私は青い空を見上げた。
桜が散って、朝夕の肌寒さも和らいで、カラっと明るい晩春の空が広がっている。
―― 伊月さん、元気かな。
二週間前に伊月さんの屋敷に薬草を届けに行って以来、伊月さんとは文を何度か交わしているけど、会えてない。
オババ様によると、最近、魔獣が農村を襲ったり、若い女が誘拐されたりする事件が多いので、伊月さんたちはそういうのの対応に忙しいのだとか。
―― そんな忙しい中、私のことを気遣って、わざわざ人を送ってくれたんだ。
それは二週間前、伊月さんのおうちで、正次さんや八咫烏さんたちとお茶をした次の日だった。
お仙さんたちと、手習い所として使う小屋を掃除していた時、吉太郎が飛んできて、「那美に客人来る!男三人!」と言った。
その三人は伊月さんの軍で働く人たちで、黒鍬衆という土木工事などを専門とする役職の人だという。
「殿の命で、この小屋の修繕の手伝いをするように言いつかっております。」
そういって、私やお仙さんたちが掃除や片付けをする中、黒鍬衆の人たちは雨漏りの場所や、壁にあいた穴を修繕してくれて、文机まで作ってくれた。
「何とお礼を言っていいかわかりません。」
と、私もお仙さんたちも感謝の気持ちでいっぱいだった。
―― 伊月さんには恩返しするって宣言したばかりなのに、また助けてもらって、全然追いつかないな。
伊月さんの優しさに感動するのと、自分のことを気にかけてくれているという事実が、この上なく嬉しい。
お陰で、無事に手習い所をオープンすることができた。
―― 今日もお仕事開始!
私はこのところ、自分の手習い所の運営と、カムナリキの修行で忙しくしていた。
今までと同じなのは、夕凪ちゃんと、朝ご飯の用意をして、そのうち寝ぐせのついたオババ様が起きてきて、皆でワイワイ朝ご飯を食べて、一日が始まることだ。
朝餉のあと、私はすぐに手習い所のある、タカオ山のふもとまで歩いて出勤する。
お仙さんと、お仙さんのママ友たちが入れ替わりやって来るので、一日に2、3時間、週に2日教えている。
そして、私の学校は、タカオ山手習い所と名付けられた。
皆がやって来る少し前に手習い所に着いて、あれやこれやと準備する。
やっぱり教科書や教材があった方が教えやすいので、手作りで教科書っぽいものも用意したりした。
一つの教材を仕上げるのでいっぱいいっぱいで、皆の分は作れないから、各自、写本してもらう。
字を書く練習にもなるので、一石二鳥。
準備するうちに、生徒さんたちがやって来る。
ここで、私は皆に教えるよりも、色んなことを教わっている気がする。
例えば、手習い所の近くにある木や草花の名前を教えてもらったり、タカオ山に生息している小動物や鳥のことも教えてもらったり。
他にも、女性たちのうわさ話は多岐に渡り、この世のことを知るにはとてもためになる。
例えば、『鬼武者』と呼ばれる武士の存在をよく聞く。
生徒さんたちはほとんどが子連れのお母さんで、子供たちが騒いでいると、「鬼武者が来て食べちゃうよ」と言って、子供たちを黙らせている。
「あのう、鬼武者って何ですか?」
「鬼武者は亜国ではとても有名な武将です。とっても怖いんです。」
鬼武者は亜国の将軍の一人で、市中でもいつも鬼の面具を付けているそうだ。
顔が醜く恐ろしいから、いつも面具を付けているという噂なのだとか。
普通、軍が勝利して凱旋する時、兵たちは身ぎれいにして、
取った首も袋や箱に入れて城内に帰ってくる。
旗指物にも自分の家紋を入れて、自分の家の名をしらしめようとする。
だけど、鬼武者と鬼武者の兵たちは返り血もふかず、取った魔獣や敵兵の首もそのまま、手に持って帰ってくるのだとか。
