彼女と僕のクラスは一組と七組なので結構な距離が離れていた。そのため、わざわざそこまで足を運び、覗きに行ってでもしない限り彼女の近況を知ることはできなかった。
 想像していなかったわけではないが、彼女は孤立していた。それは僕のように周囲に壁を作っているようでもあって、しかし実際のところは周りからはぶられているようでもあった。彼女に話しかけることが何かよからぬことでもあるかのように、誰もが敬遠していた。
 原因は窓際の席でふんぞり返っているあの女子三人組かと思った。僕を追いかけてくるクラスメイトの女子三人組とは、雰囲気からして違った。校則で規制されているのにもかかわらず、スカートの丈の長さは太ももの全貌が露わになるほど短くて、指先には派手目のネイル。内巻きの髪が明るく染色されているのはまだいいとしても、顔面に至っては覚えたての化粧がふんだんに施されていた。
 その見た目からしても、その大声で爆笑する恥ずかしい姿からしても、彼女たちが人生をこの上なく楽しんでいることだけはわかった。「ももかー」と三人組の中の一人が、近くの席で孤立している女の子に言った。藤原百花。その女の子の名前だった。「飲み物買って来てよ。三人分」
 藤原さんは無言で肯くと、ふらっと立ち上がった。今にも倒れてしまいそうなくらい、全身に力が入っていないように見えた。
 そして歩き出した次の瞬間、彼女の体が床のタイルめがけて倒れこんだ。
 騒々しかった教室が、その一瞬だけぴたりと静まり返る。何事かと思って誰もが振り返ったのだ。しかしそこにいた女子三人組が堪え切れずに笑い出すと、まるでいつものことのように、周囲もそれぞれの会話に戻っていった。冷たい空気が流れていた。
 藤原さんは独り寂しげに立ち上がると、何も言わないまま教室を出た。
 扉の前で固まっていた僕は、彼女とすれ違うとき、何か声をかけるべきだろうかと懸命に言葉を探したが、考えても結局言葉は出なかった。
 遠のいていく彼女の背中を眺めながら、先程の光景が頭の中に浮かび上がっている。足を引っかけられて転ばされた、彼女の姿が。

 僕が積極的に藤原さんと接触するようになったのは、たぶんそれからだった。
 本当はもっと早くに行動するべきだったのだろうけれど、ここに至ってもまだ、僕は自分の不甲斐なさに足を引っ張られていたのだ。理由がどうであれ、つまらない正義感で彼女のいじめを止めよう決めたのならば、それを貫き通すのが筋だった。だというのになかなか踏み出せずにいるばかりか、ただ見ていることしかできていなかった自分が、馬鹿みたいで恥ずかしかった。
 動き出したのは七月の五日を過ぎたあたりだった。僕が彼女にハンカチを渡したあの日からすでにもう五日も経ってしまっている。時間は限られているが、自分にやれることはやってみることにした。
 といっても、藤原さんがどこでどのようなことをしているのかをすべて把握しているわけではないので、果たしてそれらすべてを完全に掬い取れていたのかまでは僕にはわからない。ただ一つ言えることがあるとするならば、僕はきっと上手くやれていた。上手くやれていたと自分では思っていたのだ。あのときまでは。
 まず初めに僕が何をしたかと言えば、藤原さんに危害を加えようとしている女子三人組の、妨害だった。彼女たちはたいてい人気のないところで――あるいは誰にも見つからないようなところで、藤原さんに対しての暴行を働く。
 とはいえ、周りも容認しているとまではいかなくとも、彼女たちの行いを黙認しているようでもあったので、多少強引に動いたところであまり問題視はされないのかもしれなかった。たとえば下駄箱の中に虫の死骸を忍ばせたり、この前のことで言うならば足を引っかけたり頭から水をかぶせてみたり、下手すれば大事になるようなことが平気で行われていた。
 理由は単純だった。そこにいる誰もが他人より自分を優先していたからだ。次の標的が自分になることを恐れていたのもそうだし、これまで見て見ぬふりをしてきた、その事実が自分も彼女たちと同罪なのだということを安易に示していたからでもあった。
 それを頭ごなしに否定するつもりはない。何しろ僕も同じだったから。しかし仮に彼女らの行為が大事になったところで、周りの大人たちに告げ口のようなことをする形で公表されたところで、どうにかなる問題でもないし、むしろそれは火に油を注ぐことにも近かった。
