「はぁ、はぁ、はぁ。」
私は、走っていた。
息が白くなるほど寒い日だったけど、私は頭に血が上っていて、寒さなんて感じなかった。
さっきお遣いに行った城下町で買った瓦版の内容が信じられなくて、とにかく今すぐ真相を聞きたかった。
伊月さんの屋敷に着くと、源次郎さんがいつものように出迎えてくれて、客間に通される。
「主は、庭で剣術の稽古をしております。終わるまでお待ちになりますか?」
「いいえ!今すぐ庭に行きます!」
私は、客間を飛び出して、庭先で素振りをする伊月さんに走り寄った。
「伊月さん!」
「な、那美どの? 来ておったのか?汗を流すのでちょっと...」
「待ちません! これを説明してください!」
私は、手に持っていた瓦版を伊月さんにグイッと突き出した。
「ん?」
瓦版には『亜国の国主の姪の一人、世里奈姫が共舘将軍と婚約』とある。
「本当なのですか?」
「あ、いや… まぁ、本当だが。」
「そんな…」
―― 本当だったんて…
私は脱力して、ヘナヘナとその場にしゃがみそうになった。
でも、伊月さんが私の体を支えた。
どこかで分かっていたはずだった。
伊月さんの結婚は、必ず政治に関係してくる。
何人も妻を持っていてもおかしくない。
現代日本人からしたら受け入れられない感覚だけど、尽世ではそれが普通だ。
特に伊月さんのような武士にもなれば、女の一人や二人いるのが普通だ。
なのに、なのに、どうしようもなく涙が止められなかった。
「うぅぅぅ。」
「那美どの、説明させてくれ。私は、嫁をもらう気など…」
「ううう。せめて、せめて、瓦版からじゃなくて、伊月さんから直接聞きたかった。」
「な、泣くな。話を聞け。そ、その雨雲は!雨雲は出すな!」
「あ、主! 我が家に雷が落ちるのだけは、どうかご勘弁下さい!」
「そ、そうだな。な、那美どの、私は世里奈姫とは結婚せぬ!」
「でも、でも、瓦版は本当だって言ったじゃないですか。」
「国主が勝手に決めたことだ。従う気はない。」
「本当...ですか?」
伊月さんは私を縁側に座らせて、自分も隣に座った。
「頼む。泣くな。そなたを抱きしめたいが背中の傷のせいでそれができぬ。」
伊月さんは私の頭を撫でた。
「もう、背中の傷はふさがっていますよ。かさぶたになっています。もう痛くないです。」
「そうか。ならば...」
伊月さんは私の体をぎゅっと抱きしめた。
「痛くないか?」
「痛くないです。」
私も伊月さんを抱きしめ返した。
「そんな縁談を勝手に決めた、生田の戦略が、わかるか?」
「可愛い姫君で伊月さんを篭絡して、メロメロにして、自分に歯向かわないようにするためですか? 私よりもずっとずっと可愛くて若い姫君で...うううう。ひゃぁ。」
伊月さんは突然私を抱えて、自分の膝の上に乗せた。
「な、何するんですか?」
「そなたを膝に乗せた。」
「そんなの分かってますよ。ひゃぁ。」
伊月さんは私の胸元に流れ落ちた涙をペロッと舐めた。
「世里奈どのとは結婚せぬ。心配するな。篭絡もされぬ。あのような高飛車で傲慢で生田の血を引いているということだけが自慢の頭がからっぽな女人など、メロメロになどなろうはずもない。」
―― めっちゃディスってる...
「そ、そんなの、どうして言い切れるんですか。伊月さんだって男の人です…。」
伊月さんは私の両肩を掴んで、私の目を間近で見つめた。
そして、ものすごく力を込めて言った。
「那美どの!!!!」
「なっ」
いきなり大声で名前を呼ばれて私はフリーズした。
「何故だ!何故分かってくれぬ!」
この声も大きくて耳が痛かった。
「私はそなたをこんなに...」
それは小さい声で全然聞こえなかった。
「え? 何て言ったんですか?」
「こんなに...」
そして何かをボソボソっと言って、顔を赤くした。
「な、何ですか。全然聞こえないですよ。伊月さん、将軍でしょう? もっとハッキリ大きな声で言って下さい!」
「うっ...分かった。」
伊月さんはおもむろに私を自分の膝からおろして、スクっと立ち上がった。
そして、一際大きな声で叫んだ。
「何故こんなにも、そなたを愛しているというのを分かってくれんのだ!!!!!!」
「へ?」
そこに、ちょうど、裏口から正次さんと平八郎さんが連れ立って入って来てフリーズした。
私は自分の顔がブワッと赤くなったのが分かった。
「あ、いや、私どもには構わずどうぞ…」
正次さんが気まずそうに固まっている私にそう言って、二人はそそくさと屋敷に入って行く。
伊月さんはまた縁側に座り直し、また私を膝の上に座らせた。
「私が好いておるのは、那美どのただ一人だ。他に女はいらぬ。何故それを分かってくれぬのだ。」
今度はしょぼくれたように言う。
