私は行商人と言い争った一件で、突き飛ばされ、擦りむき傷や、左足首の捻挫やら、マイナーな怪我をしていて、伊月さんとオババ様から療養を命じられていた。
「もうー、那美ちゃんが伊月さんにおんぶされて帰ってきたのにはびっくりだったよー。」
夕凪ちゃんが、朝ごはんを頬張りながら言う。
「皆に迷惑をかけちゃったね。今朝の朝ごはんのお手伝いもあんまりできなかったし。」
「え? 那美ちゃんがそんなにしおらしいの変だよ。」
「そ、そこまで言う?」
「そんなことよりも、やっぱり伊月さんといい感じだったじゃないー!」
「そんなんじゃないってば!」
「今朝も飛脚便が来て、伊月さんから何か届いてたよ。」
「え?」
夕凪ちゃんが、包みを指さす。
「私に?」
「そうだよ。朝一で届いてたよ。ねえ、開けてみなよー。」
「うん。」
包みの中には伊月さん特製の薬草ミックスが入っていて、文も添えられている。
薬草を煮て、布にしみこませ、湿布として、ねん挫した所に使うように書いてあった。
最後に『早く治ることを願う』と書いてある。
ふと、昨日の伊月さんの逞しくて、温かくて、大きな背中を思い出した。
―― 優しいな。伊月さん。
「なんだ、恋文じゃないの?」
夕凪ちゃんが私の顔を覗き込む。
「だから、そんなんじゃないって!」
そうやってわいわい言いながら夕凪ちゃんと朝ごはんを食べていると、壮大に寝癖のついた髪のままオババ様が起きてきた。
「飯をくれー」
「はーい。」
こうやってまた、一日が始まった。
「足はどうじゃ?」
オババ様が私の怪我を心配してくれる。
「伊月さんの見立て通り、昨日の夜は腫れて、歩くのも辛かったです。でも寝て起きたら、だいぶ腫れも痛みもひいていました。」
「そうか、そうか。まぁオヌシのカムナリキの流れを見るに、回復は早そうだな。いつものようによく食べてよく寝れば問題ないはずじゃ。とにかく、今日、明日は安静にしておくことだ。」
昨日、無茶をした私のことをオババ様は叱らなかった。
むしろ、商人に雷を落として殺さなかったことを喜んだ。
―― 私ってばどんなキャラだと思われてるの!?
「那美ちゃんって安静にしてろって言って、本当に安静にしてると思います?」
夕凪ちゃんがオババ様に突っ込みを入れる。
「が、頑張るよ。」
「うむ、よし、那美を大人しくさせるため、良いものをやろう。」
オババ様は何か思い立ったように部屋を出て、また戻ってきた。
「ほれ、これでも読んでいろ。」
「わぁー。」
オババ様が私に渡してくれたのは御伽草子だった。
「嬉しいー! 読みます!」
―― これがあれば安静も苦痛じゃないかも。
私はこの日、ずっと社務所に籠もって、御伽草子《おとぎぞうし》を読みつつ、時々氏子さんが来たら対応していた。
御伽草子はこの尽世に伝わる色んな伝説を集めたものだった。
特に面白かったのは「月落ち」という伝説だった。
数百年に一度くらい、尽世にある2つの月が満月のまま完全に重なり合って一つになるらしく、
御伽草子の中ではその現象を月落ちと呼んでいる。
―― 月食みたいなものだよね。
そして、この月落ちの時に、何かしらの奇跡が起こるという伝説がある。
例えば、尽世の北の果てに大穴が空いたのもこの月落ちの夜だったそうだ。
―― これって、オババ様が怒りであけたっていう穴...
現在はその場所には巨大な滝と滝つぼがあり、観光地になっているみたいだ。
―― 行ってみたいな。
夢中になって物語を読んでいると、「すみません。」と声をかけられた。
「あ、あなたは!」
それは、昨日、行商人にお釣りをごまかされていた子連れの女性だった。
「やっと見つけました。色々と人に聞きまわって、ようやく。まさかここの巫女様とは思いませんでした。」
「わざわざ訪ねてきて下さったんですか?」
「はい。改めて、お礼を言いたくて。」
女性はお仙さんと名乗った。
「てっきりあのお侍様の奥様かと思っていました。すみません。」
「いえ、それは全然いいですよ。」
「あのうお口に合うかわかりませんが。」
お仙さんは私に手作りのお煎餅をくれた。
「良かったら、向こうでお茶でも飲みませんか。」
私はお仙さんと一緒に神殿横にある長椅子に座り、お茶をすすった。
お仙さんの旦那さんは、伊の国で農業をしていたのだけど、下級武士に取り立てられ、家族で亜の国に引っ越してきたそうだ。
「旦那は読み書きが少しばかりできるのと、腕っぷしを買われて、何とか足軽の下っ端に加えて貰えたんです。でも、私の方は読み書きもさっぱりでして。」
―― だから、看板に『果物3つで2富』って書いてあったのがわからなかったのか。
城下町に行けば、貨幣経済も少しは浸透しているけど、未だに物々交換をしている人たちも沢山見かける。
まして今まで農村で生きてきた人なのだから、読み書きも計算も特に必要なかったのだろう。
「女は商人の子でもない限り、算術なんて必要ないと思っていました。そして、武士の子でもない限り、読み書きも必要ないと思っていました。」
―― 多分この人の感覚が、この亜の国や、伊の国では当たり前なのだろう。
まだ二カ月弱しかここにいないけど、すぐにわかる。
ここは、すごい男尊女卑社会で、女性の自立なんて夢のまた夢だ。
「でも、亜の国に来て、旦那の収入が米から扶持になり、やりくりが大変でした。旦那は私の金遣いが荒いって、いつも責めるんです。でも、私は贅沢なんてこれっぽっちもしていないんです。それで、昨日あなたがお釣りのことを言ってくれて、気づいたんです。今までもぼったくられていたんじゃないかって。」
お仙さんはとても悔しそうに言った。
きっと今までも頑張ってやりくりしてきたのだろう。
それなのに、旦那さんにも責められて。
「あなたが男相手にもひるまずに言い返したのを見て、私は胸がスカっとしたんですよ。」
「そ、それは・・・」
―― 私もこの世界の男尊女卑がこんなにもひどいとは思ってなかったから。
「あんなにも簡単に暴力を振るわれるって思ってなくって。」
「しかも、商人の男も顔負けの算術でした。」
―― 普通に足し算と引き算だけなのだけど…。
「最初はあなたの言ってることを疑ったんです。女が計算できるわけないって。」
「ああ、だから、あの商人も私が間違ってるって言い張って、それで押し通せると思ったんですね。」
「きっとそうです。誰も女の言ってることなんて信じません。」
―― 改めてとんでもない世界に飛ばされちゃったな。
「だから、今日はあなたにどうしてもお願いしたくて。」
「へ? お願い?」
「はい。」
お仙さんはスッと立ち上がり、私の目の前で、いきなり土下座をした。
「え? な、何ですか? お仙さん、やめて下さい。」
「お願いします。私と、私の知り合いの奥さん方に、読み書きと算術を教えて下さい。お金は払います。」
「え?」
お仙さんは土下座したまま、つづけた。
「昨日あったことを近所の奥さん連中にも話したんです。皆、同じような悩みを抱えていて。だからといって、誰も女に読み書きを教えようなんて人いません。どうか、お願いです。」
そして、また、地に頭をすりつけるように必死に土下座している。
「あの、わかりました。教えますから、どうか頭を上げて下さい。」
「いいんですか?」
お仙さんはパアっと笑顔を浮かべて、頭を上げた。
「はい。私で良ければ教えます。あの、でも、一応オババ様に許可を得たいんですがいいですか?」
「もちろんです。オババ様に私たちからもお願いします。」
オババ様は二つ返事で了承してくれて、タカオ山のふもと近くに、使ってない小屋があるのでそこを学校にすることを提案してくれた。
「これからは女も知識を蓄えた方が生きやすいであろう。ただし、カムナリキの修行は欠かさぬこと。」
「オババ様、ありがとうございます!」
「でもまずは足を完治させることじゃ。」
「はい!」
こうして、私は、足が完治したら、学校を開設する準備を始めることになった。
―― あ、良かった。無事に着いた。
今日は、オババ様のお遣いで、一人で外出していた。
行先は、以前オババ様と一緒に来たことのある伊月さんの屋敷だ。
足もすっかり良くなって、山道も難なく歩けるようになった。
門を叩くと、すぐに源次郎さんが出てきた。
「那美様! もうお加減はよろしいので?」
私は源次郎さんに頭を下げる。
「その節は本当にありがとうございました。おかげさまで、すっかり良くなりました。」
「それはようございました。どうぞ、どうぞ、中へ。」
源次郎さんはとても丁寧に対応してくれる。
「主は今、庭の方で剣術の稽古をしていますので、呼んで参ります。」
「あの、オババ様のお遣いで、届け物をしに来ただけなので、すぐに帰ります。」
「お急ぎですか?」
「いえ、急ぎではないですけど、邪魔をしたくないんです。」
「え?そ、そんな、邪魔なんてことはありません!」
源次郎さんは思いもかけず、力を込めて言った。
「そ、そうですか? でも、剣術のお稽古を中断してほしくないので…。じゃあ、終わるまで待っててもいいですか? 」
「もちろんです。もう稽古を始めて一刻ほどです。どのみちもう終わる頃です。」
源次郎さんは私を客間に通すと、お茶を淹れると言って部屋を出ていった。
―― あ。かわいい。
この前にはなかったけど、今日は、かわいいお花が活けられている。
客間の障子は開け放たれていて、縁側から中庭が見える。
天気の良さにつられて縁側に出てみると、庭の奥の方に伊月さんが見えた。
伊月さんは一人真剣に木刀で素振りを繰り返している。
声をかけられるような雰囲気ではなく、私は思わずその場に佇んだ。
―― わぁ、何てきれいな所作だろう
流れるような動きと、力強い動きが入り混じった、どこか、はかなく美しい動きだ。
伊月さんは着物の半身を脱いでいて、隆々たる筋肉が見える。
そして、二の腕には傷の跡があるのが見える。
―― 痛そうな跡だな・・・戦でついたのかな…。
次の瞬間、朝日が伊月さんの背中にあたり汗がキラキラと輝いた。
―― か、かっこいい….
