「覚えてないんでしょ」
茉莉にそう言われたとたん、私は両手を挙げて『降参』のポーズを取った。
大雅が転校してきて三日が過ぎ、すっかりクラスにも慣れた様子。
元々このクラスにいたかのように、みんなと打ち解けていて、誰よりも私に話しかけてきてくれて……。
私たち四人がなつかしの再会を果たしたことは知れ渡り、すっかりグループ扱いになっている。
だから、覚えていないことを茉莉に指摘され、あっさりと認めることにした。
「助けてよ。本当に覚えてないの」
「全然?」
「全然、ちっとも、まったく」
素直に答えると、茉莉は呆れたような顔になってしまう。
大雅は風邪を引いたらしく、今日は欠席した。
放課後になって思うのは、大雅のいない学校はつまらない。
大雅のいないクラスは物足りない。
すっかり心を奪われていることは認めている。
これを恋を呼ぶのなら、なんて急展開なのだろう。
恋ってもっと、徐々に親しくなる過程で想いが強くなるものだと思っていた。
会ってすぐに好きになるなんて、これじゃあひとめぼれみたい。
下校時刻を過ぎ、クラスに残っているのは茉莉と、委員会で居残りの数名だけだった。
ふと気づくと、茉莉がやけに真剣な顔のままうつむいていた。
「茉莉?」
私の声にビクッと体を震わせたあと、茉莉はあとづけでふにゃっと笑った。
「ごめんごめん。次の試合のこと考えてた」
「なにそれ」
苦笑する私から視線を宙に向けると、茉莉は足をぶらんぶらんと揺らせた。
「前から悠花って昔の話になると記憶があいまいになるよね」
「そうなんだよね。あまり言ってなかったけど、昔の記憶があまりないんだよ。元々忘れっぽいのもあるんだけど」
「そう……」
自分でも声のトーンが落ちたことに気づいたのだろう、茉莉はポンと手を打った。
「じゃあさ、アルバムを見てみたら? 大雅、めっちゃ写ってたよ。むしろ伸佳よりも多いくらいだった」
「アルバムか。そういえば最近見てない気がする」
「それで思い出せないなら、新しい友達として思い出を作っていけばいいじゃん」
大雅が言っていたこととよく似たことを茉莉は言う。
アルバムは押入れの奥にしまいこんでいたはず。まずはそこから思い出していこう。
大きくうなずく私に、茉莉はズイと顔を近づけてきた。
「ズバリ聞くけど、悠花って大雅に恋してるでしょう?」
直球を投げられ、思わず目をつむってしまった。
「あ、違う。そうじゃなくて、そうじゃ……」
恋に免疫のない私には、その球を打ち返すことなんてできない。
モゴモゴと口ごもる私の肩を茉莉はポンポンと軽く叩いた。
「内緒にするから大丈夫。あたしだって直哉への片想いは内緒だし」
「うん……。でも、これが恋なのかどうかわからないの。久しぶりに会ったからうれしいだけかもしれないし」
言いながら、違うなと思った。そもそも覚えていないのだから、そんな感情はないのに。
私は大雅に、茉莉は熊谷くんに、伸佳は茉莉に。
一方通行の恋のベクトルが表示されている。
でも……やっぱりこれが恋なのかはよくわからない。
茉莉は人差し指を口に当て、一日中空席だった大雅の席を見やった。
「昔から大雅って体弱かったんだよね」
「そうなんだ」
「幼稚園で遠足とか行った翌日は、たいてい寝こんでたよ。日常とは違う変化があると、体調が悪くなっちゃうみたい。転入したてで疲れが出たのかもね」
「たしか、ご両親はまだ来てないんだよね?」
今、ひとりで寝こんでいるのなら、心配だ。
きっと不安なんだろうな……。
茉莉がスマホを取り出すと、
「ビタミン系の飲み物と、エナジー系の炭酸飲料、あとはお弁当だって」
とよくわからないことを言った。
「ん?」
「大雅にLINEして必要なものがないか聞いておいたの。『悠花が持っていく』って伝えておいたから」
びっくりしすぎて声の出ない私に、ニヤリと笑ってから茉莉は立ちあがった。
「ほら、あたしが行くと直哉に勘違いされそうでしょう? 伸佳は部活。それに、思い出すなら直接本人に聞くのがいちばんじゃない? LINEに買っていく物リストを送っておくからよろしくね」
「待ってよ。そんなの……」
通学リュックを背負った茉莉が「そうそう」とふり向いた。
「大雅とLINE交換するのが今日の目標ね。ちなみにコロナは陰性だったみたい。じゃ、がんばってね」
ヒラヒラと手を振りながら去っていく茉莉を、私はただ見送ることしかできなかった。
