この文書は、七月一日午後十時三十二分に発生した、中学生と思料される少年による警察官銃撃事件の記録の一部である。
尚、無線通信記録を文書化したため一部内容に修正があるものの、当時の記録をできるだけ忠実に再現するよう努力した次第である。
◯警察官と通信指令室のやりとり内容
『至急至急、桜木四からS本部』
『本部です。桜木四どうぞ 』
『了解。緊急につき、一方的に通話します。桜木町四丁目の桜木公園にて、中学生と思料される少年二人が喫煙していたため職質したところ、少年の一人が所持していた拳銃をPM(警察官)に向けて発砲。これにより、PM一名が負傷。また、負傷したPMが拳銃にて応戦した為、少年一名が負傷。尚、銃撃した少年は拳銃を所持したまま逃走中。繰り返す、少年一名が拳銃を所持したまま逃走中。逃走先は――』
初恋は実らない――。
その言葉に、残念だけど私は頷くことになった。
初恋の相手だった久保秀一は、私の兄になり、そして、殺したいほど憎い相手になった。
これは、そんな殺したいほど憎むことになった秀兄を、許そうと決めたきっかけを見つけることになる私の物語。
斗真の死に責任を感じている秀兄が自殺する直前に、胸に宿した願いを打ち明けることになった私の物語。
願わくば、天の川の向こうにいる斗真にも届きますように――。
この学校で一番高い場所に、僕は立っていた。
先週までは連日の雨模様だったのに、週が明けた途端に快晴の空が広がっていた。天気予報によれば今週は雨の心配がないみたいだから、七夕もき晴れてくれそうだった。
「ねぇ、本当に飛べるの?」
僕の隣に座っている女の子が、目を細めながら眠そうな声を漏らす。彼女の名前はハナ。本名は教えてくれないからわからない。自称中学一年生だけど、小学生でも通じるくらいの小柄で幼い顔をしている。お気に入りらしいツインテールの髪は、生前も金髪だったと笑いながら教えてくれた。
そんなハナと僕は、屋上のさらに上にある給水タンクが設置してある場所にいる。放課後の気だるい時間だけど、見上げた空に見える太陽の日射しは相変わらず強かった。
「飛べると思うよ」
僕は端に立って下を眺めながら答えた。見えるのは、屋上の地面と取り囲む転落防止用のフェンスのみ。フェンスの先はもちろんなにもないから、上手く飛び越えることができたら、四階建ての校舎を眺めながら地上を迎えることになるだろう。
屈伸しながら距離を確かめてみる。給水タンクと見慣れない装置があるだけだから、そんなに広いわけではない。全力で走ったら端から端まであっという間だろう。
「無理だと思うんだけどね」
ハナがにやけながら茶化してきた。フェンスを乗り越えるのが無理なら飛び越えたらいい。そうハナに息巻いて屋上の入り口、その天井に登ったものの、助走をつけてジャンプしたとしてもフェンスを越えれるかどうか微妙だった。
「まあ見ててよ」
しゃがみこんで両手を頬にあてたまま呆れているハナを横目に、僕は身を低くして地面を思いっきり蹴った。
――いける!