いつしか目が離せなくなって、なぜが胸の奥がうずいた。
―― ど、どうしたんだろう、私。何でこんなに…ドキドキするの?
自分の心臓の音をうるさく感じた時、伊月さんは素振りをやめ、こちらを向いた。
「那美どの…。」
「あ、お、おはようございます。」
慌てて頭を下げる
「そこでつったって何をしている?」
―― み、見惚れてたなんて言えないし!
「えっと、随分集中されれてたので、声をかけたら悪いかなと思って…」
伊月さんは刀を置いて手拭いで汗をふきつつ、こちらに向かって歩き始めた。
「あの、この前はありがとうございました。お薬まで送って下さって。」
私は、自分の耳が熱くなってるのを感じて思わずうつむいた。
「一人で来たのか?」
「は、はい。」
「もう足はいいのか?」
「はい、伊月さんのお陰です。湿布もよく効きました。今日はお礼を言いたくて…。」
ずんずんと歩きながら伊月さんが近づいてくる。
「道中、大丈夫であったか?」
伊月さんの筋肉質な体が目の前に迫ってきて、目のやり場に困った。
「はい。オババ様が、迷ったら八咫烏さんを呼べって、この笛を持たされたんですが、使いませんでした。」
私は、帯に刺した八咫烏ささんを呼べるという笛を握った。
「それは何よりだ。八咫烏さはなかなか癖の強い奴だからな。」
―― そうなんだ。
言いながら、伊月さんはまだ私の方へ近づいてくる。
―― な、何でこんなに近いの???
伊月さんがやっと立ち止まる。
うつむいていたせいで、伊月さんのシックスパックが目の前にせまる。
―― が、眼福ありがとうございます! でも、ドキドキする!
「あ、あのっ。」
いたたまれなくなり、顔を上げると、今度は伊月さんの顔が近くにあった。
「あ...」
「しー。少しじっとしていろ。」
伊月さんの重低音ボイスが耳をくすぐる。
―― なに?
伊月さんはそのまま私の髪の毛に手を伸ばした。
「葉っぱがついていた。」
―― え?
伊月さんはつまんだ葉っぱを一枚ぽいっと庭に落とした。
「汗を流してくる。しばし待っていてくれるか?」
「は、はい。」
伊月さんは何事もなかったかのようにさっさと奥の部屋へと入って行った。
―― し、心臓に悪いよ!!!
自分だけドキドキしてしまって恥ずかしい。
客間に戻ると、源次郎さんがお茶を淹れて来てくれた。
「主の剣術の様子ご覧になりましたか?」
「はい。すごい迫力でした。」
―― そして美しい体でした…っていうのは言えない!
「そうでございましょう。主はこの亜国で一番腕が立ちます。」
源次郎さんは自分のことのように得意げに言った。
「この前、助けてもらった時も、伊月さんの強さを目の当たりにしてビックリしました。」
「そうでございましょう!主は強いのですよ。町の人もびっくりしていましたね。」
―― 伊月さんのこと、とても慕ってるんだな。
「ただ、あの風貌で怪力ですから、女子供からは怖がられております。」
「でも、あんなに優しいのに。」
「そうなんですよ。那美様だけですよ、主の優しさをわかって下さるのは!」
私は源次郎さんとこんなに話す機会がなかったけど、仲がいい主従なんだなと思い、心が、ほっこりする。
「おーぃ、源次郎どの、おるか?」
そこに庭の方からひょっこり顔を出した人がいた。
私と目が合うと、一瞬びっくりした顔をしていたが、すぐに破顔して
「もしや、那美様ですか?」
と、言って、客間に入ってきた。
「堀様、また裏口からおいでですか?今、お茶をお淹れします。」
「お、源次郎どの、かたじけない。」
堀と言われた人は私の前に座ると頭を下げた。
「堀正次と申します。共舘様にお使えする将の一人です。正次とお呼び下さい。」
「正次さん、初めまして。那美と言います。」
「那美様のことは存じております。殿が貴方様を見つけなさった時に私も戦場におりました。」
「そうなんですね。あの、色々ご迷惑おかけしたみたいで、すみません。それから、助けて頂いて、ありがとうございます。」
私も感謝の気持ちを込めて、頭を下げる。
「いやいや、すっかりお元気になられてなりよりです。殿の看病が効きましたな。」
―― やっぱり、伊月さんが看病してくれたんだ。
「堀、また来ていたのか。」
そこへ着替えてサッパリした雰囲気の伊月さんが入ってきた。
「殿、那美様は、噂に違わず、天女のような方でございますな!」
―― 天女って、それはない。
私は堀さんの見え透いたお世辞に苦笑いするも、源次郎さんは
「堀様、那美様に懸想されては困りますよ。」
と、話に乗っている。
「あのう、オババ様のお使いで、タカオ山で摘んだ薬草を持ってきました。」
私は、持ってきた葛籠を伊月さんに差し出した。
「すごい量だな。これを一人で持って来たのか。」
伊月さんは、びっくりしたみたいに言った。
「このくらい大丈夫ですよ。それから、これも…」
私は、持ってきた重箱を開けた。
それは先日氏子さんにもらった小豆で作ったおはぎだ。
オババ様が伊月さんは甘い物も好きだというので夕凪ちゃんに作り方を教えてもらって一緒に作って持ってきた。
「今朝、おはぎを作ったんです。良かったら皆さんで一緒に食べませんか?」
「おーこれは美味そうだ!」
正次さんも源次郎さんも甘い物が好きらしく、おはぎをつまみながら皆でお茶会となった。
ふと源次郎さんが思い出したように口を開いた。
「そういえば、先日那美様がお助けになられたお仙様という方がここに訪ねて来られました。那美様の居場所を探しておられたのでオババ様の場所をお教えしました。」
「源次郎さんがお仙さんに私の居場所を教えてくれたんですね。お陰様で、お仙さん、タカオ大社まで来てくれました。」
「無事にお会いできて何よりです。」
「実はお仙さんに頼まれて、足軽の奥さん達に読み書きを教えることになったんです。あと、算術も。」
「え? それは凄いですね!」
「本当か。それは素晴らしい。」
源次郎さんも伊月さんも喜んでくれた。
「え? 那美様は読み書きと算術までなさるのか?」
と正次さんはびっくりしたようだった。
「那美様は美しく勇敢なだけでなく、大変な才がおありなのです。」
源次郎さんが正次さんに言うと、正次さんは私をまじまじと見た。
「そ、そんなに言われるほどじゃないです。」
手放しで褒められて恥ずかしくなった。
「オババ様も賛同してくれて、タカオ山の麓に使ってない小屋があるから、そこを手習い所として貸してくれるそうです。」
「あぁ、あの小屋か。」
伊月さんは少し懐かしそうに言った。
「随分とボロ小屋で修繕が必要なのではないか?」
「ふふ。その通りです。やっと足が良くなったので、明日から、お仙さんや皆と一緒に修理したりお掃除したり準備を始める予定です。」
「そうか。それは楽しみだな。」
「はい。やっとこの国で自分にも出来ることが見つかった気がして嬉しいです。大したことじゃないけれど。」
「いやいや、それは大したことですよ、那美様。」
正次さんが心底感心したように言ってくれて、うれしくなる。
「ん? 那美様、それは笛ですか?」
ふと、正次さんが私の帯にさした、八咫烏さんの笛を見た。
とても興味がありそうだったので、帯から出して、手渡す。
「おぉ、これはいい笛ですなぁ。那美様は笛もたしなまれるのか?」
「あ、いいえ、吹いたことないです。でも、オババ様が、迷ったらこれを吹けって。」
「おぉ、では某が、那美様の門出を祝って一曲!」
正次さんはそういうと、笛を吹く。
「ま、待て、堀!」
伊月さんが止めようとしたが、ピロローと優雅で綺麗な音色がした。
「正次さんは笛が吹けるのですか?すごい!綺麗な音ですね。」
笛の音色に感動している私をよそに、伊月さんはたしなめるように言った。
「堀、それは八咫烏の笛だぞ。」
それを聞いて、正次さんも、源次郎さんも、
「げ? 八咫烏の?」
「うわー八咫烏ですか。」
と、難色を示している。
―― 八咫烏って、一体、どんなあやかしなの?
