高校一年で、稲臣、紙原、舞島と出会った。うち舞島と同じクラスで、彼と親しくなったことで遠くのクラスにいた紙原とも親しくなった。

その紙原が稲臣を連れてきて、昼休みに四人で昼食を摂るようになった。

 稲臣への第一印象はおっかない人だった。どこを比べても俺とは違うタイプの人だろうと思った。

左耳の下でぷるぷると揺れる小さな赤い石が印象的だった。中学生の頃には陸上部でなかなかの成績を残したらしい。

 紙原へは特になにも感じなかった。平凡といってしまうにはどこか華があるような雰囲気だけれど、おおよそどこにでもいる十代の男子といった印象だった。

 稲臣の印象は、彼が話すたびに変わっていった。よく笑うし、優しい人でもあった。二年半前に一緒に暮らしていたモルモットを見送ったそうで、半年の間にかなり痩せたらしい。この頃は少しずつ戻せていて、あと三キロほどだといっていた。

急激にそれほど痩せてしまって陸上なんて続けられたのかと不安になったけれど、その前がすごかったようで、あそこで踏ん張れてたらご指名もあっただろうなと稲臣は少し惜しそうにいった。でもそれで紙原君たちに会えたし、とも彼はいった。

当時、稲臣はみんなのことを苗字に君をつけて呼んでいた。それもまた、印象と異なるところだった。

思えば、目つきが悪いわけでもないし耳に穴を空けているわけでもないのにおっかない人というのもいる。世の中に溶け込むのに適した見た目で、冷酷な奴もいる。俺はそういう奴を、よく知っているはずだった。

 舞島もまた、見た目から受ける印象とは違った心の持ち主だった。初めて声をかけられたときにはなんか気取った奴が出てきたと思ったものだけれど、彼にそんなところはなかった。むしろ基本的にふざけている人だった。紙原に会うために猛勉強したという話を熱弁されたときには笑うしかなかった。

本人は至ってまじめだったのだろうけれど、その豊かな表情がふざけているようにしか見えなかったのだ。よく動きながらぽんぽんと話を進めていくものだから、俺は話し終えた舞島に「将来は有名な噺家だね」といった。

「だめだよ」と慌てたようにいうものだからなにかと思えば「俺、着付けなんかできない」とまじめな調子でいうものだからやはり笑ってしまった。「そうか、噺家は着付けができないとだめか」なかなか厳しい職業だなと思った。
 「峰野って五組にいる人?」といわれて、げきちんがいいかけていたことがなんだったのかわかった。どんな流れだったか、舞島に拓実のことを話したときのことだった。

 「五組? この学校にいるの?」

 「峰野拓実でしょ? 小学校同じだった奴が五組にいるけど、すっごいかわいい女の子がいるっていって、大騒ぎしてたよ。あんまりいうもんじゃないんだろうけど、男みたいな名前だと思ってよく憶えてるんだ」

 「そう……」

 「え、いわない方がよかったかな。なんかあったの、その峰野って人と」

 「まあ、なんだろう……」長々と喋るのもどうかと思ったというのもあるけれど、「喧嘩みたいなものかな」と当たり障りない言葉を続けた自分にうんざりした。自分の無力さを隠しているような気分になった。