助走距離は、全力疾走になる頃には終わっているだろう。でも、勢いさえ失わなければ飛距離は十分期待できるはずだ。
そう信じて、あっという間に端まで来たところで僅かに力を抜いてジャンプした。
空と、一体化したような気がした。
抜けるような青空を抱いたまま、僕は急激に襲いかかってきた重力に身を委ねる。眼下には灰色のフェンスが迫っていて、空気の抵抗を顔に感じながら、僕は目を閉じてその時に備えた。
滞空時間は三秒くらいだろうか。フェンスにぶつかった僕は、フェンスが軋む音を聞きながら弾き飛ばされて床を転がるはめになった。
当然、床に激しく体を打ちつけた僕は、節々の痛みに加え、擦りむいた腕の痛みに顔をしかめるしかなかった。
「やっぱ無理じゃん」
そんな僕を見ていたハナが、文字通りにお腹を抱えて笑っていた。文句を言ってやりたかったけど、予想外の衝撃に声が出なくて睨みつけることしかできなかった。
――でも、フェンスは越えれそうだ
失敗は最初から計画のうちだった。僅かに抜いた力のおかげで、フェンスを越えることはできなかった。でも、それは裏を返せば、力を抜かなかったらフェンスを越えることができるということだった。
期待した通りの結果に満足していたところに、長い影が伸びてきた。見上げると、親友の木村直哉が手を差し出していた。
長身ですらりとしていながらも引き締まった体躯をしている木村が、小柄な僕を難なく引き上げる。木村とは、小学校からの付き合いだ。短髪に日焼けした顔が爽やかなスポーツ系の人柄に見える木村に対し、僕は色白で髪も適当に伸ばして眼鏡もかけているから、色んな意味ででこぼこコンビと言われることが多い。
「で、飛び越えられそうなのか?」
制服のシャツやズボンに付いた汚れを払っていると、木村が困ったような顔で聞いてきた。
「まあ、なんとかなりそうかな」
「それは残念だな」
曖昧に答えたのにも関わらず、木村は腕を組んでため息混じりに返してくる。木村にしたら、親友の僕が自殺するつもりでいるのだから、笑ってはいられないのだろう。
そう、僕は間もなく自殺する。
予定は七月七日。七夕に意味はあまりないけど、この日付には重要な意味がある。それは僕にとってという意味もあるけど、さらには、一緒に暮らしている血のつながっていない妹たちにも意味がある日付でもあった。
だから、七月七日に決めた。それを木村に伝えたのは先月のことだった。殺されるかもと思うくらいに怒られ、やめるように説得された。
けど、僕の意志に揺らぎはなかった。今でも木村は説得しようとしてくれるけど、それも半分は諦めムードが漂っている。
そんなため息を繰り返す木村に苦笑いを見せながら、さりげなく給水タンクがある場所を見上げてみる。ハナは木村の気配に気づいて隠れたか、あるいは消えたみたいで姿が見えなかった。
「なあ秀一、見てみろよ」
フェンスにしがみついていた木村が、声を弾ませて手招きしてきた。秀一というのは僕の名前で、名字は久保になる。ちなみに、妹たちは飯守という名字をそのまま使っている。だから、同じ家にいても家族といった関係意識はあまりない。特に、僕と一つ年下で長女の京香との間は、他人よりも遠い関係でしかなかった。
「どうしたの?」
木村に促され、フェンス越しに下界を見下ろしてみる。この学校は高台に校舎が建っているおかげで、屋上から町並みを見渡すことができる。田園風景の中で徐々に開発が進んでいる町並みの中に、まるで川のように植えられた桜並木が特徴的な桜木公園が目についた。
すでに桜の季節は終わっているから、目立つようなものはない。けど、今日に限っていえば、大勢の警察官と警察車両、さらに警察を取り囲むように報道陣や野次馬たちが、今でも群衆を作っていた。
「先週の放火事件に続き、今度は発砲事件だとよ。まったく、超のつくド田舎のくせしてなんでこんな事件が起きるんだよ」
木村が、
フェンスを揺らしながら興奮気味の声をあげた。世間を揺るがすような事件など滅多に起きることのないこの町で、警察官を銃撃するなんていう事件が起きたのだから、誰もがありえないことに気持ちが高ぶっている感じだった。
