気づくと、私は歩道に座りこんでいた。
茉莉が私を抱きしめている。
「あ……」
大きく息を吐き周りを見渡すと、あの日の光景は消えていた。
「ごめん。大丈夫だよ……」
立ちあがろうとする私の手を、伸佳が引っ張ってくれた。
立ちあがってもなお、体の震えが止まらない。
そうだったんだ……。
「ぜんぶ、思い出したよ」
交差点を見ると、青信号に傘の群れが行き交っている。
「あの日、私は大雅が車に轢かれそうになるのを助けたんだね」
静かにうなずく茉莉に、
「私は……ひょっとして幽霊なの?」
と聞いた。
大雅を助けたことで私は死んでしまって、今もこのあたりをさまよっているの?
けれど、茉莉は「ブッ」とこらえきれないように噴き出した。
「急にヘンなこと言わないでよ。そんなわけないじゃん」
「じゃあ、大雅が幽霊?」
「しっかりしろ」と、伸佳に頭を軽くたたかれた。
「あのとき、悠花は大雅を助けて大けがをしたんだよ。それが原因で長く入院することになった。俺たち、めっちゃ心配したんだからな」
「入院……」
ああ、そっか。だから大雅のおばさんは私に何度も謝っていたんだ。
あの記憶は、おばさんが病院にやってきたときのものだったんだ。
「私はそのときに記憶を失ったの?」
答えなくてもわかること。頭を打った私は、それ以前の記憶をぜんぶ手放した。
あのころ、周りのすべての人が誰が誰なのかわからなくなったことを思い出した。
お母さんの顔さえわからずに、ひどく取り乱したことも。
「そうだ……。私、大雅が病室に来たときに聞いたの。『あなたは誰?』って」
大雅の傷ついた顔がリアルに思い出せた。
青ざめたままあとずさりする大雅のうしろで、おばさんは声をあげて泣いていた。
「大雅が引っ越しをしたのは私のせいだったんだね」
「違うよ」
と、茉莉は悲しく言った。
「大雅は悠花のおかげで命拾いをしたんだから」
大雅が引っ越しをしてしまえば、彼の記憶は本当に消えてしまった。
私はみんなのことを思い出そうと必死だった。
私が笑顔になるとみんなよろこんだから、ムリして笑うようになっていった。
明るい自分を演じているうちに、だんだんとそれが本当の私になっていった。
お父さんやお母さんは、やっと普通になった私を大切にしてきた。
だから、大雅が引っ越してきたことを知り、あんなに動揺していたんだ……。
ひどい頭痛はもう、ない。
むしろ、記憶がすべて元の位置に戻り、すっきりした気さえしている。
「ありがとう。ふたりのおかげで思い出せたよ」
茉莉も涙をこぼしてうなずいてくれている。
伸佳は、と見ると、なぜか私のうしろを指さしている。
「あとは本人に直接聞いて」
「え?」
ふり向くと、向こうから歩いてくるのは――大雅だった。
「俺様が呼び出してやったんだ。あとはふたりで話をするんだな」
「急におやじっぽい口調はやめなさい」
茉莉がクスクス笑ってから、私の手を握った。
「がんばってね」
「うん」
茉莉と伸佳は、大雅に笑いかけると来た道とは反対に歩いて行った。
私の前までやってきた大雅は、前よりもひどく疲れた顔をしていた。
きっと、私と同じように悩んでいたんだね。
「大雅。ごめんね、やっと思い出せたよ」
「そう」
少しやせた大雅は目を伏せた。
赤く染まりゆくこの場所に、まだ雨が降っている。
世界の半分が雨で、半分が夕焼けという不思議な天気だ。
空にはやっぱり、星は見えない。
私が事故に遭ってからずっと傷ついてきた大雅。
私の幼ななじみの大雅。
私が忘れてしまった大雅――。
「ごめんなさい。私のせいで、大雅をいっぱい傷つけたんだね」
