今朝は三日間降り続けていた雨がようやく止んだ
いよいよ春も終わり、よく雨が降るようになった。
さみだれの季節が始まったらしい。
「小雪ちゃん、何を書いてるの?」
私は手習い所に通う15歳の女の子に声をかけた。
「す、すいません、落書きしてて…」
私に怒られると思ったのか、小雪ちゃんはとっさに紙を隠した。
「見てもいい?」
小雪ちゃんはおずおずと私に紙を渡す。
「小雪ちゃん、これって…、落書きのレベルを超えてるんだけど!」
「れべる?」
小雪ちゃんが描いていたのは鎧を着た強そうな侍の絵だった。
ものすごい細かいところまで、思わず息をのむほどしっかり描けている。
「すっごく上手ってこと!」
「え?」
「小雪ちゃん、絵の才能があるのね!」
「あ、ありがとうございます。」
私の反応が意外だったのか、小雪ちゃんはビックリしたように、でも嬉しそうに言った。
「これって、誰か特定のお侍さん?」
「さっきお仙さんが鬼武者の話をしていたので想像で鬼武者を描いてみました。」
鬼武者って怖がられてるけど、何故か人気っていうか、話題が絶えないみたい。
畏敬の念っていうのかな。
「小雪ちゃん、提案があるのだけど。」
「な、何でしょう?」
「今日、皆で読んだ内容をかみ砕いて、要約して、絵を付けて解説できないかな。」
「絵を付けて?」
「うん。小雪ちゃんは、しばらくこの手習い所に通ってるから、だいぶ読み書きもできるけど、ここに通い始めたばかりの人でも分かりやすいように、絵がついてる解説書があるといいと思うの。そういうの作ってくれないかな?」
「私で良ければ、喜んで!」
今日習った所の復習にもなるから一石二鳥になるなと思って頼んでみたら、小雪ちゃんは嬉しそうに引き受けてくれた。
それから、小雪ちゃんは、私にその鬼武者の絵を差し出した。
「これ、先生にあげます。」
「いいの?」
小雪ちゃんは絵をほめられたのは初めてだと言って嬉しそうにその絵をくれた。
私は教室の後ろに生徒の作品を貼り付けるコーナーを作ることにする。
こんな感じで、おとり捜査以来、私はしばらく平和な暮らしをしていた。
―― あの女の人たちも無事にお家に帰れて良かった。
伊月さんたちは生け捕りにした犯人たちからの情報と、捕まっていた女性たちからの情報を元に、他の拠点も見つけ出し、さらに15人の女性を救助した。
中には身寄りがなく、届け出も出されていない人もたくさんいたようだった。
伊月さんたちは、そういう人のために行先を見つけてあげたり、住み込みで働ける所を斡旋したりした。
―― 伊月さんたち、すごいな。亜国の国主が見捨てていた女性たちを救ったんだ。
お姉さんが突然いなくなってタカオ神社に毎日お参りに来ていた氏子さんのお姉さんも見つかったらしい。
足を怪我していた琴さんという女性が、その子のお姉さんだったらしい。
また、たくさん小豆をくれたから、たくさんおはぎを作った。
伊月さんは今もまだ忙しそうで、この件のさらなる調査に加えて、時々出る魔獣の討伐もしていた。
私の方はびっくりするくらいのんびり平和な暮らしを堪能している。
家事をして、手習い所で教える仕事をして、午後はカムナリキの研究をして終わる。
時々、城下町に行ったり、お仙さんたちとお茶したり、伊月さんの所にお遣いに行ったり、適度に息抜きもできてる。
―― でも、もうちょっと伊月さんとゆっくりお話しできたらいいな。
最近、伊月さんのことばかり考えてる。
時々、どうしてこんなに伊月さんのことばかり考えているのだろうと自問する。
伊月さんは私がこの尽世に来た時に、助けてくれた命の恩人で、とても優しい人だ。
個人的にはお友達だと思っている。
―― でも、これってお友達に対する気持ちなのかな?