そのおかげで、この町の話題は突如起きた警察官銃撃事件で占められていた。口を開けば事件の話ばかりだから、さして興味を持てなかった僕でさえ、その事件に関する情報を知ることができていた。
問題の事件が起きたのは二日前の夜十時過ぎ。二人組の中学生のうち、一人が警察官を銃撃して負傷させたというものだ。さらに、警察官も拳銃で撃ち返していて、中学生の一人が負傷して病院に運ばれている。最悪なことに、撃った中学生は拳銃を所持したまま逃走していることから、町中がひっくり返したような騒ぎになっていた。
「しかしさ、ミスターXってしょうもない名前、誰が言い出したんだよ」
木村が毒づきながら、座りこんでフェンスに寄りかかった。
「仕方ないよ。逃げた中学生が何者なのか、誰も見当がつかないんでしょ?」
木村の隣に座りながら、それとなく聞いてみた。最後に聞いた話だと、病院に運ばれた中学生の身元は判明したけど、逃げた中学生に関してはまるで情報がないらしい。そのため、一夜明けた時にはネットを中心に、ミスターXという名前で呼ばれるようになっていた。
「兄貴も現地入りしているけど、さっぱりだって嘆いてたからな。警察も血眼になって探しているけど、未だに情報一つ手にできてないんだとさ」
木村の兄は、東京で記者として働いている。事件があれば日本全国飛び回る人で、僕も何度か食事に連れていってもらったことがある。木村の家は、親が経営者だから金持ちであると同時に躾に厳しい。木村が何度も不平不満を口にしていたけど、そんな環境の中、木村の兄は自由人として生きているせいか、木村も兄を慕っていた。
「そのうち捕まるんじゃないの?」
「だといいけどよ。でもよ、兄貴がこんな事件は初めてだって言ってたから、なんだか妙な胸騒ぎがするんだ」
木村はそう呟いて空を仰いだ。世間を賑わす事件の興奮とは違うなにかを、木村は感じているみたいだった。
最近、ようやく開発が進む住宅地の一角に、僕の家がある。周りと大差のない二階建ての家は、駐車場に車がないことぐらいしか外観的な差異はない。
ただ、家の中となると、周りの家とは極端に違っていた。一年程前に両親が再婚し、僕と父親の二人で住んでいた家に、母親になる人と、その子供たちが引っ越してきた。子供たちは全員僕より年下だから、いきなり妹と弟ができることになった。
長女の京香は、一つ年下で同じ高校の二年生で、次女の千夏は中学二年生だ。二人とも仲が良く、特に千夏は、京香を慕いながらも甘えている感じがいつも伝わってくる。
そんな姉妹と、この家で暮らしている。両親は共に仕事で家にはいないし、弟は僕が一年前に死なせてしまったから、今は三人だけで生活を共にしていた。
息苦しさしかない家のドアを開けると、待ってましたとばかりに千夏が小走りで近づいてきた。ポニーテールの髪を揺らし、笑うと見えなくなるような糸目が垂れていた。赤いジャージの部屋着でいるということは、午前中で学校が終わった後はちゃんと家に帰って留守番をしていたみたいだ。
「秀兄ちゃん、おかえり」
千夏が、目を一層細めて出迎えてくる。普段はゲーム機の前から動かないのに、こうやってわざわざ出迎えに来るということは、なにか企んでいる証拠だった。
「犬も猫も飼えないからね」
千夏は、捨て猫や犬をよく拾ってくる。おかげで庭が賑やかになったことがあり、引き取ってくれる人を探すのに苦労したことがあった。今は引き取り手がなかった雑種のシロがいるから、仲間を増やしてやるつもりはなかった。
「犬とか猫じゃないよ」
出鼻を挫いてやったのに、千夏は糸目をさらに細くした愛想笑いを崩すことはなかった。しかも、犬や猫は否定したのに、拾ったことを否定しなかったことが引っかかった。
「拾ったのは、人間なの」
「ふーん、そっか。って、え?」
台所に移動し、冷蔵庫から麦茶を取り出したところで手が止まった。聞き間違いでなければ、千夏は人間を拾ったと言ったような気がした。
もう一度確認しようとふりかえると、同じタイミングでリビングのドアが開き、半袖の開襟シャツに学生ズボンの少年が姿を表した。
――え?
