カテリーナが婚約破棄騒動に見舞われる一年程前の舞踏会まであと数日という或る日。
舞踏会で使う装飾品を購入する為、街中を馬車で移動していた。いつもと変わらない車窓をぼんやりと眺めながら、車体の揺れに身を任せていた。
ふと見慣れた茶髪を視界に入れ顔を綻ばせる。行者に止まらせようと声を掛けた。直ぐ様行者は馬車を止めてカテリーナを降ろした。
「ありがと、う…」
馬車を降りたカテリーナ。その瞳に映ったのは、仲睦ましそうに歩く婚約者と自分ではな誰か。花屋の前であれこれ悩む女性―――レイン・トラバルト子爵令嬢。そしてそれを優しく見つめる婚約者、シルヴァン・ル・アッシュレイ公爵令息。
幼い頃に決められた婚約関係で、カテリーナとシルヴァンの間には恋や愛と呼ばれる感情はなかったけれど…それでも情はあり、越えてはならない一線を侵すことはなかった。
なかった筈だった。しかし、目の前の光景はその一線を侵す行為だ。目頭が熱くなり、行者に「気分が乗らないから帰ります」と告げた。
帰りの馬車の中、静かに涙を流しカテリーナは帰路に着いた。邸宅に着く頃には涙はすっかり乾いており、カテリーナは家族との晩餐を楽しんだ。
それでも心は一向に晴れずモヤついたままだった。就寝しようと夜着に着替えベッドに寝転ぶ。中々寝付けず溜め息ばかりが零れた。
カテリーナは目を覚ます。見たこともないキラキラした光景が広がっていた。自室で寝ていた筈と怪訝な表情になる。
「これは、夢かしら?」
怪訝ながらも辺りを見回し様子を伺う。光っている以外は特に怪しいところもなく、何か生き物がいる様子もない。
「夢…だから良いわよね」
淑女たれと教えられてきたカテリーナはその場に寝転んだ。光る芝生は思いの外暖かく柔らかかった。
「先生に怒られてしまうわね」
マナー講師の顔を思い出し笑う。「淑女とは…」「淑女というもの…」が口癖の講師。カテリーナは公爵夫人になる為に血の滲むような努力をしてきた。
それだけではない。勉学も常に上位をキープしている。これもそれも全てシルヴァンの為になると思ったからだ。少々次期公爵とは思えない言動をするシルヴァンを窘めたのも彼を思えばこそ。
しかし、シルヴァンに自分は笑顔を見せたことも見せられたこともなかったように思う。だからこそ、シルヴァンが今日レインに見せた笑顔を見たときに悟ってしまった。
自分たちの間には決められた婚約者という鎖しかなかったことに。そして、シルヴァンはレインに好意を抱いていることに。しかしレインには奔放なところがあり、他の令嬢から度々苦言を呈されていた。
「はぁ、私にどうしろと言うのでしょう」
カテリーナ自身も何度もレインを窘めた。しかし、聞き入れてくれないのだ。どうしろと言うのだろう?激しい頭痛に苛まれる。
「というか、シルヴァン様もシルヴァン様ですわ。私という婚約者がいるのに、一目も憚らず逢瀬を重ねるなど破廉恥ですわ」
むくりと起き上がり、配慮もないシルヴァンの愚痴をこぼす。
「独り言を言ってて気持ち悪いですわ、私」
また寝そべり目を閉じた。今はとりあえず考えたくないと、カテリーナは思案することを放棄した。