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猫を見つけて興奮した私たちは、まっしぐらに走り出した。こんなに勢いつけて走って近づいたら、猫はびっくりしてしまうのではないだろうかと思ったとき、私は澤田君を追い越していた。
澤田君の走り方は右足を庇うようにしてガタガタとバランスが悪い。そういえば、ずっとひょっこひょこしてたような気がする。
気をとられて走っていたら、バンと思いっきり壁にぶつかってしまった。見えない壁の存在をすっかり忘れていた。
「ああ、痛い」
トムとジェリーの追いかけっこの果てのトムになったように、体が平らになってつるっと壁に沿って流れていくような気分だった。
「栗原さん、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。鼻を強く打った」
その見えない壁の向こうで猫が気にもかけずに毛づくろいをしていた。涙目でそれを見ていたせいで、やっぱり猫の色がはっきり判別できない。
「でもさ、壁はここまで広がっていたんだね。後もう少し広がってたら、猫に届きそうな気がする。あの猫、こっちに来ないかな」
澤田君は空間が広がるスイッチを探すみたいに、ペタペタと辺りを触れた。時々コンコンと強く音を立てて猫の気を引こうとするけど、猫は気がつかないのか、私たちの方を振り向きもしなかった。その内毛づくろいが終わると、猫は立ち上がってきままに歩く。
「猫! ネッコ! ヌコォォォ!」
私は壁を叩きながら必死に声を張り上げたが、素知らぬ顔で去っていく。やがて店の前に置かれていたごちゃごちゃした立て看板にまぎれて消えていった。
その後、また姿を見せるのかじっと看板を睨んでたけど、猫はその裏に居るのか、それとも消えたのか分からず仕舞いだった。
見えない壁に張り付いていたとき、商店街の出入り口が随分近づいていることに気がついた。
先は大通りが横切って車が行き来しているはずだ。だけどまるで暗いトンネルから外の明るさが眩く白く光っているように見えるだけで、外の様子がわからない。
でもあそこまで行けば何かが分かりそうな気がして、先が見えないのがもどかしい。この空間が端から端まで全部繋がれば猫も捕まえられるんじゃないだろうか。
「この調子で行けば、いつか商店街の出口まで空間が広がるんだろうか。そこまで広がれば、猫はこっち側の空間にも入ってくるのかな」
私は遠い目で出入り口を見ながら呟いた。
「可能性はあるかもしれないね。こっちの空間に猫が一度入ったとき、姿は見えなくても足元で鳴き声が聞こえたから、猫はもう少しで僕たちと同じ空間に姿を現せたのかも」
「じゃあ、その時、空間のけもの道でも通ってたのかな?」
思いつきで上手く表現したつもりだったけど、自分で言っておいてあまりぱっとしなかった。
「僕も分からないけど、元の世界と僕たちがいる空間って紙一重の何かの違いでこうなっているのかもって思うんだ。お好み屋の匂いも微かに感じたし、現実の世界とはそんなに離れてないんだよ。この世界は現実をコピーしたもので、そこに僕たちだけが入り込んだ」
「現実をコピー?」
「ほら、僕たちが存在する現実のオリジナルがあって、それをどこかにバックアップしたようなものじゃないかな。時空のずれみたいな。それともバグかな?」
澤田君はもしかしたらコンピューターかゲーム関係に詳しいのかもしれない。でも私にはさっぱりだ。
「よくわからないけど、そうであったとしてもオリジナルの元の世界に帰るにはどうすればいいの?」
それが分かれば苦労はしないんだけど、この世界がああだ、こうだと知るよりも、私は手っ取り早く元の世界に戻りたい。
「うーん。ずっとどうすればいいのか僕も考えているけど、やっぱりこの世界の仕組みを知らないと、答えが見つからないような気がする。もう少し、調べてみよう」
澤田君は見えない壁を伝って端から端へと移動する。少しでも変化がないか、地道に探っていた。そういう手間を省いて、すぐ結論を求めてしてしまう私とは大違いだ。澤田君に任せて自分が何もしないわけにもいかない。出来る範囲で辺りを見回した。
今回広がった部分にはチェーン店の百円ショップが入っていて、個人経営の店よりも店舗が大きい。向かいも同じような大きさの名の知れたドラッグストアが入っていた。どちらも大きな店だから、その大きさに沿って空間が随分と拡張されていた。
「だけど、いつの間にこんなに広がっていたんだろう」
まだ少し痛む鼻を手で軽くさすりながら私は訊いた。
「僕たちが座って話しているときに、偶然拡張できる正解に触れたとかかな」
この空間が広がる法則は正確に分かりようがないが、憶測として澤田君の純粋な心、または私たちの行動が影響しているのは確かかもしれない。澤田君とデートをしたいと私が言って、澤田君はそれに照れて恥ずかしがって、そして壁が消滅したのは事実だ。
でもこうだと決め付けて繰り返すも、二度は成功したかのように見えたけど、三度目になると法則は発動しなかった。折角分かりかけてきたと思ったのにやりすぎると躓《つまづ》いた。微妙なところで何かが変化したのかもしれない。
何か変わった事がなかったか自分なりに振り返る。
椅子に座っていた時、何を話していただろうか。その時もデートの行き先について話して、色々と話が脱線していた。最後はどこに行くかで行き先は決まったけど、やはりデートの話になると空間が広がるのだろうか。
澤田君を見れば一生懸命何かを探そうと見えない壁と奮闘していた。考え事をしているときの澤田君の目は真剣で顔つきもふと大人っぽくなっている。こういう面を見ると、胸がキュンとしてしまう。
そんな気持ちが芽生えたのも、澤田君と一緒に長く居れば居るほど、心をすでに許して仲良くなっているということだ。
