部屋に戻ってスマホを開くと、相変わらず木村先輩からラインが入っていた。内容はいつもと変わらないもので、秀兄を許してやって欲しいというものだった。

 小さくため息をつきながらスマホを机に置く。木村先輩のラインに返信したことはないし、返信しないことに木村先輩が文句を言ってくることもなかった。

 椅子に寄りかかり、秀兄を掴んだ右手をぼんやりと眺めてみる。びっくりするぐらいに暖かくて、わずかに握り返された時は苦し過ぎて声も出せなかった。

 ――なんで、あんなこと言ってしまったんだろう

 お風呂場でとった自分の態度や言動に、今更ながら罪悪感が押し寄せてきた。

 タケルと楽しそうだったことに、ついカチンときた。理由はわからない。いや、本当はわかっている。斗真を忘れて楽しそうにしている姿が許せなかったから。

 でも、本当はわかっている。秀兄が楽しくしていなかったって。秀兄は、斗真がいなくなってからずっと感情を殺しているから。

 それが当たり前だと思ってた。一生、斗真を失った罪の意識に縛られて当然だと思ってた。

 ――でも

 私は髪を両手で掴みながら、秀兄が部屋で呟いた言葉を思い出した。

 本当は、秀兄は死にたくないと思っている。斗真の死に責任を感じて自殺するつもりなら、私は止めるつもりはなかった。秀兄が決めたことに、私が口出すことじゃないから。

 でも、あのお風呂場で秀兄の手を掴んだ時、私は凄く怖かった。おさえきれない気持ちを隠す為に、あえて秀兄が辛くなる言動をした。斗真に会いたいなんて言ったら、秀兄がまた苦しむとわかってて言ってしまった。

 もちろん、斗真に会いたい気持ちに嘘はない。もし斗真が現れたら、斗真が嫌がるまで抱き締めると思う。

 その気持ちを秀兄にぶつけた時、私は秀兄の反応が凄く怖かった。一瞬で生気を失った瞳は虚ろになり、ふらつく足取りで歩き出した姿が、そのまま消えてしまうんじゃないかって思った。

 だから、咄嗟に私は手を伸ばした。なんて言葉をかけたかは覚えていないけど、私の本心はその行動に現れていたと思う。

 たぶん、本当の私は秀兄が死ぬことなど望んでいない。秀兄が呟いた、昔みたいに楽しくやりたいという願いこそが、私の本心だと自分でも感じている。

 でも、それを実現させるには越えないといけないハードルがいくつもある。特に、私は自分の感情に決着をつけないといけない。

 殺したいほど憎い。

 でも、目が離せないほど好き。

 この二つの感情に決着をつけない限り、秀兄はこの世からいなくなってしまうだろう。そうわかっていても、今も一歩も踏み出せない自分の弱さが情けなくなってくる。

 スマホをたぐりよせ、木村先輩のラインを確認する。木村先輩が送ってきたラインの中に、いくつかの画像がある。全て小学校の時の教科書を写したもので、『キモい』だとか『死ね』だとか落書きされていた。

 木村先輩いわく、小学校で秀兄と会うまでは木村先輩はいじめられていた。クラス全員から無視される中、たった一人、秀兄だけが木村先輩と普通に接してくれたらしい。

 いじめに巻き込ませたくないからと、木村先輩は秀兄と関わらないようにしていた。でも、秀兄はそんなこともおかまいなしに、変わらず接してくれたという。

 秀兄らしいと思える話に、私はもどかしく感じながらも笑ってしまった。木村先輩にしてみたら、秀兄はただの親友ではなくて恩人でもあった。

 だから木村先輩は、例え返信がなくても毎日私を説得するラインを送ってくる。秀兄が考え直すとしたら、その鍵は私にあると思っているんだろう。

 私は何度もラインの内容を読み返しては、返信するか迷った。たとえ誰を敵に回しても秀兄を助けたいからと語る内容に嘘はなかった。

 実際に、私を敵に回してでも私を説得している。木村先輩は、今も変わらず私に恋心を抱いていることを告白していながら、それでも、秀兄と敵対している私を説得していた。

 それだけ、木村先輩の秀兄に対する想いは強かった。私も半分は同じ気持ちだから、木村先輩の気持ちが痛いほどわかる。

 だから、このままじゃいけないことはわかっている。でも、どうしていいのかもわからない。

 そんな気持ちに流されるように、震える指でスマホを操作する。通話の画面に切り替わると同時に、木村先輩の息をのむ音が聞こえてきた。

『私――』

『京香ちゃん、このまま黙って聞いてほしい』

 なにを話すか迷う私の出鼻を挫くように、木村先輩の重い言葉が耳を貫いていった。

『俺は、秀一のことを諦めきれない』

 震える声から、すぐに木村先輩が泣いていることがわかった。何度も私を説得する作業の裏側で、木村先輩は私以上に辛い思いをしているんだろう。

『あいつが自殺を考えてると聞いた時、俺は昔の自分を思い出したんだ。周りからいじめを受け、生きる辛さから逃げ出したくなって死のうとした自分をね』

『木村先輩――』

『そんな時、あいつだけが真剣に俺を引き止めてくれた。自殺ほど愚かなことはないってね。だから、自殺するくらいなら残りの人生を友達として過ごして欲しいと言われた』

 泣き声を震わせながら、木村先輩が秀兄への思いを伝えてくる。簡単に話しているけど、過去を思い出して口にするのは相当辛いことのはず。

 けど、木村先輩は止めようとした私を振り切って話を続けた。そこには、なりふりかまっていられない木村先輩の覚悟があった。

『あいつを許して欲しいとは言わない。けど、あいつが自殺を思いとどまるようなことがあるなら、一緒に探して欲しいんだ。その結果、あいつが生きることになったら、俺を一生恨んでくれてもかまわないから』

 ずしりと胸に刺さってくる言葉に、私は完全に返す言葉を失った。ここまで木村先輩に言わせる秀兄の存在が、やけに大きくなるのをいやでも感じてしまった。

『私には、まだわかりません』

 咄嗟の反応だった。そう告げると同時に、反射的に電話を切ってしまった。

 不意に広がる静寂に、せりあがった私の鼓動が響いていく。木村先輩の覚悟の声が頭から離れなくなった私は、ただ机にうつ伏せて乱れた感情のうねりに耐えるしかなくなった。