君がくれた物語は、いつか星空に輝く


「雨だね」

 ぼんやりした世界に、日葵の声が聞こえた。
 上を見ると、細かな雨がさらさらと顔に当たった。

「濡れるからなかに入ろう」

 腕を引く日葵に前を見ると、病院の自動ドアはすぐ先にあった。
 行動を起こすことを決めたはずなのに、勝手に足が止まっていたみたい。
 足をなんとか前に進めると、自動ドアをくぐってフロアに足を踏み入れる。

 もっと混んでいると思っていたけれど、受付前にはあまり人の姿はなかった。
 以前ほどではないにしても、お見舞いには規制がかかっているのだろうか。
 見ると、エレベーター前には看護師がふたり立っていて、訪れた人をチェックしている。
 これじゃあ優太の入院している病棟へは行けない。
 そもそもどこに入院しているのかもわからないのだから。

 日葵はスマホを操作しながら「大丈夫」と言ってから顔を巡らせた。

「あ、来た」

 日葵の目線の先を追うと、エレベーターからひとりの女性がおりてきた。
 薄いカーディガンにベージュのスカート姿の女性は、優太のお母さんだった。
 私たちを見て、小走りで駆けてくる。

「おばさん。急にごめんなさい」

 日葵の挨拶に、私も慌てて頭を下げた。

「いいのよ」

 やわらかい声に顔をあげると、おばさんはさみしそうに口元に小さな笑みを浮かべていた。
 すごく疲れている顔だと思った。
 自分の子供が事故に遭ったのだから当然だろう。

「じゃあ悠花、がんばって物語を紡ぐんだよ」
「え?」
「ここからは家族しか入れないからさ。さすがに同年代ふたりが家族ってのは怪しまれるでしょう?」

 バイバイと胸の前で手を振る日葵。

「でも……」
「ほら、早く行って」

 強めに背中を押され歩き出すと、おばさんも黙って横に並んだ。
 ふり返ると、もう一度手を振ってから日葵は病院を出て行ってしまった。
 私を連れてくることをおばさんに連絡してくれていたんだ……。

 おばさんが歩き出したので、遅れないように並ぶ。
 なにを話しかけていいのかわからないけれど、せめて守れなかったことをちゃんと謝りたい。

「おばさ――」
「あの子ね」

 かぶせるようにおばさんは言った。

「昔から体だけは丈夫だった。鉄棒から落ちたときも、階段から転げ落ちたときもピンピンしてたのよ」
「…………」

「だから大丈夫よ」と、おばさんは私を見て少し口角をあげた。

「……はい」

 どうして私はこんなに弱いんだろう。
 やさしい人にやさしい言葉をかけられない。悲しい人を励ますこともできない。
 唇をかみしめるだけしかできない自分のことが、私は大キライ。

 エレベーターの前を素通りし、奥の廊下へ進むと『ICU入口』と書かれた自動ドアがあった。
 その前にもひとり看護師さんが立っていた。

 優太はICU……集中治療室にいるってこと?

 急に襲われる寒気に負けないように、必死でおばさんについていく。
 おばさんは看護師さんから名簿を受け取った。

「ICUでお世話になっています。笹川優太です」

 名簿には『悠花』と私の名前が記され、続柄は『次女』となっていた。
 看護師さんが私のおでこにピストルのような機械を当てて「平熱です」とうなずいた。
 自動ドアのなかに入ると、おばさんは大きく息を吐いた。

「うまくいったわね」

 おかしそうに笑うけれど、やっぱり悲しみがあふれているのが伝わって来る。

「すみません。ありがとうございます」

 やっと気持ちが言葉になった。

「悠花ちゃんのほうのケガは大丈夫?」
「はい」

 私のことなんてどうでもいいのに、おばさんはやさしく聞いてくれた。
 奥にはさらに分厚い扉があり、横にはインターフォンが設置されていた。
 おばさんはボタンを押し、なかの人と話をしている。
 自動ドアが開くと、おばさんは先を歩き出した。

