拓実が泣いていた。思わず立ちあがり、ベッドの上の細い体を抱きしめた。それから、触らないでと鋭い声が思い出される。

 「やめて」と小さな声が聞こえる。「せっかく、ちゃんとしようと思ったのに」と。

 「ちゃんとしなくていい。もういいよ。ちゃんとしなくていい。頑張らなくていい」

 「なんで……嫌い、になってくれないの……?」

 「好きなんだよ。拓実のことが」

 「じゃあなんで」と涙声がいう。

 「中学のとき、告白……受け入れたの?」

 打ち明けられた拓実の記憶が蘇る。俺が拓実を救えなかった日のことだ。俺は女子に付き合うよう求められ、それを受け入れたらしい。

 「それ、憶えてないんだけどさ。でも、恋人としてなんて話じゃなかったよ」

 なにか手伝ってほしいとか、そういう話だったのではないだろうか。

 「そんな話なら受け入れるわけないじゃん」と笑って、拓実の薄い背中をさすりながら、自分も泣いていることに気がつく。それほど強い感情があるわけでもないのに、泣いている。

 細い腕が絡みついてくる。「敬人、……敬人」

 「うん。なあに」

 「嫌だ」と震える声につられて、次々と体温があふれてくる。

 「一緒に……いたい……」

 急に、胸の奥が暖かくなった。ずっと空洞で冷え切っていたところが、優しい熱に満たされていく。

 「拓実」——。大好きな名前。久しぶりに呼んだような心地がする。

 「ん、」と泣いているのか返事なのかわからない声がした。

 「俺でいい?」と尋ねると、細い腕が息を乱して何度も何度も絡んでくる。俺はその背をさするように抱きしめる。

 「敬人がいい、一緒にいたい」と泣いた声が耳から染み込んでくる。

 「俺も、拓実がいい」

 ひゅっ、と喉が鳴った。力の抜けていく腕を追うように、拓実の体を抱きしめる。

 どれほどそうしていたか、「敬人」と呼んでくれる少しだけ落ち着いた声は、よく知った愛らしさを纏っていた。

「ん?」と答えると、肩にぐりぐりと頭を押しつけられた。「大好き」とかわいい声にいわれて、顔が熱くなる。涙はとうに止まっていた。

 「敬人」と甘えるような声で呼ばれ、「俺も大好きだよ」と答えて、綺麗な髪の毛に触れた。

口づけなんて、初めてのことだった。拓実の髪の毛は、どこか甘いような匂いがした。シャンプーとは少し違う匂いだった。

 「拓実」

 もう決して、小さな変化も救難信号も見逃さない。


 ——もう一度、
 女子の告白を受け入れた敬人を拒んでから、敬人は一度も私の家にこなかった。朝、おはようと声を交えることもない。甘えたくなってぎゅっと抱きつくこともできなくなった。

 尊藤と峰野。反射板の役割も担うシールに振られた番号に沿って自転車を停める決まりになっていた。シールの番号は、一年生のときに一組で一番だった人から三組の三十八番までの百十二まである。

一組と二組は三十七人、三組は三十八人だったのだ。敬人と私はずいぶんと離れた数字を割り振られた。五十番と七十一番、二組の十三番と三十四番だった。

 毎朝遠くから、敬人の自転車が停まっているかどうか確認した。停まっている日もあれば、そうでない日もあった。けれど決まって、そのあとに会話はできなかった。それでいいのだと何度も自分にいって聞かせた。これでいい。敬人たちの邪魔をしてはいけない。

最後くらい、敬人にふさわしい人になりたい。ちゃんと大人っぽく、幸せを願って身を引きたい。惨めだなんて、他人にいわれて思い出したくない。わかっているのだから、改めていわれたくなんかない。ちょうどやろうと思っていたときに、それをやりなさいといわれるのに似た不快感がある。

 敬人が家にこないことに寂しさは感じていた。ああ本当にあっちへ行ってしまったんだという気持ちになった。本当に大切な人を見つけたんだと。

 二度目の席替えまでの間、敬人は私に一度も話しかけてこなかった。それも少し、寂しかった。けれどそれも当然のことだった。私はただの幼馴染、敬人にはもう、心を受け入れた相手がいる。わざわざ今まで通り親しく話さなくてはならないような理由もない。

 生きていかなくてはならない、と強く思った。失恋なんて特別な出来事じゃない。私にだけ起こった救いのない悲劇なんかじゃない。どこの誰もが経験したことのあるような、ありふれた寂しさ。

ゆっくりゆっくり癒えていく、ちょっとした傷。外せないピアスのようなもの。いつかは綺麗な飾りになる。宝石になる。
 恋愛小説というものを、初めて読んだ。けれどもその中でも内容は偏っていて、どれも悲恋を描いたものだった。

