夜だというのに、珍しく木村から電話がかかってきた。寝るには早い時間だけど、この時間帯は塾やらなんやらで忙しいはず。聞けば木村の兄が家に帰ってきているとのことで、口うるさい両親から解放されていると喜んでいた。

「兄貴から新たに情報が入ったから、秀一に真っ先に伝えたくて電話した」

 木村の口調から、話題はタケルに関することだとすぐにわかった。千夏と一緒にテレビを観ているタケルを一瞥して、僕は隣の部屋へと移動した。

「村井蒼空が入院している病院の医者が、たまたま兄貴と同級生だったみたいで、内密に話を聞くことができたらしいんだ」

 木村はそこで言葉を切ると、カサカサと音を立て始めた。メモを開いている姿が容易に想像できて、僕は声を殺して笑った。

「まず、村井蒼空に関しては相変わらず沈黙を続けているみたいだな。警察の取り調べに対しても黙秘しているから、警察は村井蒼空からまだ情報は引き出せてないらしい。けど、気になる点がいくつかあるらしいんだ」

 木村はそこで話を区切ると、京香以外には絶対に話さないでくれと念を押してきた。

「まず一つ目が村井蒼空の体にある傷で、医者によると間違いなく虐待を受けていたらしい。傷の具合からして、最近までなんらかの暴力を受けていた可能性が高いみたいだな。それが虐待なのかはわからないが、いい環境にいなかったのは間違いないみたいだ。二つ目として、所持していた拳銃についても、今のところ入手先はわかってない」

 木村の補足によると、タケルが所持している拳銃の出所は、村井蒼空の母親の関係者にあると警察は睨んでいるらしい。ただ、母親の男性関係も範囲が広すぎて、警察も捜査が難航しているという。

「で、三つ目なんだけど、こっちがかなり重要な話になる」

 木村の声が少しだけ重くなった。重要な話だから慎重に聞いて欲しいという思いが、言葉の端から伝わってきた。

「村井蒼空が一度だけレナとタケルの関係を語ったことがあって、村井蒼空によると、レナとタケルは同じ境遇らしいんだ」

「同じ境遇?」

「そうなんだけど、村井蒼空はそのことについて、詳しくは口を閉ざしているみたいだ。そこで兄貴が調べたところ、レナにはある秘密があった。それが、レナは無戸籍児っていうことみたいなんだ」

「ムコセキ?」

 聞き慣れない言葉に、僕は眉間に力が入るのがわかった。無国籍ならニュースで言ってたのを聞いたことはあるけど、無戸籍というのは初めて聞く言葉だった。だからピンとこないでいると、木村が漢字を使って説明してくれた。

「子供が生まれたら役所に出生届ってやつを出すことになっていて、その届があって初めて戸籍ができるらしいんだ。詳しくは俺も知らないけど、その届をしないと、子供は存在しているのに世の中では存在していないことになるってわけだ」

 わかったようなわからないような木村の説明に、頭が混乱しそうになっていた。要するに、子供が生まれたら市役所に生まれましたと手続きすることで、市役所の中にある戸籍に存在が登録されるということなのだろう。

 でも、レナの母親はそれをしなかった。木村の兄によると、無戸籍児というのは日本でも度々問題になるほど存在しているという。

 無戸籍児になってしまう原因の一つに、民法という法律が絡んでいるらしい。けど、説明を聞いても意味が理解できなかった。わかったのは、家庭内暴力などの複雑な事情が重なった結果、出生届をしたくてもできないケースがあるということだけだった。

 ふと、扉越しにタケルに目を向けてみた。千夏と並んでテレビを観ている姿は、確かに存在している。でも、レナとタケルが同じ境遇というなら、タケルはこの世の中には存在していないことになってしまう。

 そんなことが現実にあり得ることに、少しだけ怖くなった。タケルは存在していないことになっているから、どこでなにをしていたかといった記録は、どこにも残っていない可能性が高いと木村が付け加えてきた。

