彼方が描く人物画は、全てどこかで見た光景だった。でも描いている彼方自身、それが誰なのか、どこで見掛けたものなのかまでは把握していない。

「風景とか入れた方がいいんじゃない?」

 ふと、静まり返っていた室内に、またしてもそんな声が上がった。

 この数日で聞き慣れてしまった恵の声を聞いて、彼方は手を止めた。ゆっくりと視線を向けると、いつの間にかこちらに来ていた彼女が、二つ結びの髪先をひょこんっと揺らして指を指す。

「描かれた人はどこにいて、何をしているのか。それが分かったら、見ている人もますます楽しめると思うんだけどなぁ」

 写真も被写体と風景のバランスが大事なの、と彼女が得意げに言う。

 いつも楽しそうにしている彼女から目をそらし、彼方は再びキャンバスに向かうと、鉛筆を動かし始めながら「別に」と答えた。

「見る人が求める絵とやらを、どうして僕が描かなくちゃいけない? 僕は描きたいと思ったから描いているだけだ――君の方こそどうなのさ? 君の撮る写真とやらは、君の言うところのものなのかい」