現れた少年は、千夏と変わらないくらいの男の子だった。伸びきったぼさぼさの金髪に、身長は僕と変わらないくらいだけど、体つきは異常なくらい痩せ細っていた。
そんな少年の外見の中で、特に目を奪われたのが顔つきだった。幼さが残るやけに目鼻がはっきりした顔は、病的に青白いのを除けば、亡くなった弟の斗真を連想させるくらいによく似ていた。
せり上がった心臓が、少しずつ乱れていくのを感じた。動揺をおさえる為に麦茶をコップに注ごうとしたけど、手が震えて上手くいかなかった。
「勝手にお邪魔してごめんなさい」
少年は声変わりしかけた声で呟くと、肩にかけていた黒いバックを胸に抱いて深々と頭を下げた。なんとかコップに注いだ麦茶を一気に飲み干した僕は、その声さえも斗真の声にしか聞こえなかった。
「秀兄ちゃん?」
途切れかかった意識の中に、突然千夏の声が響いてきた。我に返って千夏に目を向けると、千夏が心配そうな顔で僕を見ていた。
「大丈夫。急なお客さんにびっくりしただけだよ」
少しも大丈夫ではないのに、僕は適当に誤魔化した。けど、すぐにもう一度千夏の顔を覗き込んでみた。
少年を拾ってきたと言った千夏。けど、その少年はただの少年ではない。一年前に死んだ斗真に瓜二つの少年だ。
そうなると、千夏も当然気づいているはず。口には出さないけど、明らかに僕の反応を確かめようとしているのはわかった。
だとしたら、なぜ少年を拾って、いや、連れてきたのだろうか。なにか企んでいるのか、それとも咄嗟の思いつきで連れてきただけなのだろうか。
「千夏の同級生?」
とりあえず探りを入れるために尋ねると、千夏はあっさりと首を横に振った。
「知らない人かな。あ、でも知ってる人になるのかな?」
千夏は首を傾げながら髪の毛をいじり始めた。ふざけているわけではないみたいだから、余計に千夏の言っていることがわからなかった。
「うーん、簡単に言ったら、お巡りさんを撃った犯人だよ」
ふんわりとした口調で、千夏があっけらかんと説明してきた。けど、その口から出てきた内容に、僕は飲みかけていた麦茶をふきだしそうになった。
「え? なんだって?」
「だから、今話題の人だよ。お巡りさんを撃って逃げている少年だよ」
千夏に悪びれる様子もなく、さらに淡々と説明を続けていく。その意味がどれだけ衝撃的か、千夏はわかっていないみたいだ。
「あの、それについては僕に説明させてください」
千夏の言葉に動揺していたところに、急に少年が割って入ってきた。
「警察官を撃ったのは本当です。それで、あてもなく逃げていたところを、千夏さんに助けてもらったんです」
少年によれば、行き場のない逃走を繰り返した結果、僕の家の前で力尽きたという。その後、学校から帰ってきた千夏に見つかり、保護されたとのことだった。
「お願いがあります。僕をしばらくここに置いてもらえませんか?」
少年は、必死な形相でふらつきながらもフローリングの床に正座すると、何度も頭を下げ続けた。
「ちょっと、わかったから一回座ってくれる?」
土下座を止めさせようとしたけど、少年は頭を下げたまま固まってしまった。その態度に仕方なく折れた僕は、少年を椅子に座らせて話を聞くことにした。
「とりあえずさ、名前から教えてよ」
気を取り直し、僕は少年と千夏の分のコップを用意して麦茶を注いだ。
「タケルって呼ばれてます。生まれた時からタケルってしか呼ばれてませんので、名字はわかりません」
タケルは小さく何度も頭を下げながら麦茶を受け取ると、ぼそぼそと聞き取りづらい声で呟いた。見た目だけで予想は簡単にできそうだけど、タケルは要するに普通の少年ではなさそうだった。
とりあえずタケルに拳銃の有無を確かめると、今は持っていないとのことだった。どうしたのか聞いてみたけど、タケルは答えたくないのか下を向いて黙ってしまった。
けど、それも一瞬のことで、タケルはすぐにおどおどした表情に戻っていった。
――ミスターXか
周囲の情報だと、タケルに関する情報は誰も掴めていない。話を聞く限り、タケルはこの町の外から流れ着いている。しかも、母親に事実上見捨てられているみたいだから、どこでなにをしていたかなんてわかる人もいないのかもしれない。
