茉莉は部屋に入ってくるなり、もう泣きそうな顔になっている。
 伸佳は珍しそうに部屋を見渡しつつ、おっかなびっくり入ってきた。

「ごめんね、急に呼び出して」

 普段着に着替え、身支度も整えている。ふらつきもなく、体はほとんど回復しているみたい。
 ベッドに腰かける私の横に茉莉は座り、伸佳は絨毯の上であぐらをかいた。

「んだよ。俺、部活なんだけど」

 憎まれ口をたたいていても、伸佳は普段どおりを演じている。

「体調はもういいの?」

 茉莉だって、必死で普通の会話をしようとしている。

「うん。もうすっかり大丈夫」
「よかった。文化祭の担当決めが明日あるんだって」
「そうなんだ」
「一緒にやりたいよね。うちのクラス今年はなにやるんだろうね。ね、伸佳?」

 視線を茉莉から伸佳に移すと、少し慌てたように口を開いた。

「あ、そうだよな。こないだまで夏休みだったのに早いよなあ」

 緊張のせいか会話がかみ合っていない。
 そうだね、とうなずいてから大きく息を吐き出す。

「ふたりに聞いてもらいたいことがあるの」
「いいよ」「ああ」

 覚悟してここに来たのだろう。ふたりとも同時にうなずいてくれた。

「私、いつもニコニコしてた。明るい自分を演じてたわけじゃないし、きっとそれが本当の私なんだと思う。でも、今は違う。必死でもがむしゃらでもいいから、ちゃんと思い出したいことがある。だから、今からする質問に答えてほしい」

 ふたりして一緒に身を硬くしたのがわかる。
 長いつき合いだから、聞かれることは予想していたよね。

「私たちが小学三年生のときまで、大雅は一緒にいた。私たち四人はいつも一緒にいて、仲良しだった。そうだよね?」

 伸佳が迷いながら茉莉に視線を逃がした。
 茉莉は私の目をみたまま小さくうなずいた。

「でも私には、その記憶がない。なにかが起きたことによって、私は大雅のことを忘れるほどのショックを受けた。……違う?」

 もう伸佳はうつむいてしまっている。茉莉が私の腕に自分の腕を絡めた。

「ごめん。あたしたちからは言えないの」
「うちの親とかが口止めしてるんだよね。ふたりは口にはできない。でも、私は思い出したい。だから……ウソをついてもいいよ」
「どういうこと?」

 不安げに眉をひそめる茉莉に少し笑って見せた。

「何年のつき合いだと思ってるの。ふたりのウソやごまかしはすぐに見抜ける自信がある。だから、私の話を聞いてなにか反応してくれるだけでいいから」

「なんだそれ。俺はウソなんてつかねーし」

 あきれ顔の伸佳に「へえ」とおどけてみせた。

「伸佳さ、大雅が転入してきてすぐのころ『町案内して』って頼んできたとき、
『部活がある』って言ってたけどあれ、ウソだよね?」
「げ」
「茉莉だってそう。私と大雅をふたりきりにさせたがってた」

 ふてくされた顔でそっぽを向く伸佳とは違い、茉莉はホッとしたような顔になった。
 茉莉はやさしいから、私にウソをつきたくなかったんだよね……。

「伸佳、大雅は本当に私の幼なじみなんだよね?」
「当たり前だろ」

 これは、本当のことだろう。

「茉莉、大雅がまた転校するってことは最初から知ってたの?」
「ううん、あたしたちも知らなかったからすごく驚いてる」

 これも、本当のこと。
 こうして話をしていると少しずつ見えてくるなにかがあった。

 ひょっとして大雅が私にしたひどいことというのは、私のためを思ってしたことかもしれない。
 じゃあ、それはどんなことなんだろう……。

「あのね、悠花……」

 茉莉が迷いながら口にする。

「あたしも伸佳も、悠花と大雅がうまくいってほしいと思ってた。昔からあたしたちは仲良し四人組だったけど、悠花と大雅は特に仲が良かったから」

「そうそう」と伸佳は両腕を組んだ。

「でも、やっぱり悠花は大雅のことを忘れたままだったろ? だから、俺たち思い出さないほうがいいって、なあ?」
「うん。思い出さないほうがいいよね、って相談したの」

 大雅が転入してきたとき、ふたりは私の記憶が戻ることを望んだ。
 ヒントや思い出話をしても思いだせない私にふたりは……ううん、大雅を含めた三人は、新しい思い出を作ることを選んだんだ。

「図書館でのことは? 私が見つけた本に、ふたりとも固まっていたでしょう?」

 茉莉が「ああ」と頬を膨らませた。

「やっぱりバレてたか」
「あの本はよく大雅と悠花が読んでた本だろ? でも、そのことを言うとせっかくの作戦が無駄になるかもしれないし」

 伸佳はそう言うと、まっすぐに私を見つめてきた。

「もう過去のことは思い出さないほうがいいと思う」
「それは私が思い出すと混乱してしまうから? きっと、それほどの大きなことがあったんだよね?」
「…………」

 隣の茉莉はしおれた花みたいにうなだれてしまっている。
 きっと、ふたりは自分から口にしはしないだろう。

 大雅の転校が決まった今、新しい思い出はもう刻まれることはない。
 だったら、私が思い出すしかないんだ。

「大雅に告白をされたの」
「え……」

 茉莉が驚いた顔をした。

「返事はいつでもいい、って言ってくれた。なのに、もう大雅はいない。保留にしたままで、挨拶もなしにいなくなるなんてありえないよ。大雅はそんな人じゃないと思う」

 ふと、昨日の夢の光景が頭に浮かんだ。
 夢のなかで私は、昔も同じ体験をしたことがあることに気づいた。

「夢を見たの。私は大雅と一緒にいた。だけど、駅前に来ると急に大雅が走って行ってしまうの」

 伸佳がハッと顔をあげた。
 口を開きかけて、すぐにギュッと閉じてしまう。

 ――間違いない。

 大雅が走るうしろ姿が、高校生のそれから幼い姿に変わる。揺れるランドセル、夏のにおい。

 ぐらんと世界が揺れた気がした。

 そうだ……あのとき、私は――。

「悠花!」

 急に茉莉が私の腕をつかんだ。瞳にいっぱいに涙を浮かべている。

「あたしたちだって本当は思い出してほしい。だけど、また悠花が悲しみに暮れるのは見たくないよ」
「茉莉……」

 イヤな予感が胸を浸している。
 記憶の扉が今にも開きそうになっているのがわかった。
 茉莉の手をギュッと握った。

「私は大丈夫。それよりも、ちゃんと思い出したい。どんなにつらいことがあったとしても、受け止めたいの」

 茉莉が伸佳を見た。
 伸佳は「んー」とうなり声をあげていたけれど、やがて立ちあがった。

「悠花が記憶を取り戻したいならつき合うとするか」
「ちょっと!」

 反対する茉莉に、伸佳はやさしい目で膝を曲げた。

「茉莉の気持ちはわかるけど、記憶を思い出せないのってつらいもんだろ? 悠花はもう思い出しかけている。また混乱したら俺たちがそばにいて支えてやるよ」

 ゆるゆると私を見る茉莉の頬に涙がこぼれていた。

「茉莉、もしものときはそばにいて」

 そう言うと、やっと茉莉はうなずいてくれた。