5

 ドアの開く音で、目を覚ました。どうやら、自分以外の生徒が保健室にやってきたらしい。
 ずいぶんと長く眠っていた気がする。寝起きの頭は、すっきりとしていた。
「ベッド、お借りしてもいいですか?」
 保健室にやってきた〝誰か〟が養護教諭にそう尋ねるのを聞いて、はっとした。
(この声……)
 生徒の申し出に養護教諭が「いいわよ」とうなずく声。それから、カーテンで区切られている隣のベッドに、人が入ってくる気配がした。
 それからしばらくの間、保健室はとても静かだった。養護教諭が仕事をしている音と、グラウンドから遠く聞こえてくる声。一限目から体育はだるいよなぁ、とグラウンドで授業を受けている生徒たちに同情しつつ、ぼんやりと天井を見上げる。すっかり目は冴えてしまって、再び眠る気にはならなかった。
 十分ほど経った頃だろうか。ふと、養護教諭が席を立つ気配があった。ベッドで横になっている愛梨たちを気遣うように、ゆっくりとドアが開き、閉まる。
「……起きてる?」
 養護教諭の足音が完全に聞こえなくなってから、そっと隣のベッドに向けて、声を掛けた。
「起きてる」
 返事は早かった。
 その声を聞いただけで、愛梨にはわかった。
(……ああ、ちゃんと「覚えてる」んだ)
 安堵から、ほうっと息を吐き出した。
 あの不思議な出来事を共有できる相手がいること、その相手がいることでやはりあれは本当に起きたことなのだと再認識できたこと、それから……きちんとお礼を伝えられることに、愛梨は安心したのだ。
「ありがとね。夏帆のお陰で助かった」
 少しの間を置いた後、カーテンの仕切りの向こう側から、「どういたしまして」と返ってくる。
「本当の話だったんだね。夏帆のおばあちゃんが、魔法使いだって」
「うん。おばあちゃんは、いろんな魔法を見せてくれたよ。私に授けてくれたのは、この薬だけだったけど」
 身じろぎするような音がした後、カーテンの仕切りが枕元の方からそっとめくられた。その向こうでベッドから半身を起こした夏帆が、左手をこちらに伸ばしてくる。
 その手に握られていたのは、例の魔法の薬が入ったガラス瓶だった。
「はい」
「はい……って?」
「もう、使い方わかったでしょ」
 こちらに差し出されたガラス瓶とその言葉に、まさかと思いつつ、彼女と同じように身を起こす。
「え、くれるってこと? これを?」
「うん」
 あっさりとうなずいた夏帆に、驚きで目を丸くする。
 どこでも手に入る市販薬とは違う。これは正真正銘の魔法の薬だ。
 それを、こんなにも軽々しく愛梨に譲ろうとでもいうのだろうか。
「これからも、必要だと思ったときに使えばいいから」
 なかなか受け取らない愛梨に焦れたのか、あるいは単に腕がつかれたのか、早く受け取れと急かすように、夏帆がさらに手を伸ばしてくる。
 愛梨も右手を差し出して、ようやく夏帆の手からガラス瓶を受け取った。
「……ねえ、聞いていい?」
 自分の手に渡ったガラス瓶。その中に収められた色とりどりの薬を見つめる。
 夏帆は「どうぞ」と言葉少なに愛梨を促す。
「どうして、ここまでしてくれるの?」

 ──昔は毎日のように遊んでいた夏帆とほとんど喋らなくなったのは、いつからだっただろうか。
 特にこれというきっかけがあったわけではない。喧嘩をした覚えもない。
 それでも、小学生になってクラス替えが繰り返されるうちに、次第に交友関係は変化していった。愛梨はおしゃれで活発な子たちと一緒にいることが多くなり、そういったことにあまり興味がなさそうな夏帆との距離は、自然と遠ざかっていった。
 中学校に上がると、さらに友人同士のグループ化が明確になり、よりいっそう関わることは少なくなっていった。
 ……きっとこのまま、ふたりの道が再び交わることはないのだろうと。諦めにも似た気持ちで、そう思っていた。

 愛梨の質問に、夏帆は眼鏡の奥の瞳を、ふっとほころばせた。そこに感情が浮かんでいるのを、初めて目の当たりにするような思いで見つめる。
「約束、したから」
 寂しさがにじむ瞳で、夏帆は言った。
「市川さんはもう、覚えてないかもしれないけど。昔、一緒に遊んでたときに」
 視線を落とした夏帆の前髪が、はらりと落ちて彼女の顔にかかる。
 その言葉を聞いたとき、唐突に記憶が蘇った。
 あの夢の続き。あの後、彼女が愛梨に告げた言葉。

『それでね、あいりちゃんがこまったときは、かほがたすけてあげる』