。

「あの一番光ってるのは、きっと斗真だよ」

 無数に煌めく星の中に、突如として輝き出した光。それはまるで、斗真が僕らの出した答えを祝福しているみたいだった。

「あ、流れ星!」

 今度は千夏が空を指さして声を上げる。千夏の指さした先には、まるで寄り添うように並んだ二つの流れ星があった。

「今のは、きっと蒼空とレナだよ」

 空を見上げたまま京香に告げると、京香は笑いながら「そうだね」と呟いた。

「綺麗だね」

 見上げた空に広がる天の川を見ながら、京香が呟く。その横顔には、新しく歩き出そうとする意志が感じられた。

 結局、僕らは祭が終わるまで空を見上げていた。それはとても長いようで短い時間だったけど、僕にとっては、二度と忘れることのない最高の七夕の夜になった。


 ~最終章 了~