休み時間は苦痛だ。私はスクールカーストの最下層にいる。だから、このクラスに友達はいない。この学校に入って、ようやく2年が過ぎた。つまり、私は高校3年生だし、あと3週間もすれば夏休みになる。

 スクールカーストの中でも私はまだ、マシな方だと思う。壮絶ないじめに遭っているわけではないし、必要最小限の会話は成立する。



 だけど――。



私は人の心が読めてしまうから、黙っているしかないんだ――。




 「マジで不気味」とレイカが言っているのが聞こえた。私は顔を上げずに我慢して、開いている文庫に目を向け続ける。そのあと、数人の失笑が聞こえた。もちろんそれはレイカの取り巻きたちである、チヅルやマリの声だ。コイツら三人はマジで性格が悪い。

 レイカは顔が縦長で顎が出ている。その輪郭を隠すためか、ロングで拘束違反ギリギリの茶髪で毛先は内巻にパーマがかかっている。

 チヅルは出っぱのデブで、量産型のショートボブでお笑い担当みたいなことをしている。前髪を自分で切るのが下手みたいで、たまに髪型がおかっぱみたいになっている。唯一マリだけ小柄で顔も整っていて、黒髪のストレートボブがすごく似合っていた。なぜ、マリがこんなブス二人とつるんでいるのか謎だった。


 先週の金曜日、席替えがあった。週が明けてから、この席で過ごすことになった。レイカとチヅル、マリは教室の一番奥の隅を陣取っている。マリの席が一番端の席になったからだ。レイカとチヅルは休み時間になると必ずその場所を陣取る。

 レイカはいつも窓に寄りかかり、腕組しながら教室を一望している。そして、一軍の男子がなにか面白そうなことを言っていると必ずその話を掴み、話題をもっていく。教室前側の入り口付近にたむろしている男子一軍と遠いのに話をするから、対角線上に騒ぐ声が教室を横断する。それがめちゃくちゃキモいし、うるさい。

 最悪なことに私の席は教室のほぼ中央の位置になってしまった。つまり、どの場所からも私が視界に入る場所だ。座っているだけで目立っているようなものだ。今日は金曜日。席替えからちょうど一週間が経ったけど、ストレスが溜まっていく一方で毎日、早く家に帰りたいと今までよりも強く思うようになった。

「ねえ、チヅ。肩トントンしてきてよ」
「え、どういう風に?」
「こうやって――。トントンって」
「え、それやばいヤツじゃん。私。めっちゃ不審者じゃん」チヅルがそう言ったあと、また三人は超音波くらいけたたましく、下品な声で笑った。

 その直後、チャイムがなると同時に国語教師の塚原が入ってきた。私は面倒なことに巻き込まれないことが確定し、ほっとした。机にかけているリュックから現代文の教科書とノートを取り出した。

『えー、もう授業なの』
『マジだりぃ』
『次、塚原だからこのままギリまで喋ってようと』

 近くにいる、コンドウ、エンドウ、サイトウの心の声が聞こえた。うるせえよ。こっちだってダルいし、今日も聞かなくていいことばかり聞いて疲れてるんだよと私は思った。そう思っても私の心の声は誰にも聞こえていない。塚原が教室に入ってきても、みんな急いで自分の席に戻る気配はない。それぞれの会話を終わらせてから自分の席に戻っている。
 
 「はい、戻ってー」と塚原は平坦な声で言った。
 腹が出ていてボタンがはち切れそうなYシャツに紺色のパンツを履いている。塚原はそんな体格でまだ20代後半だ。非常勤講師で、常に弱腰だから、みんなから舐められている。

 「つかっちゃん、来るの早すぎー」とレイカのでかい声が後ろから聞こえてきた。
「座って。座って」と塚原が右手で座れのジェスチャーをしながらそう言った。
「座って。座って」と私の後ろからカノウの声が聞こえた。後ろを振り向くと、カノウは立ち上がっていて、塚原と同じジェスチャーをしていた。そして、何人かの一軍男子が立ち上がり、カノウと同じように「座って。座って」と言って同じジェスチャーをしてクラスは一気に爆笑した。


 私がこの世の中がバカげていることに気づいたのは小学5年生のときだった。それまでの私は普通に周りと話すことは簡単にできたし、クラスの中では浮くことはなかった。私が話せなくなったのは、ある日突然だった。
 前の日までそんな兆候はなかった。普通の女の子だった。普通に友達と話しているときに友達が言っていないことが聞こえた。

