◇
賑わう囃子の音、高らかに響く射的の音、鉄板を叩く屋台の音。
『――会場内の皆様にご案内です。間もなく第一広場にて盆踊り大会の受付が始まります。参加を希望される方は……』
「お兄さん、これ一つどお⁉ 今ならおまけでこっちもつけちゃうよ!」
天に響くアナウンスの声、羽振りのいい的屋の声。
「キャハハ、このお面ちょーウケるー」
「おかーさん、まって〜」
「そこ、立ち止まらないでください! その先は一方通行ですよ!」
喧騒、駆け回る子どもの足音、誘導する警察官の声、どこからともなく聞こえてくるパトカーや救急車の音――。
鼓膜を掠めていく雑多な音が、どこか遠い世界の出来事のようだと感じながら、しばらくの間、私はそこに一人でポツンと立っていた。
湿った風が肌に触れ、雨を予感する。
緞帳を下ろしたように赤黒く染まる空を見上げて妙に落ち着かない気持ちになったその時、持っていた陽菜の巾着袋が着信音を発した。
(どうしよう。陽菜のだ)
巾着袋の中にある陽菜の携帯電話が鳴っているのだろう。扱いに困っているうちに一度目のコール音が鳴り止み、すぐにまた二度目のコール音が鳴り始めた。
彼氏からかもしれないし、二回もかけてきたってことは急いでいるかそれなりの用事があるのかもしれない。届けた方が良いだろうと判断し、雑貨屋に足を踏み入れながら鳴り止まない携帯電話を巾着袋の中から取り出す。
ふと画面に視線を落としたところで呼吸が一瞬止まった。
『着信中――光亮先輩』
見覚えのある顔画像に、はっきり表示された設楽先輩の下の名前。
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
(え、どういうこと)
間違いない。バスケ部の先輩たちと一緒に映っているその人は、バイト先の設楽先輩本人だ。
彼は元バスケ部で今夏の大会を終えて引退したばかりだった。受験勉強に専念しつつ、秋口までは息抜き程度にアルバイトのシフトを週一くらいで入れる予定だと言っていたっけ。
いや、今はそんなことどうでもよくて、陽菜の携帯に設楽先輩からの着信……それはつまり、『陽菜の彼氏』イコール『設楽先輩』ということ?
(いや、まだ彼氏と決まったわけじゃない。陽菜もバスケ部だから、たまたま何かバスケに関する連絡かもしれないし、それにそれに……)
混乱する頭で必死にその可能性を打ち消す。
そりゃもちろん先輩は格好良いしモテるだろうから彼女がいても不思議じゃない。でも、身勝手だけれどできれば相手は私の知らない人であって欲しかった。ううん、知ってる人でもいい、醜く嫉妬しないようせめて同じ屋根の下に暮らす人以外にして欲しかった。
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に完全に冷静さを欠く私。つんのめりながら雑貨屋のトイレのそばまで行くと、ちょうど陽菜が髪の毛のセットを終えて出てくるところだった。
「あれ、血相変えてどうしたの月乃」
「あ、いや。陽菜の電話が鳴ってて。その、『光亮先輩』って画面に……」
「え、貸して!」
ディスプレイを見せながら携帯を差し出すと、陽菜にひったくられた。
陽菜はいつもと違うワントーン高い声で着信に応じる。
『もしもし先輩、今どこですか〜⁇』『こっちは今、会場近くの雑貨屋で〜』『えっ。どういうことですか⁉』『ちょっとだけでもだめなんですか?』『そうなんですか……』
はらはらしながら電話する陽菜を見守る。
陽菜はニコニコ笑ったり、眉を顰めたり、くるくる表情を変えた後、最後はひどく不機嫌そうな顔で通話を終了した。
何かあったようだ。
「ありえないんだけど」
「え?」
こちらが口を開く前に、イラついた口調で突然そう吐き出す陽菜。
「どうしたの?」
「いや、なんかさ……約束してた人、今日来られないんだって」
言葉に詰まる。ドタキャンか、と状況を飲み込むより先に、約束していた人……つまりは、やはり陽菜の彼氏は設楽先輩だったのかというショックが全身を駆け抜けていく。
