休み時間は苦痛だ。私はスクールカーストの最下層にいる。だから、このクラスに友達はいない。この学校に入って、ようやく2年が過ぎた。つまり、私は高校3年生だし、あと3週間もすれば夏休みになる。

 スクールカーストの中でも私はまだ、マシな方だと思う。壮絶ないじめに遭っているわけではないし、必要最小限の会話は成立する。



 だけど――。



私は人の心が読めてしまうから、黙っているしかないんだ――。




 「マジで不気味」とレイカが言っているのが聞こえた。私は顔を上げずに我慢して、開いている文庫に目を向け続ける。そのあと、数人の失笑が聞こえた。もちろんそれはレイカの取り巻きたちである、チヅルやマリの声だ。コイツら三人はマジで性格が悪い。
 教室の真ん中の席は、私にとって、ものすごく、苦痛だ。だから、私は今日も読む気もない文庫本を開き、読書をしている振りをしている。

 レイカは顔が縦長で顎が出ている。その輪郭を隠すためか、ロングで拘束違反ギリギリの茶髪で毛先は内巻にパーマがかかっている。

 チヅルは出っぱのデブで、量産型のショートボブでお笑い担当みたいなことをしている。前髪を自分で切るのが下手みたいで、たまに髪型がおかっぱみたいになっている。唯一マリだけ小柄で顔も整っていて、黒髪のストレートボブがすごく似合っていた。なぜ、マリがこんなブス二人とつるんでいるのか謎だった。




 先週の金曜日、席替えがあった。
 週が明けてから、この席で過ごすことになった。レイカとチヅル、マリは教室の一番奥の隅を陣取っている。マリの席が一番端の席になったからだ。レイカとチヅルは休み時間になると必ずその場所を陣取る。

 レイカはいつも窓に寄りかかり、腕組しながら教室を一望している。そして、一軍の男子がなにか面白そうなことを言っていると必ずその話を掴み、話題をもっていく。教室前側の入り口付近にたむろしている男子一軍と遠いのに話をするから、対角線上に騒ぐ声が教室を横断する。
 それがめちゃくちゃキモいし、うるさい。

 最悪なことに私の席は教室のほぼ中央の位置になってしまった。つまり、どの場所からも私が視界に入る場所だ。座っているだけで目立っているようなものだ。今日は金曜日。席替えからちょうど一週間が経ったけど、ストレスが溜まっていく一方で毎日、早く家に帰りたいと今までよりも強く思うようになった。

「ねえ、チヅ。肩トントンしてきてよ」
「え、どういう風に?」
「こうやって――。トントンって」
「え、それやばいヤツじゃん。私。めっちゃ不審者じゃん」チヅルがそう言ったあと、また三人は超音波くらいけたたましく、下品な声で笑った。

 その直後、チャイムがなると同時に国語教師の塚原が入ってきた。私は面倒なことに巻き込まれないことが確定し、ほっとした。机にかけているリュックから現代文の教科書とノートを取り出した。

『えー、もう授業なの』
『マジだりぃ』
『次、塚原だからこのままギリまで喋ってようと』

 近くにいる、コンドウ、エンドウ、サイトウの心の声が聞こえた。うるせえよ。こっちだってダルいし、今日も聞かなくていいことばかり聞いて疲れてるんだよと私は思った。そう思っても私の心の声は誰にも聞こえていない。塚原が教室に入ってきても、みんな急いで自分の席に戻る気配はない。それぞれの会話を終わらせてから自分の席に戻っている。私も仕方なく、開いたままだった文庫を閉じ、そして、それをバッグに入れた。
 
 「はい、戻ってー」と塚原は平坦な声で言った。
 塚原は、腹が出ていてボタンがはち切れそうなYシャツに紺色のパンツを履いている。そんな体格でまだ20代後半だし、非常勤講師で、常に弱腰だから、みんなから舐められている。

「つかっちゃん、来るの早すぎー」とレイカのでかい声が後ろから聞こえてきた。
「座って。座って」
 塚原が右手で座れのジェスチャーをしながらそう言った。

「座って。座って」と私の後ろから声が聞こえた。後ろを振り向くと、後ろの席のカノウは立ち上がっていて、塚原と同じジェスチャーをしていた。
 一瞬、カノウと目が合ってしまい、なぜか微笑んだ表情を私に送ってきたから、私は、眉間に力を入れ、カノウのことを見つめたあと、姿勢を元に戻した。

 そして、何人かの一軍男子が教室の数カ所で、立ち上がり、カノウと同じように「座って。座って」と言って同じジェスチャーをし始め、クラスは一気に爆笑した。




 この世の中がバカげていることに気づいたのは、5年生になり、11歳の誕生日を迎えるときだった。
 それまでの私は普通に周りと話すことは簡単にできたし、クラスの中でも、ごく普通の小学生として過ごしていた。もちろん、クラスの中で浮くことはなく、誰とでも気さくに話すことができた。

 ある日、突然、私は話せなくなった。
 前の日までそんな兆候はなかったし、普通の女の子だった。それなのに、突然、目の前で話す友達が言っていないはずのことが聞こえた。

『エリイの話、つまらない。あー、嫌いだな』

 私は目の前で起きていることが、すごくショックだったし、信じられなかった。
 私のことを嫌いなのに、こうして私の前では笑顔でいることが。




 塚原が夏目漱石のこころの『精神的に向上心のないものはばかだ』の意味について解説している。
 ――どうでもいい。

 私の席から見て左側、窓側の一番前の席にレイカが座っている。レイカは今回の席替えで無理やりチヅルを自分の席の隣にした。
「私とチヅルめっちゃ目が悪くなってきてるみたいだから、一番前の席がいいと思います。そういう配慮って大事じゃないですかー」と言う、めちゃくちゃな意見が採用されて、レイカとチヅルはくじ引きより先に前側の好きな席を選ぶことになった。そして、レイカが左端の一番前の席、チヅルがレイカの右隣の席になった。

 レイカはチヅルの方を向いて、小さい声で何かを話して、笑っている。塚原の授業のときはいつもこんな感じだ。
 レイカとチヅル以外も現代文を真面目に受けようとしているクラスメイトはいない。教科書を立てて、スマホを横持ちしてゲームをしていたり、動画を見ているヤツも少なくとも5~6人くらいいる。そして、もちろん寝ているヤツもいる。後ろから寝息が聞こえる。きっとカノウの寝息だ。
 
 カノウが私の後ろの席になったのは最悪だ。
 カノウ――。カノウはクラスの一軍男子で、その中でも女子人気が高い。理由は簡単で顔が整っていて、少しチャラいからだ。髪はパーマがかかっていて、長めだ。筋の通った小ぶりな鼻と小さい顔、そして、二重でくっきりした両目。薄い口唇はなぜか男らしく見えた。

 カノウはクラスの中心的な人物で、いつも、クラスの男子をまとめ上げていた。そして、女子人気が高いのを、まるでわかりきっているかのように、そのチヤホヤされているのを上手く使いつつ、必要なときは女子も上手くまとめていた。1軍から1.5軍の女子まで、幅広くフォローできるのは不思議だった。

 もちろん、カノウの学校生活は上手くいっていると思う。ただ、一つだけ気になるのはカノウはそんな1軍中の1軍なのに、なぜか部活はやってなかった。

 そんな、人のことを簡単に手球に取り、上手く行っている感じが見え見えな感じが好きになれなかったし、そんな、イケメンの雰囲気が眩しすぎて、4月から同じクラスになり、3ヶ月が経とうとしていたけど、日を重ねるたびに、見ているだけで嫌気が差した。 
 そして、本当は真面目そうなのに、さっき授業が始まる前のときみたいに、ウケを狙ったバカもできるのも好きになれなかった。 

 こんな感じのカノウだから、休み時間のたび、カノウの席の周りに自然と多くのモブが集まる。その所為で、私の後ろは毎時間、騒がしくて落ち着かなかった。
 だから、カノウが私の後ろの席になったのは最悪だ。




 塚原の授業は退屈なまま終わり、今日、すべての授業が終わった。
 私の席の後ろは休み時間、常にうるさい。運動部の猿たちがカノウに群がるようになった。早くホームルームが始まってほしい。
 夏休みまであと3週間――。
 その前に期末テストも控えているし、私は単純に憂鬱だ。