けど、タケルは確かにここに存在している。病院に運ばれてる少年は地元の中学生らしいから、おそらく二人はこの町で出会ったんだろう。
そして、警察官を銃撃するという凶行に出た。なにがあったかはわからないけど、そこには、世界を変えたいという二人にしかわからない理由があるのかもしれない。
そんなことを考えていたところで、玄関が開閉する音が聞こえてきた。と同時に、「秀一さんいる?」という声が響き渡る。どうやら京香が帰ってきたみたいで、途端に空気と共に鳩尾の奥が重くなった気がした。
京香の足音がゆっくりと近づいてくる。心なしか、千夏の顔が強ばっているように見えた。僕と千夏の空気を察してか、タケルの顔からも血の気が引いていくのが伝わってきた。
「ただいま」
リビングのドアが開かれ、京香の抑揚のない声が響く。長身で凛とした出で立ちは、セーラー服姿であっても気品と厳しさを感じさせた。斗真が亡くなって以来、長かった髪も短くカットしていて、優しくみんなを見守っていた大きな瞳は、今は意思を感じさせないほど冷たく研ぎ澄まされていた。
「お姉ちゃん、おかえり」
いつものように千夏が京香に抱きついていく。京香は千夏を受け止めると、頭を軽く叩いた。姉妹間でずっと続いているやりとりで、その様子をみる限り、京香の機嫌が悪いのは、いつものように僕に対してだけだとわかった。
「誰?」
顔を伏せていたタケルを見て、京香が眉をひそめた。
けど、タケルが顔を上げた瞬間、その冷たい瞳が大きく見開かれるのがわかった。
「お姉ちゃん、この人はお巡りさんを撃った犯人だよ」
いきなりな千夏の紹介に、気を落ち着かせようとして口に含んだ麦茶を再びふきだしそうになった。紹介するにしても、もっとましな方法があるだろうと言ってやりたかった。
そんな千夏との水面下でのやりとりの間、京香は半分口を開いたままタケルを見つめていた。僕ですら驚くのだから、京香がタケルを見てなにも思わないはずがない。かつて溺愛していた斗真と瓜二つの顔があるのだから、京香が固まってしまうのも頷ける話だった。
「お姉ちゃん?」
僕の時と同様に、千夏が京香に声をかける。京香はすぐに気づかなかったけど、みんなが見ていることにようやく気づいたのか、驚いた表情が瞬時に険しい顔になっていった。
「警察官を撃ったんだ。それは大変だったね」
まるで世間話でもするかのように、京香がタケルに話しかける。それはまるで、悪さをした斗真を優しく包み込む時の言い方と同じだった。
そんな京香の反応に、千夏とタケルから力が抜ける気配が伝わってきた。怒られると思ったのだろう。僕も同じだったから、京香の全く問題視しない態度に一気に緊張が解けていった。
「で、ここに来たのはどうして?」
京香が鞄を置いて僕の隣に座る。柔らかく甘い匂いが鼻をくすぐらせたけど、そうした反応は決して顔に出すことはできなかった。
まごつくタケルに代わり、千夏が事情を説明する。親に見捨てられて警察官を撃ったという、誤解を招きそうな短絡的な説明だったけど、京香は特に驚くことも眉間に皺を寄せることもなく、黙って聞き続けていた。
「あの、それでもう一つお願いがあるんです」
匿って欲しいんだってと千夏が説明したところで、タケルがすがるような目で京香に訴えてきた。
「女の子を探して欲しいんです」
喉の奥から絞り出すような声に、妙な引っかかりを感じた。これまでおどおどしながらも割りとはっきり物を言っていたタケルが、この時だけはやけに言葉にするのにもたついている感じがした。
「お友達?」
京香が尋ねると、タケルは少しだけ考える素振りをした後小さく頷いた。
「レナって名前の子で、この町に来てから仲良くなった友達なんです。でも、突然いなくなってしまったんです」
タケルによれば、同じ年の女の子で、この町で出会ってからはずっと仲良くしていたという。今までも時々家出を繰り返していたけど、一週間以上いなくなることはなかったと真剣な眼差しで訴えてきた。
「つまり、レナって女の子になにかあったんじゃないかって心配しているわけね?」
京香はゆっくりと諭すような口調でタケルに話しかける。緊張とは違う歯切れの悪い話し方をしていたタケルだったけど、いつの間にか京香の雰囲気に包まれたかのように、強ばった表情を緩ませていた。
