『旦那様も奥様も、お忙しいのです……』

 知っている。そんな事は、幼い頃から分かり切っているのだ。
 どちらも大きな会社に勤めていて、それぞれが自分の時間を大切にし、どちらかと言えば家庭に縛られる事を嫌っていた。

 彼方は、彼らが実際に言い合う姿を見た事はなかった。でも、その時の両親の顔が、厳しい怒りや拒絶の表情をしているのだろうと想像出来た。

 言い争う声の時と違って、当時『愛している』という言葉に温度を感じた事はない。

 もしかしたら、愛は温度のないものなのだろう。彼方は色の付いた筆を、下に置いてあった水の入った入れ物に入れ、椅子の背に身体を預けた。

 まだ色の渇いていない絵の後ろには、昨日下描きだけをした一枚の絵がある。そこには一人の首が太い男性と、痩せ型の女性の顔が描かれていた。への字に歪められた唇を上げて鼻元に皺を寄せ、小さく垂れ下がった瞳を見開いて誰かを睨みつけている表情だ。

 ただ何も考えず鉛筆を走らせただけの絵だ。けれどそこに描かれているのは、どこからどう見ても彼の父と母の『顔』だった。