「だって...そんなこと…、一言も言ってくれなかったじゃないですか。それどころか、武術大会以来、一度も好きだとも言われたことないです。」
「そ、そんなはずは…! いつも言っている。心の中で...」
「言ってませんよ。なのに、なのに、急に愛....だなんて!」
恥ずかしすぎて両手で顔を隠した。
「顔を隠すな。」
伊月さんが私の両手を掴んで顔から離そうとする。
「嫌です。」
「何故だ。顔を見せろ。」
「嫌です!」
伊月さんは無理矢理私の手を顔から離した。
「そもそもこの事を、そなたに伝えようとしたのだ。会いに来れるかと文を書いても忙しいと言っていたではないか。」
「そ、そうですけど...。」
「傷の事も心配だったのに、手当もさせてくれぬし...。私のことを避けていたようだった。」
「わ、私も色々と考える所があって。」
「どんな事だ?」
「伊月さんが紳士すぎるというか。」
「は?」
私はこのところちょっとした悩みがあった。
それは、伊月さんと、ものすごーく健全な関係が続いているということだ。
いや、健全なのはいいのだけど…
「このごろ伊月さん、会う度に背中の傷を見せろって言ってたじゃないですか。」
「ああ。それがどうした?」
「結構、着物脱がないといけないじゃないですか。」
「そうだな。」
「でも、でも、伊月さんすごい紳士じゃないですか。」
「何が言いたい? 」
「その、私って伊月さんにとって魅力ないのかなって... 」
「は?」
「あのダサいブラを見られたせいか、貧弱な胸のせいか、贅肉のせいか…」
「那美どのは私に何かされたかったのか?」
「なっななな何かって。そんな、そんな事は思いませんけど!」
伊月さんがニヤリと笑って、意地悪モードのスイッチが入ったのが分かった。
「何か、傷の手当以外に、してほしい事があるのか?」
そう言うと、私の背中をスッと撫で、私の肩がビクンと震えた。
「べ、べべべ、別にそういうわけじゃ…」
伊月さんは私の耳にキスをしてそのまま耳元でそっと囁いた。
「私は、我慢しているのだ。本当は那美どのをすぐにでも抱きたい。」
「な...」
「あの宇の湯治場では、ひどく反省したからな。それ以降、自分を厳しく律しておる。」
「あ、いや、そんなドヤ顔されても…。」
「忍耐戦は得意だしな。だから、そういうことは夫婦になってから、と決めたのだ。」
―― なに、それ…。
「えっと、伊月さんは私と夫婦になる気満々みたいなノリなんですか…?」
「那美どのと夫婦になる気は満々だし、そうしたい気持ちも、まっくすだ。」
「マックス...。」
「な、なんだ、那美どのはそうではないのか? もしかして私と夫婦になる気はないのか?」
伊月さんは急に捨てられた子犬みたいな顔をして、私の目をのぞきこんだ。
「な、なる気マックスです!」
伊月さんは破顔して、良かった、と言った。
―― そんな可愛い顔、ずるいよ。
「で、でも...、世里奈姫との縁談を断ったら、どうなるんですか?」
「そんなもの、亜の国主が変われば、どうとでもなる。」
そして、急に真顔になって小声で耳元でささやく。
「機は熟した。於が動いた。」
「え、じゃあ、ついに…」
「於国討伐の総大将には島田どのが任命された。数日後には私も援軍として遠征に出る。」
「伊月さん…。」
私は伊月さんの両手を握った。
「次に亜に帰ってくる時は、凱旋軍としてではなく、反乱軍としてだ。」
私は大きく頷いた。
「死ぬ気はない。だが、もし私が死んだら…ん!」
私はその後の言葉を押し込めるように、自分からキスをして、伊月さんの唇を塞いだ。
「な、ん...。」
自分から伊月さんの口に舌を差し入れた。
伊月はその舌をすぐに絡めとった。
「んっ...はっ...あ…」
唇を離して伊月さんを見つめる。
「伊月さんが死ぬ選択肢は私の人生にないです。お願いします。生きて帰って来るって約束してください。」
私は小指を差し出した。
伊月さんはうなずいて私の小指に自分の小指を絡めた。
伊月さんは笑って私の髪を梳いた。
「誰かが遠征の帰りを待ってくれているなんて初めてだ。」
伊月さんは私を膝から下した。
そして、改めて座りなおし、私に向かって正座をした。
―― なんだろう?
「那美どの、改めて聞く。」
「はい...。」
「私が帰ってきて、亜の城を取ったら、私と夫婦になってくれるか?」
―― えっと、これってプロポーズ? どうしよう。急展開すぎる。でも、嬉しい。
「は、はい!」
「約束だ。」
伊月さんはもう一度小指を突き出した。
私がその小指に自分の小指を絡めると、そこにキスを落とす。
―― どうしよう。すごく、嬉しい。
馬鹿みたいに嬉しくて、泣いてしまった私を、伊月さんはしばらく抱きしめていた。