「僕のほうこそごめん。奇跡なんてないのに、雨星のことを信じてしまったんだ。そのせいで悠花の記憶を奪ってしまった」
あの事故のあと、私は大雅のことを忘れて生きてきた。
逆に大雅はずっと罪悪感を抱えて生きてきたんだ。
「雨星は――」
空を見てももう夕焼けは見えなかった。それでも、私は言う。
「雨星は、あの日奇跡を起こしてくれたんだよ。記憶と引き換えに大雅を救えたのなら、本当に良かったと思うから」
「ああ……」
うなだれる大雅の手を握るのに迷いはなかった。
「今、すごく幸せな気持ちなの。だから大丈夫、きっとこれでよかったんだよ」
私よりも背が高い大雅が、上目遣いで見てくる。
こういうところ、昔と変わってないな……。
「もう一度、会いに来てくれてありがとう」
「僕こそ、ありがとう」
少し笑ってから私たちは雨の町を歩き出す。
会話はなくても、お互いを大切に思う気持ちは変わらない。
そう、これが私たちのはじまりなのだから。
歩道はたくさんの人が歩いていて、カサに当たらないよう車道側を縦になって歩く。
「大雅、これで引っ越しをする話はこれでなくなるんだよね?」
これからはずっとそばにいられる。
告白の返事もきちんとしよう。
大きな背中に問うと、大雅は足を止めてふり向いた。
「ごめん。それは……変わらないんだ」
「え……」
「どうしても行かなくちゃいけなくて、だけどまた会えるよ」
やさしくほほ笑む大雅に、さっき消えたと思った頭痛が大きな塊になって襲ってきた。
「なんで……」
引っ越しの話もウソだと思っていたのに、違うの?
口にしながらこめかみを押さえる。
強くなりすぎた頭痛がめまいに変わっている。
ぼやけた視界に大雅がいる。
なにか説明してくれているけれど、どの言葉も頭に入ってこない。
痛い、痛いよ――。
ズキン。
ひときわ大きな痛みとともに、足元から力が抜けた。
よろけるように左へ足を踏み出し、そのまま倒れるのを遠くで見ている気分。
水しぶきが手に、顔に、頬にかかり、アスファルトのにおいが鼻を覆った。
雨が容赦なく攻撃しているなか、
「悠花!」
大雅の声が聞こえる。
ああ、車道に倒れこんだんだ。
体を起こそうとしても力が入らないよ。
大雅の靴が、薄くなる世界で見えた。その向こうに光っているのはなに?
強い力で大雅に腕を引っ張られる。
――ギギギギギギギ。
悲鳴のようなブレーキ音、大きな塊が視界いっぱいに広がった。
それが車だとわかったときには、怪物のような光が私を捕らえていた。
強く押され、歩道に倒れ込むと同時に爆発するような音が響き渡った。
ガラスの割れる音、悲鳴、横断歩道が鳴らす音楽。
かぶせるように雨の音がひときわ大きく耳に届いた。
――どれくらい時間が過ぎたのだろう。
私の周りで雨音が騒いでいる。
目を開けたくても体が動いてくれない。
「誰か救急車を呼んで!」
知らない誰かの声が聞こえる。
「動かさないほうがいい。それより車を――」
「早くしないと――」
雨がうるさくて声がうまく聞こえないよ。
必死で目を開けると、歩道の上で雨が踊り狂っていた。
見てはいけないよ、と教えるように雨は顔に絶え間なく降り注いでくる。
その向こうになにかが見える。
壁にぶつかりひしゃげた車から靄のような煙が立ち込めている。
「大…雅……」
近寄ろうとして、くしゃりと体がアスファルトに崩れた。
車の下になにか、見える。
流れてくる雨が赤色に染まっていた。
「ウソ……」
必死で首を振ると、見知らぬ人が私の体を起こしてくれた。
なにか私に尋ねているけれど、車の向こう側から目が離せない。
大雅、大雅!
こんなのないよ。どうして大雅が事故に遭うの!?
