伊月(いつき)はいつものように城下町でお昼を済ませて帰路につこうとしていた。
そこにちょっとした人だかりが出来ているのを見つける。
通り過ぎようとすると、聞き慣れた声がした。

「普通に計算すればわかるじゃないですか。お釣りは3(とみ)()ですよ。」

「女の分際でギャーギャーうるせえよ。」

―― ん? 那美(なみ)どのの声!?

人よりも頭一つ高い伊月(いつき)は人だかりに近づき、事の次第を覗き込む。
その瞬間、那美(なみ)の体が地に叩きつけられたのが見えた。

「きゃっ。」

次の瞬間、考える間もなく伊月(いつき)の体は怒りの衝動に動かされていた。
那美(なみ)足蹴(あしげ)にしようとする男のみぞおちを打つと、男の体は突き飛ばされ、地に落ちた。
それでも怒りがおさまらず、男の胸ぐらを掴む。

「な、何をする! は、離せ!」

持ち上げた男の体を宙ぶらりんにしながら、殺意を向けた。

「すげーお侍さん! 力持ちだなー!」

「そのままやっちまえー!」

町の人たちの歓声が響き、ふと我に返った。

―― これ以上はいかん。この男はただの商人だ。

あれだけ普段から市中では目立たぬように心がけているのに、こんなに衝動的に行動してしまった自分に戸惑った。

必死に殺意を抑えていると

「お、下ろしてくれ!」

と、男が悲痛の声を上げる。

「あい、分かった。」

―― この辺が落としどころだな

伊月(いつき)は男の体を離して、まだ地面に張り付いている那美(なみ)を起こした。
怒りに任せて行動してしまった自分に戸惑いながら、那美(なみ)にどう声をかけていいかもわからず、とにかく無言で歩き出す。

―― 足を痛めたか

那美(なみ)が左足を(かば)いながら歩いているのにすぐに気づく。
すぐに抱きかかえてやりたい気持ちが湧き上がるが、町の人たちの野次を聞いて我慢する。

―― 人前では、那美(なみ)どのに迷惑をかける

「あ、あの、お侍さん!」

そこに、見知らぬ子供連れの女が来た。
女は伊月(いつき)が怖いのか、震えている。

「そ、その方は私を助けて下さったんです。どうお礼を言っていいかわかりません。お、お願いです。奥様をしからないであげて下さいまし。この通りです。」

「お...おく...」

―― 嫁と思われたのか

その瞬間、自分の顔がブワッと熱くなったのが分かった。

―― そうか、那美(なみ)どのは、この人を助けてあんなことになったのか。

「…しかるつもりはない。」

伊月(いつき)はまた歩き出す。
本当はしかりたかった。
あんな無茶をして、足を怪我して、擦り傷を作っているのに、
自分がたまたま通りかからなかったら、どんな酷い目に合っていたか。
想像するだけで、またあの男への殺意が湧いてきた。

源次郎(げんじろう)、酒を買ってこい。稲荷小川に行く。」

―― 那美(なみ)どのが他に怪我をしていないか心配だ。

伊月(いつき)は今すぐに那美(なみ)を抱きしめ、隅々(すみずみ)見分(けんぶん)して、無事を確認したい衝動に駆られている。
今まで感じたことのない感情の波に自分でも戸惑いを隠せず、那美(なみ)を直視することができない。

ようやく人気(ひとけ)のない路地に来て、那美(なみ)を抱きしめたい衝動の代わりに抱き上げた。

「あ、あのっ…。」

「大人しく捕まっていろ。」

有無を言わさずそのまま歩き始めた。

―― これだけ心配させられたのだ。このくらい我慢してもらう。

自分でもわけがわからない言い訳をしている。
那美(なみ)は体のバランスを取ろうと、伊月(いつき)の肩にしがみつく。
那美(なみ)の柔らかな重みを感じることで、伊月(いつき)は多少落ち着きを取り戻した。

「あの、自分で歩けます。」

「嘘をつけ。」

那美(なみ)はすぐに大人しくなった。

―― 例え怪我をしてなくともしばらく離したくはないな。

そんなことをふと思い、その自分の思考に戸惑った。

―― なぜ私はこんなことを思うのだ

悶々と考え事をしている伊月(いつき)那美(なみ)は怒っているとうけ取ったらしい。

「ご迷惑かけて、すみません。」

と、しきりに、すまなそうにしている。
迷惑ではないと那美(なみ)に言ったのは伊月(いつき)の本音だった。
迷惑どころか、なぜかこの人の危機を救うのはいつも自分でありたいと思った。

―― そういう気持ちを自分には上手く表現できぬ。

伊月(いつき)は悔しさを覚えた。

「その足では歩けぬ。オババ様の所まで送って行く故、乗れ。」

「で、でも…」

伊月(いつき)那美(なみ)に背中に乗るように言うと、恥ずかしがってあたふたとしている。
その姿がなぜかいじらしくて、もうちょっと意地悪なことをしてみたくなった。

「また、さっきの抱き方の方がいいのか?」

伊月(いつき)は振り返って那美(なみ)を見下ろす。

「い、いえ、じゃあ、おんぶで。」

顔を真っ赤にして、おずおずと背に乗るという那美(なみ)を見て、伊月(いつき)のいたずら心が満たされる。

半ば強引に那美(なみ)を背負うと、不思議な感情に襲われた。
那美(なみ)の体のあたたかさと、柔らかさがダイレクトに背中に伝わって来た。
伊月(いつき)は一瞬その感覚に圧倒され、頭の中が真っ白になる。

―― なんなのだ、この温かさと、柔らかさは!

背中が解けるかと思った。
よこしまな考えが湧き出てくる。
何とか理性を保とうとすると、自然とさらに口数が減ってしまう。
この不思議な感情の処理に困っている所に追い打ちをかけるように、那美(なみ)は頬を伊月(いつき)の背中に擦り寄せて、安心しきったようにしている。
伊月(いつき)の胸の奥が鷲掴(わしづか)みにされたように苦しくなる。

「はぁ、伊月(いつき)さんの背中って、大きくてかっこいいな。」

「な…何を急に。」

那美(なみ)は自分に安心しきっていて、そういう言葉が男にどういう感情を引き起こさせるか全く考えてなさそうだった。
だが同時に那美(なみ)の純粋さに心を洗われる気もした。
よこしまな事を考えていた自分が恥ずかしくなる。

―― 那美(なみ)どのの天真爛漫さには癒やされるな

と言いたかったが、

「そなたは誠に能天気な女だ。だがその能天気さに救われる者がいるのは事実だ。」

という言葉になってしまう。

源次郎(げんじろう)のように明るい微笑みを向けられない、優しい言葉をかけられない自分が痛ましかった。

―― くそ。

そんな伊月(いつき)のトゲのある話し方にも那美(なみ)(ひる)まず、「いつか恩返ししますから!」と健気(けなげ)さを全開にしている。

―― 全く、那美(なみ)どのには(かな)わぬな。

伊月(いつき)はまたこの天真爛漫さと能天気さに癒やされていた。