そう思った瞬間、一羽のカラスが庭の方から飛んできて、客間の真ん中に止まった。
するとカラスの体から煙が出て、煙が消えるとともに、カラスの姿は消え、代わりに男の人が現れた。
黒くてツヤツヤの短髪に山伏頭巾をつけて、結袈裟をかけている。
背中からは大きな黒い翼が生えていて、金色に輝く瞳を持っている。
明らかに人間ではない。
―― うわぁ。ミステリアスな人だな。
その男の人は、びっくりして固まっている私を見ると、すっと手を取った。
「え?」
「お前があの美しき笛の音の主か?このむさ苦しい状況から救って欲しいのだな?」
「いえ、あの・・・」
源次郎さんが、その人の手をサッと私の手から引き離した。
「おい、八咫烏、その手を離せ!」
―― やっぱり、この人が八咫烏さんなんだ。
「その美しき笛の音を鳴らしたのは俺だ!」
正次さんが、八咫烏さんの顔を両手ではさみ、ぐいっと自分の方に向けた。
「げ、な、何をする!離せ!」
抵抗する八咫烏さんを正次さんが抑える。
「いいから、笛を吹いた俺の相手をしろ。その人から離れろ!」
「俺は若い女しか相手にせぬ! お前のようなむさ苦しい男が俺の笛を吹いたなどとは許せぬ!」
「私の間違いでお前を呼び出してしまい悪いとは思うが、那美様には手を出すなよ。」
―― 何が起こってるの??
私は状況がわからずにバタバタしている八咫烏さんと正次さんと源次郎さんを見る。
「おい、お前ら落ち着け!」
伊月さんが呆れて喝を入れると、源次郎さんも正次さんもピタっと静かになり、すごすごと座った。
八咫烏さんは私を改めて見ると、口の端を吊り上げて笑った 。
「そうか、お前がオババ様の言っていた那美か。なるほど美味そうな匂いがする。」
「え?」
不穏な事を言われて一瞬固まる。
「八咫烏、お前も、ひとまず座れ。」
伊月さんが促すと八咫烏さんは私の隣に腰を下ろして、私の顔を覗き込んできた。
「あ、あの、おはぎ食べます?」
私は少しの気まずさをかき消すように、八咫烏さんにおはぎの入ったお重を差し出した。
「おぉ。」
八咫烏さんは、一瞬、餌を与えられた子犬のような目をしておはぎを一つ食べ始めた。
―― あ、やっと落ち着いた。
顔を覗き込まれなくなり、ホッと一息つく。
「那美様、八咫烏は無類の女好きですので気を付けて下さいね。触れると妊娠します!」
源次郎さんが言う。
「そんなことはない。俺の美しさに人間の女の方から寄ってくるのだ。」
八咫烏さんは食べながらも反論するが、正次さんも反論する。
「お前は女となると見境がないではないか。」
「女なら誰でもいいという訳ではない。若くて美味そうな女しか相手にせぬ。」
伊月さんはやれやれという感じで、首を小さく左右に振っている。
「おい、那美、お前も、食え、ほら。」
八咫烏さんはそういうと顔をぐっと近づけておはぎを私のを口元に差し出した。
「え?」
「ほら、食べさせてやるから口あけろ! あーん」
「ちょ、いや、それはさすがにやめて!」
私はとっさに後ずさりして伊月さんの背中に隠れた。
八咫烏さんは一瞬驚いた顔をして、すぐに眉をひそめる。
「おい、何で隠れるんだ。しかも伊月のやろうに。」
「だって、いきなり近づくから!」
「私の周りで何やってるんだ。うるさいからやめろ。」
伊月さんは淡々とおはぎを食べながら、片手を八咫烏さんの肩に当て、ぐーっと押し返す。
―― あ、助けてくれた。
「こら、伊月、邪魔するな。」
「こちらの方が食べるのに邪魔だ。那美どのも、何故私の後ろに隠れる?」
「す、すみません…何か安全地帯で。」
八咫烏さんがあきらめたように体を離して座りなおした。
「ま、今日は伊月に免じて引き下がってやる。」
八咫烏さんはそういうと、私の湯呑を取り上げ、お茶をグイっと飲みほした。
―― あ、私のお茶。
ドンと空になった湯呑を畳の上に置いて、八咫烏さんはスッと立ち上がった。
「那美、今度はこいつらがいない時に俺を呼べ。野郎どもがいては、やり辛い。」
八咫烏さんは立ち去る素振りを見せた。
「あの、いつかお世話になるかもしれません。宜しくお願いします。」
私は伊月さんの背中から顔を出し、ペコリと頭を下げた。
「ああ。お前ならばいつでも助けてやるからな。」
八咫烏さんは私に妖艶な笑みを見せた。
「伊月もこの俺をこれだけ牽制したのだ。もうちっと那美を甘やかせ。」
―― え?
八咫烏さんは大きな羽を羽ばたかせ、そのまま庭の外へと飛んでいった。
私がスゴスゴと伊月さんの後ろから出ていき、もとの席に座り直すと、
源次郎さんも正次さんも、伊月さんを見てにやにやしている。
「へぇ…」と、源次郎さん。
「ふうん…」と、正次さん。
―― 何...???
伊月さんは不機嫌そうにお茶を飲みながら黙っている。
「あの、どうかしたんですか?」
伊月さんに聞くと、
「さあ。何かこの者達が勝手に勘違いしているのではないか?」
「勘違い?」
よく分からないまま小首をかしげる私に源次郎さんは、まあまあと言って、八咫烏さんに飲まれてしまったお茶の湯呑を片付けて、新しくお茶を入れ直してくれた。
「ところで堀、お前は何か用事があって来たのではないか?」
伊月さんが話題を変えると正次さんはハッとする。
「あ、那美様の美しさとおはぎの美味しさにスッカリ忘れておりました。」
―― この人も八咫烏さん並みに口が上手いな
「この前のような大きな魔獣はあれ以来現れておりませんが、地方に小物魔獣が増えております。」
「その報告は受けておる。」
「もう少し人手を増やしたいのですが、なかなか良き人材が集まらず。そこで武術大会を開催して若者を競わせ、見込みのある強者を軍に雇い入れたらどうかと。」
「うん。良い案だ。」
―― 武術大会かぁ
「何だか楽しそう。」
思わずそう呟くと、正次さんが身を乗り出して来た。
「那美様がご観覧席にいて下されば会が華やぐと思います!」
「え?」
「そうですねぇ、堀様。那美様、ぜひともご観覧下さい。」
源次郎さんも乗ってきた。
「見てもいいんですか?」
「良うございましょう? 主?」
源次郎さんが伊月さんに前のめり気味で聞く。
「別に構わんが...」
伊月さんも私と同様にこの二人の前のめり気味の反応に訝しげにしている。
正次さんはさっそく会場探しを始めると言っておはぎをもう一つ頬張ると、席を立つ。
「那美様にお会いできて光栄でした。おはぎも美味しゅうございました。それではまたお会いしましょう。」
正次さんが出ていくと、源次郎さんも仕事に戻ると言って退室していった。
「ふふふ。皆さん、楽しい方ばかりですね。八咫烏さんと伊月さんは古い知り合いなんですか?」
「ああ、共にオババ様のもとで修行をしておったよ。」
「そうなんですね。皆さん揃って仲が良さそうでした。」
「仲がいい? 馬鹿を言え。」
伊月さんは呆れたようにそう言うと、不意に私の手を取った。
―― ん?