 「喧嘩ねえ……敬人も喧嘩なんてするんだ? しかも女の子相手に」

 なにもいえずに苦笑すると、舞島は「敬人も見かけによらないね」とのんびり笑った。

 「峰野って人とは付き合ってたの?」

 「わからない」

 「わからない?」

 「どんな関係だったのか、自分でもよくわかってないんだ。ただの同級生ってだけだったのかもしれない」

 「ふうん……。なかなか深そうだね」

 「闇が?」と笑うと、舞島は「なにをいうの」と笑った。

 「でもあれだね、敬人は峰野のこと好きだったっぽいね」

 「そう見える?」

 「間違ってる?」

 「いや名答だよ」

 「付き合っておけばよかったのに」と舞島は惜しそうにいう。「なんで告白しておかなかったの。付き合ってたなら、仲直りももうちょっと簡単だろうに」

 「甘えてたんだ、拓実に」

 「そうなの?」

 「拓実ってすごい人でさ。大人みたいなんだよ。俺はずっとそれに甘えてた」

 「ふうん。そんないい人なんだ?」

 「天使みたいな人だよ」

 「それで見た目もいいなんてなったら、敬人がよっぽど惹きつけてないと、すぐに別の人のところいっちゃうだろうね」

 「そうあってほしいね」

 「なんでよ」と舞島は驚いたように声をあげる。「そこは未練がましくねちっこくいないと。好きなんでしょ?」

 「大好きだよ。でも舞島は、大好きな人が苦しんでるの、間近で見ていたい?」

 舞島はぴくりとまぶたを震わせた。「え?」

 「そんなだったら俺は、大好きな人が笑ってるのを遠くから見てる方がずっといい」

 「……敬人はなにをしたの」

 「なにもしなかったんだよ」

 「なんて複雑な。なんて?」

 「進んだ病気は放っておいて治ることはないでしょう? 俺はそれを放っておいたんだよ」

 「峰野は病気なの?」

 「繊細な人なんだ。それでとうとうつらくなったときに、俺に疲れたっていってくれたんだ。でも俺は」間抜けだろ、と俺は苦笑する。自嘲を吐き捨てたような笑いになった。「『ゆっくり休んでね』なんていったんだ」

 「それが喧嘩の原因?」

 「後悔して会いにいったけど、できることはなくなってた。そりゃそうだよ、あのとき、拓実は限界だったんだから」

 「それから溝ができちゃったわけ?」

 「そうかな」と俺は頷いた。

 「でも、峰野は今学校に通えるくらいの状態なわけでしょ? 美貌が損なわれるような悲壮感に満ちてるわけでもない」

 「やり直すつもりはないよ」

 「ええなんで。馬鹿なの?」

 「馬鹿だよ。馬鹿な俺に拓実のそばにいる資格はない。同じことを繰り返さない自信もない」

 「どうしようもないな」と舞島はいったけれど、その感情は読み取れなかった。どこかには軽蔑があったに違いない。

俺自身がそうなのだから、客観的に見ればそれはもう惨めなことだろう。ここまで愚かでは救いなんてありはしない。どうしようもないのだ。
 鴇田との接触が始まったのは二年に進級してからだった。クラスには拓実がいた。舞島とは別のクラスになったけれど、稲臣と紙原の二人とは同じクラスになった。

文理で選んだのは舞島も同じ方だったけれど、クラスまでは同じにはならなかった。隣のクラスにいる。

 鴇田は進級してすぐに拓実と親しくなったようだった。それについて俺がなにかを思うのも感じるのも、ましてや口を出すなんていうのも間違っている。

それをわかっていなかったとしても、俺は鴇田に対して悪意を抱くことはなかったと思う。拓実は楽しそうだったし、彼女をトキという愛称で呼ぶ声も時折聞こえてきた。

俺はただ、拓実が誰かと親しくしたり楽しそうにしているのが嬉しかった。もう二度と、悲しい顔は見たくない。どうか、もう頑張らないで、のんびりと過ごしてほしい。

秘めやかで必死な願いはそれだけだった。どうか、拓実が苦しむことのありませんように。拓実が、幸せに執心することのありませんように。それを求めていないことが、幸せの条件だと思うから。

 初めに筆箱からシャープペンシルがなくなった。父が入学祝いにとくれたものとは別の、どこにでもある青色の安い一本だった。教室移動の教科で使ったからその教室に落としてきたかなどと考えて、次の休み時間にその教室は探しに行ってみた。

しかし、どれほどしつこく探してもその青いシャープペンシルは見つからなかった。特別なものではないけれど、中学生の頃から使っていたものだからなんとなく愛着のようなものがあった。

 さてどこへいってしまったかとしばらく考えていたけれど、翌日、稲臣と紙原と一緒に食堂から戻り五限目の準備をしようと筆箱を開いたとき、その青い一本が目に入った。何事もなかったかのようにそこにいた。取り出して見てみれば、細かい傷の入り方など確かに自分のものと思えた。

誰かが拾ってくれたのか、とも思ったけれど、わざわざここまで入れてくれるとはずいぶんとご丁寧なものだと薄気味悪くも感じたので、なくなったこと自体気のせいということにした。