茉莉からのLINEのメッセージには、ご丁寧に大雅の住所まで載っていた。
地図アプリで調べると、夕焼け公園に続く坂道の下にあるマンションに住んでいるらしい。
それにしても、飲み物ってすごく重い。
両手で持っても、指に食いこんでくるエコバッグの持ち手に苦戦しながら、なんとかマンションの入り口に立った。
すっかり汗をかいてしまっている。
「ここか……」
比較的新しめのマンションは十階建てくらいの高さ。
入り口の自動ドアにはロックがかかっていて、そばにあるインターフォンで部屋番号を押して解除してもらわなくてはならないみたい。
部屋番号は二〇五号室。緊張しつつ番号を押そうと指を伸ばすと同時に、勝手に自動ドアが開いた。
え、なにこれ。
「こんにちは」
私に声をかけながら小学生の女の子がなかに入っていった。
自動ドアに近づくと反応して解除するカギでも持っているのだろう。
「あ、こんにちは」
遅れて挨拶をしてから、まだ空いたままの自動ドアをくぐる。
女の子は私を振り返ることなくエレベーターのボタンを押した。一緒に乗るのもなんなので、階段を使い二階へあがることにした。
心臓がずっとドキドキしている。
よく知らない男子の家にひとりで向かっている、という状況がいまだに信じられないし、実感がない。
部屋を見つけ、今度こそ勇気を出しインターフォンを……。
しばらく指を宙で停止させたあと下におろすと、私はエコバッグごと玄関の取っ手にそっとかけた。
高熱で苦しんでいるのなら、起こしてしまうのは迷惑だろう。
お風呂に入れていなかったなら気にするだろうし、余計に気を遣わせてしまうだろうし……。
たくさんの『だろう』が言い訳なのは自分でもわかっている。
でも……これ以上、大雅のことを好きになる状況は作りたくない。
この想いは恋なんかじゃない。
幼なじみの関係だったとしたら、これからもそれを維持したほうが絶対いいに決まっている。
そもそも、昔の記憶を失っているくせに好きになるなんて、大雅からしたら迷惑な話だろうし。
あとで茉莉にLINEで伝えてもらおう。
「すみません」
急にうしろから声がして「ひゃ」と悲鳴をあげてしまった。
ふり返ると、赤いランドセルを背負ったおさげ髪の少女がいぶかしげに私を見ていた。
さっき入り口で会った女の子だ。女の子も思い当たったらしく、少し目を大きくした。
「下で会いましたよね。うちになんの用ですか?」
「え、あの……」
説明しようと足を前に出すと、女の子はサッと右手をあげた。
「近寄らないでください。怪しいと思って、エレベーターを降りずに様子を見ていたんです。防犯ブザーを押しますよ」
女の子の手にプラスチックのボタンがあり、長い紐がランドセルから伸びている。
「あ、あの……ここって山本大雅くんの家でしょうか?」
「個人情報の関係でお教えできません。そういうときはまず、自分の名前から名乗るものです。もちろん身分証明書と一緒に」
右手を差し出す女の子に、慌てて生徒手帳を見せた。
「私、大雅と……大雅くんと同じクラスの――」
「え、ウソ!? 悠花ちゃんだ!」
急に丸い声になった女の子が、うれしそうに白い歯を見せた。
さっきまでの不審な顔と違い、あどけなさでいっぱいになる顔。
「そうだったら早く言ってくださいよ。てっきり不審者かと思っちゃいました」
「す、すみません」
「うわぁ。やっぱり悠花ちゃんってすごく美人なんだね! 昔の写真もかわいかったけど、今は女優さんみたい」
さっきとはあまりに違うテンションに「あ」とか「う」としか反応できない。
「私、妹の知登世、小学三年生です。はじめまして」
手早くカギを開けると、知登世ちゃんは「どうぞ」と右手をなかに差し出した。
「あ、いえ。今日はお見舞いの品を持ってきただけで――」
「おにい~ちゃあん! ちょっと来て~!」
話を聞かずになかに声をかける知登世ちゃんに、今にも逃げ出したくなる。
ガタガタッと洗面所のほうから音がしたかと思うと、
「知登世か!? どうかしたの? ちょっと待ってて」
焦る声が聞こえた。
「早く早く。じゃないと逃げちゃうよ!」
「逃げるって、まさか不審者か!?」
ガラッと開いた扉の向こうから大雅が飛び出してきた。
「キャア!」
思わず声をあげてしまったのはムリもない。
大雅はタオルを一枚巻いただけの裸だったのだから。
