天気が急変したらしく、始業式の途中で体育館の屋根を打つ雨音が響きだした。

 長い校長先生の話が終わり、ぞろぞろと教室へ戻る途中、渡り廊下の向こうには不思議な景色が広がっていた。

 思わず立ち止まる私に、
「どうしたの?」
 日葵がうしろから声をかけてきた。

 遠くに見える町並みの上には青空が残っているのに、上空からは雨が落ちてくる。厚い雲のすき間に見えるのは……。

「あれは……雨星?」

 そっと指さす先に、キラキラと光るなにかが見えた。

「雨星ってなんのこと?」

「ほら」と指さしている間に、光は見えなくなっていた。

「こんな昼間に星なんて出てるわけないでしょ。ほら、早く戻るよ」

 呆れた声で日葵は背中をポンと押してくる。
 言われてみればたしかにそうだ。
 早足で教室に戻りながら、小説の中に出てきた言葉をつぶやいてみる。

「雨星が降る日に奇跡が起きるんだよ」

 結局、小説のなかで雨星についての詳しい説明はなかったけれど、夜じゃないのに星なんて見えるわけがない。

 長い列から離れ、トイレに寄ってから教室に戻ることにした。
 鏡に映る自分の顔を改めて眺める。
 毎朝、洗面所の鏡を見るときにも同じ感想を抱いてしまう。

 ――平凡な顔、と。

 眉は濃くも細くもない。目も大きくも小さくもない。
 鼻だって高くないし、唇は三日月みたい。
 髪を伸ばしたのはいいけれど、これ以上伸びたらひとつに結ばないと校則に引っかかってしまう。
 そうだよ、いくら同じ名前でも、私は小説の主人公にはなれない。

 そろそろチャイムが鳴る時間だ。
 教室に戻ると、いくつものグループでいくつもの話が生まれていた。
 誰と話すこともなく、自分の席に戻る。
 雨はもうあがったらしく、朝と同じように晴れた空が広がっていた。
 先生が来るまではまだ少し時間があるだろう。

 スマホをそっと開き、小説のなかの悠花を覗いてみる。

 □□□□□□□
「えー、今日はみんなに報告がある」
 深澤先生の声に視線を前に戻す。深澤先生はもったいつけるようにじっと私たちを見てから、口を開いた。
「今日からこのクラスに転入生が入ることになった」
 ――ガララ
 扉の開く音に続き、なかに入ってきた男子を見て、私は思わず息を呑んだ。
「山本大雅です。よろしくお願いします」"
 □□□□□□□

 こんな展開があれば、きっと私の毎日は輝きだすんだろうな……。
 ため息をつくと誰かがこっちを見ている気がした。
 また優太が見ているのかと思ったけれど、彼は前の席の男子とテレビの話で盛りあがっている。
 日葵は課題の残りを必死で書き込んでいるみたい。
 自意識過剰なくせに人見知りの自分が情けなくなる。

 担任の芹沢(せりざわ)先生が教室に入って来ると、バラバラとみんな席に着く。
 深澤先生と芦沢先生。
 名前は似ているけれど、小説と違い芦沢先生は女子から大人気の若い男性教師。
 体型もスリムだし、いつもスーツを着ている。
 一方、小説のなかの深澤先生はパツンパツンのスーツを着ていて、言葉も乱暴な印象。

「みなさんおはようございます。夏休みはいかがでしたか?」

 さわやかな口調にクラスメイトは口々に答えている。

「夏休みの課題と進路調査の用紙はこのあと回収しますが――」

「ええええ」という悲鳴にも似た声のあと、笑い声が続く。
 笑おうとしても口は動いてくれない。

 進路調査の用紙を机の上で開く。『就職』の欄に〇をつけたけれど、せっかくだから小説と同じように書き直してみよう。
 ボールペンで『就職』につけた〇を二重線で消した。
 小説では『検討中』に〇をつけたと書いてあったけれど、現実世界にその項目はない。
 『その他』の欄に『検討中』と記してから用紙を裏向きに伏せた。

 ――ふと、視界の端に雨が見えた気がした。

 あれ、さっき雨はあがったはずじゃ……。
 窓の外を見ると、キラキラと輝くなにかが弧を描きながら空から落ちている。

「え……」

 口にする間に光は消え、もとの晴れた天気に戻っていた。
 さっきも同じ光景を見たよね。

 ひょっとして、今のが雨星……?

 まさか、と思いながらも胸は鼓動を早めている。

「えー、皆さんに今日はご報告があります」

 芦沢先生の声に前を見た。
 これは……小説のなかに出てきたセリフに似ている。

『今日からこのクラスに転入生が入ることになりました』

 なんて、そんなのありえないよね。
 もったいつけるほど長い間をとってから、芦沢先生は口を開いた。

「今日からこのクラスに転入生が入ることになりました」

 一秒後に、歓声と拍手が波のように押し寄せてくる。
 呆然としている間に、芦沢先生は教室の前の扉に向かって声をかけた。

 ――そんなはずがない。

 息もできないまま、教室の扉が開くのをただ見ていた。
 背の高い男子が教室に入ってきた。
 やわらかく揺れる黒髪にやさしい目。
 口元の笑みも、高い身長もなにもかもが想像していたのと同じ。

 ――こんなこと、絶対に起きるわけがない。

 小説の物語はあくまで小説のなかだけの話。
 そう言い聞かせて今日まで来たのに、今にも境界線が崩れそうになっている。
 もし、彼の名前が『山本大雅』だったら……。
 そうであってほしい気持ちと、実際に起きたらどうしようという気持ちが、水が沸き立つように次々に生まれては弾けている。

 教壇の前まで進んだ男子生徒が、みんなの注目を浴びながら深く礼をした。
 そのまま三秒停止して、頭を元の位置に戻す。
 躍るように美しい動作に、さっきまでの歓声がピタリと止まった。
 笑みを浮かべたまま彼は口を開いた。

「山本大雅です。よろしくお願いします」

「ウソ……」

 隣の優太がいぶかしげに私を見てくるのがわかったけれど、それどころじゃない。
 芦沢先生が大きく彼の名前を黒板に書いた。

『山本大雅』

 漢字まで同じだなんて……。
 大雅はやわらかい笑みを浮かべたまま教室内を見渡し、私と目が合うとうれしそうに笑った。
 とっさに机とにらめっこをする。

 これは……夢なの?

 ギュッと目を閉じてみても、なにも変わらない。
 たくさんの拍手の音は、どこか雨の音に似ていた。