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 気がつけば私は、お寺から転がるように飛び出し全速力で駆け出していた。

「ちょ、七瀬さん⁉」

 驚いたような設楽先輩の声も、渦巻くように合唱する蝉の鳴き声も、ざわめく木々のゆらめきも、何もかも。どこか遠い世界に置いてきてしまったかのように、ただ前を見て走る。

 頭の中で一つの仮定にたどり着いた時、驚きと、衝撃と、眩暈と、言い知れぬ悲しみで、震えが止まらなかった。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 走り続けること十数分――。息も絶え絶えになりながらたどり着いたのは、ここ最近毎日通い詰めていた成外内神社だ。

 相変わらず無法地帯のように草木が伸び散らかり、ぽつんと建てられた杜だけが自然の理に叛くよう凛然とそこへ佇んでいる。

「神、様……神様っ!」

 声の限り叫んだけれど、自分の声が跳ね返ってくるだけで返事はなくて。

「神様、神……影亮くん!」

 何が正解かなんてまだ何もわからないのに、嫌な予感に背中を押されるよう必死になって叫ぶ。

「お願いだから……お願いだから出てきて……」

 耐えきれなくなった私は、目に涙を溜めて切望する。

 するとその願いが通じたのか、あるいは……私の無様な懇願が見るに耐えなかったのか。いつもそこにいた時のように、ようやく社の石段に『彼』が現れた。

《……》

 ばつが悪そうにそっぽを向いて、何かを言い淀む『彼』。

「影、亮くん……だよね?」

 目頭を腕で拭い、歯を食いしばって問いかける。

 神様は……いや、影亮くんは、観念したように小さな頷きを見せると、すっと狐のお面を外す。そこには黄金色の髪色をした設楽先輩に瓜二つの男性が浴衣姿で立っていて、うっすらと抱いていた仮定は確信に変わった。

《あー……。ばれちゃったか》

 苦笑しながらそうこぼす影亮くん。初めての出会いで彼は『理想の器を顕現する』だとかなんだとか言って、設楽先輩になりすましていたっけ。

 双子なら、顕現も何も同じ顔をしていて当然じゃないか。

「なんで……ねえ、どうしてよ……」

《その、騙してごめん》

 影亮くんは至極申し訳なさそうにつぶやいて、素直に頭を下げる。

 別に許せない気持ちなんて一ミリもない。謝罪なんてしてほしくなかった。

 今はそれよりも、ああこれが現実なんだと理解し悲嘆に暮れる。

 ――今までずっと『成外内の神様』だと騙っていた彼は神様なんかではなく、事故で亡くなった『影亮くんの亡霊』だったのだ。

《どうしてって言われると、本当に咄嗟だったとしか言いようがなくて……》

「……」

《君に会うはずだった夏祭りのあの日――、俺さ、約束の時間があまりにも待ち遠しくて。すっげえ早い時間から浴衣着て、一人で祭り会場まで行ってふらふらしてたんだよね。露店で狐のお面買ったり、みんなで遊ぶ屋台を見繕ったり。縁日や近くの公園でなんとか時間潰して、もうあと十分もすれば光亮との約束の時間だって時に、会場近くの通りで事故に遭っちゃってさ……》

 ああ、なんて皮肉な話なのだろう。

《いやまさかさ、自分が死ぬなんて思いもしてなかったし、むしろ、え、何俺死んだの? っていうかこれ幽霊? みたいな。急転直下すぎて理解が追いつかなかくて、嘆く余裕すらなかったんだ。……んで、いくら待っても死神だとか水先案内人だとかそんな親切なヤツも現れないもんだから、やばい、これからどうすればいいんだろってあたりを彷徨ってたら、雨に濡れてふらふら歩く君を見つけちゃって。それで……夢中で追いかけた》

 そう、あの日はひどく雨が降っていた。

《そうしたら君は、思い詰めた顔してここから飛び降りようとしはじめたから、そりゃもうすっげえ慌てちゃって。なんとかして止めなきゃとは思ったけど、普通に飛び出して行ったところで面識のない幽霊のいうことなんか聞くわけないし、逆に怖がらせてうっかり足でも滑らせちゃったらまずいと思ってさ、ああもうこうなったら場所も場所だし稲光を利用して神様になりきって止めてやろうと思って。それで好きだった歴史系の漫画とか侍ゲームの言葉とか、なんかそれっぽい言葉を必死に並べて神様のふりして……君の前に現れたんだ》

 そうか……。そうだったのかと、何度も小さく相槌を打つ。

 雷鳴と共に現れた彼の姿を思い出し、影亮くんがついた優しい嘘に胸が苦しくなる。

 確かにあの時、私は最初、彼のことを幽霊と見紛い悲鳴を上げた。

 彼が神だと名乗り、設楽先輩になりすまして私を説得していなければ、今頃足を滑らせて丘を転げ落ちていたか、恐怖のあまり命かながら石段を転げ降りて悲嘆にくれていたか、あるいは祟りだと割り切って、結局別の場所で命を絶とうとしていたかのどれかかもしれない。 