 担任が教室に入ってきた。担任が入ってくるとみんな自然に座り始めた。
 そして、いつものように担任が淡々とした声色でHRを始めた。担任が三者面談の内容が書かれたプリントを配り始めた。私の前に座っているオタクで私と同じくカースト下位のイシザキが私の方を振り向き、プリントを無言で私に差し出した。私は左手でプリントを受け取り、自分の分を右手で取った。
 
 そして、私は後ろを振り向き、プリントをカノウに差し出した。またカノウと目が合った。カノウはニッコリとした表情をした。なぜ、私に微笑んでくるんだろう。柔らかい目つきが妙に気になる。
 
 早くプリントを受け取ってほしいのにカノウはなかなか受け取ってくれない。だから、私は左手で軽く上下させて、カノウに催促をかけた。
「わかってるよ」とカノウは小声でそう言った。きっと私にしか聞こえていないくらい小さな声だ。カノウはようやくプリントの束を受け取った。私はそれを確認して、前を向こうとしたとき、左手に何がを握らされた。
 
 え、と思い、もう一度カノウを見ると、カノウは私の左手を指さし、口パクで『みて』と言った。私は予想外すぎるこのカノウの行為が理解不明だった。私は何も言わずに、何もなかったかのような装いを演じ、ねじっていた身体を元に戻した。
 
 左手に握ったままの紙はノートの切れ端で、それはハート型に織り込まれていた。ハートの真ん中には『ひらいて』と書いてあった。

 ――ふざけやがって。
 一体、何がしたいのかわからない。私はそっとハートを開いてみた。
 
 紙にはLINEのIDが書いてあり、IDの下にはこう書いてあった。

 【土曜日デートして。12時に駅前で。】

 やっぱり、カノウが後ろの席になったのは最悪だ。
 私はすっと、ため息をひとつ吐いた。

 


 電車はいつものように大きな川にかかる橋を渡っている。河口側、海側の方から夕日が差し込み、車内はオレンジに染まっていた。電信柱の隣を電車が通過するたび、電信柱の影が車内で伸び縮みをした。私は左側のドアに寄りかかり、iPhoneをいじっている。車内は座るところはほぼ、埋まっていて、数人が私と同じように立っていた。
 
 電車は嫌いだ。
 隣にいる人の心の声が聞こえてくるから辛い。特に座ると両隣の人の声と、目の前に立っている人の声、3人分の声が聴こえてくる。だから、私は電車の中で座席に座ることはない。電車に乗っていると、みんな何かに悩んでいて、電車に乗っている時間でスマホでSNSをみたり、動画をみたりしながら悩んでいることを考えているのがわかる。

 だから、電車に乗っているときはそんな心の声に圧倒されてスマホをいじっていても何も頭に入らない。今も、私の近くにいる2人くらいの心の声が聞こえる。
 
 ――そういえば。

 カノウの心の声は授業中、聞いたことがなかった。まだ、席替えをしてすぐだから、偶然かもしれない。

 ――だけど。

 さっき、LINEのIDをもらったとき、わずかにカノウの手に触れた。
 人に触れるとほぼ、確実に相手の心の声が聞こえる。カノウのニヤッとした表情を思い出した。なんでやけにニヤッとしたんだろう。

 ――変なの。
 左手で握ったままのiPhoneを右手の人差し指でタップし、LINEを起動した。トーク一覧の画面には、もちろん親の名前しかなかった。





 駅前に着いた。今日は梅雨が抜けたみたいに綺麗に晴れていて、気持ちがよかった。ジリジリとした日差しが肌を焼いているように感じた。腕と顔にはしっかりと日焼け止めを塗ったけど、焼けないか少しだけ心配になった。目の前にある、ロータリーにはバスが何台も止まっていて、ロータリーに沿って、続く細い屋根の下の影が涼しげに見えた。
 私は別にカノウのことなんか意識していない。なのにそわそわしながらが、しっかりメイクをして、白いワンピースなんか着て、どうかしてると思う。

 カノウの姿が見えた。遠くからでもカノウのすらっとしていて、自然な筋肉質な身体つきが異質さを放っていた。
 そういえば、前の席のとき、私のすぐ隣の席で1.5軍の女子が3人で集まっていた。そのときに「カノウって話さなきゃ残念じゃないのに」と話していたのを思い出した。

 そう、話さなきゃカノウは整っているから、きっとモテるはずだ。
 ――なのに、なんで私なんかとデートするんだろう。

 そんなこと、考えていたら、カノウと目があった。カノウがバスターミナルの方から、歩いてきているのが見えた。



「エリイ! よかったーーー!」とカノウは右手を挙げて大きめな声で言った。私はどう反応すればいいのかわからず、そして、大声で、私のことを呼んできた所為で、何人かの視線と、イヤな心の声が聞こえてしまったから、手も上げずに、とりあえず、カノウが私の方に駆け寄ってくるのを待つことにした。

「エリイ!」とカノウは懲りた様子もなく、私の名前を呼んでいる。
「……ちょっと」
「え、どうしたん?」
「恥ずかしい」
 そう返すと、カノウはやっぱり、悪びれた様子すら見せずに、いいじゃん、デートっぽいでしょ? と茶化すように言ってきたら、私は少しだけ、イラっとした。

「……なんで、下の名前で呼ぶの」
「エリイのそういう表情が見たかったからだよ」
 カノウはそう言って笑った。私は急に顔が熱くなるのを感じた。汗も妙に滲み始めているような気がする。

「あ、顔赤いよ。エリイ」
「……からかわないで」
 そう言ったあと、カノウから視線を逸らすために首を下げた。
 
「――もしかして、ウザい?」
「――ううん。全然」
「安心して、こう見えても俺、全然チャラくないから普段」とカノウは言ったから、私はもう一度、顔を上げた。カノウを見ると昨日の教室と同じように微笑んでいた。
 いつもよりもしっかりと整えられたカノウの髪はウェーブがワックスでより強くなっていて、毛先が風で弱く揺れていた。

「エリイ。来てくれてありがとう」 
「ううん……」
「ワンピース、似合ってるね」
「――チャラいね」
 不意に初めて男の子から服装を褒められて、そわそわする気持ちがより胸の中で強くなった。

「いいものはいいんだよ。よし、行こうか」とカノウはそう言ってまた微笑んだ。




 スタバに入って、人生で初めて、男の子と一緒にフラペチーノを飲んでいる。というより、女友達とすら、フラペチーノを一緒に飲んだことがない。
 店内は昼時で、ほとんどの席が埋まっていた。私とカノウはたまたま空いたカウンター席に座ることができた。目の前にある窓の外には駅まで繋がる細い商店街の光景が広がっていた。

 ちらっと横目で私の右側に座っているカノウを見ると、カノウは右手でカップを持ち、ストローを咥えフラペチーノを飲んでいた。

「エリイは飲まないの?」
「………飲むよ」
 私は言ったあと、慌てて左手でカップを持った。そして、ストローを咥えて、フラペチーノを一口飲んだ。

「エリイは素直だなぁ。嫌いじゃないよ。そういうところ」
「まだ、私のこと何もわかってないでしょ」と私が言ったあと、カノウは穏やかに笑った。

 普段、クラスの中では下品で大きな声をあげて笑うのに、カフェ仕様の穏やかで静かな笑い方ができるんだと思った。
 それにしても緊張する。別にデートだとか男の子と二人っきりだとかそういう理由じゃないと思う。誰かとこういうことをするのがすごく久しぶりなだけだからだ、きっと。
 
 カノウは手に持っていたプラスチックカップをカウンターに置いた。
 カウンターの天板に、涼しそうな数滴の雫が伝ったのが見てた。エリイって比較的、大人しめなトーンでそう言われたけど、それを無視して、もう一口、フラペチーノを飲んだ。

「俺って、普段はあんな感じじゃん。だけど、あれ、結構、無理してるんだよね。だから、たまに疲れるんだ」
 カノウはゆっくりと自然に話し始めた。私は咥えていたストローを口から離し、カップをカウンターに置いた。窓の外の世界は、駅に向かう人の流れを見ていた。もし、それが本当のことだとしたら、あの上手く行っていそうな雰囲気を意識的に作るのはものすごく疲れそうな気がした。

「本当はエリイみたいに大人しくて、謎に満ちたタイプの人と一緒になりたいって思ってるんだよ」
 カノウはそう続けた。力が抜けて弱くボソッとした声で。
 私は不思議な気持ちになった。いつもなら、そんなわけないでしょと咄嗟に心の中で思うけど、なぜか素直にそう思えなかった。