「なにもなかったら、僕らの秘密基地にいるはずなんです」
「秘密基地?」
意外な言葉に驚いて聞き返したけど、京香の底冷えする視線に遮られ、それ以上はなにも言えなかった。
「家出したレナの為に用意した場所なんです。レナは、家出をしたら男の人の家を転々としてたから……」
言葉を濁したタケルが、顔を伏せて肩を落とした。その仕草で、タケルがレナに好意を寄せているのがわかった。好きな子が男の家を転々としているのを見かねて秘密基地を作った。それだけで、タケルの不器用だけど真っ直ぐな想いが伝わってきた。
「要するに、秘密基地にレナちゃんがいるかどうか確かめて欲しいんだ?」
「はい。僕は警察に追われてますから、秘密基地まで行けないと思うんです」
「でも、なにかあったとしたら私たちよりも警察にお願いした方がよくないかな?」
あくまでも京香の言葉は優しく語りかけるものだった。けど、警察と京香が口にした途端、タケルは目を見開いて京香を睨みつけた。
「警察の人にも頼みました。けど、あいつらはなにもしてくれなかったんです。必死に探してほしいって頼んだのに、迷惑そうに追い払うだけだったんです」
勢いよく立ち上がったタケルが、顔を真っ赤にして涙声をもらした。警察との間になにがあったかはわからないけど、必死の想いを無下にされたのだろう。その悔しさが、怒りで震えるタケルの肩からストレートに伝わってきた。
「タケルくん、座って」
取り乱したタケルに対して、京香は変わらず落ち着いた顔でタケルに話しかける。その横顔が、斗真のわがままを諭す時の横顔と同じだったから、僕は咄嗟に目を逸らした。
「秀一さん、どうするの?」
タケルが崩れるように椅子に座る気配がしたのと同時に、抑揚のない京香の声が聞こえてきた。
「どうするって――」
言葉を選びながら、京香の表情を伺う。相変わらず、会話するのさえ嫌だと言いたげなよそよそしさが見てとれた。
話を聞く限り、タケルは犯罪者だ。そのタケルを匿って、なおかつ、レナという女の子を探すのには抵抗があった。万が一警察に見つかれば、タケルを匿った罪を問われるのは間違いないし、全国規模で事件はニュースになっているから、マスコミの対象として京香や千夏が晒されるのも目に見えている。
両親が不在だからこそ、家を守る義務もある。それに、もうすぐ七夕を迎えるから、今は余計なトラブルに巻き込まれて問題を残しておきたくなかった。
「気持ちはわかるんだけど――」
断って追い出すか警察に通報した方がいい。そう判断して口を開いた時だった。
「なにがわかるの?」
僕の言葉を遮るように京香の冷たい言葉がリビングに響き渡り、一気に空気が張り詰めていった。
「気持ちなんかわからないくせに、適当なことを言わないでよ」
「京香」
「他人の気持ちなんかわからないくせに。そうやってわかったふりしているのが、本当に嫌いなんだけど」
京香の怒りに、千夏とタケルが同時に怯えた表情を見せた。さっきまで穏やかな雰囲気が一変したのだから無理もなかった。
でも、僕には当たり前のことだった。一年前に、京香が溺愛していた斗真を死なせたのは僕だから、京香にとって僕は兄ではなく憎い存在でしかないのだ。だから、僕の意見に対して真っ向から反発するのはいつものことだった。
「タケルくん、レナちゃんを秀一さんと一緒に私が探してあげる」
怒りに震えていた京香だったけど、気を取り直すようにタケルに微笑んだ後、はっきりとそう告げた。
――え? どういうこと?
京香に代わって、今度は僕が取り乱す番だった。タケルを匿い、レナという女の子を探すのはわかる。けど、それを嫌っている僕と一緒にやるという意味がわからなかった。
「なにか文句ある?」
反射的に京香を見つめると、京香が僕を睨みつけていた。
その瞳は、斗真の葬式の時に「殺してやりたい」と泣き叫んでいた京香の瞳と同じだった。
きっかけは、斗真が大事にしていた宝箱を勝手に開けようとしたことだった。
僕の家に三人姉弟が越してきた。京香と千夏とはすぐに打ち解けたけど、肝心の男である小学一年生の斗真とは、なかなか打ち解けることができなかった。
