一人伊月さんの部屋に取り残されてしまった私は手持ち無沙汰になって部屋を見回す。
伊月さんらしい、シンプルな部屋だった。
―― 相変わらず本が沢山あるな
私は積んである本を一冊手に取って、パラパラとめくった。
―― む、むずかしい本ばっかり!
「那美様、よろしいですか?」
その時、障子の外から、源次郎さんの声がした。
「はい、どうぞ。」
源次郎さんが障子を開けた。
「お加減はいかがですか?」
「私は大丈夫です。伊月さんも怪我はないって言ってたけど、本当ですか?」
「主に怪我はありません。ただ…」
「ただ、何ですか?」
「色々と患っておりまして、こじらせておるようです。」
「え?伊月さんって何か病気なんですか?」
「いや、ただ、ちょっと熱があるようでして、どうも具合が良くないようで。」
「そんな!それなのに私のことばっかり心配して...。」
「今、井戸の所におりますので、それとなく様子を見て頂けないでしょうか?」
「わかりました。行きます!」
私が立ち上がると、源次郎さんは、手に持っているものを差し出した。
「ついでにこれを渡していただけると助かるのですが・・・」
手ぬぐいと着物だった。
私はそれを受け取ってすぐに駆け出した。
廊下を曲がって、井戸のある所に行くと、上半身の着物を脱いだまま、
伊月さんが頭から冷水をかぶっている。
「伊月さん!」
「な、那美どの?」
「大丈夫ですか?」
「は?」
私は伊月さんに駆け寄った。
顔を近づけて伊月さんの顔を覗き込む。
「な、何だ?」
「じっとしてて下さい!」
私は伊月さんのおでこに手を当ててみる。
「なっ」
―― 熱、なさそうだけど、それでも…。
「こんな所で冷たい水浴びてたらもっとひどくなりますよ!」
「ひ、ひどくとは…?」
「せめて温かいお湯だったらいいのに。」
私は源次郎さんから受け取った手ぬぐいを使って、伊月さんの顔と体を拭き始めた。
「な、何をしている?」
「体を拭いているんです!」
「そ、それは分かるが…。」
「髪もふきます!体を下げてくれませんか? 届きませんから!」
「あ、ああ?」
伊月さんが体を屈めたので、背伸びして伊月さんの髪をワシャワシャと拭く。
「那美どの? ど、どうされた?」
「もう、伊月さん背が高すぎます!」
「す、すまん?」
「私のこと、心配してくれたのに、くすぐったくて笑っちゃったのは謝ります。すみませんでした。」
「あ、いや、それは私が…。」
「でも、私だって、伊月さんのこと心配なんですから!」
「そ、そうか?」
「当たり前です!風邪が酷くなる前に、これに着替えて下さい!」
「風邪?」
「はやく脱いで下さい!」
「あ、ああ?」
伊月さんは濡れた着物を素直に脱ぎはじめる。
―― う!
勢いで言ったものの、実際に目の前で着物を脱がれると目のやり場に困る。
しかも、もう上半身はすでに裸だったのだから、伊月さんが脱ぎ始めたのは袴だった。
「ちょ、待って下さい!」
私は、源次郎さんが渡してくれた着替えの着物で自分の顔を隠して、そのまま後ろを向いた。
「早くこれに着替えて下さい!」
私は後ろを向いたまま目をつぶりつつも、伊月さんに後ろ手で着物を突き出した。
「かたじけない。」
伊月さんは着物を受け取った。
「着替えましたか?」
「着替えた。」
振り向くと、訝しげな表情の伊月さんがいる。
伊月さんの脱ぎ捨てた濡れた着物を拾うと、着物に血がついているのが見える。
「もしかして、怪我をしてないってウソなんですか?」
伊月さんは私の手から濡れた着物を取って、近くの桶に投げ入れた。
「これは返り血だ。私の血ではない。」
「本当ですか? 怪我がないか、ちゃんと見せて下さい!」
私は伊月さんの体をペタペタと触った。
「ど、どこも痛い所はない。」
―― 具合が悪いのを押して、こんな危ない任務を遂行して、もし、伊月さんが大きな怪我をしていたら?