 ただ黙って話を聞く私を見て、影亮くんは心底申し訳なさそうに苦笑を滲ませる。

《この神社、よっぽど信心深い人じゃないと通わないってのは前々から知ってたから、君ならきっと本物の神様だと信じてくれるだろうと思って、あの時は必死に即興であれこれ話を繕ったんだ。ほら、力が衰えてるからとか、生まれ変わるには閊えがどうとか》

「……」

《俺、事情あって昔から君のこと知ってはいたけど……君がそんなに思い詰めていたなんて全く知らなかったからさ、どうにかして力になりたいと思って。生まれ変わらせるだなんて出来もしない約束まで結んじゃって本当に申し訳ないと思ってる》

 違う、どうか謝らないで欲しい。

 そう言外に告げるよう強く首を振った。

 伝えたい想いはたくさんあるのに頭の中で言葉が渋滞してしまって何も出てこない。でも、整理がつかないなりになんとかこれだけは伝える。

「違うよ影亮くん、謝らないで。私、本当に感謝してるの。その約束のおかげで私は考え方が変わったし、生き方も変わった。人との付き合い方が変わったことで人生そのものも変わって……私、いつの間にか新しい自分にちゃんと生まれ変われてたんだよ」

《月乃ちゃん……》

 声にすると、神様への――いや、影亮くんへの感謝の気持ちが溢れて止まらなくなる。

 どうしよう。瞼が熱くなる。唇が震える。 

「私、今ならわかるの。影亮くん、きっと、私がもう二度と後ろを振り返らないように、『一度願ったら取り消せない』だなんて、そんな条件までつけたんだよね?」

《……》

「一度覚悟を決めればもう前を向いて進むしかなくなるし、殻を破って新しい自分に生まれ変われば、二度と今までの自分に戻れなくなる。それは事実だから」

 そう確信をつくように尋ねると、影亮くんはやや沈黙した後に肯定を示すよう微笑んだ。

《やるなら腹くくってやってもらわないとって……そう思って。誰だって自分の殻を破るのは怖い。だから、君の勇気を引き出すにはそれしかないと思ったんだ》

 ああ、やっぱり。彼は一体、どんな気持ちであの約束を口にしたのだろう。

 励まし、応援すればするほど私は前へ進んでいき、明るい未来と豊かな自分を手に入れていく。

 けれどその生まれ変わった新しい私がいる世界に、彼はいない。

「ずるいよ……私、全然、気づかなかっ……」

 頬に涙が伝っていく。ぽたりと足元に落ちたそれは、なぜこんなにも私を悲しい気持ちにさせるのだろう。

《――ねえ》

「う、ん……?」

《なんで君に俺の姿が見えるか、わかる?》

「……え?」

 ふいにそんなことを聞かれ、言葉に詰まる。

 影亮くんはいつもの場所から杜の軒先にぶら下がる透明の鈴を見上げて、その先を続けた。

《俺もついこないだ偶然出会った通りすがりの先輩幽霊に聞いて初めて知ったんだけど、今の俺の姿が見えるのは、生前、自分にとって一番未練のあった相手だけなんだって》

「未練……?」

《うん》

「私に、未練があるってこと?」

《そうだね。それもダイナミック級の》

「え。うそ、何? どうして? なんで?」

《あー、それはひとまずおいておいて。ちなみにさ、四十九日までの間にその相手の夢枕に立つなりなんなりして上手く未練を晴らさないと、成仏できなくなって名もなき呪縛霊になっちゃうらしいんだけど――》

「な、ちょ、ちょっと待って!」

 影亮くんの発言に青ざめ、咄嗟に話を遮る私。

「四十九日……それって今日じゃない! どうしよう。ねえ、どうすればいい? っていうか未練ってなに? 私はどうしたらいいの⁇」

《落ち着いて。まさか最後の最期で君に会えるだなんて思ってなかったから、俺もついさっきまで呪縛霊になること覚悟してたんだけど……君がきてくれたから、きっともう大丈夫》

「大丈夫じゃないよ! 私なんかじゃ影亮くんの未練は晴らせな……」

《月乃ちゃんじゃなきゃ駄目なんだよ》

「……!」

 私の言葉を遮るようにそう断言した影亮くんは、震える拳をぐっと握りしめると、ゆっくり石段を降り、私の前に立つ。

「影亮……くん?」

 双子なだけあって身長は多分設楽先輩と同じぐらいだろう。見上げるぐらいに高く、くっきりとした輪郭はあるのに全身が透き通って見える。

 ――あれ。

 初めてまじまじと彼を間近で見つめたが、なんだろうこの感じ。

 顔は設楽先輩なのに、纏ってる空気は違う。初対面のはずなのに不思議と初めて会う感じがしないっていうか、どこか懐かしい感じがしないでもない。

《俺が君にしか見えない理由、それはね――》

 どこだろう。私はどこで彼に……――。

《月乃ちゃん。君は覚えてないと思うけど、俺と君は十二年前にこの神社で一度出会ってるんだ》

「え……」

 ふいに風がざわめくように吹いて、硝子細工の小鈴をりんりん揺らす。

 その美しい音色が心を大きく揺さぶり、自分の中で眠っていた何かがざわりと騒ぎ出した。