レナの遺体を見つけた僕らは、色々と思案した結果、木村の兄に相談することにした。
僕らが直接警察に通報してもよかったけど、事件性が高いことと、万が一警察が家に来たら、タケルのことで面倒になると考えた結果だった。
木村の兄は、全てを話すことを条件に僕らの頼みを引き受けてくれた。記者をやっていることが幸いし、木村の兄は独自で調査した結果の末に遺体を発見したというストーリーで、警察に通報してくれた。
無言のまま帰宅した僕らを待っていたのは、血相を変えた千夏だった。昼過ぎに帰ってきた時にはタケルの姿がなく、どうやら書き置きを残して家を出ていったという。
なんとなくそうなるような気がしていた僕は、書き置きの手紙を受け取って中身を確認した。当たり障りのないお礼の言葉が綴られた手紙は、どう考えても僕らがレナの遺体を発見したことをわかった上で、手紙を書いたとしか思えなかった。
夜になると、レナの遺体とキャロルのメンバーの遺体が発見されたというニュースが速報で流れた。誰もが注目する警察官銃撃事件の犯人へと繋がる手がかりが、最悪な形で発見されたことにテレビのニュースだけでなく桜木町も再び大騒ぎになっていた。
「秀一さん、ちょっといい?」
夕食の準備を終えた京香が、リビングに戻ってきた。どことなく寂しそうな千夏とぼんやりテレビを観ていた僕は、京香に促されて隣の部屋に移った。
「タケル君のことだけど、タケル君はレナちゃんが亡くなってたことを知ってたんだよね?」
京香は目を合わせることなく、テーブルの上で組んだ手を見つめながら呟いた。
「あの学ランが村井蒼空の物だとしたら、タケルは知ってたと思う。それに、このタイミングで姿を消したことからも、間違いないと思う」
タケルには、レナが亡くなっていることは伝えていない。今日の捜索も、京香はレナの知り合いを訪ねて回るとしか言わなかった。なのにタケルは反論することなく黙っていた。つまりタケルは、最初から僕らがレナの遺体を探すことを知っていたのだろう。
そうなると、どうやって知り得たのかが問題になる。タケルの目的は、僕らにレナの遺体を見つけてもらうことにあったはず。とすれば、僕らがレナの遺体を見つけたことをどうやって知ったのかも問題だった。
けど、それはあっさりと予想はついた。僕らの情報を伝えることができるのは、タケルと共にいなくなったレナだ。タケルがレナの姿を見ることができるとしたら、レナが伝言役をしていたと考えられるだろう。
そこまで考えて、僕はある事に気がついた。タケルは、警察から逃げる過程でこの家にたどり着いた。それは果たして偶然なのだろうか。もしかしたら、最初から狙ってきたのではないだろうか。
理由は、僕が幽霊を見ることができることにある気がした。レナの姿を見ることができる僕を使って、レナの遺体を探させようとしたのではないか。事実、レナの導きでレナの遺体までたどり着いた。そして、申し合わせたようにタケルとレナは姿を消した。このことからも、タケルとレナが僕を利用したのは間違いないはず。
だとすれば、なぜ僕を利用したのだろうか。レナの遺体を見つけていながら、なぜタケルと村井蒼空は、警察に連絡しなかったのだろうか。
「秀一さん?」
ぐるぐる回る思考に意識が絡め取られていて、京香がなにかを話していたことに気づかなかった。
そのことを謝ると、京香は無表情のまま小さく首を振った。
「なんでもない。ただ、タケル君とレナちゃんがちょっと心配なだけ」
そう京香が答えたところで呼び鈴が鳴った。木村と兄が来たみたいだ。木村の兄と話をする為に、二人を夕食に誘っていた。京香は無言で立ち上がると、二人を出迎えに行った。
その背中を見つめながら、京香の不安に胸がざわつくのを感じた。わざわざ僕に話しかけたぐらいだから、タケルとレナを相当心配しているとしか思えなかった。
ざわつく胸に、漠然とした不安が広がっていく。なにか重大なことを見落としているように思えてならなかった。根本的な、すぐ目の前にあるのに気づかないような、そんな目に見えないけど具体的ななにかを、僕は見落としているような気がしてならなかった。
「お邪魔するぞ」
一つ長いため息をついたところで、短髪によく日焼けした顔の木村の兄が声をかけてきた。開襟シャツに黒のスラックス姿からして、警察署から直行してきたみたいだ。
「やっぱり京香ちゃんの料理は最高だね」
席につくなり、木村の兄が唐揚げを口に放り込んで親指を立てた。
「さて、早速だけど話を聞かせてもらおうかな」
全員が席についたところで、木村の兄が僅かに表情を引き締めて切り出してきた。その言葉に応じるように、僕はこれまでの経緯を包み隠さず話した。
「なるほどね。ミスターXというのは、タケル君という男の子だったわけか」
かきこむようにご飯を口にした後、木村の兄が手帳にペンを走らせた。
「そのタケル君は、家族や生い立ちのことをなにか言ってた?」
「いえ、特には何も。各地を転々としながらこの町に流れ着いたことと、家族は母親しかいないことぐらいしかわかりません」
僕が答えると、木村の兄はメモを取るペンを止めた。
「記者の間で言われているんだが、ひょっとしたらタケル君は、母親と一緒ではなく一人でこの町に来たのかもしれないな」
「一人で、ですか?」
「そうだ。このクラスの事件になれば、色んなタレコミがあったりして意外と情報が集まるんだよ。しかし、今回はそれが全くない。特に母親に関しては、なに一つ判明していない。こんなことは普通じゃありえないんだ」
木村の兄いわく、普通は事件の大きさに比例して噂話やタレコミは増えるらしい。それがないということは、そもそも母親が存在していない可能性があるという。また、タケルが無戸籍という点を考えたら、タケルに関しても、ほとんど情報は期待できないと考えているみたいだった。
「警察署で聞いてきた話によると、レナちゃんの遺体遺棄現場付近に争ったような跡が見つかったらしい。おまけにキャロルの遺体からは拳銃の弾も見つかってる。これから線条痕の鑑定をするらしいが、おそらく警察官銃撃事件で使用された拳銃が使われたとみて間違いないだろう」
レナの遺体近くにあったもう一つの男の遺体。警察は争った跡からも判断して、男の死因にタケルたちが絡んでいると睨んでいるみたいだ。
最後の唐揚げに箸を伸ばしながら、木村の兄が捜査状況を教えてくれた。といっても、警察もまだ動き出したばかりだから、詳しくはこれから判明していくことになるだろうとのことだった。
木村の兄が言った線条痕というのもその一つだ。線条痕とは弾に残った傷のことで、傷を調べることによって、どの拳銃から発射されたのかを特定できるという。
「キャロルのメンバーの遺体から見つかった弾と、警察官銃撃事件で見つかった弾の線条痕が一致すれば、タケル君は警察官銃撃事件の犯人だけでなく、キャロルのメンバー殺害の容疑者にもなる。いくら正体不明とはいえ、逃げ続けるのは無理だろうな」
木村の兄の言葉に、京香が微かに肩を震わせた。無表情の顔にも暗い影が射しているから、その胸中は穏やかでないことはすぐにわかった。
その後は自然と話題が途切れた。食事を終えた木村の兄が、メモをまとめながらいくつか質問してくるだけだった。
「木村さん、なぜタケルはこんな回りくどいことをしたんでしょうか?」
メモが一段落したのを見計らって、僕は抱えていた疑問を木村の兄にぶつけてみた。
今回の警察官銃撃事件の背景には、いなくなったレナを探すために、警察とマスコミを利用しようとしたのではという疑惑があった。
けど、タケルも村井蒼空も既にレナが亡くなっていることは知っていたし、どこに遺体があるのかも知っていた。にも関わらず、嘘をついて僕らに探すように頼んできた。そのことが、僕には不自然に思えてならなかった。
「そうなると、なぜ秀一君に頼んだのかが謎になる。事件を起こしてマスコミの注目を集めようとしたことに、なにか意味があるかもしれないな。レナという女の子が殺害されたことに対する復讐であれば、匿名でもいいから警察に通報すればいい。なのに、リスクを背負ってまで他人に頼んだ理由はなんだろうな」
「最初は、タケルも村井蒼空も自分たちが何者かを誰も知らないことを利用して、警察にレナを探させようとしたのではないかって考えてました。けど、レナにそれだけではないって言われました。ということは、事件を起こした理由が他にあったということになります。ひょっとしたら、その理由のせいで通報できなかった可能性があるのかもしれません」
脳裏に秘密基地で交わしたレナの言葉が浮かんだ。タケルと村井蒼空の狙いは、レナの居場所を探すことではなく、レナの遺体を警察に見つけてもらうことにあったと考えていいだろう。
そして、警察が本気になりマスコミが騒ぎ始めたのを見て、タケルはなに食わぬ顔で僕に近づいてきた。理由は、自分では通報できないから、代わりにレナの遺体を見つけて警察に知らせるのが目的だったはず。
