次の日、手習い所の仕事が終わり、研究室に行くと、オババ様が、今日は城下町に出かけるので、ついて来いという。
人混みの嫌いなオババ様が、人にお遣いを頼まずに自分で行くなんて、めずらしいな。
「今日は八咫烏も連れていく。」
と、言うので、ますますめずらしい。
オババ様と、呼び出された八咫烏さんと、三人で亜国の城下町に来た。
今日も亜国の城下は賑わっている。
「人混みは好かぬ。さっさと用を済ませて帰ろうか。」
オババ様は正次さんの企画した武術大会にお酒を贈るらしく、酒屋に向かう。
「オババ様、まさか、俺に荷物持ちをさせるつもりじゃないだろうな。」
八咫烏さんが言う。
「そのまさかじゃ。察しがいいな。」
「やっぱりか!」
八咫烏さんがガクっと頭を垂れたが、オババ様が八咫烏さんにも酒をやるから、というと
「それならば仕方がないな。」
と、荷物持ちの役に納得したようだった。
城下町では行く先々で、オババ様に声をかけてくる人がいる。
「オババ様、先日は雨乞いをして下さってありがとうございます。おかげで野菜の仕入れが滞りなくできています。」
町の人が次々とオババ様を見つけ、近寄っていく。
「うん、それは何よりじゃ。」
「オババ様、川の堰を直して下さってありがとうございます。おかげで今年は洪水がありませんでした。」
「ん。また何かあれば頼るが良い。」
前から思っていたけど、オババ様は、町の人たちからずいぶん慕われているんだな。
歓迎ムードの町人たちの反応に関心していると、誰かから呼びとめられた。
「那美先生」
名前を呼ばれて振り向くといつも手習い所にくる生徒さんのご主人だった。
「家内に算術を教えて頂きありがとうございます。おかげで家の家計が助かっております」
「あ、いえ。それは何よりです。」
少し立ち話をした後、その人は何度も頭を下げながら帰って行った。
「那美もなかなか町の者たちと馴染んでいるようだな。」
オババ様が感心したように言った。
「そうですね、手習い所でもタカオ大社でも色んな人に会いますから。オババ様の所の巫女っていうだけで良くしてくれます。」
「いや、那美の順応が早いのじゃ。」
お目当ての酒屋に着いて、オババ様は私と八咫烏さんに外で待つように言いつけ、自分は店の中に入って行った。
その時…
「八咫烏様!」
「城下にいらしてたんですねー!」
黄色い声が聞こえてきて、大勢の町娘たちが近寄ってきた。
―― わっ
きゃあきゃあと騒ぐ女の人たちがぐるりと八咫烏さんを囲み、私は輪から弾きだされた。
―― えっとー、あのー?
「八咫烏様、町に降りてくるなんて、めずらしいですね!」
「八咫烏様、お久しぶりです!会いたかったんですよ!」
「私もです、文を出したのに返事をくれなくて、つれないですわ。」
「ごめんな。もうちょっと落ち着いたらゆっくり返事を書くからな。」
―― す、すごいモテっぷりだ・・・
私は唖然として様子をみるほかない。
この前、自分には人間の女の方から寄ってくるって豪語してたけど、本当だったんだ。
妙に感心して眺めていると
―― あれ…???
遠巻きに伊月さんの姿が見えた。
―― あ! 伊月さんだ!
挨拶をしようと駆け寄ろうとするけど
―― え…
足が止まった。
よく見ると伊月さんは女の人と一緒だった。
―― きれいな、人、だな…。誰だろう…?
伊月さんにいつものように声をかけて、誰ですか?って聞けばいいのに、なぜか胸の奥がきしむような感覚に覆われて一歩も動けなくなった。
見たくないという気持ちもあるのに、なぜか目をそらせない。
―― 私、どうしちゃったんだろう...
「こらこら、俺はオババ様のお遣いで町にきているのだ。これでは仕事ができないだろ。」
八咫烏さんが女性たちをなだめる声が後ろから聞こえる。
「お仕事の邪魔はできませんね。」
「また城下に出てきて下さいね。」
それぞれに挨拶しながら女性たちは一人、また一人と去っていったようだった。
私はまだ伊月さんの様子を見ながら固まっている。
二人は店の前で何か買い物をしているようだった。
―― あの店は確か…
伊月さんがいつか私を連れて行ってくれた女物の反物や髪飾りが売ってあるお店だ。
―― あの女の人に何か買ってあげてるのかな…って、私には関係ないことだ。
慌てて見ないようにうつむいた時、
「お? あれは伊月だな?」
町娘の輪がなくなり、八咫烏さんが伊月さんに気がついたみたいだ。
「おい、伊月―!あ、キヨも一緒か! 久しいな!」
八咫烏さんがひらひらと手を振ると、伊月さんもこちらに気づき近づいてくる。
「人だかりができてると思ったら、八咫烏だったのか。」
「まぁ、いつものように女達が俺を放っておかなくてな。」
伊月さんと一緒にいる女性も伊月さんの後ろをついてきて、私たちに向かってゆっくりと頭を下げる。
―― うわー、近くで見るとさらにきれいだ!