「だから、うちのクラスの一軍たちみたいなギャルはあんまり得意じゃないんだよね」
「……へえ」と私はどう言葉を返せばいいのかわからなくなって、間抜けな声で相槌を打ってしまった。
「そういう淡白な反応がいいんだよ」
「それのどこがいいの」
「最高だな。エリイ」とカノウは私が聞いたことを無視し、そう言って笑った。

「……ねえ」
「何?」
「演じなくていいよ。自分のこと」
 私がそう言うとカノウは弱く微笑んだ。だから、もしかすると、私は的外れなこと、言っちゃったのかもと思い、急に自分のことが嫌になった。

「大丈夫だよ。エリイ。今の俺は演じてないよ。今の気持ちはマジなやつ」
「――そうじゃなくて」
 私はそう言って、咄嗟に右側を向き、カノウの顔を見た。

「そうじゃない?」
「うん。話聞いてて、ありのままでいてほしいって思った。――ただ、それだけ」
「ありがとう。優しいな、エリイって。あ、今日、初めて目が合った」とカノウはそう言って笑った。私は急に恥ずかしくなり、また前を向いた。

「顔、赤くなってるよ。かわいいね。エリイ」とカノウはそう言って、微笑んでいた。
 

  


 午後の公園はまだ遊ぶ空気に満ちていた。
 トイプードルが舌を出しながら飼い主と楽しそうに散歩していたり、親子連れが噴水で水遊びをしていたり、芝生の上でキャッチボールをしている同年代がいたり、思い思いに休日を楽しんでいるように見える。スタバを出て、なんとなく、足が向かった先は、駅近くの比較的大きな公園で、その成り行きのまま、二人で散歩することにした。

 暑いねと言ったら、あそこに座ろうかと言われて、カノウと私は、公園に入ってすぐの木陰になっているベンチに座った。今朝見た、天気予報通り、30℃くらいに感じた。たまに吹く風が少し冷たくて心地よく感じる。

「さっきの話の続き、してもいい?」
 カノウはそう聞いてきた。ふたりきりだし、それって、YESしか返答しようないじゃんと私は思いながら小さく頷いた。

「エリイが大人っぽい理由って、同じ年代の子たちよりも成熟しているからだと思うんだよね。だから、人とあまり話すこともしないし、人間関係を作ろうとしない」
 急に脈略もなく始まったその話は、また人生観の話で、そんなことを一般的な最初のデートで話す人なんて、存在するんだと思った。こう言うのって、もっと、しょーもない話をするんじゃないの? フラペチーノ美味しかったね、とか。

「――だって、人と関わることは自分が傷つくことであることがわかっているから、自分を守るために極力、人間関係を築かない」
 カノウはそう言ったあと、私の右手の平に被せるように左手を置いた。そして、私の手を繋いだ。

 また、急なことが起きて、私はドキッとした。
 ――カノウがよくわからない、私の性格をまるで言い当てるような、人生観みたいなことを言われて、ドキッとしたのか、それとも、単純に、異性に手を繋がれたことでドキッとしたのか、よくわからなくなった。
 ただ、なぜだかわからないけど、不思議と引き込まれていかれるようなそんな、フワフワした感覚が急に身体を支配した。

「殻に閉じこもってるよね。それ」
「そう見えるんだよ。俺から見るとエリイは」
 そう勝手に思ってるだけでしょ。ただ、その指摘はドキッとするくらい、当たってるよ。
 
「――だから、俺と近いものを感じたんだ」
 それは1軍で学校生活が上手くいってて、人の心の声が読めないごく普通のあなたとは違うと思うけど、私は黙って聞き続けることにした。

「殻に閉じこもったエリイを守りたくなったし、二人でなら、そんな臆病なことも乗り切れるんじゃないかって思ったんだ」
「へえ」
 あなたが言う、守るってどんなことなんだろう。

「――カノウは真逆に見えるよ。一人で上手くやってるし。わざわざ、私のことなんて、庇う必要なんてないんじゃないの?」
 私がそう返すと、カノウはうーんと言って、渋い表情をした。何かを伝えようと言葉を考えているように見えた。
 
「なあ、エリイ」
「なに?」
「俺、好きになったんだよ。エリイのこと」
 カノウは小さい声でそう言った。そんなこと、急に言われてしまい、私はどうすればいいのかわからなくなった。心臓が破裂しそうなくらい心拍数が上がっている。
 私は一体、どうすればいいんだろう――。
 
「――エリイ?」とカノウはまた小さな声でそう言った。左側にいるカノウを見ると、カノウは不安そうな顔をしていた。
 こんな、カノウの表情、同じクラスになってから、初めて見た。なんで、そんなに不安な表情するの? てか、私と付き合うことに何一つ、メリットなんてないよ。クラスでは根暗扱いだし、地味な方だし、それに人の心を勝手に聞こえてしまうし。
 あ、だけど、なんで私、今日もカノウの心の中の声、聞いてないんだろう。今は、そんなこといいや。

 そう、その表情はあたっているよ、だって、私はまだ――。

「心の準備、できてないよ。――なんで私なの?」
「そんな悲しいこと言うなよ。俺はエリイに惹かれた。ただ、それだけだよ」
「なんで……」と私は本当によくわからなかくなった。仮にカノウと付き合ったとして、一体、何になるんだろう。カノウをもう一度、見ると、カノウは少なくとも、からかってはいなさそうな表情をしていた。こう言うとき、心の声が聞こえたら、楽なのに、なんでカノウの心の声は聞こえないんだろう。

「カノウみたいに性格いいし、明るいし、顔だっていいから他の人からモテまくってるでしょ。こんな陰キャで学校で一言もしゃべらないし、誰も友達がいない、私なんかにどうして……」
 

 気がつくと、私はカノウの胸の中に引き寄せられていた。カノウの胸は筋肉質で硬かった。こんなに筋肉質な体質なら、なんかの運動部に入って、エースにでもなれば、本当に学校中のヒーローになれると思うのに。
 背中はカノウの両腕の熱を感じる。カノウに抱きしめられている時間は、何秒間か止まったみたいに思えた。カノウは更に両腕に力を入れ、私の身体は強力にカノウの身体に吸い寄せられた。カノウを意識するたびに、鼓動は小刻みになり、そして、派手に胸の中から打ち付け始めた。
 さっきより強く抱きしめられ、私の頬はカノウの首にぴったりとくっついた。

「――ねえ。痛い」
「――悪い」とカノウはぼそっとそう言ったあと、カノウの両腕が私から離れた。背中にはまだヒリヒリと熱が残っていて、強く抱きしめたれた感触が上半身に残っていた。
 こんなに近づいたのに、カノウの心の声は聞こえる気配がなかった。

 




 教室に入ると一気に視線を感じた。今日はいつも以上だ。そのあとすぐ、心の声が聞こえた。
 
『付き合ってるらしいよ』
『あ、来た来た。どうなるかな』
 
 私は数歩で教壇の前までたどり着き、左に曲がり中央にある私の席まで歩く。私はできるだけ下を向き、歩き続けた。
 
『カノウ獲ったら、それはそうなるよね』
『あー、レイカ、めっちゃこわっ。女の恨み半端ねぇ』

 なんで、知ってるの。私はその心の声を聞きながら、教室の中央にある自分の席へ向かっていると、ふと冷たくて鋭い視線を感じた。顔を上げ、右奥側を見るとレイカが腕組をして鋭い目でこちらを見ていた。窓に寄りかかっているレイカはいつもふてぶてしく下品に見えるけど、今日は特段、下品でイライラしているように見える。

 レイカの隣で同じように窓に寄りかかっているチヅルとレイカの前にある自分の席に座っているマリはうっすらと腐った笑みでこちらを見ていた。

 カノウはまだ来ていないようだ。
 私の席が見え、机の異変に気づくのは4ピースのパズルを組み上げるくらい簡単だった。私の机に大きな落書きができていた。遠くで見ると黒い球体に見えた落書きはハートだった。私は席に着いた。大きなハートの真ん中には消しゴムで消して作った線で「公然わいせつ」と書かれていた。

 クラスのみんなが私の反応を見ている視線を感じた。別にショックとかそういうのはない。ただ、バレちゃいけないことが簡単にバレてしまったような、そんな罪悪感がモヤモヤと胸の中に広がっていくを感じる。

「エリイちゃん。おはよう。デートは楽しかったですかー?」
 レイカの腐った声が聞こえた。

 私は何事もなかったかのように振る舞うことにした。だから、レイカを無視して、バッグから教科書を取り出した。こんなことになったら、カノウが大変なことになる。
 ――というか、もうなっているのかもしれない。