そして、旗指物も真っ黒で、一体誰なのかわからないらしい。
「まさに鬼の形相で、血まみれで、それはそれは酷い死臭を漂わせて城内を歩いて行くんです。」
「夜に凱旋した時なんか、もう恐ろしくて、恐ろしくて。まるで百鬼夜行でした。」
「でも、とても強くて、大きな魔獣も退治するそうなんです。」
「つい数ヶ月前もすごかったですよ。こんなに大きな大蛇のような、翼竜の魔獣を引きずりながら歩いていました。」
「何やら、その魔獣たちを料理して食べているそうよ。」
「若い女をさらって食べてしまったって、うわさも立っているの。きっと乱取りもしてるんじゃない?」
「うわさによれば、家紋を使わないのも、人間ではないかららしいわ。」
「恐ろしいわ!」
確かにそれは怖いかも。
他にも、国政や、国交についてのうわさ話も色々と聞いた。
オババ様の管理しているタカオ山は、亜国と伊国の国境に位置している。
東に行けば、亜国、西に行けば、伊国だ。
ちなみに私は亜国の東北に位置する江国から来たことになっている。
伊月さんが空から降ってくる私を発見した場所が江国の国境だったらしい。
「江国出身の那美先生は知らないかもしれませんが、亜国の前の国主の時代はもっと平和だったんですよ。」
「そうなんですよ。現国主になって治安が悪くなったんです。」
「それはどうしてですか?」
「20年くらい前に、前の国主が伊国との同盟を成り立たせて、それから国同士の戦は減ったんです。」
「でも、少し戦が落ちついたからって、今の国主はダラけて内政をサボっているんです。」
「国主が政治をほったらかして、酒色にふけっているって専らのうわさなの。」
「悪事を働く人を取り締まらなくなったんで、国内の治安は悪くなるばかり。」
「オババ様にも敬意を払わないし!」
「そうそう。前の国主はオババ様と協力して色々な改革をしたんです。」
「そうなんですか! どんな改革ですか?」
「一番大きかった改革は、上下水道の整備です。水の循環が良くなって、疫病がとても減ったんです。」
「今の国主はオババ様が政治に関わるのを恐れているそうよ。」
「それはそうよ。今の国主よりも、オババ様が国主になったほうがいいって、みんな思うもの。」
―― オババ様も今の亜国の国主は愚鈍だって言ってたな。
「じゃあ、伊国の国主はどうなんですか?」
私のこの問いに、皆はお仙さんを見た。
「お仙さんは伊国の出身だけど、どう思ってるの? 今の国主。」
「伊国で生まれ育った私には今の状況は正直悔しいわ。」
お仙さんの話によると、今の伊の国主はもともと伊の人ではなく、亜国から派遣されてきた人なのだそうだ。
「伊国の王子様を人質に取る代わりに、亜国と伊国は同盟を組んだんです。そして、伊国の王子様が元服したら、王子を伊国に返してくれる約束でした。」
「そうよね。でも、今の亜国の国主になって、急にその約束を反故にされたのですよね。」
「そうなんです。今でも伊国の王子様は人質としてこの亜国で辛い思いをしているそうです。そして、代わりに今の伊国の国主に据えられたのは、亜国の国主の甥にあたる人です。」
「それって亜国が伊国を乗っ取ったてことですか?」
「そうです。今は伊国は亜国の属国みたいな扱いです。伊の民から沢山税金をとって、亜国の国主に流しているみたいなの。伊の民たちは皆、伊国の王子様が帰ってきてくれることを願っています。」
お仙さんは悲しそうに言った。
お仙さんも、みんなも、激動の国政の中に暮らしているんだな。
こんなにも不安定な状況で、みんな子供を育て、家計を助け、とてもたくましく生きている。
改めて、ここにいるみんなに、尊敬の念を抱いた。