 私はショックだったし、信じられなかった。私のことを嫌いなのにこうして私の前では笑顔でいることが。


 塚原が夏目漱石のこころを解説している。『精神的に向上心のないものはばかだ』の意味について解説している。めっちゃどうでもいい。私の席から見て左側、窓側の一番前の席にレイカが座っている。レイカは今回の席替えで無理やりチヅルを自分の席の隣にした。
「私とチヅルめっちゃ目が悪くなってきてるみたいだから、一番前の席がいいと思います。そういう配慮って大事じゃないですかー」と言う、めちゃくちゃな意見が採用されて、レイカとチヅルはくじ引きより先に前側の好きな席を選ぶことになった。そして、レイカが左端の一番前の席、チヅルがレイカの右隣の席になった。

 レイカはチヅルの方を向いて、小さい声で何かを話して、笑っている。塚原の授業のときはいつもこんな感じだ。レイカとチヅル以外も現代文を真面目に受けようとしているクラスメイトはいない。教科書を立てて、スマホを横持ちしてゲームをしていたり、動画を見ているヤツも少なくとも5~6人くらいいる。そして、もちろん寝ているヤツもいる。後ろから寝息が聞こえる。きっとカノウの寝息だ。
 
  カノウが私の後ろの席になったのは最悪だ。カノウ――。カノウリヒトはクラスの一軍男子で、その中でも女子人気が高い。理由は簡単で顔が整っていて、少しチャラいからだ。髪はパーマがかかっていて、長めだ。筋の通った小ぶりな鼻と小さい顔、そして、二重でくっきりした両目。薄い口唇はなぜか男らしく見えた。


 だから、カノウが私の後ろの席になったのは最悪だ。塚原の授業は退屈なまま終わり、今日、すべての授業が終わった。私の席の後ろは休み時間、常にうるさい。運動部の猿たちがカノウに群がるようになった。早くホームルームが始まってほしい。夏休みまであと3週間――。その前に期末テストも控えている。私は単純に憂鬱だ。

 教室に担任が入ってきた。担任が入ってくるとみんな自然に座り始めた。そして、いつものように担任が淡々とした声色でHRを始めた。担任が三者面談の内容が書かれたプリントを配り始めた。私の前に座っているオタクで私と同じくカースト下位のイシザキが私の方を振り向きプリントを無言で私に差し出した。私は左手でプリントを受け取り、自分の分を右手で取った。
 
 そして、私は後ろを振り向き、プリントをカノウに差し出した。カノウと目が合った。カノウはニッコリとした表情をした。なぜ、私に微笑んでいるんだろう。柔らかい目つきが妙に気になる。そして、早くプリントを受け取ってほしいのにカノウはなかなか受け取ってくれない。
 私は左手で軽く上下させて、カノウに催促をかけた。
「わかってるよ」とカノウは小声でそう言った。きっと私にしか聞こえていないくらい小さな声だ。カノウはようやくプリントの束を受け取った。私はそれを確認して、前を向こうとしたとき、左手に何がを握らされた。
 
 え、と思い、もう一度カノウを見ると、カノウは私の左手を指さし、口パクで『みて』と言った。私は予想外すぎるこのカノウの行為が理解不明だった。私は何も言わずに、何もなかったかのような装いを演じ、ねじっていた身体を元に戻した。
 
 左手に握ったままの紙はノートの切れ端だった。グレーの罫線が印字されていた。そして、それはハート型に織り込まれていた。ハートの真ん中には『ひらいて』と書いてあった。――ふざけやがって。一体、何がしたいのかわからない。私はそっとハートを開いてみた。
 
 カノウが後ろの席になったのは最悪だ。――それなのに。LINEのIDが書かれた紙をカノウから渡された。そして、LINEのIDの下にはこう書いてあった。

 土曜日デートして。12時に駅前で。
 

 電車はいつものように大きな川にかかる橋を渡っている。河口側、海側の方から夕日が差し込み、車内はオレンジになっている。電信柱の隣を電車が通過するたび、電信柱の影が車内で伸び縮みをした。私は左側のドアに寄りかかり、スマホをいじっている。車内は座るところはほぼ、埋まっていて、数人が私と同じように立っていた。
 
 電車は嫌いだ。隣にいる人の心の声が聞こえてくるから辛い。特に座ると両隣の人の声と、目の前に立っている人の声、3人分の声が聴こえてくる。だから、私は電車の中で座席に座ることはない。電車に乗っていると、みんな何かに悩んでいて、電車に乗っている時間でスマホでSNSをみたり、動画をみたりしながら悩んでいることを考えているのがわかる。