レナに酷いことをしたキャロルに対する復讐を考えていたとしたら、他人に頼るよりも自分で通報した方が確実だろう。それをあえて他人に頼んだ理由とは一体――。
「腑に落ちない顔をしているね?」
いつの間にか意識の底に沈んでいた僕は、木村の兄に声をかけられ、顔を上げると同時に現実へと戻ってきた。
「もう一つ、気になることがあるんです」
タケルと村井蒼空の狙いは大方予想はついた。警察とマスコミを巻き込み、レナの遺体を発見させてキャロルに復讐する。言い替えれば、レナの仇をとるのが今回の事件の目的だろう。いくつか謎は残ったけど、大筋では間違いないはずだ。
そうなると、どうしても気になることがあった。些細なことかもしれないけど、見過ごすわけにはいかないような気がしてならなかった。
「タケルは、一発の銃弾が世界を変えると言ってました。その意味を、最初はレナを探す為に世間を巻き込むことだと思っていました。けど、今はその前提条件が崩れています。それに、タケルが言っていた世界とは、タケルと村井蒼空のことを指しているような気がするんです」
「つまり、タケル君が変えようとした世界というのは、タケル君だけではなく、村井蒼空の世界も変えようとしたと言いたいんだね?」
木村の兄の言葉に、僕は深く頷いた。タケルや村井蒼空の内面はわからないけど、傍目からしたら二人の世界が変わっているようには見えない。
でも、タケルは世界を変える為に警察官を銃撃したと言い切っている。つまり、傍目には変化していないように見えても、二人の世界は変わっているということではないだろうか。
「僕は、なにか見落としているような気がするんです。二人が変えようとした世界は、本当はもっと特別な意味があるような気がするんです」
漠然とした気持ちだけど、僕は木村の兄にぶつけてみた。考え過ぎだと笑われるかと思ったけど、木村の兄は笑うことなく真っ直ぐに見つめ返してきた。
「本格的な捜査は始まったばかりだからね。これから詳しいことはわかってくるだろう。ただ――」
木村の兄はそこで話を切ると、この話は口外厳禁と釘を刺してきた。
「村井蒼空の家が放火された事件なんだけど、警察は村井蒼空が犯人だと断定している。しかも、母親は焼死じゃない。放火された時には既に亡くなっていた。おそらく病死だろうと警察は判断していて、村井蒼空は母親の遺体をどうにかしようとして火をつけたのだろうと考えているようだ。この件についても、村井蒼空は黙秘しているから詳しくはわかっていないんだけどね」
木村の兄が小さくため息をつきながら話を終わらせた。本当は話せない内容だったのを、あえて教えてくれた感じがして、僕は頭を下げて感謝を伝えた。
と同時に、再び僕の中でなにかが見えようとしているのを感じ、僕は意識の底に沈んでいった。
思い立ったらすぐに実行しろ――。
お母さんの彼氏だった目つきの悪い熊みたいな人が言ってた言葉。くよくよ考えるからチャンスを逃すんだと、朝から酒臭い息を吐きながら語っていたことを思い出し、僕はタケルに会いに行くことに決めた。
僕が考えた作戦には、協力者が二人必要だった。そのうちの一人がタケルだ。逃げる気満々のタケルを説得するのは大変だけど、今回は上手くいくはず。タケルにとっては悪い話じゃないから、きっと協力してくれると思う。
問題は、もう一人の方。僕とタケルで警察官を撃った後、警察とマスコミがレナの存在に目を向けたタイミングで、レナの遺体を見つけてくれる人物が必要だった。
本当は、僕らが頃合いを見て警察に連絡するのが一番なんだけど、僕が捕まらない保証はないし、できれば僕は完全に姿を消しておきたかった。それに、この作戦には僕らとは関係ない人の協力が必要不可欠だ。レナの姿が見える人で、かつ、遺体を探して通報してくれるような人がどうしても必要だった。
そんな都合のいい人がいるかは正直期待できなかったけど、レナには一人だけ心当たりがあるみたいだ。ただ、今は物凄く不機嫌そうにしているから、 誰なのかは教えてくれそうになかった。
相変わらず降ったり止んだりの空模様の下、顔を伏せたまま小走りで秘密基地に向かった。その間、レナはそばにいてくれたけど、不機嫌さを隠すことなく一言も話してくれなかった。
多分、レナにしてみたら、僕のアイデアは納得いかないんだと思う。成功したら全て解決できるといっても、代償は払わないといけない。その代償を考えたら、賛成できないというのがレナの気持ちなんだと思う。
それはそれで嬉しいんだけど、ここまできたらもう後には引けなかった。一生警察やキャロルに追われて暮らすくらいなら、新たな道を進んだほうがいいと僕なりに考えていた。
「蒼空、来てくれたのか?」
秘密基地の窓から中を覗くと、タケルが僕の顔を見て嬉しそうに手をあげた。
「蒼空、今晩貨物列車が走るから、それに紛れて逃げようぜ」
タケルは僕が逃げると思っているみたいで、早速逃走手段と行き先を話し始めた。
「タケル、僕は逃げないよ。キャロルに復讐するつもりだ」
「蒼空、まだ馬鹿なこと言ってるのか?」
「タケル、聞いて欲しいんだ。確かに馬鹿なことかもしれないけど、でも、たった一つだけこの状況を変えられる方法があるんだ」
タケルは露骨に嫌そうな顔をしていたけど、僕に案があるとわかり、渋々ながら僕と向かい合ってくれた。
「タケル、僕はこの拳銃で警察官を撃つつもりでいるんだ」
バックから拳銃を取り出し、おどけながら構えて見せる。口を開けたまま固まっていたタケルに、僕は計画の全てを打ち明けた。
「それって――」
話を聞き終えたタケルは、半ば放心したように口を半開きにしたまま視線をさ迷わせていた。
「上手くいけば、全て解決すると思わない?」
僕は笑顔を作りながら尋ねてみた。タケルの横でレナが大きくため息をつくのが見えた。
「本気、なのか?」
「本気だよ。それに、タケルにとっても悪い話じゃないよね?」
僕の言葉に、タケルの瞳が揺れた。タケルにしたらやりたい話なんだろう。けど、代償が邪魔をしてすぐには受け入れられないでいるみたいだった。
「けどよ」
「タケル、やっぱり僕はレナが好きなんだ。色々考えてみたけど、この気持ちは変わらないんだ。ずっと一緒だったし、レナをこのまま一人にはさせたくないんだ」
なにかを言いかけたタケルを遮って、僕は自分の決心と覚悟を伝えた。
「それに、僕にはあまり時間が残されてないんだ」
最後にそう付け加え、僕は咳き込んで両手に付いた血をタケルに見せた。
「蒼空、お前――」
手のひらに広がる血を見て、タケルの顔が驚きに変わる。病院に行くことさえできない僕らにとって、この状況が意味することを、タケルは感じ取っているみたいだった。
「くそ、わかったよ」
しばらくして真顔に戻ったタケルが、頭を激しくかきながら呟いた。
「蒼空の覚悟に付き合ってやるよ。ただし、やるって決めたら、もう後戻りできないぞ」
タケルの真面目な表情に、僕は黙って頷いた。
「で、いつやるんだ?」
「今からだよ」
僕が即答すると、タケルは呆れてため息をついた後、しょうがない奴だと言うように笑った。
二人で秘密基地を後にして、僕の家に戻る。家に着いた時には夜になっていた。これからやる作業を考えたら、暗い方が都合が良かった。
「持ってきたぜ」
家の中にある物で、特に僕に関する物を集めていたところに、タケルが灯油の入ったポリタンクを抱えてやってきた。この季節にあるかは不安だったけど、意外と民家の倉庫にあるもんだと、タケルが額の汗を拭いながら笑った。
タケルと二人で、家の中に灯油を撒いていった。僕に関する物といっても数えるほどしかなく、目的の物だけをポケットに入れ、後は火種となるゴミの山の中に捨てて残りの灯油をかけた。
「本当にいいんだな?」
「大丈夫だよ。後は自分で火をつけるから、タケルは先に秘密基地に帰っていて。あ、例の物を調達するのは忘れないでね」
僕が確認すると、タケルは黙って頷いた。しばらく名残惜しそうにしていたけど、またなと言い残して出ていった。
異臭と灯油の臭いが漂う部屋の中、僕はぼんやりとお母さんの遺体を見つめていた。
「もう、後戻りできないんだね?」
しばらく姿を見せていなかったレナが、急に僕の隣に現れた。
「後戻りはしない。前に進むだけだよ」
「てか、こんな時に格好つけるなっつーの」
レナがツッコミを入れてきたけど、その言葉はどこか弱く聞こえてきた。
「ここ、色んなことがあったよね」
レナが、散らかった部屋を眺めながら小さく呟いた。レナと出会い、レナが家にいられない時には僕の家に連れてきていた。だから、レナにしてみたらこのゴミ屋敷は、第二の家と言えるのかもしれない。
「色々あったけど、それもこれでおしまい。これからは、新しい世界に行くんだ」
僕はそう言って左手をレナに差し出した。レナは僕を一度だけ見つめた後、右手を重ねてくれた。