 そのため、僕は彼女たちが藤原さんに対して行ったもののすべてを、写真や動画で撮影し、証拠として収めておくことにした。徹底的に、完膚なきまでに叩きのめすための最終手段として。
 そしてその間、僕はできるだけ多くの場面で自分の役割を果たした。
 下駄箱の中に忍ばせてあった虫の死骸を取り除き、他にも椅子の上に置かれていた画鋲や瞬間接着剤など、小さなものはあらかた処分した。
 声をかけることこそしなかったものの、藤原さんがあの三人組につれてかれれば、それを阻止するように仕向けた。(よう)は人気のない場所をどこにも作らなければよかったのだ。ちょうどよく僕はクラスメイトの女子三人組に追いかけられていたので、その人たちと藤原さんたちを上手くブッキングさせることで、容易に目的の場所を作り上げることができた。
 陰気臭い僕にはベストなやり方だと思った。あとは手元にあるいじめの証拠動画を、しかるべきところに公開するだけだった。そうすれば彼女たちの退学は免れないだろうし、停学処分だけを受けて再び藤原さんが憂き目を見ることも、おそらくはなくなる。
 最終的な問題は七月二十日を過ぎた段階ですべてがなかったことにされてしまうということだけだが、それももういいだろう。何もないあの日々に戻るくらいなら、僕はまた同じように彼女を助ける。
 しかしどうやらそれを快く思っていない人物がまったく想像だにしない場所に一人いるようだった。七月十日の放課後、ようやく梅雨が終わりを見せたその午後に、僕は藤原さんに呼び止められていた。

 歩道橋の階段を降りてすぐのところで、「新堂くん」という声が聞こえた。振り向いてみると、そこには少し離れた場所でこちらを見据えてくる、藤原さんがいた。
「新堂くんだよね」
 僕は僅かな間の後に、うん、と小さく答えた。
 彼女と言葉を交わすのは、二年生に進級してからこれが初めてだった。だからというわけではないけれど、胸の底に、ちくりと刺すような痛みが走った。
「少し話しておかなければならないことがあるの」
「話しておきたいこと」と僕は繰り返した。彼女が何を言おうとしているのかはおおかた予想がついていたので、言い返さずに続く言葉を待った。
「新堂くん、最近、私の周りで何かしてるよね」と彼女は言った。「いつもならあるような画鋲とか、虫の死骸とか、そういうのが全部……なくなってるの。その他にもたくさん、おかしなことが起こってる。私の勘違いじゃなければなんだけど、たぶんそうなんだ」
 心なしか、彼女の声は聞き取りづらく震えているように感じた。訥々(とつとつ)としていて、まるで泣きながら話しているように掠れていた。もともとそういう喋り方をする子だったのかはもう忘れてしまったけれど、その声は、聞いている僕を底知れず不安にさせた。
「ねえ」と彼女が言う。「やめてほしいの」
「え」思わず声が漏れていた。どういう意味のもと発せられたものなのかはっきりと理解できなくて、言葉に詰まった。「やめてほしいって」
「今してること、全部だよ」
 茜差す夕暮れ時の空が、僕たちを途方もないくらい鮮明に包み込んでいた。
「はっきり言って迷惑なの。せっかくこういうことに慣れて来たっていうのに、新堂くんの所為で全部が台無し。助けた気になっているなら、やめて。そんな偽善私にはいらないから」
 彼女の言葉の端々に、何か途轍もない違和感を覚えた。その口ぶりにはどこか諦めや疑念のようなものが感じられた。そしてそれ以上に気になったのは、彼女の顔に浮かんでいる僅かながらの怒りだった。彼女は視線を斜め下に置くと、所在なさそうに片腕に手を添えて、吐き捨てるようにこう言うのだった。
「今まで一度だって助けてくれなかったくせに。今さらどうこうしようなんて虫が良すぎるよ」、と。
 それが答えなのかもしれなかった。思い出したかのように蝉の音が耳を劈いた。吐き気にも似た感覚に苛まれると同時に、僕はこのとき初めて彼女も自分と同じただ中にいるのだということを知った。
「なんでもっと早くに声をかけてくれなかったの? なんで今までずっと見て見ぬふりをしてきたの? 時間なんて有り余るほどあったはずなのに、なんで今になって私を助けようとするの? 遅いよ、遅すぎるよ。……ねえ、知ってる? 私ね、別にいじめられてるのは学校だけじゃないんだよ。新堂くんが関わってくるようになってから、放課後に呼び出されて、あられもない命令をされるようになったの。あそこにいるサラリーマンの人から、お金を奪って来いって。方法は何でもいい。強引に盗むのでもいいし、体を売って恵んでもらうでもいい。とにかくお金が欲しいって。それでさ、知らないおじさんに頑張って色目使ってさ、何度も何度も、お金を恵んでもらってさ。馬鹿みたいだよね。何もかも、全部」