教室の片付けをしながら、手習い所の窓から今にも雨が降りそうな曇り空を見上げた。
―― 伊月さん、今頃何してるかな。
そこにバタバタと羽音がして、窓に吉太郎がやって来た。
「那美、伊月が来るぞ。」
「え?」
吉太郎はすぐに飛び立って見えなくなる。
さっきまで会いたいと思っていた人が来ると聞いて、不意に気持ちが弾む。
「那美どの。」
すぐに、手習い所の入口から伊月さんが姿を表した。
「伊月さん、こんにちは!」
思わず嬉しくて駆け寄っていく。
「傷はどうか?」
そういって伊月さんは私の手を取り、手首の傷を確かめる。
この所、会うたびにこうやって、傷を確認されている。
伊月さんに触れられているところから熱が広がった。
「もう傷跡、消えました。完治ですよ。」
「そのようだな。」
伊月さんは、手習い所を見回した。
この小屋が手習い所になってから伊月さんがここに来るのは初めてだ。
「黒鍬衆たちは上手く修繕したようだな。」
「おかげ様で。少し座りますか? お茶、ありますよ。」
「じゃあ、頂く。」
体の大きな伊月さんが机の前に座ると、机がひと際小さく見えた。
お茶を出して、私も一服する体制を整える。
「今日は源次郎さんはいないんですか?」
伊月さんが一人で行動するって結構めずらしい。
「ああ。別の用事にやっている。」
伊月さんたちの所は人手不足が深刻らしく、正次さんが、以前提案していた、新しい人材をスカウトするための、武術大会を開催する準備を進めていると聞いた。
源次郎さんもそのお手伝いをしているのかも。
「ここは、ただのボロ小屋だったが、随分と変わったな。那美どのと同じで活気に満ち溢れている。」
「伊月さんたちの、おかげです。」
「私もこの小屋で勉学に励んだものだ。」
「え? 前もここは手習い所だったんですか?」
「そんな立派なものじゃない。生徒は八咫烏と私だけだが、八咫烏はほとんどサボっていた。私は学問に取り組んでおったがな。」
伊月さんのおうちには本が沢山あったのを思い出す。
きっと勉強家なんだろうな。
「先生はオババ様ですか?」
「基本的なことを教えてもらったのはオババ様だが、その後にオババ様が師を雇ってくれた。太元法師という。」
「どんなことを勉強したんですか?」
「主に政治に関わることだ。史記、地政学、兵法、法律などだ。」
この前、伊月さんを膝枕しながら読んだ本もとても難しかった。
あれも地政学の本だったな。
「ん? その絵は?」
小雪ちゃんがくれた鬼武者の絵が目に留まったらしい。
「鬼武者ですよ。生徒が描いてくれたんです。」
「ほう、良くかけているな。」
「泣く子も黙る鬼武者って本当にいるんですか?」
伊月さんも同じ亜国の将軍なのだから何か知っているかもしれない。
「すごく強くて大きな魔獣も倒せるけど、戦の時に乱捕りをしたり、女の人をさらって食べてしまったとか、すごい噂なんです。」
「...乱捕り?そんなことはしない。」
あ、やっぱり知ってるんだ。
きっと同僚だよね?
「やっぱり噂は誇張されてるんですね。いつも面具をつけているのも人間じゃないからとか、醜くく恐ろしい顔だからとか聞きました。それもただの噂なんですか?」
「顔が醜く恐ろしいのは本当かもな。」
「へぇ。どんな人なんだろう。」
「那美どのの良く知っている者だ。」
「へ?」
私は一瞬フリーズして、伊月さんの顔を見る。
「もしかして、それって!」
「鬼武者は私のことだ。」
「えぇぇぇ!え、いや、全然醜くないし!一体どうして、そんな噂になってるんですか?魔獣や子供や女の人を食べるみたいに言われてましたよ!」
「ははは。さぁな。」
伊月さんは、うわさなんて全く気にならないように笑う。
「ひどいです!こんなに優しくてかっこいい人なのに!」
「そんな事を世辞でも言ったのは尽世のどこを探しても那美どのだけだ。」
「もう、お世辞じゃないです!」
伊月さんは自分の事を醜いって思ってるみたいだけど、私からみたら結構ハンサムだと思う。
髭があって、あんまり笑わないし、顔に傷があるから、パッと見は強面だけど、
笑うと少年ぽいし、時々笑った時のギャップがすごい。
不意に先日、伊月さんが私の膝を枕に仮眠を取ったことを思い出した。
―― 伊月さんの寝顔、すごく可愛かったな。
その後、伊月さんは明け方に起きて、寝てしまった自分に驚いたようだった。
すまん、許せって何度も謝っていたけど、あんな寝顔見られたんだから、私としては得した気分なんだけどな。
―― って今考えることじゃないよね!
