天使の銃弾~きみが変えたかった世界と、天の川の下でみた僕らの世界

 秘密基地の捜索を終えて帰宅した時には、日付が変わろとしていた。玄関を開けると同時に、二階へと逃げていく二つの影が目に入った。どうやら千夏とタケルは仲良くなったらしい。もっとも、ゲーム好きの千夏に無理矢理付き合わされてる可能性も否定できなかった。

 部屋に戻り、僅かに開いている押し入れを見ながら今後のことを考えてみる。レナが亡くなっていることについては、まだタケルには秘密にしておくことにした。京香が珍しく黙っていて欲しいとお願いしてきたのもあるけど、一番は僕の希望でもあった。

 タケルにレナが亡くなっていることを教えたら、ひょっとしたらタケルがいなくなりそうな気がして、そのことがなぜか怖くて仕方がなかった。

 ――それに

 タケルがこの家に来たことで、なにかが変わろとしている。それは本当に些細なことだけど、でも、とても意味があるように思えた。特に京香の変化ははっきりとしていて、僕と二人で出かけるなんてことは考えられることではなかった。

 ――上手く立ち直れるきっかけになれば

 と考えたところで、僕は頭を激しくふった。そもそも京香が立ち直ることの前提には、僕がいなくなることが絶対条件だ。

 ――僕は生きたいんだろうか?

 自殺を決意した時には、それがあたり前だと思ったし、そうするべきと思った。

 けど、決意した瞬間から変わった世界の中でも、やっぱり僕の中のもう一人の自分を誤魔化すことはできなかった。

 本当は、僕は生きたいんだと思う。親友の木村と馬鹿な日々を過ごし、京香や千夏たちと穏やかに笑って過ごした日々。そんな戻ることはないかつての日々を、本当の僕は今も望んでいると思う。

 だから、タケルが現れた時になにかが変わるような予感がした。それに呼応するように変化の兆しを見せる京香に、いつの間にか僕は淡い期待を抱いていた。

 ――でも、できるわけないよ

 タケルの問題を解決したところで、所詮、タケルはタケルでしかないし、いなくなった斗真が生き返るわけではない。僕が生きている限り、いつかきっと京香はまた同じ苦しみを味わうことになる。

 ――わかってるくせに、馬鹿だよな

 自分の弱さに毒を吐きながら、僕は頭を抱えてベッドに座りこんだ。

「でも、みんなとまた楽しくやりたいんだよ」

 叶うことのない想いが、つい言葉になって溢れてくる。この先、七夕まで気持ちをおさえきれるかどうか不安だった。屋上のフェンスを飛び越えるには全力で飛ぶ必要がある。もし踏み切る時に迷いがあったら――。

「秀一さん、シャワー浴びる?」

 思い詰めかけたところに、ドアの向こうから京香の声が聞こえてきた。一瞬、呟きを聞かれたかと心臓が跳ね上がったけど、すぐに立ち去る足音が聞こえてきたので安堵のため息をついた。

 汗まみれだったことに気づき、シャワーを浴びる準備をしたところで、ふとタケルのことが気になって押し入れの中のタケルに声をかけた。

「どうでした?」

 声をかけると同時に、タケルが心配そうな顔つきですぐに押し入れから這い出てきた。ずっと気になっていたんだろう。けど、自分からは言い出せなくて、ずっと僕が話かけてくるのを待っていたみたいだ。

「風呂は入った?」

 話題を避けたのは意図的だった。ただ、泥だらけの姿が気になったのも事実で、とりあえずレナのことをどう誤魔化すかを考える時間がほしかった。

 話題を避けられたことに落胆するタケルを無理矢理連れて風呂に入る。タケルの体は、一言で言えば見ていられないだった。骨が浮き出るほど痩せた体に刻まれた古傷の数々は、幼い頃から積み重ねられてきた凄惨さを物語っていた。

 そんなタケルに胸が抉られそうになり、僕は恥ずかしがるタケルを頭から洗ってやった。シャワーで洗い流す時、もし斗真が生きていたらこんな感じで一緒にお風呂に入ることもあったかと思うと、つい頭を拭いてあげる手に力がこもってしまった。

「タケルは、レナのことが好きなの?」

 何気なく呟いた言葉に、湯船に浸かっていたタケルが驚いた顔を向けてきた。

「ち、違います! 僕とレナは、ただの友達ですよ!」

「慌てるところが怪しいな」

「だから――」

 さらにむきになったタケルに、お湯をかけてやった。タケルはふてくされた顔を見せてそっぽを向いたけど、突然、タケルもお湯をかけてきた。

 しばらく二人で騒いだ後、笑いながら二人で湯船に浸かる。と同時に、タケルが恥ずかしそうになにかを呟いていた。

「なにか言った?」

「いえ、僕には兄弟がいなかったから、その、お兄ちゃんがいたらこんな感じかなと思ったんです」

 タケルがもじもじしながら語る言葉に、湯船に浸かったのとは違う体温の上昇を感じた。

「だから、その、ここにいる間だけ、お兄ちゃんて呼んでもいいですか?」

 恥ずかしそうに、でも、期待のこもった瞳に意識が飛びそうになった。こみ上げてくるものに目頭が熱くなり、慌てて顔を何度も洗い流した。

 タケルが不思議そうに見つめてくる中、お風呂から上がって着替えを済ませると、廊下に京香が立っていることに気づいた。

「悪いけど、先に部屋に戻ってくれる?」

 京香の険しい表情に気づいて固まっていたタケルの背中を押してやると、タケルは半分口を開けたままよろよろと二階に戻っていった。

「楽しそうだね」

 棘を含んだ京香の言葉に、一気に罪悪感が胸に広がっていった。お風呂のやり取りを聞かれたらしく、京香の態度がいつも以上に冷たいことにすぐに気づいた。

「お兄ちゃんて呼ばれて嬉しかった?」

「いや、そんなことは――」

 咄嗟に言い訳しようとした僕を、京香の冷たい瞳が遮ってくる。明らかに、言葉の端に感じるのは斗真のことだった。

「私は、嬉しかったよ」

 さらに非難してくると思った京香だったけど、急に座りこんで弱い口調で呟いた。

「タケルくんに、お姉ちゃんて呼ばれたの。まるで、斗真に再び呼ばれた気がして、私は嬉しかったよ」

 そう語る言葉とは裏腹に、京香は辛そうに顔を歪めていた。

「斗真が成長したら、きっとこんな感じなんだろうなって思ったの。でも、それと同時に、そんな未来は来ないんだって思ったら――」

 そこで堪えきれなくなったのか、京香の声が涙で震え始めた。

「タケルくん、斗真にそっくりだよね?」

 見上げてくる京香から咄嗟に視線を逸らすと、「秀一さん!」と強く名前を呼ばれた。

「秀一さんは、もう斗真のこと忘れてしまったの?」

 思いがけない言葉に、僕は反射的に京香の顔を覗き込んだ。

「忘れることなんて、できるわけないよ!」

 ただ感情を失って真っ直ぐ見つめてくる京香に、僕はつい声に力を込めてしまった。

「そっか」

 僕を非難するわけでもなく、京香は掠れた声で頷きながら乱暴に涙を拭った。けど、拭えば拭うほど京香の瞳から涙が溢れ続け、やがて京香は顔を伏せて泣き声を漏らした。

「斗真に会いたいよ」

 かすかに聞こえてきた声に、僕は慰める言葉もなく、ただ罪悪感だけが全身を支配していくのを感じていた。と同時に、京香は一年前から少しも立ち直ることなく、今も苦しみ続けていることに改めて気づかされた。

 生きたいと一瞬でも思った自分が情けなくなった。斗真を失ったことで、京香はあるべき姿を失っている。その原因を作ったのも、立ち直る邪魔をしているのも自分だと、今さらながらはっきりと思い知らされた。

 かける言葉もなく見守ることもできなかった僕は、そのまま立ち去ることにした。

「逃げないでよ」

 京香の前を通り過ぎようとした僕の手を、京香が力強く握りしめてきた。

「別に、慰めとかいらないから」

 泣き声に重なって聞こえてきた言葉に、僕は受けとめることも振り払うこともできず、ただ立ち尽くすしかなかった。

「今だけ、そばにいて」

 掠れて消えていく声で呟くと、京香は僕の手を握ったまま顔を伏せて泣き続けた。
 部屋に戻ってスマホを開くと、相変わらず木村先輩からラインが入っていた。内容はいつもと変わらないもので、秀兄を許してやって欲しいというものだった。

 小さくため息をつきながらスマホを机に置く。木村先輩のラインに返信したことはないし、返信しないことに木村先輩が文句を言ってくることもなかった。

 椅子に寄りかかり、秀兄を掴んだ右手をぼんやりと眺めてみる。びっくりするぐらいに暖かくて、わずかに握り返された時は苦し過ぎて声も出せなかった。

 ――なんで、あんなこと言ってしまったんだろう

 お風呂場でとった自分の態度や言動に、今更ながら罪悪感が押し寄せてきた。

 タケルと楽しそうだったことに、ついカチンときた。理由はわからない。いや、本当はわかっている。斗真を忘れて楽しそうにしている姿が許せなかったから。

 でも、本当はわかっている。秀兄が楽しくしていなかったって。秀兄は、斗真がいなくなってからずっと感情を殺しているから。

 それが当たり前だと思ってた。一生、斗真を失った罪の意識に縛られて当然だと思ってた。

 ――でも

 私は髪を両手で掴みながら、秀兄が部屋で呟いた言葉を思い出した。

 本当は、秀兄は死にたくないと思っている。斗真の死に責任を感じて自殺するつもりなら、私は止めるつもりはなかった。秀兄が決めたことに、私が口出すことじゃないから。

 でも、あのお風呂場で秀兄の手を掴んだ時、私は凄く怖かった。おさえきれない気持ちを隠す為に、あえて秀兄が辛くなる言動をした。斗真に会いたいなんて言ったら、秀兄がまた苦しむとわかってて言ってしまった。