桜が散って、朝夕の肌寒さも和らいで、カラっと明るい晩春の空が広がっている。
―― 伊月さん、元気かな。
二週間前に伊月さんの屋敷に薬草を届けに行って以来、伊月さんとは文を何度か交わしているけど、会えてない。
オババ様によると、最近、魔獣が農村を襲ったり、若い女が誘拐されたりする事件が多いので、伊月さんたちはそういうのの対応に忙しいのだとか。
―― そんな忙しい中、私のことを気遣って、わざわざ人を送ってくれたんだ。
それは二週間前、伊月さんのおうちで、正次さんや八咫烏さんたちとお茶をした次の日だった。
お仙さんたちと、手習い所として使う小屋を掃除していた時、吉太郎が飛んできて、「那美に客人来る!男三人!」と言った。
その三人は伊月さんの軍で働く人たちで、黒鍬衆という土木工事などを専門とする役職の人だという。
「殿の命で、この小屋の修繕の手伝いをするように言いつかっております。」
そういって、私やお仙さんたちが掃除や片付けをする中、黒鍬衆の人たちは雨漏りの場所や、壁にあいた穴を修繕してくれて、文机まで作ってくれた。
「何とお礼を言っていいかわかりません。」
と、私もお仙さんたちも感謝の気持ちでいっぱいだった。
―― 伊月さんには恩返しするって宣言したばかりなのに、また助けてもらって、全然追いつかないな。
伊月さんの優しさに感動するのと、自分のことを気にかけてくれているという事実が、この上なく嬉しい。
お陰で、無事に手習い所をオープンすることができた。
―― 今日もお仕事開始!
私はこのところ、自分の手習い所の運営と、カムナリキの修行で忙しくしていた。
今までと同じなのは、夕凪ちゃんと、朝ご飯の用意をして、そのうち寝ぐせのついたオババ様が起きてきて、皆でワイワイ朝ご飯を食べて、一日が始まることだ。
朝餉のあと、私はすぐに手習い所のある、タカオ山のふもとまで歩いて出勤する。
お仙さんと、お仙さんのママ友たちが入れ替わりやって来るので、一日に2、3時間、週に2日教えている。
そして、私の学校は、タカオ山手習い所と名付けられた。
皆がやって来る少し前に手習い所に着いて、あれやこれやと準備する。
やっぱり教科書や教材があった方が教えやすいので、手作りで教科書っぽいものも用意したりした。
一つの教材を仕上げるのでいっぱいいっぱいで、皆の分は作れないから、各自、写本してもらう。
字を書く練習にもなるので、一石二鳥。
準備するうちに、生徒さんたちがやって来る。
ここで、私は皆に教えるよりも、色んなことを教わっている気がする。
例えば、手習い所の近くにある木や草花の名前を教えてもらったり、タカオ山に生息している小動物や鳥のことも教えてもらったり。
他にも、女性たちのうわさ話は多岐に渡り、この世のことを知るにはとてもためになる。
例えば、『鬼武者』と呼ばれる武士の存在をよく聞く。
生徒さんたちはほとんどが子連れのお母さんで、子供たちが騒いでいると、「鬼武者が来て食べちゃうよ」と言って、子供たちを黙らせている。
「あのう、鬼武者って何ですか?」
「鬼武者は亜国ではとても有名な武将です。とっても怖いんです。」
鬼武者は亜国の将軍の一人で、市中でもいつも鬼の面具を付けているそうだ。
顔が醜く恐ろしいから、いつも面具を付けているという噂なのだとか。
普通、軍が勝利して凱旋する時、兵たちは身ぎれいにして、
取った首も袋や箱に入れて城内に帰ってくる。
旗指物にも自分の家紋を入れて、自分の家の名をしらしめようとする。
だけど、鬼武者と鬼武者の兵たちは返り血もふかず、取った魔獣や敵兵の首もそのまま、手に持って帰ってくるのだとか。