斗真は、どちらかというと内向的な性格だった。いつも京香の陰に隠れているような存在で、勉強もスポーツも全く駄目な奴だった。
当然、学校でもいじめられていて、泣いて帰ってきては、京香がいじめた相手の家に怒鳴り込みに行くのが日常だった。
そんな斗真が、七夕に向けて京香たちと短冊を作っていた。なにをお願いしたのか京香に聞いてみたけど、京香も千夏も知らされていなかった。
仲良くなるきっかけとして、短冊の願いを叶えてやろうと思い、宝箱に隠した短冊を盗み見ようとしたのが間違いだった。
斗真に見つかり、初めて感情をむき出しにして怒る斗真を見た。おかげで、情けないことをしたと思い、斗真を傷つけたことへの罪悪感に悩まされるようになった。
そんな気持ちにけじめをつけるために、僕はのり気を見せない斗真を、無理矢理自転車に乗せて町にくり出すことにした。
雲一つない快晴の空の下、斗真を後ろに乗せて坂を下ってゆく。交通量も大したことない田舎道。大丈夫だろうとスピードを上げ、斗真の悲鳴に頬が弛んだ時だった。
カーブにさしかかる直前、ずらりと並んだ工事中の看板が目に入った。一度は気を取られたけど、その時には既に遅かった。
交通誘導員の止まれの合図に反応が遅れ、ブレーキをかけた時には、車線変更していた車が目の前にあった。
鈍い衝撃の後、やけに空が近くに見えた気がした。けど、その直後に地面へと叩きつけられた僕は、なす術もなく意識を失った。
幸いにも全身打撲と軽い脳震盪ですみ、病院には二、三日入院するだけでよかった。気になったのは斗真の容態だったけど、父親が心配しなくていいと言った言葉を鵜呑みにした。
異変に気づいたのは七夕の夜だった。入院してから二日間、父親以外は誰も見舞いに来なかった。斗真を怪我させたから仕方ないと思っていたけど、血相を変えて現れた父親の顔を見て、それが間違いだと気づかされた。
正直、どこをどう歩いて集中治療室にたどり着いたのかは覚えていない。やけに重たそうな扉が開くと、泣き叫ぶ京香の姿が見えた。
宙を歩いているような感覚の中、どうしていいのかわからないといった顔で立ちつくしている千夏と目が合った。
集中治療室に入った時には、横たわっているのが斗真だとわからなかった。全身を包帯に巻かれ、いくつものチューブにつながれたそれが斗真だとわかった瞬間、僕はその場に崩れ落ちた。
斗真が苦しそうにうめき声を上げ、右手を懸命に上げていた。医者と看護師が慌ただしく動く中、僕は斗真の手を握ってひたすら祈り続けた。
時間にしたら一分もなかった。けど、やけに長く感じた絶望の中、ただひたすら斗真が助かることを祈り続けた。
そんな僕の都合のいい祈りなど届くわけもなく、斗真は最後に一際苦しげな声をもらすと同時に、僕の手を握り返した後、そのまま天国に旅立っていった。
葬式のことは記憶になかった。ただ泣き崩れる京香を遠くに感じていた。そして、京香に「殺してやりたい」と叫ばれ、左頬を激しく打たれたことだけは、いつも必ず夢の終わりに唐突に出てくる映像だった。
突然、夢から覚めた僕はベッドから飛ぶように身を起こした。全身が汗に濡れ、鼓動も呼吸も乱れまくっていた。
頭を抱えたまま、ゆっくりと収まるのをじっと待ち続けた。頭痛が頭の中から響き、覚醒しているはずなのに現実感がなかった。
「兄ちゃん、どうした?」
ふと声がして、豆電球に照らされた室内に目を向ける。物を置かない主義の部屋には、勉強机と丸テーブルしかない。丸テーブルのそばには、表情を失ったサラリーマンが立っていて、その横で薄ら笑いを浮かべるOL風の若い女性が座っていた。
その存在を無視して勉強机に目を向けると、ハナが笑いながら机に腰かけて足をぶらぶらさせていた。
「嫌な夢をみたんだ」
いつもなら相手をしないけど、今日はなぜかハナの問いかけに答えた。収まらない頭痛のせいだろうか。もしかしたら、やけにはっきりと睨みつける京香の顔を見たせいかもしれない。どっちにしても、耐えきれない後悔と罪悪感から逃れたくて、ハナに声をかけたのには間違いなかった。
「悪夢ってやつ?」
「そう、なるかな」
僕の気などお構いなしに、ハナが鼻歌を口ずさみながら、僕の隣に腰かけてきた。