「傷は治ったみたいだな。」
―― あ、この前の擦り傷を確認してくれてるんだ。
「はい。お陰様で。」
言いながら自分の心臓がトクトクと高鳴りだすのを感じた。
伊月さんの手はとても大きくてあったかい。
八咫烏さんから手を握られた時には感じなかった心臓の高鳴りだった。
「そ、そういえば。」
私は懐から手ぬぐいを出した。
「これ、捻挫をした時に貸して頂いた手ぬぐいです。本当にありがとうございました。」
綺麗な藤の文様が入った紫の手ぬぐいだった。
伊月さんの髪や目の色にとても合っている。
手ぬぐいを受け取る伊月さんの手が触れて、また、鼓動が高鳴った。
「おい、堀。」
正次が家路に着いていると、目の前に煙が湧き上がり、八咫烏が現れた。
「何だ、まだいたのか。」
「伊月はどうしてしまったのだ?」
「見て分からぬか? 那美様をたいそう気に入っておられる。」
「あいつが女を気にかけるとは…。」
「那美様には不思議な雰囲気がある。殿は人を寄せ付けぬよう、見えない壁を作っておられるが、それを易々と乗り越えられたようだな。」
「人間にはそのように感じられるのか。俺には、那美は、誠、美味そうな匂いがする。」
「やめておけ。那美様も殿にベッタリだ。」
「ベッタリというか、熊の後ろに隠れるウサギのようだったぞ。」
「ははは! それは言い得て妙だ。」
「しかし見たか? 俺が那美の手を取った時の伊月の顔を。 」
「ああ、見た。今頃は何か理由を作ってお前の握ったあの手を握り直されているかもな。」
「そうか? あいつがそんなことをするか?」
「私がなら、そうする。」
「そして、見たか? 俺が那美に菓子を食べさせようとした時の伊月の様子を。」
「見たとも。死地に立っても眉一つ動かさない殿があんな顔をなさるとは。」
「しかし伊月はこじれておるぞ。気になる女にあの態度と口調はないだろう。甘い言葉一つも言えんとは。」
「殿は自分のお気持ちに自覚がないのかもしれん…。」
「あいつがウカウカしていれば俺が横から那美をかっさらうぞ。」
八咫烏は不適な笑みを浮かべた。
「やめておけ。殿には私と源次郎どのから、女の甘やかし方をしっかりとご指導、ご鞭撻する。」
堀は不器用すぎる自分の主を助けようと決心した。
私は青い空を見上げた。
桜が散って、朝夕の肌寒さも和らいで、カラっと明るい晩春の空が広がっている。
―― 伊月さん、元気かな。
二週間前に伊月さんの屋敷に薬草を届けに行って以来、伊月さんとは文を何度か交わしているけど、会えてない。
オババ様によると、最近、魔獣が農村を襲ったり、若い女が誘拐されたりする事件が多いので、伊月さんたちはそういうのの対応に忙しいのだとか。
―― そんな忙しい中、私のことを気遣って、わざわざ人を送ってくれたんだ。
それは二週間前、伊月さんのおうちで、正次さんや八咫烏さんたちとお茶をした次の日だった。
お仙さんたちと、手習い所として使う小屋を掃除していた時、吉太郎が飛んできて、「那美に客人来る!男三人!」と言った。
その三人は伊月さんの軍で働く人たちで、黒鍬衆という土木工事などを専門とする役職の人だという。
「殿の命で、この小屋の修繕の手伝いをするように言いつかっております。」
そういって、私やお仙さんたちが掃除や片付けをする中、黒鍬衆の人たちは雨漏りの場所や、壁にあいた穴を修繕してくれて、文机まで作ってくれた。
「何とお礼を言っていいかわかりません。」
と、私もお仙さんたちも感謝の気持ちでいっぱいだった。
―― 伊月さんには恩返しするって宣言したばかりなのに、また助けてもらって、全然追いつかないな。
伊月さんの優しさに感動するのと、自分のことを気にかけてくれているという事実が、この上なく嬉しい。
お陰で、無事に手習い所をオープンすることができた。
―― 今日もお仕事開始!
私はこのところ、自分の手習い所の運営と、カムナリキの修行で忙しくしていた。
今までと同じなのは、夕凪ちゃんと、朝ご飯の用意をして、そのうち寝ぐせのついたオババ様が起きてきて、皆でワイワイ朝ご飯を食べて、一日が始まることだ。
朝餉のあと、私はすぐに手習い所のある、タカオ山のふもとまで歩いて出勤する。
お仙さんと、お仙さんのママ友たちが入れ替わりやって来るので、一日に2、3時間、週に2日教えている。
そして、私の学校は、タカオ山手習い所と名付けられた。
皆がやって来る少し前に手習い所に着いて、あれやこれやと準備する。
やっぱり教科書や教材があった方が教えやすいので、手作りで教科書っぽいものも用意したりした。
一つの教材を仕上げるのでいっぱいいっぱいで、皆の分は作れないから、各自、写本してもらう。
字を書く練習にもなるので、一石二鳥。
準備するうちに、生徒さんたちがやって来る。
ここで、私は皆に教えるよりも、色んなことを教わっている気がする。
例えば、手習い所の近くにある木や草花の名前を教えてもらったり、タカオ山に生息している小動物や鳥のことも教えてもらったり。
他にも、女性たちのうわさ話は多岐に渡り、この世のことを知るにはとてもためになる。
例えば、『鬼武者』と呼ばれる武士の存在をよく聞く。
生徒さんたちはほとんどが子連れのお母さんで、子供たちが騒いでいると、「鬼武者が来て食べちゃうよ」と言って、子供たちを黙らせている。
「あのう、鬼武者って何ですか?」
「鬼武者は亜国ではとても有名な武将です。とっても怖いんです。」
鬼武者は亜国の将軍の一人で、市中でもいつも鬼の面具を付けているそうだ。
顔が醜く恐ろしいから、いつも面具を付けているという噂なのだとか。
普通、軍が勝利して凱旋する時、兵たちは身ぎれいにして、
取った首も袋や箱に入れて城内に帰ってくる。
旗指物にも自分の家紋を入れて、自分の家の名をしらしめようとする。
だけど、鬼武者と鬼武者の兵たちは返り血もふかず、取った魔獣や敵兵の首もそのまま、手に持って帰ってくるのだとか。
そして、旗指物も真っ黒で、一体誰なのかわからないらしい。
「まさに鬼の形相で、血まみれで、それはそれは酷い死臭を漂わせて城内を歩いて行くんです。」
「夜に凱旋した時なんか、もう恐ろしくて、恐ろしくて。まるで百鬼夜行でした。」
「でも、とても強くて、大きな魔獣も退治するそうなんです。」
「つい数ヶ月前もすごかったですよ。こんなに大きな大蛇のような、翼竜の魔獣を引きずりながら歩いていました。」
「何やら、その魔獣たちを料理して食べているそうよ。」
「若い女をさらって食べてしまったって、うわさも立っているの。きっと乱取りもしてるんじゃない?」
「うわさによれば、家紋を使わないのも、人間ではないかららしいわ。」
「恐ろしいわ!」
確かにそれは怖いかも。
他にも、国政や、国交についてのうわさ話も色々と聞いた。
オババ様の管理しているタカオ山は、亜国と伊国の国境に位置している。
東に行けば、亜国、西に行けば、伊国だ。
ちなみに私は亜国の東北に位置する江国から来たことになっている。
伊月さんが空から降ってくる私を発見した場所が江国の国境だったらしい。
「江国出身の那美先生は知らないかもしれませんが、亜国の前の国主の時代はもっと平和だったんですよ。」
「そうなんですよ。現国主になって治安が悪くなったんです。」
「それはどうしてですか?」
「20年くらい前に、前の国主が伊国との同盟を成り立たせて、それから国同士の戦は減ったんです。」
「でも、少し戦が落ちついたからって、今の国主はダラけて内政をサボっているんです。」
「国主が政治をほったらかして、酒色にふけっているって専らのうわさなの。」
「悪事を働く人を取り締まらなくなったんで、国内の治安は悪くなるばかり。」
「オババ様にも敬意を払わないし!」
「そうそう。前の国主はオババ様と協力して色々な改革をしたんです。」
「そうなんですか! どんな改革ですか?」
「一番大きかった改革は、上下水道の整備です。水の循環が良くなって、疫病がとても減ったんです。」
「今の国主はオババ様が政治に関わるのを恐れているそうよ。」
「それはそうよ。今の国主よりも、オババ様が国主になったほうがいいって、みんな思うもの。」
―― オババ様も今の亜国の国主は愚鈍だって言ってたな。
「じゃあ、伊国の国主はどうなんですか?」
私のこの問いに、皆はお仙さんを見た。
「お仙さんは伊国の出身だけど、どう思ってるの? 今の国主。」
「伊国で生まれ育った私には今の状況は正直悔しいわ。」
お仙さんの話によると、今の伊の国主はもともと伊の人ではなく、亜国から派遣されてきた人なのだそうだ。
「伊国の王子様を人質に取る代わりに、亜国と伊国は同盟を組んだんです。そして、伊国の王子様が元服したら、王子を伊国に返してくれる約束でした。」
「そうよね。でも、今の亜国の国主になって、急にその約束を反故にされたのですよね。」
「そうなんです。今でも伊国の王子様は人質としてこの亜国で辛い思いをしているそうです。そして、代わりに今の伊国の国主に据えられたのは、亜国の国主の甥にあたる人です。」
「それって亜国が伊国を乗っ取ったてことですか?」