「シカトかよ」
 もう一度、レイカの声が聞こえた。

「ウケる。シカトしてもいいことないよ」と続けてチヅルの声が聞こえた。私は黙り続けた。
「土曜日、めっちゃイチャついてたね。見ててキモいくらい」とチヅルは続けてそう言った。
「マリも何か言ってあげなよ」
 レイカはイライラしているような声でそう言った。

「別にいいよ。私は」とマリが返すと、
「えー、つまんな」とチヅルは単調な声で平然と私に対して酷いことを口にした。

「それより、つまんねーのはあいつの反応だよ」とレイカが言ったあと、誰かが歩き始めた音がする。無駄に足音がうるさい。下品な足音だ。私は息を吸って、小さく一気に吐き出した。

 足音が近づき、そして止まった。目の前にレイカが立っている。レイカと目が合う。レイカは目を細め、私のことを睨みつけてきた。

『ふざけるな。ブス。ふざけるな』とレイカの心の声が聞こえた。
 ブスなのはお前だろ。ブス。
 
「ねえ、エリイちゃん。自分がかわいいとでも思ってる?」
 レイカは続けてそう言ってきたけど、私は無視し続けることにした。膝に載せた右手の拳をぎゅっと強く握った。早く時間が流れるといい。つらいことは一過性なのは、心の声が聞こえるようになってから、学んだことだ。こんなのさっさと終わればいい。

『なんであんたみたいなヤツがカノウと付き合ってるんだよ。ふざけるな』
 バンッと乾いた音がした。レイカが思いっきり机の上を叩いた。

「調子のってるんじゃねーぞ。このブス」
 レイカがそう言ったあと一瞬、教室の中が静かになった。そのあと、すぐにまたザワザワと至るところで話す声が聞こえ始めた。
 レイカは笑みを浮かべたあと、ふっと鼻で笑った。そして私の前から立ち去った。
 


 

 結局、カノウは学校に来なかった。
 だから、今日起きたことは知らないはずだ。朝の出来事以外、ごく普通の一日だった。いつも通り、電車で帰っている。電車はいつもの大きな橋を轟音を立てて通過している。ドアに寄りかかった身体に振動が伝わる。

「守るって言ったくせに」とぼそっと、誰にも聞こえないくらいの声で言ってみたけど、心の中は何もすっきりしなかった。
 
 別にお気に入りのクリーム色のコンバースが無くなったわけでもなく、教科書がビリビリに破られることもなく、LINEグループでハブられることもなく、1日が終わった。
 そもそもクラスのLINEグループすら知らない。もしかすると、入ってなくてよかったのかもしれない。仮にグループに入っていたら、めちゃくちゃに言葉の機関銃を浴びせられていたかもしれない。
 
 あーあ、買ったばかりの消しゴムが半分くらいになってしまった。どれだけのシャープペンの芯を消費したら、あれだけのハートを書くことができるのだろう――。

 そして、いつ、私がカノウと一緒にいるところを目撃されたんだろう。あまりにも出来すぎだ。

 ――もしかしたら、カノウが面白半分で私のことをハメたのかもしれない。
 ――いや、考えすぎか。
 カノウの心の声が聞こえたら、それもわかったのに。

 明日から、またどうなるかわからない。
 今朝のレイカの顔を思い出した。気持ち悪い笑みをこぼしていた。小根が腐っていて、自己中心的な性格がそのまま表情に表れているような笑い方だった。

 ――てか、あいつ、カノウのことが好きだったんだ。
 お前の気持ちなんてどうでもいいよ。
 私なんか攻撃するな。




 改札を抜けるとカノウがいた。
 カノウは手をあげて、こちらへ近づいてきた。カノウは白のTシャツにベージュの7分丈のチノパンを履いていた。そして、黒のクロックスを履いていた。明らかに学校に行く気がない格好だ。

「エリイ。行こう」
 カノウは真顔でそう言って、私の右手を繋いだ。私は拒否する暇もなく、そのままカノウに手を引かれた。明らかに私が駅の改札口から出てくるのを待っていたのかもしれない。手を繋いでも、相変わらず、カノウの心の中の声は聞こえなかった。だから、私はこれから、一体、どこに連れて行かれるのかわからなかった。

 手を繋いだまま、駅の中央通路を通り、南口を出た。外に出ると潮の香りが立ち込めていて、爽やかな雰囲気だった。だけど、私の気持ちは全然、爽やかじゃないし、そもそも、なんで今、カノウに手を繋がれているのか、よくわからなかった。
 今日、再び、手を握ってもカノウの気持ちはわからなかった。
 それが新鮮な感覚で手を繋ぐ行為よりもそっちの方に驚いてしまった。家族以外の男の人に手を引かれるのは生まれて初めてなのに、私はそっちのドキドキを感じられなかった。

 お互いに無言のまま、砂浜に着いた。
 砂浜ではビーチバレーをしている人や、散歩をしている人、海に入ったサーファーがいい波が来るのをじっと待っている人、様々な人が様々なやり方で自分の世界に入っていた。私はカノウに手を引かれたまま、コンクリートでできた階段まで連れて行かれた。
 そして、カノウは階段までくると、当たり前のように階段に座った。カノウの左側に座り、海を眺めることにした。波は穏やかで、沖に出ているサーファーは退屈そうに波に揺られているのが見えた。

「なあ」
「最低なんだけど」
 私は力を込めて、カノウのことを睨んだ。すると、カノウはため息を吐いたあと、
「全部、知ってるよ」と平然と返してきたから、私は余計に腹が立った。波の音とカモメが鳴く声が、しばらくの間、私とカノウの会話をうめわせているかのように、辺りの音を支配していた。

「なあ。エリイ。こんなことになって悪かった」とカノウはようやく答えた。
「どうして、知ってるの」
「マリから聞いた。LINEで」
「へぇ」と私は自分でも驚くくらい抑揚のない声でそう言った。
 ――別に興味ないわけじゃないのに、なんでこんなにそっけなくなるんだろう。

「私のことハメたんでしょ。最低だね」と私が言ったあと、カモメの間抜けな鳴き声が響いた。
「ハメた? どういうこと?」
「私と居るところ、なんであいつらが知ってたの? 意味わかんないんだけど」と私は自分でも思った以上に声が大きくなってびっくりした。

「――悪かった」
「最低だね」
「違う。そういう意味で謝ったんじゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「エリイを守れなくて悪かったって意味」
 守るって昨日、言ったこと、覚えてたんだ。なのに、学校には来なかったんだね。

「――俺もこんなことになるなんて思わなかったよ」
 カノウの方を見ると、カノウは両手を後ろにつき、前を向いたままだった。

「マリが教えてくれたんだよ。チヅルが俺とエリイが抱き合っているのを見たって、レイカにバラしたって」
「――へえ」
「それで、今日、学校に来ない方がいいってマリから言われたんだ。だから、俺は忠告通り、学校を休んだ。それだけだよ」
「最低だね。――嫌いになりそう」と私は言ったあと、なぜか自分でもよくわからないけど、少しだけ後悔した。

「そうはっきり言われても仕方ないか」
「バカみたい。結局、自分の立ち位置しか、考えなかったってことでしょ。それって」
 私がそう言い終わると、再び、バカみたな静寂が流れた。カノウは口は達者でも、こういう、自分の都合が悪いことが起きたら、何もしないんだと、ようやっと、得体の知れない本性がわかった気がした。

「もういいよ。……帰るね」と私は言って立ち上がった。

「なあ、エリイ。こんな気持ち初めてだよ。人って、わかり合えないから付き合えるんだろうな。何考えてるのかわからないと予想つかない。――俺は予想された世界の中でしか、生きていけないのかもしれないってふと思ったんだ」
「――何それ」と私が言ったあと、カノウは立ち上がって、私を見た。真っ直ぐな目をしていて、カノウの視線に吸い込まれそうになった。

「つまり、今日のことは予想外だったってこと。悪かった」
「へぇ。最低」
 私は目一杯の低い声でそう言った。そして、歩き始めた。すごく、どうでもいい気分になった。





 教室に入るとまた、静かになった。奥の席でレイカがニヤニヤしているのが見えた。
 絶対、何かやろうとしているのがわかった。マリはスマホをこちらに向けている。きっと、私のこと撮影してるのだろう。

