これは夢だ、幻だ。
 なぜなら、こんなにも安らげる場所を彼は知らなかった。ふと思い出したように夢で見るその風景は、目が覚めると途端に遠く薄れてしまう情景――。

 いつものことだ。いつもの夢だ。

 けれど彼は、目覚めに近づくと、前方をいく男に「待ってくれ」と声をかけずにいられなかった。どうしてかは分からないけれど、その男が向こう側で浮かべている表情や、彼からの言葉の一つでも欲しくて仕方がない瞬間があるのだ。

 今夜も結局は、何も進展のないまま重々しい現実へと引き戻された。

 夢から覚めて目を開いてみれば、そこには見慣れた低い天井を背景に、心配そうにこちらを覗きこむ女の顔があった。

「アラタ。うなされていたけど、大丈夫?」

 そう問い掛けられたアラタは、重い瞼を二度ほど開閉した。しばらく記憶を手繰り寄せて考え、ようやく自分が置かれている状況を思い出す。

 俺はこいつを知っている。経済学部のジャジャ馬で、まあまあ美人だと評判もある安藤ナナカ……そう思い返して、はぁっと呆れたように溜息をこぼした。