◇
それからさらに一週間が過ぎ、血の繋がりを調べる検査の鑑定結果が父の元に届いた。
私と父の親子関係は無事認められ、ほどなくして私と父は共同生活を開始する。
あれだけ長引いていた父と叔母の話し合いは、叔母の不正を公にせず不問とすることで無事終息にこじつけた。
額が比較的軽微だったことや、いずれにしても叔母夫婦にはそれなりの迷惑をかけたことは事実だったし、なにより陽菜への影響を鑑み、それが父と一緒に考え抜いた末の譲歩だった。
***
「……というわけで、このままごねていても時間だけが無駄に過ぎていってしまいますし、お金よりも時間を大事にしようってことで、父とそう判断したんです」
夏祭りの日から三週間が経ち、毎日のように通う成外内神社の境内にて、今日も今日とて狐顔の神様に近況を報告する。
《ふむ。悪くない結論だな。無事に落着して良かったではないか》
「はい。成外内の神様のおかげです。本当になんてお礼を言ったら良いのか……」
《私の力ではない。おぬし自身の努力が功を奏したのだ》
「神様……」
優しく撫ぜるような温かい言葉が私を包み込む。
思い切って背後を振り返ると、神様はいつものように石段の最上部に腰掛けて遠い空を見上げていた。
時刻は夕暮れ時。神様のお姿は妙に朱く透けて光り輝いているかのように私の目には映った。
ここへは毎日の所用を済ませた後に報告がてら来ることが多いので、大抵が夕方から夜にかけてになる。今日は晴れていた割にいつにも増して大気が潤い、染み入るような茜色が空に美しく映えていた時分だったので、余計に神様のお姿も背景に溶け込んで幻想的に見えたのかもしれない。
「あの、神様」
《……うん?》
長らく無言で同じ時を共有していた私たちだったが、ふと思い出して尋ねる。
「閊えを祓う作業なのですが……」
《ああ。滞りなく続けているか?》
「あ、はい。それはもちろん」
人間、生きていくには必ず誰かしらと関わりを持たねばならない。
他人と共存すれば自分の思うようにならないことなどままあるし、大なり小なり閊えは生まれ続けていく。
今までの私は、それと向き合うことなく逃げていた。だから溜め込んだ閊えに押し潰されそうになっていたわけで、成外内の神様に出会っていなければ『閊えは生まれ次第解消する努力が必要不可欠』という考えを持とうともしなかった。
考えを改めた今、思いつく限りの閊えを解消し、悲観的だった自分自身をも見つめ直して見違えるほどに生きやすくなったのだが……。
《なんだ? 何か思うことがあるなら申してみよ》
「えっと、その。これまでに何度も閊えを祓う作業を繰り返してきたので、今はもう何ももやもやすることがないっていうか……蟠りがあればすぐ対処するようになったので、もう禊をする必要がないように思うのですが」
《……》
「閊えを祓う作業はいつまで続ければ……」
もちろん、早く約束を果たして欲しいと催促しているわけではない。
以前より生きやすくなった今、むしろこのままあの『生まれ変わる』という約束自体がなかったことになってしまえばよいのにとさえ思っていた。
しかしそう問いかけた直後、石段の下から聞こえてきた声に会話を遮られる。
「七瀬さん。七瀬さん、いる?」
「……っ!」
まさかこんなところに人が来るなんて思っても見なかった私は、神様がいるのにどうしようなんておろおろしながら背後を振り返るが、神様は特に慌てる様子もなくその場でじっと佇み、声がした石段の方を見つめている。
ほどなくしてその方向から姿を現したのは、まさかの設楽先輩だった。
「あ、いた」
「えっ⁉ 設楽先輩⁉」
思いもよらない人物の登場に誰よりも動揺する私。
設楽先輩は神様の存在に気づいていないのか、そこかしこに蔓延る蔦を避けながらゆっくりこちらに向かって歩いてくる。
「(ど、どどどどうしましょう神様⁉)」
《……》
「(か、神様?)」
《ん? あー……気にせんでよい。信仰心のない者に私の姿は見えぬ》
「(え? そうなんですか⁉)」
《ああ……。だから、気にせず話せ》
慌てる私とは正反対に、落ち着いた声でそう仰る神様。
神様は妙に神妙な空気をまとって先輩をじっと見つめているんだけれど、そういえば以前に先輩の姿を顕現したことがあったな、なんて余計なことを思い出す。