『レイカ、えげつないな』
『もう、可哀想だけど、仕方ないか』
『ざまぁ』
 ざまぁ? 私はざまぁと心の中で言っていたタニグチサオリを睨んだ。するとタニグチは一瞬、驚いたような顔をしたあと、私から視線をそらした。

 自分の席の方を見ると、まだカノウは来ていなかった。
 
 またか。と思った。
 どうせ、カノウは口だけの男なんだよ。と自分に言い聞かせながら、自分の席に向かった。

 そして、自分の席に着いたけど、昨日みたいに、パッと見た感じ、異常なことはなかった。

 ただ、昨日と同じく、レイカとチヅルの視線は感じる。
 マリは私を追うようにスマホを私に向けているのが見えた。スマホの持ち方的に、動画を撮っているのかもしれない。私が哀れなことになると予想して動画を撮るなんて、一体何が面白いんだろう。あとで、動画を見返して、反省会とかするのかな。
 それ以外の人はいつも通り、各々グループを作って話をしていた。リュックを机の上に置き、椅子を引き、座った。リュックから教科書類を取り出し、机の中に入れようとした時、目の前にレイカが立っていた。

「別れろよ。ブス」
 レイカは冷たい声でそう言ったから、私は無視して、机の中に教科書とノートを入れた。机の中に入れた時、何かが入っている感触がした。紙の角のように硬いものが右手の人差し指に当たっている。それを取り出すと、写真だった。私とカノウが抱き合っている写真だ。

「どう? いい写りでしょ。チヅが撮ったの。証拠写真。ブスの公然わいせつ」とレイカは嬉しそうな表情でそう言った。写真の裏をひっくり返すと、ピンク色の蛍光ペンで別れろブスって書いてあった。私の名前はブスになったらしい。

「なんか言ったら、気持ち悪い」とレイカが言った。
 チヅルがレイカの隣に立ってニヤニヤしている。

「どう? しっかり公然わいせつでしょ」とチヅルが嬉しそうな表情でこっちを見ている。
「ねえ、チヅ。こいつ何も言わなくてキモいんだけど」
「黙ってたら、やり過ごせると思ってるんじゃない? まー、そうさせないけどね」
 チヅルが言い終わるのと合わせて、私は後ろから思いっきり髪を引っ張られる痛みがした直後に上を向いていた。

「これでも黙ってるんだ。きっしょ」とチヅルは私の髪を掴んだまま、嬉しそうな表情をしている。
「チヅ、マジ、ウケるんだけど。こいつの顔、歪んでて余計ブスに見えるよ」とレイカが言ったあと、持っていたスマホを私に向けて写真を撮っていた。何枚もシャッターを切った音がした。

「……痛い」
 私は小さな声で思わず言葉を返してしまった。

「ようやっとしゃべった。痛いだって」とチヅルはそう言ったあと、私の髪をより強く引っ張った。思わず表情筋が動いたのが自分でもわかった。

「ウケる。どんどんブス顔になっていってる。可哀想な淫乱エリイちゃん」とレイカは下品な笑い声を上げながら、そう言った。
「チヅ。ヤバいって。いいかげん離してあげたらー」とマリの声が左後ろから聞こえた。
「ヤバくないよ。こいつ、マジキチだから、大丈夫でしょ」
「離せよ」と後ろから低い声が聞こえた。

「チヅ。最低。私、知ーらない」とレイカが言った。
「え、待って。レイカ」
「は? レイカ関係あるのか? 髪引っ張ってるのお前だろ」と低い声が聞こえたあと、ようやく髪が引っ張られる感触が消えた。左側を見るとカノウがチヅルの右腕を掴んだまま立っていた。

「私は、チヅ、そこまでやらなくてもいいんじゃないって言ってたんだけど」
「え、レイカ、言ってないじゃん」
「ごちゃごちゃ、どうでもいいんだけど。チヅ、お前、エリイに手出すんじゃねぇよ!」

 カノウの低い声くて、大きな声が鋭く響いた。その声は教室中を反響し、この教室どころか、両隣の教室と、廊下が一気に静まり返った空気が流れているのすら感じた。チヅを見るともう泣き出しそうな顔をしている。
 カノウはチヅルの手を離したあと、私の左肩をポンと叩いた。

「いくぞ」とカノウが小さい声でそう言った。

 私は教科書とノート、そして写真をリュックの中に慌てて入れてチャックを閉めた。そして、立ち上がると、カノウは私の右手を繋いで、後ろの扉をの方へ歩き始めた。ようやく、教室はざわざわとし始めた。後ろでチヅルが泣いている声がする。「怖かった」とか言っている。

 ――勝手にほざいてろ。





 海は穏やかだった。太陽で煌めく海は揺れていて、潮の香りがこのまま時間が止まってしまうんじゃないかと思うくらい、のどかに感じた。私はカノウとコンクリートの階段に座り、2人で海を眺めている。

「教室抜け出してこんなところにいるの最高だな」
「ヒーローぶってるつもり?」
「ぶってる訳じゃない。ヒーローになろうと思ったんだよ」とカノウはそう言って、持っている缶コーラを開けた。

「乾杯しようぜ」
 カノウがそう言いながら、缶コーラを差し出してきたから、私も缶を開けた。するとすぐにカノウは持っている缶を私の缶に当てた。そのあとカノウは満足そうな顔をして、コーラを飲み始めた。私もコーラを一口飲んだ。口の中で炭酸が弾けたあと、甘いフレーバーがした。

 カノウはバッグからスマホを取り出した。
「おっと、みんなからの心配通知が鳴り止まない。やっぱり俺、愛されてるぅー」
 いったい、どんな気持ちでそんなこと言ってるんだろう。相変わらず、一番、気持ちが知りたい相手の心の声は聞くことができなかった。
 
「――私なんかと付き合うのやめなよ。ろくなことないってこと、わかったでしょ」
「なあ、もっと素直になれよ。エリイ」とカノウはそう言ったあと、左手に持っていたスマホをバッグの中に再びしまった。そして、右手に持ったままの缶を口元まで持っていき、コーラを一口飲んだ。

「俺とエリイは付き合いました。めでたしめでたしでいいじゃん。周りなんてどうでもいいだろ」
「ねえ、日曜日から付き合ったことになってるけど、まだオッケーしてないんだけど。私」
「あれ、そうだっけ。てっきり俺たち付き合ってるのかと思ってた」とカノウはおどけた声でそう言われて、私とカノウの間で起きている問題を本当に認識しているのと疑いたくなってしまった。

「最悪」
 私はボソッとした声でそう言ってあげた。少しでも私が嫌だと思っていることを感じてもらうために。

「なあ」
「なに?」
「もう、何も信じられないって顔してるな」
「誰の所為でこうなったと思ってるの」
「素直になれば、こんなのすぐに解決だろ。少しは人を信じてみろよ」
「――信じられないよ」
「俺なら、人のこと、信じるけどな」
「ふーん。人って、そんなに素直に信じられるの?」と私はカノウに聞いた。
「うーん。イーブンかな」とカノウは言ったあとコーラをまた一口、口に含んだ。イーブンってなにそれ。って思ったけど、五分五分なら、私と大した変わらないじゃんと思った。

「誰だって、人間不信になるよ」
「人気者がよく言うよね、そんなこと。さっきまで、みんなに愛されてるって言ってたくせに」
「あれだって、本気で心配してくれてるヤツも中にはいると思うけど、意外とみんな、本心では何してるんだよって思ってるヤツのほうが多いと思うよ」
「へえ。そういうところは素直に受け入れないんだ」
「そういうもんでしょ。人なんて」とカノウは格好つけたようなセリフを吐いたあと、もう一度、コーラを飲んだ。だけど、カノウが言うと、その格好つけたセリフでも様になってしまうのはなんでだろうって、私はカノウのそんな姿を見ながら、ふと思った。

「エリイは、どう?」とカノウに聞かれたから、少しだけ、素直になって自分の胸の中を話してみてもいいかもって思った。カノウとはもう、昨日や一昨日に比べて、少しだけお互いの本音を言いあっているような気がしたし、私も少しくらい自分のこと言わないとフェアじゃないなとも思った。

「――昔から、人が信じられないんだ。私」
「そうなんだ」とカノウはそう言ったあと、小さな声で大変だったね。と続けてそう言ったから、私は思わず左側にいるカノウのほうを見てしまった。カノウはまっすぐ前を向いたまま、海を眺めているように見えた。横顔の鼻筋がすっと通っているのが、やけに印象に残った。カノウはこっちを見てくれる様子もなかったから、カノウと同じように私は再び、前を向き、海を眺めることにした。