茉莉にそう言われたとたん、私は両手を挙げて『降参』のポーズを取った。
大雅が転校してきて三日が過ぎ、すっかりクラスにも慣れた様子。
元々このクラスにいたかのように、みんなと打ち解けていて、誰よりも私に話しかけてきてくれて……。
私たち四人がなつかしの再会を果たしたことは知れ渡り、すっかりグループ扱いになっている。
だから、覚えていないことを茉莉に指摘され、あっさりと認めることにした。
「助けてよ。本当に覚えてないの」
「全然?」
「全然、ちっとも、まったく」
素直に答えると、茉莉は呆れたような顔になってしまう。
大雅は風邪を引いたらしく、今日は欠席した。
放課後になって思うのは、大雅のいない学校はつまらない。
大雅のいないクラスは物足りない。
すっかり心を奪われていることは認めている。
これを恋を呼ぶのなら、なんて急展開なのだろう。
恋ってもっと、徐々に親しくなる過程で想いが強くなるものだと思っていた。
会ってすぐに好きになるなんて、これじゃあひとめぼれみたい。
下校時刻を過ぎ、クラスに残っているのは茉莉と、委員会で居残りの数名だけだった。
ふと気づくと、茉莉がやけに真剣な顔のままうつむいていた。
「茉莉?」
私の声にビクッと体を震わせたあと、茉莉はあとづけでふにゃっと笑った。
「ごめんごめん。次の試合のこと考えてた」
「なにそれ」
苦笑する私から視線を宙に向けると、茉莉は足をぶらんぶらんと揺らせた。
「前から悠花って昔の話になると記憶があいまいになるよね」
「そうなんだよね。あまり言ってなかったけど、昔の記憶があまりないんだよ。元々忘れっぽいのもあるんだけど」
「そう……」
自分でも声のトーンが落ちたことに気づいたのだろう、茉莉はポンと手を打った。
「じゃあさ、アルバムを見てみたら? 大雅、めっちゃ写ってたよ。むしろ伸佳よりも多いくらいだった」
「アルバムか。そういえば最近見てない気がする」
「それで思い出せないなら、新しい友達として思い出を作っていけばいいじゃん」
大雅が言っていたこととよく似たことを茉莉は言う。
アルバムは押入れの奥にしまいこんでいたはず。まずはそこから思い出していこう。
大きくうなずく私に、茉莉はズイと顔を近づけてきた。
「ズバリ聞くけど、悠花って大雅に恋してるでしょう?」
直球を投げられ、思わず目をつむってしまった。
「あ、違う。そうじゃなくて、そうじゃ……」
恋に免疫のない私には、その球を打ち返すことなんてできない。
モゴモゴと口ごもる私の肩を茉莉はポンポンと軽く叩いた。
「内緒にするから大丈夫。あたしだって直哉への片想いは内緒だし」
「うん……。でも、これが恋なのかどうかわからないの。久しぶりに会ったからうれしいだけかもしれないし」
言いながら、違うなと思った。そもそも覚えていないのだから、そんな感情はないのに。
私は大雅に、茉莉は熊谷くんに、伸佳は茉莉に。
一方通行の恋のベクトルが表示されている。
でも……やっぱりこれが恋なのかはよくわからない。
茉莉は人差し指を口に当て、一日中空席だった大雅の席を見やった。
「昔から大雅って体弱かったんだよね」
「そうなんだ」
「幼稚園で遠足とか行った翌日は、たいてい寝こんでたよ。日常とは違う変化があると、体調が悪くなっちゃうみたい。転入したてで疲れが出たのかもね」
「たしか、ご両親はまだ来てないんだよね?」
今、ひとりで寝こんでいるのなら、心配だ。
きっと不安なんだろうな……。
茉莉がスマホを取り出すと、
「ビタミン系の飲み物と、エナジー系の炭酸飲料、あとはお弁当だって」
とよくわからないことを言った。
「ん?」
「大雅にLINEして必要なものがないか聞いておいたの。『悠花が持っていく』って伝えておいたから」
びっくりしすぎて声の出ない私に、ニヤリと笑ってから茉莉は立ちあがった。
「ほら、あたしが行くと直哉に勘違いされそうでしょう? 伸佳は部活。それに、思い出すなら直接本人に聞くのがいちばんじゃない? LINEに買っていく物リストを送っておくからよろしくね」
「待ってよ。そんなの……」
通学リュックを背負った茉莉が「そうそう」とふり向いた。
「大雅とLINE交換するのが今日の目標ね。ちなみにコロナは陰性だったみたい。じゃ、がんばってね」
ヒラヒラと手を振りながら去っていく茉莉を、私はただ見送ることしかできなかった。
