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 その翌日、陽菜は自ら専門の相談機関に連絡を入れ、早急に一時保護されることが決定し、その日の夕方にはお寺を出て行くことになった。

 荷物をまとめ、出立しようとする陽菜を玄関先で呼び止める。

「待って陽菜」

「……」

「和尚さん驚いてたよ。出て行くのはもう少し気持ちが落ち着いてからでもよかったんじゃない?」

「いいの。長引けばママが荒れるだろうし、こういうのは早い方がいいでしょ」

「それはそうだけどさ」

「それに、これ以上月乃に迷惑かけるのもなんか癪だしね」

「別に迷惑だなんて……」

 昨晩は布団の中で、そのことを考えていたのだろうか。

 いずれにしても実の両親を然るべき場所に訴えるってすごく勇気のいることだと思うし、彼女はなんだかんだいって家族愛の強い人間だったから、きっと辛い決断だったに違いない。

「ママ……ちゃんと向き合ってくれるかな」

 ふいに陽菜が、背を向けたままぽつんと弱々しい呟きを漏らした。

 施設に入る陽菜はしばらくの間外出ができなくなり、叔母さんは陽菜を引き取るためさまざまな面談やカウセリングをはじめ家庭環境の改善に手を尽くさなければならなくなるらしい。

 噂によると健全な家庭環境が徹底的に構築されない限り、叔母さんは陽菜を連れ戻せないようなのだが……。

「きっと大丈夫だよ。叔母さん、もともと陽菜のことをすごく可愛がってたし、今は歯止めが効かなくなってるだけだと思うから。距離をおけばきちんと自分の過ちに向き合ってくれるんじゃないかな」

 あれだけ酷い仕打ちを受けた叔母を私がフォローするだなんてなんだかむず痒いけれど、嘘や偽りはなくそれが率直な感想だった。

「だといいけどさ……」

 陽菜はまるでいじけている子どものようにそうぼやき、肩にかけた鞄を背負いなおした。

「……」

「……?」

 そのまま数秒、無言で何かを考えるような素振りをみせる陽菜。

 首を傾げていると、彼女はこちらを振り返ることなく言った。

「自分がやられる側に立って、初めてあんたの気持ちがわかった」

「え?」

「今まで全部……月乃に背負わせてごめん」

「陽菜……」

 思いもよらない言葉に目を見開く。

 まさかあの陽菜が謝罪の言葉を口にするだなんて思ってもみなくて、どう返せばいいか戸惑い返事に詰まる。

 すると彼女は照れを隠すよう、いつもの口調で言った。

「あーあ、いいよねー月乃は。いざとなったら光亮先輩が優しくしてくれるし、優しそーな父親まで見つかってさ。なんか一気に立場が逆転しちゃったーって感じ」

「ちょっ。だ、だから設楽先輩はそんなんじゃないって! お父さんの方は……確かにほっとはしてるけど、まだ叔母さんとの話し合いが付いてないみたいだし、手放しで喜べないっていうか……だいぶ憂鬱っていうか……」

 苦笑気味にそう告げると、陽菜は一瞬ちらりとこちらを見た。

 なんだか意味深な視線に首を傾げる間もなく彼女は呟く。

「私が言ったって言わないでいてくれるなら、いいこと教えてあげる」

「え?」

「前にパパとママがお金のことで揉めてたことがあって、どうしても気になったから『私、部活やめてアルバイトしようか?』って後日ママに言ったことがあるんだよね。……もうだいぶ前の話だけど」

「……う、うん?」

「そうしたらママは『陽菜は気にしなくていい。いざとなったらあの子の金を使えばいいだけだから』なんて言い出すから、さすがにそれはまずいんじゃない? って言ったの。そしたらママ、なんて言ったと思う?」

「……」

「『うまくやれば大丈夫よ。今までだってバレなかったんだから』――って」

 淡々とカミングアウトする陽菜に言葉を失う。

 いや、絶句したのは『陽菜に』ではなく『叔母がした行為に』だ。

 陽菜は私に背を向けたままどこか遠くを見つめ、冷徹な口調でその先を続けた。

「うちのママがなんでおじさんの話し合いに応じないか、なんでおじさんのことを『女作って蒸発した』って嘘までついて存在をかき消そうとしていたか、それでわかったでしょ。ママ、日常的に月乃の資産を不正に使い込んでたんだよ」

「そんな……」

「それって犯罪だし、親権が移って資産引き渡したら確実に使い込みがバレるから、それで必死になって『今さら月乃は渡さない』ってごねてるんだと思う」

「……」

「あーあ、言っちゃった。ずっとモヤモヤしてたからスッキリしたけど……でも、これで私は犯罪者の娘確定か。確実にパパには見放されるだろうし、友達も減るだろうな……」

 言葉は強気なのに声には張りがなく、彼女の背中はひどく小さく萎んで見えた。

 不憫に思う気持ちもあるが、自分自身叔母のした行為に受けたショックも大きく、何も言葉をかけられないでいると、

「まっ、私はもうママと一緒に一からやり直すって決めたし、あとはもう月乃の好きにして。これで借りはチャラだかんね」

 陽菜はそこまで一気に言い切って、大きく息を吐き出してからこちらを見た。

 目が赤い。だいぶ泣き腫らした後なのだろう。こんな陽菜を見るのは初めてだ。

「じゃあね。施設に引きこもるからしばらくは会えなくなるけど、光亮先輩によろしく。月乃になら譲ってもいいけど、変な女にとられでもしたら許さないからね」

「陽菜……」

 彼女は最後まで素直じゃない口調と表情で私に別れを告げた。

 相変わらずの誤解だ。否定ぐらいさせてくれたっていいのに陽菜は足早に寺を後にする。

 颯爽と去っていく彼女の後ろ姿にはもう迷いがなかった。

 ――蝉の声にまぎれて蟋蟀(こおろぎ)()が鼓膜を掠める八月の中旬。一度も振り返ることなく去りゆく従姉妹の背中を、ただ静かに見送った。