近くに居るとちょっとしたドキドキもしてくるし、私たちの心が通じ合うことはやはりこの空間を左右しているのかもと思ってしまう。
でもなんのためにこんな事が起こっているのだろう。そこに意味なんてあるんだろうか。
私はずっと先の方向を見つめた。向こう側にも出入り口があり、白く光っていた。
「ねぇ、澤田君」
私が呼びかけると澤田君が振り返った。私は澤田君の顔を見つめる。目が合うと相変わらず優しく微笑みを返してくれた。
「どうしたの?」
「それじゃさ、ふと思ったんだけど、あっちも同じように広がってるってことかな」
今までのところ、この商店街の真ん中から両端へと、店舗を区切りとして徐々に広がっていくのは確かめた。
「じゃあ、確かめてこようか」
澤田君がもう一方の端へと歩きかけた時、私は止めた。
「別に確かめなくてもいいよ。多分そうなんだよ。それに、広がっていたところで、この空間から抜け出せないんだから、確かめても無駄だよ」
私はこの絶望的な状況に慣れてしまって、そういうものだと決め付ける。
「わからないよ。もしかしたらそこに新たな発見があるかもしれないし、何事も自分で調べて納得しなくっちゃ。放っておいたら、そこからは進めないんじゃないかな」
「澤田君はポジティブだから」
「僕がポジティブだからという意味じゃないんだ。何もしないことがいやなんだ」
「えっ?」
「何もしなかったら、そこで終わってしまう。それって、変化を望まないってことじゃないか。無理だから、ダメだから、そんな気持ちに邪魔されて、僕はいつ も動けなかった。まずは自分のそういう気持ちを変えたいんだ。例え、そこに何もなかったとしても、それを確かめることは決して無駄なことではないと思う」
言い切った後、私を見てハッとし恥ずかしがっていた。
それは澤田君の真面目な部分なんだと思う。すごいとは思うんだけど、面と向かってどう反応していいかわからないのが私だった。投げやりな自分が少し恥ずかしい。
「ご、ごめん。別に栗原さんを責めたわけじゃないんだよ」
「そんなの分かってるって。ただ、圧倒された」
「僕、過去に色んなことで後悔してるから、つい、力入っちゃって」
「わかった。じゃあ、見に行ってみよう」
「でも、何もなかったらごめんね」
「なんで、そこで弱気になってんの」
芯はしっかりしているのに、最後でなよっとしてしまう澤田君。でも向こう側へと、張り切って前を歩き、私はその後をついていく。
まだ少年であどけない部分が目立つけど、その後姿は精悍《せいかん》だ。
私は振り返り、先ほどの猫がどうなったか確認する。今のところ、その姿は見えずじまいだった。そのうちまた出てくるのかもしれない。今はそれを信じるしかない。
澤田君の後を追いかけ、私は横に並んだ。まじまじ見れば肩の位置が結構高いことに気がついた。
「改めてみると、澤田君、背が高いよね。身長どれくらいあるの?」
「178cm」
「もうすぐ180cm越えるかもね」
「これ以上伸びたら面倒くさいな」
「背が高いって面倒くさいものなの?」
「あっ、いや、この間も伸びたところなんだ。だから急激に身長ってあまり伸びて欲しくないなって」
「私としては、体重は急激に増えてほしくないな」
私の返しに澤田君はクスッと笑ってくれた。
そんな他愛のない会話をしながら壁に気をつけて歩けるところまで歩く。やはりこちらも空間は広がっていた。
念のため、何かの変化がないか澤田君は念入りに見えない壁を確認していた。
「このまま空間が広がったら、両端の商店街を抜けた先に出られるんだろうか」
もう一方の商店街の先の向こうを見つめながら、私は訊いた。
「どうなるんだろうね。この商店街を中心としてずっとずっと徐々に広がれば、この街全体にまで大きくなって、そのうち地球全体規模に見えない壁などなくなるのかも」
「もしかしてどこにも壁がなくなった時に、元の世界に戻れるとか?」
「そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
「そうだったとしたら、気の遠くなるような時間がかかるんじゃない? でもさ、この商店街の中で起こっているように、空間は広がっても建物の中に入れないし、この世界のものにも触れられないし、どうやって生きていくための必要なものを手に入れるの?」
「全く触れられないこともないかもしれない。現に僕は見えない壁を越え、椅子に触れられてこっちの空間に持ってこれたし」
「それでも、こっち側に来たら地面にくっついて動かせなくなった。取り出しても、また何かの法則が発動するんだよ」
「今はまだ答えを出すには早いと思う。この商店街から抜け出したら、また何かが変わるんじゃないかな。この調子だと空間は広がり続けているから、また少し様子をみよう」
澤田君は私を励まそうと笑顔を絶やさなかった。私もその笑顔にならってポジティブに考えてみた。
「椅子を取り出した時さ、猫が先にそこに座ってたよね。もしかしたら、猫が触れたものやその周りにあるものが取り出せるのかも」
「うん、そういう考えもできるよね。あの時、違う空間から何かを取り出したって気分だった」
ちょうどこの空間に沿って、お菓子やさんと果物やさんが向かい合っていた。店先にお菓子や果物が今日の特売品みたいに置かれている。そこに猫が来てくれれば取り出せるのかもしれない。
「お腹すいたね」
つい口から漏れてしまった。
「そうだね」
澤田君も自分のお腹に触れて、頼りなく笑っていた。
結局何も見つけられなかった私たちは、がっくりと肩を落としてしまった。澤田君も申し訳なさそうに、私の様子を気にしていた。