 だから、電車に乗っているときはそんな心の声に圧倒されてスマホをいじっていても何も頭に入らない。今も、私の近くにいる2人くらいの心の声が聞こえる。
 
 ――そういえば。

 カノウの心の声は授業中、聞いたことがなかった。まだ、席替えをしてすぐだから、偶然かもしれない。

 ――だけど。

 さっき、LINEのIDをもらったとき、わずかにカノウの手に触れた。人に触れるとほぼ、確実に相手の心の声が聞こえる。カノウのニヤッとした表情を思い出した。なんでやけにニヤッとしたんだろう。――変なの。私はLINEの画面を起動した。トーク一覧の画面には親の名前しかなかった。


 駅前に着いた。今日は梅雨が抜けたみたいに綺麗に晴れている。そして、ジリジリとした日差しが肌を焼いているように感じた。腕と顔にはしっかりと日焼け止めを塗った。
 私は別にカノウのことなんか意識していない。なのにしっかり化粧をして、白いワンピースなんか着て、どうかしてると思う。

 カノウの姿が見えた。遠くからでもカノウのすらっとしていて、自然な筋肉質な身体つきが異質さを放っていた。
 そういえば、前の席のとき、私のすぐ隣の席で1.5軍の女子が3人で集まっていた。そのときに「カノウって話さなきゃ残念じゃないのに」と話していたのを思い出した。

 そう、話さなきゃカノウは整っているから、きっとモテるはずだ。――なのに、なんで私なんかとデートするんだろう。――カノウと目があった。

「エリイ! よかったーーー」とカノウは右手を挙げて大きめな声で言った。私は思わずその場に立ち止まった。

「エリイ!」とカノウは懲りた様子もなく、私の名前を呼んでいる。
「……ちょっと」
「え、どうしたん?」
「……なんで、下の名前で呼ぶの」
「エリイのそういう表情が見たかったからだよ」とカノウはそう言って笑った。私は急に顔が熱くなるのを感じた。汗も妙に滲み始めている。

「あ、顔赤いよ。エリイ」
「……からかわないで」と私はそう言ったあと、カノウから視線を逸らすために首を下げた。
 
「――もしかして、ウザい?」
「――ううん。全然」と私はそう言って、首を上げ、もう一度、カノウを見た。
「安心して、こう見えても俺、全然チャラくないから普段」とカノウは言って微笑んだ。いつもよりもしっかりと整えられたカノウの髪はウェーブがワックスでより強くなっている。

「エリイ。来てくれてありがとう」 
「ううん……」
「よし、行こうか」とカノウはそう言ってまた微笑んだ。


 スタバに入ってフラペチーノを飲んでいる。店内は昼時で、ほとんどの席が埋まっていた。私とカノウはたまたま空いたカウンター席に座ることができた。目の前にある窓の外には駅まで繋がる細い商店街の光景が広がっていた。

 ちらっと横目で私の右側に座っているカノウを見るとカノウは右手でカップを持ち、ストローを咥えフラペチーノを飲んでいた。

「エリイは飲まないの?」とカノウは私のことをを見てそう言った。
「………飲むよ」と私は言ったあと、慌てて左手でカップを持った。そして、ストローを咥えて、フラペチーノを一口飲んだ。
「エリイは素直だなぁ。嫌いじゃないよ。そういうところ」
「まだ、私のこと何もわかってないでしょ」と私が言ったあと、カノウは穏やかに笑った。

 普段、クラスの中では下品で大きな声をあげて笑うのに、カフェ仕様の穏やかで静かな笑い方ができるんだと思った。それにしても緊張する。別にデートだとか男の子と二人っきりだとかそういう理由じゃないと思う。誰かとこういうことをするのがすごく久しぶりなだけだからだと思う。
 
「俺って、普段はあんな感じじゃん。だけど、あれ、結構、無理してるんだよね。だから、たまに疲れるんだ」とカノウはゆっくりと自然に話し始めた。私は前を向いたまま、窓の外に広がる駅に向かう人の流れを見ていた。

「本当はエリイみたいに大人しくて、謎に満ちたタイプの人と一緒になりたいって思ってるんだよ」とカノウは続けてそう言った。力が抜けて弱くボソッとした声で。私は不思議な気持ちになった。いつもなら、そんなわけないだろと咄嗟に心の中で思うけど、なぜかそう思えなかった。