 廊下の右側にカーテンで仕切られた部屋があるみたい。
 機械の音や誰かの声、器具の音が洪水みたいに襲ってくる。

 左側には大きな窓があった。はめ殺しの窓は開けられないようになっている。
 よほど分厚いガラスなのだろう、激しく降り出した雨の音も聞こえない。

「悠花ちゃん」

 ふいに肩に手を置かれ、ビクッとしてしまった。

「あ、驚かせちゃってごめんなさい。大丈夫?」
「はい」

 カーテンの向こうに優太がいる。
 そう考えるだけで、また涙が込みあがってくる。

「まだガラス越しにしか会えないんだけど、ごめんなさいね」

 ああ……そっか。叶人が入院していた病院もそうだった。
 最後の瞬間も、そのあとも、院内感染防止対策のため叶人にはちゃんと会えなかったんだ。

 最後? ううん、違う。優太はきっと元気になるはず。

 おばさんがカーテンを引くと、ガラスの向こうにベッドがあった。
 目を閉じている優太が見えた。頭に包帯が巻かれていて、両足もギプスで固定されている。

 ふいに足元の床が抜けた感覚がして、気づくとその場に座り込んでしまっていた。

「悠花ちゃん!」

 腕を取られなんとか立ちあがってもなお、床がやわらかく感じられる。

「ごめんなさい。ごめんなさい……」

 窓ガラスにもたれるように優太を見た。
 青白い顔の優太は苦し気に目を閉じている。
 口元には人工呼吸器が装着されていて、伸びた管は四角い機械につながっている。

 ――ピッピッッピピッ。

 不定期に鳴る機械音が、彼の容態が悪いことを示している。
 ガラスの横の壁には受話器が取りつけてあり、これで向こう側と話ができる。
 でも、ベッドに横たわっている優太とは話をすることさえかなわない。

 これが現実というのなら、私は――小説の世界で生きたいよ。
 でもそこには、優太への想いは存在しない。
 それでも、優太がこんなに苦しむのなら私は、私は……!

 ガラスに手を当てて「優太」と名前を呼ぶ。

「優太……。優太、優太!」

 泣きじゃくりながら名前を呼んでも、彼は私に気づかない。

「一回目の手術は成功したの。でも、臓器の損傷が激しくて、いつ亡くなってもおかしくないって……」

 おばさんの声に涙が雨のようにこぼれる。

「そんな……」

 どうしてこんなことになったの?
 どうして小説と同じ展開にならないの?

「……私のせいです」
「それは違うわ。悠花ちゃんだって被害者じゃないの」

 でも、優太は身代わりになってくれたことは事実だから。

「私が。私が……」

 ――ビーッ!

 大きな警告音が爆発したように響いた。

 まるで脳を揺さぶられるような音に耳をふさぎたくなる。
 バタバタと足音が聞こえ、ガラスの向こうに見えるドアから看護師が飛びこんできて機械を操作し出す。
 遅れてもうひとり、看護師が到着した。

 機械の数値が、目に見えて下降していく。

 ――これは、夢なの?

「優太!」

 ガラスを叩くおばさん。警告音が止まらない。
 優太の顔は見る見るうちに青くなっていく。
 
 ウソだよね。こんなの……ウソだよね。

「優太、しっかりして! 優太! 優太っ!!!」

 割れるくらい、おばさんがガラスをたたいている。何度も、何度も。
 先生と思われる男性が現れると同時に警告音は消えた。
 看護師がやっと私たちに気づいたらしく、一礼してからガラスの内側にあるカーテンを引いた。