もっとも、筆箱に入っている筆記用具はこれのほかシャープペンシルと蛍光ペン、赤のインクを入れたボールペンが一本ずつしかないのだけれど。

それでも、細身の筆箱の中だ、ほかに三本もの筆記用具が入っていれば隠れてしまうこともあっただろう。そのほかに姉の作ってくれたキングの駒を模したシャープペンシルの芯のケースも入っているのだから。
 それから、筆箱の中身がなくなるということが増えた。この頃には、変化が起こるのは決まって昼休みになっていた。昼休みになくなったものが翌日の昼休みに戻ってくる、といった具合だった。

 返してくれるのなら持っていかないでほしいと思いつつ、父と姉からの入学祝いの品は持ち歩くようになった。

まるで本当に誰かにやられているようで嫌だったけれども、これらに手を出されてからでは悔やみきれないと思った。チェスにおいてキングの価値は絶対。あんたの分身。姉の声が耳の奥で響く。

 やがて、筆箱の外のものにも変化が生じるようになった。ノートのページが四角形から外れていたり、安っぽい不快な言葉が書き殴られていたりした。

初めのうちは確かに馬鹿だけどさ、とか、確かにそうなってもいいような人間かもしれないけどさ、とか、腹の中で苦笑することもできたけれど、次第に怖くなった。

 それに気がついたのは紙原も稲臣も同時だった。ある昼休み、「お前、なんかあったろ」と、言葉もそれをいう速度も同じに、二人が声を重ねた。

 俺が答えるより先に「あ、稲臣アイス奢りな」と紙原がいった。「この間出た、抹茶のもなかサンド」という紙原に「馬鹿それアイスクリームじゃねえか」と稲臣は苦笑した。

「あの箱に入ってるやつだろ? ラクトアイスで勘弁しろって」と。「エイトのフルーツサンド買ってやるから、パーソンじゃなくて」という紙原に「なんで同じような値段のやつ交換すんだよ」と稲臣はまた苦笑した。

 「で、おちびさんにはなにがあったのかな」と紙原が肩を組んでくる。「身長変わんないじゃん」といい返すと「お兄さんヅラしたい奴にそういうこといわないの」と返ってきた。

 「藤村、たぶん鈍感だから当てにならないよ」と稲臣。

 「敬人、なんか私物いじられてるだろ」

 稲臣の声にぎくりとする。

 「稲臣君五十ポイント」と紙原がふざけもしないでいう。

 彼は「なんで知ってんの」と稲臣を振り返る。

 「女子がちょいちょい、敬人の席の周りうろついてるの見たことがあって」

 「迷える子羊がどぎまぎしながらお手紙投函してるわけでもなさそうよな」

 いってから、紙原が苦笑した。「てか、今騒がれてる男女平等って、こういうことじゃないと思うんだけど」と。

 「だってこれ、男子が女子にやってみ? えらい騒ぎだべ」

 「なんか着眼点がいろいろ違う」と稲臣が呟く。

 「で、迷える子羊の皮を被った黒い羊に名前はあるわけ?」

 一拍置いて、稲臣は「鴇田」と答えた。

 「大島とか結城もたまに」

 紙原に「敬人お前、あいつらに喧嘩売った?」とふざけているのかまじめなのかわからない調子でいわれ、「まさか」と苦笑する。

 「まったく、うちの敬人君いじめないでよね」

 「あたしたち敵に回したら厄介よ」と、本当に厄介そうな口調で稲臣も続く。

 「作戦会議だ」という紙原へ「なんの」と飛び出すまま尋ねると、「奴らの社会人生命を絶ってやる」となんでもないように返ってくる。

「そんな選手生命みたいな」といいながら苦笑もできず、「反作用ってものがあるでしょうよ」となんとか引き留める。

 「ああ、夜中にシャワー全開にするとロックスターみたいになるやつな?」と紙原がよくわからないことをいいだす。「夜中のシャワーはあれ、意思があるもんな。殴ってくる」と稲臣まで乗っかってしまうのだからもう収拾がつかない。

「馬鹿、どじょうすくいでもやるのかよ。あの暴君から手を離したら負けだろ」と紙原が真剣にいう。もうなにがなんだかわからない。本題はすべて流されてしまった。
 お盆を受け取ってカウンターを離れると、「あ、舞島」と紙原が目敏く友人を認める。なんだかんだいって、紙原にとっても舞島は大切な友人なのだ。

