あたし、あの人と心中しようと思うの。だから綾ちゃんも協力してね。

 これには流石の私もゾッとして、暫く声が出せないでいた。

「ねえ綾ちゃん、聞いてるぅ?」

 舌足らずな声が私の名を呼ぶ。その媚びを含んだ甘い響きがいつもの如く神経を逆撫でてゆき、我に返る。

「聞こえてるから、もうちょっと声抑えて」

 人通りのほとんどない田舎のバス停といえど、外で話すような内容ではない。

「で、何だって。心中? あんた死ぬつもり?」

「そう!」

 呆れて言えば、夢見心地に指を組んで、

「だって毎日辛いことばっかりなんだもん。でも、あの人と一緒に死ねたらあたし、最高に幸せ!」

 ユキちゃんと手を繋いで逝けたら、こんなクソな世の中も全部全部許せちゃう。まるでデートの約束を取り付けるかのような軽さで笑う。まあいつものことだ。この子にとって死を語ることはもはや日常と言ってもいい。

「で、あんたの大事な恋人さんは了承してるの、そのこと」

「してないよ?」

 まだ話してないもん、さっき綾ちゃんの顔を見たときに思いついたばっかりなんだから。この子は言葉の端々にこういう呪いを滲ませ、私に擦り付けていく癖がある。いちいち取り合っていたらきりがない。

「いくらなんでも嫌がるんじゃないの? 私と一緒に死んでくれなんて」

「そんなわけないじゃん。ユキちゃんはあたしのこと世界で一番愛してくれてるし、優しいし、何でも言うこと聞いてくれるんだから! 絶対いいよって言ってくれるもん」

 私は顔も見たことがない彼に心底同情してしまった。奇妙な話だけれど。

「じゃあもうすればいいんじゃない? 心中でもなんでも」

「だからぁ、綾ちゃんの協力が必要なんだってば!」

 彼女の身振り手振りを交えた拙い説明を要約すると、『あたしたちの死は永遠の愛の証で美しいもの』なので間違っても腐乱死体となって発見されないよう、事情を知る私に通報して貰いたいこと。そしてなるべく痛い思いはしたくないので、楽な死に方をご教示願いたいとのことだった。

「嫌だ。なんで私が犯罪者にならなくちゃいけないんだ」

「えー、犯罪じゃないよ? 綾ちゃんが殺すわけじゃないんだし」

「あるんだよ、自殺幇助罪ってのが」

「ええー、でもでも、こんなこと頼める友達なんて綾ちゃんしかいないんだもん! ねえ、お願いお願い」

 友達じゃなくて、腐れ縁ね。心の中で訂正しながら、私はため息をついた。

「分かった。ただし、ユキさんに会ってちゃんと計画を立ててからね。今すぐは無理」

「わあ、やったぁ! 綾ちゃん大好き!」

 抱きついてくる彼女を引き剥がす。子うさぎのように束ねたツインテールが首筋をふわふわと擽った。



 私たちの出会いを語るには小学生の頃まで遡らなくてはならない。

 彼女が「ひめ」と名乗った時は聞き間違えたのかと思った。

「妃芽?」

「うん」

 可愛いでしょ、と言いたげにニコニコしていたけれど、正直親の程度が知れると思った。いくら親ばかといえど、姫を連想させる響きを付けるなんて全く将来のことを考えていない。現に彼女は日本人に平均的な彫りの浅い顔立ちをしていて、完全に名前負けしていた。

 加えて妃芽は頭の悪い子供に特有な社会性の欠如があった。彼女の中では家庭と学校がそのまま地続きになっていて、クラスメイトや教師を親か何かと勘違いしているようだった。妃芽の機嫌は乱気流で、気を使って優しく話しかけてやっても、虫の居所が悪ければそれをそのまま態度に表す。一重の目をさらに細めて睨み付けてくる様は、彼女の両親ならば愛くるしく思うのかもしれないが、十歳そこそこの私たちには腹立だしいだけだ。そのくせ気分のいいときには馴れ馴れしくくっ付いてくる。

 自分は家族に愛されていて、だから他の人たちもありのままの自分を受け入れてくれるに違いないという、短絡的思考が癪に障った。うちの五歳の妹だってもう少し賢いのに。それは皆も同じだったようで、妃芽が厄介者の烙印を押されるのにそう時間はかからなかった。

 それでも、誰とでも仲良くするのが美徳だと信じ込まされている小学校時代はなんとか輪の端をあけてもらっていたが、中学に上がるとそうもいかない。妃芽は底意地が悪い子供たちにとって格好のサンドバッグだった。

「あれが『姫』って顔かよ」

 妃芽が何かをするたび、彼らは聞こえよがしにヒソヒソと笑い合っていた。とはいえ、その寄せられた顔たちも王子や姫とは程遠いものだったが。

 私はというと、あまりの馬鹿馬鹿しさに文庫本を開いたまま傍観者に徹していた。

 そもそもこういう問題は大人が介入するべきなのだ。私や他のクラスメイトが咎めたところで猿山の馬鹿共が改心なんてするはずがない。それに私は、少なくとも三月までこのコミュニティに属さなければならないのだ、不本意だけれど。攻撃のターゲットが移ると厄介だ。

 見ているだけの人間も虐め加害者と同罪だなんてよく聞くが、あれはよっぽどお気楽な子供時代を送った人間か、学生時代は虐める側だった人間が正義という棒で人を殴ってみたくなっただけの戯れ言である。それか教師の責任転嫁か。とにかく、担任は把握した上で放置しているのだから、私の口を出すことではなかった。妃芽も流石に自分の置かれた立場を察したのか、口を閉ざし、俯いていることが多くなっていった。