「だから、うちのクラスの一軍たちみたいにギャル系はあんまり得意じゃないんだよね」
「……へえ」と私はどう言葉を返せばいいのかわからなくなって、間抜けな声で相槌を打ってしまった。
「そういう淡白な反応がいいんだよ。最高だな。エリイ」とカノウはそう言って笑った。

「……ねえ」
「何? エリイ」
「演じなくていいよ。自分のこと」
「俺は演じてないよ。今の気持ちはマジなやつ」
「あ、ごめん。――そうじゃなくって」と私はそう言って、咄嗟に右側を向き、カノウの顔を見た。
「そうじゃない?」
「うん、話聞いてて、ありのままでいてほしいって思ったの。――ただ、それだけ」
「――ありがとう。今日、初めて目が合ったな」とカノウはそう言って笑った。私は急に恥ずかしくなり、また前を向いた。

「顔、赤くなってるよ。かわいいね。エリイ」とカノウはそう言って、微笑んでいた。
   
 ☆
午後の公園はまだ遊ぶ空気に満ちていた。トイプードルが舌を出しながらスポーティーなマダムと散歩していたり、親子連れが噴水で水遊びをしていたり、芝生の上でキャッチボールをしている同年代がいたり、思い思いに休日を楽しんでいるように見えた。

 私とカノウはスタバを出て、駅近くの公園を散歩することにした。公園に入ってすぐの木陰になっているベンチに座っている。今日の天気予報通り、30℃はいっていない気温に感じた。たまに吹く風が少し冷たくて心地よく感じる。

「さっきの話の続き、してもいい?」とカノウは私に聞いてきた。それって、YESしか返答しようないじゃんと私は思った。
「――いいよ。どの話?」
「 エリイが大人っぽいって話」とカノウはそう言ったあと笑った。私は少し嫌な気持ちになった。

「エリイが大人っぽい理由って、同じ年代の子たちよりも成熟しているからだと思うんだよね。だから、人とあまり話すこともしないし、人間関係を作ろうとしない。――だって、人と関わることは自分が傷つくことであることがわかっているから、自分を守るために極力、人間関係を築かない」とカノウはそう言ったあと、私の右手の平に被せるように左手を置いた。

 そして、私の手を繋いだ。私はドキッとした。――カノウが言っていることで、ドキッとしたのか、手を繋がれたことでドキッとしたのか、わからなくなった。なぜか、不思議と引き込まれていかれるようなそんな、フワフワした感覚が急に身体を支配した。

「殻に閉じこもってるね。それ」
「うん。そう見えるんだよ。エリイは。――だから、俺と近いものを感じたんだ。殻に閉じこもったエリイを守りたくなったし、二人でなら、そんな臆病なことも乗り切れるんじゃないかって思ったんだ」
「へえ。――だけど、私から見たら、カノウは真逆に見えるよ。一人で上手くやってるんだから、わざわざ、私のこと庇う必要なんてないんじゃないの?」と私が言うと、カノウはうーんと言って、渋い表情をした。何かを伝えようと言葉を考えているように見えた。
 
「なあ。エリイ。俺、好きになったんだよ。エリイのこと」とカノウは小さな声で言った。
 私はどうすればいいのかわからなくなった。心臓が破裂しそうなくらい心拍数が上がっている。私は一体、気持ちがわからない君とどうやって付き合えばいいんだろう――。
 「――エリイ?」とカノウはまた小さな声でそう言った。カノウは不安そうな顔をしていた。そう、その表情はあたっているよ。――だって、私はまだ――。
「ごめん。心の準備、できてないよ。――なんで私なの?」
「そんな悲しいこと言うなよ。エリイに惹かれた。ただ、それだけだよ」
「なんで……。カノウみたいに性格いいし、明るいし、顔だっていいから他の人からモテまくってるでしょ。こんな陰キャで学校で一言もしゃべらないし、誰も友達がいない私にどうして……」
 私はカノウに抱きしめられた。私の胸から感じるカノウの胸は筋肉質で硬い。背中はカノウの両腕の熱を感じる。何秒間か止まったみたいに思えた。カノウは更に両腕に力を入れ、私の身体は強力にリヒトの身体に吸い寄せられた。私の頬はリヒトの首にぴったりとくっついた。