声にならない言葉を発し、這ったまま大雅のそばへ行こうとしたときだった。
ふいに周りが明るくなった気がした。
見ると、上空からはまだ雨が降っているのに、空には夕焼けが広がっていた。
天気雨のような不思議な空の下、数人の人が車を移動させようとしている。
大雅は言っていたはず、雨星は奇跡を……。
もう一度空を見た私は、そのときたしかに雨星を見た気がした。
雨星が消える前に両手を握りギュッと目をつむる。
「神様、大雅を助けて。お願いだから、大雅を連れて行かないで」
大雅が助かるなら何度でも願うよ。
救急車のサイレンが近づいても、車がどけられてもずっと私は祈り続けた。
茉莉が私を抱きしめている。
「あ……」
大きく息を吐き周りを見渡すと、あの日の光景は消えていた。
「ごめん。大丈夫だよ……」
立ちあがろうとする私の手を、伸佳が引っ張ってくれた。
立ちあがってもなお、体の震えが止まらない。
そうだったんだ……。
「ぜんぶ、思い出したよ」
交差点を見ると、青信号に傘の群れが行き交っている。
「あの日、私は大雅が車に轢かれそうになるのを助けたんだね」
静かにうなずく茉莉に、
「私は……ひょっとして幽霊なの?」
と聞いた。
大雅を助けたことで私は死んでしまって、今もこのあたりをさまよっているの?
けれど、茉莉は「ブッ」とこらえきれないように噴き出した。
「急にヘンなこと言わないでよ。そんなわけないじゃん」
「じゃあ、大雅が幽霊?」
「しっかりしろ」と、伸佳に頭を軽くたたかれた。
「あのとき、悠花は大雅を助けて大けがをしたんだよ。それが原因で長く入院することになった。俺たち、めっちゃ心配したんだからな」
「入院……」
ああ、そっか。だから大雅のおばさんは私に何度も謝っていたんだ。
あの記憶は、おばさんが病院にやってきたときのものだったんだ。
「私はそのときに記憶を失ったの?」
答えなくてもわかること。頭を打った私は、それ以前の記憶をぜんぶ手放した。
あのころ、周りのすべての人が誰が誰なのかわからなくなったことを思い出した。
お母さんの顔さえわからずに、ひどく取り乱したことも。
「そうだ……。私、大雅が病室に来たときに聞いたの。『あなたは誰?』って」
大雅の傷ついた顔がリアルに思い出せた。
青ざめたままあとずさりする大雅のうしろで、おばさんは声をあげて泣いていた。
「大雅が引っ越しをしたのは私のせいだったんだね」
「違うよ」
と、茉莉は悲しく言った。
「大雅は悠花のおかげで命拾いをしたんだから」
大雅が引っ越しをしてしまえば、彼の記憶は本当に消えてしまった。
私はみんなのことを思い出そうと必死だった。
私が笑顔になるとみんなよろこんだから、ムリして笑うようになっていった。
明るい自分を演じているうちに、だんだんとそれが本当の私になっていった。
お父さんやお母さんは、やっと普通になった私を大切にしてきた。
だから、大雅が引っ越してきたことを知り、あんなに動揺していたんだ……。
ひどい頭痛はもう、ない。
むしろ、記憶がすべて元の位置に戻り、すっきりした気さえしている。
「ありがとう。ふたりのおかげで思い出せたよ」
茉莉も涙をこぼしてうなずいてくれている。
伸佳は、と見ると、なぜか私のうしろを指さしている。
「あとは本人に直接聞いて」
「え?」
ふり向くと、向こうから歩いてくるのは――大雅だった。
「俺様が呼び出してやったんだ。あとはふたりで話をするんだな」
「急におやじっぽい口調はやめなさい」
茉莉がクスクス笑ってから、私の手を握った。
「がんばってね」
「うん」
茉莉と伸佳は、大雅に笑いかけると来た道とは反対に歩いて行った。
私の前までやってきた大雅は、前よりもひどく疲れた顔をしていた。
きっと、私と同じように悩んでいたんだね。
「大雅。ごめんね、やっと思い出せたよ」
「そう」
少しやせた大雅は目を伏せた。
赤く染まりゆくこの場所に、まだ雨が降っている。
世界の半分が雨で、半分が夕焼けという不思議な天気だ。
空にはやっぱり、星は見えない。
私が事故に遭ってからずっと傷ついてきた大雅。
私の幼ななじみの大雅。
私が忘れてしまった大雅――。
「ごめんなさい。私のせいで、大雅をいっぱい傷つけたんだね」