 一泊、間が開いた。
「もう一度言うけれど、新堂くんがしてることは、全部、迷惑なの。今よりも酷い状態になるくらいなら、今のままでいいって私は思ってる。だから、もう関わらないで。もう、私を助けようとは思わないで」
 そう言って身を翻すと、藤原さんはゆっくりと歩き出した。
 変化を求める僕と、変わることを拒もうとする彼女。その姿に少し前の自分を重ね合わせてしまい、いつの間にか僕は「それで、いいの?」と彼女の背中に問いかけてしまっていた。
 夕焼けを背中に浴びた彼女は、憂いを帯びた表情で僕に振り返る。逆光で影になった彼女の顔からは、未だどことない諦めのようなものが感じられた。なぜだかいつも、彼女には影が纏わりついているような気がした。
「……じゃあ、私を殺してみてよ」
 オレンジ色の街の背景がぼやけ、彼女だけがそこにくっきりと浮かび上がった。
「私が死んだあと、みんながどういう反応するのか確かめてよ。次の世界で、私が生きてるのか死んでるのかはわからないけど、もし生きてたとしたら、みんながどういう風にして後悔したのか教えてよ」
 彼女はそれを、夏の有効活用だと言った。夏が永遠に繰り返されるなら、一度くらいそういうことが起きてもいいのだと。しかし僕は口籠ってしまった。そんな活用の仕方をしたいんじゃなかった。
「できないでしょ」彼女がわかっていたように溜息を吐く。「ならこのまま放っておいて」
 お願いだから、と言って去っていく彼女の背中に、またも僕は声をかけられずにいた。
 その姿が夏の夕闇にゆっくりと溶け込んでいく。青と赤が混ざり合う絵の具の残骸みたいな空、濡れた路面に見え隠れする擦り切れた「止まれ」の文字、視界の端で散りゆく色とりどりの紫陽花、僕のそばに残されていたのはどうしようもない梅雨の名残だけだった。

 あれを彼女の忠告と捉えるならば、間違いない、彼女の忠告は正しかった。
 僕が藤原さんに関わることで、想定されていた未来と今のこの状況で大きな食い違いが生まれた。大人しく今まで通りの日常を送っていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
 しかしそれで本当に報われるのだろうか? 報われるはずもないし、言われたまま素直に引き下がることなんてできなかった。だから僕は苦渋の末彼女の言葉を無視することに決めたのだが、おそらくはそれがいけなかった。休み時間中、何んとなしに廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「君が新堂かなめ君かな?」
 優し気な口調と表情に反して、その体は浅黒く巨大だった。二の腕はモルモットを二匹ほど詰めたかのように盛り上がっていて、胸板から太もも、そのすべての筋肉が制服上で隆起しているように見えた。上履きの色からして上級生のようだが、しかし僕にこんな治安の悪そうな知り合いなぞ一人もいなかった。
 ちょっとついてきてもらえるかな、と彼に言われたことを最後に、そこからの記憶が突然と校舎裏の土に変わる。気がつくと僕は校舎裏の湿った地面に突っ伏していて、悶えながら鼻から血を垂れ流していた。視界の端に入って来る太陽が眩しく、半目開きで見る光景は、想像していたよりもずっと最悪だった。
「妹の周りをうろちょろしてるのって、君だよね」
 地面にうずくまる僕を、男はしゃがみ込むようにして覗き込んできた。
「……何のことですか」と僕が絞りかすのような声で言うと、「とぼけなくていいよ」と男がまた僕の脇腹を殴った。かはっ、と声にならない声が出る。「君、俺の妹を盗撮してるんだって? だめだよそんなことしちゃあ。ね。今日のところはこれで勘弁してあげるからさ、もうしないって約束してよ」
 男は僕のポケットからスマホを取り出すと、その中にあった写真やら動画を残らず消した。僕がこれまで集めて来たいじめの証拠動画を。彼もそれを目視していたはずだが、大した反応は見せなかった。代わりに僕の腕を掴んで、雑巾でも絞るかのように強くねじった。
「約束してよ。わかった?」