 ベージュのカーテンの向こうで、指示を出す声と不規則な電子音が聞こえている。
 おばさんはもうその場に座り込んで嗚咽を漏らしている。

 私は……私は、なにもできなかった。

 ――ピーーーー。

 永遠と思うほどの長い電子音が鳴ったあと、ガラスの向こうからは音がしなくなった。

 やけに静かな世界では、おばさんの嗚咽も聞こえない。

 頭がジンとしびれ、まるで夢のなかにいるみたい。
 なにが起きているのかわからないよ。

 ――プルルルル。

 音は、設置されている受話器から聞こえた。
 見ると、ガラスの向こうで受話器を耳に当てた看護師がカーテンを少し開けてこっちを見ていた。

 おばさんは、動かない。拒否するように何度も首を横に振っている。
 震える手で受話器取り耳に当てると、看護師さんは目を伏せたまま言った。

「お伝えしたいことがあります。お母さんに代わってもらえますか?」

 事務的な口調に、受話器を持つ手をおばさんへ伸ばした。

「……おばさん」

 それでもおばさんはしばらく首を振り続けていたけれど、やがて受話器を取り耳に当てた。

 短い沈黙のあと、おばさんは全身で叫ぶように泣いた。
 絶叫が狭い部屋に響き渡るのをうつむういたまま聞く。

 ああ、もう……優太はいないんだ。

 しびれた頭でぼんやりとそう思った。

 叶人のときもそうだった。
 私たちはあまりにも死に無力で、ただ受け入れることしかできない傍観者。

 もう二度と優太には会えない、会えない、会えない。

 雨の音が聞こえた気がして、廊下にある窓を見た。
 けれど、音は聞こえない。あるのは、おばさんの悲しみにむせぶ声だけ。

『雨星が降る日に奇跡が起きるんだよ』

 叶人の声がやさしく聞こえる。これも、幻聴なのかな……。

「あ……」

 窓の外がさっきより明るく感じられて、気づけば廊下に出ていた。
 ガラスに手を当て上を見ると、雨はまだ降っている。
 けれど、スポットライトを当てたように一部分だけ赤い光が射している。

 その向こうに見えるのは――いくつかの星。

『叶人くんと雨星のことを信じてみませんか?』

 長谷川さんが言った言葉を思い出す。

『小説の世界はあくまで小説の世界。あたしは、悠花の物語を紡いでほしい』

 日葵もそう言っていた。

 もし、今がそうなら……。
 そう思うと同時に駆け出していた。
 ICUのドアを出て、病院の出口へ急ぐ。
 自動ドアから転がるように外に出ると、さっきよりも雨は激しさを増している。

 けれど、けれど……雨雲に丸い穴が空いている部分が見える。
 その穴のなかだけ、朱色の夕焼けが燃えている。

 あの場所に行けば雨星が見られるかもしれない。びしょ濡れになりながら走り出す。
 一歩ずつ、優太との思い出が浮かんでは消えていく。

「優太。……優太!」

 小さいころ、一緒に行ったキャンプのこと。
 夕暮れの土手で寝転がったこと、中学生になり急に背が伸びたこと、お腹を抱えて笑う姿。

 消したくない、忘れたくないよ。

 丸い夕焼けは、高台にある夕焼け公園の真上にあるように見えた。
 必死で坂を駆けあがる。
 どうか間に合って。どうかそのままで。どうか、優太を連れて行かないで!
 公園入口までたどり着くと、そこには不思議な世界が広がっていた。

 まるで公園のなかだけが別世界のように、赤い光に包まれている。
 這うようにベンチのところまで行き、手すりにもたれて上空を仰ぐ。
 夕焼けに包まれながら、あえぎながら口を開けば雨が降りこんできた。

 これが雨星なのかはわからない。
 なんだっていいよ、優太が助かるなら。

「お願いします、優太を助けて!」

 声をふり絞って叫んだ。

「優太を、優太を……」

 もうすぐ夕焼けも終わるのだろう、赤い空は色を濃く変えていく。
 私のすぐ真上では、いくつかの星が蛍のように光っている。

「あ……」

 思わず声が漏れたのは、流れ星が見えた気がしたから。
 雨に負けないように目をこらすと、またひとつ星が流れた。

 違う。

 星の光が雨に溶けているんだ。

 何本もの光の雨が、キラキラと輝きながらこの場所に降り注いでいる。
 手のひらを出してみると、中指の先で光は小さく弾けて消えた。
 ベンチも手すりも地面でさえも、線香花火のように光っている。

