私は手習い所の仕事の合間を縫って伊月さんの
屋敷に頻繁に出入りするようになった。
「那美どの、新しい家の者を紹介する、平八郎という。」
伊月さんが会わせてくれた人は源次郎さんより少し若い男性だった。
源次郎さんにも劣らずアイドル顔でニッコリ笑うとかわいい。
「はじめまして、那美様。平八郎と申します。」
「地方の豪族のもとにいたが、弓取の才があるので引き抜いて、今ここで暮らしている。だが家事は向かぬようで...」
「あらら」
伊月さんの屋敷の中が、源次郎さんがいたら絶対に有りえなかった状況になっている。
「平八郎に家事を教えてやってはくれぬか?」
「はい、もちろんです。」
「すみません、お恥ずかしいです。」
「ふふふ。大丈夫です。私に任せて下さい。伊月さんはお仕事に専念してくださいね。」
伊月さんの屋敷には色んな人が出入りする。
毎日文を届けに来る飛脚便の人、伊月さんが注文しておいた物を届けに来る人、剣術の稽古をしにくる人たち、伊月さんの軍で働く家来たち。
時々来客の対応をしつつ、私と平八郎さんは、料理、洗濯、掃除、何でも一緒にした。
「主に引き抜かれた時には天にも昇る心地でした。すぐに剣術の稽古をつけてもらえると思ったんですが、甘かったです。」
伊月さんは平八郎さんに家事ができるようにならないと、剣術の稽古が出来ないと言ったらしい。
「一体どうしてですか?」
「生活の基本がきちんと出来ぬ者に剣術はできぬと仰せでした。生活が乱れておる者は剣が乱れると。」
「そうなんですね。興味深い考え方です。」
おとり捜査の時も思ったけど、伊月さんのもとで働く人たちって統率が取れていて、役割分担もしっかりされているのか、働き方に無駄がない。
そういうのも日々の生活を整える力と関係してるのかな。
「私も主のように強くないたいですから、家事も頑張ります。」
平八郎さんはとても素直で誠実な人だ。
純粋に伊月さんを慕っている感じが伝わってくる。
「昨日の夜、源次郎様が帰って来られて、ついでに八咫烏さんも来られて、皆で那美様が作って下さっていた食事を食べました。」
「八咫烏さんまで来たんですか? 源次郎さんは本当に忙しそうですね。食事はお口に合いましたか?」
「すっごく美味しくて、皆びっくりしてました。」
「良かったぁ。皆さんの好みがまだわからないから。」
「那美様の料理を食べたあとに源次郎さんが作った物を食べられなくなると皆で笑って言っておりました。」
「大げさですよ。」
源次郎さんは武術大会の準備で忙しいらしくて帰って来るのがここのところ、おそいらしい。
時々源次郎さんが昼間に帰って来て家事をしようとするけど「那美様のおかげですることが全くございません。」と言っていた。
―― 少しでも役に立てたらいいんだけど。
伊月さんは本当に忙しくて、同じ屋敷にいても殆ど会話をする時間もない。
でも、伊月さんが仕事しているのを遠目に見ているだけで嬉しかった。
―― 仕事をする伊月さんも、カッコいいな。
平八郎さんの家事スキルが上がっていくと同時に仕事が出来るスピードが上がって、私が伊月さんの屋敷で過ごす時間もだんだん短くなっていく。
―― もう少し伊月さんとお話できたらな…
とは思うものの、キヨさんの一件以来、私は伊月さんにどう接していいか分からなくなっていた。
時々お仕事の合間を縫って、伊月さんが私の様子を見に来てくれるのだけど、何故か伊月さんの目をまっすぐに見られない。
この前も、「ひと段落ついたら、一緒にお茶でもどうか。」と伊月さんが言ってくれたけど、
「あ、あの、実は研究したいことがあって、早くタカオ山に戻らないと…。」
「そうか。」
伊月さんと話せて嬉しいはずなのに、何故かその場からすぐに立ち去りたい衝動が駆け巡る。
「ここの片づけ終わったら、今日はすぐに帰りますね。」
「ああ、あまり根をつめぬようにな。」
こんな感じで最近ずっと、無意識に伊月さんを避けてしまっている。
―― 一緒に時間が過ごせて嬉しいはずなのに、どうして?
今日も、伊月さんの屋敷での手伝いを終えて、いそいそと帰ろうとすると、伊月さんに呼び止められた。
「私ももうすぐオババ様の研究室に行くので一緒に行こう。あと四半刻ばかり待ってくれぬか。」
「あ、いえ、私、急ぎの用があるので、先に一人で帰ります。」
急ぎの用事なんてないって見え透いているのに、伊月さんは私の訳の分からない言い訳に対して、何も言わなかった。
でも、代わりに私の目をじっと見た。
挙動不審になっているのが自分でも痛いほど分かる。
思わず目をそらしてしまう。
「えと、失礼します。また、明日。」
私は居心地が悪くなって立ち去ろうとした。
ドンッ
―― え?