そう考えると急にガタガタと足が震えだした。
「那美どの?」
「伊月さん…早く部屋に戻って体を温めて下さい。」
自分でも情けないくらいに悲痛な声になってしまった。
二人で部屋に戻ると、火鉢が用意されていて、お茶の入った湯呑が二つ置かれていた。
―― 源次郎さんが用意してくれたんだ。
「すまなかった。許せ。そなたを危ない目に合わせてしまった自分がこの上なく不甲斐ない。」
伊月さんは、うなだれた。
―― な、何だか悪い事をした子犬みたいだ…。
「私が望んでやったことです。でも、伊月さんはどうなんですか? 具合が悪いんじゃないですか?」
「ん? 具合は悪くないぞ。」
「強がりはダメです。無理しないで下さい。顔を上げて、もう一度、ちゃんと熱を測らせて。」
「ん?」
さっきまで、うなだれていた伊月さんが顔を上げたので、すかさず自分のおでこを伊月さんのおでこに当てる。
「なっ!」
伊月さんは一瞬固まっていたけど私は気にしなかった。
「んー、源次郎さんが言ってたみたいに熱はなさそうなんだけどな。」
「げ、源次郎が?」
―― むしろ冷水を浴びてたからか、結構冷たい
「とにかく、今は体を温めて、少し横になりませんか? お布団敷きましょうか?」
「いや、布団に寝ると寝過ごしてしまいそうだ。明け方には今夜の後処理をしなければ…」
―― そうか。さっきも、皆に仮眠を取るように言ってたな。
私は部屋の奥に薄手の丹前があるのを見つけた。
「これ、借りますよ!」
「あ、ああ。」
丹前を取って、伊月さんの背中に丹前をかける。
「那美どの、これは一体?」
「横になって下さい!」
「な、何故?」
「体を休めるためです!夜明けまで、ちょっとでも仮眠を取って下さい。」
「だ、だが…」
「枕ありますか?」
「いや、この部屋には…」
「じゃあ、ここに。」
私は意を決して、自分の膝を叩いた。
恥ずかしさを殺して、そして少しでも伊月さんに休んで欲しくて提案したのだけど、フリーズしている伊月さんを見て、後悔した。
「い、嫌なら、いいんです。源次郎さんに枕を借りて来ます。」
「い、嫌ではない!」
立とうとした私の腕を伊月さんがとっさに掴んだ。
「那美どのの膝を借りる。」
「じゃ、じゃあ、どうぞ。」
私が座り直すと、伊月さんは意を決したように私の膝にころんと寝転がった。
私は火鉢を伊月さんの近くに引き寄せて、伊月さんの背中の丹前をかけ直した。
「やっぱり、体が冷えてますね。」
思わず伊月さんの冷えた肩をさすった。
伊月さんは私に好きなようにさせてじっとしている。
しばらく肩をさすっていると、
―― ん?
スゥスゥと、伊月さんの寝息が聞こえ始めた。
―― あ、寝てる。
意外にも無防備な寝顔に胸がキュンとする。
―― 何か、かわいいかも。
思わず伊月さんの頭を撫でてみる。
―― やばい。かわいい。
伊月さんを起こさないように、さっきの本を手繰り寄せて読書することにした。
しばらくすると、また、障子の向こうから源次郎さんの声がした
「失礼します。」
「どうぞ。」
障子を開け、源次郎さんが私達を見て、驚いた顔をした。
「寝てます。」
と、私が小声で言うと、源次郎さんが大きく頷いて、黙ったまま部屋の火鉢に炭を入れてくれた。
それから私に温かいお茶を入れ直してくれて、静かに頭を下げて去って行った。
私は読書しつつ、時々子供のようにスヤスヤ眠る伊月さんの顔を見て、胸がキュンとする。
時々頭を撫でて見たけど起きなかった。
―― ふふ。きっと疲れてるんだよね。
伊月さんが怪我なく任務を遂行して、こうやって自分の側で安心しきったように眠っている。
この瞬間が奇跡みたいに感じて、私はこの上なく幸せな気分になった。