 もちろん、斗真に会いたい気持ちに嘘はない。もし斗真が現れたら、斗真が嫌がるまで抱き締めると思う。

 その気持ちを秀兄にぶつけた時、私は秀兄の反応が凄く怖かった。一瞬で生気を失った瞳は虚ろになり、ふらつく足取りで歩き出した姿が、そのまま消えてしまうんじゃないかって思った。

 だから、咄嗟に私は手を伸ばした。なんて言葉をかけたかは覚えていないけど、私の本心はその行動に現れていたと思う。

 たぶん、本当の私は秀兄が死ぬことなど望んでいない。秀兄が呟いた、昔みたいに楽しくやりたいという願いこそが、私の本心だと自分でも感じている。

 でも、それを実現させるには越えないといけないハードルがいくつもある。特に、私は自分の感情に決着をつけないといけない。

 殺したいほど憎い。

 でも、目が離せないほど好き。

 この二つの感情に決着をつけない限り、秀兄はこの世からいなくなってしまうだろう。そうわかっていても、今も一歩も踏み出せない自分の弱さが情けなくなってくる。

 スマホをたぐりよせ、木村先輩のラインを確認する。木村先輩が送ってきたラインの中に、いくつかの画像がある。全て小学校の時の教科書を写したもので、『キモい』だとか『死ね』だとか落書きされていた。

 木村先輩いわく、小学校で秀兄と会うまでは木村先輩はいじめられていた。クラス全員から無視される中、たった一人、秀兄だけが木村先輩と普通に接してくれたらしい。

 いじめに巻き込ませたくないからと、木村先輩は秀兄と関わらないようにしていた。でも、秀兄はそんなこともおかまいなしに、変わらず接してくれたという。

 秀兄らしいと思える話に、私はもどかしく感じながらも笑ってしまった。木村先輩にしてみたら、秀兄はただの親友ではなくて恩人でもあった。

 だから木村先輩は、例え返信がなくても毎日私を説得するラインを送ってくる。秀兄が考え直すとしたら、その鍵は私にあると思っているんだろう。

 私は何度もラインの内容を読み返しては、返信するか迷った。たとえ誰を敵に回しても秀兄を助けたいからと語る内容に嘘はなかった。

 実際に、私を敵に回してでも私を説得している。木村先輩は、今も変わらず私に恋心を抱いていることを告白していながら、それでも、秀兄と敵対している私を説得していた。

 それだけ、木村先輩の秀兄に対する想いは強かった。私も半分は同じ気持ちだから、木村先輩の気持ちが痛いほどわかる。

 だから、このままじゃいけないことはわかっている。でも、どうしていいのかもわからない。

 そんな気持ちに流されるように、震える指でスマホを操作する。通話の画面に切り替わると同時に、木村先輩の息をのむ音が聞こえてきた。

『私――』

『京香ちゃん、このまま黙って聞いてほしい』

 なにを話すか迷う私の出鼻を挫くように、木村先輩の重い言葉が耳を貫いていった。

『俺は、秀一のことを諦めきれない』

 震える声から、すぐに木村先輩が泣いていることがわかった。何度も私を説得する作業の裏側で、木村先輩は私以上に辛い思いをしているんだろう。

『あいつが自殺を考えてると聞いた時、俺は昔の自分を思い出したんだ。周りからいじめを受け、生きる辛さから逃げ出したくなって死のうとした自分をね』

『木村先輩――』

『そんな時、あいつだけが真剣に俺を引き止めてくれた。自殺ほど愚かなことはないってね。だから、自殺するくらいなら残りの人生を友達として過ごして欲しいと言われた』

 泣き声を震わせながら、木村先輩が秀兄への思いを伝えてくる。簡単に話しているけど、過去を思い出して口にするのは相当辛いことのはず。

 けど、木村先輩は止めようとした私を振り切って話を続けた。そこには、なりふりかまっていられない木村先輩の覚悟があった。

『あいつを許して欲しいとは言わない。けど、あいつが自殺を思いとどまるようなことがあるなら、一緒に探して欲しいんだ。その結果、あいつが生きることになったら、俺を一生恨んでくれてもかまわないから』

 ずしりと胸に刺さってくる言葉に、私は完全に返す言葉を失った。ここまで木村先輩に言わせる秀兄の存在が、やけに大きくなるのをいやでも感じてしまった。

『私には、まだわかりません』

 咄嗟の反応だった。そう告げると同時に、反射的に電話を切ってしまった。

 不意に広がる静寂に、せりあがった私の鼓動が響いていく。木村先輩の覚悟の声が頭から離れなくなった私は、ただ机にうつ伏せて乱れた感情のうねりに耐えるしかなくなった。

 今日はレナの体探しについて、木村と打ち合わせの約束をしていた。昼休みになり、木村に誘われて学食に向かうと、なぜか京香が席取りをしていた。学校ではどんなに接点があっても関わろとしない京香だけに、この状況はあまりにも意外だった。

「俺がセッティングしたんだ」

 自販機でコーヒーを買ってきた木村が僕の肩を叩いた。確か木村は、京香にアタックして玉砕したはず。以来、京香はなんとなく木村を避けていた。だから、たとえレナの件とはいっても、木村の誘いに応じたことには二重の驚きだった。

「つっ立ってないで座れよ」

 木村が京香の対面に座って手招きする。空いている椅子は木村か京香の隣だけ。一瞬迷ったけど、京香が隣の席の椅子を引いたからそこに座ることにした。

 僕が座ると同時に、どこからともなくレナが現れて木村の隣に座った。そのことを木村と京香に話すと、木村は笑いながらレナによろしくと右手を差し出していた。

「さて、みんな揃ったところで俺から新たな情報を話そうと思う。まず、病院に運び込まれた村井蒼空だけど、事件直後から意識はあって命に問題はないらしい」

 木村が兄から仕入れた情報によると、村井蒼空は事情聴取に応じてはいるけど、話すことは自分のことばかりで、事件はもちろん、タケルやレナについては完全に黙秘しているとのことだった。

「所持品の生徒手帳から身元が判明したらしいけど、家は焼け落ちているから、そこからレナやタケルの情報は引き出せないみたいだな。今は交友関係を手当たり次第に探っているようだけど、やっぱり思うようには進んでいないらしい」

 今のところ警察もマスコミも、レナの交友関係を調べて回ってるけど、誰もが頑なに口を閉ざしているという。特にレナについては、しゃべったら間違いなく援交で捕まるから、たとえ知っている人がいても表に出ることはないのだろう。そんな状況に、木村の兄もまさにお手上げだという。

「なあレナ、亡くなった時のことを詳しく教えてくれない?」

 木村の話はそこで一旦区切り、レナの体を探す本題へとシフトする。レナはあまり亡くなった場所を覚えていないらしく、亡くなった状況から辿っていく必要がありそうだった。

「君が亡くなる前に一緒にいた男の人っていうのは知り合いなの?」

 僕が尋ねると、レナは右手の人差し指を振りながら目を閉じた。

「あんまり知らない人。ていうか、初めて出会ったばかりかな」

 なにを勘違いしているかはわからないけど、レナはなぜか誇らしげに説明した。

「いや、ドヤ顔の場面じゃないんだけど」

 その場違いな態度に呆れてツッコミを入れる。京香が横目で睨みつけ、レナが頬を膨らませて睨んできた。

「ただ、入れ墨からキャロルのメンバーだったってことはわかるかな」

 レナは頬杖をつきながら、重要なことをさらりと口にした。

「今、キャロルのメンバーって言った?」

 僕の言葉に、レナはあっさりと頷いた。それとは対照的に、キャロルという言葉に木村と京香のコーヒーを飲む手が止まる。無理もなかった。この町に住む人なら、キャロルという少年ギャングの悪名は、一度は耳にしたことがあるからだ。

「もしかして、レナはキャロルのメンバーとトラブったのか?」

 木村の顔から血の気が引くのがわかった。多分、僕の顔も同じようになっているはず。できればではなく、絶対にキャロルのメンバーとは関わるながこの町のルールだからだ。

「トラブってなんかないんだけど。一緒に遊びに行って、寝ちゃったら死んじゃっただけなんだけど」

 レナが不愉快そうに頬を膨らます。けど、世間ではそれをトラブったと言うんだと、熱を込めて説明してやった。

 風向きが一気に怪しくなってきた。いくらレナの体を探してやるといっても、亡くなった背景にキャロルが関わっているなら、僕らの手に負える話ではなかった。

「ねえ、レナちゃん」

 話は一気にお流れムードになりかけたけど、意外にもこの状況で口を開いたのは京香だった。

「レナちゃんは自分の体がどこにあるかはなんとなく覚えてる?」

 京香の問いに、レナは腕を組んで考え込んだ後、なんとなくだけならと答えた。

「亡くなった時のことは覚えてる?」

 この問いには、レナはすぐに首を横に振った。ジュースを飲んだ後から意識がないと笑った。それを通訳しながら、僕はどう考えても事件に巻き込まれているとしか思えず、頭痛を抱えるはめになった。

「そっか」

 京香は僕の通訳に目を閉じて頷くと、瞼を開いて意志のこもった瞳を向けてきた。

「レナちゃんは、キャロルのメンバーと知り合ってすぐに亡くなっている。だから、それほどキャロルのメンバーとは関係はないと思うの」

 無表情の中にも、微かに意志を表情に表しているようにも見えた。僕に対しては徹底して鉄仮面を貫いていた京香が、いつ以来かぶりに感情を向けたような気がした。

「だから、レナの体を探したいの?」

 京香の変化に戸惑いながらも、京香の意志を確認してみる。京香は黙って頷いたけど、そこにははっきりとした意志が感じられた。

「まあ、京香ちゃんの言うことはあながち間違いじゃないかもしれないな。レナの体を探すだけだし、ヤバくなったら警察に連絡すればいいし、やってやれなくもないと思う」

 黙って聞いていた木村が、やれやれといった感じに京香へ助け舟を出す。確かに、体を探すだけだから直接キャロルのメンバーと関わることはなさそうだった。

「いけるとこまでいって、ヤバくなったら別の方法を考えてみよう」

 一呼吸置いて自分の意志をみんなに伝えた。返事は聞かなくても決まっていた。レナのために、木村も京香もやるだけのことはやろうという気持ちを瞳に浮かべていた。

 そんな二人の為に、レナから情報を聞き出していく。レナは亡くなった日の夜、キャロルのメンバーに誘われてエリアOO1へと車で向かっていた。エリアOO1といえば、地元では有名なヤバい場所で、キャロルの溜まり場として有名ないわくつきの場所だった。