 やがてそれは幾千もの光になりヴェールとなり私を包んでいく。
 あまりにも幻想的で美しい光だった。
 光る雨が私の手を、体を光らせているみたい。

「これが……雨星なんだね」

 叶人が見たかった雨星を、私は今浴びているよ。
 叶人に見せたかった、優太と一緒に見たかった。

 会いたいよ。優太に会いたい……。

 砂利を踏む音がすぐうしろで聞こえた。

「ふり向かないで」

 その声が聞こえ、体の動きを止めた。

「ふり向いたら僕は消えてしまう。そのままで話をしようよ」

 ――この声を知っている。

「雨星が降る日に奇跡は起きるんだよ」

 ――甘くて、だけどどこかクールな声を知っている。

「僕が言った通りだったでしょ。ね、お姉ちゃん」
「叶人……」

 これは、私の幻聴なの? それとも本当に叶人がここにいるの?
 不思議と雨の冷たさも感じない。

「本当に……叶人なの?」

 震える声で尋ねる私に、叶人はクスクスと笑った。
 こんな笑いかただった、と胸が熱くなる。

「雨星に乗ってやって来たんだ。って、自分でも信じられないけど」
「なにがどうなってるの……。あのね、今、優太が――」
「うん」

 すべてわかっているような言いかたをする叶人に口を閉じた。

「僕のせいなんだ。僕が夢で見たことを小説にしてもらって、それが現実になるように願っちゃったから」

 やっぱり『パラドックスな恋』と同じことが起きたのは、叶人が願ったからなんだ……。

「どうして、そんなことをしたの?」
「うーん。わかんない」
「覚えてないの?」
「うん」

 思わずムッとしてふり返りそうになるのを寸前でこらえた。
 昔から叶人は直感で行動するくせがあった。

「でもさ」と叶人の声が少し小さくなった。
 同時に、公園を満たす光も少し弱くなってように見える。

「僕が死んじゃったあと、いちばん心配だったのはお姉ちゃんだったからさ」
「私のこと?」
「お姉ちゃんは弱いからさ」
「弱く……ないし」

 懐かしい会話を交わしても、もう叶人はいない。
 私の大切な人は、私を置いてみんな離れていくから。

「弱いのは私だけじゃない。お父さんもお母さんも、よくない方向へ行こうとしてるし」

 今じゃ、顔を合わせればケンカばかり。
 離婚へのカウントダウンすらはじまってしまっている。
 けれど叶人は「大丈夫」とあっさり言った。

「この間、お姉ちゃんがふたりにビシッと言ってくれたおかげで、冷静になれたと思うよ。あのふたり、意地っ張りだから苦労するよね」
「たしかにそうだね。ケンカするといつも長いし」
「毎回大変だった。お母さん、完全なる八つ当たりをかましてきたからね」

 仲が良かったころは、こんな話をよくしていたね。
 どうして私はもっと叶人と話をしなかったのだろう……。

 今、すぐうしろに叶人がいることは奇跡としか言いようがない。

 だとしたら、ちゃんと私も彼に伝えたい。

「叶人、いろいろごめんね。私、もっと叶人と話をすればよかった。もっと病院に行けばよかった。もっと……」

 言葉は涙にあっけなく負けてしまう。胸が苦しくて続けられない。

「そんなのお互い様だよ。僕だって素直じゃなかったし。反抗期ってやつだよね」

 叶人の顔を見たい。でもそれは、今度こそ叶人との別れを意味している。
 説明のつかないことでも受け入れている自分が不思議だった。

「僕が今日ここに来たのは、お姉ちゃんに謝りたかったから。今度はお姉ちゃんの番だよ」
「私の?」
「雨星に願うんだよ。お姉ちゃんが今、かなえたいことをちゃんと伝えて」