暫く口数少なくなってしまうと、私たちの間にしらっとした空気が流れていくのが見えてしまった。このままではまた悪い方向にいくんじゃないだろうか。不安になると物事はいつも悪い方向にしか考えられなくなっていく。せめてこの流れを変えたい。私から行動してみよう。
「ねぇ、澤田君」
「どうしたの?」
ここまではいい。話すきっかけになった。しかし、ここからどう話題を振ろうか。なんでもいい。歌でも歌おうか。こういうときに楽しく盛り上げられる話題と言えばと思った時、ぱっと閃いた。
「あのさ、しりとりしようよ」
「しりとり?」
「そう、ずっと黙ってたらさ元気なくなりそうだから、何かして気を紛らわそうと思って。そういう時って、しりとりがいいでしょ」
「そうだよね。こういうときこそ楽しむ。それいいかもしれない。やってみよう」
「じゃあさ、普通にしてたら面白くないから、白いもの限定のルールでチャレンジしてみない?」
「白いものの名前しかだめなの?」
「そう。じゃあ、私からいくよ。とうふ」
こういうのは先手で攻めるのがいい。
「ふ、ふ……ふがつくもので白いもの」
澤田君はじっくりと考えていた。
「あっ、ふと……んっ?」
ふとんと言いかけた澤田君は最後で息をつまらせ、慌ててつけたす。
「……の綿!」
「ふとんの綿。おお、そう来たか。危なかったね」
私がからかうと、澤田君はセーフといいたげに息を吐いていた。
「次は『た』だね。た、た」と『た』を繰り返す。白いもの限定は結構難しい。だからこそやりがいがある。「た、タイのほね」
「鯛の骨? なるほど、確かに骨は白い。やるね」
「フフフ。次は『ね』だよ」
得意になりながら、澤田君を煽る。
「ね、ね……」
「どう、降参かな」
「まだ始まったばかりで降参はちょっと。うーん、ね、ね、あっ! ねんがじょう」
澤田君はちょっとテンション高く口にした。
「なるほど年賀状か。確かに白い。次は『う』だね。う、う」
単純に『うし』を連想するけど白黒だし、あっ、閃いた。
「うしのちち!」
「牛の乳。すなわち牛乳か。それも確かに白い。よし、次は、ち、ち、ち……」
澤田君は悩んでいた。『ち』から始まる白いものを一生懸命想像し「うーん」とうなっている。
「どうやらこれで勝負は決まりそうね」
「いや、そうはさせないぞ。ち、ち、ち、あっ、ちぎれ雲! どうだ」
「おお、やるではないか、澤田君。しかもまさに白い」
「へへへ。じゃあ次、『も』だよ」
なんかむきになってくる。これは負けられない。
「も、も、も……、あっ、もち!」
「えっ、また『ち』か。ち、ち、ち」
さっきはちぎれ雲なんて綺麗にまとめてくれたけど、連続しての『ち』はさすがに難しいだろう。
「あっ、ちり紙」
澤田君はあっさりと返してきた。
「ちり紙の『み』だね。み、み、ミルク!」
さっきの牛の乳と被ってしまうけど、文字は違うからセーフだ。
「ミルク。うまいこところついて来るな。次は、『く』だね、く、く……あっ、これは簡単だ。クリーム」
「ミルクからのクリームか、これは連想もあって、すぐに浮かびやすい。不覚だった」
「さあ、次は『ム』だよ。思い浮かぶかな」
澤田君はすっかりのってきて、いたずらっぽく笑っていた。よし、その挑戦受けてたとうではないか。
『次は、「む」だね。む、む、む、む……」
『む』から始まる言葉ってなかなか難しい。白いもので『む』から始まるもの。私はうーんと考え込んだ。
「もしかして、僕の勝ちかな」
澤田君が煽ってくる。なんかちょっとイラっとした。やだ、負けたくないぞ。
「む、む、む、あっ、あった。麦とろごはん!」
『む』から始まる白いものを想像して、やったと思って口にしたら、最後『ん』と言ってしまった。「あっ」と気がついたときには澤田君が指を差して指摘した。
「ああ、『ん』がついた」
「ちょっと待って、その麦とろご飯のご飯はなしで」
「ダメ、言い切っちゃったから、取り消し不可能」
「でも澤田君だって、フトンって言ったけど、慌ててつけたしたのを見逃してあげたんだよ」
「あれは、すぐにふとんの綿って続けたからセーフ。それに栗原さんは何も文句言わなかったよ。これは言い切っちゃったから取り消し不可能」
「そんなのずるい、ずるい」
私は悔しくて澤田君につっかかろうと迫ると、澤田君はひらりと身をかわすから、つい追いかける羽目になった。
「なんで逃げるのよ」
「だって、殴りかかりそうにみえたから」
「私がそんなことするわけないでしょ」
それでも澤田君は私から逃げる。私は意地になって追いかける。次第に追いかけっこみたいになってしまい、私たちは小学生のように遊んでしまった。きゃっきゃと騒いでいる澤田君がかわいい。
その時、「あっ」と澤田君が叫んだ。
「どうしたの?」
「また壁が消えたんじゃないかな?」
「えっ、うそ」
夢中で追いかけっこしていたから、自分たちが先ほどよりも見えない壁の向こう側に足を踏み入れていたことに気がつかなかった。
ふたりで手を前に出して真っ直ぐ歩けば、確かに空間が広がっていた。
私は澤田君と顔を合わせて、そしてにんまりと笑った。ある仮説が浮かんだ。
「これってさ、私たちがこの閉鎖された空間で楽しく過ごせば広がるんじゃないのかな」
「最初の空間が広がった時は、僕はドキドキとして楽しかったのは確かだと思う」
「ほら、そうでしょ。私も澤田君とデートしたいって思ったとき、そんな事自分の口から言ったのも初めてだから、私もドキドキだった。本当にそうなったら楽しいだろうなって、強く願ってた」
そう感じると、気持ちが高ぶってきて、ふたりして微笑みあった。
「そうだよね。椅子に座って話をしていた時も、きっとその延長でふたりで話すのが楽しかったってことだね」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、あともう少しで、この商店街全体に空間が広がるね」