ほらね、と思えるから。ほらね、私だけじゃない。失恋なんて、大好きな人に会えなくなるなんて、どこにでもある話。

 こんなに悲しんでやる必要もない、とも思った。どうせこれは私だけの話じゃない。敬人は私のすべてだった。けれども、そういうものを失うのは私だけじゃない。

だったら、悲しみなんて、寂しさなんて、持っていても楽しくないものなんて、大切にしてやることない。

 そんな醜い嘘は、すぐに溶けて消えた。燦々と街を照らす太陽に、ざあざあと街を叩く雨に、すべて吸い込んでしまうような厚い雲に。

 どこまでも、私は敬人でできていた。敬人がいるから生きていた。敬人がいるから、私は私としてこの世界に生きていた。尊藤敬人が大好き——それが峰野拓実という女の自我同一性だった。

格好をつけてみれば、それが私のアイデンティティだった。敬人が、私の空っぽを埋めてくれていた。それに重さを与え、熱を、形を、心を、声を、与えてくれた。

 夜は好きではない。敬人を思い出す。夜に敬人と一緒にいたことはないけれど、昼よりも夜が好きといっていた彼を思い出す。

敬人の好きな夜はどんな夜だろうと考えてしまう。今日の夜は、敬人にとって心地いい夜かな、なんて。考えてしまう。

 怖いなら、見なければいい。

 明るい昼に、私が敬人にいった言葉。怖いなら見なければいい。その通りだ。見るから怖いのだ。見なければ怖くない。知らなければそれはないものと大差ない。

綺麗な花も、恐ろしいおばけも、知らなければ存在しないのだ。存在を知ってしまったのなら、意識を逸らせばいい。

その通りだ。けれど、よくもあんなに簡単にいったものだと思う。見なければいい、意識を逸らせばいい。——今私は、敬人に会えないのが寂しい。その事実から、意識を逸らす。どこに逸らす? 会いたいときに会えないなんてことが、今までに一度もなかった。

怖いなら見なければいいなんていった私はきっと、会いたいなら会えばいいなんてどうしようもないことをいうのだろう。それができれば、苦労しない。
 敬人、敬人、と繰り返し呼ぶ声が聞こえる。幻だと思っていた。部屋には私しかいない。私に声の聞こえるようなところで敬人を呼ぶような人はいないのだ。

敬人、敬人。けれども確かに、声は聞こえる。敬人の恋人かな、と思ったりもした。私が敬人に未練を抱いているのを知って、生霊でも飛ばしているのかもしれないと。

敬人、敬人。うるさいなと思って布団の中で目を閉じる。敬人、敬人。楽しそうでいいわね、と妬ましく思ったとき、涙が出てきた。敬人、敬人、としつこく繰り返される。自分の声だと、ようやく気づいた。体の中で、ずっと敬人を呼んでいた。

 透明な石が埋め込まれた輪をぎゅっと握る。永遠の絆。大丈夫、大丈夫。敬人はそばにいる。敬人は、私の中にいる。嘘なんかじゃない。敬人と一緒にいた時間は本物だ。敬人に抱いている感情も本物。

 違う。だから悲しいんだ。だから、寂しい。嘘だったのなら全部諦められる。でもそうじゃない。全部全部、本当だった。

 息ができなくなる。敬人に会いたい。ぎゅっとしてほしい。いなくならないまま、大丈夫だよといってほしい。

 敬人、敬人——。
 右手でシャープペンシルを握る。机の下の左手では、絆を握る。ノートを開いて、問題集を開いて、ただひたすら文字を書いていく。英語と日本語を交互に、延々と書いた。最後に、後ろの方のページで答え合わせをする。

悔しさも新しい発見もほとんどなかった。たまに単語のもう一つの意味が抜け落ちていて、なるほどどうりではちゃめちゃな文章だと思ったと苦笑するくらいだった。

そのど忘れを悔しく思えないのだから、まるで余裕がなかったのだと思う。テストで一問、間違えればあれほど悔しかったのに。

 学問とは違う分野の専門書にも手を出した。左手では永遠を握ったまま、机の上のページを右手でめくった。

お茶とか、飲んだらお咎めを受けるし味も魅力も知らないのに、まったくの好奇心から葡萄酒とか麦酒とか、それまで大して興味もなかったのにインテリアデザインとか、資格取得のためのテキストのようなものを読んだ。知らない世界がたくさんあった。