「もし、蒼空は私に出会わなかったら、こんな目に遭わなかったと思う?」
ライターをポケットから取り出した僕に、レナがゴミの山を見つめたまま尋ねてきた。
「こんな目に遭わなかったと思うよ」
そう答えると、レナは少しだけ悲しそうな瞳を向けてきた。
「レナと出会っていなかったら、地獄に耐えられずにとっくに死んでいたと思う。だから、こんな目に遭うことはなかったかな」
冗談っぽく、でも気持ちを込めてレナに伝えた。
「馬鹿」
レナはそう吐き捨てると、そっぽを向いてしまった。でも、その肩は小さく震えていて、重ねられた右手はより強く僕の左手を握っているように見えた。
ライターで新聞紙の切れ端に火をつけ、ゴミの山に放り投げる。小さかった炎はすぐに大きくなり、やがて家を飲み込むように広がり始めた。
「お母さん、バイバイ」
勝手口から脱出した後、一度だけふり返って呟いた。別に大した思い出はなかったけど、なぜか涙が溢れてきた。
――新しい世界へ行くんだ
僕は乱暴に涙を拭うと、家から持ち出してポケットに入れておいた物を握りしめて、秘密基地に向かって走り出した。
連日降り続いた雨は、月末の今日も相変わらず降り続いていた。それでも、天気予報によれば、今日を最後に明日からは嘘のように晴れるらしい。
そんな予報を聞いた時、なんだか僕らの門出を祝ってくれているみたいで、ちょっとだけ気持ちが嬉しくなった。
家に放火した後、僕らは秘密基地に身を隠していた。放火事件はちょっとした騒ぎとなっていたみたいで、食料を調達しに行った先で色んな噂を耳にした。
と言っても、噂のほとんどがお母さんの彼氏の仕業というものばかりで、僕という存在が話題に上がることはなかった。
そんな嬉しいような寂しいような気持ちの中、僕とタケルは作戦実行の準備を進めていた。一番気にかけていたレナの心当たりについては、ようやくレナが作戦に参加してくれることになったおかげで、教えてもらうことができた。
レナの遺体を探してくれることになる人は、「秀一さん」と呼ばれている高校生で、借金取りみたいに怖い人じゃないから、頼みも聞いてくれる可能性が高いらしい。
事件後、秀一さんと呼ばれる人が、レナの遺体を見つけるまで匿ってくれるだろうか。親がいない家らしく、ちょっと怖い女の人がいるみたいだけど、多分力になってくれるはずとレナが言いきっていたから、レナを信じるしかなかった。
作戦実行日は月末に決めていた。日曜日だから、桜木公園も夜には人気がほとんどなくなるからだ。この公園を、毎日夜の十時過ぎに警察官がパトロールに来る。その警察官が僕らのターゲットだ。パトカーは一台だけだし、警察官も二人しかいない。公園の周囲は住宅街が密集しているから、逃げるにはちょうどよかった。
時刻は間もなく午後十時。桜木公園は、予想した通り人の気配はなかった。
「タケル、これ」
僕は、家から持ってきた物をタケルに差し出した。
「本当にやるんだな?」
タケルが受け取りながら、僕の意思を確認してくる。大丈夫だと示すように、僕は大きく頷いた。
「悪いけど、先に行ってくれる?」
レナの気配を感じた僕は、怪訝そうな顔をしたタケルを公衆トイレから追い出した。
「いよいよだね」
姿を表したレナは、鏡の前に立っていた僕の隣に並んだ。
「あれだけ覚悟したのに、緊張して手の震えが止まらないんだ」
僕は苦笑いを浮かべながら、震えが止まらない両手をレナに見せた。
「ねえ蒼空、私たちが最初に出会った時のこと覚えてる?」
震える僕の手に、レナが手を重ねながら聞いてきた。もちろん、出会った日のことは覚えている。十歳の時だった。近くのスーパーで一升瓶を抱えて出て行く僕の前に、同じく一升瓶を抱えたレナが現れた。
同じ境遇を生きていると直感で思った。屈託のない笑顔に、小さな胸が高鳴ったことは今でも覚えている。
その日から、僕は夢中でレナを追いかけた。なにをするにもいつも一緒だった。ときめきが恋心に変わった時には、こんな弱い僕でもレナを守りたいと本気で思った。
結果的には、レナを守れなかった。その悔しさと情けなさが、今の僕を突き動かしている。大切なレナを守れなかったから、せめて仇だけはとりたかった。
「蒼空」
そっと手を離したレナが、僕の前に立った。いつ見ても息が止まりそうになる笑顔がそこにあった。
「私もね、本当は蒼空のことが大好きだったんだよ」
不意に告げられた言葉。その意味を理解しようとした時、レナがゆっくりと僕に顔を近づけてきた。
もちろん、感触はなかった。ただ、唇が触れていることだけは、はっきりとわかった。
「村井蒼空。私が好きなら、ちゃんと男を見せるんだぞ」
顔を離したレナが、笑いながら勇気づけてくれた。でも、その顔はなぜか泣いているようにも見えた。
「わかってる。きっとうまくいくよ」
気づくといつの間にか手の震えが止まっていた。僕は力強く頷いてレナの瞳に応えた。
トイレから出ると、雨は上がっていた。僅かに灯る外灯に照らされながら、僕はタケルと合流した。
「蒼空、いよいよだな。体は大丈夫か?」
「体なら問題ないよ。今なら、秘密基地まで休まず走り続けられると思うよ」
笑いながらツッコミを入れると、タケルは頭をかきながら笑い返してきた。
そんなやりとりの中、目的のパトカーが視界に入ってきた。僕は用意していたタバコに火をつける。苦いだけで、すぐに咳込んだ。タケルはそんな僕を見て笑っていたけど、一口吸って同じようにむせた。
不思議な気分だった。あれだけ怖かったのが、今はなぜか楽しささえ感じていた。パトカーが目の前にとまり、警察官が姿を見せた時には、緊張よりも興奮が勝っていた。
――レナ、僕は必ず君の所に行くよ
心の中で呟きながら、何度も大きく深呼吸を繰り返した。
一発の銃弾が世界を変える――。
だとしたら、この一発は僕とタケルの世界を変える為のきっかけになってくれるはず。
いいことなんてなにもなかった僕の世界。
でも、レナに出会って全てが変わった。
いつも一緒にいたかった。守ってやりたいと本気で思った。
けど、守ってやれなかった。だから、今度こそ新しい世界で、僕はレナを守ってやるつもりだ
右肩を押さえながら、タケルが叫んでいた。その声に、ようやく僕は我に返った。
「蒼空、頼んだよ」
作戦の第一歩はとりあえず成功だった。後は予定通りに進んでくれれば、全て解決するはず。
そう信じて、僕はタケルと一緒に作成を実行することにした。
翌日には、レナの遺体とキャロルの遺体が見つかった件で大騒ぎになっていた。どちらの遺体も殺害された可能性があるとして、警察は捜査本部を設置し、大々的にキャロルに対する捜査を展開させることになった。
そんなニュースが報じられる一方、いまだにミスターXが捕まっていないことに対して、いくつもの議論が繰り広げられていた。中には最初から存在していないのではという説まで浮上していて、情報はますます混乱するばかりだった。
学校の準備をすませた僕は、 全てのニュースにタケルが捕まったという情報がないことを確認すると、もう少しだけとせがむ千夏を押しきってテレビを消した。
今のところ、タケルが無事なことに少しだけ安心することができた。けど、二度と戻ってくることはない予感がするだけに、突然の別れはこの家に暗い影を落としていた。
――一応は、タケルの考えたとおりになったのかな
ニュースの内容を思い出しながら、いなくなったタケルに思いを馳せる。結果的にはタケルが思っていたとおりの結末になったとはいえ、腑に落ちない違和感はまだ拭いきれなかった。
――タケルは、一体どんな世界を描いていたんだろう?
結局、タケルたちが変えたかった世界の意味はわからなかった。そのことが悔しくて、苛立ちに任せて拳を握りしめたとくだった。
「ちょっと千夏、何度言ったらわかるの?」
登校しようと千夏が立ち上がったところで、洗濯物と格闘していた京香が苛立ちを含ませた声をかけてきた。どうやら替えの制服に生徒手帳を入れたままにしていたことに、京香は怒っているみたいだった。
「お姉ちゃん、遅れるから後お願いね」
千夏は怒られると察知したのか、鞄を手にするとそそくさと家から出て行った。
「もう。いつもこうなんだから」
京香がぶつぶつと独り言を繰り返しながら、忙しく動き回る。その動きはいつものことだけど、どこか寂しさを紛らわせているようにも見えた。
京香がテーブルに置いた千夏の生徒手帳を手にしてみる。身分証の欄には写真がついていて、童顔の千夏がかしこまっていた。
――生徒手帳?
何気なくテーブルに戻した瞬間、生徒手帳という単語が引っ掛かった。どこかで聞いたような気がして記憶の中を探ってみた。
――え?
生徒手帳という単語を聞いた場面を思い出した途端、ある疑惑が頭の中に弾けた。
――村井蒼空は逃げるのに失敗したんじゃなくて、最初から捕まるつもりだったとしたら?