「商店街の空間が全部広がったら、もしかしたらパンってはじけて元の世界に戻れるかも」
共通点が明らかになると、私たちは希望に満ちてきた。
「残りは、ふたりでどうやって楽しむ?」
澤田君とふたりで楽しむって、なんかその言葉にまたドキドキしてしまう。このドキドキだけで空間が広がっているのではないだろうか。この展開にすごく期待してしまう。
「そうだね。それじゃ楽しい話をしようよ」
「どんなこと話せばいいんだろう」
「じゃあ、澤田君が今までで楽しかったこと話してみて」
「今までで楽しかったことか」
澤田君は見えない壁にもたれながら、思い出そうと天井を仰いだ。
「そうだな。今思うととても楽しかったことになるのかな。僕の親友、哲っていうんだけど、すごいいい奴なんだ。僕のために色々と世話を焼いてくれて、哲と一緒にいると楽しかったな」
「ふたりでどんなことしたの?」
「それがさ、哲のお父さんが会社の社長でね、それで中学生の時にその会社のパーティに僕は誘われて哲と参加したんだ。それがすごい世界でさ……」
とりとめもなく、澤田君はそのパーティについて話してくれた。豪華な食べ物、色々な飲み物、カラフルなデザート、社会で活躍する見るからにすごそうなゲ ストたちなど、異次元に来たみたいだったらしい。私のイメージとしては、おとぎ話にでてくるような貴族の集まりの世界をイメージしてしまう。
「まるでシンデレラでも登場しそうな舞踏会に思えちゃう」
「ははは、そこまではいかないけど、なんていうのかきちっと正装した社交界だったな」
「あっ、そういうのってさ、急に誰かがワインを飲んで倒れて、それで周りが悲鳴をあげてさ、事件が起こったりする舞台になりやすいよね」
「そしたら、僕が名探偵役となって事件解決って……ないない」
私の話に合わせてくれる澤田君。でも探偵役も澤田君なら十分似合うと思う。
「それで、そのパーティで何が起こったの?」
「特に何が起こったってことじゃないんだけど、友達の哲のコミュニケーション力が高くて、大人顔負けにいろんな人と話すんだ。ぼくなんてその場にいるだけでも恐縮だったから、雰囲気にのまれて話すことなんてできなかった」
おどおどしている澤田君が目に浮かぶ。
「でも楽しかったんでしょ」
「うん。哲が色々と教えてくれたからね。それが僕にとってすごいためになったと思う」
「例えば何が?」
その時、澤田君はもたれていた壁から離れてまっすぐ立って私をじっと見つめた。
「何、なんか私変な事いった?」
見つめられると意識して、自分の視線があちこちいってしまう。
「栗原さんの髪の毛、つややかでとてもきれいですね」
「えっ、どうしたの、急に」
面と向かって褒められると、恥ずかしくなる。
「瞳も、虹彩が琥珀のようでとても美しい」
「ちょ、ちょっと」
「そのピンクのパーカーがとても栗原さんに似合っていて、すごくかわいい」
ここまで褒められると、体の中の何かに火がともったように温かくなって気持ちよくなってくる。
「やだ、そんなこと、もう、やめてよ」と口ではいいつつ、顔は綻んでしまった。
その私の様子を見て、澤田君は目を細めて笑っていた。
「と、こんな風に、その人のいいところを見つけてちゃんと伝えるってことを哲は教えてくれたんだ」
「えっ? もしかしてそれってお世辞?」
最初から本気にはしてなかったけど、あそこまで言われたら、お世辞だったとしても強く抗えない感情が芽生えてしまった。
「ううん、僕が今言った事はお世辞じゃない。僕が本当にそう思ったこと」
真顔で言われると、余計に照れてしまう。自分だけこんな感情でモジモジと恥ずかしくなるのは不公平だ。
「澤田君もさ、真面目で優しくて、背も高いし、すごくいけてると思う」
ええい、お返しだ。
「そ、そうかな。でもすごく嬉しい。ありがとう」
「そんな、お礼言われるほどのことじゃ。だって本当に澤田君って素敵な人だと思う」
つい目を逸らしてしまったのは、私は澤田君を好きになりかけてるからだ。恥ずかしい。
澤田君も照れている。「へへへ」と笑って後ろの見えない壁に背中をもたせ掛けた。その時だった。澤田君は「うわぁ」と慌てふためく。必要以上に後ろに倒れかけた。
「澤田君!」
咄嗟に私は澤田君に手を伸ばし、ジャケットを掴む。澤田君も私に頼ろうと手を伸ばして私の手を取った。
「ああ!」と澤田君。
「きゃー」と私。
私たちは引力に逆らえず重なって倒れてしまう。どさっと床に二人して転がった。
「あたたた」と澤田君。
「うっ」と私。
「大丈夫かい、栗原さん」
「うん、なんとか」
気がつけば、私は澤田君の胸の中でしっかりと腕に抱かれていた。
「きゃー」と再び私。
「うぉ!」と澤田君。
私は手をバタバタしながら、離れようと慌てて横に這《は》い蹲《つくば》る。澤田君は顔を赤らめて焦りながら上半身をむくりと起こした。
「ごめん、栗原さん。怪我しなかった?」
「だ、大丈夫。澤田君も怪我してない?」
「ちょっと体を打ちつけただけ。大丈夫だから」
突然のハプニングに私は息が荒くなっていた。澤田君もちょっと動揺している。
抱き合ってしまったことに恥ずかしさを感じながら、お互い気になって目を合わせた時だった。なぜこうなってしまったか考えたら、突然「あっ!」と同時に叫んだ。
「また壁がなくなったんだ」
澤田君は立ち上がり、見えない壁を確認しながらスタスタと先へ進んだ。
「また空間が広がったんだ」
私もこの状況がとてもいい方向に進んでいると実感してうれしくなってくる。
「栗原さん!」
突然先へ進んでいた澤田君が叫んだ。
「どうしたの、澤田君」
私は立ち上がり、澤田君の方を見た。そして目を見開く。
「あっ、うそ、そこまで壁が移動しているの?」
すぐさま澤田君のもとへと駆け寄った。