「僕のほうこそごめん。奇跡なんてないのに、雨星のことを信じてしまったんだ。そのせいで悠花の記憶を奪ってしまった」
あの事故のあと、私は大雅のことを忘れて生きてきた。
逆に大雅はずっと罪悪感を抱えて生きてきたんだ。
「雨星は――」
空を見てももう夕焼けは見えなかった。それでも、私は言う。
「雨星は、あの日奇跡を起こしてくれたんだよ。記憶と引き換えに大雅を救えたのなら、本当に良かったと思うから」
「ああ……」
うなだれる大雅の手を握るのに迷いはなかった。
「今、すごく幸せな気持ちなの。だから大丈夫、きっとこれでよかったんだよ」
私よりも背が高い大雅が、上目遣いで見てくる。
こういうところ、昔と変わってないな……。
「もう一度、会いに来てくれてありがとう」
「僕こそ、ありがとう」
少し笑ってから私たちは雨の町を歩き出す。
会話はなくても、お互いを大切に思う気持ちは変わらない。
そう、これが私たちのはじまりなのだから。
歩道はたくさんの人が歩いていて、カサに当たらないよう車道側を縦になって歩く。
「大雅、これで引っ越しをする話はこれでなくなるんだよね?」
これからはずっとそばにいられる。
告白の返事もきちんとしよう。
大きな背中に問うと、大雅は足を止めてふり向いた。
「ごめん。それは……変わらないんだ」
「え……」
「どうしても行かなくちゃいけなくて、だけどまた会えるよ」
やさしくほほ笑む大雅に、さっき消えたと思った頭痛が大きな塊になって襲ってきた。
「なんで……」
引っ越しの話もウソだと思っていたのに、違うの?
口にしながらこめかみを押さえる。
強くなりすぎた頭痛がめまいに変わっている。
ぼやけた視界に大雅がいる。
なにか説明してくれているけれど、どの言葉も頭に入ってこない。
痛い、痛いよ――。
ズキン。
ひときわ大きな痛みとともに、足元から力が抜けた。
よろけるように左へ足を踏み出し、そのまま倒れるのを遠くで見ている気分。
水しぶきが手に、顔に、頬にかかり、アスファルトのにおいが鼻を覆った。
雨が容赦なく攻撃しているなか、
「悠花!」
大雅の声が聞こえる。
ああ、車道に倒れこんだんだ。
体を起こそうとしても力が入らないよ。
大雅の靴が、薄くなる世界で見えた。その向こうに光っているのはなに?
強い力で大雅に腕を引っ張られる。
――ギギギギギギギ。
悲鳴のようなブレーキ音、大きな塊が視界いっぱいに広がった。
それが車だとわかったときには、怪物のような光が私を捕らえていた。
強く押され、歩道に倒れ込むと同時に爆発するような音が響き渡った。
ガラスの割れる音、悲鳴、横断歩道が鳴らす音楽。
かぶせるように雨の音がひときわ大きく耳に届いた。
――どれくらい時間が過ぎたのだろう。
私の周りで雨音が騒いでいる。
目を開けたくても体が動いてくれない。
「誰か救急車を呼んで!」
知らない誰かの声が聞こえる。
「動かさないほうがいい。それより車を――」
「早くしないと――」
雨がうるさくて声がうまく聞こえないよ。
必死で目を開けると、歩道の上で雨が踊り狂っていた。
見てはいけないよ、と教えるように雨は顔に絶え間なく降り注いでくる。
その向こうになにかが見える。
壁にぶつかりひしゃげた車から靄のような煙が立ち込めている。
「大…雅……」
近寄ろうとして、くしゃりと体がアスファルトに崩れた。
車の下になにか、見える。
流れてくる雨が赤色に染まっていた。
「ウソ……」
必死で首を振ると、見知らぬ人が私の体を起こしてくれた。
なにか私に尋ねているけれど、車の向こう側から目が離せない。
大雅、大雅!
こんなのないよ。どうして大雅が事故に遭うの!?
声にならない言葉を発し、這ったまま大雅のそばへ行こうとしたときだった。
ふいに周りが明るくなった気がした。
見ると、上空からはまだ雨が降っているのに、空には夕焼けが広がっていた。
天気雨のような不思議な空の下、数人の人が車を移動させようとしている。
大雅は言っていたはず、雨星は奇跡を……。
もう一度空を見た私は、そのときたしかに雨星を見た気がした。
雨星が消える前に両手を握りギュッと目をつむる。
「神様、大雅を助けて。お願いだから、大雅を連れて行かないで」
大雅が助かるなら何度でも願うよ。
救急車のサイレンが近づいても、車がどけられてもずっと私は祈り続けた。