タケルたちが考えた警察官銃撃事件は、どう考えてもリスクしかない。けど、もし最初からどちかが捕まるつもりでいたとしたら、一人を逃がす為にもう一人が犠牲になることでリスクを避けられるかもしれない。
――でも、なんでそんなことをしたんだ?
気を落ち着かせて、慎重に疑惑と向き合ってみる。その瞬間、残されていた謎が顔を出し、疑惑と重なったところで僕の中に確信的な答えが浮かんできた。
「そうか、そういうことだったのか」
「秀一さん、どうしたの?」
一仕事を終え、登校しようとしていた京香が足を止めてリビングに入ってきた。
「なんで気づかなかったんだろう」
「え?」
僕の言葉に、京香が眉間にシワを寄せた。
「警察は、病院に運ばれた中学生を村井蒼空だとしている。木村から聞いた話だと、生徒手帳から身元が判明したとなってるけど、これって変だよね?」
僕の言葉に、京香が鞄をテーブルに置いて僕のそばに近寄ってきた。
「なんで村井蒼空は生徒手帳なんか持っていたんだ?」
「蒼空君は中学生だから、持ってても変じゃないと思うけど」
「学校に行っていないのに?」
僕が切り返すと、京香は口を開けたまま固まった。どうやら僕の言った不自然さに気づいたみたいだった。
「学校に行っていないということに関したら、タケルもそうだ。学校に行ってない奴が、なぜ制服を着ていたんだ? その前に、タケルは戸籍がないから入学できる学校があったとは考えにくい。なのになぜ、学生服姿でいたんだ?」
疑惑を口にしながら、一つ一つを検証していく。タケルも村井蒼空も学校には行っていない。けど、村井蒼空は戸籍があるから、中学校は決まっていたはず。だから、その学校から生徒手帳を送られていたとしてもおかしくはない。そして、その生徒手帳を使って、誰も知らない自分たちの存在を証明しようと考えたとしたら――。
「僕たち、なにもわかっていなかった」
「わかっていなかったって、なにを?」
「レナの遺体にかけられていた学ランには、村井蒼空の名前があった。だとしたら、学生服姿でいるのは村井蒼空になるよね?」
僕の問いに、京香が眉間にシワを深く刻んでいく。けど、すぐにその表情は驚きに変わっていった。
「村井蒼空とタケル、誰も知らないこの二人をどうやって判別したらいい?」
「秀一さん、まさか二人は――」
「おそらくだけど、入れ替わっていると思う」
不自然に持っていた生徒手帳。誰も二人の存在を知らないがゆえに、唯一身分を証明できる物が生徒手帳だけだとしたら、それを持っていたタケルを、村井蒼空だと警察が認定してもおかしくはないかもしれない。
実際に、警察もマスコミも病院にいる中学生を村井蒼空と認定し、逃げた中学生をミスターXとしている。けど、本当の意味では、タケルと村井蒼空を判別しているとは言い切れないのではないだろうか。
「だから、家を放火したんだ。自分の痕跡を消す為にね」
村井蒼空は、母親の遺体をどうにかしようとして放火しただけではなかった。自分に関する情報を抹消する為にも、自分の家に放火したはずだ。
その結果、残ったのが戸籍と生徒手帳だった。村井蒼空は、タケルと入れ替わる為にあえて生徒手帳を残したに違いない。
「木村が、わざわざ警察官を狙ったのは不自然だと言ってた。注目を集めて囮になる方法としてはリスクが高いってね。でも、リスクなんてなかった。最初から、一人は捕まるつもりでいたんだと思う。タケルを、村井蒼空と認定してもらう為にね」
タケルと村井蒼空が起こした警察官銃撃事件の真相。
それは、マスコミを利用して警察を動かし、仇をとるだけではなかった。
本当の目的は、タケルと村井蒼空が入れ替わることだった。
僕の家に来たのがタケルではなく村井蒼空だとしたら、このアイデアを考えたのも村井蒼空だろう。
十三歳が考えた無茶苦茶なアイデア。でも、二人はそれを実行して成功させた。成功できた理由はただ一つ。誰も二人のことを知らなかったからだ。
けど、村井蒼空のアイデアにも唯一の欠点があった。それは、タケルになった村井蒼空が制服を着ていたことだ。学校に行ってないタケルが、制服を着ているのは変だとは思わなかったのたろうか。それとも、よほどの思い入れが制服にあったのだろうか。
完璧に思えたアイデア。でも、そこに残された綻びから、なぜか村井蒼空の切ない気持ちが現れている気がした。
「ちょっと出かけてくる」
タケルと村井蒼空が入れ替わっているとしたら、僕の家に来たのが村井蒼空だとしたら、村井蒼空が消えた理由は一つしかなかった。
「秀一さん、蒼空君の所に行くんでしょ? 私も一緒に行く」
「いや、それは――」
やめた方がいいと言いたかった。けど、言えなかった。あまりにも京香の思い詰めた表情に、言葉が喉に詰まって出てこなかった。
「私、もう色んなことから逃げたくないの」
京香はそうはっきりと口にすると、黙って僕を睨んできた。なにから逃げているのかはわからないけど、京香なりになにかと向き合おうとしているのが伝わってきた。
「急ごう。あまり時間がないかもしれない」
京香に一緒に行くことを告げると、僕は家を飛び出した。既にニュースでは、警察がキャロルの壊滅に向けて動きだしたと報道している。それを村井蒼空が知ったとしたら、おそらくこの世に思い残すことはないだろう。
僕の考えが正しければ、村井蒼空は秘密基地にいるはず。そう確信があった。秘密基地までは、急いでも一時間はかかる。けど、自転車で行けばそんなに時間はかからない。
庭にある自転車に目がいった。斗真を死なせてから一度も自転車には乗っていない。けど、時間があまり残されてない可能性がある以上、迷っている暇はなかった。
「京香、後ろに乗って」
今は京香が使っているシルバーの自転車を取り出し、玄関から出てきた京香に声をかける。京香は一瞬、驚いた表情を見せたけど、すぐに真顔になって後ろに乗ってくれた。
快晴の空の下、なだらかな坂道を下りていく光景は、一年前に斗真を乗せて出かけた時と同じだった。
斗真がいなくなって一年。決して埋まるはずのなかった京香との溝。今も埋まることはないけど、でも、こうして二人で自転車に乗る日がくるとは思わなかった。
そのきっかけを作ってくれたのは村井蒼空だ。斗真に似た顔立ちで僕らの前に現れ、止まっていた僕と京香の時計の針を動かしてくれた。
――間に合うか?