「鬼武者が女を食べるという噂が立ったのは、江の国との小競り合いの時からだったな。私が気を失っていた那美どのを運んでいたから、それを見た者がいたのだろう。」
「えっ、それって私のせい?」
「誰のせいでもない。ただ人は噂話をして物語を作るのが好きなだけだ。」
伊月さんは苦笑いをしながらお茶を飲む。
―― 物語か、確かにそうだな。
「さて、那美どの。先日の礼をせねばならぬが、何かと忙しく、きちんと礼ができていない。」
「へ? 礼って?」
「かどわかしの件に力を貸してくれたことだ。」
「そんな、お礼なんて要りません。」
私は伊月さんに命を助けてもらった恩返しをしようとしてるのに、ここでお礼なんて貰ったら、恩返しできない。
「伊月さんにはもう沢山色んなものを貰ってるし、してもらってるし、充分です。」
「しかし…。」
「それよりも、伊月さんは今すごく忙しいじゃないですか? 体調とか壊したりしないようにしてくださいね。」
この前も具合が悪いって源次郎さんが言ってたけど普通に危ない捜査してたし。
私は伊月さんの顔を覗きこむ。
「那美どのは心配性だな。」
そう言うと、伊月さんは大きな手のひらを私の頭に乗せて、ポンポンと子供をあやすような仕草をした。
一瞬のことだったのに何故か鼓動がどうしようもなく速くなるのを感じる。
「今日も研究室に行くんですか?」
最近、伊月さんは調べものをしているらしく、オババ様のカムナリキ研究室によく訪れる。
「ああ。那美どのも研究室に行くか?」
「はい。」
私たちは一緒に研究室に向かって歩き出した。
いよいよ春も終わり、よく雨が降るようになった。
さみだれの季節が始まったらしい。
「小雪ちゃん、何を書いてるの?」
私は手習い所に通う15歳の女の子に声をかけた。
「す、すいません、落書きしてて…」
私に怒られると思ったのか、小雪ちゃんはとっさに紙を隠した。
「見てもいい?」
小雪ちゃんはおずおずと私に紙を渡す。
「小雪ちゃん、これって…、落書きのレベルを超えてるんだけど!」
「れべる?」
小雪ちゃんが描いていたのは鎧を着た強そうな侍の絵だった。
ものすごい細かいところまで、思わず息をのむほどしっかり描けている。
「すっごく上手ってこと!」
「え?」
「小雪ちゃん、絵の才能があるのね!」
「あ、ありがとうございます。」
私の反応が意外だったのか、小雪ちゃんはビックリしたように、でも嬉しそうに言った。
「これって、誰か特定のお侍さん?」
「さっきお仙さんが鬼武者の話をしていたので想像で鬼武者を描いてみました。」
鬼武者って怖がられてるけど、何故か人気っていうか、話題が絶えないみたい。
畏敬の念っていうのかな。
「小雪ちゃん、提案があるのだけど。」
「な、何でしょう?」
「今日、皆で読んだ内容をかみ砕いて、要約して、絵を付けて解説できないかな。」
「絵を付けて?」
「うん。小雪ちゃんは、しばらくこの手習い所に通ってるから、だいぶ読み書きもできるけど、ここに通い始めたばかりの人でも分かりやすいように、絵がついてる解説書があるといいと思うの。そういうの作ってくれないかな?」
「私で良ければ、喜んで!」
今日習った所の復習にもなるから一石二鳥になるなと思って頼んでみたら、小雪ちゃんは嬉しそうに引き受けてくれた。
それから、小雪ちゃんは、私にその鬼武者の絵を差し出した。
「これ、先生にあげます。」
「いいの?」
小雪ちゃんは絵をほめられたのは初めてだと言って嬉しそうにその絵をくれた。
私は教室の後ろに生徒の作品を貼り付けるコーナーを作ることにする。
こんな感じで、おとり捜査以来、私はしばらく平和な暮らしをしていた。
―― あの女の人たちも無事にお家に帰れて良かった。
伊月さんたちは生け捕りにした犯人たちからの情報と、捕まっていた女性たちからの情報を元に、他の拠点も見つけ出し、さらに15人の女性を救助した。
中には身寄りがなく、届け出も出されていない人もたくさんいたようだった。
伊月さんたちは、そういう人のために行先を見つけてあげたり、住み込みで働ける所を斡旋したりした。
