いつ、どんな風に家に帰ったのかはあまり覚えていなかった。レナの遺体に学ランをかけてやったところまでは覚えているけど、その後のことは現実感がなくてよく覚えていなかった。ただ、タケルに支えられて家に着いた時には、夜も明けようとしていた。

 タケルが慣れた手つきで勝手口を開ける。土間にあるお母さんのサンダルを見て、ようやく僕は目を覚ました。

 音を立てないように中に入ると、生ゴミとアルコールの臭いに相変わらず鼻が曲がりそうになった。換気の為に窓を開けていたけど、それでも追いつかないくらいに悪臭が漂っていた。

 お母さんは相変わらず一升瓶を抱いて寝ていた。机の灰皿は空のままだったから、片付ける必要がなかったことに少しだけほっとした。

 忍び足で隣の部屋に行き、ろうそくに火をつけてその場に崩れるように座ると、コンビニから盗んできたペットボトルのジュースをタケルが差し出してきた。

 力任せに開けて一気に喉へ流し込む。冷たい炭酸の刺激に、少しだけ気分が落ちついてきた。

「これからどうするつもりだ?」

 僕が落ち着くのを待っていたのか、ずっと黙っていたタケルがようやく口を開いた。

「もちろん、レナの仇をとるよ」

 タケルの問いに即答しながら、もちろんついてきてくれるよね? と視線で尋ねてみる。当たり前だと答えてくれると思ったけど、タケルは顔を伏せて視線をそらした。

「仇をとるって、キャロルを相手にどうやってとるんだよ」

「僕にはこれがある」

 弱気になっているタケルに少しイライラしながら、僕はバックから拳銃を取り出した。

「弾は何発あるんだよ?」

「一発しかないみたいだけど」

 僕が弱い口調で答えると、タケルは呆れた表情を浮かべて鼻で笑った。

「バカ、キャロルのメンバーが何人いると思ってんだよ。そんなんで仇をとりに行っても、返り討ちにされるだけだ」

「でも、だからといってこのままにしておくの?」

「俺だってなんとかしてやりたいよ。けど、キャロルとまともに戦っても勝てるわけがないだろ。よくて袋叩き、悪ければ殺されて終わりだ」

 食い下がる僕に、タケルが目を見開いて声を荒げた。その態度から、タケルも葛藤していることが伝わってきた。

「それに、蒼空、お前はいいよ。家もあるし、なによりちゃんと戸籍もある。けど、俺はどうなる? 家もないし親もいないし、なにより戸籍がない。俺はここにいるのに、世の中にはいないことになってんだ。だから、袋叩きにあったら病院に行くこともできない。そうなったら、間違いなく死んでしまうだろ?」

 タケルが胸の内を晒すように、語気を強めて語った。特に戸籍がないことについては、タケルは悔しそうな表情を見せた。

 そう、タケルには名字と戸籍がない。出会った時、タケルは一人だった。母親がタケルを見捨てて男の人と消えてから、タケルは一人で放浪した末に数ヶ月前にこの町に流れ着いた。

 戸籍がないということがどういう意味か、僕はレナを見てわかっていた。レナは学校はもちろん、病院に行くこともできなかった。大人が作ったこの世界で、レナは生きているのに存在していないことになっていた。

 それはつまり、誰かに助けを求めたくても、存在していない人間を助ける術が、この世界にはないということだった。

「だったら、警察にお願いしようよ」

「それも無理だ」

 僕らで仇をとれないなら、せめて警察に逮捕してもらうぐらいのことはしてやりたかった。

 でも、タケルはそれすら拒否してきた。なんでだよと詰め寄ると、タケルは僕を力任せに突っぱねてきた。

「あの死体はどうするんだ?」

「え?」

「蒼空、お前は殺人犯なんだぞ。警察にお願いなんかしてみろ。キャロルのメンバーだけでなく、お前も逮捕されるんだ。そうなったら、お前は一生、人殺しって呼ばれて生きることになるんだぞ」

 タケルは怒ったように、でも、半分は僕のことを心配しているように諭してきた。

 確かにタケルの言う通りだった。警察にお願いしたら、キャロルのメンバーの死体もすぐに発見されてしまうだろう。そうなったら、僕らは追及されて逮捕されるのは目に見えている。

 逮捕されたら、どのくらい刑務所にいることになるのかはわからない。仮に刑務所から出られたとして、その後はずっと人殺しって呼ばれて生きていくことになるんだろう。そんな人生、まともに生きるのは無理だと思えた。

 でも、だからといってなにもしないのは気が引けた。せめて、レナの為になにか一つくらいはしてやりたい気持ちが強かった。

 答えのない想いだけが、ぐるぐると頭の中を巡り続ける。まともにやっても勝ち目はないし、警察にも頼めない。でも、レナをそのままにしておくのは嫌だった。仇をとれないとしても、僕なりの意地は見せてやりたかった。

「なあ蒼空、一緒に逃げないか?」

 まとまらない考えを遮るように、タケルが弱々しい声で呟いた。

「逃げるって、どうして?」

「このままだと、いずれ俺たちキャロルのメンバーにやられると思う。だから、二人でどこか遠くの世界に逃げたほうがいいと思う」

 タケルが、顔をあげて真剣な眼差しで僕を見つめてきた。タケルらしい選択だった。誰からも守られてこなかったタケルが生きる為に身につけた術は、とにかく逃げ続けることだった。