「――ねえ。痛い」
「――悪い」とカノウはぼそっとそう言ったあと、カノウの両腕が私から離れた。背中にはまだヒリヒリと熱が残っていた。


 いつものように学校へ向かう。電車の中はいつものように混んでいて、もう、一層のことカフェに入ってアイスコーヒーを飲みながら何も考えないで過ごしたいと思うくらい憂鬱だった。別に昨日のことを気にしているわけじゃない。私はなぜ、こんなにもリヒトのことが気になるのかわからなかった。他の人は簡単に相手の気持ちがわかってしまうから、こんな気持ちにはならない。

 電車はいつものように大きな川の橋を渡る。大都会へと進む月曜日の電車の中はどんよりとしていて、乗っているだけで気分が悪い。聞きたくもない隣の人の心の声が時折、聞こえる。隣にいる別の学校の制服を着た女子高生は『告白に失敗したらどうしよう』と不安に押しつぶされているようだ。
 告白ってそんなにストレスかかるのかな。正直、そんなこと、どうでもいい。

 ようやく電車が駅に着いた。私は人をかき分け、ホームに降りた。ホームには私と同じ制服を着た人が何十人も居て、それを見るだけで嫌気がさした。
 

 教室に入ると一気に視線を感じた。今日はいつも以上だ。そのあとすぐ、心の声が聞こえた。
 『付き合ってるらしいよ』
 『あ、来た来た。どうなるかな』
 私は数歩で教壇の前までたどり着き、左に曲がり中央にある私の席まで歩く。私はできるだけ下を向き、歩き続けた。
 『カノウ獲ったら、それはそうなるよね』
『あー、レイカ、めっちゃこわっ。女の恨み半端ねぇ』
 私はその心の声を聞いていると、ふと冷たくて鋭い視線を感じた。顔を上げ、右奥側を見るとレイカが腕組をして鋭い目でこちらを見ていた。窓に寄りかかっているレイカはいつもふてぶてしく下品に見えるけど、今日は特段、下品でイライラしているように見える。

 レイカの隣で同じように窓に寄りかかっているチヅルとレイカの前にある自分の席に座っているマリはうっすらと腐った笑みでこちらを見ていた。

 カノウはまだ来ていないようだ。私の席が見えた。私の机の異変に気づくのは4ピースのパズルを組み上げるくらい簡単だった。私の机に大きな落書きができていた。遠くで見ると黒い球体に見えた落書きはハートだった。私は席に着いた。大きなハートの真ん中には消しゴムで消して作った線で「公然わいせつ」と書かれていた。

 クラスのみんなが私の反応を見ている視線を感じた。別にショックとかそういうのはない。ただ、バレちゃいけないことが簡単にバレてしまったような、そんな罪悪感がモヤモヤと胸の中に広がっていくを感じる。

「エリイちゃん。おはよう。デートは楽しかったですかー?」とレイカの腐った声が聞こえた。私は何事もなかったかのように振る舞うことにした。だから、レイカを無視することにした。リュックサックのチャックを開け、教科書を取り出した。こんなことになったら、カノウが大変なことになる。――というか、もうなっているのかもしれない。

「シカトかよ」とレイカの声が聞こえた。
「ウケる。シカトしてもいいことないよ」と続けてチヅルの声が聞こえた。私は黙り続けた。
「土曜日、めっちゃイチャついてたね。見ててキモいくらい」とチヅルはそう言った。
「マリも何か言ってあげなよ」とレイカはイライラした声でそう言った。
「別にいいよ。私は」とマリが言った。
「えー、つまんな」とチヅルは単調な声でそう言った。
「それより、つまんねーのはあいつの反応だよ」とレイカが言ったあと、誰かが歩き始めた音がする。無駄に足音がうるさい。下品な足音だ。私は息を吸って、小さく一気に吐き出した。

 足音が近づき、そして止まった。目の前にレイカが立っている。レイカと目が合う。レイカは睨みつけてきた。
『ふざけるな。ブス。ふざけるな』とレイカの心の声が聞こえた。ブスなのはお前だろ。ブス。
 
「ねえ、エリイちゃん。自分がかわいいとでも思ってる?」とレイカは言った。私は無視し続けることにした。膝に載せた右手の拳をぎゅっと強く握った。早く時間が流れるといい。さっさと終わればいい。