「そうです。今は伊国は亜国の属国みたいな扱いです。伊の民から沢山税金をとって、亜国の国主に流しているみたいなの。伊の民たちは皆、伊国の王子様が帰ってきてくれることを願っています。」
お仙さんは悲しそうに言った。
お仙さんも、みんなも、激動の国政の中に暮らしているんだな。
こんなにも不安定な状況で、みんな子供を育て、家計を助け、とてもたくましく生きている。
改めて、ここにいるみんなに、尊敬の念を抱いた。
手習い所での仕事と、噂話タイムが終わると、私はカムナリキの修行を始める。
オババ様に手習い所を運営する代わりに、カムナリキの修行は欠かさないと約束した。
毎日、毎日、カムナリキで攻撃する力加減を調節する方法を試した。
岩を相手にカムナリキを放出して、沢山の岩を粉々に砕いてしまった。
でも、ここ数日、ようやくカムナリキの放出量を調節できるようになっていき、コツを掴めた気がした。
「オババ様、ちょっといいですか?」
神殿でゴロゴロしていたオババ様を起こす。
「どうした?」
「多分、カムナリキの放出量を調節できるようになりました。でも、岩でしか試してないからよくわからなくて。」
「ほう、見せてみろ。」
オババ様は寝転がりながら言った。
私は近くにあった、オババ様の湯呑を目の前に置いて、雷石のついた数珠に左手を当て、右手の手のひらを湯呑にかざした。
カムナリキを放出すると、バチンと小さな電気の筋が走って、湯呑にあたり、湯呑はコトリ、と倒れた。
「なかなか良いな。もう少し強くできるか?」
「はい。」
私は湯呑を起こして、もう一度、カムナリキを放出する。
今度はバチバチと音がして、さっきより太めの電気の筋が走った。
湯呑はパン!と音を立てて、30cmくらい飛ばされて倒れた。
「うむ。良いな!」
「でも、人に当てるとどのくらい痛いのかがわからなくて。自分に当てても全然痛くないんです。」
「自分のカムナリキで自分を攻撃することはできぬからな。では、やはり人で実験せねばな。」
「でも誰がこんなことの実験台になってくれるでしょうか?」
「ワシがいい実験台を見つけてやる。」
オババ様が不敵な笑みを浮かべた。
―― 何か、嫌な予感がする。
「ところで、那美。」
「はい?」
「それだけカムナリキの放出を調節できるようになったのだから、オヌシの修行も次の段階に移らねばな。」
「わーい! 嬉しいです! 次はどんな修行ですか?」
「次からは研究室での修行じゃ。」
「研究室で? オババ様も時々こもって何かしていますよね?」
「そうだ。私は私の力を使って何か新しい物や仕組みを開発できないか模索している。一度自分のカムナリキの放出量を調節できるようになれば、いろんなことに活用できるようになる。オヌシも自分のカムナリキの使い道を広げられるようになるぞ。」
「すごくやりがいがありそうです!」
「うむ。では、次から、手習い所の仕事が終わったら、研究室に来るように。」
「はい!」
私はようやく修行の第二フェーズをクリアできたみたいだった。
やっと研究室デビューできる。
「ところで、那美、明日の宴のことは皆に告げたか?」
「はい。ちゃんと伊月さんに文で伝えて、返事も来ました。」
「そうか。宴の準備は進んでいるのか?」
「もちろん、万事オッケーです!」
「桶???」
――――
伊月がいつものように朝、剣術の稽古をしていると、庭の裏手にある門の外に人の気配がした。
「主、戻りました。」
気配の主が声をかける。
「入れ。」
裏門から、清十郎が庭に入り、伊月の前にひざをついた。
「主、あの男の所在を突き止めました。」
「良くやった。」
清十郎の報告によると、魔獣を扱うことの出来る男は内藤丈之助と名乗っているが、本名ではなさそうだということだ。
江の国を本拠にしているが、なぜかよく亜の国に出入りしている。
「亜の国では買い物をしたりして帰るだけで、他の者との接触は認められません。ただ、気がかりなのは、亜国に来るたびに、カグツチの祠に必ず行きます。」
「何か目的があるに違いない。引き続き、頻繁に亜国を訪れる理由を調査しろ。」
「は。」
「他に分かったことは?」
「今のところ、あの者が扱えるのは先日主がとらえた、火を吐く翼竜のみです。」
「今のところというと、内藤という男はもっと他の魔獣をつかいたがっているのか。」
「おそらく。自身の力を研究しておるようです。ですが、他の者に術を教えるということはないようです。」
「それでは組織を作っているわけではないのか。」
「それが、組織を作っているのです。」
清十郎がいうには、内藤の率いる組織は、どうやら強盗などを生業としているごろつきが主で、魔獣を扱えるものや、そういった術に興味のある者は他にいないらしい。
「江の国主との関係は?」
「たぶん、魔獣を使える力を買われて、雇われたのかと。まだ、はっきりはわかりません。良ければ、江の国に潜入捜査したく。強盗一味の一人に近づこうかと。」
「良し。許す。無事に戻ってこい。」
「承知。」
清十郎は次の瞬間にサッといなくなった。
伊月はそのまま剣術の稽古を終えて、汗を流し、着替えた。
仕事のために自室に戻ると、文机の上に何通かの文が置いてある。
いつも文が届くと、源次郎がこの文机に置いておくか、伊月に直接渡す。
重なり合った文の束の一番下に薄桃色の封筒が見える。
「那美どのか…。」
―― 相変わらず、このような文をもらうのは慣れんな…。
と、思いつつも、真っ先に手に取って、開けてみる。
先日、黒鍬衆の者たちに、あのボロ小屋の修繕をするように命じたのだが、その礼がつらつらと書いてある。
黒鍬衆が屋根に空いた雨漏りの穴を見つけ、修繕してくれ助かったと書いてある。
ネズミが入って来るとオババ様が言っていた壁の穴もふさがったらしい。
他にも、お仙さんがネズミが大嫌いで、怖がっていたけど、その心配がなくなり、助かったということ。
黒鍬衆は文机も作り、皆、勉強道具がそろって、やる気になっているということが書かれている。
このようなことはとっくに黒鍬衆から報告を受けたが、改めて那美が書いて知らせてくると、ただの事実報告だった内容に彩が加えられる気がした。
―― 那美どのが書くと、皆の喜んでいる顔が思い浮かぶ気がするな。
そして、文の最後には、宴を催すので来てほしいとあった。
手習い所の開設のお祝いと、協力してくれた皆への感謝会を兼ねての催しだということだ。
筆を取り、さっそく返事を書こうとするが、すぐに筆が止まった。
前々から、那美に文を書く度に、源次郎からダメ出しをくらう。
例えば、以前、湿布薬を送った時に文を添えたが、源次郎曰く、
「これは文というか、薬の使い方を教える、指南書ではないですか。もっと、こう、心配しているとか、早く良くなってほしいという気持ちを込めるべきです!」
ということだった。
だから、『はやく良くなるように願う』と書き足したが、それでも「色気がない」とダメ出しされた。
―― 文と言っても、何を書けばいいのか… 色気とはなんだ!?
とりあえず思いついたことを書くことにする。
「息災にしているのか? 手習い所の仕事はどうか?何か要り用の物はあるか?宴には行かせてもらう。』
―― こんなことしか書けぬ。
頭を抱えていると、源次郎が茶を持って入ってきた。
「主、那美様にお返事ですか?」
「な、なぜ分かる?」
「分かりますよ。それよりも、今回は指南書ではないものを書いて欲しいものです。」
「今回は指南書ではない。」
源次郎に書きかけの文を見せると、今度は源次郎が頭を抱えた。
「これでは、報告を促す催促状ではありませぬか。女人の好きそうな短歌の一つでも添えたらどうですか?」
「た、短歌だと?」
「はい。季節の花の色や鳥の声の様子も書き添えたりすると良いですよ。」
「源次郎、その思考はどこからやって来る?」
「私は主よりも頻繁に女人に文を書くのです。」
「そ、そうなのか?」
「はい。そうですよ。」
源次郎はあきれたように、それでは、と言って部屋を出て行った。
「短歌だと?花の色?鳥の声?」
伊月はしばらく文机に座って眉を寄せていたが、降参し、仕事の書類を片付け始めた。
しばらく仕事に専念していると、文机の先の窓から、最近、庭に咲きはじめたスズランが見えた。
伊月は那美宛の文に書き足す。
『庭に鈴蘭が咲き始めた。暇があればまた庭の花でも見に来ると良い。』
―― これ以上は無理だ。むぞがゆすぎる!
伊月は早々に文を折り、封に入れて、源次郎に渡した。
「何か趣のある内容を書き添えられましたでしょうか?」
文を受け取りながら源次郎が聞く。
「スズランが咲いたので見に来ると良いと書いた。」
どうせまたダメ出しをしてくると思っていたが、源次郎は意外にも、
「おぉー!それはようございますね!」
と嬉しそうに言った。
「スズランの花言葉は幸せの再来にございます。」
「そ、そうなのか?」
「それを見にまた我が家に来られるようにと那美様に促し、那美様の再来が幸せの再来であると、かけられたのでございますね。」
「あ、いや、そういうわけでは・・・」
「なかなかでございます、主。では、文を出してまいります。」
源次郎は嬉しそうに部屋を出ていく。
―― まったく源次郎のやつ、花言葉なぞどこで習うのか?