人生で触れた楽器は縦笛と鍵盤ハーモニカ、電子オルガンくらいなもので、その腕を褒められたことなど一度もないのに、音楽の専門書なんかも読んでみた。

知らない言葉ばかりでどうしようかと思ったけれど、一つ一つ調べて読み進めるうちに楽しくなった。小さい頃からなにか習っておけばよかったな、なんて思ってみたり。

ところで、縦笛の低いドとはどのように出すのだろう。なかなかいい音が出たことはあるけれど、どれも偶然のようなものだった。

 そういった内容に頭が疲れてきたら、学校で習った学問へ戻った。背伸びはしない。足元をかためておかなければ、高校にあがってからきっと苦労する。

予習もしておけば心強いだろうけれど、私には合っていないと思う。やはり、書店でぱらぱらと見知らぬ記号の羅列を覗いてみるくらいがちょいどいい。

一晩経てば忘れてしまう、けれどいざ新しい教室で対面したとき、どこかで見たことがあるような気がする、そんな程度が心地いい。
 ふと、廊下に出てみる。よく晴れた窓の向こうに、敬人の好きだといってくれた庭が広がっている。

深く吸い込んでゆっくりと吐き出した息が震えた。ここから出ていけば、私も少しは強くなれるだろうか。ああ、敬人——。会いたい。

絆を握った左手の繋がった腕を自分の体へ回す。なにも持たない右手で自分の目を覆う。右手が少し濡れた。

 痛い。名前のわからない場所が、どこかわからない場所が、痛い。鈍く、重く、熱を持っているように痛い。

 なにも見えない。本当にこの世界がこんな真っ暗だったらいい。なにも見ないで済む。誰もいない。なにも知らないで済む。

 頭がふわふわして、そのまま座り込む。怖くない、怖くない。大丈夫。永遠は、絆は、左手にある。敬人がくれた永遠。敬人がくれた絆。大丈夫、なにも怖くない。私は、満ち足りている。空っぽなんかじゃない。敬人がいる。私には、どこにもいかない敬人がいる。大丈夫。怖くない。

 拓実、と呼んでくれる敬人の声が、耳の奥で蘇った。ああ、敬人……。大丈夫だよ、と優しい声が内側で響く。敬人を求める空洞が、彼の声に震える。

 敬人、敬人。

 拓実、と呼んでくれる声に応えるように、左腕に力を込める。体に巻きついた温度が、満ちていくような気がした。拓実、大丈夫だよ。大丈夫。

 怖いものなんて、なにもない。大丈夫。敬人がいてくれる。敬人が、そういってくれる。嘘じゃない。大丈夫。私は、大丈夫。

 呼吸がへたになっているのに気がつくのに、とても時間がかかったくらいだ。私は、満ち足りている。
 学校に行けば、現実を突きつけられる。あちこちで求められ、あちこちに穏やかな笑みで接する敬人の姿が見える。左手の中の永遠を、絆を、ぎゅっと握る。

全部がなくなったわけじゃない。全部、失ったわけじゃない。敬人を求めている人が私以外にもたくさんいるだけ。

私はみんなより先に敬人の優しさに触れて、それを独り占めにしていたから、そのつけが回ってきているだけ。なにも変なことじゃない。

幸せは、誰にも平等に与えられるべきだ。独り占めなんてしようものなら、あとでその代償を、代価を払わなくてはならない。私は今、それをしている。

 あれだけ一緒にいたのだから、私はもう、敬人がいなくても大丈夫。一人でもやっていける。敬人がいなくても、大丈夫。ありがとう——なんてまだ、いえないけれど。そのうちにいえるようになる。

大丈夫、だってあれだけ一緒にいたんだから。みんなよりずっと長い間。敬人が受け入れた女子より早くから、一緒にいた。

大丈夫、いっぱい話をした。いっぱい、ぎゅっとしてもらった。父よりもしてくれた。家族よりも多く、私は敬人と一緒にいた。触れ合った。大丈夫、いっぱいある。いっぱい、溜まってる。