騒ぐ胸を押さえながら、平静を装い、私も頭を下げる。
「ん? 伊月と、キヨも一緒か。」
そこにオババ様が店から出てきて、伊月さんと連れの女性に声をかける。
「はい。オババ様、お久しぶりでございます。」
キヨと呼ばれた女性はにっこりとほほ笑む。
―― す、すごいっこの美女スマイルの破壊力!
「私はそろそろおいとましますね、伊月様。」
キヨさんは伊月さんにも100万ボルトの笑みを向けた。
「わかった。」
「では、皆さま、失礼します。」
キヨさんは皆におじぎをして、優雅に去っていった。
―― 誰だろう、あの人。
―― もしかして、伊月さんの彼女かなぁ。オババ様も八咫烏さんも、あの人のこと知ってるみたいだし。
キヨさんの後ろ姿を眺めながら、私は胸が騒ぐのを抑えられなかった。
伊月さんときよさんは並んで歩いてると、とてもお似合いだった。
きよさんは、スラっと背が高くてスタイル抜群。
着物もとても綺麗な物を着ていた。
―― デートのための勝負服ってやつかな?
それに、キヨさんが歩くと、すれ違う男の人たちが振り返っていた。
かなりの美人だ。
「…と、いうわけだ、どうだ、那美。」
―― え?
私に話しかけられていると気がついてはっとする。
「聞いてなかったのか。」
オババ様が私の顔を覗き込んだ。
「す、すみません、考え事してて。」
オババ様、八咫烏さん、伊月さん、私は、お酒を買って、タカオ山まで運んでいる途中だ。
歩きながらも、私はさっき仲良さそうにお店を見ていた二人の光景を忘れられずにいた。
「いつもヘラヘラして能天気なオヌシが考え事などとは、めずらしいのぅ。」
オババ様は私が何を考えているのか気づいたみたいに、不適な笑みを浮かべた。
そこに、八咫烏さんがスッと寄ってきて、言った。
「那美、何か悩みがあるなら俺に言えよ?」
「あ、はい。ありがとうございます。で、でも、何でもないです。大丈夫。」
―― キヨさんのことが気になるとは言えない。
何とかごまかそうとしていると、オババ様が話を戻す。
「せっかく城下に来たのだから、何か欲しいものを買ってやると言っている。」
「え?」
「何でも欲しいものを言え。ワシが買ってやるぞ。」
「あ、いえ、特に欲しい物はないです。オババ様の所では何不自由なくさせてもらってますし。」
伊月さんが溜息をもらす。
「私も那美どのに何かおとり捜査の礼を差し上げたいが、何も要らないと言うばかりだ。」
八咫烏さんも溜息をもらす。
「お前も無欲なやつだな。綺麗な着物や簪でも買ってもらったらどうだ?」
「いや、別にそういうのは…。」
特にほしい物も思いつかない。
「じゃあ、物じゃなくても、何か叶えたい願いはないのか? 行きたい所とか?」
八咫烏さんが提案してくれる。
「願い? 行きたい所?」
強いて言えば、もっと伊月さんと一緒に時間を過ごしたい。
また、あの月がきれいに見える、月の峠に行きたい。
でも、いくつもの厄介事を抱えて忙しそうにしている伊月さんにそんな我儘を言いたくない。
それから、さっきのキヨさんって人が誰なのか、どんな関係なのか知りたい。
でも聞きたくない。
「那美どの、今思い浮かばなくとも、お礼の件、よく考えておいて欲しい。」
「わ、わかりました。」
何故か伊月さんの目を真っすぐ見ることができずに視線をそらしてしまった。
「そういえば、伊月、今日も源次郎がおらんのぅ。」
ふとオババ様が言う。
「別の用事にやっております。」
「よほど手が足りておらんようだな。」
「そうなのです。はやく人を雇わねば。」
「那美、オヌシ伊月の所でしばらく手伝え。」
「え?」「は?」
オババ様の提案に伊月さんも私も同時にびっくりする。
「オヌシの作っておる、あの、らいたー?とかいう火付け具も出来たし、研究室の方はしばらく休んで、手習い所の仕事の後に伊月の家に行け。」
「だがオババ様、我が家のようなむさ苦しい男所帯に...」
「わ、私で良ければ、お手伝いさせて下さい!」
私は伊月さんの言葉を遮った。
もっと伊月さんと一緒に時間を過ごせるチャンスだ。
伊月さんの役に立てるかもしれないなら、なおさら手伝いたい。
―― もしかしてオババ様、私の考えが読めるの?
「そうか? そうしてくれれば我が家は助かるのだが。」
「決まりだな。」
オババ様が決定した。
「那美が伊月の所に入り浸りになるのは面白くねぇな。俺もちょこちょこ様子を見に行く。」
八咫烏さんがいたずらを企ててる子供みたいに口の端を吊り上げて言う。
「八咫烏は来なくていい。」
「いや、行く!」
皆でワイワイ言いながらタカオ山までお酒を運んでいる間も、
私はキヨさんの事ばかり考えて、気持ちに靄がかかったみたいだった。