 星がまだ私たちに降ってきている。

 私が願いたいことは……。
 はあはあ、と息を吐いてから口を開いた。

「昔に戻りたい。叶人がいて、優太がいたころに戻りたい。ううん、叶人の病気がわかるもっと前に戻れば――」
「違うよ」

 あきれたように叶人は言った。

「自分では気づいていないかもしれないけど、僕の死をお姉ちゃんは乗り越えたんだよ。ふりだしに戻っても意味がない」
「でも……」
「雨星はお姉ちゃんにとって今、いちばん必要なことを願うために現れたんだよ。もうすぐ雨星は終わる。その前に、ちゃんと言葉にして」

 昔から叶人はどこか大人ぶっていて、私を妹のように扱うところがあった。
 今だってそうだ。

 息を大きく吸い、空を見た。

 上空の赤色は、もうすぐ紺色へ塗りつぶされてしまいそう。
 降り注ぐ光も、きっともうすぐ消える。

 私は今、本当の願いを口にする。

「私は、小説の世界から抜け出したい。ちゃんと自分の気持ちを言葉にして、私の物語を自分の力で描いていきたい」
「うん」
「そのためには優太が必要なの。私の物語には優太が必要なの。どうか、彼を返してください」

 そう言ったとたんに、上空にあった雨雲が溶けるように薄くなっていくのが見えた。
 さっきまでの雨がウソみたいに空はどんどん赤く塗り替えられていく。

「やったね。おねえちゃんの願いが雨星に届いたんだよ」
「これでよかったの? ねえ、叶人……」

 見渡す限りの夕焼けが世界を赤く染めていた。
 視線の高さで燃えている太陽がまぶしくて目が開けられない。

「もう大丈夫。今日までの不思議な出来事はリセットされた。パラドックスな世界はおしまい」
「おしまいって……?」

 どういうことなのか理解がついていかない。

「現実に現れた小説世界のことは、お姉ちゃん以外の人の記憶からは消える。それによって起きたこともぜんぶだよ」
「ぜんぶ……。じゃあ、大雅のことも?」

 だとしたら日葵の想いもなかったことになるのかな。
 お父さんとお母さんのことは?

「大丈夫だよ」と、私の心配を和らげるように叶人は言う。

「みんなの想いはちゃんと受け継がれる。雨星の奇跡ってすごいんだから」

 叶人の声がすぐうしろでしている。

「そろそろ、僕も行くね」

 まるで、ちょっと遊びに行くみたいな口調で叶人は言う。

「待って。まだ行かないで」
「もう大丈夫だよ。新しい物語を楽しみに見ているから」

 雨が弱くなっていく。声もどんどん遠くなっていく。
 やっと会えたのに、もう終わりなの?

「待って、叶人。お願い、最後に顔を――」
「雨星を信じてくれてありがとう。お姉ちゃん、またね」

 その声を最後に、なにも聞こえなくなった。

 しんと静まり返るなか、耳を澄ませばいくつかの音がよみがえっていく。
 虫の声、カラスの鳴き声、車の音、風が草木を揺らす音。

 ……叶人は私を助けるために来てくれたんだ。

 病院の建物が遠くに見える。夕焼けに染まるあの場所へもう一度行こう。

「私は奇跡を信じるよ」

 口に出せば少し勇気が生まれる。そう、思ったことをちゃんと口にすることが大切だったんだね。

 ゆっくりとふり向くと、公園の入り口に誰かが立っているのが見えた。

 それは――優太だった。

 私は……幻を見ているの?