 腕に痺れるような感覚が走った。わかった? と男が幾度となく問いかけてくる中で、それでも僕は痛みに耐えながら頑なに口を閉ざしていた。この男の言うことを聞きたくなかったからではない。
 意地、だった。
 一度決めたことを今さら投げ出そうなんて、そんなのは今までと何も変わらない。何もかもが中途半端だった自分。藤原さんが陰で苦しんでいたというのに、そういう光景をただ傍観しているだけの自分が許せなかった。孤独というのがどれだけ虚しいことであるのかを知っている僕にとって、それは何よりもつらい現実だった。
 夏が繰り返され、彼女は二百日の間その現実に苛まれている。本人は何ともない風に強がってはいたけれど、本当はそんなはずはないのだ。慣れることなんて、一生あるわけがないのだ。
 だからせめてもの贖罪として、今まで見て見ぬふりをしてきた償いとして、僕はこうして口を閉ざしている。彼女がそれをどう思おうと、自分勝手に行動しているのかもしれなかった。
 男の舌打ちのようなものが聞こえた気がした。
 見れば、彼は僕を見下ろしながら作り物めいた笑みを浮かべていた。相変わらずそれは顔と体格に似合わない気味の悪い笑みだった。そしてその直後に強い衝撃が顔面に襲いかかる。顔を蹴られたと理解したときにはすでに、男の背中は渡り廊下の奥へと消えていて、僕は校舎裏の壁に後頭部を強く打っていた。
 頭が割れるような痛みに、しかし反応を示すことすらとうとうできなくなっていた。
 横向けに倒れながら、おぼろげな眼で何もない宙を見る。背の高い木々が近くでさわさわと揺れていた。ふいに聞こえるはずもない踏切の音が聞こえて、このまま死んでしまうのだろうかと僕は思った。しかしそんな思いとは裏腹に、時間だけがただ何んとなしに過ぎていく。
 やがて休み時間終了のチャイムが聞こえてきた頃、今まで聞いていたはずの踏切の音が蝉の声だったということに気がついた。起き上がり、壁にもたれて聞いてみたが、その音が鳴り止むことはなかった。鼻から血が垂れている。口の中には砂の食感と鉄の味があった。
「だから言ったのに」
 すると、どこからか掠れた声が聞こえ、すぐ横から見覚えのあるハンカチが自分の鼻にあてがわれた。藤原さんが僕の隣でしゃがみ込み――あのとき僕が渡したはずのあのハンカチで――鼻から流れる血を拭いてくれていた。
「こういうことされるの、迷惑なの」
 そう言って彼女は手を引っ込めるが、その反発的な言葉に反して、表情だけはどこか悲しげだった。
「ねえ」そして僅かな間の後に、窺い見るような目で僕に言ってくる。「そこまでして、私のために何かしてくれなくてもいいんだよ。わかったでしょ、私と関わると、碌なことにならないって言うのが。それにさ。私、そこまでしてもらう理由とか、新堂くんに何かしてあげた記憶とか、たぶん、一度もないんだよ……」
 僕は必死に痛みを我慢しながら、小さく深呼吸をした。そして横目で彼女を見ながら、いつか彼女自身が言っていたことを思い出していた。「いつも一人でいるけど、寂しくない?」、「そっか。何かあったら私に言ってね」というあのときの何でもない言葉を。それがどうというわけではないけれど、なぜだか頭の片隅から抜けないでいた。
「藤原さん」と僕は言った。ふと顔を上げた彼女に、僕はぎこちない微笑みを向けている。「これは藤原さんのためにやってるわけじゃないんだ。……全部、自分のためだから」
 これは僕が僕自身で招いたことなのだ。顔を蹴られ、脇腹を殴られ、全身が痣だらけになろうとも、それを否定するつもりは毛頭ない。それに、と僕は思う。彼女はもっと苦しんでいたはずだから。これまでずっと、つらい思いをしてきたはずだから。
 言ってしまえばただの自己満足。だけれど、彼女が救われるなら、僕もきっと救われる。
 たったそれだけのことなのだ。
 僕はもう一度彼女のことを見た。前髪がはらりと揺れ、木漏れ日がその姿を明るく照らし出している。
「藤原さん。……今までずっと声をかけてあげられなくて、ごめん。遅くなったけど、これだけは伝えておきたかったんだ」
 ようやく言えたのだと思った。やっと僕は彼女に謝ることができた。それだけでも、今までの何もない日々と比べれば、ほんの少しだけ報われた気がした。
 ふと空を見上げると、大規模な入道雲が夏空に侵略を始めている。蒸し暑い夏だ。それはもしかすると僕たちの始まりを意味しているのかもしれなかった。
 馬鹿みたい、と泣きじゃくる彼女の姿を見て、やはりそう思った。