 そんなある日、図書室に向かう途中、人気のない廊下にすすり泣きが響いていた。声を辿れば曲がり角の奥、渡り廊下に続くドアの前に誰かが蹲っている。妃芽だった。彼女はこちらの気配に気づくと、援軍を見つけた怪我人のような顔で「綾ちゃん」と呟いた。

「……何やってんの、こんなとこで」

 私は否定するように平たい声を出した。彼女と言葉を交わすのは久しぶりだ。それを受けた妃芽は睫毛を伏せ、また肩を震わせてひっくひっくとやりだす。そのどこか芝居がかった態度にイラッとして、

「あんた、もう少し大人になれば?」

 つい、長年の不満をぶつけてしまった。

「……え?」

「あいつらが馬鹿なのは置いといて、あんたは明らかに空気の読めてない言動が多すぎる。子供じゃないんだからもう少し考えな。入学したばかりの頃、仲良くしようとしてくれた子たちを邪険にしたのはあんた自身だよ」

 だから今こうやって孤立してるんでしょ。ただでさえ満身創痍の彼女はそれがトドメになったようで、うわーんと声をあげて泣き出した。流石にやりすぎたか。けれどあの教室に不満を覚えているのは妃芽だけではないのだ。

 スクールカーストでの絶対的権力者は知能が高い者でもリーダーシップがある者でもない。幼稚な残虐さを振りかざし、客観性を持たない者である。そして私はそのピラミッドの下の方に組み込まれているのを肌で感じていた。

 そこまではまあ良いのだが、どうやら彼らの法律では身分の低い者は分をわきまえて暮らさなければならないらしい。毎日繰り広げられる幼い独裁ごっこに、私はほとほと疲れ果てていた。

 なんとなく妃芽が泣き止むのを見届ける責任があるような気がして、私は彼女の前に突っ立っていた。慰めは期待できないと悟ったのか、嗚咽は少しずつ止んでいき、やがて膝を抱えたまま動かなくなる。

「――じゃ、私行くから」

 背を向けようとすれば、妃芽は待ってと顔を上げた。

「なに」

「綾ちゃん、綾ちゃんはあたしのこと嫌いなの」

 私は立ち止まって考える。確かに妃芽にはイライラさせられてきたけど、というか今もだけど、彼女における問題の根源は精神年齢が幼すぎるが故の無邪気さであって、誰かを貶めてやろうという姑息さは感じられない。そういう意味ではひそやかな嘲りでしかコミュニケーションのとれない彼らよりよっぽどマシだ。だから好きか嫌いかと聞かれると、

「いや、別に嫌いではないけど」

 となる。途端、妃芽の顔に笑みが戻った。

 いや、好きだとも言ってないんだけど。なんとなく嫌な予感を覚えながら、私は彼女をその場に残して図書室に急いだ。



 そこは妃芽の憩いの場として定着してしまったらしい。

 放課後は図書室で勉強するのが日課だったから、帰り道はいつも妃芽につかまった。

「綾ちゃん今日もお勉強してたの? 偉いねぇ」

「あんたもしなよ、来年受験なんだから」

 妃芽への虐めは相変わらず続いていた。彼女はやはり俯いてじっと耐えていたし、私は傍観者であり続けていたから、引き留められれば罪悪感から隣に座った。

「あたし、綾ちゃんと同じ高校行きたいなぁ」

「いや、無理に決まってるでしょ。自分の成績分かってんの?」

 妃芽は相変わらず無邪気だったけれど、私たちを困らせたあの我儘さはだいぶ鳴りを潜めていた。この調子なら高校では友達の一人でもできるかもしれない。

 こうやって妃芽と話す時間は、私にとってそれほど楽しいものではなかった。まず彼女は圧倒的に語彙に乏しい。こちらの発言の意図を明らかに分かっていないまま、うんうんと受け流していることが殆どだ。そして言語化能力も低く、彼女の考えを明確に表現することができないでいた。

 それでも私が早々に帰宅しなかったのは、妃芽のカーストを通してものを見ない治外法権な価値観に安心を覚えたからだった。まあ、彼女の無知を無垢と勘違いしていただけかもしれないが。

 これはいわゆる黒歴史というやつで、今思い返しても羞恥のあまり布団にもんどり打ってしまうのだけれど、私は妃芽に、こっそり書きためていた小説を見せたことがある。大学ノートに綴られたそれはとても小説とは呼べない代物だったけれど、妃芽は凄いねぇ凄いねぇと目を輝かせていた。私はそれを真に受けて、将来は小説家になるんだとかなんとかのたまった気がする。脳が思い出すことを拒否しているから、記憶が曖昧だけれど。

 そんな夢、クラスの誰にも話せなかった。

 確か当時の私と同じ中学二年生の女の子が主人公だった。ある日現れた妖精と旅をして、不遇のフェアリープリンセスを救いに行く物語。

「このプリンセス、可哀想……ねえ、主人公とプリンセスは運命で結ばれてるって書いてあるけど」

「うん。いまどき流行らないでしょ、姫を助けに行く王子なんて」

「でも、女の子同士なのに?」

「運命が恋愛感情とイコールなんて価値観、古いんじゃない? 私は愛以上の運命ってあると思う」

「そっかぁ」

 妃芽は忘れてくれているだろうか。

 その後、私たちは当然違う高校に進学した。そうすると会う機会も少なくなる。妃芽との時間はいい思い出になっていたけれど、積極的に連絡を取り合うまでの親愛の情は生まれていなかった。少なくとも私の方には。

 私たちは自然と疎遠になっていった。例の小説はとうとう未完のままだった。