坂道を下り終わった僕は、減速することなくさらにスピードを上げた。
秘密基地に続く山道を全力で登り、藪をかき分けて秘密基地にたどり着くと、村井蒼空が出会った時の制服姿のままで僕らを出迎えてくれた。
「お兄ちゃんたち、やっぱり来てくれたんですね」
村井蒼空が、壁に寄りかかったまま僅かに青ざめた表情で力なく呟いた。その言葉からも、村井蒼空は僕らが来るのを待っていたのがわかった。
「最終的に君を見つける為に、僕を事件に巻き込んだ。そうだろ? 村井蒼空」
一つゆっくりと深呼吸した後、僕は核心をつくように村井蒼空に迫った。
村井蒼空は驚いた顔をした後、なにか言いたげに口を開いていたけど、結局、一言も話すことなくがっくりと肩を落とした。
「気づいたんですね?」
「ああ、君たちが起こした警察官銃撃事件は、レナの遺体を見つけるためだけじゃない。本当の狙いは、レナの仇を取ること、そして、君たち二人が入れ替わることだった。そうだろ?」
僕の問いに、村井蒼空は困惑しながらも黙って頷いた。
「事件の後、警察にレナの件を捜査してもらうなら、さっさと君が通報した方が早いはず。けど、君はなぜか僕を巻き込み、僕に警察へ通報させようとした。このことがずっと引っ掛かっていたんだ」
そこで言葉を切って村井蒼空の様子を伺った。村井蒼空は、特に否定することなく、俯いたままだった。
「君はレナを探すふりして、僕にレナを探すように頼んだ。しかも、最初に向かわせたのがこの秘密基地だった。レナの遺体を見つけるのが目的なら、まっすぐ遺体のある場所に向かわせるだけでいい。わざわざ誰もいない秘密基地に向かわせる必要はなかったんだ」
そもそもの疑問は、なぜ誰もいない秘密基地に向かわせたのかだった。無駄なことにしか思えなかったけど、裏を返したら無駄なことでもやる必要があった。
そう考えると、村井蒼空の狙いには、レナの遺体を見つける以外にもう一つ狙いがあることに気づいた。それは、僕に秘密基地の場所を覚えてもらうことだった。
それがわかれば後は簡単だった。なぜ村井蒼空は自分で警察に通報しなかったのか。それは、自分の遺体を発見し、かつ、証言してくれる人が必要だったからだ。
おそらく村井蒼空は、レナの遺体が見つかった直後に死ぬ気だったはず。全ての罪を背負い、タケルとして身元不明の遺体になるつもりだったのだろう。そして、早急に発見されて事件が終わるのを望んだ。長引いてボロが出るのを恐れたのだろう。
だから、第三者に通報を頼んだ。レナの遺体発見を受けた警察は、必ず事情を追及してくる。その時、秘密基地の話が出るようにわざわざ僕に一度秘密基地に向かわせた。そうすることで、早く警察が来て村井蒼空をタケルだとし、かつ、一連の犯人と認定することで事件を終わらせようと考えた。
でも、実際はそうならなかった。予定通り僕らがレナの遺体を発見するまではよかった。けど、そこで予想外のことが起きた。通報するはずだった僕が通報せずに、木村の兄に通報を頼んでしまった。
しかも、木村の兄に事情を話したのは通報の後だ。警察に事情を聞かれる際に、木村の兄はまだ詳しい事情を知らなかったから、秘密基地のことは警察に伝わらなかった。
だから、村井蒼空は死ぬことができなかった。警察に早く発見されて事件を終わらせないと、いつまでもタケルが捜査の対象になってしまうと考え、なんとかしないといけないと思っていたはず。
そういう理由だから、僕らがここに来た時、村井蒼空は一瞬嬉しそうな顔をしたけど、すぐに困惑した。来て欲しかった警察官の姿がなかったからだ。
そう問い詰めると、村井蒼空は肩を震わせながら黙りこんでいた。けど、ゆっくりと顔を上げると、力のない笑みを見せた。
「違うんです、お兄ちゃん」
僕の推理を否定するように、村井蒼空は、はっきりとした口調で告げてきた。
「なにが違うんだ? 君は、隠している拳銃で自殺するつもりなんだろ?」
僕の考えが正しければ、村井蒼空はタケルになって死ぬ気だろう。その方法として考えられるのは、出会った時にはどこにあるか教えてくれなかった拳銃による自殺だ。その時の為に、村井蒼空は取り上げられないように隠していたはずだった。
「自殺なんかしませんよ。もう拳銃には弾がないですから。それに、自殺しなくても、僕は間もなく死ぬんです」
僕の予想を再び否定する村井蒼空。どういうことかと問い詰めようとした瞬間、村井蒼空は両手を口にあてて大きく咳き込んだ。そして、おびただしい量の血痕がついた両手を僕らに向けてきた。
「蒼空――」
「蒼空君!」
僕の驚いた声と、京香の悲鳴に似た声が重なり、京香が慌て崩れ落ちた村井蒼空を抱き抱えた。
「秀一さん、救急車――」
「待って、お姉ちゃん!」
慌てる京香を遮るように、村井蒼空が声を上げた。
「蒼空君」
「お姉ちゃん、もう僕は助からないんです」
「駄目よ、そんなこと言ったら」
「お姉ちゃん、僕は死ぬのは怖くないんです。だって、レナのいる世界に行けるんですから」
弱々しく村井蒼空が笑った。その言葉に、京香が続けようとした言葉を飲み込むのがわかった。
「お兄ちゃん、僕が警察に通報しなかったのは、警察が信じられなかったからだけなんです。それだけじゃなくて、大人を信用できなかったからなんです」
京香に寄りかかったまま、村井蒼空が弱々しく呟いた。その瞳には、寂しげな光が宿っていた。
「信用できなかった?」
「はい。僕は、レナを守ってやりたかったんです。けど、僕にはその力がありませんでした。だから、警察や大人に助けて欲しいとお願いしました。でも、誰も僕の話は聞いてくれませんでした」
苦しげに語る村井蒼空の表情が、一気に曇っていく。村井蒼空は、レナを探す為に警察へ捜索するようにお願いしていた。けど、それもレナの母親のせいもあって実現しなかった。そう考えると、村井蒼空が警察や大人を信用しなくなっても不思議ではなかった。
いや、そもそも村井蒼空は、最初から大人を信用していなかったかもしれない。風呂場で見た村井蒼空の体にあった虐待の痕からしても、村井蒼空が大人にいいイメージを抱いているとは思えなかった。
「だから、警察には頼りたくなかったんです。でも、そうなると僕のアイデアは成功しないことになります。僕のアイデアは、お兄ちゃんの言う通り、入れ替わった僕をタケルとして見つけてくれる人がどうしても必要だったんです」
その候補として僕が選ばれた。レナの姿が見えて、かつ、村井蒼空を匿ってくれる人として、村井蒼空はレナに紹介されて僕を頼ってきた。
多分、普通に生きていたら、僕は村井蒼空を助けていなかっただろう。けど、両親不在という環境に加え、斗真を失った京香という妹がいたことが、結果的に村井蒼空を受け入れることになった。まるで、運命の悪戯のように、僕と村井蒼空は出会うべくして出会ったのかもしれない。
「最初は、上手くいくか心配でした。でも、お兄ちゃんもお姉も僕を見捨てずに匿ってくれました。そのことは、とても嬉しかったです」
苦しそうに顔を歪ませながらも、弱々しく笑う村井蒼空。その姿が斗真と重なって見えた僕は、続ける言葉を失ったまま動けなくなってしまった。
「蒼空君、やっぱり病院に行こうよ」
再び咳き込んで吐血した村井蒼空を、京香が包み込むように抱きしめる。多分、京香にも村井蒼空の姿がはっきりと斗真に見えたのだろう。
「お姉ちゃん、心配しないでください」
京香の両腕の中から顔をのぞかせた村井蒼空が、斗真と瓜二つの笑顔を見せた。
「僕は、ここでタケルとして死なないといけないんです」
「どうして? 蒼空君もタケル君と同じように生きていこうよ」
「僕は大丈夫です。レナのいる世界にいけるんですから。それに、タケルにはちゃんと生きて欲しいんです」
「でも――」
「お姉ちゃん、タケルは僕に初めてできた親友なんです。だから、タケルを助けてやりたいんです」
弱く掠れた村井蒼空の言葉に、京香が目を大きく見開いたまま固まってしまった。多分、村井蒼空の「親友」という言葉に胸を打たれたのだろう。
斗真は、ずっとイジメられていたせいで友達がいなかった。そのことを、京香は常に心配していた。そんな斗真と瓜二つの村井蒼空の口から出た「親友」という言葉は、京香がずっと待っていた言葉でもあった。
僕はゆっくりと京香に歩み寄り、その肩に手を置いた。京香は泣くのを堪えようとしていたけど、僕を見上げた途端に、その瞳からは大粒の涙が流れ落ちていった。
「蒼空、レナのことがやっぱり好きなんだな?」
僕の言葉に、当然だよとでも言うように、村井蒼空が大きく頷いた。
「蒼空君、レナちゃんに会ったらちゃんと守ってやるんだよ。それに、今度は体を大切にすること。いい? それから――」
「大丈夫ですよ、お姉ちゃん」
説得を諦めた京香が、いつもの心配症へと変わる。そんな京香を、村井蒼空は嬉しそうに笑って見ていた。
「レナに会ったら、出会えて楽しかったと伝えて欲しい」
そう伝えながら村井蒼空の手を握る。村井蒼空が微かに握り返してきたところで、京香が僕に手を差し出してきた。その手を、僕は無理矢理笑いながら握り返した。
「生きていても、ただ辛いだけでした。でも、そんな世界をレナが変えてくれました。地獄だった日々でしたけど、レナといる時だけは幸せでした。それに、最後にお兄ちゃんとお姉ちゃんに会えて良かったです」