 「なになに、二人で秘密の信号でも通わせてんのか」という稲臣の足首を紙原が蹴った。

 「愛し合ってるねえ」という稲臣へ「泣かすぞ」と鋭い声が跳ね返る。「違う、フレンドシップ」と慌てた声が跳ねあがる。

 舞島のいる近くの席へ着くと、「やだ紙原君、寂しかったあ」と舞島がひっくり返ったような声でいった。

「お前空気読めよ」と紙原が返すも、舞島は「読めるほど漂ってないんだけど」と冷静に返す。

 「モテない色男が」と紙原にいわれ、舞島は「ちょっと」と傷ついた声を出す。

 舞島の正面に紙原、その隣に稲臣、その正面に俺が座った。

 「いいじゃんか」と舞島が指先で額を掻く。「俺がどんだけ頑張ってここにいると思ってるの。ちょっとくらい労ってほしいね」

 「なんで」と短く返して、紙原がお茶を飲む。

 「馬鹿。あのねちょっと考えて? 俺は——」

 「俺はお前を労わない」と紙原がきっぱりという。

 「ちょ待てって。道徳のお話」という舞島を、彼は「俺はお前を同等以下の存在だとは思わない」と遮った。「おおっと」と稲臣が感嘆の声をこぼした。

 「最高でも同等だとは思わない。最低でも同等だと思ってる」

 舞島がどんな顔をしたのか、隣からは見えなかったけれど、何拍か置いて、舞島は「で」とこちらを見た。

「敬人、なんかあったの?」となんでもないようにいわれて、内心ぎくりとする。

 「俺が何年寂しがり屋やってると思ってるの。今年で十七年よ、無駄にはしたくないよね」

 「寂しがり屋がどんな特技磨いてんだよ」と紙原が笑う。

 「なにも好きでやってるわけじゃないよ。でも十七年も続けると得られるものもあるんだ」

 「寂しがり屋から?」

 「答え合わせしよう」と舞島は紙原を見返した。「なんかあった?」

 紙原に視線を向けられ、俺は「大したことじゃないよ」と答えた。

 「ちょっと、机の中いじられるだけ」

 「俺が嫉妬する必要もなさそうだね」と舞島はまじめな口調でいう。

 「恋文が入ってるわけでもないんでしょ?」

 「どちらかというと脅迫状の方が近いかな」と俺は苦笑する。

 「事件じゃん。ほかの人は?」

 「まさか」と紙原が乾いた笑いを返す。

 「そういうもの? 本当になんともないの?」

 「まあ」と紙原が歯切れ悪く答える。

 「犯人の神経がよほど図太いか、周りがよほど鈍感か……」と舞島が呟く。

 「先生は?」という舞島に「藤村だぞ」と紙原が短く返す。「だめか」と舞島が諦めたようにいう。

 「でも悪い奴じゃないと思うし、相談はした方がいいよ。心配なら藤村じゃなくてもいいと思うし。水曜日だか木曜日だか、カウンセラーみたいな人もきてない? 大型犬みたいな顔した優しそうな女の人」

 「そんな大事にすることじゃないよ」とは俺がいった。

 自分の現状と向き合うのも怖かった。自分が誰かから悪意を向けられていると自覚するのが怖かった。その事実に耐えられる気がしなかった。

ちょっといたずらされているだけ、ちょっと暇つぶしに机の中をいじられているだけ、そう思っていられる方が気楽でいい。被害者となって加害者の存在を認めてしまったら、きっと俺はここにはいられなくなる。すべてが壊れてしまうように思えてならない。
 鴇田としては俺が学校から逃げるという絵を理想としていたのだろう。『HR後残って』なんてお誘いを受けるようになった。

そのたびに誘いを断るのを、「そうか」と受け入れる紙原たちの反応をありがたくもどこか寂しくも感じた。しかしそれ以上に、彼らがそばにいてはどれだけ弱ってしまうだろうという恐怖もあった。