伊月はそれ以上考えないようにしたが、ふと、
―― 那美どのもあの一文を読んで源次郎のように解釈するのだろうか。
と思い、顔が赤くなった。
空が夕焼け色に染まった。
今日は朝からずっと宴の準備をしていた。
「準備万端だね。」
夕凪ちゃんと私は、今日二人で一日かけて作った料理の数々を見回す。
「バッチリだね。気がかりはオババ様のつまみ食いだけだね。」
夕凪ちゃんは真剣に言ってる。
「ねえ、那美ちゃん、そろそろ着替えて来なよ。そんな格好でお客様をお迎えできないよ。」
私は朝からバタバタと宴の準備をしていたので、襷をかけて、着物の裾を上げ、手拭いで髪を覆っていた。
「そ、そうだよね。じゃあ、ちょっと着替えて来るね。夕凪ちゃんは着替えないの?」
「私は化けだぬきだから、直前に化ける。」
「あ、そっか。じゃあ、行ってくるね!」
「ちょっとはお化粧もしておいでよ。」
「う…。苦手だけど頑張るよ。」
何とかいつもより5%くらい増しでおしゃれして、宴の時間に間に合った。
いよいよ日が暮れて、次々と招待客が訪れ始める。
私は準備した部屋へとお客様たちを案内する。
お仙さんとお仙さんのママ友たちも今日は旦那さんを連れて来てくれた。
手習い所の小屋を修繕してくれた黒鍬衆の人達も来てくれた。
他にもオババ様の眷属の吉太郎と吉太郎の仲間、オババ様と古い付き合いだという神使の猿の一団、八咫烏さんなど、あやかしたちも来た。
「お、那美、今日は前に会った時よりも着飾ってて可愛いぞ。ますます美味そうな匂いがしておるな。」
八咫烏さんが開口一番そういった。
「あーはいはい、ありがとう、八咫烏さん。」
私の中で八咫烏さんはチャラ男認定されているので、話半分に聞きながら、席に着かせる。
そこに、伊月さん、源次郎さん、正次さんたちもそれぞれ馬に乗ってきた。
正次さんも八咫烏さんと同様に開口一番
「おぉ、那美様、今日はまた一段とお美しいですな!」
と、言った。
―― 八咫烏さんと正次さん、ちょっとチャラいところがそっくりだ。
伊月さん達が来ると、お仙さん達の旦那さん方や黒鍬衆たちは床に頭をついて平伏していた。
―― あ、皆、兵だから、将軍の伊月さんは上司になるのか。
でも、伊月さんは
「今日は仕事に関係のない宴なので上も下も関係なく無礼講でお願いしたい。この通りだ。」
と言って皆に頭を上げさせるとともに、自分が頭を下げた。
―― そういう偉ぶらない伊月さんは、やっぱりかっこいいな。
「何をニヤニヤしておる気色悪いぞ。」
後ろからオババ様の声がする。
振り向くと、いつもとは違う衣装のオババ様がいた。
「あ、オババ様、すごくキレイ!」
いつもは裾引きの薄い着物を幾重にも重ねて割と派手目な格好のオババ様だけど、
今日は長袴に水干の巫女姿という、いつもよりシンプルな装いだ。
そのシンプルさが、オババ様の銀色の髪や、深紅色の目や、人間離れした雰囲気を引き立たせている。
そして銀色に輝く髪には金色に輝く冠のような簪を付けている。
「ワシはいつも美しいのだ。」
自信たっぷりに言うオババ様にクスっと笑う。
「自分で言うのはどうかと思いますが、反論はできません。」
皆が揃い、席に着いたのを見て、オババ様が挨拶をした。
「さて、ご来場の方々。今宵は那美のために手を貸してくれた皆に感謝を表す宴じゃ。大いに食べて、飲んで、歌って踊ろうぞ! 乾杯!」
オババ様が乾杯を皆に呼びかけ、宴が始まる。
夕凪ちゃんと私は皆に料理を運び、お酌をして、一人ずつ挨拶をしていく。
皆、思い思いに会話と料理とお酒を楽しみ、楽しそうだ。
ある程度お酒も料理も行き渡り、私も夕凪ちゃんも席に着いてくつろぐことにする。
私は伊月さんの横に空いている席を見つけて座る。
「伊月さんも、お酒、どうですか?」
「頂こう。」
私は伊月さんの盃にお酒を注ぎ、横顔を見た。
伊月さんはお酒を飲む姿まで優雅だ。
「今日は来て下さってありがとうございます。」
「こちらこそ、呼んで頂いて感謝する。源次郎も正次も、あのように喜んでいる。」
伊月さんの指差す方を見ると、源次郎さんも、正次さんも、そして八咫烏さんも、手習い所に来ている若い生徒さんたちと楽しそうに会話している。
「ふふふ。楽しそうで何よりです。」
「那美どのも、一杯どうか?」
「良いんですか? じゃあ、一杯だけ。」
伊月さんが私にお酌してくれる。
「んー! 美味しいですね。」
オババ様が皆のために用意してくれたお酒は、少し甘さがあり、まろやかだった。
お酒を堪能していると、オババ様が、伊月さんに声をかけた。
「伊月、拐かしの事件の捜査はどうじゃ。」
「それがサッパリです。若い女を狙っているみたいで、私達のようなむさ苦しい者が調査を始めるとパタッと事件がなくなる。」
「そんな事だろうと思い、今日はワシが良い案を授けてやろうと思ってな。」
オババ様は言いながら私の顔を見てニヤっと笑った。
―― な、何?
「おとり捜査をしてはどうか。那美が、おとりになる。」
「は?」「え?」
伊月さんと私は同時に驚いた声を出した。
「それは、出来ぬ。危ない目に合ったらどうしますか?」
伊月さんは即座にオババ様の案を却下する。
「那美は最近カムナリキの使い方を心得て来ておるので、多少危ない目に合っても自分の身は守れるぞ。」
そういえば、私のカムナリキの攻撃がどれくらい効くのか実験する相手がいないと言ったら、オババ様が実験台を見つけてやると言っていた。
「オババ様、実験台ってもしかしてこのことですか?」
うんと、オババ様がうなずく。
―― 確かに誘拐犯人が相手だったら気兼ねなく力を試せるな。自分のカムナリキを試せる絶好のチャンスかも。
それにもしかしたら、少しでも伊月さんの役に立てるかもしれない。
「伊月さん、あの、お願いです。やらせて下さい。」
私は伊月さんの顔を覗き込んだ。
「駄目だ。」
「お願いします!」
「駄目なものは駄目だ。危険すぎる。」
伊月さんは譲る気がなさそうだったけど、私も引き下がらなかった。
「今、調査は難航してるんですよね? その間にも他の人が拐かされちゃうかもしれないじゃないですか? 少しでも違うことを試したほうがいいと思います。」
「だが…。」
「何かお役に立てそうなことがあるのなら、少しでも可能性があるのなら、させて下さい。」
私は伊月さんに向かって深く頭を下げた。
「伊月、那美はオヌシが思っているよりずっと怪力じゃぞ。自分の背丈ほどの岩をやすやすと砕ける。那美の力を信じてみろ。」
オババ様も説得してくれる。
「…」
伊月さんは黙っていたが、ふうっとため息をついて、私の両肩を掴み頭を上げさせた。
そのまま私の目を見て、子供に言い聞かせるように言う。
「分かった。ただし、危なくなったらすぐに身をひくことだ。無茶をしないと約束できるか?」
「はい!」
私はこうやって伊月さんの調査に加わることになった。
「よし。決まりだな。だが、その前に、今夜は宴を大いに楽しめ。」
そういうとオババ様は立ち上がり、声を大にした。
「これより舞を奉納する!」
皆の拍手を受けながら、オババ様が神楽舞台へと立った。
オババ様の招待で来ていた神使の猿の一団がそれぞれ楽器を手に舞台へと上がる。
猿の神使たちの演奏が厳かに始まった。
それに合わせてオババ様も巫女舞を始める。
「わぁーキレイ。」
オババ様の舞はとても神秘的で美しい。
水干の袖が、長袴の裾が、ひらひらと翻り、その優雅さに目を奪われる。
オババ様が鳴らす鈴の音も耳に心地良い。
思わず我を忘れ見とれていると、
「おぉー!」
と皆が空を見上げ、歓声を上げ始めた。
私も皆の視線を追って空を見上げる。
何と、そこには大きな龍が銀色に輝く体を雲に乗せて、空からオババ様の舞を見ていた。
「え? りゅ、龍?」
驚く私に伊月さんが教えてくれる。
「淤加美の龍だ。タカオ大社に祀られている、オババ様の父上、高龗だ。」
オババ様は以前、カムナリキを神のために使うには舞や音楽を奏でる必要があると言っていた。
「す、すごい。」
あまりに神秘的で美しい光景に目を奪われているうちに、オババ様の舞が終わり、音楽が鳴り止んだ。
その瞬間、空を飛んでいた龍の体からキラキラと光の粒が降りてきて、その光とともに龍の姿が見えなくなった。
わっと皆の拍手喝采が鳴り響いた。
「このキラキラしたのはなんですか?」
「神の祝福だ。ここにいる皆に神の加護があるとおぼしめされた。」
「まぁ素敵ですね!」
私も皆と一緒に拍手しながら感動を隠せずにいた。
お仙さんやお仙さんのママ友さんたち、彼女たちの旦那さん方、他の手習い所の生徒さんたち、黒鍬衆の皆さんが、ほろ酔いのまま少しずつ帰って行く。
私は一人ずつ挨拶をして、来てくれた感謝を伝え、見送る。
―― 皆、楽しそうにしてくれてて良かった。
