「うわーなつかしいね!」

 さっきから大雅は右へ左へとふらふら、まるで糸の切れた凧みたい。

「このスーパー、まだやってるんだ。昔とちっとも変わってない」

 指さしながらふり向く大雅の髪が、風の形を教えてくれる。

「危ないからあまり車道に寄らないで」
「うん」
「あ、そこ段差あるから気をつけて」

 さっきから保護者みたいな発言しかしていない。
 あまりにもうれしそうでなつかしそうな大雅は、普段は気づかない古い看板にさえ反応している。
 結局、うまく断ることができないまま放課後になり、ふたりで夕焼けの駅前を歩いている。
 長く伸びた影の私たちが重ならないように、わざと離れて歩く私。

 だって男子とふたりきりで町を歩くなんてこと、普段は絶対にないから。

「駄菓子屋さん……山田屋だっけ? この家のあたりじゃなかった?」

 はしゃぐ大雅はまるで子どもみたい。彼は本当に私の幼なじみなの?

「山田屋さん、区画整理のときに引退しちゃったから」
「そうなんだ。みんなで小学校の帰りに買い食いしたよね」

 夏が去ったなんてとんでもない。午後の駅前はじりじりと焦げるような暑さだ。
 土日とかにみんなで町をぶらぶらすればよかった。
 無邪気にはしゃぐ大雅のことを、私はちっとも思い出せない。

 そもそも、幼稚園や小学低学年のときのことをほとんど覚えていない私。
 昔からそうだった。アルバムをめくっても、自分がどんな子供だったのかわからないのだ。
 私の場合は、小学校四年生からの記憶はそれなりにあるのに、それ以前のものはゼロに等しい。
 幼い日のことを忘れることなんて普通にあると思っていたから気にしてこなかった。でもさすがに、幼なじみの存在自体を忘れているなんて心配になる。

 大雅はよく覚えているんだな……。

 白いシャツがやけにまぶしい。

「駅前は変わってないね。ここの横断歩道がやけに薄暗いのも同じだ」

 踊るように横断歩道に出た大雅に「危ない」と言いかけて、信号が青であることに気づいた。

「私はあまりここ、来ないんだよね」
「家のほうからだとあっちの交差点を使うもんね」
「そうそう」

 なんとか話題についていけている、とホッとする。
「あ」と、大雅はなにか思いついたように振り返った。

「夕焼け公園ってまだある?」
「夕焼け公園? ああ、二丁目の公園のこと?」

 高台にあるその公園は私や伸佳、茉莉の家から近く、中学にあがるくらいまではよく集合場所にしていたっけ。
 夕焼け公園の響きに覚えはないけれど、町が真っ赤に染まる光景は覚えている。

「時間もちょうどいいし、行ってみようよ。こっちだよね?」

 さっさと歩き出す大雅はまるで子供みたい。
 そばにいればなにか思い出せるかも、という期待は見事に外れた。町案内の最中も、私は適当に話を合わせることしかできずにいた。
 急な坂道を登っていけば、町は遠のき、空が近づいてくる。坂道の途中の左手に公園の入り口がある。坂の上には私たちの住む住宅街が続いている。
 砂利道を踏みしめる感覚がすでになつかしい。
 ブランコと砂場、そして町を見おろせる場所にはいくつかのベンチが設置されているだけの簡素な公園。
 なかに入るのはいつぶりだろうか。

「悠花、見て。すごい夕日が大きい」

 ベンチに腰をおろし正面を指さす大雅。見慣れた太陽が町の向こうに沈んでいく。

「真上の空にはもう夜になろうとしてる。星が見えるよ」

 見あげると紺色に変わりゆく空に星がひとつ光っていた。
 大雅との間に少しスペースを取って座る。大雅の横顔が朱色に染まるのを不思議な気持ちで見ていた。
 気づいたのだろう、目をカーブさせた大雅が首をかしげた。

「やっぱり、悠花は僕のこと覚えていないんだね」
「え……」
「昔からなんでも顔に書いてある。今は、『この人はいったい誰なんだろう?』って思いっきり書いてある」

 思わず両頬に手を当てる私に、大雅は声を出して笑った。

「たとえ話だよ。でも、覚えていないんでしょう?」
「……ごめん」
「いいよ。だって本当に久しぶりだし」

 やさしい人だな、と今日何回目かの同じ感想を抱きつつ、もうごまかしている場合じゃないと思った。
「あのね」と迷いながら口を開く。

「大雅くん……大雅が引っ越したのって小学三年生のころなんでしょう?」
「そうだよ」
「私、昔から小さいころの記憶ってほとんどないの。思い出そうとしても思い出せなくて、茉莉や伸佳のことも気づけば幼なじみだったっていう感じなの」

 断片的に覚えているのは、幼稚園の庭に大きな桜の木があったこと、おやつをもらうときに手をチューリップの花に見立てて開き、そこに入れてもらっていたこと、小学一年生のときに『先生あのね』ではじまる日記を宿題として書かされていたこと。

 どの思い出も、登場人物は自分ひとりきり。

「だから、大雅のこと思い出そうとしても思い出せない。ひどいことだよね。本当にごめんなさい」

 大雅の姿はさっきよりも濃い朱色に染まっている。瞳を伏せる横顔は、私のせい。大切な友達を忘れてしまったなんて、自分でもありえないって思うから。

「なあ、悠花」

 ふいに大雅がそう言った。

「忘れてしまったことで自分を責めないで。悠花のせいじゃないから」
「え……」

 意味のわからない私に、大雅はニッと笑みを浮かべた。

「思い出せなくていいんだよ。これから新しい思い出を作っていけばいいだけだから」
「でも……」
「僕は悠花と新しい思い出を作っていくよ。そのほうが新鮮だもんね」

 ひょいと立ちあがる大雅の表情が、逆光で見えなくなる。
 ズキンと胸が痛くなった。
 自分を責めながら、なぜか大雅から目が離せない。

 いつも教室で私は笑っていた。
 たのしくてうれしくて、毎日はキラキラ輝いているようだった。
 でも、それをあっけなく凌駕するくらい大きな存在が現れたような気がする。
 どんな私でも包み込み、やさしく迎えてくれるような……。

 ――あるわけない。

 ――こんなの恋じゃない。

 何度自分に言いきかせても、どんどん頬が赤くなるのを感じる。

 もっと大雅の顔を見ていたい、そう思った。