「そう……」
「しかも詳しい理由も教えてくれないし、急いでるからちょっと会うぐらいもダメだって。ついさっきまでちゃんと時間には来るって言ってたのに」
「……」
駄目だ、陽菜の言葉が全然頭に入ってこないし、返す言葉も出てこない。
でも――。
「なんなのもう! 今さら中止とかありえなくない⁉ こっちは楽しみにして色々準備してきたっていうのにさあ!」
「……っ」
「っていうか光亮先輩、なんだかんだ言って私のこと弄んでただけなのかも。本当は他に女がいて一緒に回る約束してたとか、会場内で可愛い子みつけてナンパが成功したからそっち優先したとか……ありえそー。顔面偏差値高い人はなにやっても顔で許されるとでも思ってんのかね。そんなんだったらマジ最低なんだけ――」
「設楽先輩はそんな人じゃないよ!」
「⁉」
急に声を張り上げた私を、陽菜が驚いたように目を丸くして見る。
余計な言葉は全く頭に入ってこなかったのに、設楽先輩を非難する言葉だけはどうしても聞き捨てならなくて、気がついたら大声で陽菜を咎めていた。
はっとして慌てて唇を引き結んだものの時すでに遅く、陽菜が怪訝そうな顔で尋ねてくる。
「え。月乃、光亮先輩のこと知ってるの?」
「三年の元バスケ部の設楽光亮先輩だよね。もちろん知ってるよ。バイト先が同じだから話したこともあるし」
「……」
隠す必要はないと思ってそう告げると、陽菜は若干面食らったような顔をした後、こちらをジロリと睨んできた。
「あー、そうなんだぁ……先輩、ずっと教えてくれなかったバイト先、月乃と同じコンビニだったのか。ふぅん、どうりで……」
「どうりで?」
「いや、こっちの話。それより珍しいじゃん。月乃がそんな必死になって反論してくるなんて」
歪に笑う陽菜。急に敵意がむき出しになった気がして、突き刺さる視線が痛い。
でも引くわけにもいかなかった。
「だって本当に設楽先輩はそんな人じゃないから。口数少ないから誤解されやすいみたいだけど、いつだって相手のこと思いやるような優しい人だし、きっと何かそれなりの事情があったから来られなくなっ……」
「え、なにその『私、先輩のことなんでも知ってます』みたいな口ぶり。バイト先が一緒ってだけでなに優越感浸って彼女めいたこと言ってんの」
「違っ! そんなつもりで言ったんじゃ……」
「どうだか。あ、そうか……もしかして月乃、あたしの光亮先輩狙ってたとか?」
「……っ」
「図星? うわ、サイアク。いるよねー、普段真面目ぶってるくせに男が絡むと急に目の色変えちゃう月乃みたいな女。やることやって孤立して、最終的に身内に迷惑かけてるあたり死んだ月華さんとやってること同じじゃん」
「……!」
月華――母の名前が聞こえた瞬間、頭にカッと血が昇った。
だんっと、持っていた陽菜の巾着袋を脇にあった棚に乱暴に置く。
陽菜がぎょっとしたような目をこちらに向けたが、もう止まらなかった。
「お母さんは関係ない!」
「じ、冗談じゃん。なにムキになって……」
「冗談でも言っていいことと悪いことあるよね。私だって別に迷惑かけたくてかけてるわけじゃないし、それに今日だって陽菜がどうしてもって言うから来ただけで、設楽先輩がいるってわかってたら来てなかった」
どうしよう、止まらない。
お母さんを侮辱されたことで、ずっと溜め込んできた思いが音を立てて弾けたみたいだった。
唖然とする陽菜に構わず、怒りに任せて声を張り上げる。
「いつだってそう。好き勝手相手振り回しておいて、どうしてそう人を傷つけるようなこと平気で言えるの? 私、陽菜のそういう無神経なところ……大っ嫌い!」
お母さんを馬鹿にしたこと。
設楽先輩を侮辱したこと。
その両方が、私にとっての起爆剤となった。
ふいに燻んだ空から雨がざあっと降ってくる。
感情のままに思いの丈をぶつけた私は、踵を返すと呆然として立ち尽くす陽菜を一切振り返ることなくその場から走り去った。