 そんなヤバいエリアに向かう途中、渡されたジュースを飲んで意識を失い、気がつくと幽霊になって森の中をさ迷っていたという。

「キャロルの溜まり場になってるダム周辺までは行ってないと思うから、多分、手前の森の中で死んじゃったと思う」

 レナは相変わらず他人事のようにあっけらかんと説明していた。それを木村と京香に通訳しながら、マップアプリでおおよその位置を特定していった。

 予想される場所がいくつかある中、キャロルの溜まり場へ続く道と車で行けるという条件で絞り込んでいったところ、ダム手前に横道へとそれる道があり、その先が一際深い森になっている場所を見つけた。

「ここを調べてみよう」

「だな」

 僕の言葉に、木村が決まりとばかりに頷いた。京香も頷きはしたけど、その表情はあまり冴えていなかった。

「どうかしたの?」

「こんなところで一人でいるって思ったら、なんだか悲しくなって」

 京香が無機質な声で答えると、また微かに表情を曇らせた。

 そんな京香のそばに、いつの間にかレナが移動していた。

「姉ちゃんに、手を握っていいか聞いてよ」

 レナが屈託のない笑顔を浮かべて通訳をお願いしてくる。京香の様子を見て慰めようとしているみたいらしい。

 京香にレナが手を握りたがっていると伝えると、京香はぎこちない動きで右手をテーブルの上に伸ばした。

「やっぱ姉ちゃんは天然やね」

 隣に移動していることを知らない京香に、レナが呆れたようにため息をつく。僕は笑いを堪えて隣にいると伝えると、京香はレナに向けて両腕を広げながら微笑んでみせた。

 そんな京香に、レナは恥ずかしそうにしながらも腕の中に飛び込んでいった。見た目は不格好な抱擁だけど、レナは嬉しそうに京香の胸に顔を埋めていた。

「姉ちゃんたちに、もっと早く会いたかったな」

 京香に擬似的に抱かれたままのレナが、顔を上げて消えそうな声で嘆いた。その表情は笑っていたけど、どこか寂しい影が漂っていた。
 窓から飛び出した夜の町は、雨に濡れてキラキラと輝いていた。日付が変わって夜もさらに深くなった頃には、ネオン街も静寂に包まれ始めていた。

 絡まれたら面倒な酔っぱらいたちの姿も消えたネオン街の道を、雨に打たれながら走っていく。裏通りに入り、店の裏側に置かれたポリバケツを開けると、久しぶりの食事を求めて残飯を漁った。

 腹が減っては戦はできない。お母さんの相手をしていた禿げ頭のおっちゃんが言ってた言葉。意味はよくわからなかったけど、今はなんとなくそんな気分かなと思った。

 食べ残しの唐揚げにありつけたのは運が良かった。雨水で喉を潤しながら、さらに奥を漁ろうとした時だった。

 突然店の勝手口が開き、中からスキンヘッドの巨漢が出てきた。

「このクソガキ!」

 モップを振りかざしながら、男が怒声をあびせてくる。反射的にポリバケツを押し倒し、全力で表道に向かってかけだした。背後に怒号が迫っていたけど、振り返ることなく走り続けた。

 捕まったが最後、この世界では袋叩きにされても文句は言えない。歩いて帰れればラッキーなくらい、酷い目に遭うのは目に見えていた。

 点滅する街灯の下を、ジグザグに走り回る。いつもならすぐに諦めるのに、今日はまだ追いかけてきていた。この間タケルと二人で漁ったことを根に持ってるのかもしれない。だとしたら、捕まったら殺されても文句は言えなかった。

 息が限界に近づいていた。雨を吸ったズボンが重くて、足がガクガクと震え始める。最悪なことに、突き刺すような胸と横腹の痛みも襲ってきた。いつ転んでもおかしくなかったところで、ようやく表へと逃げ出すことができた。

 後は隠れるところを探すだけとなったところで、駅前の道路を巡回しているパトカーが視界に入ってきた。

 ――やば、どうしよう

 パトカーはロータリーを旋回して進路をこっちに向けていた。このままだと、鉢合わせになってしまいそうだった。そうなったら、拳銃を持っているから間違いなく逮捕されてしまうだろう。

 胸に抱えたバックを握りしめ、周囲を懸命に探った僕は、一か八か路駐してある車の下に潜り込んだ。

 雨で冷えきったアスファルトに顔をつけたところで、急激な吐き気に抗えずに吐いてしまった。錆のような変な味が、糸を引いてアスファルトに滲んでいくのを見つめたまま、嵐が過ぎるのをじっと待った。パトカーは、闇に潜む不審者がいないか探るようにゆっくりと近づいてきている。その光が強くなるに連れて、スキンヘッドらしき足音も近づいていた。

 猫のように丸くなりながら、震える手をバックの中に入れる。ビニール袋に包まれた冷たく硬い感触を確かめると、そのグリップを力強く握りしめた。

 こんなところで捕まるわけにはいかなかった。捕まったら、きっとレナを助けに行くことはできなくなってしまう。

 ――だったら

 僕は、握りしめた拳銃をバックから取り出した。弾は一発しかない。でも、捕まったら終わりだから迷っている場合じゃなかった。

 パトカーのヘッドライトが、ゆっくりと隠れている車を照らしていく。その光から少しでも逃げるように、僕は地べたを這いずり回った。

 喉が急激に渇き、口の中も乾ききっていた。泥水を口に含んだけどすぐに吐き出した。ざらついた砂の感触のせいで、余計に口の中が不快感で一杯になる。地面に穴があくんじゃないかって思うくらいに、心臓が乱れ打っていた。

 拳銃を握りしめたまま、白黒のボディが通り過ぎていくのを見送った。どうやらパトカーは、僕に気づくことなく通り過ぎていってくれたみたいだ。

 全身から一気に力が抜け、長いため息をつきかけた瞬間、僕は再び拳銃を握りしめて照準を車の外に合わせた。

 車の下から見える世界に、スラックスに包まれた足が見えた。ボンネットを叩く雨音に紛れて聞こえてきた足音は、正確にこの車の真横で停止した。

 下を覗いたら撃つ。先制攻撃だ。そう腹に決めて拳銃を構え直したと同時に、車のドアがゆっくりと開いた。

 続けてかかるエンジンの音に、一瞬なにが起きたかわからなかったけど、次になにが起きるかわかった僕は、地べたに這いつくばって身を低くした。

 そんな僕の頭上を、車が通り過ぎていった。後に残ったのは、アスファルトを叩く雨音と冷たい感触だけだった。

「助かった」

 周りに人の気配がないことを確かめながらビルの陰に身を潜めると、震えが止まらない手で拳銃をバックに直した。

 ビルの壁に背中を預けて座り、雨にうたれながら火照った体と昂った感情が落ち着くのを待つことにした。

 生きることは過酷だ。さらには、生き続けるのはもっと過酷だ。僕みたいに大人に頼れない存在は、たまにご飯を探しに町に出るだけで命懸けになってしまう。

 だから、力が欲しかった。一人でも生きていけるような、安心して家で毎日暮らせるような、そんな当たり前の力が欲しかった。

 そしたら、きっとレナのことも守ってやれるはず。ボロ小屋の秘密基地じゃなくて、ちゃんとした家で守ってやりたかった。

 その為には大人にならないとダメだって、痩せていつも充血している目をしたお母さんの彼氏が言っていた。日本では、大人にならないと一人では生きられないようになっていると、笑いながら教えてくれた。

 でも、大人になんかなるのを待ってる余裕はなかった。力が必要なのは今だった。今、レナを助け出して守ってやれるのは僕しかいない。その僕がこんなに無力だったとしたら、助けることも守ることもできなくなってしまう。

 雨にあたりすぎたせいか、思考が悪い方向ばかりに流されていた。気持ちを切り替えながら立ち上がろうとした時、口から変な味の液体が手のひらに落ちてきた。

 ――なんだ?

 辺りを照らす街灯に手をかざしてみる。手のひらには、真っ赤な液体がついていた。それだけではなかった。僕が隠れていた場所の地面にも、よく見ると真っ赤な液体が広がっていた。

 ――血を吐いたの?

 突然のことに戸惑っていると、再び突き刺すような痛みが胸と横腹に襲ってきた。

 ――どうなっているの?