「(わ、わかりました。じ、じゃあ……)」
ひそひそ話しているうちに先輩が私たちの目の前までやってきたため、私はこほんと咳払いをしながら居住まいをただし、貼り付けたような笑みを浮かべる。
「せ、先輩。どうしたんですか? こんなところで」
神様の目の前で『こんなところ』扱いはないよな……なんて、言ってから後悔する。
「七瀬さん、店に携帯忘れたでしょ」
「え? あっ……」
「俺、今日非番だったけどちょっと用があって店寄ったから。店長に、多分ここにいると思うから、通り道なら渡してくれって頼まれた」
なるほど、と手を打つ。そういえば確かに、今日の休憩中に店長と他愛もない雑談をしていて、帰り道にここへ寄るって話をしたんだっけ。
「そうだったんですね。わざわざすみません」
「いいよ別に。通り道だし」
そう言って先輩は、ポケットから取り出した私の携帯電話をこちらに差し出す。
ありがたく受け取ろうと手を伸ばした……のだが。
《あ、ちょっと待て!》
「えっ?」
「……?」
ふいに神様が声を張り上げたものだから、どきっとして手を引っ込める。
目を瞬きながら振り返ると、神様は少しバツが悪そうにぼそぼそと言った。
《その、触れたらその者にまで私の姿が視えてしまう可能性がある。神とは厳かなもの。神の尊顔をそうやすやすと不信者に拝ませるものではない》
「(そ、そうか、そうですよね……!)」
「……七瀬さん?」
「あっ。いえ、すみません。ただの独り言です……。あの、これ、ありがとうございます」
一人でぶつぶつ呟く私を怪訝そうに見る設楽先輩から携帯電話を受け取る。
もちろん、その手には触れることなく、そっと。
「渡せてよかった。にしても……足しげく神社に通うなんてマメだね」
「あ、いえ。ここの神様には本当にお世話になってるので」
「……そう」
胸を張ってそう答える私に、設楽先輩は笑みを滲ませる。
――どう考えても光亮先輩は月乃のことが好きとしか思えないし!
ふと、陽菜に言われた言葉が脳裏に蘇った。
そんなはずはないと分かってはいても、なんだか照れ臭くなってしばし目を泳がせていると。
「眼鏡」
「……え?」
「してないんだ」
私の顔をじっと見つめていた先輩が、急にそんなことを言い出した。
「あ、はい。ちょっと色々あって眼鏡が壊れてしまって……。せっかくなので気分を変えてコンタクトにしてみたんです」
それは紛れもなくあの二人組の男に絡まれた時の弊害で、もうだいぶ前から思い切ってコンタクトに変えていたのだけれど、しばらくアルバイトを休んでいた先輩とはしばらく会っていなかったため、考えてみればこの姿で対面するのは今が初めてかもしれない。
「……そう」
「なんか変ですかね」
「いや……悪くないと思う」
「えっ」
「別に眼鏡の七瀬さんも嫌いじゃなかったけど、それはそれでいいっていうか……」
「……っ」
「って、何言ってんだろ、俺。今のなし。忘れて」
先輩は心底しまった、といったように顔を赤らめると、こちらに背を向けるようふいっとそっぽを向く。
「じゃ、俺、用事あるし行くね」
「え? あ、はい! 本当にありがとうございます! わざわざすみませんでした」
せっかく会えたのにもう行ってしまうのか……と残念に思ったのは言うまでもない。
でも、何か用事があるみたいだし仕方ない。
先輩は背を向けたままひらひらと片手を振って、軽やかに石段を降りていく。
その去り姿を見ているだけで、ほうっと溜息が出てしまいそうだった。
《……》
「……って、あっ。すみません神様」
そんな私をじと目で見ていた――厳密には眉一つ動かない狐顔なのでそう見えただけだけど――神様に、慌てて向き直る。
神様はゆるりと首を振ると、今度は設楽先輩が降りてった石段の方をじっと見つめたまま言った。
《あの男が、今なお好きなのだろう》
「えっ。あっ、いや、そのっ……」
《隠さずともわかる。正直に申せ》
「うぅ……はい。大好き……です」
相手は神様だ。どうせ隠していてもバレてしまうだろうと思って正直に告げたはいいが、自分の気持ちに正直になりすぎて、今さらながら耳まで顔が熱くなった。
《……》
「あっ。引かないでください神様! 分かってます、不釣り合いなのは分かってますっ。でも、想うのは自由だか――」
《良いと思う》