賑わう囃子の音、高らかに響く射的の音、鉄板を叩く屋台の音。
『――会場内の皆様にご案内です。間もなく第一広場にて盆踊り大会の受付が始まります。参加を希望される方は……』
「お兄さん、これ一つどお⁉ 今ならおまけでこっちもつけちゃうよ!」
天に響くアナウンスの声、羽振りのいい的屋の声。
「キャハハ、このお面ちょーウケるー」
「おかーさん、まって〜」
「そこ、立ち止まらないでください! その先は一方通行ですよ!」
喧騒、駆け回る子どもの足音、誘導する警察官の声、どこからともなく聞こえてくるパトカーや救急車の音――。
鼓膜を掠めていく雑多な音が、どこか遠い世界の出来事のようだと感じながら、しばらくの間、私はそこに一人でポツンと立っていた。
湿った風が肌に触れ、雨を予感する。
緞帳を下ろしたように赤黒く染まる空を見上げて妙に落ち着かない気持ちになったその時、持っていた陽菜の巾着袋が着信音を発した。
(どうしよう。陽菜のだ)
巾着袋の中にある陽菜の携帯電話が鳴っているのだろう。扱いに困っているうちに一度目のコール音が鳴り止み、すぐにまた二度目のコール音が鳴り始めた。
彼氏からかもしれないし、二回もかけてきたってことは急いでいるかそれなりの用事があるのかもしれない。届けた方が良いだろうと判断し、雑貨屋に足を踏み入れながら鳴り止まない携帯電話を巾着袋の中から取り出す。
ふと画面に視線を落としたところで呼吸が一瞬止まった。
『着信中――光亮先輩』
見覚えのある顔画像に、はっきり表示された設楽先輩の下の名前。
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
(え、どういうこと)
間違いない。バスケ部の先輩たちと一緒に映っているその人は、バイト先の設楽先輩本人だ。
彼は元バスケ部で今夏の大会を終えて引退したばかりだった。受験勉強に専念しつつ、秋口までは息抜き程度にアルバイトのシフトを週一くらいで入れる予定だと言っていたっけ。
いや、今はそんなことどうでもよくて、陽菜の携帯に設楽先輩からの着信……それはつまり、『陽菜の彼氏』イコール『設楽先輩』ということ?
(いや、まだ彼氏と決まったわけじゃない。陽菜もバスケ部だから、たまたま何かバスケに関する連絡かもしれないし、それにそれに……)
混乱する頭で必死にその可能性を打ち消す。
そりゃもちろん先輩は格好良いしモテるだろうから彼女がいても不思議じゃない。でも、身勝手だけれどできれば相手は私の知らない人であって欲しかった。ううん、知ってる人でもいい、醜く嫉妬しないようせめて同じ屋根の下に暮らす人以外にして欲しかった。
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に完全に冷静さを欠く私。つんのめりながら雑貨屋のトイレのそばまで行くと、ちょうど陽菜が髪の毛のセットを終えて出てくるところだった。
「あれ、血相変えてどうしたの月乃」
「あ、いや。陽菜の電話が鳴ってて。その、『光亮先輩』って画面に……」
「え、貸して!」
ディスプレイを見せながら携帯を差し出すと、陽菜にひったくられた。
陽菜はいつもと違うワントーン高い声で着信に応じる。
『もしもし先輩、今どこですか〜⁇』『こっちは今、会場近くの雑貨屋で〜』『えっ。どういうことですか⁉』『ちょっとだけでもだめなんですか?』『そうなんですか……』
はらはらしながら電話する陽菜を見守る。
陽菜はニコニコ笑ったり、眉を顰めたり、くるくる表情を変えた後、最後はひどく不機嫌そうな顔で通話を終了した。
何かあったようだ。
「ありえないんだけど」
「え?」
こちらが口を開く前に、イラついた口調で突然そう吐き出す陽菜。
「どうしたの?」
「いや、なんかさ……約束してた人、今日来られないんだって」
言葉に詰まる。ドタキャンか、と状況を飲み込むより先に、約束していた人……つまりは、やはり陽菜の彼氏は設楽先輩だったのかというショックが全身を駆け抜けていく。