食事も美味しいって言ってくれたし、頑張って作ったかいがあったな。
何よりもオババ様の舞は感動的だった。
―― ただ、あれはないな。
オババ様はその後、グダグダに酔って、皆に絡み、酒癖の悪さを発揮していた。
源次郎さんや正次さんにも無理矢理飲ませていた。
八咫烏さんや猿の神使の皆は、オババ様の酒癖の悪さを知っていたみたいで、「絡まれぬうちに帰る。」と言って退散して行った。
夕凪ちゃんも眠いから寝るって、煙をまいて消えてしまった。
私が帰って行く皆のお見送りを終えて、宴を催した部屋に戻ると、オババ様、正次さん、源次郎さんが酔いつぶれてグースカ寝ている。
―― あれ? 伊月さんの姿が見えないな。
私は床で寝転がってる人たちが風邪をひかないように、お布団をかけてあげることにした。
別の部屋から布団を運んでいると、伊月さんが後ろから、歩いてきた。
「私が持とう。」
そういうと、伊月さんは私の手からスッと布団を奪い取った。
「あ、ありがとうございます。皆、酔いつぶれちゃって、寝てしまったので、お布団をかけようと思って。」
「酔っ払いどもにそこまでせずともよいのではないか?」
伊月さんはそう言いながらも、お布団を皆にかけるのを手伝ってくれた。
「伊月さんはどこか行ってたんですか?」
「ああ、馬の様子を見ていた。那美どのはもう眠いか?」
「いいえ。私、ほとんどお酒飲んでなくて、まだ眠くないです。」
「馬に乗ってみるか? 夜だから速駆はできぬが。」
伊月さんからの突然の提案に胸が弾む。
「いいんですか? 馬に乗ったことがなくて。乗ってみたいです!」
私と伊月さんは厩まで歩いた。
伊月さんが自分の馬を私に紹介してくれる。
黒くてツヤツヤの毛並みをした馬だった。
「黒毛という。」
―― ネーミングセンスがそのまんまでウケるかも。
―― せめて〇〇黒毛とかにしてもいいのに。
「黒毛さん、こんばんは。どうぞ宜しくお願いします。」
黒毛は私に鼻を寄せクンクンとにおいをかいだ。
恐る恐る頭を撫でると、もっと撫でろというように顔を擦り寄せてきた。
「ふふふ。かわいい!」
伊月さんに促され、私は黒毛の背中に乗せてもらう。
そして、私の後ろに伊月さんが乗った。
体が密着して、伊月さんの筋肉質な体を背中に感じて、どうしようもなく胸がドキドキし始める。
極めつけに、後ろから、伊月さんの手が私の両手を持った。
後ろから抱きしめられているような感覚に陥り、ドキドキがさらに加速する。
「ここに掴まっておけ。」
と言って、鞍の出っ張った所を持たせてくれる。
「は、はい。」
「タカオ山の西側に、ちょっとした崖がある。行ったことがあるか?」
「いいえ。そのへんはまだ。」
「そうか。ではあの崖まで行こう。」
伊月さんが私の顔の近くで話すから、重低音ボイスが耳元をくすぐって、さらに鼓動が速くなる。
―― ちょっと、心臓がもたない!
「そ、その崖に何かあるんですか?」
「月がよく見える。」
伊月さんが手綱を握り、黒毛の横腹を軽く蹴ると、ゆっくりと前進し始める。
「うわぁ、結構ゆれるんですね。」
「あぁ。私に背中をもたれさせておけ。」
伊月さんの太くてゴツゴツとした片腕が私のお腹にそっと回って、体を支えてくれる。
ドキドキしながらも、私は伊月さんの大きな体に自分の背中を預けた。
伊月さんの息遣いや、心臓の音が聞こえた。
そしていつものヒノキのお香の香りが鼻をくすぐる。
「何だか、とても安心するな。」
「そ、そうか…」
―― あ、また、つい心の声が漏れてしまった。
「ほら、もう着くぞ。」
伊月さんがそう言うと、周りに繁っている木々の数が減り、先の方に岩肌がむき出しの崖が見えた。
そのまま真っすぐ馬を歩かせると、視界を遮る木々は完全になくなった。
ただ目の前に大きな月が二つ並んでいる。
「わぁ。」
山肌から突き出ている崖に立つと、夜の空に岩ごと浮いているような感覚に襲われる。
月が大きくて近い。
「月まで歩いて行けそう!」
雲ひとつない晴れた夜空は言葉では言い表せないほど綺麗だ。
伊月さんが、馬から降りて、私の手を取り、馬から降ろしてくれる。
「この月を肴に一献傾けようと思ってな。」
伊月さんは岩肌に腰を下ろすと、腰に下げた酒瓶を見せた。
私も伊月さんの隣に腰を下ろす。
「こんな景色を肴にお酒って、何て、ロマンチック。」
「ロマンチックとは何だ?」
「えっと、情緒的というか、趣があるというか。」
「私には皆目似合わぬ言葉だ。」
伊月さんは苦笑いをしながら、懐から手ぬぐいの包みを取り出した。
綺麗に包んである手ぬぐいを開くと、中からお猪口が二つ出てきた。
「那美どのも飲むか?」
「じゃあ、少し頂きます。」
私達はまたお酌しあって、改めて乾杯した。
私は伊月さんがくれたお酒を一口飲んだ。
「はぁぁ。おいしい。本当に月が綺麗ですね。」
美味しいお酒と綺麗な月にウットリしていると、伊月さんがぼそっと言う。
「そなたの方が綺麗だ。」
―― え?
私はびっくりして伊月さんを見つめた。
「な、何でもない。」
伊月さんは私から目をそらし、月を見ながらお酒をグイっと飲んだ。
―― 頑張ってお世辞言おうとしてくれたのかな?
八咫烏さんや正次さんと違って、不器用な感じの褒め方が妙にくすぐったかった。
「そういう伊月さんはとてもかっこいいですよ。」
私は空になった伊月さんの杯にお酒を注ぎながら言った。
「世辞など言わなくていい。」
―― 本心から言ったのにな…
「お世辞じゃないです。いつも思ってます。大きくて、カッコよくて、私を助けてくれて、私にとってはスーパーヒーローです。」
「すうぱあひいろ、とは何だ?」
「えっと、英雄ってことです。」
「英雄? 私が?」
伊月さんは心底驚いたように目を大きくした。
「城どころか砦一つ持たぬ、扶持暮らしの一介の将だぞ。」
伊月さんは言いながら自嘲気味に笑う。
「そんなこと関係ないです。伊月さんは私のスーパーヒーローです!」
お世辞で言っていると思われたのがヤケに悔しくなり、ムキになって言い返す。
別にお城や砦を持ってなくても、沢山の兵士を率いる将ってだけですごいと思うのに。
伊月さんは一瞬びっくりして、破顔した。
「そんなに力説せんでもいい。」
私も少し恥ずかしくなって、恥ずかしさを紛らわすために、お猪口のお酒を飲み干した。
伊月さんがまた、お酒を注いでくれる。
「那美どのはこの世に来て三カ月も経たぬうちにすっかり馴染んでおるようだな。お仙どのの様子も前と変わっていた。知識を得てどこか自信がついたようだった。」
「そうですか? そうだといいです。」
お仙さんやお仙さんのママ友達は算術を覚えて、家計簿をつけ始めた。
やりくりが上手くなって、どうすればいいのかわかるようになってきたと言っていた。
「そういえば、お仙さんは伊の国の出身だって言ってましたけど、伊月さんもですよね?」
「ああ。ここを真っすぐ西に行くと私の生まれた地だ。」
伊月さんは崖の先をゆび指さした。
「お仙さんが言ってました。伊の国の人はみんな、伊国の王子様が帰って来て、国主になってくれることを望んでいるって。伊月さんもそうですか?」
「そうか、お仙どのはそう言っていたのか。」
伊月さんは私の質問には答えずに遠い目をした。
「ならばいつか伊に帰らねばならぬな。」
私はまた空になった伊月さんの杯にお酒を注いだ。
「どういうことですか?」
伊月さんは月を見たまま悲しそうに言った。
「その伊国の王子というのは私のことだ。」
「え? 伊月さんが伊国の王子様?」
「ああ。私もそなたの秘密を知っているから、そなたにも私の秘密を教えよう。」
伊月さんは崖の下を見ながら言う。
「伊国の前の国主は私の父だ。家督相続権のある息子は私一人で、子供の時に人質としてこの国に来た。」
そういった横顔が儚げでまるで月光に消えてしまいそうだった。
―― そういでば…
亜城の近に、位の高い武家の屋敷の並ぶ一画にある、一際小さい伊月さんの屋敷を思い出した。
―― そうか、隣国の王子だから位は高いけど、この国では冷遇されてるってことか。
伊月さんが城も持ってない扶持暮らしだと自嘲したのも納得がいった。
人質に出されずにそのまま家督を継いでいたら、一国一城の主になっていただろう人だ。
「共舘という氏は亜の先代の国主がくれた名だ。お仙どのもまさか私が伊国の前国主の息子とは思っていまい。」
異世界からやって来た私が新しい世界に馴染んでいるか伊月さんはいつも気にかけてくれてた。
そんな伊月さんも自分の意志に関係なく知らない土地に行かされた人だったんだ。
―― そして名前まで奪われて…。
「元々の名前は何ていうんですか?」
「豊藤だ。伊の国を興した一族の名だ。」
―― 豊藤伊月
私はなぜか伊月さんの本当のフルネームを心の中で反芻した。