「辛いことあった?」
「色々とね」
「なら、慰めてあげよっか?」
ハナはそう言うと、器用にできていると感心する花柄のワンピースを脱ごうとし始めた。
「ちょ、ストップストップ」
慌て僕が制止すると、ハナは意味深な笑みを僕に向けた。
「冗談に決まってるじゃない。いくら兄ちゃんでもお金はもらうよ」
「だから、そんなつもりは」
「わかってるって。冗談だよ。兄ちゃん、他の男の人と違うもんね」
ハナはそう言うと、にっこり笑って僕の背中を叩いてきた。といっても、叩かれた感覚はなく、ハナの手も僕の体をすり抜けていった。
そう、ハナは生きていない。言うなれば幽霊だ。丸テーブルのそばにいる二人も幽霊であり、斗真が亡くなってから、なぜか僕は幽霊が視えるようになっていた。
「それよりさ、とんでもない奴が舞い込んできたよね」
一瞬気まずい雰囲気になったけど、ハナが先に雰囲気を変えるかのように、タケルを押し込めてる押し入れを指さしながら口を開いた。
「聞いてたの?」
「うん。てか、あの姉ちゃん怖すぎ」
ハナが眉間にしわを寄せて僕を睨んでくる。京香を真似しているのか、その仕草がおかしくて笑ってしまった。
「まあ仕方ないよ。京香も思うことあってのことだから」
その思うことというのは、もちろん斗真のことになる。タケルを見て、京香が斗真を思わないわけがない。
「優しいんだね」
ハナが少しだけ首を傾げて僕を覗き込んできた。
「優しくなんかないよ。ただ逃げてるだけだよ」
「逃げてる?」
「そう。僕はね、京香の一番大切な人を奪ったんだ。なのに、向かい合うこともせずに逃げてるだけなんだ」
斗真がいなくなってから、僕と京香の間には決して埋まることのない溝ができた。それは京香も感じているはずだった。
だから、京香は絶対に僕に対して笑顔を向けることはない。向けるのは、殺したいくらいの憎悪だけだ。
「だから死んじゃうの?」
ハナはつまらないといった表情で、ベッドから飛び降りて勉強机に移動していった。
「そうなるかな」
「馬鹿みたい」
僕の言葉に、ハナが即答してきた。
「嫌になったから死ぬって、そんなの馬鹿だよ」
「わかってる」
「全然わかってないよ!」
出会ってから一度も取り乱したことのなかったハナが、急に真面目な顔で怒りだした。
「死ぬ意味もわかんないくせに、簡単に死ぬなんて言わないでよ。あいつだって――」
多分、生きていたら泣いてるくらいに、ハナが顔を歪ませた。
「あいつって?」
ハナの口から出たその言葉の意味を聞くと、ハナの顔が一瞬で固まった。
「知らない」
ハナは僅かに動揺した表情を見せた後、そっぽを向いてふて腐れたように呟いた。
こうなったら、ハナは自分の殻に閉じ籠ってしまう。短いつきあいだけど、それだけはすぐにわかったことだった。
ハナは自分のことを語らないし、聞かれるのを極端に嫌がる。だから、ハナがどんな人生を歩んでどんな終わりを迎えたのかは知らない。
ただ、普通ではないことはわかる。でも、こうして見たら、ちょっと変わってるけど普通の女の子にしか見えなかった。
「ごめん、悪かった」
ハナのタブーに触れたことを謝ると、ハナはため息をつきながら僕に顔を向けた。
「ま、なにがあったか知らないけど、姉ちゃんが兄ちゃんを憎んでいるとして、でも、どうして一緒に暮らしてるの?」
「え?」
「私だったら、憎んでいる人と一緒に暮らすのは無理かな。顔を合わせるのも嫌なら、お父さんかお母さんについて行くけどね」
ハナはそう言い残して姿を消していった。後には、相変わらず笑っている女性と、表情を失った男性の幽霊が僕を眺めているだけだった。
――なぜなんだろう?
ハナの言葉に、僕は自嘲気味に自問自答してみる。答えは簡単だ。京香は、僕のそばにいることで、斗真を死なせた罪を思い知らせてやろうとしているのだ。
長いため息をついて、僕は少しだけ声を出して笑った。
京香の目論見は成功している。おかげで僕は、ちゃんと自分で死ぬことを決めることができた。
――それに
薄暗い部屋を力なく見渡してみる。きっと斗真も京香の味方だと思う。
なぜなら、幽霊が視えるようになった僕の前に、斗真は一度も姿を現したことはないからだ。