そこは商店街の一番端っこ。向かいの通りはすぐそこだ。
猫を見つけて興奮した私たちは、まっしぐらに走り出した。こんなに勢いつけて走って近づいたら、猫はびっくりしてしまうのではないだろうかと思ったとき、私は澤田君を追い越していた。
澤田君の走り方は右足を庇うようにしてガタガタとバランスが悪い。そういえば、ずっとひょっこひょこしてたような気がする。
気をとられて走っていたら、バンと思いっきり壁にぶつかってしまった。見えない壁の存在をすっかり忘れていた。
「ああ、痛い」
トムとジェリーの追いかけっこの果てのトムになったように、体が平らになってつるっと壁に沿って流れていくような気分だった。
「栗原さん、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。鼻を強く打った」
その見えない壁の向こうで猫が気にもかけずに毛づくろいをしていた。涙目でそれを見ていたせいで、やっぱり猫の色がはっきり判別できない。
「でもさ、壁はここまで広がっていたんだね。後もう少し広がってたら、猫に届きそうな気がする。あの猫、こっちに来ないかな」
澤田君は空間が広がるスイッチを探すみたいに、ペタペタと辺りを触れた。時々コンコンと強く音を立てて猫の気を引こうとするけど、猫は気がつかないのか、私たちの方を振り向きもしなかった。その内毛づくろいが終わると、猫は立ち上がってきままに歩く。
「猫! ネッコ! ヌコォォォ!」
私は壁を叩きながら必死に声を張り上げたが、素知らぬ顔で去っていく。やがて店の前に置かれていたごちゃごちゃした立て看板にまぎれて消えていった。
その後、また姿を見せるのかじっと看板を睨んでたけど、猫はその裏に居るのか、それとも消えたのか分からず仕舞いだった。
見えない壁に張り付いていたとき、商店街の出入り口が随分近づいていることに気がついた。
先は大通りが横切って車が行き来しているはずだ。だけどまるで暗いトンネルから外の明るさが眩く白く光っているように見えるだけで、外の様子がわからない。
でもあそこまで行けば何かが分かりそうな気がして、先が見えないのがもどかしい。この空間が端から端まで全部繋がれば猫も捕まえられるんじゃないだろうか。
「この調子で行けば、いつか商店街の出口まで空間が広がるんだろうか。そこまで広がれば、猫はこっち側の空間にも入ってくるのかな」
私は遠い目で出入り口を見ながら呟いた。
「可能性はあるかもしれないね。こっちの空間に猫が一度入ったとき、姿は見えなくても足元で鳴き声が聞こえたから、猫はもう少しで僕たちと同じ空間に姿を現せたのかも」
「じゃあ、その時、空間のけもの道でも通ってたのかな?」
思いつきで上手く表現したつもりだったけど、自分で言っておいてあまりぱっとしなかった。
「僕も分からないけど、元の世界と僕たちがいる空間って紙一重の何かの違いでこうなっているのかもって思うんだ。お好み屋の匂いも微かに感じたし、現実の世界とはそんなに離れてないんだよ。この世界は現実をコピーしたもので、そこに僕たちだけが入り込んだ」
「現実をコピー?」
「ほら、僕たちが存在する現実のオリジナルがあって、それをどこかにバックアップしたようなものじゃないかな。時空のずれみたいな。それともバグかな?」
澤田君はもしかしたらコンピューターかゲーム関係に詳しいのかもしれない。でも私にはさっぱりだ。
「よくわからないけど、そうであったとしてもオリジナルの元の世界に帰るにはどうすればいいの?」
それが分かれば苦労はしないんだけど、この世界がああだ、こうだと知るよりも、私は手っ取り早く元の世界に戻りたい。
「うーん。ずっとどうすればいいのか僕も考えているけど、やっぱりこの世界の仕組みを知らないと、答えが見つからないような気がする。もう少し、調べてみよう」
澤田君は見えない壁を伝って端から端へと移動する。少しでも変化がないか、地道に探っていた。そういう手間を省いて、すぐ結論を求めてしてしまう私とは大違いだ。澤田君に任せて自分が何もしないわけにもいかない。出来る範囲で辺りを見回した。
今回広がった部分にはチェーン店の百円ショップが入っていて、個人経営の店よりも店舗が大きい。向かいも同じような大きさの名の知れたドラッグストアが入っていた。どちらも大きな店だから、その大きさに沿って空間が随分と拡張されていた。
「だけど、いつの間にこんなに広がっていたんだろう」
まだ少し痛む鼻を手で軽くさすりながら私は訊いた。
「僕たちが座って話しているときに、偶然拡張できる正解に触れたとかかな」
この空間が広がる法則は正確に分かりようがないが、憶測として澤田君の純粋な心、または私たちの行動が影響しているのは確かかもしれない。澤田君とデートをしたいと私が言って、澤田君はそれに照れて恥ずかしがって、そして壁が消滅したのは事実だ。
でもこうだと決め付けて繰り返すも、二度は成功したかのように見えたけど、三度目になると法則は発動しなかった。折角分かりかけてきたと思ったのにやりすぎると躓《つまづ》いた。微妙なところで何かが変化したのかもしれない。
何か変わった事がなかったか自分なりに振り返る。
椅子に座っていた時、何を話していただろうか。その時もデートの行き先について話して、色々と話が脱線していた。最後はどこに行くかで行き先は決まったけど、やはりデートの話になると空間が広がるのだろうか。
澤田君を見れば一生懸命何かを探そうと見えない壁と奮闘していた。考え事をしているときの澤田君の目は真剣で顔つきもふと大人っぽくなっている。こういう面を見ると、胸がキュンとしてしまう。
そんな気持ちが芽生えたのも、澤田君と一緒に長く居れば居るほど、心をすでに許して仲良くなっているということだ。