茉莉からのLINEのメッセージには、ご丁寧に大雅の住所まで載っていた。
地図アプリで調べると、夕焼け公園に続く坂道の下にあるマンションに住んでいるらしい。
それにしても、飲み物ってすごく重い。
両手で持っても、指に食いこんでくるエコバッグの持ち手に苦戦しながら、なんとかマンションの入り口に立った。
すっかり汗をかいてしまっている。
「ここか……」
比較的新しめのマンションは十階建てくらいの高さ。
入り口の自動ドアにはロックがかかっていて、そばにあるインターフォンで部屋番号を押して解除してもらわなくてはならないみたい。
部屋番号は二〇五号室。緊張しつつ番号を押そうと指を伸ばすと同時に、勝手に自動ドアが開いた。
え、なにこれ。
「こんにちは」
私に声をかけながら小学生の女の子がなかに入っていった。
自動ドアに近づくと反応して解除するカギでも持っているのだろう。
「あ、こんにちは」
遅れて挨拶をしてから、まだ空いたままの自動ドアをくぐる。
女の子は私を振り返ることなくエレベーターのボタンを押した。一緒に乗るのもなんなので、階段を使い二階へあがることにした。
心臓がずっとドキドキしている。
よく知らない男子の家にひとりで向かっている、という状況がいまだに信じられないし、実感がない。
部屋を見つけ、今度こそ勇気を出しインターフォンを……。
しばらく指を宙で停止させたあと下におろすと、私はエコバッグごと玄関の取っ手にそっとかけた。
高熱で苦しんでいるのなら、起こしてしまうのは迷惑だろう。
お風呂に入れていなかったなら気にするだろうし、余計に気を遣わせてしまうだろうし……。
たくさんの『だろう』が言い訳なのは自分でもわかっている。
でも……これ以上、大雅のことを好きになる状況は作りたくない。
この想いは恋なんかじゃない。
幼なじみの関係だったとしたら、これからもそれを維持したほうが絶対いいに決まっている。
そもそも、昔の記憶を失っているくせに好きになるなんて、大雅からしたら迷惑な話だろうし。
あとで茉莉にLINEで伝えてもらおう。
「すみません」
急にうしろから声がして「ひゃ」と悲鳴をあげてしまった。
ふり返ると、赤いランドセルを背負ったおさげ髪の少女がいぶかしげに私を見ていた。
さっき入り口で会った女の子だ。女の子も思い当たったらしく、少し目を大きくした。
「下で会いましたよね。うちになんの用ですか?」
「え、あの……」
説明しようと足を前に出すと、女の子はサッと右手をあげた。
「近寄らないでください。怪しいと思って、エレベーターを降りずに様子を見ていたんです。防犯ブザーを押しますよ」
女の子の手にプラスチックのボタンがあり、長い紐がランドセルから伸びている。
「あ、あの……ここって山本大雅くんの家でしょうか?」
「個人情報の関係でお教えできません。そういうときはまず、自分の名前から名乗るものです。もちろん身分証明書と一緒に」
右手を差し出す女の子に、慌てて生徒手帳を見せた。
「私、大雅と……大雅くんと同じクラスの――」
「え、ウソ!? 悠花ちゃんだ!」
急に丸い声になった女の子が、うれしそうに白い歯を見せた。
さっきまでの不審な顔と違い、あどけなさでいっぱいになる顔。
「そうだったら早く言ってくださいよ。てっきり不審者かと思っちゃいました」
「す、すみません」
「うわぁ。やっぱり悠花ちゃんってすごく美人なんだね! 昔の写真もかわいかったけど、今は女優さんみたい」
さっきとはあまりに違うテンションに「あ」とか「う」としか反応できない。
「私、妹の知登世、小学三年生です。はじめまして」
手早くカギを開けると、知登世ちゃんは「どうぞ」と右手をなかに差し出した。
「あ、いえ。今日はお見舞いの品を持ってきただけで――」
「おにい~ちゃあん! ちょっと来て~!」
話を聞かずになかに声をかける知登世ちゃんに、今にも逃げ出したくなる。
ガタガタッと洗面所のほうから音がしたかと思うと、
「知登世か!? どうかしたの? ちょっと待ってて」
焦る声が聞こえた。
「早く早く。じゃないと逃げちゃうよ!」
「逃げるって、まさか不審者か!?」
ガラッと開いた扉の向こうから大雅が飛び出してきた。
「キャア!」
思わず声をあげてしまったのはムリもない。
大雅はタオルを一枚巻いただけの裸だったのだから。