「――誰でもそうだと思うよ。多かれ少なかれ」
「カノウが思っているよりも酷いと思うよ。私の人間不信」
「そしたら、お互い様だな」
「いや、意味わからないし。だってイーブンなんでしょ」
「そうだけどさ、基本的には信じてないっていうか、信じられないよ。人のことなんて。ほとんどのやつは言ってることと心のなかで思っていること違うしさ。――そして、こういうことも起きるし、完全に疑わないのはちょっと違うかなって思う」
「――へえ」と私は言ったあと、コーラを一口飲んだ。カノウは口ではそう言っているけど、人のことなんて本当の意味でわかっていないよ。

「なんだよ、気の抜けた返事だな。自分から聞いておいてさ」
 そう言われたから、カノウをもう一度、見ると少しいじけた表情をしていた。カノウのパーマがかかった前髪が風で弱く揺れていた。

「だって、カノウは学校で楽しくやってそうじゃん。なのに、人のこと信じてないんだって思って」
「だから、デートのとき、言っただろ? チャラいのは嫌いだって」
「自分だってチャラい癖に」と私はそう言ったあと、少しおかしくなって弱く笑った。

「あ、今、笑った。笑うともっとかわいいよ。エリイ」とカノウは言ったあとニコッとした表情をした。
「口説かないでよ」
 そう返しながら、私は照れくさくなり、そっぽを向いた。
 
「また顔、赤くなってー。かわいいな。エリイは」
「うるさいな。口説くなよ」と私がそう言うとカノウは大きな声で笑った。少し大きな波が打ち寄せた音がした。海岸線を見ると、砂浜の波打ち際にいた何組かの人たちが、その波から逃げるような素振りをして、はしゃいでいる姿が見えた。沖に出ているサーファーは次の大きな波に乗れたみたいで、サーフボードの上に立っていた。

「ねぇ。どうして、私なんか救ってくれたの?」
「当たり前だろ。――好きだからだよ」
「どうして、私のこと、こんなに」
「気持ちが読めないからドキッとしたんだよ」とカノウはボソッとした声でそう言った。私はその後の言葉が見つからず、そのまま黙った。波が静かに満ち引きしている音がした。

「ドキッとして好きになっちゃんだから、仕方ないじゃん。こんなの初めてだよ」

 カノウはそう言いながら、右手で私の頬に触れた。
 気がつくと、私の唇は柔らかく塞がれていた。




 レイカはあの一件以来、チヅルのことを冷たく扱うようになった。
 レイカはあのことを全てチヅルの所為にした。次の日、チヅルはレイカに泣いて謝っていたけど、レイカはそれを無視していた。チヅルは必死に自分の居場所を確保しようと、元々仲が良かった一軍グループに入ろうとしたけど、ことごとく無視され、1.5軍にも無視され、最終的に誰とも話さなくなり、私と同じように、スクールカースト下位になった。

 レイカは一軍グループを吸収合併し、クラスのグループ構成を大きく変えた。みんなはきっとレイカが怖くて仕方がないのだろう。マリはそのまま、レイカとくっついてのらりくらり上手くやっているように見えた。チヅルはカノウに怒鳴られたこと、腕を掴まれたことを先生にチクり、カノウは呼び出しをくらった。

 そうして、あと2週間で夏休みを迎えようとしていた。




 カノウが停学になった。
 今日、いきなり学校に来なくて、朝の出欠確認の時、一軍男子がカノウは? と聞いたら、担任は「今日から停学」とだけ言った。それで、クラスがざわついた。
 カノウが停学っておかしいだろ。って一人の男子が担任の胸ぐらを掴んで、騒ぎになった。カノウが思っている以上に意外と、カノウは友達から、よく思われてるよって伝えたくなった。

 だって、クラスの7割くらいの心の声は、カノウを心配するこえだったんだから。
 『そういうもんでしょ。人なんて』と学校を抜け出したあの日、砂浜でポツリと言ったことはやっぱり間違ってるよと思った。

 チヅルの方を見ると、チヅルは頬杖をついたまま黒板を見ているようだった。カノウは一人だけ早い夏休みに入ったみたいだ。いいなとも思う反面、停学中は毎日、反省文を書かなくちゃいけないって、噂話をまた聞きしたのを思い出し、単純に休むって感じでもないのかなとも思った。

 そして、なぜか今週から急にチヅルがレイカのグループに戻っていた。
 バカは仲直りも早いのか――。休み時間に入るとこのバカたちはまるで自分たちは被害者であるような振る舞いをしていて、気持ち悪かった。何人かの男子がカノウのことを言っても「怒鳴られたの私たちなんだけど」と言って取り合う気配はなかった。クラスはカノウの停学をきっかけに、完全に分断され始めていた。




 当たり前だけど、カノウが来ないまま、今日の授業が終わった。
 一軍男子たちのカノウの噂話が聞こえた。カノウはチヅルのことを殴ったことになって、停学になったらしい。カノウはチヅルの腕を掴んだだけなのに、チヅルが誇張して、先生にチクったらしい。それで、カノウも反論しないで、そのまま、停学になったらしい。

 帰りのHRも終わり、リュックに教科書をつめていると、後ろから肩を叩かれた。
『お願いだから乗って』と肩を叩かれたのと合わせて、誰かの心の声が聞こえた。振り返るとマリが立っていた。

 マリは無言で私にメモを手渡してきた。私は素直にメモを受け取った。すると、すぐにマリは私の前から立ち去って、左前方にいるレイカとチヅルの方へ歩いていった。




 メモに書いてあった通り、学校の近くのカフェの前に来た。木で出来た重い扉を開けて、中に入ると入り口からすぐの壁側にあるカウンター席にマリが座っていた。私はカウンターでオレンジジュースを頼み、カウンターでもらったあと、マリの隣に座った。

「座る時も無言かよ」
 マリはあからさまにイラッとした声でそう言った。

「元々こういう性格だから」
「性格とか、どうでもいいけど、ビックリさせないでよ。マジで」とマリはそう言って、椅子を座り直した。私は喉が乾いていたから、オレンジジュースを一口飲んだ。

「あんたって、意外と神経図太いんだね」
「ひとりで生きてるからね」
「なにそれ。格好つけてるだけじゃん」
 私にとって、人生で初めての女子同士でのカフェは殺伐としているなって思った。本当はこういうのって、仲良く、飲み物とかの写真をiPhoneで撮って、それをインスタに上げるんじゃないの? 私はインスタのアカウントすら作ってないけど。
 マリを横目で見ると、いつもの整ったストレートボブから左耳が透けて見えている。マリの小ぶりな顔立ちは憧れる。普段、学校用の薄いメイクでも可愛くみえるから、レイカとチヅルと一緒にいるとたまにマリは浮いているように見える。それくらい、顔が整っているのに、なんであいつらとつるんでいるのか不思議に思える。

「あーあ、なんであんたとなんか、話しなくちゃいけなんだろう」
「それで話ってなに?」
 私はマリのことを無視して、話を早く終わらせて、すぐに帰れるようにしようと決めた。だから、グラスを手に取り、ストローを咥え、もう一口、オレンジジュースを飲んだ。

「本当はあんたなんかと居るところ見られたら私、ぶっ殺されるくらいのリスク犯しているんだからね」
「そんなのそっちの勝手じゃん」
 私がそう言い返すとマリはそのあと何も言わなかった。

『私だって、好きでこんなことやってないのに』とマリの心の声が微かに聞こえた。
 はい、そうですか。全部被害者意識ってことね。と私は思った。

「カノウ、いいヤツだから助けたいの」
「私に関係ある? 」
「関係大有りでしょ? だって付き合ってるんでしょ? 彼女なら当然、助けたいって思うでしょ?」
「まだ、付き合ってないし、私。それ、あんた達が勝手に決めつけてるだけだよ」
「え。だって、抱き合ってたじゃん。それ以外どんな関係があるの?」
「……友達以上、恋人未満」

『何それ。付き合ってるんじゃん』とまたマリの心の声が聞こえてきた。いや、付き合ってないんだって。と私は心の中で言い返したけど、マリにはきっと伝わっていない。

「だったら、助けようよ。カノウのこと」
「そもそもさ、あんた達が私に目付たからこうなったんだよ? 自覚ある?」と私は呆れてそう言った。
 意味がわからない。こんなの加害者側がトラブルを勝手に起こして、勝手に被害届を出しているようなそんな感じじゃんと思った。