近くに居るとちょっとしたドキドキもしてくるし、私たちの心が通じ合うことはやはりこの空間を左右しているのかもと思ってしまう。
でもなんのためにこんな事が起こっているのだろう。そこに意味なんてあるんだろうか。
私はずっと先の方向を見つめた。向こう側にも出入り口があり、白く光っていた。
「ねぇ、澤田君」
私が呼びかけると澤田君が振り返った。私は澤田君の顔を見つめる。目が合うと相変わらず優しく微笑みを返してくれた。
「どうしたの?」
「それじゃさ、ふと思ったんだけど、あっちも同じように広がってるってことかな」
今までのところ、この商店街の真ん中から両端へと、店舗を区切りとして徐々に広がっていくのは確かめた。
「じゃあ、確かめてこようか」
澤田君がもう一方の端へと歩きかけた時、私は止めた。
「別に確かめなくてもいいよ。多分そうなんだよ。それに、広がっていたところで、この空間から抜け出せないんだから、確かめても無駄だよ」
私はこの絶望的な状況に慣れてしまって、そういうものだと決め付ける。
「わからないよ。もしかしたらそこに新たな発見があるかもしれないし、何事も自分で調べて納得しなくっちゃ。放っておいたら、そこからは進めないんじゃないかな」
「澤田君はポジティブだから」
「僕がポジティブだからという意味じゃないんだ。何もしないことがいやなんだ」
「えっ?」
「何もしなかったら、そこで終わってしまう。それって、変化を望まないってことじゃないか。無理だから、ダメだから、そんな気持ちに邪魔されて、僕はいつ も動けなかった。まずは自分のそういう気持ちを変えたいんだ。例え、そこに何もなかったとしても、それを確かめることは決して無駄なことではないと思う」
言い切った後、私を見てハッとし恥ずかしがっていた。
それは澤田君の真面目な部分なんだと思う。すごいとは思うんだけど、面と向かってどう反応していいかわからないのが私だった。投げやりな自分が少し恥ずかしい。
「ご、ごめん。別に栗原さんを責めたわけじゃないんだよ」
「そんなの分かってるって。ただ、圧倒された」
「僕、過去に色んなことで後悔してるから、つい、力入っちゃって」
「わかった。じゃあ、見に行ってみよう」
「でも、何もなかったらごめんね」
「なんで、そこで弱気になってんの」
芯はしっかりしているのに、最後でなよっとしてしまう澤田君。でも向こう側へと、張り切って前を歩き、私はその後をついていく。
まだ少年であどけない部分が目立つけど、その後姿は精悍《せいかん》だ。
私は振り返り、先ほどの猫がどうなったか確認する。今のところ、その姿は見えずじまいだった。そのうちまた出てくるのかもしれない。今はそれを信じるしかない。
澤田君の後を追いかけ、私は横に並んだ。まじまじ見れば肩の位置が結構高いことに気がついた。
「改めてみると、澤田君、背が高いよね。身長どれくらいあるの?」
「178cm」
「もうすぐ180cm越えるかもね」
「これ以上伸びたら面倒くさいな」
「背が高いって面倒くさいものなの?」
「あっ、いや、この間も伸びたところなんだ。だから急激に身長ってあまり伸びて欲しくないなって」
「私としては、体重は急激に増えてほしくないな」
私の返しに澤田君はクスッと笑ってくれた。
そんな他愛のない会話をしながら壁に気をつけて歩けるところまで歩く。やはりこちらも空間は広がっていた。
念のため、何かの変化がないか澤田君は念入りに見えない壁を確認していた。
「このまま空間が広がったら、両端の商店街を抜けた先に出られるんだろうか」
もう一方の商店街の先の向こうを見つめながら、私は訊いた。
「どうなるんだろうね。この商店街を中心としてずっとずっと徐々に広がれば、この街全体にまで大きくなって、そのうち地球全体規模に見えない壁などなくなるのかも」
「もしかしてどこにも壁がなくなった時に、元の世界に戻れるとか?」
「そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
「そうだったとしたら、気の遠くなるような時間がかかるんじゃない? でもさ、この商店街の中で起こっているように、空間は広がっても建物の中に入れないし、この世界のものにも触れられないし、どうやって生きていくための必要なものを手に入れるの?」
「全く触れられないこともないかもしれない。現に僕は見えない壁を越え、椅子に触れられてこっちの空間に持ってこれたし」
「それでも、こっち側に来たら地面にくっついて動かせなくなった。取り出しても、また何かの法則が発動するんだよ」
「今はまだ答えを出すには早いと思う。この商店街から抜け出したら、また何かが変わるんじゃないかな。この調子だと空間は広がり続けているから、また少し様子をみよう」
澤田君は私を励まそうと笑顔を絶やさなかった。私もその笑顔にならってポジティブに考えてみた。
「椅子を取り出した時さ、猫が先にそこに座ってたよね。もしかしたら、猫が触れたものやその周りにあるものが取り出せるのかも」
「うん、そういう考えもできるよね。あの時、違う空間から何かを取り出したって気分だった」
ちょうどこの空間に沿って、お菓子やさんと果物やさんが向かい合っていた。店先にお菓子や果物が今日の特売品みたいに置かれている。そこに猫が来てくれれば取り出せるのかもしれない。
「お腹すいたね」
つい口から漏れてしまった。
「そうだね」
澤田君も自分のお腹に触れて、頼りなく笑っていた。
結局何も見つけられなかった私たちは、がっくりと肩を落としてしまった。澤田君も申し訳なさそうに、私の様子を気にしていた。
暫く口数少なくなってしまうと、私たちの間にしらっとした空気が流れていくのが見えてしまった。このままではまた悪い方向にいくんじゃないだろうか。不安になると物事はいつも悪い方向にしか考えられなくなっていく。せめてこの流れを変えたい。私から行動してみよう。