途切れ途切れに語る村井蒼空の息が、はっきりと弱くなっていく。けど、その表情には苦悶の色はなく、穏やかな寝顔のように見えた。
「レナ、君のところに行くから――」
消えいく声で呟いた村井蒼空の腕が、力を失ったように垂れ下がった。同時に、腰に挟めてあった拳銃が転がり落ちてきた。
――一発の銃弾が世界を変える
村井蒼空の言葉が、ゆっくりと頭を過っていく。村井蒼空は、自分たちの世界を変えようとしていると思ったけど、それは間違いだった。
村井蒼空が変えようとしたのは、タケルの世界だけだった。
村井蒼空の世界は、レナと出会ったことでとっくに変わっていた。
だから、村井蒼空は自分が死ぬことも怖れなかった。
大好きなレナのいる世界こそが村井蒼空の世界であり、その世界に行くのだから、村井蒼空にとっては生きることよりも幸せだったのかもしれない。
視界が滲んでいき、頬を冷たいものが流れていった。村井蒼空は、この小さな体で、過酷な世界を生きてきた。
そこには、レナを想う気持ちがあり、レナへの気持ちを貫いた村井蒼空の姿があった。
「秀一さん?」
村井蒼空を泣きながら抱きしめていた京香が、不思議そうな顔で見つめてきた。
「村井蒼空が羨ましいよ。ちゃんと自分の想いを貫いた上に、タケルを助けたんだから」
慌て涙を拭いながら、僕は無理矢理に京香へ笑ってみせた。
一発の銃弾でタケルの世界を変えた村井蒼空を前にして、僕は自分の中でなにかがはっきりと形になっていくのを感じた。
―第四章 了――
警察官銃撃事件は、容疑者の少年が遺体で発見されるという結末で幕を下ろした。これには、マスコミを通じて世間も大騒ぎになった。結局、犯人の少年が何者なのか最後までわからなかったみたいで、氏名住所不詳のまま蒼空君の遺体は処理されることになったと、木村先輩のお兄さんが教えてくれた。
一時は事情聴取で拘束された秀兄も、今は解放されている。警察の聴取に最後までタケル君のことや蒼空君のことは明かさなかったみたいだ。もちろん、私も警察の事情聴取には知らないの一点張りで突き通した。
木村先輩のお兄さんによれば、蒼空君になったタケル君は、村井蒼空として今後は施設で暮らすことになるだろうということだった。ただ、その中身については知ることはできないみたいだ。皮肉にも、大人たちが作った世界から阻害されてきたタケル君は、大人たちが作った個人情報保護という壁に守られることになった。
自室の机にうつ伏せたまま、ぼんやりと考え事をしている間に日付が変わっていた。七月七日になった今日は、斗真の命日でもあり、秀兄が自殺すると決めた日でもあった。
今日、秀兄は間違いなく自殺する。蒼空君が亡くなった時、多分、秀兄は悟ったんだと思う。自らの命を犠牲にすることで、切り開ける未来があるということに。
秀兄は、私と同じように蒼空君を通じて斗真を見ていたと思う。自分をお兄ちゃんと呼び、頼ってくる蒼空君に斗真の姿を重ねていたはず。
そして、秀兄は蒼空君を失った。それはある意味、斗真を再び失ったことになるのかもしれない。
それは、私も同じだった。斗真によく似た蒼空君が現れて、かつて過ごした日々を再び過ごすことになった。そのおかげで、斗真を失った意味を嫌でも思い知らされた。
でも、不思議なことに、あの時感じた憎しみはなかった。秀兄の自転車の後ろに乗り、斗真と同じ世界を見てわかった。斗真はきっと、大好きだった秀兄と一緒だったことで幸せだったんだろうなって。
そして、私は蒼空君に教えられたことがある。人の幸せは、出会えて良かったと思えるような人に出会えるかどうかということだ。
蒼空君は、恵まれない環境の中でレナちゃんと出会ったことで幸せを見つけた。例えその生涯が短ったたとしても、幸せを見つけた蒼空君の人生は無駄じゃなかったはず。
だとしたら、斗真の生涯はどうだったのだろうか。それは、考えるまでもなかった。斗真は、秀兄と出会ったことできっと幸せだったはず。だからこそ、斗真はその想いを七夕の短冊に込めたんだろう。
さらに私は、蒼空君の想いに触れてわかったことがある。蒼空君は、大切な友達のタケル君の為に、そして、一途に想い続けたレナちゃんの為に命をかけた。その純粋な想いに触れた時、きっと私の想いはそこまでないのだと思い知らされた。
秀兄が好きな気持ちは、今も変わりはない。けど、兄妹になり、憎む相手になったことで、いつしか私は、悲劇のヒロインを演じていたのかもしれない。
だから、どんな環境でも、どんなに不恰好な手段だったとしても、一途にレナちゃんを想い続けた蒼空君の気持ちが胸に突き刺さった。同時に、私の想いはそこまでなかったのかもしれないと、目が覚めたような感覚に包まれた。
そう結論づけた時、ふっと肩が軽くなった気がした。結局私は、周りの環境に流されて意地を張っていただけの、弱くて狡い女というだけだった。
机の鍵を開けて、斗真の宝箱を取り出した。次に開ける時はどんな自分になるかはわからなかったけど、こうして開けた今の自分を考えてみると、悪くはないのかなと思える自分がいた。
宝箱を開け、斗真の短冊を手にしてみる。斗真の願いを叶える為には、今私が変わらないといけない。
その為に、明日、私は自分の恋を終わらせようと思う。この気持ちにきちんと決着をつけ、斗真と秀兄に、もう一度向かい合ってみようと思う。
それが、私の出した答えだった。
初恋は実らない――。
みんなが言い続けてきた言葉の通りになった。けど、秀兄を好きになったことは後悔していない。一瞬で心を奪われたあの笑顔に夢中になって恋をしたことは、きっと一生忘れないと思う。
私は短冊を宝箱に戻すと、宝箱を胸に抱き、机にうつ伏せて声を殺して泣いた。
悲しいのか辛いのか、よくわからなかった。
ただ、今だけは秀兄を思い出に変える為に、泣く事を抑えるのは止めようと思った。
七月七日は、天気予報通りの快晴だった。夕方から開かれた学校のイベントである七夕祭に、僕は千夏を連れて参加した。
僕は京香が用意した甚平姿で、千夏は花火柄の浴衣を着ている。同級生たちがかわいい彼女だと冷やかしてくる度、千夏は僕の背中に隠れて裾を力強く握っていた。
七夕祭は、僕の学校では文化祭と並ぶ一大イベントだ。各教室が色んな店を出したりイベントを行っているおかげで、学校の生徒だけでなく地域の人も参加する行事にもなっていた。
僕も、本当は出店の手伝いをしないといけなかったけど、妹の面倒を見ることを免罪符に抜け出している。京香はというと、出店の管理を任されているみたいで、家を出る時から姿を見せていなかった。
木村は、七夕祭のステージにバンドとして参加していた。木村にしたらこれが最後の活動になるから、僕は木村の姿をしっかりと目に焼き付けておいた。
「千夏、なにか食べる? 綿あめがいいかな、それとも焼きそばがいいかな」
千夏と過ごすのも今日で最後だ。少しくらいは甘やかしてもいいかなと思い、色んな店に連れて回った。
けど、千夏はそんな僕を不思議そうに見上げるだけで、なにが欲しいとは言わなかった。
「秀兄ちゃん、どこにも行かないよね?」
突然、僕の手を握ってきた千夏が、消えそうなくらい小さな声で呟いた。僕が変に優しかったからか、いつもと違う雰囲気を千夏は感じ取っているみたいだった。
「ああ、大丈夫。ちゃんと千夏のそばにいるよ」
不自然さを誤魔化すように千夏の頭を撫でると、千夏はほっとしながら胸を撫で下ろしていた。
「京香が来るから、ここで待ってよう」
京香のクラスが出している店に千夏を座らせると、僕は千夏がおねだりしてきた焼きそばやお好み焼きを買ってきた。
「木村を呼んでくるから、ここで京香を待っていてね」
用意した食べ物を前に笑顔を見せる千夏にそう告げると、千夏の顔をしばらく眺めてから席を立った。
校舎の階段を上りながら、これまでの日々を思い出す。最悪なことをしてしまったけど、僕にはもったいない出会いがあったと素直に思えた。
屋上のドアを開けると、生ぬるい夏の風が汗ばんだ体を包んでくる。これから死ぬ気でいるのに、生きていることを考える自分が妙におかしかった。
「よう、奇遇だな」
屋上入り口の屋根に上ろうとしたところで、フェンスに寄りかかっていた人影に声をかけられた。姿を見なくても、声で木村だとわかった。
例年になく雲一つない快晴の空には、月明かりを受けずに輝きを放つ天の川がゆったりと夜空を彩っていた。そんな天の川を背にして、僕と同じく甚平姿に着替えた木村が姿を現した。
「もうバンドはいいの?」
木村がここにいる理由はすぐに想像できる。けど、それに触れずに当たり障りのない会話を選んだ。
「バンドはもう終わったよ。それよりも、最後のあがきに来たんだ」
木村は一度だけ笑うと、真顔になって真剣な眼差しを向けてきた。
「なあ秀一、俺たちが出会った日のことを覚えているか?」
木村に聞かれ、僕は黙って頷いた。仲良くなったきっかけは、小学五年生の時だ。修学学旅行の班を決める際、一人残っていた木村に声をかけたことだった。
別に可哀想といった気持ちはなかった。同じクラスだけど会話はなかったし、いじめられていることも知っていた。けど、なぜいじめられないといけないのかはわからなかった。だから、ごく普通に声をかけた。一緒の班にならないかと。