 だから警察もマスコミも、タケルを探し出すのに苦労している。実際に、タケルの母親すらも見当がついていないらしい。

「ねえ木村、なんだかおかしな話だよね?」

「なにが?」

「日本て、もっとちゃんとしているって思ってた。タケルやレナみたいに、存在しているのに世の中にいないことになっている人がいるなんて、考えもしなかったよ」

 そんな心境を語ると、木村も同じ事を思っていたみたいで、小さくため息をついていた。

「村井蒼空に関しては、ちゃんと戸籍があるみたいだ。って、なんかこんな言い方も変だよな」

 頭をかいている姿が想像できるくらい、木村の声が沈んでいた。

「これは俺の意見なんだけど、レナの体が見つかったらさ、タケルを自首させて、ちゃんとした道に戻してやれないかって思ってるんだ。ほら、今は日本中がこの事件に注目してるだろ? だから、タケルの問題も大人たちにきちんと解決してもらいたいんだ。その為なら、兄貴にも事情を話して協力してもらおうと思ってる」

 木村はまだ兄にはタケルの件を話していない。けど、レナの体が見つかったらタケルを正しい道に戻す為に、兄に話したいと相談してきた。

 いじめに苦しんだ木村らしい意見だと思った。虐待されてまともな日々を過ごせていないタケルに、かつての自分を重ねたのかもしれない。

「その意見には賛成するよ」

 考えるまでもなく、僕は木村の意見に同意した。七夕までにはまだ時間がある。それまでにレナの体を見つけ、タケルを然るべき世界に連れていければと思った。

 電話を切り、椅子の上で大きく背中を伸ばしたところで、背後に風呂上がりの京香がいることに気づいた。

「なにに賛成したの?」

 濡れた髪をタオルで拭きながら、京香が二人分のコップと麦茶を持って僕の前に座った。

 京香が差し出した麦茶を受け取り、木村とのやり取りを説明する。その間、京香は話を聞いているのかわからない態度のまま、ずっとタケルたちを眺めていた。

「レナちゃんは?」

 話を終えて京香の意見を聞いたところ、返ってきたのはレナのことだった。

「レナがどうかしたの?」

「もし、レナちゃんがお母さんに見捨てられていたら、体が見つかってもちゃんとお葬式をやってもらえるのか、お墓があるかどうかはわからないよね? だから、お墓は難しいとしても、お葬式だけはちゃんとしてあげたいと思ったの」

 京香は口調を強めながら説明すると、周囲を忙しなくチェックし始めた。レナがいるかどうか確認しているらしい。あいにくとレナの姿は見えなかった。そのことを伝えると、京香は微かに寂しそうな表情を僕に見せた。

「葬式がどのくらいお金がかかるかはわからないけど、できるだけ父さんに頼んでみるよ」

 京香が僕に要望言うことが珍しかったので、なんとかその願いは叶えてあげたいと思えた。

「私も、お母さんに頼んでみる」

 京香はテーブルの上で組んだ手を見たまま小さく呟いた。

 そんな僕らのやりとりなどお構い無しに、リビングから千夏の歓声が聞こえてきた。テレビに夢中だから、僕と京香が二人だけの空間にいることに気づいていないのだろう。

 いつ以来かはわからないけど、久しぶりに家の中で穏やかな時間を感じた。京香と初めて打ち解けた時も、確かこの部屋だったはず。

 ずっと仲の良い兄妹の関係が続くと信じて疑わなかった。京香は美人だし、なにをやらせてもそつなくこなす性格だから、一緒にいるだけで心地よかった。

 それが、運命の悪戯で一瞬にして消えていった。どんなに悔やんでも、どんなに自分を責めたとしても、あの楽しかった日々にはもう戻ることはできない。

「秀一さん、どうかしたの?」

 ふいに話しかけられて現実に引き戻された。意識がいつの間にか在りし日にとんでいたみたいだ。

 頭をかきながら取り繕ったところで、京香がティッシュを一枚手にして僕に差し出してきた。

「じゃあ、また明日」

 京香がティッシュを渡してきたことの意味がわからないまま見送ったところで、ようやく意味にたどり着いた。

 どうやら僕は、いつの間にか泣いていたみたいだった。

 京香から受け取ったティッシュで涙を拭ったけど、とても一枚では足りない状況になったおかげで、僕はテーブルの上に顔を伏せて、とめどなく溢れる後悔の念に耐え続けた。