 言葉にできない不安が頭をよぎっていく。懸命に嫌な予感を振り払おうとしたけど、不安と痛みはますます大きくなっていった。

 ――とにかく、今はレナのことが先だ

 不安と恐怖に震える体を起こし、駅の駐輪場から自転車を盗んで目的地を目指した。

 車も人通りもない道を自転車で駆け抜ける。表道からエリアOO1に続く田舎道に入ったところで、雨が止んでくれた。ここまでくれば、人はもちろん、警察に見つかる心配はなかった。

 安堵しながら、自転車をこぐ足に力を込める。目的地の山が見えたところで、自転車を川に捨てた。

 ここからは、前回来た時と同じく歩いていった方が安全だった。キャロルのメンバーがいたら、自転車は目立ってしまうし、咄嗟に藪の中に隠れることができない。

 周囲の音に神経を尖らせながら、山道を歩いていく。雨が止んでくれたおかげで学ランを脱ぐと、少しだけ熱気から解放された。

 山道にしては、舗装されているのがありがたかった。昔のダム建設時代のもので、山を越えた向こうの町につながっているらしい。といっても、キャロルの溜まり場を横切らないといけないから、夜は車が通ることはない。通るとしたらキャロルの車くらいだろう。

 今のところ、車が前からも後ろからも来る気配はないみたいだ。街灯はないから真っ暗な道を歩くしかないけど、闇に包まれていた方が気分的には楽だった。

 キャロルの溜まり場まで残り半分まできたところで、舗装されていない脇道が見えた。前回来たときはよくわからなかったけど、脇道は山の中でも特に森林が密集しているエリアにつながっているみたいだ。車一台分通れるくらいの道幅しかないから、多分、ほとんど使われていないのかもしれない。

 気にすることなく通り過ぎようとした時、ふと、視界になにかが見えた気がした。闇に慣れた目とはいっても、綺麗に見えるわけじゃない。だから、なにかがあるという程度の感じしかしなかったけど、誘われるように地面に落ちているものに近寄ってみた。

「これって――」

 草むらに落ちていたのはサンダルだった。ピンク色のサンダルには、見慣れた白い花の飾りがついていた。

 手にした瞬間、背中に戦慄が走った。サンダルは、間違いなくレナのものだった。

「なんでこんなとこにあるんだ?」

 サンダルを手にしたまま周囲を見渡してみる。サンダルは片方しかなく、もう片方は見当たらなかった。

 問題はそれだけではなかった。一番の問題は、なぜこんなとこにレナのサンダルが落ちているのかだった。

 レナはキャロルのメンバーと一緒だったはず。だから、いるとしたらたまり場のダムにいるはずだ。この場所はたまり場から離れ過ぎていると思うから、ここにレナがいるはずがなかった。

 生ぬるい汗が首筋から背中に落ちていった。抗えない力に引っ張られるように、視線を脇道の先に向けた。

 前回来たときは、この脇道に入ったところでキャロルのメンバーに襲われた。ひどく怒っていたことは今でも覚えている。ただ、なぜそこまで怒っていたのかはわからなかった。

 嫌な予感しかしなくて、気がつくとバックを持つ手が震えていた。まるでなにかに怯えていたけど、なにに怯えているのかは自分でもわからなかった。

 そんな奇妙な空気に支配されかけた時だった。

 突然、眩しい光が僕の視界を奪った。なにが起きたのかわからなかったけど、揺れる光を見て懐中電灯に照らされたとわかった。

 やがて、ゆっくりと懐中電灯を持つシルエットが浮かび上がると、全身の力が抜けて手にしていた学ランを地面に落とした。
 夜だというのに、珍しく木村から電話がかかってきた。寝るには早い時間だけど、この時間帯は塾やらなんやらで忙しいはず。聞けば木村の兄が家に帰ってきているとのことで、口うるさい両親から解放されていると喜んでいた。

「兄貴から新たに情報が入ったから、秀一に真っ先に伝えたくて電話した」

 木村の口調から、話題はタケルに関することだとすぐにわかった。千夏と一緒にテレビを観ているタケルを一瞥して、僕は隣の部屋へと移動した。

「村井蒼空が入院している病院の医者が、たまたま兄貴と同級生だったみたいで、内密に話を聞くことができたらしいんだ」

 木村はそこで言葉を切ると、カサカサと音を立て始めた。メモを開いている姿が容易に想像できて、僕は声を殺して笑った。

「まず、村井蒼空に関しては相変わらず沈黙を続けているみたいだな。警察の取り調べに対しても黙秘しているから、警察は村井蒼空からまだ情報は引き出せてないらしい。けど、気になる点がいくつかあるらしいんだ」

 木村はそこで話を区切ると、京香以外には絶対に話さないでくれと念を押してきた。

「まず一つ目が村井蒼空の体にある傷で、医者によると間違いなく虐待を受けていたらしい。傷の具合からして、最近までなんらかの暴力を受けていた可能性が高いみたいだな。それが虐待なのかはわからないが、いい環境にいなかったのは間違いないみたいだ。二つ目として、所持していた拳銃についても、今のところ入手先はわかってない」

 木村の補足によると、タケルが所持している拳銃の出所は、村井蒼空の母親の関係者にあると警察は睨んでいるらしい。ただ、母親の男性関係も範囲が広すぎて、警察も捜査が難航しているという。

「で、三つ目なんだけど、こっちがかなり重要な話になる」

 木村の声が少しだけ重くなった。重要な話だから慎重に聞いて欲しいという思いが、言葉の端から伝わってきた。

「村井蒼空が一度だけレナとタケルの関係を語ったことがあって、村井蒼空によると、レナとタケルは同じ境遇らしいんだ」

「同じ境遇?」

「そうなんだけど、村井蒼空はそのことについて、詳しくは口を閉ざしているみたいだ。そこで兄貴が調べたところ、レナにはある秘密があった。それが、レナは無戸籍児っていうことみたいなんだ」

「ムコセキ?」

 聞き慣れない言葉に、僕は眉間に力が入るのがわかった。無国籍ならニュースで言ってたのを聞いたことはあるけど、無戸籍というのは初めて聞く言葉だった。だからピンとこないでいると、木村が漢字を使って説明してくれた。

「子供が生まれたら役所に出生届ってやつを出すことになっていて、その届があって初めて戸籍ができるらしいんだ。詳しくは俺も知らないけど、その届をしないと、子供は存在しているのに世の中では存在していないことになるってわけだ」

 わかったようなわからないような木村の説明に、頭が混乱しそうになっていた。要するに、子供が生まれたら市役所に生まれましたと手続きすることで、市役所の中にある戸籍に存在が登録されるということなのだろう。

 でも、レナの母親はそれをしなかった。木村の兄によると、無戸籍児というのは日本でも度々問題になるほど存在しているという。

 無戸籍児になってしまう原因の一つに、民法という法律が絡んでいるらしい。けど、説明を聞いても意味が理解できなかった。わかったのは、家庭内暴力などの複雑な事情が重なった結果、出生届をしたくてもできないケースがあるということだけだった。

 ふと、扉越しにタケルに目を向けてみた。千夏と並んでテレビを観ている姿は、確かに存在している。でも、レナとタケルが同じ境遇というなら、タケルはこの世の中には存在していないことになってしまう。

 そんなことが現実にあり得ることに、少しだけ怖くなった。タケルは存在していないことになっているから、どこでなにをしていたかといった記録は、どこにも残っていない可能性が高いと木村が付け加えてきた。

 だから警察もマスコミも、タケルを探し出すのに苦労している。実際に、タケルの母親すらも見当がついていないらしい。

「ねえ木村、なんだかおかしな話だよね?」

「なにが?」

「日本て、もっとちゃんとしているって思ってた。タケルやレナみたいに、存在しているのに世の中にいないことになっている人がいるなんて、考えもしなかったよ」

 そんな心境を語ると、木村も同じ事を思っていたみたいで、小さくため息をついていた。

「村井蒼空に関しては、ちゃんと戸籍があるみたいだ。って、なんかこんな言い方も変だよな」

 頭をかいている姿が想像できるくらい、木村の声が沈んでいた。

「これは俺の意見なんだけど、レナの体が見つかったらさ、タケルを自首させて、ちゃんとした道に戻してやれないかって思ってるんだ。ほら、今は日本中がこの事件に注目してるだろ? だから、タケルの問題も大人たちにきちんと解決してもらいたいんだ。その為なら、兄貴にも事情を話して協力してもらおうと思ってる」

 木村はまだ兄にはタケルの件を話していない。けど、レナの体が見つかったらタケルを正しい道に戻す為に、兄に話したいと相談してきた。

 いじめに苦しんだ木村らしい意見だと思った。虐待されてまともな日々を過ごせていないタケルに、かつての自分を重ねたのかもしれない。

「その意見には賛成するよ」

 考えるまでもなく、僕は木村の意見に同意した。七夕までにはまだ時間がある。それまでにレナの体を見つけ、タケルを然るべき世界に連れていければと思った。

 電話を切り、椅子の上で大きく背中を伸ばしたところで、背後に風呂上がりの京香がいることに気づいた。

「なにに賛成したの?」

 濡れた髪をタオルで拭きながら、京香が二人分のコップと麦茶を持って僕の前に座った。

 京香が差し出した麦茶を受け取り、木村とのやり取りを説明する。その間、京香は話を聞いているのかわからない態度のまま、ずっとタケルたちを眺めていた。

「レナちゃんは?」

 話を終えて京香の意見を聞いたところ、返ってきたのはレナのことだった。

「レナがどうかしたの?」

「もし、レナちゃんがお母さんに見捨てられていたら、体が見つかってもちゃんとお葬式をやってもらえるのか、お墓があるかどうかはわからないよね? だから、お墓は難しいとしても、お葬式だけはちゃんとしてあげたいと思ったの」

 京香は口調を強めながら説明すると、周囲を忙しなくチェックし始めた。レナがいるかどうか確認しているらしい。あいにくとレナの姿は見えなかった。そのことを伝えると、京香は微かに寂しそうな表情を僕に見せた。

「葬式がどのくらいお金がかかるかはわからないけど、できるだけ父さんに頼んでみるよ」

 京香が僕に要望言うことが珍しかったので、なんとかその願いは叶えてあげたいと思えた。

「私も、お母さんに頼んでみる」

 京香はテーブルの上で組んだ手を見たまま小さく呟いた。

 そんな僕らのやりとりなどお構い無しに、リビングから千夏の歓声が聞こえてきた。テレビに夢中だから、僕と京香が二人だけの空間にいることに気づいていないのだろう。

 いつ以来かはわからないけど、久しぶりに家の中で穏やかな時間を感じた。京香と初めて打ち解けた時も、確かこの部屋だったはず。

 ずっと仲の良い兄妹の関係が続くと信じて疑わなかった。京香は美人だし、なにをやらせてもそつなくこなす性格だから、一緒にいるだけで心地よかった。

 それが、運命の悪戯で一瞬にして消えていった。どんなに悔やんでも、どんなに自分を責めたとしても、あの楽しかった日々にはもう戻ることはできない。

「秀一さん、どうかしたの?」

 ふいに話しかけられて現実に引き戻された。意識がいつの間にか在りし日にとんでいたみたいだ。

 頭をかきながら取り繕ったところで、京香がティッシュを一枚手にして僕に差し出してきた。

「じゃあ、また明日」

 京香がティッシュを渡してきたことの意味がわからないまま見送ったところで、ようやく意味にたどり着いた。

 どうやら僕は、いつの間にか泣いていたみたいだった。

 京香から受け取ったティッシュで涙を拭ったけど、とても一枚では足りない状況になったおかげで、僕はテーブルの上に顔を伏せて、とめどなく溢れる後悔の念に耐え続けた。
 翌日、学校をサボった僕と京香は、同じく学校をサボった木村が家に来るのを待っていた。タケルにはなにも話してはいなかったけど、妙な空気を感じ取っているみたいで、そわそわと落ち着かない瞳を僕と京香に向けていた。