『なんであんたみたいなヤツがリヒトと付き合ってるんだよ。ふざけるな』
 バンッと乾いた音がした。レイカが思いっきり机の上を叩いた。
「調子のってるんじゃねーぞ。このブス」とレイカがそう言ったあと一瞬、教室の中が静かになった。そのあと、すぐにまたザワザワと至るところで話す声が聞こえ始めた。
 レイカは笑みを浮かべたあと、ふっと鼻で笑った。そして私の前から立ち去った。
  

 カノウは学校に来なかった。だから、今日起きたことは知らないはずだ。朝の出来事以外、ごく普通の一日だった。いつも通り、電車で帰っている。電車はいつもの大きな橋を轟音を立てて通過している。ドアに寄りかかった身体に振動が伝わる。
 
 お気に入りの白いコンバースが無くなったわけでもなく、教科書がビリビリに破られることもなく、LINEグループでハブられることもなく、1日が終わった。そもそもクラスのLINEグループも知らないから、もしかしたら、めちゃくちゃに悪口を言われているかもしれない。
 買ったばかりの消しゴムが半分くらいになってしまった。どれだけのシャープペンの芯を消費したら、あれだけのハートを書くことができるのだろう――。

 そして、いつ、私がカノウと一緒にいるところを目撃されたんだろう。あまりにも、出来すぎているように思えた。――もしかしたら、カノウが面白半分で私のことをハメたのかもしれない。――いや、考えすぎか。カノウの心の声が聞こえたら、それもわかったのに。

 明日からはどうなるかわからない。レイカの朝の顔を思い出した。気持ち悪い笑みをこぼしていた。小根が腐っていて、自己中心的な性格がそのまま表情に表れているような笑い方だった。――あいつ、カノウのことが好きだったんだ。


 改札を抜けるとカノウがいた。カノウは手をあげて、こちらへ近づいてきた。カノウは白のTシャツにベージュの7分丈のチノパンを履いていた。そして、黒のクロックスを履いていた。明らかに学校に行く気がない格好だ。
「エリイ。行こう」とカノウは真顔でそう言って、私の右手を繋いだ。

 手を繋いだまま、駅の通路を通り、南口を出た。外に出ると潮の香りが立ち込めていた。手を握ってもカノウの気持ちはわからなかった。それが新鮮な感覚で手を繋ぐ行為よりもそっちの方に驚いた。家族以外の男の人に手を引かれるのは生まれて初めてなのに、私はそっちのドキドキを感じられなかった。

 お互いに無言のまま、砂浜に着いた。砂浜ではビーチバレーをしている人や、散歩をしている人、海に入ったサーファーがいい波が来るのをじっと待っている人、様々な人が様々なやり方で自分の世界に入っていた。私はカノウに手を引かれたまま、コンクリートでできた階段まで連れて行かれた。そして、カノウは階段までくると、当たり前のように階段に座った。

 私もカノウの左側に座り、海を眺めることにした。波は穏やかで、沖に出ているサーファーは退屈そうに波に揺られているのが見えた。

「ねえ。これからどうしよっか」と私はカノウに聞いた。カノウはしばらく何も答えなかった。波の音とカモメが鳴く声が、まるで私の質問がなかったかのように辺りの音を支配していた。

「なあ。エリイ。こんなことになって悪かった」とカノウはようやく答えた。
「今日の出来事、知ってたの?」
「あぁ。マリから聞いた。LINEで」
「へぇ」と私は自分でも驚くくらい抑揚のない声でそう言った。――別に興味ないわけじゃないのに、なんでこんなにそっけなくなるんだろう。

「私のことハメたんでしょ。最低だね」と私が言ったあと、カモメの間抜けな鳴き声が響いた。
「ハメた? どういうこと?」
「うん。私と居るところ、なんであいつらが知ってたの? 意味わかんないんだけど」と私は自分でも思った以上に声が大きくなってびっくりした。

「――悪かった。ごめん」
「最低だね」
「違う。そういう意味で謝ったんじゃない」
「それ以外、何があるの?」
「エリイを守れなくて悪かったって意味。――俺もこんなことになるなんて思わなかったよ」
 
 カノウの方を見ると、カノウは両手を後ろにつき、前を向いたままだった。

「マリが教えてくれたんだよ。チヅルが俺とエリイが抱き合っているのを見たって、レイカにバラしたって」
「――へえ」
「それで、今日、学校に来ない方がいいってマリから言われたんだ。だから、俺は忠告通り、学校を休んだ。それだけだよ」
「最低だね。――嫌いになりそう」と私は言ったあとに少し後悔した。