「へ?」
神様の独り言のような呟きに耳を疑う。
目を瞬きながら神様を見ると、
《悪くない。きっと、あやつならおぬしを幸せにできるだろう》
断言するように、神妙な声でそう仰せになった。
「えっ⁉ ちょ、なななな……何を仰って……!」
《……。忘れたか、私は縁結びの神ぞ》
「そ、それはそうですけど、でもっ」
妙に先輩のことを凝視してるから一体何を言い出すのかと思えば、願っても見ない太鼓判が飛んできて狼狽える。
そりゃあ先輩に対する私の想いを真摯に受け止め認めてもらえたことは嬉しいが、神様に断言されるとなんだか大事になってしまいそうで嬉しいやら申し訳ないやら畏れ多いやら。
《よし。そろそろ仕上げ時だしな。ここは一つ私があやつとおぬしの縁を……》
「し、仕上げ時⁉ まままままま待ってください神様っ! いいです、いいですってそんな! 私、一度振られてますし、それにっ」
《ああ、知っておる。見ておったからな》
「え。見てたんですか⁉」
《うむ。偶然、おぬしのバイト先のコンビニ裏でな》
「神様がコンビニ行くんですか⁉」
《冗談に決まっておるだろう。それはともかく、本当に好きなんだったら一度フラれたくらいでそう簡単に諦めるもんではないぞ》
「そ、それはそうですけど、でも、先輩の気持ちを神様の力で動かしたりなんかしたら先輩にも悪いですし」
《いや、私はだな、あやつの気持ちを動かすのではなく、二人の縁を……》
「あの、それはっ、その、でも、お気持ちだけで本当に充分ですから!」
《……》
「もし……少しでも可能性があるのなら、できれば自分の力で振り向かせたいんです。そう前向きに考えられるようになったのは他でもない成外内の神様のおかげなんですよ」
せっかくの神様のご厚意に背くなんて、私は何て恩知らずなのだろう。
自分でもそう思ったが、その反面、感謝しているからこそ、お世話になっているからこそ、自分の力できちんと前を向いて歩いている姿を、神様に見て欲しかったのも事実だ。
それに――。
「気遣ってくださってることは本当に、本当に感謝しています。でも、神様、力が薄れてきてるって仰ってましたし、できるだけ余計な力を使って欲しくないんです。万が一にでも消えるようなことになってしまったら本当に困るので……」
ずっと心の底に引っかかっていた懸念を告げると、神様はようやく前屈みの姿勢をといて、《そうか……》と仰った。
しばしの沈黙。そして――。
《強くなったな》
柔らかい陽だまりのような声が降ってくる。
今、きっと、狐のお面がなければ優しく微笑まれたのだろうと、そう思いたくなるような穏やかな声だった。
「え……?」
《今のおぬしなら、もう、私がいなくても大丈夫だろう》
「そ、そんなことないです! 私は神様がいるから胸を張って生きていられるだけで」
《……まあよい。それよりも、せっかくだからあやつを追いかけなくてよいのか?》
「へ?」
《おぬしが今住んでいる家に向かうバス停と、あやつの家は同じ方向だ。用があると言ったってそこまで急いでいる風でもなかったし、追いかければ間に合うだろう。きちんとした礼がてら一緒に帰ったらどうだ?》
「……! でも……」
《大丈夫だ。余計な小細工はせん。自分の力で振り向かせるんだろう? だったら早いに越したことはない。あやつを狙っている女子はたくさんおるぞ》
「う……」
神様に激励され、背筋がしゃんと伸びる。
一度振られたとはいえ迷惑がられている様子はないのだし、確かに改めて礼をするぐらいなら……。
すっと前を向く。立ち上がり、ぎゅっと拳を握ってキッと石段を見る。
「そうですよね。迷惑にならない程度になら頑張ってもバチは当たりませんよね」
《ああ》
「私、行ってきます」
神様の方を振り返り、ぐっとガッツポーズを握って見せると、神様は満足したように大きく頷いた。
《――行ってこい》
大きくて温かな手に、そっと背中を押されたようだった。
神様に向かって一礼し、赤く染まった空に向かって歩みを進める。
まるで焦がれるような神様の視線を背中に浴びながら鳥居をくぐると、薄くあかりを灯し始めた街並みに向かって一気に石段を駆け降りる。
この時は、神様のその視線の意味など深く考えもせずに――色濃く刻まれた私の夏は終わりを迎えようとしていた。