「タケルくん、今日はレナちゃんの知り合いを訪ねて回るんだよ」

 朝食の後片付けを終えた京香が、リビングで不安そうにしているタケルに声をかける。今日もお揃いのジャージ姿だったことに、安心したような気まずいような感情が胸の中でざわついていた。

 呼び鈴が鳴り、京香と二人で木村を出迎える。木村は色違いだけど同じ格好をしている僕らを見て、隠すことなく動揺を見せた。

「京香ちゃん、秀一を憎んでいたよな?」

 玄関を出る際、木村が耳元で小さく囁いてきた。

「そうだけど?」

「いや、同じ格好をしているから、ちょっとびっくりして」

 木村が鼻の頭をかきながら、神妙な顔つきで僕と京香に何度も視線を向けてきた。木村の中で理解できないものがあるんだろう。その気持ちは、同じく理解できない僕も痛いほどわかった。

 レナの体探しは、昼間に行くことにした。学校が終わってからだと夜になるから、さすがに遺体を見つけるには気が引けたからだ。

 その為、昼間を選んだわけだけど、躾の厳しい木村が一緒に行くのは難しいかもしれないと思っていた。

 でも、木村はあっさりと参加してきた。学生服姿を見る限り、学校に行くふりをしてきたのだろう。

「兄ちゃん」

 特に話題もなく、微かにぎこちない雰囲気の中歩き出したところで、レナが突然姿を見せた。

「兄ちゃんたち、なんか葬式に行く雰囲気だね」

 レナが僕らを見ながら茶化してくる。これから自分の体を探すというのに、レナは相変わらずのハイテンションだった。

「秀一さん、レナちゃんがいるの?」

 僕の変化に気づいた京香が、感情のない瞳を向けてきた。その問いに頷くと、京香は一発でレナの前に右手を差し出した。

「あれ? 今日はボケないんだ」

 いつもの調子ではない京香に、レナが嬉しそうに笑ってみせる。そのまま、レナは手をつなぐように京香の右手に左手を重ねた。

「今、京香の右手を握っているよ」

 そう教えると、京香は見えていないはずのレナに笑顔を向けて右手を僅かに握りしめた。

「京香ちゃん、少し変わったか?」

 少しだけ離れて歩いていた木村が、僕を呼び寄せて耳元で囁いた。

「そうかな?」

 木村の問いに、僕は首を傾げるしかなかった。相変わらず僕に対しては無表情だし、時折向けられる視線にも刺ばかりを感じている。そこに変化があれば、鈍感な僕でもわかるはずだった。

「なんて言うか、前の京香ちゃんは秀一を完全拒絶していたけど、今は迷っているように見えるんだ」

「迷っているって、なにを?」

「なんて言うか、言葉にし難いんだけど、ちょっと角が取れたというか」

 そこまで口にして、木村は表現できない苛立ちを表すかのように、頭をかきながら意味不明なうめき声を上げた。

「実はよ」

 そう口にして、木村は僕の自殺に関して、京香とラインでやり取りをしていることを打ち明けてきた。木村は諦めた素振りを見せながらも、水面下ではまだ諦めていなかった。京香を説得する為に、嫌われてもかまわない覚悟でやり取りを続けているという。

「やり取りといっても、俺の一方通行だったんだ。返信もなかったしな。けど、最近になって一度だけ電話で話をしたんだ」

 どんなやり取りをしたのかはわからないけど、その結果、木村は京香が迷っていると判断したらしい。だから、昨日学校で話の場を作ったという。本来なら無視されて終わりなのに、京香は話の場に現れた。そのことからも、京香は完全拒絶の殻を少しずつ剥がしていると、木村は考えているみたいだった。

「俺はまだ、諦めてないからな」

 木村がそっぽを向いて呟いた。僕の反論には耳を貸さないと、態度で示しているみたいだった。

 ――木村

 木村の優しさに、胸の奥に封印している想いが疼きだした。何気ない日常を、このままこうして送れることができたらと望む気持ちが、抑えきれない勢いで膨らんでいった。

 ――でも

 膨らんだ気持ちも、斗真に会いたいと涙する京香の残像の前に萎んでいった。例え京香に変化があったとしても、根本的な部分には変化はない。僕が生きている限り、僕を見る度に、京香は斗真への気持ちと嫌でも向き合うことになる現実は、今までも、そしてこれからも変わらないだろう。

「ちょっとそこの二人、せっかくのお出かけ日和なのになんて顔をしてるの」

 前を歩いていたレナが、いつの間にかふりかえっていて呆れた顔をしていた。

 その顔に苦笑いで返すと、いつの間にか元に戻った木村が「どうした?」と聞いてきた。レナに呆られていると答えると、木村も僕と同じように苦笑いでごまかしていた。

 レナに変な奴と言われながら、僕らはエリアOO1へと向かった。快晴の空は天気予報通りで、山道へとたどり着いた時には全身が不快な汗にまみれていた。

「なんかこの風景、見覚えある」

 山道とはいっても、ちゃんと舗装された道をしばらく歩いたところで、急にレナがガードレールに走り寄った。

 ガードレールの先は、階段みたいに田んぼが広がっている。ちょうど田植えが終わった後だから、緑の絨毯が広がっているように見えた。

「このあたりで記憶がなくなった気がする」

 相変わらずあっけらかんと語るレナの言葉に、僕は少しだけ肩を落とした。心のどこかに、ひょっとしたら違うかもという期待があった。本当はエリアOO1なんかに行ってなくて、別の場所で事故に遭ったとかいうオチを期待していたけど、その期待は簡単に潰されてしまった。

 目的地の森が近づくにつれ、誰も言葉を発しなくなった。これから遺体と対面するかと思うと、まるで現実味のない世界を歩いている感じだった。

 森へと続く脇道に着いたところで、京香がなにかを発見し、声をあげながら指さした。その指さした先を見ると、ピンク色のサンダルが片方だけ落ちていた。

「私のサンダル――」

 ふらふらと近寄ったレナが、声にならない声で呟いた。そして、ぎこちない動きで抱きつくように京香の腕にしがみついた。

「森の中を調べてみよう」

 木村が緊張した面持ちで呟いた声に、僕も京香も黙って頷いた。

 脇道に入ったところで、異変はすぐに見つかった。ほとんど人の出入りした形跡のない藪の中に、不自然になぎ倒された跡があった。その先は崖になっているみたいだから、なにかが引きずられて崖から落とされたと考えるのが自然だった。

 問題は、なにが落ちているかだった。草むらの独特の匂いに混ざって、急に異臭がしてきたように感じた。額の汗を拭い、表情を失って固まったレナと京香を残し、木村と二人で崖の下を覗き込んだ。

 ――うっ

 崖の下に広がる光景に、咄嗟に口を塞いで声が漏れるのを堪えた。

「キャロルのメンバーみたいだな」

 同じく口を手で塞いでしかめっ面をしている木村が、声を震わせて呟いた。

 崖下にあったのは、レナの遺体ではなかった。独特の入れ墨を両腕に入れた、黒いタンクトップに迷彩柄のズボンという姿の男だった。うつ伏せに倒れていたから顔は見えなかったけど、間違いなく死んでいるのだけはわかった。

「キャロルのメンバーと思う男が死んでいる」

 京香のもとに戻り、状況を説明する。京香はすぐに意味がわからなかったみたいだけど、僕と木村を交互に見つめた後、大きく目を見開いた。

「レナ、なにがあったか知らない?」

 明らかに動揺した表情を浮かべるレナに、僕は声を殺して話しかけた。レナの体を探しに来たはずなのに、なぜか見つけたのはキャロルのメンバーの遺体だった。

 とても偶然とは思えない状況に、僕はレナがなにかを隠していると直感した。

 レナは京香の腕にしがみついたまま、震え続けていた。その震えは、なにかに怯えているようにも見えた。

「秀一さん、レナちゃんに強く言わないで」

 冷たい視線を向けながら、京香がさらに冷たさを帯びた言葉を浴びせてくる。僕は一度冷静になるために深呼吸をした。

 まさにその時だった。

 奥に進んでいた木村が悲鳴を上げ、続けて僕の名前を叫んだ。とりあえずレナのことは後回しにして、木村のもとに走り出した。

 その瞬間、背後に聞こえたレナの言葉が、妙に耳に引っ掛かった。

 京香の腕から離れ、手を握りしめながら京香を見上げていたレナは、確かに「姉ちゃんありがとう。さよなら」と呟いていたような気がした。

 けど、そのことに構っていることができなかった。すっかり血の気を失った木村が、呆然と森の奥を見つめたまま、何度も僕の名前を呼んでいた。

 木村のそばに立った瞬間、異様な臭いに鼻がつまりそうになった。さらには、ダイレクトに胃を刺激してくるせいで、強烈な吐き気に襲われた。

 それでも、木村が見た方向に目を向けた。

 その瞬間、胃の中にあるものを全て吐き出すように嘔吐を繰り返した。

 草むらの先に、レナと思われる遺体があった。両手には手錠がかけられ、周囲にはレナのワンピースが落ちていた。それだけで、レナが酷い目に遭ったことは容易に想像できた。

 がさりと草を踏む音がした。振り返ると、京香が強張った表情で近寄ってきていた。

「来るな!」

 咄嗟に大声で叫び、京香の足を止めた。京香は驚いたまま固まっていたけど、トラウマになりそうな光景を見るよりはましだと思った。

 抑えきれない怒りが猛烈に沸き上がり、気がつくといつの間にか涙していた。その場に崩れ落ち、行き場のない怒りをぶつけるように地面を叩いた。

 修羅場は覚悟していたつもりだった。

 事件に巻き込まれた可能性が高いこともわかっていたつもりだった。

 けど、現実を前にして、その考えが甘かったことを痛感した。想像以上の現実に、怒りや悲しみで頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。

「おい、秀一」

 ふいに木村から声をかけられた。見上げると、木村は信じられないといった表情を浮かべていた。

「あれ、学ランだよな?」

 木村に問われ、木村が指さす方向を確認してみる。レナの遺体には、黒い布みたいなものがかけられていた。それが最初はなにかわからなかったけど、確かに木村の言うとおり学ランに見えた。

 ――どういうこと?