「ねぇ、澤田君」
「どうしたの?」
ここまではいい。話すきっかけになった。しかし、ここからどう話題を振ろうか。なんでもいい。歌でも歌おうか。こういうときに楽しく盛り上げられる話題と言えばと思った時、ぱっと閃いた。
「あのさ、しりとりしようよ」
「しりとり?」
「そう、ずっと黙ってたらさ元気なくなりそうだから、何かして気を紛らわそうと思って。そういう時って、しりとりがいいでしょ」
「そうだよね。こういうときこそ楽しむ。それいいかもしれない。やってみよう」
「じゃあさ、普通にしてたら面白くないから、白いもの限定のルールでチャレンジしてみない?」
「白いものの名前しかだめなの?」
「そう。じゃあ、私からいくよ。とうふ」
こういうのは先手で攻めるのがいい。
「ふ、ふ……ふがつくもので白いもの」
澤田君はじっくりと考えていた。
「あっ、ふと……んっ?」
ふとんと言いかけた澤田君は最後で息をつまらせ、慌ててつけたす。
「……の綿!」
「ふとんの綿。おお、そう来たか。危なかったね」
私がからかうと、澤田君はセーフといいたげに息を吐いていた。
「次は『た』だね。た、た」と『た』を繰り返す。白いもの限定は結構難しい。だからこそやりがいがある。「た、タイのほね」
「鯛の骨? なるほど、確かに骨は白い。やるね」
「フフフ。次は『ね』だよ」
得意になりながら、澤田君を煽る。
「ね、ね……」
「どう、降参かな」
「まだ始まったばかりで降参はちょっと。うーん、ね、ね、あっ! ねんがじょう」
澤田君はちょっとテンション高く口にした。
「なるほど年賀状か。確かに白い。次は『う』だね。う、う」
単純に『うし』を連想するけど白黒だし、あっ、閃いた。
「うしのちち!」
「牛の乳。すなわち牛乳か。それも確かに白い。よし、次は、ち、ち、ち……」
澤田君は悩んでいた。『ち』から始まる白いものを一生懸命想像し「うーん」とうなっている。
「どうやらこれで勝負は決まりそうね」
「いや、そうはさせないぞ。ち、ち、ち、あっ、ちぎれ雲! どうだ」
「おお、やるではないか、澤田君。しかもまさに白い」
「へへへ。じゃあ次、『も』だよ」
なんかむきになってくる。これは負けられない。
「も、も、も……、あっ、もち!」
「えっ、また『ち』か。ち、ち、ち」
さっきはちぎれ雲なんて綺麗にまとめてくれたけど、連続しての『ち』はさすがに難しいだろう。
「あっ、ちり紙」
澤田君はあっさりと返してきた。
「ちり紙の『み』だね。み、み、ミルク!」
さっきの牛の乳と被ってしまうけど、文字は違うからセーフだ。
「ミルク。うまいこところついて来るな。次は、『く』だね、く、く……あっ、これは簡単だ。クリーム」
「ミルクからのクリームか、これは連想もあって、すぐに浮かびやすい。不覚だった」
「さあ、次は『ム』だよ。思い浮かぶかな」
澤田君はすっかりのってきて、いたずらっぽく笑っていた。よし、その挑戦受けてたとうではないか。
『次は、「む」だね。む、む、む、む……」
『む』から始まる言葉ってなかなか難しい。白いもので『む』から始まるもの。私はうーんと考え込んだ。
「もしかして、僕の勝ちかな」
澤田君が煽ってくる。なんかちょっとイラっとした。やだ、負けたくないぞ。
「む、む、む、あっ、あった。麦とろごはん!」
『む』から始まる白いものを想像して、やったと思って口にしたら、最後『ん』と言ってしまった。「あっ」と気がついたときには澤田君が指を差して指摘した。
「ああ、『ん』がついた」
「ちょっと待って、その麦とろご飯のご飯はなしで」
「ダメ、言い切っちゃったから、取り消し不可能」
「でも澤田君だって、フトンって言ったけど、慌ててつけたしたのを見逃してあげたんだよ」
「あれは、すぐにふとんの綿って続けたからセーフ。それに栗原さんは何も文句言わなかったよ。これは言い切っちゃったから取り消し不可能」
「そんなのずるい、ずるい」
私は悔しくて澤田君につっかかろうと迫ると、澤田君はひらりと身をかわすから、つい追いかける羽目になった。
「なんで逃げるのよ」
「だって、殴りかかりそうにみえたから」
「私がそんなことするわけないでしょ」
それでも澤田君は私から逃げる。私は意地になって追いかける。次第に追いかけっこみたいになってしまい、私たちは小学生のように遊んでしまった。きゃっきゃと騒いでいる澤田君がかわいい。
その時、「あっ」と澤田君が叫んだ。
「どうしたの?」
「また壁が消えたんじゃないかな?」
「えっ、うそ」
夢中で追いかけっこしていたから、自分たちが先ほどよりも見えない壁の向こう側に足を踏み入れていたことに気がつかなかった。
ふたりで手を前に出して真っ直ぐ歩けば、確かに空間が広がっていた。
私は澤田君と顔を合わせて、そしてにんまりと笑った。ある仮説が浮かんだ。
「これってさ、私たちがこの閉鎖された空間で楽しく過ごせば広がるんじゃないのかな」
「最初の空間が広がった時は、僕はドキドキとして楽しかったのは確かだと思う」
「ほら、そうでしょ。私も澤田君とデートしたいって思ったとき、そんな事自分の口から言ったのも初めてだから、私もドキドキだった。本当にそうなったら楽しいだろうなって、強く願ってた」
そう感じると、気持ちが高ぶってきて、ふたりして微笑みあった。
「そうだよね。椅子に座って話をしていた時も、きっとその延長でふたりで話すのが楽しかったってことだね」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、あともう少しで、この商店街全体に空間が広がるね」