それからさらに一週間が過ぎ、血の繋がりを調べる検査の鑑定結果が父の元に届いた。
私と父の親子関係は無事認められ、ほどなくして私と父は共同生活を開始する。
あれだけ長引いていた父と叔母の話し合いは、叔母の不正を公にせず不問とすることで無事終息にこじつけた。
額が比較的軽微だったことや、いずれにしても叔母夫婦にはそれなりの迷惑をかけたことは事実だったし、なにより陽菜への影響を鑑み、それが父と一緒に考え抜いた末の譲歩だった。
***
「……というわけで、このままごねていても時間だけが無駄に過ぎていってしまいますし、お金よりも時間を大事にしようってことで、父とそう判断したんです」
夏祭りの日から三週間が経ち、毎日のように通う成外内神社の境内にて、今日も今日とて狐顔の神様に近況を報告する。
《ふむ。悪くない結論だな。無事に落着して良かったではないか》
「はい。成外内の神様のおかげです。本当になんてお礼を言ったら良いのか……」
《私の力ではない。おぬし自身の努力が功を奏したのだ》
「神様……」
優しく撫ぜるような温かい言葉が私を包み込む。
思い切って背後を振り返ると、神様はいつものように石段の最上部に腰掛けて遠い空を見上げていた。
時刻は夕暮れ時。神様のお姿は妙に朱く透けて光り輝いているかのように私の目には映った。
ここへは毎日の所用を済ませた後に報告がてら来ることが多いので、大抵が夕方から夜にかけてになる。今日は晴れていた割にいつにも増して大気が潤い、染み入るような茜色が空に美しく映えていた時分だったので、余計に神様のお姿も背景に溶け込んで幻想的に見えたのかもしれない。
「あの、神様」
《……うん?》
長らく無言で同じ時を共有していた私たちだったが、ふと思い出して尋ねる。
「閊えを祓う作業なのですが……」
《ああ。滞りなく続けているか?》
「あ、はい。それはもちろん」
人間、生きていくには必ず誰かしらと関わりを持たねばならない。
他人と共存すれば自分の思うようにならないことなどままあるし、大なり小なり閊えは生まれ続けていく。
今までの私は、それと向き合うことなく逃げていた。だから溜め込んだ閊えに押し潰されそうになっていたわけで、成外内の神様に出会っていなければ『閊えは生まれ次第解消する努力が必要不可欠』という考えを持とうともしなかった。
考えを改めた今、思いつく限りの閊えを解消し、悲観的だった自分自身をも見つめ直して見違えるほどに生きやすくなったのだが……。
《なんだ? 何か思うことがあるなら申してみよ》
「えっと、その。これまでに何度も閊えを祓う作業を繰り返してきたので、今はもう何ももやもやすることがないっていうか……蟠りがあればすぐ対処するようになったので、もう禊をする必要がないように思うのですが」
《……》
「閊えを祓う作業はいつまで続ければ……」
もちろん、早く約束を果たして欲しいと催促しているわけではない。
以前より生きやすくなった今、むしろこのままあの『生まれ変わる』という約束自体がなかったことになってしまえばよいのにとさえ思っていた。
しかしそう問いかけた直後、石段の下から聞こえてきた声に会話を遮られる。
「七瀬さん。七瀬さん、いる?」
「……っ!」
まさかこんなところに人が来るなんて思っても見なかった私は、神様がいるのにどうしようなんておろおろしながら背後を振り返るが、神様は特に慌てる様子もなくその場でじっと佇み、声がした石段の方を見つめている。
ほどなくしてその方向から姿を現したのは、まさかの設楽先輩だった。
「あ、いた」
「えっ⁉ 設楽先輩⁉」
思いもよらない人物の登場に誰よりも動揺する私。
設楽先輩は神様の存在に気づいていないのか、そこかしこに蔓延る蔦を避けながらゆっくりこちらに向かって歩いてくる。
「(ど、どどどどうしましょう神様⁉)」
《……》
「(か、神様?)」
《ん? あー……気にせんでよい。信仰心のない者に私の姿は見えぬ》
「(え? そうなんですか⁉)」
《ああ……。だから、気にせず話せ》
慌てる私とは正反対に、落ち着いた声でそう仰る神様。
神様は妙に神妙な空気をまとって先輩をじっと見つめているんだけれど、そういえば以前に先輩の姿を顕現したことがあったな、なんて余計なことを思い出す。