一生分の敬人が、私の中にある。一生分の敬人の声を、優しさを、私はこの六年ほどで受け取った。生きていける。大丈夫、ちゃんとできる。なにも、怖くない。

 大丈夫、なのに——。

 どうして、泣きそうになっているのだろう。どうしてまだ、名前を呼んでほしいのだろう。まだ、一緒にいたいのだろう。

 左手の中の永遠を確かめる。確かにある。永遠を、私は持っているのだ。なにも怖いことなんてない。敬人がくれた永遠。こんなにも価値のあるものはない。

 なのに、どうして——。

 「くみちん?」と声がして、慌てて何度か瞬きをして顔をあげる。ゆりの、というかわいい名前の女の子がいた。

 「茂木さん」

 「目、赤くない?」

 「ううん、大丈夫」

 「泣いた?」

 「玉ねぎも切ってないのに?」

 「なんかあったんしょ、敬ちんと」

 「なにもないよ」と答えると、茂木さんはなにかいいたそうな顔をした。

 本当になにもない。あるのは、永遠だけ。永遠の、絆だけ。
 もう、敬人の支えなんていらない。毎朝、毎日、毎晩、何度も何度も強く思った。

 敬人がいなくても大丈夫。

 ふと「こういうのって、恋っていうんだろうね」という敬人の声が蘇った。私の頬を撫でて、甘く、深みのある声で、囁くようにいわれた言葉。

 永遠を握った手に色のない熱が落ちて弾けた。なんで、と熱が込みあげてくる。じゃあ、なんで。

 なんで置いていくの? なんで一緒にいてくれないの?

 敬人がいれば、それでいいのに。それだけでいいのに。

 敬人以外にはなにもいらない。敬人が敬人としてそばにいてくれれば、それ以上はもうなにも求めない。周りに誰もいないでなんてわがままもいわない。ただ、一緒にいたい。そばで声が聞きたい。

自分に向けられた言葉の一つ一つを、失くさないで大切にしまって、一日一日を生きていきたい。優しい笑い顔を、ほんの少しずつ違うその笑い顔を、忘れることなくずっと胸の奥にしまって、一緒に過ごしたい。

 そんなに、わがままだろうか。そんなに、身に余る幸福を求めているだろうか。怒ったっていい。笑ってくれないことがあったっていい。敬人は人間だから。それは違うと否定してくれていい。喧嘩になったっていい。ごめんねといったとき、簡単に許してくれなくたっていい。何度目かに、そっと笑ってくれたらいい。なにも、特別ではないはずなのに。

 どうして、一度は敬人も私を見てくれたのに、どうして、叶わないの。一緒にいたいだけなのに、どうして、そっちに行っちゃうの。どうして、置いていくの。

 敬人——。
 大嫌い。大嫌い。必死に繰り返した。敬人に告白した女子も、それをすんなり受け入れてしまう敬人も、大嫌い。

あれほど好きだった敬人を簡単に嫌いになる自分はもっと嫌い。もう、なにもいらない。なにも欲しくない。なにも、求めたりしない。

 何度誓うように繰り返しても、教室に行ってしまえば目が勝手に敬人を追う。笑っているのを見て悲しくなる。あんなふうに、そばにいてほしいのに。

 敬人と目が合うたび、私は私を否定する。敬人なんか見ていない。本当にそうかしら。あんなに好きだったくせに。大嫌い。

 何度も永遠を握り潰す。手のひらに爪と輪の跡がつくほど、強く握る。こんなもの、いらない。永遠なんて、絆なんて、ありはしない。どうせ嘘だ。

 来る日も来る日も、左手で輪を握って右手でページをめくった。敬人を自分を呪うことに疲れたのだ。怖いなら、見なければいい。私は勉強というところに、意識を逃がした。

 中学校生活が終わりに近づく頃には、私はいくつかの検定に合格していた。背伸びはしないと決めていた。それでも英語と数学に限っては、気づけば最上級まであと一つ二つというところまで進んでいた。

達成感などない。なにかに追い立てられるように机に向かい、シャープペンシルの芯を擦り減らし、ノートの白に文字を刻んだ。

それに意味があるものか確かめてみたら、合格の通知がきたのだ。今までの私ならどれだけ喜べただろう。このままもっともっとと、勉強が楽しくて仕方がなかっただろう。どんどん立派な人になっていくような感覚に幸福を見出したことだろう。

 中学校卒業の直前に、茂木さん——私をくみちんと呼び、敬人にげきちんなんて呼ばれている美少女好きを自称する女の子——に、「久しぶりじゃん」と声をかけられた。

「高校、どこにしたの?」と訊かれ、「下浜高校」と簡潔に答えた。「おっ、そうなんだ」という表情がなんとなく引っかかったけれど、そこに触れるより先に茂木さんが進む高校に話題が移ってしまった。

ここからは遠いところに住む女の子のかわいさに期待していると熱弁された。きっとこの辺りにいる美少女とは雰囲気が違うと思うの、とか、きっとこの辺の美少女より華があると思うの、とか、相槌を打つにもどうしようかと困り果てる話しぶりだった。

「いやいや、この辺のくみちんとかの美少女が地味だっていってるんじゃなくてね、清楚な感じだと思うんだよ、この辺の美少女って。でもさ、もっとあっちの都会な感じの方の美少女はもう、自分のかわいさを存分に楽しんでるような、そういう美少女がいると思うのよ。え、そう思わない?」と。なにもわかりやしなかった。