 ドクンと、胸が大きく波打った。丁寧にかけられた学ランを見る限り、明らかに誰かがレナのためにかけてやったとしか思えなかった。

 木村と視線が重なり、木村はなにかを感じ取ったかのように、レナの遺体にかけられた学ランを調べ始めた。

 やがて、学ランの内側を調べたところで、木村はスマホで画像を一枚撮影し、僕の所に戻ってきた。

「なあ秀一、タケルと村井蒼空はレナを探していたんだよな?」

 険しい顔をした木村が、声を震わせながら聞いてきた。

「そのはず、だけど?」

 僕が答えると、木村は震える手でスマホで撮影した画像を僕に見せてきた。

 その画像には、学ランの内側に刺繍された名前が写っていた。不馴れな手つきで刺繍したと思う名前は、カタカナで『ムライソラ』となっていた。

「どういうこと?」

 画像を確認した僕は、完全に頭が混乱してしまい、木村を見つめたままそう呟くだけで精一杯だった。

「タケルも村井蒼空も、既にレナの遺体を見つけていたってことだろ」

 わけがわからないといった表情で、木村が弱々しく切り捨てる。その言葉の意味を理解するのに、途方もないような時間が流れたような気がした。


 ――第二章 了――
 懐中電灯に照らされた僕は、咄嗟にバックから拳銃を取り出して身構えた。逆光に遮られて顔はよく見えなかったけど、ぼさぼさの金髪と痩せた体が見えた瞬間、僕は一気に力が抜けた。

「タケル!」

 懐中電灯を持つ者の正体がわかり、その名を叫びながら走り寄った。

「蒼空? やっぱり蒼空か」

 懐中電灯を下ろしたタケルが、僕を見て嬉しそうな声をあげた。

「タケル、生きてたんだね。良かったよ」

 タケルの左肩を触りながら怪我の具合を聞いてみる。弾は貫通しているみたいで、出血は止まっていた。ただ、怪我の具合としてはあまり良くないらしい。

「ていうか、置いていったくせに勝手に殺すなよ」

 タケルがむくれながら僕の頭を軽く叩いてきた。そんなやりとりがなんだか嬉しくて、僕は笑いながら頭をかいた。

「それより、蒼空はここでなにをしていたんだ?」

「レナを探してたんだよ。この前はよくわからないで来たよね? だから、今度はちゃんと場所を調べて来たんだ」

 僕がこれまでの経緯を説明すると、タケルは僕が一人で来たことに呆れたようにため息をついた。

 僕らが最初にエリアOO1に来たのは、三日前になる。レナがキャロルのメンバーと一緒だったと聞き、キャロルの情報を集めながらもよくわからないままここにタケルと一緒にたどり着いた。

 そして、僕らはキャロルのメンバーに襲われた。理由はわからなかったけど、この森に入ったことに対して激怒していた。今にして思うと、たまり場はさらに山奥のダムにあるはずなのに、なぜ怒っていたのか不思議だった。

 相手は二人で、最悪なことに拳銃を持っていた。まともに戦ったら勝てる相手ではなかったけど、降りしきる雨が味方してくれた。

 雨音に紛れてメンバーの一人を襲い、拳銃を強奪した。その後は、揉み合いになったところで僕が発砲したから、蜂の巣をつついた騒ぎになった。キャロルのメンバーが逆上して撃ち返してきたから、タケルが負傷する騒ぎとなり、僕は脱兎のごとく逃げることになった。

「あの後、結局どうなったの?」

「あの後、メンバーの一人は逃げていった。俺が倒れたのを見て、多分死んだって思ったんだろ。だから俺は助かったんだ」

 タケルはその後、自力で山を下りて近くの民家に隠れて傷の治療をしていたという。

「それより、蒼空、大変なことになってる」

 それまで笑っていたタケルが、急に真面目な顔をして僕を見つめてきた。

「なに?」

「蒼空が撃った相手、死んでた」

 あっさりとタケルが言ったせいで、上手く言葉を理解できなかった。でも、遅れて言葉の意味が頭の中で回り始めた瞬間、僕はなにかに縛られたみたいに動けなくなった。

「死んだって?」

「多分、心臓に当たったんだと思う」

 そう呟いたタケルが、急に足元を照らした。そこには、タンクトップ姿の男がうつ伏せに倒れていた。

 情けない悲鳴をあげて、僕はその場に崩れ落ちた。思考が上手く働かない頭でも、大変なことになったということだけはわかった。

 民家に隠れていたタケルは、動けるようになるとすぐに、僕が撃った相手のことを確認した。タケルが確認した時は、倒れた時のまま血を流して死んでいたという。どうやら逃げたメンバーも、このメンバーのことはずっと放置していたらしい。タケルを殺したと勘違いしているせいで、ここには近寄らないようにしていたのかもしれない。

 そこでタケルは、警察はもちろん、キャロルの他のメンバーにばれないように死体を隠すことにした。それが今夜のことで、この森の奥なら隠す場所があると思って死体を移動していたら、僕に出会ったということだった。

「とりあえずさ、こいつをどうにかしようぜ」

 タケルは死体に手をかけると、僕に手伝うように促してきた。

 タケルは小柄だし、僕も変わらない体格だから死体を運ぶのに二人がかりでも骨が折れる作業だった。頼りない懐中電灯の明かりだけで、ふらふらと運び続ける。頭がおかしくなりそうなくらい、色んなことが頭の中をぐちゃぐちゃにかき回していた。

 ――捕まったらどうなるんだろう?

 もし、運悪く警察に見つかったら僕はどうなるんだろう。人を殺したんだから、ごめんなさいではすまないはず。一生刑務所に入ることになったら、もうレナには会えないかもしれない。

 そう考えたところで、僕はレナのサンダルのことを思い出し、片腕で辛そうに死体を抱えているタケルに話しかけようとした時だった。

 突然、僕の足が地につかなくなった。そのせいで大きくバランスを崩し、タケルも一緒になってバランスを崩した。

 なにが起きたかわからないまま、闇に飲まれるように地面に引きずり込まれる。一際大きく音を立てて死体が滑り落ちていくのを見て、崖に気づかないまま足を踏み外したとわかった。

「タケル、大丈夫?」

 崖から這い上がり、辛うじて滑り落ちないでいるタケルを引っ張り上げる。タケルはよろよろと立ち上がると、懐中電灯で崖下を照らした。

「俺は大丈夫だけど、こいつはヤバいぜ」

 タケルが崖下を見つめたまま、弱々しく呟いた。ここから崖下まではほぼ垂直で十メートルくらいはある。とてもじゃないけど、下りて死体をどうにかするのは無理だった。

「とりあえず、このまま見つからないことを祈るしかないな」

「祈るって、見つからずにすむの?」

「俺にもわかんねえよ」

 まずい状況に慌てる僕に、タケルが肩を落とした。どう考えても、このまま見つからないですむのは絶望的だった。

 でも、そのことを僕もタケルも口にはしなかった。具体的に言葉にするのが怖かったんだと思う。いつか警察やキャロルのメンバーに見つかってしまうだろう。そうなったら、僕もタケルも終わりだと思った。

「帰ろうか」

 どうすることもできずに立ちつくしていると、タケルが慰めるように肩を叩いてきた。このままここにいても仕方がないので、頷いて引き返そうとした時だった。

 ふと、なにかが聞こえてきた気がした。最初はわからなかったけど、風音に紛れて聞こえたのは、確かにレナの声だった。

「レナの声がする」

 一向に歩き出さない僕を見かねて戻ってきたタケルに、レナの声が聞こえてきたことを伝える。と同時に、レナのサンダルのことを伝えると、タケルは驚いたように目を見開いた。

「まさか、奥にいるのか?」

 タケルが懐中電灯を森の奥へと向けた。照らされるのは藪や樹木ばかりだけど、その先にレナが隠れているような気がした。

「行こう」

 タケルに呼びかけて走り出すと、タケルも後をついてきた。声が聞こえてきた方向を慎重に調べながら、更に奥へと足を踏み入れた時、懐中電灯の明かりが草陰に横たわる姿を捉えた。

「レナ!」

 見覚えのある金髪のツインテールに鼓動が高鳴った僕は、ようやく出会えたレナに向かって走り出した。

 藪やでこぼことした足場に転びそうになりながらも、こみ上げてくる嬉しさに任せて全力で走り続けた。

「レナ」

 草むらに横たわるレナに呼びかける。目のやり場に困るくらい、裸に近い姿で寝ているレナの肩をそっと揺らしてみる。レナの両手には手錠がしてあった。力任せに引っ張ってみたけど、頑丈な鎖はびくともしなかった。

「レナ、僕だよ、蒼空だよ」

 全く反応のないレナに、僕はちょっとだけ強く体を揺さぶった。なぜかわからないけど、僕の両目からはいつの間にか涙が溢れていた。

「タケル、レナは爆睡してるみたいだね」

 無理矢理笑顔を作って追いついてきたタケルに話しかける。けど、なぜかタケルは困惑した表情で固まっていた。

「蒼空、レナは寝てるんじゃなくて――」

「寝てるんだよ!」

 タケルが最後まで言い切るのを妨害するように、僕は声を荒げてタケルを睨んだ。

「レナ、起きてよ。もう大丈夫だから、一緒に帰ろうよ」

 レナの両肩を激しく揺さぶりながら、何度もレナに呼びかける。そんな僕をタケルが制止してきたけど、僕は言うことを聞かない駄々っ子のように、その手を振り払った。

「蒼空、やめろよ!」

 更にレナを揺さぶろうとした僕に、タケルが厳しい一声を浴びせてきた。その声にびくついた僕は、必死で目をそらしていた現実と向き合うことになり、そのまま地面に崩れ落ちた。