―― 伊月さんたち、すごいな。亜国の国主が見捨てていた女性たちを救ったんだ。
お姉さんが突然いなくなってタカオ神社に毎日お参りに来ていた氏子さんのお姉さんも見つかったらしい。
足を怪我していた琴さんという女性が、その子のお姉さんだったらしい。
また、たくさん小豆をくれたから、たくさんおはぎを作った。
伊月さんは今もまだ忙しそうで、この件のさらなる調査に加えて、時々出る魔獣の討伐もしていた。
私の方はびっくりするくらいのんびり平和な暮らしを堪能している。
家事をして、手習い所で教える仕事をして、午後はカムナリキの研究をして終わる。
時々、城下町に行ったり、お仙さんたちとお茶したり、伊月さんの所にお遣いに行ったり、適度に息抜きもできてる。
―― でも、もうちょっと伊月さんとゆっくりお話しできたらいいな。
最近、伊月さんのことばかり考えてる。
時々、どうしてこんなに伊月さんのことばかり考えているのだろうと自問する。
伊月さんは私がこの尽世に来た時に、助けてくれた命の恩人で、とても優しい人だ。
個人的にはお友達だと思っている。
―― でも、これってお友達に対する気持ちなのかな?
教室の片付けをしながら、手習い所の窓から今にも雨が降りそうな曇り空を見上げた。
―― 伊月さん、今頃何してるかな。
そこにバタバタと羽音がして、窓に吉太郎がやって来た。
「那美、伊月が来るぞ。」
「え?」
吉太郎はすぐに飛び立って見えなくなる。
さっきまで会いたいと思っていた人が来ると聞いて、不意に気持ちが弾む。
「那美どの。」
すぐに、手習い所の入口から伊月さんが姿を表した。
「伊月さん、こんにちは!」
思わず嬉しくて駆け寄っていく。
「傷はどうか?」
そういって伊月さんは私の手を取り、手首の傷を確かめる。
この所、会うたびにこうやって、傷を確認されている。
伊月さんに触れられているところから熱が広がった。
「もう傷跡、消えました。完治ですよ。」
「そのようだな。」
伊月さんは、手習い所を見回した。
この小屋が手習い所になってから伊月さんがここに来るのは初めてだ。
「黒鍬衆たちは上手く修繕したようだな。」
「おかげ様で。少し座りますか? お茶、ありますよ。」
「じゃあ、頂く。」
体の大きな伊月さんが机の前に座ると、机がひと際小さく見えた。
お茶を出して、私も一服する体制を整える。
「今日は源次郎さんはいないんですか?」
伊月さんが一人で行動するって結構めずらしい。
「ああ。別の用事にやっている。」
伊月さんたちの所は人手不足が深刻らしく、正次さんが、以前提案していた、新しい人材をスカウトするための、武術大会を開催する準備を進めていると聞いた。
源次郎さんもそのお手伝いをしているのかも。
「ここは、ただのボロ小屋だったが、随分と変わったな。那美どのと同じで活気に満ち溢れている。」
「伊月さんたちの、おかげです。」
「私もこの小屋で勉学に励んだものだ。」
「え? 前もここは手習い所だったんですか?」
「そんな立派なものじゃない。生徒は八咫烏と私だけだが、八咫烏はほとんどサボっていた。私は学問に取り組んでおったがな。」
伊月さんのおうちには本が沢山あったのを思い出す。
きっと勉強家なんだろうな。
「先生はオババ様ですか?」
「基本的なことを教えてもらったのはオババ様だが、その後にオババ様が師を雇ってくれた。太元法師という。」
「どんなことを勉強したんですか?」
「主に政治に関わることだ。史記、地政学、兵法、法律などだ。」
この前、伊月さんを膝枕しながら読んだ本もとても難しかった。
あれも地政学の本だったな。
「ん? その絵は?」
小雪ちゃんがくれた鬼武者の絵が目に留まったらしい。
「鬼武者ですよ。生徒が描いてくれたんです。」
「ほう、良くかけているな。」
「泣く子も黙る鬼武者って本当にいるんですか?」
伊月さんも同じ亜国の将軍なのだから何か知っているかもしれない。
「すごく強くて大きな魔獣も倒せるけど、戦の時に乱捕りをしたり、女の人をさらって食べてしまったとか、すごい噂なんです。」
「...乱捕り?そんなことはしない。」
あ、やっぱり知ってるんだ。
きっと同僚だよね?