「あんた、わかってないと思うけど、私はあんたのこと最初から手出してないから」
「そしたら、なんで、私とカノウがチヅルに撮られたこと、カノウに言ったの? 私のことからかいたかっただけ? カノウと組んで」
「は? なんで私がそんなことしなくちゃいけないわけ? 意味わかんないんだけど」とマリはそう言って私のことを鋭く睨んできた。その睨む顔すら可愛げがあるように見えるから、不思議に感じた。マリはため息をついたあと、アイスのカフェラテをストローで吸った。

「そしたら、本当に善意だったんだ」
「実際、あの日、カノウが学校に来たら、どうなってたか、わからなかったでしょ。カノウに私とレイカとチヅルのグループラインのスクショ送って、私が学校に来ないようにって忠告したの」
「カノウは守って、私はタコ殴りにしたんだ」

「当たり前でしょ。カノウとあんたとじゃ、立場が違うから。それに仲間を助けるのは当たり前でしょ。――なんで、カノウがあんたなんかに手出したのかは謎だけど、カノウは私の仲間だから、ピンチの時は助けるよ。そりゃあ」
「へえ。彼女みたいなことしてるね」
「は? 私はカノウ、タイプじゃないから。友達としてはすげぇいいやつだけど」
「意外とそういう熱いところあるんだ」
「あんたが冷めてるだけだよ」とマリは言ったあと、またカフェオレを一口飲んだ。

「ねえ。さっきから、あんたって言うけど、やめてよ。その言い方。エリイって呼んで。腹立つから」
「――いいよ。そう言うことははっきりと言うんだ。意外。――私たち、もしかしたら気が合うのかもね」とマリはそう言ったあと、カフェラテを一口飲んだ。
 もし、マリが私の友達だったらどうなってたんだろうって、一瞬、考えてみたけど、結局、マリの本性を勝手に知って、また無駄な心の傷を負うだけの結果になると考えると、嫌になった。

「ねえ、カノウがエリイのこと好きになる理由、なんとなくわかるよ。私」
「どういうこと?」
「地味なふりしてるけどさ、エリイってかわいいもん。なのに誰とも関わらないし、無口だから、周りから見ててすごい腹が立つんだよ。――そこがカノウから見たら、魅力的なのかもね」とマリはそう言ったあと、バッグからスマホを取り出した。スマホケースは派手にデコられていて、趣味が合わないと思った。そして、テーブルにスマホを置き、右手の人差し指で、何かを操作し始めた。
 きっと、友達にはなれないよ、マリとは。

「私、この動画撮ってたでしょ」とマリはスマホの画面を私に見せ、そう言った。




 再生されている動画には私がチヅルに髪を引っ張られているのが写っていた。
 鮮明に映るレイカとチヅルの顔はとても楽しそうな表情をしていて、動画の中でもその気持ち悪さが滲み出ていた。そのあと、カノウが後ろのドアを開けて、教室に入ってきた。チヅルとレイカはまだ、そのことに気づいていない様子だった。
 
『ようやっとしゃべった。痛いだって』とチヅルの声がする。
『――ウケる。どんどんブス顔になっていってる。可哀想な淫乱エリイちゃん』とレイカが言ったあと大きく笑っていた。笑い声が下品に響いている。動画はカノウが歩く姿と、私がチヅルに髪を引っ張られている姿が交互に映し出されていた。

『チヅ。ヤバいって。いいかげん離してあげたらー』とマリの声が大きく入っている。
『ヤバくないよ。こいつ、マジキチだから、大丈夫でしょ』とチヅル声がしたあと、
『離せよ』とカノウが言って、チヅルの腕を掴んだ。

『ごちゃごちゃ、どうでもいいんだけど。チヅ、お前、エリイに手出すんじゃねぇよ!』とカノウの低い声で怒鳴り声が入っていた。
 そのあと、私が立ち上がり、カノウは私の手を繋いで後ろのドアに向かって歩き出していた。




「どう? 全部撮ってたんだけど」とマリはスマホをバッグの中に入れながらそう言った。
「最低」
「失礼だね。私はエリイがいじめられている証拠を集めてたんだよ。――エリイを救うために」とマリが言ったのに思わず私は反応して、マリの方を見た。マリは真っ直ぐ壁を見たまま、頬杖をついてた。

「だけど、この動画、エリイを救うためじゃなくて、カノウを救うためのものになると思うんだ。いろいろエグいし。――レイカとチヅ、マジでキモいから、いい加減どうにかしたいなぁ」
「仲良いわけじゃないんだ」
「仲はいいけど、目に余るってだけだよ。――私、こう見えて、筋が通ってないこと嫌いだから、こういうの嫌い」とマリはそう言ったあと、私の方を見てきて、マリと目があった。

「だから、協力して欲しいの」
「何?」
「エリイの顔も映ってるから、きっとうまくいくよ。だから、悪いけど、協力して」とマリはそう言って微笑んだ。




 トレンドになるくらい、いじめ動画としてネタにされていた。
 2分くらいの動画はあっという間にとんでもない数の再生回数を稼いだ。その内容の詳細は、動画概要欄に書かれていた。

 《ちなみにこの男子は暴力を振るったとして、停学処分になったよ いじめた女子二人は処分なし 学校はマジでカス》と書かれていた。しかも学校の実名入りで。

 マリは金曜日の夕方に投稿して、大成功した。
 かなり動画が拡散されたから、この動画のコピーが数え切れないほど出回って、いろんなSNSで、より多くの人に拡散された。
 日曜日の夜には、すでにテレビのニュースで取り上げられるくらいの騒ぎになり、今日、月曜日を迎えた。

 私は教室に向かうため、職員室の前を通った。
 職員室の電話が常に鳴っていて、職員室にいる先生、ほぼ、全てが電話対応している状態になっていた。職員室の前後の入り口で何人かの生徒が「うわぁ」とか「やばすぎ」とか言いながら、職員室を眺めていた。




 教室に入ると、修羅場みたいになっていた。チヅルは泣いていて、レイカはブチギレていた。そして、複数人に二人は囲まれていた。

「ふざけんなよ! 私の人生、めちゃくちゃにする気かよ。ふざけやがって!」とレイカは声を荒げて、机を思いっきり蹴った。机は大きな音を立てて、床に倒れた。

 まだ、教室の誰もが私が来たことに気づいていなかった。
 マリの席を見ると、マリはまだ来ていないようだった。
 きっと、いつものより遅く来るつもりなのだろう。

「来たよ」とタニグチサオリが大きな声で言った。

 そして、クラスのみんなが私を一斉に見た。みんな冷たい目をしていた。レイカが私の方に歩いてきた。私はドアの前に立ち止まったままでいる。なぜかわからないけど、急に両足がガクガクと震えているのを感じた。思いっきり、奥歯を噛み締める。顎もガクガクと震えている。私は小さく息をつき、レイカが近づいてくるのを待った。アイコンタクトを感じた。
 ふとその方を見ると、左前にいる野球部の男子、ツルハシが何かサインを送っているのがわかった。

「おはよう。エリイちゃん。最高の気分でしょ。今」とレイカはそう言った。
 私は黙ったまま、レイカを睨んだ。

「どうして、こうなってるのか説明してもらえる?」とレイカはまた静かな声でそう言った。
 クラスは静まり返り、片杖を飲んでいるのを感じた。心の声が無数に聞こえるけど、一つ一つ耳を傾ける余裕もない。

「得意のシカトかよ。――いっつも黙ってれば済むと思ってるんじゃねーぞ! このブス!」とレイカは大きな声で怒鳴ったのと合わせて、右手で私をどつき、私は後ろへ思いっきり倒れた。そのあとすぐ「やめろ!」とか「マジかよ」とかいろんな声が一斉にざわざわし始めた。

 そして、レイカに胸ぐらを掴まれた。
 レイカは右手に思いっきり拳を作り、振りかぶろうとしているのが見えた。私はなすすべもなく、このまま、身体を任せることにした。あーあ、なんでこんなことになっちゃったんだろう。カノウがあの日、私のこと、デートに誘わなければ、こんなことにならなかったのに――。
 いや、デートに行った私が悪いか。
 いや、それ以前に、殴ろうとするほうが悪いでしょ。