「そうはっきり言われても仕方ないか」
「バカみたい。結局、自分の立ち位置しか、考えなかったってことでしょ。それって」
「ごめん」
「もういいよ。……帰るね」と私は言って立ち上がった。

「なあ、エリイ。こんな気持ち初めてだよ。人って、わかり合えないから付き合えるんだろうな。何考えてるのかわからないと予想つかない。――俺は予想された世界の中でしか、生きていけないのかもしれないってふと思ったんだ」
「――何それ」と私が言ったあと、カノウは立ち上がって、私を見た。真っ直ぐな目をしていて、カノウの視線に吸い込まれそうになった。
「つまり、今日のことは予想外だったってこと。ごめん」
「へぇ。最低」と私は目一杯の低い声でそう言った。そして、歩き始めた。すごく、どうでもいい気分になった。


 教室に入るとまた、静かになった。奥の席でレイカがニヤニヤしているのが見えた。絶対、何かやろうとしているのがわかった。マリはスマホをこちらに向けている。きっと、私のこと撮影してるのだろう。
『レイカ、えげつないな』
『もう、可哀想だけど、仕方ないか』
『ざまぁ』
 ざまぁ? 私はざまぁと心の中で言っていたタニグチサオリを睨んだ。するとタニグチは一瞬、驚いたような顔をしたあと、私から視線をそらした。

 自分の席の方を見ると、まだカノウは来ていなかった。またか。と思った。自分の席に着いた。異常なことはなかった。レイカとチヅルの視線は感じる。マリは私を追うようにスマホを私に向けている。だけど、それ以外の人はいつも通り、各々グループを作って話をしていた。リュックを机の上に置き、椅子を引き、座った。リュックから教科書類を取り出し、机の中に入れようとした時、目の前にレイカが立っていた。

「別れろよ。ブス」とレイカは冷たい声でそう言った。私は無視して、机の中に教科書とノートを入れた。机の中に入れた時、何かが入っている感触がした。紙の角のように硬いものが右手の人差し指に当たっている。それを取り出すと、写真だった。私とカノウが抱き合っている写真だ。

「どう? いい写りでしょ。チヅが撮ったの。証拠写真。ブスの公然わいせつ」とレイカは嬉しそうな表情でそう言った。写真の裏をひっくり返すと、ピンク色の蛍光ペンで別れろブスって書いてあった。私の名前はブスになったらしい。

「なんか言ったら、気持ち悪い」とレイカが言った。チヅルがレイカの隣に立ってニヤニヤしている。
「どう? しっかり公然わいせつでしょ」とチヅルが嬉しそうな表情でこっちを見ている。
「ねえ、チヅ。こいつ何も言わなくてキモいんだけど」
「黙ってたら、やり過ごせると思ってるんじゃない? まー、そうさせないけどね」とチヅルが言うと、私は後ろから思いっきり髪を引っ張られる痛みがした直後に上を向いていた。

「これでも黙ってるんだ。きっしょ」とチヅルは私の髪を掴んだまま、嬉しそうな表情をしている。
「チヅ、マジ、ウケるんだけど。こいつの顔、歪んでて余計ブスに見えるよ」とレイカが言ったあと、持っていたスマホを私に向けて写真を撮っていた。何枚もシャッターを切った音がした。

「……痛い」と私は小さな声で言った。
「ようやっとしゃべった。痛いだって」とチヅルはそう言ったあと、私の髪をより強く引っ張った。思わず表情筋が動いたのが自分でもわかった。

「ウケる。どんどんブス顔になっていってる。可哀想な淫乱エリイちゃん」とレイカは下品な笑い声を上げながら、そう言った。
「チヅ。ヤバいって。いいかげん離してあげたらー」とマリの声が左後ろから聞こえた。
「ヤバくないよ。こいつ、マジキチだから、大丈夫でしょ」
「離せよ」と後ろから低い声が聞こえた。

「チヅ。最低。私、知ーらない」とレイカが言った。
「え、待って。レイカ」
「は? レイカ関係あるのか? 髪引っ張ってるのお前だろ」と低い声が聞こえたあと、ようやく髪が引っ張られる感触が消えた。左側を見るとカノウがチヅルの右腕を掴んだまま立っていた。

「私は、チヅ、そこまでやらなくてもいいんじゃないって言ってたんだけど」
「え、レイカ、言ってないじゃん」
「ごちゃごちゃ、どうでもいいんだけど。チヅ、お前、エリイに手出すんじゃねぇよ!」とカノウは低い声で怒鳴った。その声は教室中を反響し、この教室どころか、両隣の教室と、廊下が一気に静まり返った空気が流れている。チヅを見るともう泣き出しそうな顔をしている。