「商店街の空間が全部広がったら、もしかしたらパンってはじけて元の世界に戻れるかも」
共通点が明らかになると、私たちは希望に満ちてきた。
「残りは、ふたりでどうやって楽しむ?」
澤田君とふたりで楽しむって、なんかその言葉にまたドキドキしてしまう。このドキドキだけで空間が広がっているのではないだろうか。この展開にすごく期待してしまう。
「そうだね。それじゃ楽しい話をしようよ」
「どんなこと話せばいいんだろう」
「じゃあ、澤田君が今までで楽しかったこと話してみて」
「今までで楽しかったことか」
澤田君は見えない壁にもたれながら、思い出そうと天井を仰いだ。
「そうだな。今思うととても楽しかったことになるのかな。僕の親友、哲っていうんだけど、すごいいい奴なんだ。僕のために色々と世話を焼いてくれて、哲と一緒にいると楽しかったな」
「ふたりでどんなことしたの?」
「それがさ、哲のお父さんが会社の社長でね、それで中学生の時にその会社のパーティに僕は誘われて哲と参加したんだ。それがすごい世界でさ……」
とりとめもなく、澤田君はそのパーティについて話してくれた。豪華な食べ物、色々な飲み物、カラフルなデザート、社会で活躍する見るからにすごそうなゲ ストたちなど、異次元に来たみたいだったらしい。私のイメージとしては、おとぎ話にでてくるような貴族の集まりの世界をイメージしてしまう。
「まるでシンデレラでも登場しそうな舞踏会に思えちゃう」
「ははは、そこまではいかないけど、なんていうのかきちっと正装した社交界だったな」
「あっ、そういうのってさ、急に誰かがワインを飲んで倒れて、それで周りが悲鳴をあげてさ、事件が起こったりする舞台になりやすいよね」
「そしたら、僕が名探偵役となって事件解決って……ないない」
私の話に合わせてくれる澤田君。でも探偵役も澤田君なら十分似合うと思う。
「それで、そのパーティで何が起こったの?」
「特に何が起こったってことじゃないんだけど、友達の哲のコミュニケーション力が高くて、大人顔負けにいろんな人と話すんだ。ぼくなんてその場にいるだけでも恐縮だったから、雰囲気にのまれて話すことなんてできなかった」
おどおどしている澤田君が目に浮かぶ。
「でも楽しかったんでしょ」
「うん。哲が色々と教えてくれたからね。それが僕にとってすごいためになったと思う」
「例えば何が?」
その時、澤田君はもたれていた壁から離れてまっすぐ立って私をじっと見つめた。
「何、なんか私変な事いった?」
見つめられると意識して、自分の視線があちこちいってしまう。
「栗原さんの髪の毛、つややかでとてもきれいですね」
「えっ、どうしたの、急に」
面と向かって褒められると、恥ずかしくなる。
「瞳も、虹彩が琥珀のようでとても美しい」
「ちょ、ちょっと」
「そのピンクのパーカーがとても栗原さんに似合っていて、すごくかわいい」
ここまで褒められると、体の中の何かに火がともったように温かくなって気持ちよくなってくる。
「やだ、そんなこと、もう、やめてよ」と口ではいいつつ、顔は綻んでしまった。
その私の様子を見て、澤田君は目を細めて笑っていた。
「と、こんな風に、その人のいいところを見つけてちゃんと伝えるってことを哲は教えてくれたんだ」
「えっ? もしかしてそれってお世辞?」
最初から本気にはしてなかったけど、あそこまで言われたら、お世辞だったとしても強く抗えない感情が芽生えてしまった。
「ううん、僕が今言った事はお世辞じゃない。僕が本当にそう思ったこと」
真顔で言われると、余計に照れてしまう。自分だけこんな感情でモジモジと恥ずかしくなるのは不公平だ。
「澤田君もさ、真面目で優しくて、背も高いし、すごくいけてると思う」
ええい、お返しだ。
「そ、そうかな。でもすごく嬉しい。ありがとう」
「そんな、お礼言われるほどのことじゃ。だって本当に澤田君って素敵な人だと思う」
つい目を逸らしてしまったのは、私は澤田君を好きになりかけてるからだ。恥ずかしい。
澤田君も照れている。「へへへ」と笑って後ろの見えない壁に背中をもたせ掛けた。その時だった。澤田君は「うわぁ」と慌てふためく。必要以上に後ろに倒れかけた。
「澤田君!」
咄嗟に私は澤田君に手を伸ばし、ジャケットを掴む。澤田君も私に頼ろうと手を伸ばして私の手を取った。
「ああ!」と澤田君。
「きゃー」と私。
私たちは引力に逆らえず重なって倒れてしまう。どさっと床に二人して転がった。
「あたたた」と澤田君。
「うっ」と私。
「大丈夫かい、栗原さん」
「うん、なんとか」
気がつけば、私は澤田君の胸の中でしっかりと腕に抱かれていた。
「きゃー」と再び私。
「うぉ!」と澤田君。
私は手をバタバタしながら、離れようと慌てて横に這《は》い蹲《つくば》る。澤田君は顔を赤らめて焦りながら上半身をむくりと起こした。
「ごめん、栗原さん。怪我しなかった?」
「だ、大丈夫。澤田君も怪我してない?」
「ちょっと体を打ちつけただけ。大丈夫だから」
突然のハプニングに私は息が荒くなっていた。澤田君もちょっと動揺している。
抱き合ってしまったことに恥ずかしさを感じながら、お互い気になって目を合わせた時だった。なぜこうなってしまったか考えたら、突然「あっ!」と同時に叫んだ。
「また壁がなくなったんだ」
澤田君は立ち上がり、見えない壁を確認しながらスタスタと先へ進んだ。
「また空間が広がったんだ」
私もこの状況がとてもいい方向に進んでいると実感してうれしくなってくる。
「栗原さん!」
突然先へ進んでいた澤田君が叫んだ。
「どうしたの、澤田君」
私は立ち上がり、澤田君の方を見た。そして目を見開く。
「あっ、うそ、そこまで壁が移動しているの?」
すぐさま澤田君のもとへと駆け寄った。
そこは商店街の一番端っこ。向かいの通りはすぐそこだ。