「そう……」
「しかも詳しい理由も教えてくれないし、急いでるからちょっと会うぐらいもダメだって。ついさっきまでちゃんと時間には来るって言ってたのに」
「……」
駄目だ、陽菜の言葉が全然頭に入ってこないし、返す言葉も出てこない。
でも――。
「なんなのもう! 今さら中止とかありえなくない⁉ こっちは楽しみにして色々準備してきたっていうのにさあ!」
「……っ」
「っていうか光亮先輩、なんだかんだ言って私のこと弄んでただけなのかも。本当は他に女がいて一緒に回る約束してたとか、会場内で可愛い子みつけてナンパが成功したからそっち優先したとか……ありえそー。顔面偏差値高い人はなにやっても顔で許されるとでも思ってんのかね。そんなんだったらマジ最低なんだけ――」
「設楽先輩はそんな人じゃないよ!」
「⁉」
急に声を張り上げた私を、陽菜が驚いたように目を丸くして見る。
余計な言葉は全く頭に入ってこなかったのに、設楽先輩を非難する言葉だけはどうしても聞き捨てならなくて、気がついたら大声で陽菜を咎めていた。
はっとして慌てて唇を引き結んだものの時すでに遅く、陽菜が怪訝そうな顔で尋ねてくる。
「え。月乃、光亮先輩のこと知ってるの?」
「三年の元バスケ部の設楽光亮先輩だよね。もちろん知ってるよ。バイト先が同じだから話したこともあるし」
「……」
隠す必要はないと思ってそう告げると、陽菜は若干面食らったような顔をした後、こちらをジロリと睨んできた。
「あー、そうなんだぁ……先輩、ずっと教えてくれなかったバイト先、月乃と同じコンビニだったのか。ふぅん、どうりで……」
「どうりで?」
「いや、こっちの話。それより珍しいじゃん。月乃がそんな必死になって反論してくるなんて」
歪に笑う陽菜。急に敵意がむき出しになった気がして、突き刺さる視線が痛い。
でも引くわけにもいかなかった。
「だって本当に設楽先輩はそんな人じゃないから。口数少ないから誤解されやすいみたいだけど、いつだって相手のこと思いやるような優しい人だし、きっと何かそれなりの事情があったから来られなくなっ……」
「え、なにその『私、先輩のことなんでも知ってます』みたいな口ぶり。バイト先が一緒ってだけでなに優越感浸って彼女めいたこと言ってんの」
「違っ! そんなつもりで言ったんじゃ……」
「どうだか。あ、そうか……もしかして月乃、あたしの光亮先輩狙ってたとか?」
「……っ」
「図星? うわ、サイアク。いるよねー、普段真面目ぶってるくせに男が絡むと急に目の色変えちゃう月乃みたいな女。やることやって孤立して、最終的に身内に迷惑かけてるあたり死んだ月華さんとやってること同じじゃん」
「……!」
月華――母の名前が聞こえた瞬間、頭にカッと血が昇った。
だんっと、持っていた陽菜の巾着袋を脇にあった棚に乱暴に置く。
陽菜がぎょっとしたような目をこちらに向けたが、もう止まらなかった。
「お母さんは関係ない!」
「じ、冗談じゃん。なにムキになって……」
「冗談でも言っていいことと悪いことあるよね。私だって別に迷惑かけたくてかけてるわけじゃないし、それに今日だって陽菜がどうしてもって言うから来ただけで、設楽先輩がいるってわかってたら来てなかった」
どうしよう、止まらない。
お母さんを侮辱されたことで、ずっと溜め込んできた思いが音を立てて弾けたみたいだった。
唖然とする陽菜に構わず、怒りに任せて声を張り上げる。
「いつだってそう。好き勝手相手振り回しておいて、どうしてそう人を傷つけるようなこと平気で言えるの? 私、陽菜のそういう無神経なところ……大っ嫌い!」
お母さんを馬鹿にしたこと。
設楽先輩を侮辱したこと。
その両方が、私にとっての起爆剤となった。
ふいに燻んだ空から雨がざあっと降ってくる。
感情のままに思いの丈をぶつけた私は、踵を返すと呆然として立ち尽くす陽菜を一切振り返ることなくその場から走り去った。