「(わ、わかりました。じ、じゃあ……)」
ひそひそ話しているうちに先輩が私たちの目の前までやってきたため、私はこほんと咳払いをしながら居住まいをただし、貼り付けたような笑みを浮かべる。
「せ、先輩。どうしたんですか? こんなところで」
神様の目の前で『こんなところ』扱いはないよな……なんて、言ってから後悔する。
「七瀬さん、店に携帯忘れたでしょ」
「え? あっ……」
「俺、今日非番だったけどちょっと用があって店寄ったから。店長に、多分ここにいると思うから、通り道なら渡してくれって頼まれた」
なるほど、と手を打つ。そういえば確かに、今日の休憩中に店長と他愛もない雑談をしていて、帰り道にここへ寄るって話をしたんだっけ。
「そうだったんですね。わざわざすみません」
「いいよ別に。通り道だし」
そう言って先輩は、ポケットから取り出した私の携帯電話をこちらに差し出す。
ありがたく受け取ろうと手を伸ばした……のだが。
《あ、ちょっと待て!》
「えっ?」
「……?」
ふいに神様が声を張り上げたものだから、どきっとして手を引っ込める。
目を瞬きながら振り返ると、神様は少しバツが悪そうにぼそぼそと言った。
《その、触れたらその者にまで私の姿が視えてしまう可能性がある。神とは厳かなもの。神の尊顔をそうやすやすと不信者に拝ませるものではない》
「(そ、そうか、そうですよね……!)」
「……七瀬さん?」
「あっ。いえ、すみません。ただの独り言です……。あの、これ、ありがとうございます」
一人でぶつぶつ呟く私を怪訝そうに見る設楽先輩から携帯電話を受け取る。
もちろん、その手には触れることなく、そっと。
「渡せてよかった。にしても……足しげく神社に通うなんてマメだね」
「あ、いえ。ここの神様には本当にお世話になってるので」
「……そう」
胸を張ってそう答える私に、設楽先輩は笑みを滲ませる。
――どう考えても光亮先輩は月乃のことが好きとしか思えないし!
ふと、陽菜に言われた言葉が脳裏に蘇った。
そんなはずはないと分かってはいても、なんだか照れ臭くなってしばし目を泳がせていると。
「眼鏡」
「……え?」
「してないんだ」
私の顔をじっと見つめていた先輩が、急にそんなことを言い出した。
「あ、はい。ちょっと色々あって眼鏡が壊れてしまって……。せっかくなので気分を変えてコンタクトにしてみたんです」
それは紛れもなくあの二人組の男に絡まれた時の弊害で、もうだいぶ前から思い切ってコンタクトに変えていたのだけれど、しばらくアルバイトを休んでいた先輩とはしばらく会っていなかったため、考えてみればこの姿で対面するのは今が初めてかもしれない。
「……そう」
「なんか変ですかね」
「いや……悪くないと思う」
「えっ」
「別に眼鏡の七瀬さんも嫌いじゃなかったけど、それはそれでいいっていうか……」
「……っ」
「って、何言ってんだろ、俺。今のなし。忘れて」
先輩は心底しまった、といったように顔を赤らめると、こちらに背を向けるようふいっとそっぽを向く。
「じゃ、俺、用事あるし行くね」
「え? あ、はい! 本当にありがとうございます! わざわざすみませんでした」
せっかく会えたのにもう行ってしまうのか……と残念に思ったのは言うまでもない。
でも、何か用事があるみたいだし仕方ない。
先輩は背を向けたままひらひらと片手を振って、軽やかに石段を降りていく。
その去り姿を見ているだけで、ほうっと溜息が出てしまいそうだった。
《……》
「……って、あっ。すみません神様」
そんな私をじと目で見ていた――厳密には眉一つ動かない狐顔なのでそう見えただけだけど――神様に、慌てて向き直る。
神様はゆるりと首を振ると、今度は設楽先輩が降りてった石段の方をじっと見つめたまま言った。
《あの男が、今なお好きなのだろう》
「えっ。あっ、いや、そのっ……」
《隠さずともわかる。正直に申せ》
「うぅ……はい。大好き……です」
相手は神様だ。どうせ隠していてもバレてしまうだろうと思って正直に告げたはいいが、自分の気持ちに正直になりすぎて、今さらながら耳まで顔が熱くなった。
《……》
「あっ。引かないでください神様! 分かってます、不釣り合いなのは分かってますっ。でも、想うのは自由だか――」
《良いと思う》