 ある日の二人きりの教室で「ずいぶんしぶといね」と鴇田はいった。「そりゃどうも」と憎まれ口を叩いたのはただの強がりだった。

 「知ってるでしょ、私がやってるって」

 「知ってたらどうしろって?」

 「なんで喚かないの。先生にでも、ちくればいいのに」

 「なんで」

 「被害者になりなよ。私を加害者にしなよ。なんでそんな、なんでもないようにしてんの」

 「なんでもないから」もちろん嘘だった。なにもかも、怖くて仕方ない。ふと蘇った拓実の『怖いなら、見なければいいんだよ』という声に泣きそうになる。

 なにかすごい音がした。頭を叩かれたような音だった。けれど痛むのは左頬だった。いつの間にか、俺は右方へ首を向けていた。

 「びびってんじゃん」

 喉の奥で震えるものを飲み込んで、「そう見える?」と虚勢を張る。

 「なんでそんな顔してまで耐えてんの。馬鹿じゃないの」

 なんで——。ああ、なんでだろうな、とふと笑いが込み上げてくるようだった。怖くてたまらない。逃げ出せばいいのにそうしない。

なけなしの自尊心か、ありたけの衝動か。なにが残るのかという気づきで飲み込んだ衝動を人のせいにすることで満たしているのかもしれない。そんな馬鹿なとも思うけれど、そうしながら笑えない自分もいる。

 「あんた、ずっとミネのこと見てるでしょ」

 「……そうかな」

 「気持ち悪いよ」

 「……そうだね」

 少し笑いながら、ふと気がついた。鴇田は拓実が好きなのではないか。

 「峰野さんが好き?」

 見なかったからどんな顔をしていたのか知らないけれど、鴇田はしばらく黙り込んでから、「好きだよ」と答えた。それからすぐに「友達としてね」と付け加えた。

 「恋愛的な意味ならほかに好きな人いるから」

 「……そう」

 それならそちらへ意識を向けていた方が楽しいだろうに。どうして俺を攻撃するのか。

 「本当、気に入らない」と鴇田はいった。「大っ嫌い」

 「……そう」

 「さっさと被害者になりなよ。なんで耐えんのよ」

 「わからない」

 「馬鹿だね」と鴇田の小さな声がいった。

 大股で教室を出て行く鴇田の足音を聞いて、俺は深く息をついた。なんだか変な感じの残る頬を触ってみると、驚くほど熱かった。
 鴇田に放課後に残るよういわれることが増えた。そのたびに被害者になれといわれた。弱虫のくせになにを強がっているの、と。次第に、怖いままで意地が出てきた。騒いでたまるものかと。鴇田の望みは決して叶えない。

 そのうちに、鴇田の方も大胆になってきた。お前が騒がないのなら自分からばれてやるとやけになったのかもしれない。しかし、誰だって面倒なことに巻き込まれたくはないもので、見て見ぬふりをする人ばかりだ。実際、鴇田のことを話した人はいない。

 事態は突然動いた。拓実の欠席を俺を結びつけられた。直前に俺が拓実となんらかの問題を起こしたらしいと担任の藤村に伝えたのだ。誰が。鴇田が。

 なにがあったか知らないけれど、それはずいぶんと力を持った。クラスの中でそれに疑問を持ったのは、ずっとそばにいてくれた紙原と稲臣のほかには松前ただ一人だった。

俺が拓実を見ているのを鴇田は知っていたから、そういった事実も添えていたのかもしれない。あの二人の関係はただの同級生ではない、なにかしら深い関係にある、と。

 鴇田は恐ろしい人だ。自分で拓実が好きだと認めておきながら、拓実の欠席を利用した。そして極め付けは、シャープペンシルの芯のケースを幼稚園だか保育園だかから一緒なのだという男子に盗らせて話をした日だ。

 大好きな拓実が俺を嫌いだから、自分も俺を嫌いにならなくてはならなかったと鴇田はいった。そして俺が好きだったのだといった。勝手に嫌っていてくれというのが正直なところだ。

 ただ、どうしてミネに嫌われるようなことをしたの、という言葉は痛い。どうして、といわれれば、馬鹿だからとしかいえない。
 拓実が泣いていた。思わず立ちあがり、ベッドの上の細い体を抱きしめた。それから、触らないでと鋭い声が思い出される。