 なにもせずに逃げることを笑う人もいるかもしれない。けど、タケルにとって今日を生き残るには、降りかかる問題から逃げる以外に方法がなかった。

 だから、タケルが逃げると言い出したことに怒りはなかった。けど、それでも、レナの仇をとることをまだ諦めることもできなかった。

「でも、レナは――」

「いい加減、レナのことは諦めろよ。だいたいレナにはフラれて相手にされていなかっただろ?」

「そうだけど、でも」

「でもじゃない。蒼空もいい加減、自分のことを考えたらどうなんだ?」

 タケルに言いくるめられた僕は、返す言葉もなく黙るしかなかった。タケルの言いたいことはわかるし、多分、タケルは間違っていないと思う。

 でも、そうだとしても、すぐには受け入れることはできなかった。僕はやっぱりレナのことが好きだし、それに、自分のことを考えるなんてことはできないと思う。自分がどうしたいとか考えたことは今までなかった。タケルと一緒で、どうしたら生き残れるのかしか考えたことがなかった。

「でも、僕が逃げたらお母さんが怒ると思うんだ。家事をする人がいなくなるからね」

 色々考えてみたけど、やっぱり今すぐに逃げるわけにはいかなかった。こんな僕でも、お母さんは必要としてくれている。だから、お母さんに黙って逃げることはしたくなかった。

「本気で言ってるのか?」

 やけにタケルが暗い顔で聞いてきた。僕は茶化すことなく本気だと伝えた。けど、タケルの表情は更に暗くなっていくばかりだった。

「蒼空、ひょっとして本気で気づいてないのか?」

「なんだよ急に」

「お前のお母さんのことだよ。本気で気づいてないのか?」

 タケルの質問に、僕は胸がざわつくのを感じた。タケルがなにを言いたいのかはわからなかったけど、それを聞くのがすごく怖いような気がしてならなかった。

「これだけ異臭がしてるのに、本当に気づいてないのか?」

「異臭って、生ゴミやお酒は片付けたよ。それに、換気の為に窓は開けてるし。少しぐらいは残ってるかもしれないけど、今さらなに言ってるの?」

 タケルは、出会ってからほぼ毎日この家で暮らしている。だから、家の状況はわかっているはずだ。ゴミ屋敷なんて陰口叩かれるくらい汚い家だけど、今さら気にするのは変だった。

 そう思いながらも、なぜかタケルを完全には否定できなかった。ようやく引いたはずの汗が、再びゆっくりと背中を滑り落ちていった。蒸し暑い夜なのに、なぜか汗を冷たく感じた。

「蒼空、お前のお母さん、死んでるよな?」

 タケルが思い詰めたような顔で呟いた。なんでこんな時に冗談を言うんだと怒りたかったけど、なぜか言葉が喉につかえて出てこなかった。

「お母さんは寝ているだけだよ」

 そう言うだけで精一杯だった。そして、その言葉がやけに僕自身の願望みたいに思えて、僕は力なく笑うしかなかった。

「確かめてみろよ」

「え?」

「寝てるだけなんだろ? だったら確かめてみろよ」

「嫌だよ。寝てるのを起こしたらどうなるか、タケルも知ってるよね?」

 寝ているお母さんを起こしたらどうなるか、タケルもその身をもってわかっているはず。なのにタケルは、僕の腕を無理矢理引っ張って隣の部屋に連れていこうとした。

「やめてよ」

 慌てタケルの腕を振り払うと、僕はもとの場所に戻って座り込んだ。

「あのな、蒼空」

「もういいから。その話はなし」

 なおも続けようとするタケルを、僕は無理矢理遮って背を向けた。

「ったく、わかったよ」

 しばらく立ちつくしていたタケルだったけど、そう呟くと同時に自分のバックを肩にかけた。

「俺は秘密基地にいるから。しばらく待って来なかったら、一人で逃げるからな」

 そう言い残して、タケルは振り返ることなく家から出ていった。

 急に、静寂が家中を支配してきた。いつの間にかピッチが上がっていた鼓動が、生々しく耳もとで鳴り始めた。タケルの言葉を頭から振り払おうとしたけど、頭を振る度にボリュームが上がっていった

 さらに、治まっていた胸とお腹の痛みが再び襲ってきた。軽く咳をしただけなのに、手のひらに真っ赤な血がへばりついていた。

 ――どうしたらいいの?

 不安と恐怖で頭を抱えながら、状況を整理してみる。タケルは、僕のお母さんは死んでいると言った。もしそれが本当なら、僕はタケルと同じく一人ぼっちになってしまう。そうなったら、これから僕はどうやって生きていけばいいんだろう。

 それに、この体の異変もどうしていいのかわからない。病院に行くとしても、僕一人でどうやって行ったらいいのかもわからなかった。

 色んな不安が焦りに似た気持ちになり、僕は立ち上がってふらふらとお母さんのもとに向かった。相変わらず同じ姿勢で寝ているお母さんのそばに座ると、こみ上げてくる涙を乱暴に拭った。

「お母さん」

 最初は小さく呼びかけたけど反応はなかった。だから、声を大きくして何度も呼びかけながら、お母さんを強く揺さぶってみた。

「お母さん、起きてよ。こんなことしたら、いつもなら僕を蹴るよね?」

 なぜか自然と涙が出てきた。全く反応がないことに焦りがつのっていく。その一方では、どこか諦めに似た気持ちが否応なしに膨れ続けていた。

「お母さん、僕を一人にしないでよ」

 言葉が口から出た瞬間、続く言葉は嗚咽に変わっていった。泣きながら、それでも絶望的な思いと戦い続けた。

 揺さぶった反動で、一升瓶が転がっていった。中身は前に見た時から少しも減っていなかった。

 押し寄せてくる絶望に耐える最後の力が抜け、僕はお母さんの遺体にしがみついたまま声を上げて泣いた。

 そんな僕の悲痛な叫びに応えるかのように、なにかが台所の奥で揺らめくのが見えた。

 やがてそれは、窓から射し込んでくる淡い朝日に照らされるように、ゆっくりと姿を現していった。