「秀一はさ、なんとも思わずに声をかけたって言っただろ?」
木村の問いに、無言で頷いて返した。別に守ってやるだとか、いじめは良くないとかいう気持ちはなかった。強いて言えば、単に友達になりたくて声をかけただけだった。
「秀一はなんとも思ってなかったかもしれないけどさ、俺は、俺はな――」
木村は声を詰まらせると、腕を震わせたままうつむいた。けど、すぐに顔を上げると、赤く染まり今にも零れそうな涙を溜めた瞳を僕に向けてきた。
「俺はな、すげー嬉しかったんだぞ」
木村は口調を荒げながら、でも、真っ直ぐに僕を見つめたまま叫ぶように言った。
「ずっと一人ぼっちだった俺に声をかけてくれたこと、マジで嬉しかった。その後も、秀一に迷惑かけたくなくて距離を取ろうとしたのにさ、秀一は変わらず声をかけてくれたよな?」
木村の言葉に、意識が昔に飛ぶ。確かに木村は素っ気ない奴だとは思った。けど、悪い奴じゃないとも思ったのは間違いなかった。
「秀一と出会って、秀一と一緒にいて初めて俺は知ったんだ。誰かといることが、誰かがそばにいるって思うことが、こんなに嬉しいもんだってな」
木村は言い終わると、「格好悪いよな」と笑いながら涙を拭い、恥ずかしそうに頭をかいた。
「俺な、自分が悔しくてたまらないんだ」
木村は涙を拭い終えると、肩を落として寂しげに呟いた。
「秀一は俺を助けてくれた。生きてる意味なんかなかった絶望の日々からさ、秀一は俺を救ってくれたんだ。なのによ、今の俺は秀一になにもしてやれなかった。秀一が辛くて自殺すると打ち明けたのに、俺は助けてやることもできずにこの日を迎えてしまったんだ」
握りこぶしを震わせながら、歯ぎしりが聞こえるほど木村が奥歯を噛みしめる。僕を止めるために、なりふりかまわず奔走しただけに、今日を迎えてしまったことを木村は悔しいのだろう。
「木村の気持ちは嬉しかったよ」
僕は木村の手を取り、そっと肩を叩いた。
「僕はね、蒼空と出会ってわかったんだ」
僕が優しく話しかけると、ようやく木村は顔を上げてくれた。
「蒼空はね、タケルの為に世界を変えようとして、見事にやりきった。つまり、それは自分がやるべきことを見つけたからだと思うんだよ」
「だからって、秀一も死ぬのはおかしいだろ」
「僕はね、ずっと後悔していた。嫌がる斗真と仲良くなる為に、あの日連れ出したことをずっと後悔してきた。でもね、後悔したところでなにかが変わるわけじゃないんだ。ずっと過去に縛られていても、なにも解決しないって気づいたんだ」
何度も夢にまで見るあの日の記憶。この一年間、一度たりとも思い出さなかった日はないし、後悔しなかった日もなかった。
「本当は、僕が後悔するのは間違いだと思うんだ。本当に大切なのは、残された京香と千夏の未来なんだよ。二人には斗真を失った悲しみに縛られ続けていくのではなく、立ち直ってちゃんとした未来を歩いて欲しいんだ」
その為には、僕という存在は間違いなく邪魔になるだろう。時間がいくら流れても、僕という存在を目にする度に、どこかで僕が生きていると思う度に、きっと京香や千夏は斗真のことに縛られ続けるだろう。
だから、大切な二人の為にも僕の存在は消えた方がよかった。蒼空は自分の命を代償に、大切な友達の世界を変えた。それと同じように、僕も自らの存在を代償にして、二人の未来を切り開いてやりたかった。
「蒼空がそうしたからといって、秀一も同じ道を辿ることはないだろ」
「わかってる。でもね、これがきっかけで少しずつでも立ち直ってくれるなら、僕はそうするべきだと思うんだ」
「なんでだよ? そこまでする理由が本当にあるのかよ」
「理由? 理由は簡単だよ」
荒ぶる木村を落ち着かせる為、努めて笑顔を作りながら木村の肩に両手を置いた。
「京香も千夏も、僕の大切な妹たちなんだ」
僕がそう答えると、木村は目を見開いた後に力なく笑ってくれた。どうやら僕の覚悟に揺るぎがないことをわかってくれたみたいだ。
「秀一の覚悟はわかったよ。でも、これだけは最後に言わせてくれ」
僕の肩に手を置いた木村が、一切の迷いを捨てたような真剣な眼差しを向けてきた。
「一度自殺しかけた俺だから言わせてもらうが、秀一、自殺はな、この世で最も愚かな犯罪なんだぞ」
僕の肩を握る手に力を込めながら、木村は流れる涙を拭うこともせずに声をふるわせた。
「お前は、自分がいなくなることで、亡くなった斗真の死の責任を果たすつもりなんだろ? けどな、そんなことで物事は解決なんかしないんだよ!」
一気に口調を荒くした木村が、僕の肩を激しく揺さぶりだした。
「お前は死んで楽になるかもしれないが、残された者はどうなる?」
「どうなるって――」
「お前は、自分が責任を果たせば残された者は救われると思ってるかもしれないが、それは大きな間違いなんだよ」
「間違い?」
「ああそうだ。なんで自殺がこの世で最も愚かな犯罪っていわれるか教えてやるよ。自殺ってのはな、なにも問題を解決しないまま、ただ残された者に一生後悔を与えるだけの行為だからだ。わかるか? お前がやろうとしていることは、京香ちゃんや千春ちゃんを助けることじゃない。一生後悔する傷を与えようとしているんだぞ!」
すがるように肩を揺さぶってくる木村の迫力に、僕はなにも言葉が返せなくなっていった。
かつて木村は、僕に会う前に一度自殺未遂を起こしている。そんな木村の説得には、有無を言わせない熱があった。おかげで、木村の言葉が僕の中で固まっていた決心にヒビを入れようとするのを感じた。
「秀一、頼むから生きてくれよ。例えその選択によってこの先お前が苦しむことになるというなら、俺も死ぬまで付き合ってやるからさ。お前、俺に言ったよな? 自殺するくらいなら僕と友達でいようって。だから、あの時の言葉を俺にも言わせてくれ。なあ秀一、ずっと友達でいてくれよ」
最後の説得とばかりに、木村が一気に僕の心に近づいてきた。
――木村……
全力で阻止しようとしてくる木村から、僅かに目をそらす。視線の先には、給水タンクが見えた。助走距離に余裕はないから、迷いがあるとフェンスを飛び越すことはできない。このままだと、必死におさえつけているもう一人の自分が顔を出して失敗しそうだった。
――駄目だ! 考えるな!
おさえつける力に抗うように、生きたいと願うもう一人の自分が胸の中で暴れ始めた。失ってしまったかつての楽しかった日々が脳裏に蘇り、息ができなくなって自分の胸を力まかせに掴んだ。
突然わきあがった迷いから逃げるように、木村に背を向ける。これ以上迷ったら成功しない気がして、足早に屋根に登るはしごに手を伸ばそうとした時だった。
「秀一さん、いる?」
突然、屋上のドアが開くのと同時に、千夏とお揃いの浴衣を着た京香が、息を切らしながら千夏の手を引いて現れた。
「京香、千夏――」
現れた二人を見て、僕は息を飲んだ。京香は、斗真を失った直後の時と同じように怒りを滲ませた表情をしていたし、千夏は今にも泣きそうな顔で僕を見ていた。
「秀一さん、話があるの」
拒否することを許さないオーラに圧倒されて、僕は京香と向き合うしかなかった。
「ここから、グランドが見えるよね」
京香はフェンスに歩み寄ると、フェンスに手をかけてグランドに目を向けた。
「私ね、ここで秀一さんに出会ったんだ。サッカーの試合があってて、秀一さん、目が眩むくらい輝いた笑顔をしていた。気がついたら、私はずっと秀一さんの姿を追いかけていた」
京香は、誰に話すわけでもなく誰もいないグランドを見つめたまま、淡々と語り続けていた。
「実はね、私の初恋は秀一さんだったんだよ」
振り向いた京香が発した意外な言葉に、僕は耳を疑うしかなかった。京香と出会ったのは、京香たちが家に来た時だった。ちょっと近づき難い凛々しさがあるけど、千夏や斗真の面倒をよく見る優しい一面を備えた女の子というのが、僕の第一印象だった。
けど、それ以上はなにも感じることはなかった。特別視されるとか、気まずい雰囲気になるといったことはなく、ごく自然に妹になった感じしかなかったはずだった。
「私ね、秀一さんの妹になるってわかった時に、この気持ちにけじめをつけるつもりだった。でも、どうしてもできなかった。今もね、その想いに変わりはないの」
京香の語る内容に驚きながらも、僕は京香の瞳から目をそらせずにいた。真っ直ぐに向けられた視線にブレはなく、はっきりとした意思のこもった輝きがそこにあった。
「秀一さん、私、この気持ちにけりをつけようと思っている。だから、秀一さんの本当の気持ちを聞かせて欲しい」
息を飲むような沈黙の後、京香の力強い声が耳の中にこだましてきた。凛とした佇まいが常だった京香が、今にも泣きそうなほど顔を歪めていた。
京香がやけに小さく見えた気がした。その小さな体で、京香は自分の気持ちと戦い続けていた。兄妹という関係になり、弟を死なせてしまった憎い相手だというのに、そんな僕を今も変わらず想い続けていてくれたことが、胸が震えるほど嬉しかった。
「僕の気持ちは変わらない。京香と千夏には、立ち直ってちゃんとした未来を歩いてもらいたいと思っている」
「そうじゃないでしょ!」
「え?」