 「やめて」と小さな声が聞こえる。「せっかく、ちゃんとしようと思ったのに」と。

 「ちゃんとしなくていい。もういいよ。ちゃんとしなくていい。頑張らなくていい」

 「なんで……嫌い、になってくれないの……?」

 「好きなんだよ。拓実のことが」

 「じゃあなんで」と涙声がいう。

 「中学のとき、告白……受け入れたの?」

 打ち明けられた拓実の記憶が蘇る。俺が拓実を救えなかった日のことだ。俺は女子に付き合うよう求められ、それを受け入れたらしい。

 「それ、憶えてないんだけどさ。でも、恋人としてなんて話じゃなかったよ」

 なにか手伝ってほしいとか、そういう話だったのではないだろうか。

 「そんな話なら受け入れるわけないじゃん」と笑って、拓実の薄い背中をさすりながら、自分も泣いていることに気がつく。それほど強い感情があるわけでもないのに、泣いている。

 細い腕が絡みついてくる。「敬人、……敬人」

 「うん。なあに」

 「嫌だ」と震える声につられて、次々と体温があふれてくる。

 「一緒に……いたい……」

 急に、胸の奥が暖かくなった。ずっと空洞で冷え切っていたところが、優しい熱に満たされていく。

 「拓実」——。大好きな名前。久しぶりに呼んだような心地がする。

 「ん、」と泣いているのか返事なのかわからない声がした。

 「俺でいい?」と尋ねると、細い腕が息を乱して何度も何度も絡んでくる。俺はその背をさするように抱きしめる。

 「敬人がいい、一緒にいたい」と泣いた声が耳から染み込んでくる。

 「俺も、拓実がいい」

 ひゅっ、と喉が鳴った。力の抜けていく腕を追うように、拓実の体を抱きしめる。

 どれほどそうしていたか、「敬人」と呼んでくれる少しだけ落ち着いた声は、よく知った愛らしさを纏っていた。

「ん?」と答えると、肩にぐりぐりと頭を押しつけられた。「大好き」とかわいい声にいわれて、顔が熱くなる。涙はとうに止まっていた。

 「敬人」と甘えるような声で呼ばれ、「俺も大好きだよ」と答えて、綺麗な髪の毛に触れた。

口づけなんて、初めてのことだった。拓実の髪の毛は、どこか甘いような匂いがした。シャンプーとは少し違う匂いだった。

 「拓実」

 もう決して、小さな変化も救難信号も見逃さない。


 ——もう一度、
 女子の告白を受け入れた敬人を拒んでから、敬人は一度も私の家にこなかった。朝、おはようと声を交えることもない。甘えたくなってぎゅっと抱きつくこともできなくなった。

 尊藤と峰野。反射板の役割も担うシールに振られた番号に沿って自転車を停める決まりになっていた。シールの番号は、一年生のときに一組で一番だった人から三組の三十八番までの百十二まである。

一組と二組は三十七人、三組は三十八人だったのだ。敬人と私はずいぶんと離れた数字を割り振られた。五十番と七十一番、二組の十三番と三十四番だった。

 毎朝遠くから、敬人の自転車が停まっているかどうか確認した。停まっている日もあれば、そうでない日もあった。けれど決まって、そのあとに会話はできなかった。それでいいのだと何度も自分にいって聞かせた。これでいい。敬人たちの邪魔をしてはいけない。

最後くらい、敬人にふさわしい人になりたい。ちゃんと大人っぽく、幸せを願って身を引きたい。惨めだなんて、他人にいわれて思い出したくない。わかっているのだから、改めていわれたくなんかない。ちょうどやろうと思っていたときに、それをやりなさいといわれるのに似た不快感がある。

 敬人が家にこないことに寂しさは感じていた。ああ本当にあっちへ行ってしまったんだという気持ちになった。本当に大切な人を見つけたんだと。

 二度目の席替えまでの間、敬人は私に一度も話しかけてこなかった。それも少し、寂しかった。けれどそれも当然のことだった。私はただの幼馴染、敬人にはもう、心を受け入れた相手がいる。わざわざ今まで通り親しく話さなくてはならないような理由もない。

 生きていかなくてはならない、と強く思った。失恋なんて特別な出来事じゃない。私にだけ起こった救いのない悲劇なんかじゃない。どこの誰もが経験したことのあるような、ありふれた寂しさ。

ゆっくりゆっくり癒えていく、ちょっとした傷。外せないピアスのようなもの。いつかは綺麗な飾りになる。宝石になる。