「あんまりだよ……」

 草むらを強く握りしめ、僕は沸き上がる怒りと悲しみを声にのせた。

「レナがなにしたって言うんだよ! なんでこんな目に遭わないといけないんだよ!」

 溢れる怒りを声に乗せて、力の限りに地面を殴りつけた。拳から血が滲んでもやめなかった。ただ、これが現実なんだと思うだけで、胸が引き裂かれそうで辛かった。

「蒼空、これが現実なんだよ」

 だらりと両腕を垂らしたまま、タケルが虚ろな表情で呟いた。

「これが、俺たちの現実なんだよ! 親にも社会にも見捨てられ、存在さえしていない俺たちの、これが現実なんだよ!」

 タケルはそう叫ぶと、声高く笑い始めた。

 タケルがおかしくなったのかなと思ったけど、両目から垂れ落ちる涙を見て、おかしくなったわけじゃないとわかった。

 物言わぬレナの体を抱き起こし、冷たい身体を力の限りに抱きしめた。

 これが僕らの現実なんだと、改めて思い知らされた。

 これが、大人たちが作った世界から外れた僕らの、誤魔化しようのない現実だった。
 いつ、どんな風に家に帰ったのかはあまり覚えていなかった。レナの遺体に学ランをかけてやったところまでは覚えているけど、その後のことは現実感がなくてよく覚えていなかった。ただ、タケルに支えられて家に着いた時には、夜も明けようとしていた。

 タケルが慣れた手つきで勝手口を開ける。土間にあるお母さんのサンダルを見て、ようやく僕は目を覚ました。

 音を立てないように中に入ると、生ゴミとアルコールの臭いに相変わらず鼻が曲がりそうになった。換気の為に窓を開けていたけど、それでも追いつかないくらいに悪臭が漂っていた。

 お母さんは相変わらず一升瓶を抱いて寝ていた。机の灰皿は空のままだったから、片付ける必要がなかったことに少しだけほっとした。

 忍び足で隣の部屋に行き、ろうそくに火をつけてその場に崩れるように座ると、コンビニから盗んできたペットボトルのジュースをタケルが差し出してきた。

 力任せに開けて一気に喉へ流し込む。冷たい炭酸の刺激に、少しだけ気分が落ちついてきた。

「これからどうするつもりだ?」

 僕が落ち着くのを待っていたのか、ずっと黙っていたタケルがようやく口を開いた。

「もちろん、レナの仇をとるよ」

 タケルの問いに即答しながら、もちろんついてきてくれるよね? と視線で尋ねてみる。当たり前だと答えてくれると思ったけど、タケルは顔を伏せて視線をそらした。

「仇をとるって、キャロルを相手にどうやってとるんだよ」

「僕にはこれがある」

 弱気になっているタケルに少しイライラしながら、僕はバックから拳銃を取り出した。

「弾は何発あるんだよ?」

「一発しかないみたいだけど」

 僕が弱い口調で答えると、タケルは呆れた表情を浮かべて鼻で笑った。

「バカ、キャロルのメンバーが何人いると思ってんだよ。そんなんで仇をとりに行っても、返り討ちにされるだけだ」

「でも、だからといってこのままにしておくの?」

「俺だってなんとかしてやりたいよ。けど、キャロルとまともに戦っても勝てるわけがないだろ。よくて袋叩き、悪ければ殺されて終わりだ」

 食い下がる僕に、タケルが目を見開いて声を荒げた。その態度から、タケルも葛藤していることが伝わってきた。

「それに、蒼空、お前はいいよ。家もあるし、なによりちゃんと戸籍もある。けど、俺はどうなる? 家もないし親もいないし、なにより戸籍がない。俺はここにいるのに、世の中にはいないことになってんだ。だから、袋叩きにあったら病院に行くこともできない。そうなったら、間違いなく死んでしまうだろ?」

 タケルが胸の内を晒すように、語気を強めて語った。特に戸籍がないことについては、タケルは悔しそうな表情を見せた。

 そう、タケルには名字と戸籍がない。出会った時、タケルは一人だった。母親がタケルを見捨てて男の人と消えてから、タケルは一人で放浪した末に数ヶ月前にこの町に流れ着いた。

 戸籍がないということがどういう意味か、僕はレナを見てわかっていた。レナは学校はもちろん、病院に行くこともできなかった。大人が作ったこの世界で、レナは生きているのに存在していないことになっていた。

 それはつまり、誰かに助けを求めたくても、存在していない人間を助ける術が、この世界にはないということだった。

「だったら、警察にお願いしようよ」

「それも無理だ」

 僕らで仇をとれないなら、せめて警察に逮捕してもらうぐらいのことはしてやりたかった。

 でも、タケルはそれすら拒否してきた。なんでだよと詰め寄ると、タケルは僕を力任せに突っぱねてきた。

「あの死体はどうするんだ?」

「え?」

「蒼空、お前は殺人犯なんだぞ。警察にお願いなんかしてみろ。キャロルのメンバーだけでなく、お前も逮捕されるんだ。そうなったら、お前は一生、人殺しって呼ばれて生きることになるんだぞ」

 タケルは怒ったように、でも、半分は僕のことを心配しているように諭してきた。

 確かにタケルの言う通りだった。警察にお願いしたら、キャロルのメンバーの死体もすぐに発見されてしまうだろう。そうなったら、僕らは追及されて逮捕されるのは目に見えている。

 逮捕されたら、どのくらい刑務所にいることになるのかはわからない。仮に刑務所から出られたとして、その後はずっと人殺しって呼ばれて生きていくことになるんだろう。そんな人生、まともに生きるのは無理だと思えた。

 でも、だからといってなにもしないのは気が引けた。せめて、レナの為になにか一つくらいはしてやりたい気持ちが強かった。

 答えのない想いだけが、ぐるぐると頭の中を巡り続ける。まともにやっても勝ち目はないし、警察にも頼めない。でも、レナをそのままにしておくのは嫌だった。仇をとれないとしても、僕なりの意地は見せてやりたかった。

「なあ蒼空、一緒に逃げないか?」

 まとまらない考えを遮るように、タケルが弱々しい声で呟いた。

「逃げるって、どうして?」

「このままだと、いずれ俺たちキャロルのメンバーにやられると思う。だから、二人でどこか遠くの世界に逃げたほうがいいと思う」

 タケルが、顔をあげて真剣な眼差しで僕を見つめてきた。タケルらしい選択だった。誰からも守られてこなかったタケルが生きる為に身につけた術は、とにかく逃げ続けることだった。

 なにもせずに逃げることを笑う人もいるかもしれない。けど、タケルにとって今日を生き残るには、降りかかる問題から逃げる以外に方法がなかった。

 だから、タケルが逃げると言い出したことに怒りはなかった。けど、それでも、レナの仇をとることをまだ諦めることもできなかった。

「でも、レナは――」

「いい加減、レナのことは諦めろよ。だいたいレナにはフラれて相手にされていなかっただろ?」

「そうだけど、でも」

「でもじゃない。蒼空もいい加減、自分のことを考えたらどうなんだ?」

 タケルに言いくるめられた僕は、返す言葉もなく黙るしかなかった。タケルの言いたいことはわかるし、多分、タケルは間違っていないと思う。

 でも、そうだとしても、すぐには受け入れることはできなかった。僕はやっぱりレナのことが好きだし、それに、自分のことを考えるなんてことはできないと思う。自分がどうしたいとか考えたことは今までなかった。タケルと一緒で、どうしたら生き残れるのかしか考えたことがなかった。

「でも、僕が逃げたらお母さんが怒ると思うんだ。家事をする人がいなくなるからね」

 色々考えてみたけど、やっぱり今すぐに逃げるわけにはいかなかった。こんな僕でも、お母さんは必要としてくれている。だから、お母さんに黙って逃げることはしたくなかった。

「本気で言ってるのか?」

 やけにタケルが暗い顔で聞いてきた。僕は茶化すことなく本気だと伝えた。けど、タケルの表情は更に暗くなっていくばかりだった。

「蒼空、ひょっとして本気で気づいてないのか?」

「なんだよ急に」

「お前のお母さんのことだよ。本気で気づいてないのか?」

 タケルの質問に、僕は胸がざわつくのを感じた。タケルがなにを言いたいのかはわからなかったけど、それを聞くのがすごく怖いような気がしてならなかった。

「これだけ異臭がしてるのに、本当に気づいてないのか?」

「異臭って、生ゴミやお酒は片付けたよ。それに、換気の為に窓は開けてるし。少しぐらいは残ってるかもしれないけど、今さらなに言ってるの?」

 タケルは、出会ってからほぼ毎日この家で暮らしている。だから、家の状況はわかっているはずだ。ゴミ屋敷なんて陰口叩かれるくらい汚い家だけど、今さら気にするのは変だった。

 そう思いながらも、なぜかタケルを完全には否定できなかった。ようやく引いたはずの汗が、再びゆっくりと背中を滑り落ちていった。蒸し暑い夜なのに、なぜか汗を冷たく感じた。

「蒼空、お前のお母さん、死んでるよな?」

 タケルが思い詰めたような顔で呟いた。なんでこんな時に冗談を言うんだと怒りたかったけど、なぜか言葉が喉につかえて出てこなかった。

「お母さんは寝ているだけだよ」

 そう言うだけで精一杯だった。そして、その言葉がやけに僕自身の願望みたいに思えて、僕は力なく笑うしかなかった。

「確かめてみろよ」

「え?」

「寝てるだけなんだろ? だったら確かめてみろよ」

「嫌だよ。寝てるのを起こしたらどうなるか、タケルも知ってるよね?」

 寝ているお母さんを起こしたらどうなるか、タケルもその身をもってわかっているはず。なのにタケルは、僕の腕を無理矢理引っ張って隣の部屋に連れていこうとした。

「やめてよ」

 慌てタケルの腕を振り払うと、僕はもとの場所に戻って座り込んだ。

「あのな、蒼空」

「もういいから。その話はなし」

 なおも続けようとするタケルを、僕は無理矢理遮って背を向けた。

「ったく、わかったよ」

 しばらく立ちつくしていたタケルだったけど、そう呟くと同時に自分のバックを肩にかけた。

「俺は秘密基地にいるから。しばらく待って来なかったら、一人で逃げるからな」

 そう言い残して、タケルは振り返ることなく家から出ていった。

 急に、静寂が家中を支配してきた。いつの間にかピッチが上がっていた鼓動が、生々しく耳もとで鳴り始めた。タケルの言葉を頭から振り払おうとしたけど、頭を振る度にボリュームが上がっていった

 さらに、治まっていた胸とお腹の痛みが再び襲ってきた。軽く咳をしただけなのに、手のひらに真っ赤な血がへばりついていた。

 ――どうしたらいいの?