「へ?」
神様の独り言のような呟きに耳を疑う。
目を瞬きながら神様を見ると、
《悪くない。きっと、あやつならおぬしを幸せにできるだろう》
断言するように、神妙な声でそう仰せになった。
「えっ⁉ ちょ、なななな……何を仰って……!」
《……。忘れたか、私は縁結びの神ぞ》
「そ、それはそうですけど、でもっ」
妙に先輩のことを凝視してるから一体何を言い出すのかと思えば、願っても見ない太鼓判が飛んできて狼狽える。
そりゃあ先輩に対する私の想いを真摯に受け止め認めてもらえたことは嬉しいが、神様に断言されるとなんだか大事になってしまいそうで嬉しいやら申し訳ないやら畏れ多いやら。
《よし。そろそろ仕上げ時だしな。ここは一つ私があやつとおぬしの縁を……》
「し、仕上げ時⁉ まままままま待ってください神様っ! いいです、いいですってそんな! 私、一度振られてますし、それにっ」
《ああ、知っておる。見ておったからな》
「え。見てたんですか⁉」
《うむ。偶然、おぬしのバイト先のコンビニ裏でな》
「神様がコンビニ行くんですか⁉」
《冗談に決まっておるだろう。それはともかく、本当に好きなんだったら一度フラれたくらいでそう簡単に諦めるもんではないぞ》
「そ、それはそうですけど、でも、先輩の気持ちを神様の力で動かしたりなんかしたら先輩にも悪いですし」
《いや、私はだな、あやつの気持ちを動かすのではなく、二人の縁を……》
「あの、それはっ、その、でも、お気持ちだけで本当に充分ですから!」
《……》
「もし……少しでも可能性があるのなら、できれば自分の力で振り向かせたいんです。そう前向きに考えられるようになったのは他でもない成外内の神様のおかげなんですよ」
せっかくの神様のご厚意に背くなんて、私は何て恩知らずなのだろう。
自分でもそう思ったが、その反面、感謝しているからこそ、お世話になっているからこそ、自分の力できちんと前を向いて歩いている姿を、神様に見て欲しかったのも事実だ。
それに――。
「気遣ってくださってることは本当に、本当に感謝しています。でも、神様、力が薄れてきてるって仰ってましたし、できるだけ余計な力を使って欲しくないんです。万が一にでも消えるようなことになってしまったら本当に困るので……」
ずっと心の底に引っかかっていた懸念を告げると、神様はようやく前屈みの姿勢をといて、《そうか……》と仰った。
しばしの沈黙。そして――。
《強くなったな》
柔らかい陽だまりのような声が降ってくる。
今、きっと、狐のお面がなければ優しく微笑まれたのだろうと、そう思いたくなるような穏やかな声だった。
「え……?」
《今のおぬしなら、もう、私がいなくても大丈夫だろう》
「そ、そんなことないです! 私は神様がいるから胸を張って生きていられるだけで」
《……まあよい。それよりも、せっかくだからあやつを追いかけなくてよいのか?》
「へ?」
《おぬしが今住んでいる家に向かうバス停と、あやつの家は同じ方向だ。用があると言ったってそこまで急いでいる風でもなかったし、追いかければ間に合うだろう。きちんとした礼がてら一緒に帰ったらどうだ?》
「……! でも……」
《大丈夫だ。余計な小細工はせん。自分の力で振り向かせるんだろう? だったら早いに越したことはない。あやつを狙っている女子はたくさんおるぞ》
「う……」
神様に激励され、背筋がしゃんと伸びる。
一度振られたとはいえ迷惑がられている様子はないのだし、確かに改めて礼をするぐらいなら……。
すっと前を向く。立ち上がり、ぎゅっと拳を握ってキッと石段を見る。
「そうですよね。迷惑にならない程度になら頑張ってもバチは当たりませんよね」
《ああ》
「私、行ってきます」
神様の方を振り返り、ぐっとガッツポーズを握って見せると、神様は満足したように大きく頷いた。
《――行ってこい》
大きくて温かな手に、そっと背中を押されたようだった。
神様に向かって一礼し、赤く染まった空に向かって歩みを進める。
まるで焦がれるような神様の視線を背中に浴びながら鳥居をくぐると、薄くあかりを灯し始めた街並みに向かって一気に石段を駆け降りる。
この時は、神様のその視線の意味など深く考えもせずに――色濃く刻まれた私の夏は終わりを迎えようとしていた。