「やっぱり噂は誇張されてるんですね。いつも面具をつけているのも人間じゃないからとか、醜くく恐ろしい顔だからとか聞きました。それもただの噂なんですか?」
「顔が醜く恐ろしいのは本当かもな。」
「へぇ。どんな人なんだろう。」
「那美どのの良く知っている者だ。」
「へ?」
私は一瞬フリーズして、伊月さんの顔を見る。
「もしかして、それって!」
「鬼武者は私のことだ。」
「えぇぇぇ!え、いや、全然醜くないし!一体どうして、そんな噂になってるんですか?魔獣や子供や女の人を食べるみたいに言われてましたよ!」
「ははは。さぁな。」
伊月さんは、うわさなんて全く気にならないように笑う。
「ひどいです!こんなに優しくてかっこいい人なのに!」
「そんな事を世辞でも言ったのは尽世のどこを探しても那美どのだけだ。」
「もう、お世辞じゃないです!」
伊月さんは自分の事を醜いって思ってるみたいだけど、私からみたら結構ハンサムだと思う。
髭があって、あんまり笑わないし、顔に傷があるから、パッと見は強面だけど、
笑うと少年ぽいし、時々笑った時のギャップがすごい。
不意に先日、伊月さんが私の膝を枕に仮眠を取ったことを思い出した。
―― 伊月さんの寝顔、すごく可愛かったな。
その後、伊月さんは明け方に起きて、寝てしまった自分に驚いたようだった。
すまん、許せって何度も謝っていたけど、あんな寝顔見られたんだから、私としては得した気分なんだけどな。
―― って今考えることじゃないよね!
「鬼武者が女を食べるという噂が立ったのは、江の国との小競り合いの時からだったな。私が気を失っていた那美どのを運んでいたから、それを見た者がいたのだろう。」
「えっ、それって私のせい?」
「誰のせいでもない。ただ人は噂話をして物語を作るのが好きなだけだ。」
伊月さんは苦笑いをしながらお茶を飲む。
―― 物語か、確かにそうだな。
「さて、那美どの。先日の礼をせねばならぬが、何かと忙しく、きちんと礼ができていない。」
「へ? 礼って?」
「かどわかしの件に力を貸してくれたことだ。」
「そんな、お礼なんて要りません。」
私は伊月さんに命を助けてもらった恩返しをしようとしてるのに、ここでお礼なんて貰ったら、恩返しできない。
「伊月さんにはもう沢山色んなものを貰ってるし、してもらってるし、充分です。」
「しかし…。」
「それよりも、伊月さんは今すごく忙しいじゃないですか? 体調とか壊したりしないようにしてくださいね。」
この前も具合が悪いって源次郎さんが言ってたけど普通に危ない捜査してたし。
私は伊月さんの顔を覗きこむ。
「那美どのは心配性だな。」
そう言うと、伊月さんは大きな手のひらを私の頭に乗せて、ポンポンと子供をあやすような仕草をした。
一瞬のことだったのに何故か鼓動がどうしようもなく速くなるのを感じる。
「今日も研究室に行くんですか?」
最近、伊月さんは調べものをしているらしく、オババ様のカムナリキ研究室によく訪れる。
「ああ。那美どのも研究室に行くか?」
「はい。」
私たちは一緒に研究室に向かって歩き出した。