「消えろーーー! このブス!」とレイカが絶叫している声が聞こえてすぐ、レイカの拳が動くのが見えたから、反射的に思いっきり目をつぶった。

「やめて!」と女子の声が後ろから聞こえた。レイカの拳が私の頬に弱く触れた。だけど、予想していた衝撃は来なかった。目を開けるとツルハシがレイカを両手で押さえていて、レイカはツルハシを振り払おうと暴れている。

「ふざけるんな! ブス! ふざけるんじゃねーーーよ!」
 レイカが大きな声を出して、暴れている。私は上を向いたままで、全身の力が抜けているのを感じた。海の中で浮遊しているようなそんな感じに思えた。後ろから手を差し出されたから、私は左手で、差し出された手を握り、起き上がった。起き上がり、後ろを見ると、差し出された手はマリの手だった。

「大丈夫? エリイ」
「ありがとう」
 私がそう言うとマリは穏やかに微笑んだ。金曜日、カフェで一緒にいたときは殺伐としていたのに、マリとなぜか親密な感じを覚えて、私の気持ちは余計、よくわからなくなってしまった。

 レイカは一気に落ち着いたように見えた。
 全身をバタつかせるのをやめて、ツルハシに身体を任せているようだった。だから、ツルハシはレイカからゆっくり手を離した。

「私だよ。動画拡散したの。あんたの所為でカノウが停学になるのはおかしいよ。やっぱり」
「マリ――。私たち、友達だよね? 友達なのにそんなことするの?」
 レイカは今にも泣き出しそうな声でそう言った。その姿を見て、私は裏切りはこんなにショックを与えるんだと、冷静にそう思った。さっきまで、私を殴ろうとした相手は、きっと、もう私のことなんて眼中になさそうだった。

「は? 友達なわけないじゃん。こんなことするヤツ。あんたのいじめのおかげで、いろんな人たちに迷惑かかってるんだけど」とマリはピリッとした冷たい声でそう言った。

「迷惑かけてるのはマリでしょ。――私じゃない。私じゃねーよ」
 レイカはそう言っているけど、さっきまでの威勢はだんだん薄くなっていっている。

「レイカってバカだよね。カノウのこと好きだったんでしょ? 私に相談してたでしょ」
「やめて。――マリ」
「エリイをカノウから離すためにいじめるなんてバカだよ。バカ。こんなことしたらカノウから余計嫌われるだけじゃん。しかも大好きなカノウを停学にしてさ。バカだよね」
「違う。カノウを停学にしたのは私じゃないもん。チヅが調子乗って、勝手なことしたからでしょ!」とまたレイカが大きな声でそう言った。

「レイカーーー! 私じゃない!」と奥から大きな声が聞こえた。
「私じゃない! レイカに気に入られるためにやっただけだもん! 私の所為じゃなーーーい!」とチヅルの声は、後半部分は、ほとんど絶叫していて、耳がキーンとなる嫌な高さの声が教室中に響き渡った。

「うるさいな! 黙ってろよ。全部、お前の所為なんだよ! こんなことになってるのは。チヅ、ふざけるんじゃねえよ! 大体、動画撮ってたマリもブスのこといじめてたんじゃん。――なのになんで、その動画、拡散したんだよ」
「え、なに言ってるの? 私はいじめの証拠、撮ってただけだよ。あんたのこと嫌いだから」
「マリ、ふざけるなぁぁぁ!」
 レイカが再び絶叫して、マリのほうに詰め寄った。そして、マリはレイカに胸ぐらを捕まれたあと、簡単に押し倒された。ツルハシはレイカを押さえることができず、ただ、その場に立ち尽くしていた。

「朝からうるせぇな」
 低い声が教室の後ろ側から聞こえた。声のした方を見ると、カノウが教室の後ろ側のドアの前に立っていた。
 



 カノウはゆっくりと、教室の前の方まで来た。
「エリイ。おはよう! 久しぶり」とカノウはいつも通り気さくな感じの声色でそう言った。
「――おはよう」と私は小さな声で答えた。すると、カノウはいつもみたいに弱く微笑んでくれたから、まだ、状況はまるで収まっていないけど、少しだけほっとした気持ちになってしまった。

「誰だよ。いとしのエリイちゃんをいじめたヤツは。どこのどいつだよ。なあ、エリイ。誰にやられた?」
 カノウは私の目をしっかりと見て、そう言った。だから、私はレイカを指差した。

「へえ。おはようレイカ。久しぶりだな。聞いたよ。俺のこと好きなんだって?」とカノウは陽気な声色を変えないままそう言った。レイカは黙ったまま、下を向いている。

「レイカ、今がチャンスだよ。俺のバーゲンセール。今、レイカに告られたら、レイカちゃんに乗り換えしよっかなー」
「は? なに言ってるの?」
 レイカは冷たい声でそうカノウに返した。

「いや、マジだって。告白しろよ」
 カノウはそう言いながら、両手を広げた。今にもレイカを抱きしめてしまいそうな、そんな雰囲気を出しながら、いつものように微笑んでいた。そのカノウの姿をレイカは、戸惑った表情を浮かべて、マリを押し倒し続けたまま、その場に固まっていた。

「レイカ、こっちに来いよ」
 カノウの微笑みは笑顔になった。レイカは掴んだままだったマリの胸ぐらを離し、カノウの方へ、ゆっくりと歩き始めたそして、カノウの一歩手間のところで立ち止まった。

「――好きです」
 レイカは聞こえないくらいの声でそう言った。

「え、そのあとは?」
「……え、そのあと」
「うん。ほら、勇気だして。付き合ってくださいは?」
「……付き合ってください」
「は? 付き合うわけないじゃん。バーカ。もう二度とエリイに手だすんじゃねぇぞ!」
 カノウの声はあのときのように、教室の壁が揺れたような気がするくらい大きくて低い声だった。レイカは膝から崩れ落ち、声をあげて泣き始めた。

 そのあとすぐ、担任が教室に入ってきた。




 夏休みが始まった最初の日は30℃を超えていた。白いTシャツに黄色のロングスカートを私は纏って外に出た。待ち合わせ場所のスタバへ行っている途中、マリからLINEが来た。

『私は恩赦だって 二人はまだ、保留中だって エリイ、いろいろありがとね 夏休み中、またカフェ行こう』
 私は初めてLINEを交換した友達のメッセージにほっとした。だから、すぐに返信した。 
 
『よかった 恩赦記念に飲みに行こう』
『カフェを酒屋にするなよ』
 1分もしないで返ってきたマリの返信に既読をつけたあと、私はこの夏は楽しくなりそうだと思った。



 スタバの中はしっかりと冷房で冷やされていて、穏やかな時間が流れている。目の前に座るカノウはゆったりとしたソファにもたれて、足を大きく開いて、リラックスしているように見えた。

「そしたら、OKってこと?」
 カノウはそう言って、右手でカップを持ち、ストローを咥えて、フラペチーノを飲み始めた。

「――いいよ」
 私はそう言ったあと、照れ臭くなって、カノウから視線を逸らした。
「よっしゃ」
 カノウは右手に拳を作って、小さいガッツポーズをした。その姿を見て、本当に私のこと、付き合いたかったんだと、改めて感じた。あの日、本当に私のことを守ってくれたカノウのことは、信じてみてもいいかなって思ったから、例え、カノウが私のことを五分五分程度しか、信じてくれなくても、私はカノウのことを、100%信じることにした。

 だから、私は素直に言うことにした。
「あの時、守ってくれてありがとう」
「言っただろ。守るって」
「今度は口だけじゃなかったね」とそう返すと、まあな。と照れくさそうにしながら、フラペチーノをもう一口飲んだ。

「ねえ」
「なに?」
「どうして私以外、ありえないって言い切ったの?」
「告白には最高の言葉だと思ったし、本当にそう思ったからだよ」
「――ありがとう」
 私はまた照れ臭くなって、顔が熱くなるのを感じた。それを誤魔化すために、フラペチーノが入っているカップを手に取り、ストローを咥え、一口飲んだ。

「なあ、エリイに一つ言ってないことがあるんだ」
「――なに?」
「俺、人の心の声が聞こえるんだ」
 何かを伝えたい思いが込み上げてきたけど、それをじっと我慢して、私はカノウのその信じられない話をしっかり聞き続けることにした。

「――だけど、エリイの気持ちは読めない。だから、イーブンで一緒にいれると思ったし、大切にできると思ったんだ」

 カノウはまたいつものように優しく微笑んでくれた。
 私は右手に持っているプラスチックカップを危うく落としそうになった。右手に力を入れた所為で、汗をかいたカップの水滴が垂れ、それが人差し指を伝った。