伊月さんは私の横にある壁に手をついて、私が行こうとするのを遮った。
「あの...?」
―― これって壁ドンってやつ?
「那美どの…。私に何か言いたい事はないか?」
伊月さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
距離が近くて急に心臓が騒ぎだす。
「い、言いたい事?」
「悩みがあったり、何か抱えていることがあるのではないか?」
―― こんな時までこの人は私の事を心配してくれてるんだ。
私は自分の馬鹿さ加減が嫌になった。
自分の子供っぽさのせいで、伊月さんに失礼な態度を取ってしまって、
それでも伊月さんは私が何か悩んでるんじゃないかって心配してくれて...。
―― こんな自分が大嫌い。
「うっ…」
無意識に、私の目に涙が溜まっていく。
「な、なぜ、泣く? はらでも痛いのか?」
―― 本当、なぜ泣いているんだろう。
伊月さんは大人の男の人だ。
他の女の人と時間を過ごすことくらいあるだろう。
それなのに、それだけで気になって気になって、こんな馬鹿みたいに挙動不審になっちゃうのは何故なんだろう。
―― そっか、私、伊月さんのこと…
不意にこの瞬間、私は自分の気持ちに気づいてしまった。
―― そっか、私、この人の事、好きなんだ。
私は改めて伊月さんの目を見た。
伊月さんのヒノキのお香の香りを感じる。
__ あぁ、やっぱり好きだな…
胸の奥がキュンとうずいた。
恋愛という恋愛をしたことがない私には手に持て余す感情だった。
「那美...どの...」
―― この人のこと独り占めしたいって思ったんだ。
何て馬鹿なんだろう。
伊月さんは人質とはいえ隣国の王子様で、沢山の武士を纏める将軍だ。
私みたいに何も持ってない異界の女が釣り合うわけもない。
なのに他の女性にヤキモチなんて、本当に馬鹿みたい。
「ごめんなさい…」
堪えようと思ったけれど、こらえきれずに涙が頬を伝った。
「な、那美どの?」
「いつか、きちんとお話しします。でも今日は無理…。ごめんなさい。」
私は伊月さんの腕をそっと押しのけた。
太くて傷だらけで頼もしい腕だ。
何度もこの腕に助けられた、愛しい腕だ。
「ま、待て。せめてこれを持っていけ。」
伊月さんは私の手を握って、自分の手拭いを乗せた。
「あ、ありがとうございます。」
私はそのまま伊月さんの顔を見らずに屋敷を飛び出した。
私の恋は、自分の気持に気付いたと同時に、ほぼ終わりを告げた。
屋敷に頻繁に出入りするようになった。
「那美どの、新しい家の者を紹介する、平八郎という。」
伊月さんが会わせてくれた人は源次郎さんより少し若い男性だった。
源次郎さんにも劣らずアイドル顔でニッコリ笑うとかわいい。
「はじめまして、那美様。平八郎と申します。」
「地方の豪族のもとにいたが、弓取の才があるので引き抜いて、今ここで暮らしている。だが家事は向かぬようで...」
「あらら」
伊月さんの屋敷の中が、源次郎さんがいたら絶対に有りえなかった状況になっている。
「平八郎に家事を教えてやってはくれぬか?」
「はい、もちろんです。」
「すみません、お恥ずかしいです。」
「ふふふ。大丈夫です。私に任せて下さい。伊月さんはお仕事に専念してくださいね。」
伊月さんの屋敷には色んな人が出入りする。
毎日文を届けに来る飛脚便の人、伊月さんが注文しておいた物を届けに来る人、剣術の稽古をしにくる人たち、伊月さんの軍で働く家来たち。
時々来客の対応をしつつ、私と平八郎さんは、料理、洗濯、掃除、何でも一緒にした。
「主に引き抜かれた時には天にも昇る心地でした。すぐに剣術の稽古をつけてもらえると思ったんですが、甘かったです。」
伊月さんは平八郎さんに家事ができるようにならないと、剣術の稽古が出来ないと言ったらしい。
「一体どうしてですか?」
「生活の基本がきちんと出来ぬ者に剣術はできぬと仰せでした。生活が乱れておる者は剣が乱れると。」
「そうなんですね。興味深い考え方です。」
おとり捜査の時も思ったけど、伊月さんのもとで働く人たちって統率が取れていて、役割分担もしっかりされているのか、働き方に無駄がない。
そういうのも日々の生活を整える力と関係してるのかな。
「私も主のように強くないたいですから、家事も頑張ります。」
平八郎さんはとても素直で誠実な人だ。
純粋に伊月さんを慕っている感じが伝わってくる。
「昨日の夜、源次郎様が帰って来られて、ついでに八咫烏さんも来られて、皆で那美様が作って下さっていた食事を食べました。」
「八咫烏さんまで来たんですか? 源次郎さんは本当に忙しそうですね。食事はお口に合いましたか?」
「すっごく美味しくて、皆びっくりしてました。」
「良かったぁ。皆さんの好みがまだわからないから。」