―― 綺麗な名前。
「このことはお仙どの達には内緒にしておいてくれるか?」
伊月さんは私の顔を覗き込む。
「もちろん、言いません。約束します。」
私はうなずいて、伊月さんに小指を突き出した。
「それは何の仕草だ?」
―― あ、この世には指切りってないのかな。
「私のいた世では約束する時に、こうするんです。」
私は伊月さんの右手をそっと取って、その小指に自分の小指を絡めた。
「指切りって言うんです。」
「物騒な名だな。」
「ふふふ。はい。でも、それくらい本気の約束ってことです。」
「そうか。」
「はい。指切りです。約束の証です。」
「ああ。約束だ。」
伊月さんはいつになく優しい笑みを浮かべた。
私も笑みを返した。
「伊月さんと秘密を共有してるって、何か、嬉しいです。」
少し酔いが回ってきて、普段は恥ずかしくて言えなさそうな事が口をついて出てくる。
「なぜだ?」
「それは、伊月さんのこともっと知りたいからです。」
「な、なぜだ? 私のことを知っても何の得にもならんぞ。」
「得とかそういうの、関係なく、ただ知りたいんです。」
伊月さんは私の顔を覗きこむ。
「酔いが回っておるな? これは没収だ。」
伊月さんは私のお猪口を取り上げた。
「あー、伊月さん、いじわる。」
「そろそろ戻るぞ。」
伊月さんは私を立たせた。
自分で思うよりも酔っていたみたいで、足元がおぼつかない。
立ち上がる瞬間に少しよろけて、伊月さんの胸の中にすがってしまう形になった。
「す、すみません。」
「かまわん。そのまま歩けるか。」
「はい。」
伊月さんは私の腰をぐっと引いて体を支えてくれながら歩き始めた。
密着した伊月さんの着物越しに、心臓の音がする。
そしていつものヒノキの香りがした。
「伊月さんといると、安心します。」
「そ、そうか…。だが、あまり安心するな。」
伊月さんはため息まじりに言いながら私を馬に乗せた。
「安心するなって、どうしてですか?」
「分からぬなら、良い。」
ぶっきらぼうに言いながらも、伊月さんは馬に乗り、優しく私の体を支えてくれる。
「こんなに素敵な所に連れて来てくれてありがとうございます。」
「ああ。」
馬が歩き始める。
「この場所、ずっと崖って呼んでますけど、名前はないんですか?」
「名前?ないな。ただ、崖とか、あの峠とか呼んでいる。」
「じゃあ、月の峠って名付けましょう。特別感出るし。」
「いい名だな。」
「伊月さんと、また来たいです。」
「あぁ。」
馬上の揺れがとても心地良い。
「伊月さんと、もっと…一緒に...いたいです。」
「なっ、も、もう黙っていろ。…て、寝たのか? お、おい。那美どの?」
―――
朝目覚めたら、自室の布団で寝ていた。
―― え? どうやって帰ったんだっけ??
慌てて起きて台所に行くと、夕凪ちゃんが朝ご飯の支度を始めていた。
夕凪ちゃんによると、伊月さんが源次郎さんと正次さんを叩き起こして、日の出と同時に帰っていったそうだ。
―― もしかして伊月さんが私を部屋まで連れて行ってくれたのかな。失態をさらしてないといいけど。
この日、オババ様は昼過ぎまで起きてこなかった。
那美に呼ばれた宴に行く直前、出かける準備をしていると、堀が伊月の屋敷にやって来た。
「良いですか、殿!」
そして、前のめりで言う。
「宴の前に、女人の甘やかし方を伝授いたします!」
「なぜだ?」
伊月は訝し気に眉根を寄せた。
「なぜって、伝授しなければ、あまりにも那美様が可哀そうだからです。」
「那美どのが可哀そう? ど、どういうことだ。」
適当にあしらってスルーつもりだったが、意外な堀の言葉に、伊月は少し耳を傾ける気になる。
「那美様はあんなに健気にも殿の事をお慕いされておりますのに、殿ときたら那美様の喜ぶようなことを全然言いませんし、致しません。」
「ちょ、ちょっと待て! まず、那美どのが私のことを慕っているというのはありえん。」
はぁぁぁ、と物凄いため息が聞こえて振り返ると、源次郎だった。
「主、女人のこととなると、なぜそんなにも鈍感なのですか!」
「は?」
「あんなに文をお互い書きあったり、お会いになった時も仲睦まじく…。那美様は主を一人の男として見ておいでです!」
源次郎が力を込めて言う。
「それは、私は男だからな。女には見えんだろ。」
「はぁ。私が言っていることはそういうことでは…」
源次郎がいつになく白らけた目を伊月に向けている。
「まぁ、とにかく、殿、今日は聞いて頂きます。女人の甘やかし方を!」
堀が詰め寄った。
「しっかり、堀様のお言葉をお聞きください、主!」
源次郎も詰め寄った。
―― ちゃんと聞かんと逃げられぬ雰囲気だな。
伊月は諦めて、居住まいをただした。
「よし、聞く。言え。」
「まず、いつもとは違う簪をしていたり、紅をひいていたりしたら、それを褒めることです。」
「どうやっていつもと違う紅とわかる?」
「日ごろからの観察でございます!分からぬ時はただ綺麗だと言えばよろしい。」
「そなたら、そういう、こっぱずかしいことを女人に普通に言えるのか?」
「もちろん。」「当たり前です。」
二人とも同時にキッパリと返事をした。
「次に、馬に乗せるとようございます。」
「何故だ?」
「二人の距離がグッと縮まります。」
「それは、女人のためではなく、己の下心のためではないのか?」
伊月が片眉を上げ、堀を見る。
「もちろんそれもありますが、女人は馬に乗る機会が少ないのです。馬に乗れるとなれば、きっと喜びます。馬をなでるだけでも嬉しがるものです。」
「…そうか。」
「堀様はいつもそうやって町娘を…」
「げ、源次郎どの、それは今はいいではないか。」
堀は焦ったように源次郎を諫めた。
―― 源次郎も堀も私の知らぬところで色々とありそうだな。
伊月は今までこの二人のそういうプライベートに興味もなかったが、今頃そんなことに気づき始めた。
「殿、そして、何より、場所が大切です。 景色の美しい所に連れて行くと女人は何より喜びます。」
「景色の良いところか…。 それなら、いくつか知っている。」
「お、その調子で御座います。 できるだけ人気のない所がおススメです。 二人でゆっくり話ができますから。」
「なるほど。一応、心に留めておく。」
―――
宴に着くと、なるほど、堀も源次郎も、そして八咫烏まで、女人に対してポンポン誉め言葉を言っている。
―― よくそういう歯の浮くようなことを言えるものだ。
そして、手習い所の若い女たちとすぐに打ち解けていた。
少し飽きれて観察していた伊月の元に那美が来て酌をした。
いつもより着飾って化粧をしている那美を見て、素直にきれいだと思ったが、それを素直に言えなかった。
―― 何故、堀たちはあんなにも、いとも簡単に口に出せる?
不思議に思いながら酒を飲んだ。
宴もたけなわとなり、皆が酔いつぶれ、思いがけなく那美と二人になったので、馬に乗りたいか聞いてみたら、いたく喜んでいた。
―― 堀の言ったこともまんざら嘘でもなかったな。
そうして馬に乗せたはいい物の…
―― こ、これはいかん!
那美の体を後ろから抱きしめているような形になってしまい、伊月は焦った。
月明りに照らされて、那美のうなじがなまめかしく見えた。
少し甘い花のようなにおいが那美の髪から香った。
一生懸命平静を装おうとするくらい一人ドギマギしているのに、那美は、「何だか、とても安心するな。」と言う。
―― この前、背中におぶった時もそうだったが、かなり安心されている…
伊月は複雑な気持ちだった。
源次郎は那美が伊月を男として見ていると言ったが、その割には安心しきって警戒心がない。
―― 男として意識していない証拠ではないか?
酔いが回ってきて、那美の目がとろんと溶けたようになる。
那美の顔が少し上気して、赤くなってきた。
うるんだ目で見つめられてどうしようもなく、胸をかき乱された。
どうしても酒でうるんだ那美の唇に目線が行ってしまう。
―― いかん、このまま一緒にいてはダメだ!
頭の中で警告がなり、那美から酒を没収して馬に乗せる。
那美のふらつく体を支えると、また、「伊月さんといると安心します。」などと言う。
―― やはり安心されているではないか!
と、思えば、「もっと…一緒に...いたいです。」などと言われる。
―― また、そういう事を言って私の心をかき乱す!
「なっ、も、もう黙っていろ。…て、寝たのか? お、おい。那美どの?」
伊月はスヤスヤ眠る那美の寝顔を見た。
気を失っていた時とは違う、安らかな寝顔だった。
部屋まで運び、布団に寝かせても、赤ん坊のように眠りこけて起きない。
―― ふっ。可愛いな。
こういう寝顔を見れたのだから、堀の助言はまずまずだったなと思い直した。
しばらく、そのまま寝顔を見守っていた。