 カノウはチヅルの手を離したあと、私の左肩をポンと叩いた。
「いくぞ」とカノウが小さい声でそう言った。私は教科書とノート、そして写真をリュックの中に慌てて入れてチャックを閉めた。そして、立ち上がると、カノウは私の右手を繋いで、後ろの扉をの方へ歩き始めた。ようやく、教室はざわざわとし始めた。後ろでチヅルが泣いている声がする。「怖かった」とか言っている。――勝手にほざいてろ。


 海は穏やかだ。太陽で煌めく海は揺れていて、潮の香りがこのまま時間が止まってしまうんじゃないかと思うくらい、のどかに感じた。私はカノウとコンクリートの階段に座り、2人で海を眺めている。

「教室抜け出してこんなところにいるの最高だな」
「ヒーローぶってるつもり?」
「ぶってる訳じゃない。ヒーローになろうと思ったんだよ」とカノウはそう言って、持っている缶コーラを開けた。

「乾杯しようぜ」と言って、カノウが缶コーラを差し出してきた。私も缶コーラを開けた。するとカノウは持っている缶を私の缶に当てた。そのあとカノウは満足そうな表情をして、コーラを飲み始めた。私も一口、コーラを口に含んだ。口の中で炭酸が弾けたあと、甘いフレーバーがした。

 カノウはリュックからスマホを取り出した。
「おっと、みんなからの心配通知が鳴り止まない。やっぱり俺、愛されてるぅー」とまるで昨日のやり取りがなかったかのような明るいトーンの声でカノウはそう言った。
 
「――私なんかと付き合うの辞めなよ。ろくなことないよ」
「なあ、もっと素直になれよ。エリイ。俺とエリイは付き合いました。めでたしめでたしでいいじゃん。周りなんてどうでもいいだろ」
「ねえ、さっきから付き合った前提になってるけど、まだオッケーしてないんだけど。私」
「あれ、そうだっけー。てっきり俺たち付き合ってるのかと思ってた」とカノウはおどけた声でそう言った。
「最悪」と私はボソッとした声で言った。

「ねえ、人って信じられる?」と私はカノウに聞いた。
「うーん。イーブンかな」とカノウは言ったあとコーラをまた一口、口に含んだ。

「――人が信じられないの。私」
「誰でもそうだと思うよ。多かれ少なかれ」
「たぶんね、カノウが思っているよりも酷いと思うよ。私の人間不信」
「そしたら、お互い様だな」
「いや、意味わからないし。だってイーブンなんでしょ」
「そうだけどさ、基本的には信じてないっていうか、信じられないよ。人のことなんて。ほとんどのやつは言ってることと心のなかで思っていること違うしさ。――そして、こういうことも起きるし、完全に疑わないのはちょっと違うかなって思う」
「――へえ」と私は言ったあと、コーラを一口飲んだ。

「なんだよ、気の抜けた返事だな。自分から聞いておいてさ」と言ったカノウを見ると少しいじけた表情をしていた。カノウのパーマがかかった前髪が風で弱く揺れていた。
「だって、カノウは学校で楽しくやってそうじゃん。なのに、人のこと信じてないんだって思って」
「だから、デートのとき、言っただろ? チャラいのは嫌いだって」
「自分だってチャラい癖に」と私はそう言ったあと、少しおかしくなって弱く笑った。
「あ、今、笑った。笑うともっとかわいいよ。エリイ」とカノウは言ったあとニコッとした表情をした。
「は? 口説かないでよ」と私は言いながら、そっぽを向いた。
 
「また顔、赤くなってー。かわいいな。エリイは」
「うるさいな。口説くなよ」と私がそう言うとカノウは大きな声で笑った。

「ねぇ。どうして、私なんか救ってくれたの?」
「バカ。当たり前だろ。――好きだからだよ」
「どうして、私のこと、こんなに」
「気持ちが読めないからドキッとしたんだよ」とカノウはボソッとした声でそう言った。私はその後の言葉が見つからず、そのまま黙った。波が静かに満ち引きしている音がした。

「ドキッとして好きになっちゃんだから、仕方ないじゃん。こんなの初めてだよ」とカノウはそう言いながら、右手で私の頬に触れた。気がつくと、私の唇は柔らかく塞がれていた。