「那美様の料理を食べたあとに源次郎さんが作った物を食べられなくなると皆で笑って言っておりました。」
「大げさですよ。」
源次郎さんは武術大会の準備で忙しいらしくて帰って来るのがここのところ、おそいらしい。
時々源次郎さんが昼間に帰って来て家事をしようとするけど「那美様のおかげですることが全くございません。」と言っていた。
―― 少しでも役に立てたらいいんだけど。
伊月さんは本当に忙しくて、同じ屋敷にいても殆ど会話をする時間もない。
でも、伊月さんが仕事しているのを遠目に見ているだけで嬉しかった。
―― 仕事をする伊月さんも、カッコいいな。
平八郎さんの家事スキルが上がっていくと同時に仕事が出来るスピードが上がって、私が伊月さんの屋敷で過ごす時間もだんだん短くなっていく。
―― もう少し伊月さんとお話できたらな…
とは思うものの、キヨさんの一件以来、私は伊月さんにどう接していいか分からなくなっていた。
時々お仕事の合間を縫って、伊月さんが私の様子を見に来てくれるのだけど、何故か伊月さんの目をまっすぐに見られない。
この前も、「ひと段落ついたら、一緒にお茶でもどうか。」と伊月さんが言ってくれたけど、
「あ、あの、実は研究したいことがあって、早くタカオ山に戻らないと…。」
「そうか。」
伊月さんと話せて嬉しいはずなのに、何故かその場からすぐに立ち去りたい衝動が駆け巡る。
「ここの片づけ終わったら、今日はすぐに帰りますね。」
「ああ、あまり根をつめぬようにな。」
こんな感じで最近ずっと、無意識に伊月さんを避けてしまっている。
―― 一緒に時間が過ごせて嬉しいはずなのに、どうして?
今日も、伊月さんの屋敷での手伝いを終えて、いそいそと帰ろうとすると、伊月さんに呼び止められた。
「私ももうすぐオババ様の研究室に行くので一緒に行こう。あと四半刻ばかり待ってくれぬか。」
「あ、いえ、私、急ぎの用があるので、先に一人で帰ります。」
急ぎの用事なんてないって見え透いているのに、伊月さんは私の訳の分からない言い訳に対して、何も言わなかった。
でも、代わりに私の目をじっと見た。
挙動不審になっているのが自分でも痛いほど分かる。
思わず目をそらしてしまう。
「えと、失礼します。また、明日。」
私は居心地が悪くなって立ち去ろうとした。
ドンッ
―― え?
伊月さんは私の横にある壁に手をついて、私が行こうとするのを遮った。
「あの...?」
―― これって壁ドンってやつ?
「那美どの…。私に何か言いたい事はないか?」
伊月さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
距離が近くて急に心臓が騒ぎだす。
「い、言いたい事?」
「悩みがあったり、何か抱えていることがあるのではないか?」
―― こんな時までこの人は私の事を心配してくれてるんだ。
私は自分の馬鹿さ加減が嫌になった。
自分の子供っぽさのせいで、伊月さんに失礼な態度を取ってしまって、
それでも伊月さんは私が何か悩んでるんじゃないかって心配してくれて...。
―― こんな自分が大嫌い。
「うっ…」
無意識に、私の目に涙が溜まっていく。
「な、なぜ、泣く? はらでも痛いのか?」
―― 本当、なぜ泣いているんだろう。
伊月さんは大人の男の人だ。
他の女の人と時間を過ごすことくらいあるだろう。
それなのに、それだけで気になって気になって、こんな馬鹿みたいに挙動不審になっちゃうのは何故なんだろう。
―― そっか、私、伊月さんのこと…
不意にこの瞬間、私は自分の気持ちに気づいてしまった。
―― そっか、私、この人の事、好きなんだ。
私は改めて伊月さんの目を見た。
伊月さんのヒノキのお香の香りを感じる。
__ あぁ、やっぱり好きだな…
胸の奥がキュンとうずいた。
恋愛という恋愛をしたことがない私には手に持て余す感情だった。
「那美...どの...」
―― この人のこと独り占めしたいって思ったんだ。
何て馬鹿なんだろう。
伊月さんは人質とはいえ隣国の王子様で、沢山の武士を纏める将軍だ。
私みたいに何も持ってない異界の女が釣り合うわけもない。
なのに他の女性にヤキモチなんて、本当に馬鹿みたい。
「ごめんなさい…」
堪えようと思ったけれど、こらえきれずに涙が頬を伝った。
「な、那美どの?」
「いつか、きちんとお話しします。でも今日は無理…。ごめんなさい。」
私は伊月さんの腕をそっと押しのけた。
太くて傷だらけで頼もしい腕だ。
何度もこの腕に助けられた、愛しい腕だ。
「ま、待て。せめてこれを持っていけ。」
伊月さんは私の手を握って、自分の手拭いを乗せた。
「あ、ありがとうございます。」
私はそのまま伊月さんの顔を見らずに屋敷を飛び出した。
私の恋は、自分の気持に気付いたと同時に、ほぼ終わりを告げた。