京香の気持ちに触れて、僕は想いを伝えようとした。けど、京香は真っ直ぐに僕を睨んだまま首を横に振っていた。
「聞きたいのは、秀一さんの本当の気持ちなの。秀一さんが本当はどうしたいのかを聞きたいの」
「どうしたいって――」
「私は、自分の気持ちを伝えたよ。だから、秀一さんも本当の気持ちを打ち明けて欲しい」
気づくと、うっすらと涙を滲ませた京香の肩が小さく震えていた。自分の気持ちを打ち明けることに、相当な葛藤があったのだろう。だからこそ、京香の想いが胸を抉るように伝わってきた。
――僕の、本当の気持ち……
ずっと目をそらしてきた本当の気持ち。それは、もう一度昔みたいにみんなと過ごすことだ。
もう二度と戻ることはなくなった日々。斗真を失って以来、どんなに望んだとしても求めてはいけないものなのに、ずっと僕はかつての日々を追い求めていた。
――でも……
おさえようとしてもあふれ出してくる想いに、一気に喉が締めつけられていく。木村がいて、京香がいて、千夏がいて、みんなとくだらない日常を昔みたいに楽しめたらという想いが、今にも胸の中で弾けそうだった。
「言って」
耳を貫くような京香の声。その声に、最後の堰がもろく崩れていった。
「僕は――」
一度顔を伏せ、息を飲んで見上げた先に京香の真剣な眼差しがあった。僕の気持ちを知る為に、あえてその胸の内を明かした京香。例え罵倒されたとしても、その気持ちには嘘をつくことなく応えてやりたかった。
「僕は、本当はみんなと、斗真がいた時と同じように楽しく過ごしたいと思っている。それが許されないことも、斗真を死なせた僕にそんなことを望む資格がないこともわかっている。でも、本当は、やっぱりみんなと楽しく生きていたい」
最後の堰が外れたことで、止まることなく想いの全てを吐き出した。あの日、嫌がる斗真を無理矢理連れ出さなければと、後悔しない日はなかった。全てを捨て、自分の存在を消すことで、斗真の死から立ち直れない京香を救うことだけを考えていた。
そんな自分の中に芽生えていた感情。ずっと気づかないふりをしていた。
けど、その気持ちに向き合わせたのは、村井蒼空だった。斗真と瓜二つの姿で現れ、僕を兄と呼び、止まっていた僕と京香の時間の針を動かしてくれた。
そのおかげで、僕は斗真がいた日々を思い出し、かけがえのない日常の日々を、本当は望んでいることに気づいた。
「ありがとう、秀一さん」
黙って僕の言葉を受け入れていた京香が、目を閉じて何度も頷いた。本当なら、僕の身勝手な想いなどすぐに罵倒してもいいのに、京香は黙ったまま僕の気持ちを受け入れようとしているように見えた。
「これ、覚えている?」
最後に大きく頷いた京香が、肩にかけていたバックからなにかを取り出して差し出してきた。その手には、かつて斗真が大事にしていた宝箱があった。
「斗真の、宝箱だよね?」
「そう。ねえ秀一さん、斗真が亡くなる直前のことを覚えてる?」
不意に問われ、僕は鼓動が一気に乱れるのを感じながら頷いた。
斗真の最期。今でも夢に出てくるほど、斗真は苦しげな声を上げて亡くなっていった。
「秀一さんは目を閉じてたからわからなかったと思うけど、斗真は最後に笑ってたんだよ」
「え?」
突然出てきた予想外の言葉に、動揺しながらも京香の様子に目を向ける。相変わらずの無表情だったけど、嘘をついているようには見えなかった。
「斗真は、何度も死の淵をさ迷ってた。きっと秀一さんが来るのを待っていたんだと思う。そして、秀一さんに手を握られた時、嬉しそうに笑いながら、お兄ちゃんって呟いてた。それが、斗真の最後の言葉だったんだよ」
京香が語る内容に、僕の意識は激しく揺さぶられていった。あの時、手を握った時に握り返された感触はあった。その時斗真は、僕のことをお兄ちゃんと笑いながら呼んでいたということだった。
「けど、斗真は僕のことを嫌っていたはずじゃ――」
「それは秀一さんの勘違いだよ。斗真の気持ちがここにあるから、確かめてみて」
京香は僕の言葉をあっさりと否定すると、宝箱の中から短冊を取り出した。緑色の折り紙を使って作られた大きめの短冊は、斗真が決して見せようとしなかったものだった。
無言で渡してきた短冊を手にし、息ができないほど暴れる胸を抑えながら、短冊に書かれた文字に目を落とした。
『僕はドジでバカな弟だけど、大好きな秀お兄ちゃんと早く仲よくなって、みんな仲のいいきょうだいになれますように』
読み終えた瞬間、頭の中が真っ白な世界に落ちていった。震える手で短冊の文字をなぞりながら、僕は堪えきれずに目を閉じた。
――斗真
一年越しに届いた斗真からのメッセージ。そこにあったのは、僕を想ってくれる斗真の純粋な気持ちだった。
瞼の裏に、斗真の姿が浮かんだ。京香の陰に隠れながら僕を見ていた斗真に、胸が締めつけられて息ができなくなっていった。
「私ね、秀一さんを恨んでいた。けど、それは間違いだって蒼空君が教えてくれたの。だって、斗真は大好きな秀兄と出会って幸せだったはずだから」
崩れ落ちそうになる僕の手に、京香がそっと手を重ねてきた。
「私、斗真のこの願いを叶えてあげたいの。だから――」
ふっと、空気が穏やかになるのを感じた。顔を上げて京香の顔を見た瞬間、僕はなにもかもが吹き飛ぶような衝撃を受けた。
「私たち、ちゃんと家族になろうよ。いいでしょ? お兄ちゃん」
満天の夜空に流れる天の川を背にして、京香は涙で赤く腫れた目を細めながら、斗真が亡くなってからは二度と僕に見せることのなかった最高の笑顔を見せてくれた。
返す言葉がなかった。一年ぶりに向けられた京香の笑顔に、自然と涙が溢れ出てきた。そして、溢れる涙を抑えることなく、僕は色んな感情を吐き出すように泣き続けた。
「よかったな、秀一」
そんな僕を支えるように、木村が僕の肩を抱いてくれた。
「秀兄ちゃん、もう大丈夫なの?」
恐る恐るといった感じで、千夏が僕を覗き込んでくる。その目は不安の色で満ちていたから、大丈夫だと示すように千夏の頭を優しく撫でてあげた。
「みんな、ごめん。でも、本当にありがとう」
そう口にするだけで精一杯だった。でも、それだけで木村は僕の肩を何度も叩き、千夏は僕の手を握ってくれた。
「あ、見て」
京香の嬉しそうな声に顔を上げると、京香は天の川を指さしていた。
「あの一番光ってるのは、きっと斗真だよ」
無数に煌めく星の中に、突如として輝き出した光。それはまるで、斗真が僕らの出した答えを祝福しているみたいだった。
「あ、流れ星!」
今度は千夏が空を指さして声を上げる。千夏の指さした先には、まるで寄り添うように並んだ二つの流れ星があった。
「今のは、きっと蒼空とレナだよ」
空を見上げたまま京香に告げると、京香は笑いながら「そうだね」と呟いた。
「綺麗だね」
見上げた空に広がる天の川を見ながら、京香が呟く。その横顔には、新しく歩き出そうとする意志が感じられた。
結局、僕らは祭が終わるまで空を見上げていた。それはとても長いようで短い時間だったけど、僕にとっては、二度と忘れることのない最高の七夕の夜になった。
~最終章 了~
夏休みになると、予定した通りに村井蒼空とレナの墓参りに向かった。墓参りには、京香と千夏、それに木村も参加してくれた。
それが終わると、今度は斗真の墓参りに向かった。僕にとって斗真の墓参りに来るのは、斗真が納骨されて以来だった。
七夕の日から、相変わらずの日々が続いていた。学校に行けば木村との変わらない日常を楽しみ、家に帰れば千夏とゲームをしながら、時々京香の説教に対して二人で舌を出していた。
七夕の日以降、僕も京香も特になにか変わったことはなかった。ただ、強いて言えば会話が増えたことと、シロの散歩を一緒に行くようになったぐらいだった。
線香に火をつけ、手を合わせる。もちろん、心に描くのは斗真の姿だった。
――斗真、兄らしいことをしてやれなかったこと、本当にごめんな。でも、いつか再会した時には仲良く遊ぼうな。その時まで僕は生きていくから、どうか見守ってて欲しい
斗真にそう告げて目を開ける。隣には、難しい顔をしてお参りする千夏と、それを呆れたように見つめる京香の姿があった。
「千夏、ちゃんとお参りした?」
「したよ。私専用のテレビを買ってもらえるようにって」
京香の問いに、千夏が照れながら答える。千夏の答えに、僕と木村は笑い声を上げ、京香はさらに呆れながらため息をついた。
「よし、墓参りも終わったことだし、ちょっと涼みに行くか?」
「あ、それならバス停の近くに美味しそうなかき氷屋さんがあったよ」
片付けを終えたところで、木村が出した案に千夏がすかさず食いついた。
「そうと決まれば――」
木村はそう呟くと、急に走る構えをとった。それを見て、僕も同じように走り出す準備を整えた。
「一番遅かった奴のおごりだ」
木村は言うと同時に走り出した。それを予測していた僕も、京香と千夏を置いて走り出した。
「ちょっと、卑怯だよ、お兄ちゃん!」
「待ってよー、秀兄ちゃん!」
背後で遅れをとった妹たちが悲痛な叫び声を上げる。その声に自然と頬が弛んだ僕は、振り返って早く来るように手招きした。
蝉の鳴き声が響く中、夏の日差しが容赦なく降り注いでいた。今年の夏は、色んな意味で暑くなりそうな予感がした。
~了~