 彼はゆっくり私に近づいてくる。夕焼けを受け、赤く燃えながら私だけを見つめてほほ笑む。

「誰かと思ったら悠花か。こんなところでなにやってんの?」

 見慣れた制服。
 大きなバッグを肩にかける優太の髪が、風に踊る。
 すぐそばに立つ姿があふれる涙で見えなくなる。

「優太。優太……!」

 顔をくしゃくしゃにして抱き着くのに、ためらいなんてなかった。
 たしかめるように背中に手を回せば、「えっと」と戸惑いながら優太も抱きしめ返してくれた。

「なんかあったのか? 誰かになにか言われた?」
「ちが……。だって、優太が事故に、遭って、いなく……」

「ああ」と優太が笑う。

「ベンチで寝ちゃったのか。悠花らしいな」

 優太のぬくもりをこれほど感じたことはなかった。
 まるで子守歌のように私をやさしく包んでくれる。

 やっと体を離してハンカチで涙を拭った。
 夢じゃないんだ。優太がここにいてくれる。
 それでも消えてしまいそうで、優太の袖を片方の手でギュッと握りしめたまま離せない。

 まだなにが起きているのかわからない私の頭に、優太は右手をポンポンと置いた。

「大丈夫だよ、ここにいるから」

 導かれるようにベンチに座ると、ビルの向こうにわずかな夕日が見えていた。
 その周りだけ夕焼けはわずかに残っていて、上空には夜が訪れている。

 雨星は終わったんだ……。

「優太、あのね……」

 聞きたいことはたくさんあった。
 おばさんはどこにいるの? 知登世ちゃんは? 
 けれど、もしも雨星が奇跡を運んでくれたのなら、この質問をすればいい、とわかる。

「山本大雅って知ってる?」

 優太は、笑みを浮かべたまま首をかしげた。

「それって芸能人のこと? 俺、あんまりテレビ見ないからなあ」

 ……そっか、とすとんと胸に落ちた。

 大雅はやっぱり小説のなかだけに出てきた人だったんだ。
 叶人がすべてリセットしてくれたんだね。

「その人がどうかした?」
「ううん。なんでもない」

 横顔のまま優太は消えそうな太陽を眺めている。
 どうか優太がずっとこの世界にいますように。
 そのためには、私は自分の気持ちを言葉にしていかなくちゃ。

 なにも怖くない。
 優太がいなくなることに比べたら、大したことじゃないから。

「優太に話したいことがあるの」
「うん」
「あのね、私――」
「悠花のことが好きなんだ」

 息ができなくなる。
 固まる私に、優太は「いや」と指先で鼻の下をかいた。

「前から言おうと思ってたんだけど、なんか照れくさくってさ。でも、ほら」

 ポケットから取り出したのは、切れた赤いミサンガだった。

「これが切れたら言おうと思ってたんだ。さっき歩いてたら急に切れてさ」
「あ……うん」

 赤いミサンガにかけた願いは、私へ告白をすることだったの?