 不安と恐怖で頭を抱えながら、状況を整理してみる。タケルは、僕のお母さんは死んでいると言った。もしそれが本当なら、僕はタケルと同じく一人ぼっちになってしまう。そうなったら、これから僕はどうやって生きていけばいいんだろう。

 それに、この体の異変もどうしていいのかわからない。病院に行くとしても、僕一人でどうやって行ったらいいのかもわからなかった。

 色んな不安が焦りに似た気持ちになり、僕は立ち上がってふらふらとお母さんのもとに向かった。相変わらず同じ姿勢で寝ているお母さんのそばに座ると、こみ上げてくる涙を乱暴に拭った。

「お母さん」

 最初は小さく呼びかけたけど反応はなかった。だから、声を大きくして何度も呼びかけながら、お母さんを強く揺さぶってみた。

「お母さん、起きてよ。こんなことしたら、いつもなら僕を蹴るよね?」

 なぜか自然と涙が出てきた。全く反応がないことに焦りがつのっていく。その一方では、どこか諦めに似た気持ちが否応なしに膨れ続けていた。

「お母さん、僕を一人にしないでよ」

 言葉が口から出た瞬間、続く言葉は嗚咽に変わっていった。泣きながら、それでも絶望的な思いと戦い続けた。

 揺さぶった反動で、一升瓶が転がっていった。中身は前に見た時から少しも減っていなかった。

 押し寄せてくる絶望に耐える最後の力が抜け、僕はお母さんの遺体にしがみついたまま声を上げて泣いた。

 そんな僕の悲痛な叫びに応えるかのように、なにかが台所の奥で揺らめくのが見えた。

 やがてそれは、窓から射し込んでくる淡い朝日に照らされるように、ゆっくりと姿を現していった。
「レナ!」

 突如現れた人影は、まさかのレナだった。金髪のツインテールを揺らしながら、レナは呆れたような顔つきで近づいてきた。

「良かった、生きてたんだね」

「死んでるっつーの」

 レナに会えて喜んでいる僕に、レナが厳しいツッコミを入れてくる。レナの言う通り、レナの手はあっさりと僕の体をすり抜けていった。

「でも、会えて嬉しいよ」

 改めて見つめたレナの姿に、嫌でも鼓動は高鳴っていった。なんだか随分と会ってなかったような気がして、つい泣きそうになるのを懸命に堪えた。

「全く、幽霊に会ってマジで喜ぶのはあんたぐらいなものよ」

 レナがため息をつきながら、僕に哀れみの視線を向けてきた。

「それより、これからどうするの? もちろん、タケルと一緒に逃げるんでしょ?」

「もちろん、レナの仇をとるよ」

 格好つけようとして勇ましく答えたのに、返ってきた言葉は「馬鹿」の一言だった。

「あんたね、キャロルのメンバーを相手にして勝てると思ってるの?」

「勝てるかどうかはわからないけど、でも、このままなにもしないのは嫌なんだ」

「馬鹿みたい。てか、あんた、本当に馬鹿よね」

 レナが鬼のような形相で睨みながら、僕を怒鳴り散らしてきた。

「馬鹿かもしれないけど、でも、レナの為だから」

「そういうの、マジでウザいんだけど。てかさ、あんた、いい加減私のこと諦めたら?」

「どうして?」

「だいたい、私はもう死んじゃってるし。そんな私なんか諦めて、他の子を探したら?」

「無理だよ」

 矢継ぎ早に攻めてくるレナの言葉を遮るように、僕はレナを見つめながらゆっくりと呟いた。

「なんで? 何度も言うけど、私もう死んでるんだよ?」

「そうかもしれないけどさ。でも、こうしてレナの姿が見えるなら、やっぱり諦めきれないよ」

 弱々しく頭をかきながら恥ずかしさを誤魔化すと、レナは怒った顔をいくらか緩めてくれた。

「僕も、よくわからないんだ。でも、レナの姿を見たら嬉しいし、胸が苦しくなるんだ。レナに好きだって伝えた時から、ずっと気持ちは変わらない、いや、多分、もっと大きくなってると思う。だから、こうしてレナの姿が見えるから、レナと話ができるから、諦めろって言われても自分でもこの気持ちは止められないよ」

 恥ずかしさを堪えながら、僕は正直に自分の気持ちを伝えた。出会った時からずっと一緒に過ごしてきたけど、レナを女の子と意識した時に感じた胸の高鳴りは、今も消えることなく続いていた。

「あんたの気持ちはわかったけど、でも、やっぱりこんな私なんかより、他の子にしたほうがいいって」

「なにを言われても、僕はレナが好きなんだ」

 何度も伝えてきた気持ち。その度にはぐらかされ、拒絶されてきた。でも、それでも、相変わらず笑ってくれるレナだから、僕は好きでいるんだと思う。

「まったく、思い込んだら頑固なんだから。幽霊になったっていうのに相変わらず告白するのって、あんただけだよ」

 レナは文句を言いながらも、最後は笑ってくれた。

「それより、本当にこれからどうするか考えないといけないね」

 レナがちらりと僕のお母さんを見る。お母さんが亡くなった以上、僕もタケルと同じく一人ぼっちになってしまった。

「私の仇をどうしてもとりたいなら、やっぱり警察に頼んだがいいかな。でも、警察が本当に捜査してくれるかはわからないけどね」

「どういうこと?」

「だって、私ってこの世にいないことになってるから、いうなれば、身元不明の遺体ってことになるよね。そんな面倒くさいことに、警察が本気になるとは思えないけど」

 レナの言う通り、警察は頼んだところで動いてくれない可能性が高い。僕が一生懸命頼んだのに、レナのお母さんの話ばかり聞いていたのを見る限り、今回も適当にあしらわれて終わりになりそうだった。

「家出少女、しかも身元不明。これじゃあ面倒くさくてなにもしない可能性は否定できないでしょ?」

「てことは、やっぱり、警察に頼んでも意味ないってことなの?」

 僕の質問に、レナがあっさりと頷いた。仕方ないけど、警察に頼んだところで仇をとるのは難しそうだった。

「でも、だからといってあんた一人で行くのはもっと意味がないんだからね」

 だったら僕一人でも行くと言おうとしたところで、レナに先手を打たれた。どうあっても、レナは僕一人での仇討ちを許してくれそうになかった。

「でも、なにか方法はあるはずだよ」

「方法って、どんな方法よ」

「今はわからないけど、でも、きっとなにか方法があるはずだよ」

 懲りずに粘る僕に、レナがお手上げとばかりに肩をすくめた。

「まあ警察を動かすだけなら、方法はないことはないんだけどね」

 レナが僕の隣に座りながら意味深に呟いた。レナにつられて床に腰を下ろした僕は、レナの顔を覗き込んで真意を確かめてみた。

「警察はさ、自分たちがやられると意地になるから、思いきって事件に巻き込んでやれば嫌でも動くと思うよ。それか、マスコミを利用するってのもあるかな」

「マスコミって、テレビのこと?」

「テレビだけじゃない。新聞、雑誌、ネットなんかもいいかな。そうしたマスコミを騒がすようなことができれば、警察も動かないわけにはいかなくなるんだけどね」

 レナの説明に相づちをうちながら、頭の中で連想してみる。警察を巻き込んだ大事件を起こせば、マスコミも騒いでくれるだろうし、そうなったら、警察も嫌でも動かないわけにはいかなくなる。

 そう考えて、あるアイデアが閃いた。昔もらった本に書いてあった話だけど、警察を事件に巻き込みつつ、マスコミを騒がすには十分な方法に思えた。

「この拳銃を使って警察官を撃ったら、マスコミも大騒ぎするんじゃないかな?」

 警察は自分たちが被害者になると本気になると本に書いてあったし、しかも、日本では発砲事件は大々的なニュースになるとも書いてあった。その二つを組み合わせただけの思いつきのアイデアだったけど、なんだかいけそうな気がした。

「確かにマスコミは騒ぐかもしれないけど、警察はあんたを逮捕して終わると思うんだけど」

 してやったりな気分に水を差すように、レナは冷たい口調でバッサリと切り捨ててきた。

「そっか、結構いいアイデアだと思ったんだけどね」

「ま、簡単にいかないし、やっぱ諦めたほうが賢明だと思うんだけどね」

 話は終わりとばかりに、レナはそれ以上語ることはなかった。僕はまだ諦めきれなくて、色々と考えてみたけど、やっぱりいいアイデアがそう簡単には浮かばなかった。

 無言の空気と、レナが隣にいる安心感のせいか、ふと睡魔が忍び寄ってきた。

「蒼空、あんた体調悪いの?」

「え? なんで?」

 急に顔を覗きこんできたレナの表情に、僅かな影が帯びていた。

「顔色悪いし、なんだか息苦しそうだから」

「僕は大丈夫だよ。きっと色々あって疲れたんだと思うんだ」

 無理矢理笑顔を作りながら、僕は適当に誤魔化した。その間も、刺すような痛みが続いていたけど、レナがそばにいてくれるから耐えられない痛みではなかった。

「そっか。なら少し眠りなよ。見ててあげるから」

 不意に出たあくびを噛み殺していると、レナが笑いながら声をかけてきた。色々あったせいで頭が麻痺していたけど、体は正直みたいで、僕はレナの言葉に甘えるように静かに目を閉じることにした。