そして、旗指物も真っ黒で、一体誰なのかわからないらしい。
「まさに鬼の形相で、血まみれで、それはそれは酷い死臭を漂わせて城内を歩いて行くんです。」
「夜に凱旋した時なんか、もう恐ろしくて、恐ろしくて。まるで百鬼夜行でした。」
「でも、とても強くて、大きな魔獣も退治するそうなんです。」
「つい数ヶ月前もすごかったですよ。こんなに大きな大蛇のような、翼竜の魔獣を引きずりながら歩いていました。」
「何やら、その魔獣たちを料理して食べているそうよ。」
「若い女をさらって食べてしまったって、うわさも立っているの。きっと乱取りもしてるんじゃない?」
「うわさによれば、家紋を使わないのも、人間ではないかららしいわ。」
「恐ろしいわ!」
確かにそれは怖いかも。
他にも、国政や、国交についてのうわさ話も色々と聞いた。
オババ様の管理しているタカオ山は、亜国と伊国の国境に位置している。
東に行けば、亜国、西に行けば、伊国だ。
ちなみに私は亜国の東北に位置する江国から来たことになっている。
伊月さんが空から降ってくる私を発見した場所が江国の国境だったらしい。
「江国出身の那美先生は知らないかもしれませんが、亜国の前の国主の時代はもっと平和だったんですよ。」
「そうなんですよ。現国主になって治安が悪くなったんです。」
「それはどうしてですか?」
「20年くらい前に、前の国主が伊国との同盟を成り立たせて、それから国同士の戦は減ったんです。」
「でも、少し戦が落ちついたからって、今の国主はダラけて内政をサボっているんです。」
「国主が政治をほったらかして、酒色にふけっているって専らのうわさなの。」
「悪事を働く人を取り締まらなくなったんで、国内の治安は悪くなるばかり。」
「オババ様にも敬意を払わないし!」
「そうそう。前の国主はオババ様と協力して色々な改革をしたんです。」
「そうなんですか! どんな改革ですか?」
「一番大きかった改革は、上下水道の整備です。水の循環が良くなって、疫病がとても減ったんです。」
「今の国主はオババ様が政治に関わるのを恐れているそうよ。」
「それはそうよ。今の国主よりも、オババ様が国主になったほうがいいって、みんな思うもの。」
―― オババ様も今の亜国の国主は愚鈍だって言ってたな。
「じゃあ、伊国の国主はどうなんですか?」
私のこの問いに、皆はお仙さんを見た。
「お仙さんは伊国の出身だけど、どう思ってるの? 今の国主。」
「伊国で生まれ育った私には今の状況は正直悔しいわ。」
お仙さんの話によると、今の伊の国主はもともと伊の人ではなく、亜国から派遣されてきた人なのだそうだ。
「伊国の王子様を人質に取る代わりに、亜国と伊国は同盟を組んだんです。そして、伊国の王子様が元服したら、王子を伊国に返してくれる約束でした。」
「そうよね。でも、今の亜国の国主になって、急にその約束を反故にされたのですよね。」
「そうなんです。今でも伊国の王子様は人質としてこの亜国で辛い思いをしているそうです。そして、代わりに今の伊国の国主に据えられたのは、亜国の国主の甥にあたる人です。」
「それって亜国が伊国を乗っ取ったてことですか?」
「そうです。今は伊国は亜国の属国みたいな扱いです。伊の民から沢山税金をとって、亜国の国主に流しているみたいなの。伊の民たちは皆、伊国の王子様が帰ってきてくれることを願っています。」
お仙さんは悲しそうに言った。
お仙さんも、みんなも、激動の国政の中に暮らしているんだな。
こんなにも不安定な状況で、みんな子供を育て、家計を助け、とてもたくましく生きている。
改めて、ここにいるみんなに、尊敬の念を抱いた。