「あんまり見るなよ。マジでヤバいから、今」

 胸をトントンと叩く優太に、また視界が潤んでくる。

「私も好き。優太のことが好き」

 そう言うと、優太は見たことがないくらいうれしそうに笑ってから、「はい」と片手を出した。
 その手を握れば、心までジンと温かくなっていく。

 この先どんなことが起きたとしても、私は大丈夫。
 空を見あげると、まばゆいほどの星が瞬いている。
 あのひとつに叶人がいる。

 私は私の物語を今日から紡いでいくよ。
 雨の日や風の日だってあるだろう。

 それでも、いつか太陽が星が空を輝かせることを、私はもう知っているから。










【エピローグ】



 十月になり、急に気温が下がっている。

 冬服への移行期間に入り、登校中の生徒たちは白黒のオセロみたい。
 もう私の夏は終わったんだ、とやっと素直に受け入れることができた。

 雨星を見たあと、大雅のことについて覚えている人はいなかった。
 叶人の言ったように、あの日々はリセットされたのだろう。

 教室に入ると、「おはよう」を交わしながら窓辺の席へ進む。
 うしろの席の木村さんは、私を待ち構えていたらしくDVDを手にしている。

「おはよ。これ、カッシーにお勧めしてい『情婦』っていう映画のDVD。最後にものすごいどんでん返しがあるから期待して」
「ありがとう。私もこれ持ってきたよ」

 紙袋を渡すと、木村さんはなかを覗きこみ歓声をあげた。

「こないだ言ってたプラネタリウム!? ありがとう!」
「え、なになに。私にも貸してよ」

 近くの席の加藤さんが会話に加わってきた。

「ダメ。亜美にはまだ早い」
「なによそれ。ね、柏木さんお願い」

 パチンと手を合わせる加藤さんとも最近はよく話すようになった。

「キム、意地悪しないの。そうだね、三日くらい使ったら加藤さんにも貸してあげて」
「えー。せめて四日は貸してよ」

 わいわい話をしている自分のことがちょっとうれしい。
 ううん、すごくうれしくなる。

 あ、日葵が登校してきた。
 隣には当たり前のように兼澤くんがいる。
 ふたりがつき合い出したことは、もうすっかりクラスでも受け入れられている。
 想いが受け継がれたことがうれしくてたまらない。
 兼澤くんと離れ、日葵が近づいてくる。

「おはよ。もう冬服の人多いんだね。まだまだ暑いのに」

 どすんと前の席に座る日葵は、最近ますますかわいくなったと思う。
 髪の毛も伸びてきたし、メイクも勉強中だと言ってた。

「そういえばさ、昨日悠花のおばさんから連絡来たよ」
「三回忌のことだよね」

 日曜日におこなわれる三回忌法要は、近所の人も招いておこなうそうだ。

「なんかおばさん、すごく明るくなったよね。夫婦仲も元に戻ったんでしょ?」
「たまにケンカみたいにはなるけれど、前に比べたらずいぶん仲良しになってるね」
「離婚の危機も回避できたってことか」
「まだ油断できないけどね」

 いがみ合っていたのがウソみたいに、ふたりして三回忌法要の準備を張り切っている。
 叶人の部屋は法要が終わったら整理する予定だ。
 リセットされた世界でも、無駄だったことなんてひとつもない。

 私は私の物語を紡いていきたいって思えたから。

「おはよう」

 朝練を終えた優太が声をかけてきた。
 こちらも夏服のままで、首にタオルを巻いた恰好で、いつものスポーツドリンクを手にしている。

「おはよう」

 二学期がはじまったころは、優太に恋をするなんて思ってもいなかった。
 それが今では恋人になっているなんて不思議だ。

 こうして、いろんなことは変わっていく。
 変化が怖いのは今も変わらないけれど、流されるだけじゃなく選択していきたい私がここにいる。

「『パラ恋』、今日でたぶん読み終わると思うよ」

 優太がスマホを見せてきた。第四章の最後のページが表示されている。

「もうそんなに進んだんだ。すごいね」
「悠花がほかの男に恋してる設定なのはムカつくけどな。叶人、ちっともわかってないじゃん」

 ぶすっとした横顔に、思わず笑ってしまう。

「え」と日葵がびっくりした顔をした。

「優太も『パラ恋』を読んでるの? 本嫌いな優太が読書なんて信じられない」
「お前だって本嫌いのくせに」
「まさか大雅が病気だったなんてビックリだよね」
「おい、お前ネタバレすんなって言ったのに!」

 悲痛な叫びに日葵は、
「あれ、それって最後にわかるんだっけ?」
 と、とぼけている。

「今読んでるところは、大雅が事故に遭ったとこ。ここから盛りあがるってとこなのに、マジでふざけんなよ」
「大丈夫だよ。ハッピーエンドだから」
「だから言うなって!」

 ふたりの掛け合いがおもしろくて笑ってしまう。

 窓の外に目をやれば、空は薄青の秋色。

「はい、これ」

 優太がペットボトルを渡してくれた。
 目に当ててもう一度見ると、濃い青空が潤んでいる。
 あの夏がペットボトルのなかにまだいる気がした。

 すう、と深呼吸。
 大きく息を吸えば、この世界はもっと明るく輝き出す。

 叶人がくれた奇跡を胸に、私は生きていくよ。
 道に迷ったり間違えたとしても大丈夫。
 どんな道も、正しかったと思える自分になってみせるから。
 
 だから安心して見ていてね、叶人。






【完】


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